聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

詩篇一五〇篇「ハレルヤ」 年末感謝礼拝

2017-12-31 22:11:33 | 聖書

2017/12/31 詩篇一五〇篇「ハレルヤ」  「みことばの光」聖書通読表より

1.詩篇のしめくくり

 詩篇全150篇の最後の5つ、一四六篇から一五〇篇までは

「ハレルヤ」

で始まり

「ハレルヤ」

で終わる詩でまとめられています。「ハレル」は「ほめたたえよ」、「ヤ」は主(ヤハウェ)を短くしたものです。ですから「ハレルヤ」は「主をほめたたえよ」という、神である主を賛美する言葉です。

「ほめたたえよ」

は150篇に11回ありますが、これもすべて「ハラル」です。全部で十三回「ハレル、ハレル、ハレル」と繰り返す、とても力強い、底抜けに明るい歌になっています。5つの「ハレルヤ」詩篇はそれぞれに賛美のテーマや強調点がありました[1]。その最後の一五〇篇は、他にないぐらい「ほめたたえよ」を十三回も繰り返しているのです。

 詩篇は全部で150篇。そこに人間の生活の恵みや喜びも苦しみや戦いも歌われていました。神の民の歩みにも、闇があり、浮き沈みがあることがにじみ出ていました。その辛い中でも信仰に立っている詩もあれば、怒りや憎しみに駆られて、呪いや復讐を願う詩もあり、嘆きや訴えで終わっている詩もありました。神の民だから、祈っているうちに心も晴れて、ハレルヤとはいかない現実も詩篇には十分に汲み取られています。そういう詩篇の最後に「ハレルヤ」の詩篇が並べられます。最後は、主への賛美に至るのです。今はまだトンネルの中を歩み続けているような毎日かもしれません。祈っても平安がないままの時もあるでしょう。その悲しみは主もまた尊ばれて、簡単に癒やして解決するには惜しまれているのかもしれません。それは辛く苦しいことですが、しかし、その逃げられない闇の中にそっと留まって、一歩一歩を進む、そこに見えない主がともにおられることを受け止める。そういう時があるのです。一年の終わりだからといって、ドラマのように全てが解決して落ち着くわけでもないでしょう。私たちの生活や心境は、それぞれ違うのです。どれが良いとか悪いとか評価は出来ない、それぞれの人生であり、それぞれの今です。詩篇にはいかに人間が複雑で深いものかが汲み取られています。

 その詩篇の最後にハレルヤの歌が続いています。私たちの悲しみは癒やされ、罪は赦され、間違いは糺され、闇は光に照らされます。嘆きは躍りに、悲しみは喜びに、恐れは信頼に、虚しさは溢れるハレルヤに埋められるのです。苦しみや痛みが深くて、修復しようがないと思われたものをも主は癒やし、回復なさるからこそ、主をほめ歌わずにはおれなくなるのです。

2.神の聖所で(1節)

 「神の聖所で」は、旧約時代のエルサレム神殿の一部屋かと思いきや、

「御力の大空で」

と広げて言い換えられます。神が造られた大空の下、この世界のどこもが「神の聖所」となり、神を誉め称えるに相応しい。2節には

「その大能のみわざのゆえに…その比類なき偉大さにふさわしく」

 まさにこの天と地そのものが神の御力が現された偉大な作品です。私たちの生きている世界そのものに、神をほめたたえる根拠は十二分にあるのです。神を誉め称える気になれない人間の疑問や理屈や無理解がすべて晴れた後、ただ神を誉め称える時が来るのです。6節に

「息のあるものはみな」

とありますが、人に息を与えられたのは神です[2]。人はみな、その息を下さった方を賛美するのです。息を与えられたのはこの方を賛美するためでした。大空には神の御力、大能のみわざ、比類ない偉大さが表されて、神を誉め称えるよう招いています。それこそが、造られたすべてのものの第一のあり方、いのちの目的なのです。

 そしてここには楽器が沢山出て来ます。角笛、琴、竪琴、タンバリン、弦、笛、シンバル。紀元前のユダヤで楽器がどう使われて、どんな演奏がされていたのかは楽譜も残っていないので詳しく分かりません。まだそれほど高度で複雑な演奏はなかったでしょう。ですからここも「上手に楽器が弾ける人」を募集しているのではないのです。むしろ、八つもの楽器が並べられて、神を誉め称えることの喜び、溢れる心、弾けるような思いがあるでしょう。楽器が弾けない人にも、笛や琴やタンバリンやシンバルを配って、さあ神を誉め称えよう、と呼びかける。4節の

「躍り」

は、タンバリンを持ったなら躍りながら打ち鳴らすのです。それは自然に体が動き出す躍りです。湧き上がる喜びです。うまいとか下手とか人がどうこう言えません。ただ本人が神の素晴らしさを誉め称えて、溢れる喜びから躍りながらタンバリンを叩いたり、楽器をかき鳴らしたりシンバルを打ち鳴らして神を誉め称えよ、と息のある人を招くのです。

