2017/12/31 詩篇一五〇篇「ハレルヤ」 「みことばの光」聖書通読表より
1.詩篇のしめくくり
詩篇全150篇の最後の5つ、一四六篇から一五〇篇までは
「ハレルヤ」
で始まり
「ハレルヤ」
で終わる詩でまとめられています。「ハレル」は「ほめたたえよ」、「ヤ」は主(ヤハウェ)を短くしたものです。ですから「ハレルヤ」は「主をほめたたえよ」という、神である主を賛美する言葉です。
「ほめたたえよ」
は150篇に11回ありますが、これもすべて「ハラル」です。全部で十三回「ハレル、ハレル、ハレル」と繰り返す、とても力強い、底抜けに明るい歌になっています。5つの「ハレルヤ」詩篇はそれぞれに賛美のテーマや強調点がありました[1]。その最後の一五〇篇は、他にないぐらい「ほめたたえよ」を十三回も繰り返しているのです。
詩篇は全部で150篇。そこに人間の生活の恵みや喜びも苦しみや戦いも歌われていました。神の民の歩みにも、闇があり、浮き沈みがあることがにじみ出ていました。その辛い中でも信仰に立っている詩もあれば、怒りや憎しみに駆られて、呪いや復讐を願う詩もあり、嘆きや訴えで終わっている詩もありました。神の民だから、祈っているうちに心も晴れて、ハレルヤとはいかない現実も詩篇には十分に汲み取られています。そういう詩篇の最後に「ハレルヤ」の詩篇が並べられます。最後は、主への賛美に至るのです。今はまだトンネルの中を歩み続けているような毎日かもしれません。祈っても平安がないままの時もあるでしょう。その悲しみは主もまた尊ばれて、簡単に癒やして解決するには惜しまれているのかもしれません。それは辛く苦しいことですが、しかし、その逃げられない闇の中にそっと留まって、一歩一歩を進む、そこに見えない主がともにおられることを受け止める。そういう時があるのです。一年の終わりだからといって、ドラマのように全てが解決して落ち着くわけでもないでしょう。私たちの生活や心境は、それぞれ違うのです。どれが良いとか悪いとか評価は出来ない、それぞれの人生であり、それぞれの今です。詩篇にはいかに人間が複雑で深いものかが汲み取られています。
その詩篇の最後にハレルヤの歌が続いています。私たちの悲しみは癒やされ、罪は赦され、間違いは糺され、闇は光に照らされます。嘆きは躍りに、悲しみは喜びに、恐れは信頼に、虚しさは溢れるハレルヤに埋められるのです。苦しみや痛みが深くて、修復しようがないと思われたものをも主は癒やし、回復なさるからこそ、主をほめ歌わずにはおれなくなるのです。
2.神の聖所で(1節)
「神の聖所で」は、旧約時代のエルサレム神殿の一部屋かと思いきや、
「御力の大空で」
と広げて言い換えられます。神が造られた大空の下、この世界のどこもが「神の聖所」となり、神を誉め称えるに相応しい。2節には
「その大能のみわざのゆえに…その比類なき偉大さにふさわしく」
まさにこの天と地そのものが神の御力が現された偉大な作品です。私たちの生きている世界そのものに、神をほめたたえる根拠は十二分にあるのです。神を誉め称える気になれない人間の疑問や理屈や無理解がすべて晴れた後、ただ神を誉め称える時が来るのです。6節に
「息のあるものはみな」
とありますが、人に息を与えられたのは神です[2]。人はみな、その息を下さった方を賛美するのです。息を与えられたのはこの方を賛美するためでした。大空には神の御力、大能のみわざ、比類ない偉大さが表されて、神を誉め称えるよう招いています。それこそが、造られたすべてのものの第一のあり方、いのちの目的なのです。
そしてここには楽器が沢山出て来ます。角笛、琴、竪琴、タンバリン、弦、笛、シンバル。紀元前のユダヤで楽器がどう使われて、どんな演奏がされていたのかは楽譜も残っていないので詳しく分かりません。まだそれほど高度で複雑な演奏はなかったでしょう。ですからここも「上手に楽器が弾ける人」を募集しているのではないのです。むしろ、八つもの楽器が並べられて、神を誉め称えることの喜び、溢れる心、弾けるような思いがあるでしょう。楽器が弾けない人にも、笛や琴やタンバリンやシンバルを配って、さあ神を誉め称えよう、と呼びかける。4節の
「躍り」
は、タンバリンを持ったなら躍りながら打ち鳴らすのです。それは自然に体が動き出す躍りです。湧き上がる喜びです。うまいとか下手とか人がどうこう言えません。ただ本人が神の素晴らしさを誉め称えて、溢れる喜びから躍りながらタンバリンを叩いたり、楽器をかき鳴らしたりシンバルを打ち鳴らして神を誉め称えよ、と息のある人を招くのです。
