聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/1/30 ヘブル書12章1~3節「イエスがいてくださるから 一書説教 ヘブル人への手紙」

2022-01-29 12:39:38 | 一書説教
2022/1/30 ヘブル書12章1~3節「イエスがいてくださるから 一書説教 ヘブル人への手紙」

 「ヘブル人への手紙」と呼ばれますが[1]、手紙というより説教だと言われる内容です。誰が、誰に宛てて書いたのか、ハッキリ書かれていないので分かりません[2]。しかし、旧約聖書の引用が戸惑うほどに多く、著者も読者も旧約聖書に精通していたと窺えます。旧約からの聖書の民ユダヤ人は、ヘブル人とも呼ばれて、ヘブル語を話し、旧約聖書も殆どがヘブル語で書かれています。ユダヤ人で、キリストを信じた人々が読者なのでしょう。そして、本書には、「牢に入れられた」とか「財産を奪われ」といった言葉も出て来ます[3]。苦しみ、訓練という言葉も目立ちます。この手紙はユダヤ人キリスト者たちが困難な状況にある中で、書かれたのでしょう[4]。そしてキリストについての説明を、詳しく書いて、キリスト論を発展させた書です。

1. キリストは大祭司

 本書の最初には、御子イエス・キリストの偉大さ、特別さについて詳しく書かれています。一章では「御使いたち」と比べていますから、まだこの時代にはイエスを天使と同列に考える人たちもいたのかもしれません。ヘブル書は、御子が御使いよりも遙かに優れたお方であり、御使いよりも偉大な業、即ち低く、私たちと同じ人となって、私たちを救い出す、尊い救いをなしてくださることを説き明かしていきます。そうしてイエスを「大祭司」として紹介します。キリストが大祭司だと明言するのは新約でここだけです。これが前半十章までの要約なのです。

八1以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。

 祭司は、神と人間との間に立って結びつける存在です。大祭司はその長です。キリストは神と私たちの間をつないでくださる唯一の方です。旧約時代モーセが立てた律法の制度も、祭司やその儀式を詳しく定めていましたが、それは不完全でした。それはやがて完全な大祭司が来られるまでの制度でした。その唯一の大祭司として、イエスがおいでになりました。罪のない完全な大祭司であり、動物の生贄という借り物ではなくご自身を捧げた本物の大祭司でした。御使いや人と同列ではない、確かな執り成しを、ヘブル書は説き明かしてくれるのです。

2. 大祭司がおられるのだから

 キリストが「私たちの大祭司」として説き明かしながら、それは私たちの生き方に直結するものとしてヘブル書は適応します。

「大祭司のことを考えなさい」[5]
「大祭司がおられるのですから」[6]

という言い方を繰り返すのです。イエスが偉大な大祭司だ、というと、私たちは自分には遠い、恭しくしなければならない恐れ多い方、と思うかもしれません。しかし、

二17…神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。18イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。[7]

 大祭司は、神と人間との間を取り持つため、すべての点で私たち人間と同じようにならなければならない。本当に人間になって、自ら試みを受け、苦しみを知り、ただ耐えただけで無く心から私たちの辛さや悲しみを知る、本当に憐れみ深くあるからこそ、私たちと神とを繋いでくださる大祭司であられる。そういう方が私たちにいてくださるのです。
 言わばキリストは神と私たちとの間に立つだけでなく、私たちの手をギュッと握ってくださっている大祭司。勿論、父なる神の手も離すことはなく、私たちの手をも優しく、確りと握りしめて、決して離すことはない大祭司です。そのような大祭司がいてくださる。それはヘブル書を受け取る読者に、救われるかどうかがあやふやな生き方から、もっと高く確かな生き方をもたらします。[8]



 「ヘブル人」とは元々、「川向こうの」「流れ者」という意味で、自分たちで名乗るより、「あいつはヘブル人だ」というような呼び名、もっと言えば蔑称だったようです[9]。主は、得体の知れない流れ者のアブラハムやイスラエル人、「ヘブル人」と一括りにまとめられるような人々の神となりました。「ヘブル人への手紙」は、人の目には非力で得体が知れず、迷いやすい者に御子が大祭司となってくださったことを丁寧に歌い上げていきます。それは、救いだけでなく、遙かに高く積極的な生活、仕事、結婚、教会の集会に対する姿勢をもたらすのです。