 勿論、心にまだ重荷や悩みがあろうとそれに蓋をして神を誉め称えよ、と強いるのではありません。神を誉め称えるとは言葉だけではなく、心から神を称え、その偉大さを認め、驚いて、神を喜ぶことです。ただ讃美歌やゴスペルを歌うことでもなく、その歌詞を味わい、心からその言葉を神に向かって告白するのが「神を誉め称える」ことです。そしてここでは、人の心の蟠りや問題はすべて神が恵みに変えてくださり、自分の失態や隠していたこともすべて露わになって、残るのは恥でも痛みでも後悔でもなく、主の偉大さに圧倒されるのです。本当に心から神を誉め称えて、楽器や躍りをもってというひたむきな溢れる喜びに歌っている姿なのです。

3.あなたも神をほめたたえる

 詩篇は最後にこの突き抜けるような、明るく、踊り出す全ての者の賛美を呼びかけます。そうはなかなか出来ない現実があることも詩篇は十分踏まえつつ、最後は

「ハレルヤ」

なのです。苦しみや戦いもあるし、悪もあり、人の痛みや恥も知った上で、最後には主を誉め称えるハレルヤが力強く響くのです。「私」が誉められるとか幸せになるか、などでなしに、神を誉め称えることへと私たちの思いを引き上げてくれます。主の偉大さ、知恵や力、栄光、私たちへの憐れみ、愛、そうしたことを忘れて、自分の幸せや願いを中心に考えやすいものです。だからこの詩篇から、大事なのは

「御名が崇められますように」

だ。息をしているのもこの世界があるのも、神の御業に他ならないことを思い出させられるのです。

 かといって、私たちが自己中心を捨てて、悔い改めて、神を誉め称えなければ、この祝福には与れない、と考えるのも律儀なお門違いです。詩篇一五〇篇の大合唱は無条件です。人間に対する条件や資格は何も言われません。

「息のあるものはみな」

です。神の偉大さのゆえに神を誉め称える。私たちの悩みも躓きも不信仰も超えて、神の偉大さを崇めるのです。自分は相応しくない、自分なんかが神を誉め称えても喜ばれまい、と勝手に決めつけていた者にも、神を誉め称えよ、さああなたにも楽器を渡すから、一緒に躍って賛美をしよう、それこそが神があなたに息を与えられた願いなのだから。そう言われる日がやがて来るのですし、そこに向かっている以上、今ここでも、世界の造り主であり王であり、私たちの中に働いておられる神を誉め称えようと呼びかけるのです。これを拒んで断る道もあるのかもしれません。神を誉め称えるより自分を大事にしたいと頑固に傲慢に背を向ける選択もあるかも知れません。「放蕩息子」の兄息子が父の憐れみに腹を立てて、祝宴に加わらなかった勿体ない道もありえましょう。でもその兄息子に、一緒に喜ぼう、祝おうと呼びかけるのがイエスのメッセージでした。

 神は偉大でその憐れみは測り知れません。私たちがどんなに見(み)窄(すぼ)らしくボロボロでも、必ず喜んで受け入れ、手に楽器を持たせて「一緒に神を誉め称えよう」と招き入れてくださいます。私たちもとてもガッカリする事があっても、子どもや孫や誰かの顔を見れば癒やされる体験をしましょう。しかし、最後には偉大な神が微笑んで迎えてくださるのです。神御自身が、私たちがどんな歩みをしようとも私たちの顔を見て喜び迎え入れてくださいます。その最後を約束されている故に、今ここでも私たちは神を誉め称えます。詩篇の終わりは、神を誉め称えて終わるのではありません。私たちに何度でも、神を誉め称える歩みを始めさせてくれるのです。

「この一年も新しい年も、主の御手の中にあります。宇宙の偉大さに比べて、私たちの存在や悩みなどちっぽけなものだとしても、あなたは私たちを深く憐れみ、この小さな私たちを通して栄光を現してくださいますから感謝します。そのあなたの約束を覚えつつ、ハレルヤと歌わせてください。あなたが導いて、最後には底抜けに明るい賛美を歌う日が来ます。どうぞその日に向けて、今も私たちに誉め歌を歌わせてください。あなたの偉大さに預からせてください」

 

1 ハレルヤ。
神の聖所で 神をほめたたえよ。
御力の大空で 神をほめたたえよ。

2 その大能のみわざのゆえに
神をほめたたえよ。
その比類なき偉大さにふさわしく
神をほめたたえよ。

3 角笛を吹き鳴らして 神をほめたたえよ。
琴と竪琴に合わせて 神をほめたたえよ。

4 タンバリンと躍りをもって 神をほめたたえよ。
弦をかき鳴らし笛を吹いて 神をほめたたえよ。

5 音の高いシンバルで 神をほめたたえよ。
鳴り響くシンバルで 神をほめたたえよ。

6 息のあるものはみな
主をほめたたえよ。
ハレルヤ。



[1] 一四六篇は主の恵みと力を、一四七篇は主の御業の素晴らしさを、一四八篇は天と地のありとあらゆるものに呼びかけて、「主をほめたたえよ」と言います。

[2] 創世記二7。

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2017クリスマス礼拝 ルカの福音書2章8-20節「歩み寄る神」