勿論、心にまだ重荷や悩みがあろうとそれに蓋をして神を誉め称えよ、と強いるのではありません。神を誉め称えるとは言葉だけではなく、心から神を称え、その偉大さを認め、驚いて、神を喜ぶことです。ただ讃美歌やゴスペルを歌うことでもなく、その歌詞を味わい、心からその言葉を神に向かって告白するのが「神を誉め称える」ことです。そしてここでは、人の心の蟠りや問題はすべて神が恵みに変えてくださり、自分の失態や隠していたこともすべて露わになって、残るのは恥でも痛みでも後悔でもなく、主の偉大さに圧倒されるのです。本当に心から神を誉め称えて、楽器や躍りをもってというひたむきな溢れる喜びに歌っている姿なのです。
3.あなたも神をほめたたえる
詩篇は最後にこの突き抜けるような、明るく、踊り出す全ての者の賛美を呼びかけます。そうはなかなか出来ない現実があることも詩篇は十分踏まえつつ、最後は
「ハレルヤ」
なのです。苦しみや戦いもあるし、悪もあり、人の痛みや恥も知った上で、最後には主を誉め称えるハレルヤが力強く響くのです。「私」が誉められるとか幸せになるか、などでなしに、神を誉め称えることへと私たちの思いを引き上げてくれます。主の偉大さ、知恵や力、栄光、私たちへの憐れみ、愛、そうしたことを忘れて、自分の幸せや願いを中心に考えやすいものです。だからこの詩篇から、大事なのは
「御名が崇められますように」
だ。息をしているのもこの世界があるのも、神の御業に他ならないことを思い出させられるのです。
かといって、私たちが自己中心を捨てて、悔い改めて、神を誉め称えなければ、この祝福には与れない、と考えるのも律儀なお門違いです。詩篇一五〇篇の大合唱は無条件です。人間に対する条件や資格は何も言われません。
「息のあるものはみな」
です。神の偉大さのゆえに神を誉め称える。私たちの悩みも躓きも不信仰も超えて、神の偉大さを崇めるのです。自分は相応しくない、自分なんかが神を誉め称えても喜ばれまい、と勝手に決めつけていた者にも、神を誉め称えよ、さああなたにも楽器を渡すから、一緒に躍って賛美をしよう、それこそが神があなたに息を与えられた願いなのだから。そう言われる日がやがて来るのですし、そこに向かっている以上、今ここでも、世界の造り主であり王であり、私たちの中に働いておられる神を誉め称えようと呼びかけるのです。これを拒んで断る道もあるのかもしれません。神を誉め称えるより自分を大事にしたいと頑固に傲慢に背を向ける選択もあるかも知れません。「放蕩息子」の兄息子が父の憐れみに腹を立てて、祝宴に加わらなかった勿体ない道もありえましょう。でもその兄息子に、一緒に喜ぼう、祝おうと呼びかけるのがイエスのメッセージでした。
神は偉大でその憐れみは測り知れません。私たちがどんなに見(み)窄(すぼ)らしくボロボロでも、必ず喜んで受け入れ、手に楽器を持たせて「一緒に神を誉め称えよう」と招き入れてくださいます。私たちもとてもガッカリする事があっても、子どもや孫や誰かの顔を見れば癒やされる体験をしましょう。しかし、最後には偉大な神が微笑んで迎えてくださるのです。神御自身が、私たちがどんな歩みをしようとも私たちの顔を見て喜び迎え入れてくださいます。その最後を約束されている故に、今ここでも私たちは神を誉め称えます。詩篇の終わりは、神を誉め称えて終わるのではありません。私たちに何度でも、神を誉め称える歩みを始めさせてくれるのです。
「この一年も新しい年も、主の御手の中にあります。宇宙の偉大さに比べて、私たちの存在や悩みなどちっぽけなものだとしても、あなたは私たちを深く憐れみ、この小さな私たちを通して栄光を現してくださいますから感謝します。そのあなたの約束を覚えつつ、ハレルヤと歌わせてください。あなたが導いて、最後には底抜けに明るい賛美を歌う日が来ます。どうぞその日に向けて、今も私たちに誉め歌を歌わせてください。あなたの偉大さに預からせてください」
1 ハレルヤ。
神の聖所で 神をほめたたえよ。
御力の大空で 神をほめたたえよ。
2 その大能のみわざのゆえに
神をほめたたえよ。
その比類なき偉大さにふさわしく
神をほめたたえよ。
3 角笛を吹き鳴らして 神をほめたたえよ。
琴と竪琴に合わせて 神をほめたたえよ。
4 タンバリンと躍りをもって 神をほめたたえよ。
弦をかき鳴らし笛を吹いて 神をほめたたえよ。
5 音の高いシンバルで 神をほめたたえよ。
鳴り響くシンバルで 神をほめたたえよ。
6 息のあるものはみな
主をほめたたえよ。
ハレルヤ。