3. 多くの証人に囲まれて

十二1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 「こういうわけで」という直前の12章には、

「信仰によって…信仰によって…信仰によって」

と22回も重ねて、聖書の登場人物たちの生き方が想起されていました。神は私たちの目には見えないけれども、私たちが見える以上、考える以上のことを確かにしてくださるお方です。その神からの信仰を戴いた人たちが、地上で誠実に歩みました。ノアは箱舟を作り、モーセの両親はファラオの命令を恐れずにモーセを匿いました。見えない神を信頼して、大胆に生きた多くの証人が、雲のようにいます。またヘブル書以来、教会の歴史においても私たちの今の世界においても、信仰に生きた人々の尊い証しは数え切れません。
 どの人も完璧な聖人でも完全な信仰でもありませんでした。11章には直ぐに神を疑うイスラエルの民や[10]、不完全なヤコブ、サムソン、ダビデらも含まれています。それでも神が下さる信仰によって人は一歩を踏み出し、良い業を行ってきました。
 キリストが私たちの大祭司としておられる。だから、私たちは今見える現実だけに囚われずに、希望をもって生きることが出来ます。苦しみや死があっても、その苦しみや試みをも味わい知って、私たちとともにいてくださるイエスがおられます。だからもう私たちは罪の完全な赦しと神の祝福を信頼して、愛の業を踏み出していけるのです。[11]

 今日はヘブル人への手紙を、三つのポイントから概観しました。
 一つ目、ヘブル書はキリストの偉大さを「大祭司」という表現から教えてくれる、新約で唯一の書です。
 二つ目、ヘブル書は、大祭司が私たちと同じ人となり、私たちと同じように苦しまれた、言わば私たちの手を握るほど確りと私たちと神とを結びつけて下さる、憐れみ深い大祭司として伝えます。私たちには、大祭司イエスがいてくださる。だから、私たちの生き方は新しくなるのです。
 三つ目、その見えない神を信じる信仰によって生きた人は、雲のように大勢います。困難や諦めそうな現状の中で、神からの信仰によって状況を切り開いた人々は大勢います。だから、ヘブル書の読者たちも、私たちも、目の前の見える状況がどうであれ、励ましを戴いて、信仰と希望を持って歩めます。そうさせて下さるのも大祭司イエスです。このイエスがいてくださるのです。

「主よ、ヘブル人への手紙を感謝します。御子が私たちの大祭司であると知らされました。人であるとはどういうことか、私たちと同じく、いえ私たち以上にご存じの主が、私たちを愛し、憐れみ助けてくださいます。ご自身のいのちを捧げて、私たちの罪を赦し、祝福に預からせてくださる主が、苦難の中で忍耐や希望をも与えてください。あなたがいてくださることに勇気づけられ、互いに励まし合わせてください。この礼拝も教会も、大祭司なるあなたのものです」

永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。 (ヘブル書13章20-21節)

ヘブル書のことば ピックアップ

7:25したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。26このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

8:1以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、2人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。

11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

12:1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

12:3 あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

13:1兄弟愛をいつも持っていなさい。2旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。

4結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。5金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

8イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

アウトライン:
1.イエス・キリストの至高性 1章~4:13
  キリストは御使いより優れている。 1:1~2:18
  モーセより優れている 3:1~4:13
2.大祭司キリストによる真の贖罪 4:14~10:18
3.希望の下にある信仰の道 10:19~13:17
4.結語 13:18~25


脚注:

[1] この呼称は、二世紀の教父テルトゥリアヌスが用いたことから定着しました。

[2] 著作年代も不明ですが、神殿破壊されたのであれば、9章などの記述が違ったでしょうから、紀元70年以前だと思われます。

[3] ヘブル人への手紙10:34(あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。)、13:3(牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。)

[4] 市川「執筆の動機・目的 キリストの十字架刑のつまずき、迫害の恐怖、再臨の遅延感など、信仰的失望や背教の危険性に直面していたヘレニズム世界のキリスト者に、キリストの贖いの全一回的、永遠的成就を旧約聖書との関連から論証し、終末的完成の希望とさばきの警告とを提示し、それによって彼らを牧会的に励まし、慰めるために執筆された。」『実用聖書注解』、1,378ページ

[5] 3章1節「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」、7章4節「さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。」、12章2節「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。3あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」

[6] 4章14節「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」、8章1節「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。」、10章21節「また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、」

[7] 他にも、2章14節「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、」、4章15節「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」など。

[8] 大祭司として、神と私たちの間に立って下さる。しかし、その祭司を私たちがしっかり握りしめる、というならまだ弱い。この大祭司キリストが、私たちの手を握りしめてくださって、決して離すことがない、それゆえ私たちの生き方そのものもふらふらしたり、不安に駆られた者から、信頼をもって神に仕え、見えないものを確信しつつ、将来の約束に希望をおいて、生きるよう変えられた。そこにまで、大祭司キリストのもたらす知らせの偉大さがある。イエスを偉大な大祭司として発見することは、私たちが偉大な契約の中で神に結びつけられ、新しくされ、罪の完全な赦しと新しいいのちを与えられていることの発見である。

[9] 創世記9章14節「彼女は家の者たちを呼んで、こう言った。「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげました。」、出エジプト記3章18節「彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』」などに、そのようなニオイが漂っています。

[10] 29節「信仰によって人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に吞み込まれてしまいました。」や、30節「信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」の「人々」は、出エジプト記14章や、ヨシュア記6章を見ても、不平や背信に早く、ヘブル書3章4章8章で、不信仰の例として挙げられている人々そのものでもあります。人間を「信仰者」と「不信仰者」とに単純に二分することは出来ません。