2017-12-24 22:39:35 | クリスマス

2017/12/24 ルカの福音書2章8-20節「歩み寄る神」

1.羊飼いへの知らせ

 今日、世界中で祝われるようになったクリスマスは、イエス・キリストのお生まれを祝うお祭りです。イエスを忘れたドンチャン騒ぎやただのロマンチックな季節になっているとしても、こんなに世界に広まったほど、キリストの誕生の喜びは大きな喜びだったのです。その最初は決して華やかではありませんでした。また、その喜びや素晴らしさを賑やかに盛り上げることもありませんでした。それが野原の羊飼いたちに知らされ、羊飼いたちを通して、多くの人がキリストの誕生を知らされたということは、人間の常識や予想を超えた、驚きだったのです。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 ベツレヘム周辺のどこかで羊の群れを守っていた羊飼いに主の使いが現れ、主の栄光で照らしたのです。その時、彼らは「ウットリ」や「ビックリ」を超えて「非常に恐れた」のです[1]

10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 救い主がお生まれになった。この神の民全体への大きな喜びを真っ先に告げ知らされるのが、羊飼いだとは誰も、本人たちさえ思いもしませんでした。神はそんな意外な人選をなさいます。

 こういうと、私たちは「きっとそれには訳があるに違いない。羊飼いたちが人一倍熱心だったから、実は信仰深かったから」などと原因を求めたがります。聖書はそういうことはひと言も言っていません。でもそれこそ、私たちにとっての慰めですね。神は、信仰深いか、よいクリスチャンか、資格や価値があるかどうかで人を選ぶのではなく、そういう眼中にない人の所に来て下さるのです。神御自身が、私たちの所に歩み寄ってくださって、予想もしなかった「大きな喜び」を知らせてくださるのです。それも勿体ないほどの大きな喜びです。

 神の知らせが羊飼いたちに選ばれた、というギャップだけではありません。

12あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 救い主がお生まれになったこと、その方が貧しい庶民と同じように「布にくるまって飼葉桶に寝ている」こと、それこそあなたがた(貧しい羊飼いたち)のためだというしるしだ、ということ。どれもが不思議で意外です。それともう一つ、しみじみと思うのが13節です。

13すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。

14「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

2.天の軍勢が現れて

 羊飼いはたった何人かだったでしょう[2]。せいぜい多目に見ても

「おびただしい天の軍勢」

の前には大差ないでしょう。天使の軍勢の大合唱というまたとない光景の観客としては甚だ物足りなくはありませんか。せっかくの大演奏なら、もっと場所や規模や人数を選んで相応しく、と私たちは考えます。でも、ここでは、数人の貧しい夜勤の労働者、雇われ作業者の前に、御使いの大軍勢が現れて、神を賛美するのです。「フラッシュモブ」というのがあります。公共の場でいきなりダンスや歌や演奏が始まるようなパフォーマンスです。あまり押しつけがましくて迷惑な場合もありますが、よく考えられて準備されたパフォーマンスは素晴らしい。皆が笑顔になり、幸せになります。予想もしなかった、楽しい美しいものに触れるのは、将に恵みの味わいです。私も四国に来て、特にこの一年、三好の祖谷や高知や愛媛を訪ねて、美しい景色を見て心が洗われるような思いに何度もなりました。イエスは

「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」

と仰いました[3]。「太陽や雨が誰にも同じように注ぐのは当たり前の自然現象ではないか」と思うところですが、イエスは太陽が昇り、雨が降るのは、その一人一人への神の赦し、和解、愛のしるしなのだとサラッと仰るのです。私たちが凹んだり後悔したり孤独な時、美しい音楽や雄大な景色や思いがけない出会いがあって泣けてくるのは、赦しや愛を体験しているから、心の奥の何とも言えない渇いた所に水がしみ通るからではないでしょうか。

 羊飼いたちに天の大軍勢が現れて、神への賛美を聞かせたこと。天の芸術を一握りの羊飼いたちに惜しげなく聞かせたこと。それは羊飼いたちにとって、神の限りない恵みの体験でした。

3.栄光が神に、平和がみこころにかなう人々に

 この賛美は短いながら、クリスマスの讃美歌やミサ曲の「グローリア」、数え切れないバリエーションに歌われて、素晴らしい合唱に再現されてきました。実際これがどれほど美しく力強い歌声だったかは想像の域を出ません[4]。ただその賛美の中身はハッキリしています。

「いと高きところで神に栄光、地の上で平和がみこころにかなう人々に」

 ここで平和は

「御心にかなう人々に」

であって、「すべての人」とは言われません。けれどもこれを聞かされた羊飼いたちにとって他人事であるはずがありません。彼らは自分が御心にかなう人とは思ってもいなかったでしょう。その羊飼いたちをも神が顧みて、神の方から歩み寄ってくださり、平和を下さるのです。私たちも、自分が神に叶うように、神を喜ばせるような生き方に励む以前に、まず神が私たちに歩み寄り、勿体ないという言葉では到底足りないほどの恵みを下さり、私たちを治め、素晴らしい喜びを戴くのです。神の民として救われて、神の御心にかなう者としていただくのです。その御心を拒んだまま、自分勝手な平和や幸せを望むことは出来ません。怖ろしいほどに尊い神の御心を軽んじたまま、安全や自分の願いだけを求めることは何を願っているか分からないだけです。太陽も雨も、自分の命も喜びも、素晴らしいもの、美しいもの全てを下さっている神の御心に触れられて、私たちが神の民とされて、平和が来るのです。

 その平和をもたらすため世界の主であるキリストがこの世に来られました。野原の羊飼いたちに知らせ、天使の大合唱を聞かせてまで、神に栄光、地に平和、と力強く約束なさいました。飼葉桶に寝ているみどりごは本当に小さな存在です。それをロマンチックに考え、教会でも毎年忙しく祝いながら、どこかで自分の生活や、毎日の仕事、世界の争い、そして自分自身にため息をついてしまうものです。そうしてため息をついている私たちの所に、キリストが来てくださったのです。地の上に争いや差別でなく、平和をもたらし、私たちを御心にかなう人と呼ばれます。そのために、神御自身が限りなく身を低くし、貧しい子のような形で寄り添い、喜びの歌を望外の形で届けてくださいました。天の軍勢が歌い上げる大きな神の恵みを、私たちも聴いています。惜しげもなく、神は私たちにこの平和の知らせを伝えておられます。

 キリストの低い御生涯は、羊飼いを始め全ての人に平和をもたらす始まりです。今も主は人の心の奥深くに、この世界の隅々に働いて、地の上に本当の平和を造っておられます。やがて狼と小羊が、羊飼いと王、人種も敵味方も一緒に主の民とされて、神を心からあがめる平和へと、私たちは進んでいます。その道は平坦ではありません。だからこそ、キリストが約束してくださった平和へと歩んでいる、という信仰は、どんな武器や脅しよりも強いのです。この希望が、どんな悪政や差別や搾取をも覆すのです。平和が今もすべての人に届きますよう、悲しみや争いの中にある人にこそキリストの喜びの歌が届くために、遣わされたいと思います。

「主がこの世界に来られ、羊飼いに平和の歌声を聞かせてくださいました。その喜びが世界に溢れています。あなた御自身が、私たちの所に来られて、平和となってくださいました。どうぞあなたの恵みによって私たちがこの恵みを十分に味わい、感謝し喜び歩めますように。今その平和を目指し、分け隔てなくこの平和を届け生きることで、クリスマスを祝えますように」



[1] 現代の多くのクリスマスの絵では、ぷっくらした可愛らしい天使がニコニコした羊飼いたちと可愛い羊たちの周りで歌っている、というのどかな光景が描かれます。聖書のオリジナル版や数々の名画では天使は可愛いよりも威厳があって圧倒するような輝きがあって、羊飼いたちは驚いて顔をかばって描かれ、そして羊はたいてい無関心です。

[2] やとわれ羊飼いで、当時の群れの規模を考えても、そう大人数ではなかったと想像します。また、後でマリアとヨセフと飼葉桶のみどりごを捜して、羊たちとともに行けるのも、あまりの大人数では難しいでしょう。どんなに多いとしても、御使いの軍勢ほどとは思えません。

[3] マタイ五44、45。

[4] そもそも人が思うような美しさとは全く違うものだったのかもしれません。神の国の文化は、西洋の音楽のイメージだけではなく、世界中の言語や文化の多様性を含めた、バラエティ豊かなものなのですから。

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2017燭火礼拝 マタイの福音書2章1-12節「あなたの王は」

2017-12-24 22:36:58 | クリスマス

2017/12/24 マタイの福音書2章1-12節「あなたの王は」燭火礼拝

 クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする祭りから始まりました。イエス・キリストが私たちのためにこの世界にお生まれ下さった、その喜びが本当に喜びや感謝になって、ご馳走や沢山の綺麗な歌や美しい景色を産み出してきました。それぐらい、キリストが来て下さったのは、すべての人にとって喜びに満ちた、大きなプレゼントなのです。

 マタイ二章にはイエスがお生まれになった時の事が書かれています。当時ユダヤの国を治めていたヘロデ王と、東の方からやって来た博士たちの礼拝が並べて書かれています。ヘロデ王はキリストのお生まれの知らせを聞いて動揺しました。「俺の王座が奪われる」と恐れたのでしょうか。民衆の気持ちが自分から離れることを恐れたのでしょうか。この後、ヘロデ王は博士たちを呼び、情報提供をコッソリ求めます。しかし、後で博士たちが秘かに帰ったと知った王は、ベツレヘム近郊の二歳以下の子どもたちを皆殺しにします。大変な残虐な行動をするのです。ヘロデは他にも沢山残虐な事をした人です。政治的手腕のある賢い人でしたが、とても疑い深く、不安で、腹を立てやすい人でした。こういう王の下で生きるのは怖ろしいことです。