[11] 大祭司がおられることが、愛と善行などの互いの生き方に結実すべきことも、ヘブル書で繰り返されている論理的帰結なのです。10章21節「また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、22心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。23約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。24また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。25ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」、13章16節「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。」

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022/1/30 Ⅰ列王記18章「火のテスト」こども聖書㊺

2022-01-29 11:17:50 | こども聖書
2022/1/30 Ⅰ列王記18章「火のテスト」こども聖書㊺

 今日の箇所、まことの神である主の預言者エリヤと、偶像の神バアルの預言者たちの対決です。イスラエルの民は、主なる神様に導かれてここまで来たのに、その神を捨てて、偶像の神様、強そうなバアルの神に心を向けてしまっていました。

十八22そこで、エリヤは民に向かって行った。「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。23私たちのために、彼らに二頭の雄牛を用意させよ。彼らに、自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂いて薪の上に載せるようにさせよ。火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにし、薪の上に載せて、火をつけずにおく。

 どちらが本当の神か、証明しよう。どちらも、生贄の祭壇に火をつけずに置き、それぞれの神に祈って、火をつけてくれる方が本物だ、という挑戦でした。

24おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。

 バアルの預言者が先に始めました。朝から晩まで、四百五十人の預言者が叫びました。

26…「バアルよ、私たちに答えてください。」しかし何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちが造った祭壇のあたりで踊り回った。



 それでも何も起きません。エリヤは彼らを嘲って、馬鹿にします。しかし、

28彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた。29このようにして、昼も過ぎ、ささげ物を献げる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった。



 そこで、今度はエリヤの番です。エリヤは、主のための祭壇を築きます。それは久しぶりの主のための祭壇でした。イスラエルの十二部族の数をとって、十二の石の小さな祭壇を築きました。そして、なんと彼はここに水をかけます。



32…祭壇の周りに、二セアの種が入るほどの溝を掘った。…34「四つのかめに水を満たし、この全焼のささげ物と薪の上に注げ」と命じた。…「もう一度それをせよ」…「三度目をせよ」と言ったので、彼らは三度目をした。35水は祭壇の周りに流れ出した。彼は溝にも水を満たした。

 四つの瓶に満たした水を三度、さあ、瓶に何杯分の水ですか?









 そう、十二杯です。イスラエルの十二部族の数の石と、同じ数だけの水です。勿論、水を掛けたのだから、インチキではありませんよ、むしろ絶対に火が付くなんて無理なような状態ですよ、という事でもあったでしょう。そのビショビショの小さな祭壇の前でエリヤは祈ります。

36…「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。37私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。


 一度こう祈っただけです。大声でずっと叫んだり、踊ったり、自分の身を傷つけて血を流したりはしませんでした。エリヤがこう一度祈ると、主は答えられました。すると、

38…主の火が降り全焼の捧げ物と薪と石と土を焼き尽くし溝の水もなめ尽くした。39民はみなこれを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。



 すごいですね。主は本当の神です。人間が考えたバアルと違って、生きておられ、そして、水でビショ濡れの祭壇に天から火を下して、生贄を焼き尽くすことの出来る神。こうして、バアルの預言者たちは負けて、エリヤの神こそ本物だと分かりました。

 では、バアルは壊されて、イスラエルの民は主への信仰に立ち帰ったと思いますか?いいえ、そうではありませんでした。この後、アハブ王の妻イゼベルがこれを聞くと、

十九2すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」



 これを聞いたエリヤは怯えて、荒野に逃げてしまうのです。そうです。こんなものすごい奇蹟も、民の心をほんの僅かな間、動かしただけでした。
「主こそ神です。主こそ神です」
と熱狂した民の心は、冷めるのも早く、すぐに元に戻ってしまいました。天から火を下すような奇蹟は、主の力を確かに証明しました。しかし、それ以上に、そんな奇蹟では民の心を深く変えることは出来ない、という人間の姿を証明したのです。

 後に、イエスも多くの奇蹟をなさいましたが、それは人の深い変化を殆どもたらしませんでした。イエスの弟子たちは、エリヤの出来事を思い出して、自分たちを受け入れないサマリヤの人たちのために、天から火を下すよう祈ろうと考えました。

ルカの福音書九54…「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」55しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。

 イエスはこのような考えを叱られます。なぜなら人の変化は、奇蹟とか人かそんな脅しでは起きないとご存じだからです。それは上辺の一時的な変化しかもたらしません。イエスは私たちを変えるため、大きな奇蹟より、ご自分のいのちを与えることを選ばれました。エリヤも、この出来事を通して、人の心を変えようとする虚しさを手放して、自分が主に信頼して、出来る事をして、人を育てるよう、変えられていきます。

 天から火が下った、聖書でも最も目覚ましい奇蹟の一つが教えています。人の考えは大きな奇蹟を見ても変わらない。華々しい力を見せられたら、私たちの信仰を知ってもらったり、クリスチャンも増えるだなんて思うのは妄想に過ぎない。その事を、この「火のテスト」は明らかにしました。ただ主の恵みが人の心を変えるのです。イスラエル十二部族を象徴する祭壇に、主が天から火を下してくださいました。ただ主の深い恵みによって、主ご自身の忍耐と犠牲によって、長い時間を掛けて、私たちの生き方が取り扱われていくのです。主は私たちの心も、どんな人の心も、燃やしてくださいます。


「主よ、目覚ましい奇蹟を期待し、憎らしい人をあざ笑ってやりたい愚かな誘惑から、私たちをお救いください。そんな見えるしるしより、私たち自身の冷えた心を燃やして、私たちをあなたの証しとしてください。あなたこそ神です。奇蹟よりも十字架をもって自らを与えたもうイエス様こそ、本当に力ある神。あなたに私たちも従わせてください」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022/1/23 ヨハネ伝1章1~5節「初めに「ことば」あり 一書説教 ヨハネの福音書」

2022-01-23 12:09:58 | 一書説教
2022/1/23 ヨハネ伝1章1~5節「初めに「ことば」あり 一書説教 ヨハネの福音書」

 ヨハネの福音書はユニークな福音書です。その前のマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書の三つは、イエスの活動と十字架、復活に至るストーリーを、割合似た語り口で、同じような出来事を使いながら伝えています。この三つは「共観福音書(観点が共通している福音書)」と呼ばれます。それに比べてヨハネは独自です。十字架に至る数年と十字架の死、復活は同じでも、九割が独自なのです。この書だけは「第四福音書」と呼ばれるのです。

 どうしてこの書が書かれたのでしょう。その目的をハッキリ書いてくれているのも特徴です。

二〇30イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。[1]

 この目的から書かれたのです。既に、マタイ、マルコ、ルカの福音書は書かれていて教会では読まれていました。主イエスの御生涯や奇蹟、教え、十字架と復活は語られていました。イエスが神の子キリストであることはそこでも語られ、信じられていました。しかし教会が既に知っていると思っているイエスの物語に、異なる角度から光を当てて、イエスが神の子キリストであることをますます信じて、そしてイエスにあるいのちを得て欲しい。それが、この書の目的でした。私たちが「もう知っている」と思っているイエス様の姿、聖書の物語に、違う所から光を照らして、イエス様との新しい出会いをくれる。それがヨハネの福音書です[2]。

 マタイなど共観福音書が書かれたのは紀元60年代前後、それから30年以上した紀元90年代がヨハネの福音書の書かれた時期のようです。30年の間に教会の内外でも変化があったのでしょう。私たちの信仰の歩みでも、何十年と馴染んできたつもりの信仰理解やイエスのイメージに、神が光を投げかけてくださることがあります。今までが間違っていた、という意味ではなく、知っていると思ってきた事が全てでは無かった、改めて神と出会う、イエスを知る。そういう思いを、神はさせてくださるお方です。そういう再出発を願ってくださるのです。

 そう願って書かれた本書の書き出しが
「初めにことばがあった」
でした。どう語り始めるか、ヨハネは慎重に考えたのでしょう。それがこの
「初めにことばがあった」
です。イエスを「ことば」なるお方として紹介するのです。初めにおられたことばなるお方、として[3]。

 聖書の最初、旧約聖書の第一巻の創世記は
「はじめに神が天と地を創造された」
と書き出します。ヨハネはそれをもじります。そして、その初めに
「生まれた、創造された」
でなく、既にその時におられた、もう既にいらしたお方。そう紹介して、書き出していきます。そうして、登場するイエス様は、福音書の中でも一番饒舌です。おしゃべりなイエス様なのです。

 その言葉が「初めからあった」と私たちは信じているでしょうか。その御言葉は、素晴らしい、高尚だ、恐れ多いとは思っていても、イエスの言葉こそ最初からあったとは思っているでしょうか。私たちの心にまずある言葉は、どんな言葉、どんな考えでしょうか。この福音書9章には、生まれつき目の見えない人を見たとき、弟子たちも含めて誰もが「この人が盲目に生まれついたのは、この人か両親の罪のせいに違いない」という言葉に囚われていました[4]。しかしイエスの言葉は
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」
でした。そんな奇蹟を七つ記すのも本書の特徴です[5]。
 また、ユダヤ教の立派な教師も、人は老いてから生まれ変わることは無理だという言葉を口にしました[6]。それに対して語られたのが、ヨハネの福音書で最も有名な言葉、聖書のエッセンスとも言える、
三16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。[7]
の言葉です。これは、単なる感動的な名セリフではありません。初めからおられた神とそのひとり子のイエスがこの世を愛されている。そのために、父は御子を与えてくださった。神は世を愛するお方である。そういうとんでもなく大胆な言葉です。それを見せてくださったのが、ひとり子イエスです。沢山の言葉を教え、
「わたしはいのちのパンです。…世の光です…良い牧者です。…ぶどうの木です」[8]
と仰って豊かに示されます。貧しい結婚式を祝福し、男性不信の女性を喜びに溢れさせて、治る気の失せた病人を立ち上がらせてくださる。そんな実例を通して、イエスの言葉の力を見せます[9]。そして最後の晩餐の席で、弟子たちの汚れた足をイエスご自身が奴隷のように身をかがめて洗って下さる。その晩イエスは捕らえられ、十字架にかけられた後、よみがえって弟子たちに現れてくださるのです。