 イエスは、そのヘロデ王の時代に、お膝元で

「ユダヤ人の王」

としてお生まれになりました。私たちを治めておられる本当の王は、ヘロデではなく、お生まれになったキリストだ、というのです。そして、博士たちはその王イエスの所に行って、喜んで、宝の贈り物を献げたのです。古い讃美歌ではこの博士たちを「王」と呼んで歌っているものが多くあります。賢者、学者、高貴な身分の人でした。ヘロデとは対照的に、彼らはキリストのお生まれを聞いて、遠くからの度も厭わずにやって来て、まだ幼子の王の前にひれ伏し礼拝し、贈り物を献げて、それだけで帰って行きました。何とヘロデと対照的な姿でしょうか。

 自分の地位や名誉に固執して、嘘や暴力で自分を守るヘロデの姿はとても醜く、悲しく、怖ろしいものです。しかし、こうした姿は今でも世界に見ることが出来ます。ミサイルや兵器や権力で脅したり、人の命を奪ったり、という一国の支配者の狂ったような行動は、今年、私たちを不安にしました。もっと身近な所でも、暴力や強攻策で人を押しのける人がいます。そういう人は強いのではなく、反対に怖いから、弱くて必死だから、力で守ろうとするのです。自分自身もそういう所があるでしょう。自分の負けや弱さや間違いや無知を認めるのが怖くて、強い言い方をしてしまいます。悲しかった、と言うよりも、相手を非難します。恥ずかしかった、と認めるよりも、相手も同じ思いをすれば良いと意地悪を考えるのです。

 イエスはそういう私たちとは全く違いました。神は、ヘロデを罰したり圧倒したりエルサレム毎吹き飛ばすことも出来たでしょう。こんな不甲斐ない人間なんて地球毎捻り潰そうと思えば出来たでしょう。しかし神が取られた方法は、滅ぼさないどころか、神の子キリスト御自身が赤ん坊の姿で人間のところに来られる、という方法でした。全く無防備で、小さく、危険にも身を守る術のない子どもとして、この世においでになったのです。
 この前の一章で、キリストは

「神が私たちとともにおられる」

ということそのもののだと言われていました。神が私たちとともにおられる。いつもともにおられます。健康の時も病気の時も、豊かな時、貧しい時、喜びの時、悲しみの時も、神は私たちとともにおられます。地位や権力があろうとあるまいと、人がみんなそばから離れてしまっても、心に恐れや不安があり、弱さや失敗を恥じていても、こんな自分ではダメに違いないと思い、自分で自分に愛想を尽かしたとしても、神は私たちのそのままをご存じの上で、愛想を尽かすことなく、私たちとともにいてくださるのです。この世界の本当の王である神は、幼子として民の真ん中においでになりました。

 マーシャル・ローゼンバーグという方が

「あなたがそこにいることは、あなたが他の人に与えることの出来る、最も尊い贈り物です」

という言葉です。誰かのそばにいってそこに一緒にいる。それは何よりも美しい贈り物だ、というのです。まさに神の子イエスは私たちとともにいることを、人となることで示してくださいました。それは最も尊い贈り物です。それは、私たちをその最も美しい贈り物を受ける相手として選んで下さった、ということでもあります。私たちの貧しさや問題や暴力や闇をすべて承知の上で、なお私たちに御自身を贈ってくださったのです。私たちをともにいる相手として選んで下さったのです。

 博士たちはそのイエスを喜んでお祝いしに来ました。その遠い旅行や高価な宝物もすばらしいですが、それが惜しくないぐらい、博士たちはイエスの誕生を喜んだのです。それぐらい彼らもまた、怯えていたのでしょう。悩んで、求めていたのでしょう。だからこそ、イエスの前にやって来て、礼拝して、帰って行ったのです。
 ヘロデもこうしたら良かったのです。キリストという王がおいでになったと怯えて、必死で守ろうとするのではなく、彼もイエスのもとに行けば良かったのです。自分の恐れや孤独や不安をそのまま認めて、そういう自分の所に来られた真の王の前にひれ伏せばよかったのです。

 私たちの王は、このイエスです。軍事力や経済力を振りかざす怯えた人間ではありませんし、ヘロデのように力や嘘や怒りでは本当の平和は来ません。今ある関係の中にキリストが来て下さいました。私たちを受け入れて、ともにいてくださる王としてキリストが来られました。そこで、私たちも互いを受け入れ合い、ともにいて、また相手の差し出してくれるものを喜んで受け取り合う、本当の平和が始まったのです。

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問104「敬意への自由」エペソ3章14-21節

2017-12-17 16:37:22 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/12/17 ハ信仰問答104「敬意への自由」エペソ3章14-21節

 十誡を一つずつ見ていますが、前半の四つが神を神とする生き方を教えていたのに対して、今日から見ていきます後半六つは、人との関係について教えています。

「父母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない…」

です。そこで、今日はまず第五の戒め、

「あなたの父と母を敬え」

を見ていきましょう。■

問104 第五戒では神は何を望んでおられますか。

答 わたしがわたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々にあらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。なぜなら、神は彼らの手を通して、わたしたちを納めようとなさるからです。

 ここには、私たちが自分の父と母だけでなく、すべての

「上に立てられた人々」

に対する尊敬と服従と忍耐が命じられているのだ、と言われています。学校の先生、教会の牧師、国家の政府に至るまで、すべての目上の人。とはいえ、基本は父と母です。それが

「殺してはならない。姦淫してはならない」

よりも先に命じられているのです。

 この言葉は、小さい子どもたちを教え諭す言葉として使われがちですが、ここではそういう限定をしてはいません。既に大人になった子どもたちに、もうお祖父ちゃんお祖母ちゃんになった両親を敬え、と言っています。勿論、小さな子どもたちも親を敬うことは必要です。しかし、それを教える親たちが自分の親を敬っていないとしたら、どうして子どもたちが親を敬うでしょう。親は子どもたちに「嫌な親は敬わなくても良い」という手本を真似て、いつかは自分たちがぞんざいに扱われることになるのです。

 しかし聖書にはそのような、親を悲しませ、親に背く子どもたちの話が満ちています。アダム、ノア、ダビデ、ソロモン、ヨブ。みんな家族のことで苦しみました。聖書は親を理想化して、

「あなたの父と母を敬え」

と言ってはいません。誰でも当然の麗しい家族関係が念頭にあると思ったら大間違いです。また、父と母の問題には目を瞑って、尊敬しなさい、感謝しなさい、服従しなさい、と言っているのでもありません。ここにわざわざ

「ふさわしい従順をもって服従し」

とあるのは、何が何でも言うことを聞きなさい、ではなくて、従うべきでない時もあることを言っているのです。人間に罪があることを聖書は言います。親だって例外ではありません。その親の問題に目を瞑れ、というのではないのです。形ばかり従いなさいと命じられていれば、ますます親を嫌い、遠ざけようとするでしょう。十誡が言うのはその逆です。親の問題は問題として認めつつ、それでも親を敬う道、親との関係の癒やしを告げているのです。

 誰もが生まれて最初に持つのは親との関係です。何かの事情で親に育てられない場合も含めて、親との関係は私たちの中に大きな影響を持ちます。でも先にも言ったように親も罪人です。子育てや家庭においてこそ、その罪は最も現れます。そして、子どもは親との関係で安心して育ち、一人前に成長していけば良いのですが、親の罪や我が儘、恐れや不安のあおりを受けます。十分に愛を注いでもらえたと思えず、自信や信頼をもらえないことが多いのです。親との関係で十分安心できないと、自分が好きになれません。だから人を好きになるのも難しいのは当然です。親への憎しみが、他人にぶつけられて、殺人になるかもしれません。親の愛情をもらえなかったのを、他人にもらおうと、結婚や恋愛関係、それどころか不倫に求めることもよくあります。ですから、

「殺してはならない、姦淫してはならない」

というヨコの人間関係を扱う以前に、

「父と母を敬え」

という、最初の基本的な関係、居場所の問題を整理するように言うのです。本当は、尊敬する親を持ちたい、尊敬できる親を持ちたい、というのがだれもが持っている願いです。それが出来ない人の思いを汲み取るようにして、神は、親への素直な尊敬を表すよう、仰っているのだとも言えます。その深い願いを、主が満たしてくださるとき、他の人との関係にもわだかまりなく向かわせてもらえるのです。

 主なる神は神の民に

「あなたの父と母とを敬え」

と仰いました。父にも母にも罪があることも、主はご承知です。神の民の中にさえ、親子関係でどれほどの傷や痛みやこじれた問題が積み重ねられてきたかも、百も承知です。けれども、いいえ、だからこそ、主はその問題に引きずられたまま、他の人間関係まで歪めたり八つ当たりにしたりしないために、あなたの父と母を敬え、と仰ったのです。なぜなら、父と母を嫌い続ける時、私たちはいつまでも自分をも好きになれません。親を憎むなら、自分をも愛せません。そして、自分が親になる時にも、子どもを育てる自信が持てなかったり、親と同じ事をすまいと力みすぎて、結局、自分の親子関係にも親との傷を持ち込んでしまうのです。だから、親の問題を認めつつ、親を好きになれなくてもいい、何でも従え、というのでもない。ただ、親を敬え、恨みやわだかまりよりも、自分の親への尊敬を持ちなさい。そうすれば、その尊敬すべき親の子どもである自分も、憎まなくて良くなっていき、他の人との関係にも尊敬し合うことが始まっていくからです。

 主なる神は、

「父と母を敬え」

と仰っただけではありません。十誡の序言は

「わたしはあなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」

です。主はもう私の神となり、私を神の民としてくださいました。また神の子イエスは私たちと一つとなって下さって、私たちを神の子どもとしてくださいました。神は私たちの

「天の父」

です。この天の父が私たちを生み、永遠に愛し、認め、安心も自信も下さいます。その神が私たちの天の父であることを知ると、地上での私たちの両親も、そのままに認めて敬えるようになるのです。自分の事も愛されていると知るようになります。また自分が親になることも、失敗や欠けがあっても天の父が助け、大切な子どもを任せてくださるのだから、安心して、助け、愛していこう、と思えるようになります。

エペソ人への手紙三14こういうわけで、私は膝をかがめて、

15天と地にあるすべての家族の、「家族」という名の元である御父の前に祈ります。

16どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。

 だから親に何でも従うのではなくても、親への尊敬を表してみましょう。親を大切に思っていることを伝えてみましょう。私たちは人からの尊敬を必要としているものです。親からの愛と、子どもからの尊敬を必要としているのです。まず親への敬意を持つ時、親が戸惑いつつもどれほど慰められ、満たされるでしょうか。親子の問題を踏まえつつも、私たちはその関係の修復を必要としています。その一歩を自分から始めるのです。それを始めさせて下さるのが主です。それは実に生き生きとした神のお働きなのです。

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ルカの福音書2章1-7節「全世界と飼葉桶」

2017-12-17 16:25:04 | クリスマス

2017/12/17 ルカの福音書2章1-7節「全世界と飼葉桶」

1.全世界の住民登録を

 イエス・キリストの誕生は、ローマ皇帝の住民登録(国勢調査)が背景にありました。ローマ帝国の人口調査をする、それが

「キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった」

とわざわざ書いています。イエス・キリストがお生まれになったのは、本当にこの歴史のただ中でのことでした。私たちが今2017年、日本の政治や世界の様々な情勢の中で生きているように、イエスもこのローマ帝国のアウグストゥスの時代にお生まれになりました。

 悩ましいことにここに書いてある通りの住民登録が世界規模で行われた、という記録は歴史の資料には残っていません。ローマ皇帝がローマ市民の登録を命じたとか、各領土で領民調査をさせたことは確かですが、世界規模での住民登録を命じて、ヨセフも含めたローマの領土の全ての人々が自分の町に帰らなければならなかった、という事実は確認できないのです。しかし何か大きな政治的な状況があって、ヨセフは身重になっていた妻マリアを連れて、わざわざナザレからベツレヘムまで百キロ以上の旅を、何日もかかって果たしたのです。こうして、マリアはイエスをベツレヘムで、ダビデの町で生み、そこで飼葉桶に寝かせたのです。

 そもそも皇帝が(国家が)住民登録をするのは「国勢調査」とも言われるように、国の勢いを図るため、税金による経済政策や軍事的な戦略を立てるためです。ローマ市民や貴族、有力者はともかく、下々の人間は統計上の数に過ぎません。シリアの総督が住民登録をして、属州に過ぎないガリラヤやユダヤの住民が登録をしなければならなかった…そんなことは記録にも残らない小さなことだったのかもしれません。まして、この貧しい結婚し立ての夫婦がトボトボとナザレから旅をすることなどは小さな出来事、新聞があったとしても記事にならない事でした。けれどもそこにイエスはおいでになっていました。人間の皇帝にとっては、人は統計上の数です。いちいち気に留めていることは出来ません。けれども神は、その民の小さな一人にまで目をかけておられます。先にマリアは歌いました。

一46私のたましいは主をあがめ、
47私の霊は私の救い主である神をたたえます。
48この卑しいはしために目を留めてくださったからです。」

 主はマリアに目を留め、この貧しい夫婦の旅にともにおられました。主にとって、マリアもヨセフも、そして私たちも誰一人として数に過ぎない人はいません。神は小さな一人とともにおられます。そして、そこから救いや恵みの御業を始めて下さる主、王であられます。

2.ヨセフとマリアのしたこと

 もう一つヨセフが住民登録のために

マリアとともに自分の町に帰って行った

とあるのも、全住民が夫婦共々出身の町に帰らなければならなかった、ということではないのでしょう。そんなことを私たちがしなければならないとしたら、大変な騒ぎになって、膨大な出費や反感を買うことになるでしょう。ヨセフは元々ナザレの出ではなく、ダビデの町ベツレヘムとの特別な繋がりがあったので、ベツレヘムに行くことを選んだのかもしれません。その場合でさえ、妻まで一緒に行く必要はなかったはずです。それも身重になっていたマリアを連れてだと、旅は大変で、手間もかかる以上に母体の危険も伴います。誰かに預けて、自分だけ登録して帰ってきた方が遙かに現実的です。しかし、ヨセフはそうしませんでした。安心して預けられる人がいないくらい、マリアの妊娠やヨセフ夫婦の揺れ動きは目立って、噂話やいじめなどになっていたのでしょうか。いずれにせよ、ヨセフがマリアとともにベツレヘムに上って行ったのは、外から強制されたのではない、二人が選んだ特別な勇気ある決心だったに違いありません。