 このイエスこそ初めからおられた方です。私たちが何かをなす前に、先におられるお方です。また、この「初め」は時間の最初という以上に、原理とか根源という意味でもあります。初めはイエス様の言葉だけど、それを私たちが裏切ったり信じなかったりしたら、台無しにしてしまうんじゃないか…それも私たちの思い込みやすい言葉でしょう。有り難い事に、そうではないのです。初めにイエスがおられ、今もこれからもまずイエスがいてくださる。この方の言葉、約束が私たちの思いに先立ってある。私たちの心や頭には、違う言葉、違う予想、イエス様抜きの考えが染みついているとしても、その闇は光に打ち勝つことはありません。
 ヨハネの時代、紀元90年、ローマの迫害が強まった頃でしょう。教会の中にも疑問や諦めがあったらしい。そんな中で書かれたヨハネの福音書は、教会にイエスを新しい光で照らします。そして、イエスと出会って、その言葉によって生き生き生きるよう変えられた人たちの姿を証しします。

 ヨハネの福音書は新約でも一番最後に書かれたと考えられる書の一つです[10]。勿論これで聖書は完結し、書き足されることはありません。それでもヨハネが、三つの福音書にもう一つを書き加えてまで、イエスを新しく知らせようとしたその情熱は、私たちにも届けられるはずです[11]。信仰生活何十年、教会生活が何年であっても、私たちを取り巻く環境に私たちは戸惑い、心が涸れたように渇いてしまう時がある。そういう私たちに、聖書がもう一度イエスとの出会いを与えてくださり、主を信じさせて下さる。初めにあった言葉が、もう一度私たちに豊かないのちを注いでくださる。ヨハネの福音書が証しする恵みが皆さんにありますよう祈ります。

「造り主であり命の主である神様。あなたの御子イエス・キリストの御生涯は、神の栄光を豊かに現しています。私たちのいのちはイエス様から来ます。どうぞ、その深い恵みを現してください。私たちの貧しく細い理解にも、御言葉の光が新しく差し込んで、主の命に預からせてください。私たちのためにご自分を捧げてくださった神を告白し、私たちも又、そのような捧げ合い、真実な生き方へと、命溢れる日々へと、ともに励まし合う教会であらせてください」


アウトライン:
1章 プロローグ
2~10章 奇蹟的なしるしと議論
 2~4章 ユダヤ教の四つの事柄:2a結婚式の祝宴;2b神殿;3章ラビ;4章聖なる井戸
 5~10章 ユダヤでの四つの聖なる日:5章安息日;6章過越の祭;7~10章a仮庵の祭り;  10章b ハヌカ
11~12章 ラザロのよみがえり
13~17章 イエスの最後のことば:13章弟子たちの足を洗う;14~17章イエスの説教と祈り
18~20章 イエスの死と復活:18章aイエスの逮捕;18b-19章十字架刑;20章よみがえり
21章 エピローグ

脚注:

[1] この「信じる」は、写本に二種類の系統があり、「(一度)信じる」不定過去の時制であれば、未信者が信じることを主に差すでしょうし、「信じ(続け)る」未完了時制であれば、既にキリスト者である人々が信じ続けることに焦点があると言えます。どちらの写本が有力かは意見が分かれるところです。「新改訳2017」では欄外に「異本「信じ続けるため」」とあり、両方が併記されています。

[2] ジェームス・ブライアン・スミス『エクササイズ』(松本雅弘訳、いのちのことば社、2016年)では、「第7章 神はご自分を捧げるお方」の結びの「魂を鍛えるエクササイズ」で「ヨハネの福音書を読む」ことを勧めます。「ヨハネの福音書はユニークな福音書です。ロゴスすなわちことば、あるいは「人となって、私たちの間に住まわれた」神の子について語るプロローグをもって始まります。ヨハネは一連のユニークな物語を綴りながら、、イエスを垣間見せようとしていますが、ヨハネの福音書において最も重要なことは、イエスと天の父との関係がはっきりと描かれている点です。」(242ページ)

[3] ことばロゴス ヨハネで40回。1:1(初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。)、14(ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。)、2:22(それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。)、4:37(ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。)、4:39(さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。)、4:41(そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。)、4:50(イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。)、5:24(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。)、5:38(また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。)、6:60(これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」)、7:36(『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」)、7:40(このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。)、8:31(イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。)、8:37(わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。)、8:43(あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。)、8:51(まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」52ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。)、8:55(あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。)、10:19(これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。)、10:35(神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、)12:38(それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」)、12:48(わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。)、14:23(イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。24わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」、15:3(あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。)、15:20(しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。)、15:25(これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。)、17:6(あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。)、17:14(わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。)、17:17(真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。)、17:20(わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。)、18:9(これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。)、18:32(これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。)、19:8(ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。)、19:13(ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。)、21:23(それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。)

ちなみに、以下の「ことば」はロゴスではなく、レーマ。3:34(神が遣わした方は、神のことばレーマを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。)、5:47(しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばレーマを信じるでしょうか。」)、6:63(いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちレーマです。)、6:68(すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばレーマを持っておられます。)、8:47(神から出た者は、神のことばレーマに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」)、10:21(ほかの者たちは言った。「これは悪霊につかれた人のことばレーマではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか。」)、12:47(だれか、わたしのことばレーマを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。)、14:10(わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばレーマは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。)、15:7(あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばレーマがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。)、17:8(あなたがわたしに下さったみことばレーマを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。)

[4] ヨハネの福音書9章。

[5] 七つの奇蹟:①カナの婚礼のぶどう酒(2章1-11節)、②役人の息子の癒やし(4章46-54節)、③ベテスダの池で、足の萎えた人を癒やす(5章1-9節)、④五つのパンと二匹の魚で五千人の給食(6章1-14節)、⑤水上歩行・嵐を鎮める(6章15-21節)、⑥盲人の癒やし(9章1-41節)、⑦ラザロの復活(11章)、そして復活と、ガリラヤ湖での大漁の奇蹟(21章1-14節)。

[6] ヨハネの福音書3章。

[7] 「永遠のいのち」17回。「天国」ではなく、イエスに結ばれた永遠の生き生きとした、新しい歩み。自力で獲得するのでなく、イエスが下さったことを驚き、喜び、生かされるのだ。

いのち、ゾーエー。ヨハネに36回。うち、17回が「永遠のいのち」。1:4(この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。)、3:15(それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」)、3:16(神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。)、3:36(御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。)、4:14(しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」)、4:36(すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。)、5:21(父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。)、5:24(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。)、5:26(それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。)、5:29(そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。)、5:39(あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。)、5:40(それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。)、6:27(なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」)、6:33(神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」)、6:35(イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。)、6:40(わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」)、6:47(まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。48わたしはいのちのパンです。)、6:51(わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」)、6:53(イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」、6:63(いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。)、6:68(すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。)、8:12(イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」)、10:10(盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。)、10:15(ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。)、10:17(わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」)、10:28(わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。)、11:25(イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。)、12:25(自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。)、12:50(わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」)、13:37(ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」38イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」)、14:6(イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。)、15:13(人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。)、17:2(あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。3永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。)、20:31(これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。)

生きる ザオー17回。4:10(イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。)、50(イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。51彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。)、4:53(父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。)、5:25(まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。)、6:51(わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」)、6:57(生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」)、7:38(わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」)、11:25(イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。26また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」)、14:19(あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。)、

[8] エゴー・エイミー(わたしは○○です):①いのちのパン(6章35節)、②世の光(8章12節、9章5節)、③羊の門(10章7節)、④よい牧者(10章11節、14節)、⑤よみがえり、いのち(11章25節)、⑥道、真理、いのち(14章6節)、⑦まことのぶどうの木(15章1節)

[9] そこでヨハネが強調する特徴の一つは、聖霊の働きです。風のようであり(3章)、慰め主であり(14、16章)、復活のイエスは「聖霊を受けなさい」と弟子の派遣を聖霊と直結します(20章)。

[10] 掲載の順番は、ヨハネの黙示録が一番最後ですが、緒論としては、ヨハネの福音書、および、ヨハネの手紙第一から第三が、最も遅く書かれたと考えられています。

[11] そして、ヨハネ伝の21章は後から付け足されたようにも読めますし、半ばの7章53~8章11節までの「姦淫の女の石打」のエピソードは、明らかに後代に書き足された、本来はなかったものです。福音が固定・完結した閉じたものではなく、オープンである面をこのヨハネの福音書は、そうした成立史からもほのめかしてるのでしょう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022/1/23 Ⅰ列王記17章「ツァレファテのやもめ」こども聖書㊹

2022-01-22 12:04:27 | こども聖書
2022/1/23 Ⅰ列王記17章「ツァレファテのやもめ」こども聖書㊹

 預言者エリヤは、イスラエルに雨が降らなくなると告げました。それは、本当の神から離れていた人々に、世界を創り、雨を降らせ、太陽を昇らせ、私たちに食べ物を下さるのは、本当の神だけであることを力強く知らせるためでした。神である主は、エリヤを細いケリテという川へ行かせ、烏にパンと肉を運ばせてエリヤを養いました。しかし、