 ベツレヘムに着き、マリアは月が満ちて、男子の初子を産みました。

布にくるんで飼葉桶に寝かせた

とありますが、

「布」

は産着とも訳せる言葉です。その辺にあったボロ布では間に合わせたでなく、ちゃんと用意していた産着の布にくるみました。飼葉桶に寝かせたのも、最近の考古学や民俗学が進みまして、今のようなホテルや民宿などを考えるより、もっと古民家での民泊であれば、個室でお産など相応しくないのは当然で、人目を憚り、動物たちのスペースで産んで飼葉桶に寝かせたのは、最善の選択だったとも言われるようになりました。ヨセフが精一杯イエスの父親としての義務を果たそう、マリアを守ろうとしていた事、マリアも長旅の後で初産を果たせるように準備をしていたし、産着を用意して飼葉桶にそっと寝かせた。そのヨセフとマリアの行動に、聖書がちゃんと目を留めていることも忘れてはならないのでしょう。人の歴史やメディアで取りざたされて覚えられるようなことではないけれども、聖書はちゃんとそこでの人間の営みを大切に見ています。マリアとヨセフにとってはまだまだ先のことは分かっていません。生まれる子どもがどんな人生を送り、世界の歴史の中でどんな意味を果たすか、自分たちのこの旅が聖書で記録され、後々世界中のページェントで上演されるなんて思いもしないはずです。そうした無心の精一杯の中で、イエスが生まれたのです。

 だれも迎え入れなかったクリスマス、以上に、小さなことを誠実にしているヨセフとマリアの姿を記しつつ、ルカはキリストの誕生を伝えます。決して「小さな事を忠実にしているヨセフとマリアだからキリストの親に選ばれた」のではありませんよ。キリストが来られたのは、一方的な憐れみ、神の恵みによる選びです。そして、その神の恵みは、小さな者に現され、その小さな者の小さな精一杯の営みが、新しい意味を輝かせるのです。イエスの誕生は、「不本意な歓迎」であるよりも、「ささやかさへのスポットライト」でした。

3.ナザレ人イエス

 「使徒の働き」は、このルカの福音書と同じルカが書いた、福音書に続く教会の記録です。そこで教会はイエスのことを

「ナザレ人イエス」

と呼び、弟子たちも

「ナザレ人の一派」

と呼ばれました。それはイエスの出身地ですが、ナザレという村自体、当時四八〇人ぐらいの人口だったろうとも言われる寒村で、小さな寂れた場所だったのですね。ナザレ出身というだけなら、生まれたのは実はベツレヘムとも言えます。しかしそのベツレヘムに来た経緯自体が、ナザレでさえ安心できないほど、卑しめられていたからでした。臨月だったのに住民登録を命じられ、ヨセフがマリアを連れて大旅行を決心し、旅先の宿屋で布にくるんで飼葉桶に寝かせた、という本当に地味な苦労がありました。名門アウグストゥスのような権力や居心地良さ、強力なリーダーシップ、尊敬や称賛…そうしたこととは一切無縁のあり方をなさいました。全世界の本当の主、本当の神であり王であるお方でありながら、ローマ皇帝の気にも留めない所で、生き営んでいるナザレの夫婦のもとにおいでになった。そして、最後は十字架の死にまで低く、貧しい歩みをしてくださった。その驚くべき謙り、犠牲も卑しめられることも厭わない私たちへの愛、それが

「ナザレ人イエス」

という呼び方に託されていたのです。

 ヨハネの福音書一11で言われますように

「この方は御自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」

のです。イエスに居場所を与えず、最後は十字架につけて殺した人間の罪は事実です。今も私たちが、イエスを自分の人生と心に相応しくお迎えせず、すぐに追い出したり、ぞんざいな対応しかしていないのも私たちの現実です。ただし、それは私たちを責めるため、恨みがましく非難するために聖書がそういうのではありません。「本当はナザレ人ではなくエルサレム神殿やローマの宮殿にお迎えすべきだった」のでしょうか。いいえ、そんな恨み節を聞かせるのがクリスマスではありません。王であるキリストが、本当に貧しくなってくださいました。神を差し置いて人が人を支配し、末端の人を統計上の数としか見ずに、それで全世界を支配したつもりになっている時、その神御自身が最も小さい人の所に来ておられました。全世界の上にいますお方は、飼葉桶の中に寝かされる赤ん坊として、御自身を委ねられました。こんな失礼はないと責めるためではなく、それは私たちを救うため、私たちが人間的な基準の評価とは全く違う価値を与えられている事実を知るため、神の民として引き上げられたものとして歩むためでした。

 この飼葉桶は、ローマ皇帝のベッドやローマの都よりも広く素晴らしい場所となりました。マリアが用意した産着は、どんな王の衣よりも喜ばれました。キリストが来られた時、人の支配とは全く違う、神の恵みによる御支配が明らかになりました。それは私たちにとっての希望です。この方こそ私たちのためのしるしなのです。

「ベツレヘムの飼葉桶に寝かされた主を静かに受け入れ、十分に思い巡らします。あなたの測り知れない謙りと、私たちへの愛を感謝します。あなたの御支配は上からではなく下から始まりました。私たちも人の評価や競争でなく小さなことを大事にさせてください。普通の営みが何一つ無駄でなく、主が祝福して御国のわざとしてくださることを信じて、励ませてください」

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