7…しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。

 その川も涸れてしまったのです。どうしましょう。そこに導かれたのは神なのに。時に神は、そのようなことをなさいます。でも、それも神のお考えがあってのことです。

8すると、彼に次のような主のことばがあった。9「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

 ツァレファテは、イスラエルの更に北、シドンの国の町です。そこまで100km以上はあるでしょう。何より、シドンは異教の国です。アハブ王が今、神を冒涜して礼拝しているバアルの神はシドンの宗教であり、シドンの王女イゼベルこそアハブ王の妻となって、夫をバアル礼拝に引きずり込み、後々までイスラエルを操った女傑です。そのシドンの町ツァレファテに行け、と主は言われるのです。

10彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。
「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
11彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。
「一口のパンも持って来てください。」
12彼女は答えた。
「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」

 シドンも雨が降らず、食べ物がなかったのでしょうか。そうではなかったけれど、この女性は貧しくて、食べ物があと少ししかなく、息子と二人の最後の食事を食べて死ぬしかないと絶望していたのでしょうか。もう明日への希望さえ持てない。そんな女性でした。



「あなたの神、主は生きておられます」
は、エリヤの神は生きておられるけれど、私には関係ない、私の神は死んでしまった、という皮肉な言葉にも聞こえます。こんな言葉をいう女性は頼りになるでしょうか。この投げやりな言葉に、こちらまで絶望してしまいそうにならないでしょうか。しかし、エリヤは言いました。

13…「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」

 この言葉を、エリヤがいつ聞いたのかは分かりません。ここに来る前だったのか、この時に主がエリヤに語りかけられたのか。興味はありますが、エリヤはこの主の言葉を根拠に、やもめに
「恐れてはいけません」
と言いました。そして、その信頼の証しとして、まずエリヤのために小さなパン菓子を作れと言います。彼女にも、主が生きておられる神であることを信じるよう求めます。そして、彼女はそれに従うのです。

15彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。



 彼女は行って、エリヤの言葉の通りにした。それは丁度5節で、エリヤが主に言われた通り、ケリテ川に行った、というのと重なります。異教徒のやもめが、主の言葉の通りに行動する。そして、思い切って、自分のためを差し置いて、エリヤのために、パンを焼いて与える。この決断が、この状況を変えるのです。本当に主の言葉の通り、瓶の粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。彼らはずっと、パンを食べ、生き延びることが出来ました。この母子は生き延び、エリヤもこの家で養ってもらいました。聖書にはこの後、もう一つ、大きな出来事があったことが書かれています。その出来事を経て、

17:24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」



 異国のシドン人の貧しい女性、もう息子ともども死ぬしかないと思っていた女性が、こんな言葉を口にするのです。イスラエルの王アハブや、国民たちも、エリヤを疎んじていました。エリヤの語るのが主の言葉であることを認めようとしませんでした。そんな中この女性が、こういう告白をしたことは、本当に不思議なことです。決して小さくない、かけがえのない尊いことです。そして、神様はそのようなことをなさるお方です。後に、イエスはこの出来事を引き合いにして、集まった人々に語られます。

ルカ4:25~26「まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、26 そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。」

 今日の出来事を引き合いにして、イエスは神の眼差しの思いがけなさを語られました。すべての人にとって、まことの神が神として働かれます。聖書の言葉を私たちへの言葉として従いましょう。自分だけでなく、他の人にもそうであることを覚えましょう。恐れることなく、持っているものを分かち合いましょう。
 それが一握りの粉やほんの少しの油のような、小さなものであるとしても、主はそれも私たちをも用いられます。主が祝福のために用いて下さることを信頼して、主の言葉に従って、生きてゆきましょう。



「主よ、あなたの言葉は真実です。私たちもその言葉を信じます。多くを持っていれば、あなたを忘れ、僅かしかなければあなたを恨む、そんな私たちをもあなたが引き寄せて、生かしてくださいます。どうぞ、全ての人に、命と信仰を与えてください。感謝と分かち合う心を与えて、新しくしてください。エリヤを遠くへ遣わし、主イエスご自身が遠くに来られた、その深い憐れみを、私たちの生涯においても豊かに現してください」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022/1/16 Ⅰ列王記17章「エリヤとからす」こども聖書㊸

2022-01-16 10:54:40 | こども聖書
2022/1/16 Ⅰ列王記17章「エリヤとからす」こども聖書㊸

 前回は「栄華を極めたソロモン王」の話をしました。誰よりも賢く、繁栄の絶頂を築いたソロモンの足元では民衆が、重税に喘ぎ、重労働に疲れ果てていました。



 そうして、ソロモンの子どもの時代には王国は南北に分裂してしまいます。



 半分以上の人々が、もう一緒にやっていられない、自分たちこそ神様の民だ、と違う王を立てて、分かれてしまったのです。そのような時代が三百年ほど続きました。そして、王が何度も変わり、六番目の王がアハブ王でした。彼は、イスラエルの国の歴史でも最悪の王の一人でした。

Ⅰ列王記十六章30節オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。31…彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。32さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。33アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。

 誰よりも主の目に悪であることを行い、外国の王妃を娶って、その神バアルを拝んで、神殿と祭壇まで作りました。そうして、ますます主の怒りを引き起こすようなことばかりをしたのです。このアハブ王と妻イゼベルの時代のことが、列王記には十九章にも亘って詳しく記されています。その時代に活躍した一人が、預言者エリヤでした。

 神様に背いて分裂していた時代、最悪だった時代の、最悪なアハブ王の時代。それは、神様が無視するか、すぐに滅ぼしても良かったような時代です。けれども、その時代にこそ聖書はじっくりと目を留めています。大預言者エリヤが登場して、活躍をします。それによって、アハブが反省したり、国が改善されたりしたわけではありません。しかし主はエリヤを遣わして、いくつもの大切な言葉を伝えさせました。

 この主の言葉を預かる人。聖書にいう「預言者」は、神の言葉を預かった人です。予言者というと、まだ起きていない未来の出来事を予め言葉にする人です。聖書の預言者は将来のことを話すこともありますが、それよりも大事なのは、神の言葉を預かって伝えることです。今、ここに生きる人に、神が何を仰っているかを伝える事です。

17:1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」

 アハブは、北イスラエル王国の首都サマリアにいました。バアルのための神殿を建てていました。そのバアルの神は、農業の神、豊作の神、つまり雨を降らせる神ともいわれていました。そこにエリヤがやってきました。

 エリヤはギルアデの住民と言われます。ギルアデは、イスラエルより東の、ヨルダン川を挟んだ向こう、田舎の地域です。田舎者のエリヤが、王の前に立っていうのです。
「私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない」
と。アハブ王がどんなに威張って、バアルが雨の神様だとか何だとか言おうと、主が遣わされた、田舎者のエリヤはその前に立って、アハブ王にもの申すのです。そして、実際に、この時から数年間、雨は降りません。民の水も、畑の農作物や家畜の飲み水も少なくなり、どうやって生きられたのでしょうか。どうしようも出来ません。アハブ王とイゼベルの勢いはまったくの空威張りに過ぎなくなってしまうのです。しかし、エリヤ自身も雨が降らなければ困ります。

17:2それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」

 エリヤはサマリアを去って、身を隠せと言われます。アハブは、エリヤの言葉が図星なのに何も言い返せず、負けを認めるより腹を立て、捕まえて殺そうとしたのでしょう。主はエリヤをヨルダン川の東のケリテ川に行かせるのです。この川もまもなく枯れるのですから、細い川だったのでしょう。



 それはエリヤにとっては、とても心細い事だったかもしれません。そんな所に身を隠さなければならないなんて。でも、

5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

 エリヤは、逃げた先で、主は約束通り、烏を遣わしました。どうやってか、烏は朝にも夕方にも、パンと肉を運んできたのです。不思議ですね。どうやったのでしょう。誰かの家からもらってきたパンを、エリヤの前に届けてくれたのでしょうか。それとも、うっかりエリヤの頭の上に毎日落としてしまっていたのでしょうか。



 エリヤも不思議だったに違いありません。それ以上に、烏を使う、という主のやり方そのものが、不思議でした。烏は律法では、汚れた動物でした。生贄にしたり、食べたりすることは禁じられている、あまり好ましくないような鳥です。でも神は、その烏に命じて、エリヤを養わせたと言います。何故か毎日、エリヤにパンと肉をどこからともなく運んできてくれます。それも、肉なんて一回でもご馳走だったはずです。それを一日二回食べるなんて、ビックリするようなご馳走だったのでしょう。神様は、烏も用いるし、田舎者のエリヤも預言者とされますし、最悪の北イスラエル王国にも語りかけておられました。私たち人間には計り知ることの出来ない不思議を、神はなさるのです。

 その不思議をエリヤは信じました。王の前に立つなど思いも及ばなかったでしょうが、王より遙かに偉大で、雨も烏もすべてを支配しておられる神を信頼しました。水がない時、主はエリヤをケリテ川に逃れさせ、烏の運ぶパンと肉で養わせました。その不思議な導きを、私たちは信じるのです。アハブを打ち負かすことは出来なくても、アハブよりも確かな主を信頼して、御力によって強められることこそ、私たちの証しなのです。

ヤコブ書5:17エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。

「天と地を作り、雨も烏も、エリヤも私たちも愛したもう神様。私たちも、あなたの声を運ばせてください。人の言葉に振り回され、人の力に屈しそうになる時、どうかその愚かさから救い、勇気をもってあなたに信頼させてください。あなたが私たちを養い、導き、苦しみや渇きを通っても、必ず、主の恵みを観させてくださることを信頼します」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする