聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2013/02/03 民数記二三章「祝福はくつがえせない」

2013-02-27 10:41:16 | 民数記
2013/02/03 民数記二三章「祝福はくつがえせない」
詩篇一一五篇 マタイ伝六5-15

 この民数記二三章は、二二章から二四章まで続いている、モアブの王バラクと呪術師バラムとのエピソードの真ん中に当たります。ですから、二二章のおさらいをしておきましょう。エジプトから出て来たイスラエルの民、数十万は、四〇年の放浪を終えて、いよいよ約束の地に入ろうとしています。最後に、ヨルダン川の対岸、モアブの草原に宿営を張って、備えたと二二章の頭にありました。これを脅威としたモアブの王は、神頼みを思いつき、ひとりの呪術師、バラムを呼び寄せます。二二章では、バラムがイスラエルの民を呪うことは、神の御心ではない、ということを示す出来事が続きましたが、そのような出来事を経て、バラクの所に辿り着いたバラムが、いよいよイスラエルの民を前にして、さて何を言うか、というのが今日の二三章、そして次の二四章です。
 今、一度読んでお分かりかと思いますが、結果的にバラムはイスラエルの民を呪うことは出来ませんでした。次の二四章と合わせて、四度、バラムは神から授かった祝福の言葉を述べます。もちろん、それは、バラムの霊力によって実際にイスラエルが何かの祝福(御利益とか恩恵)を授かった、という意味ではありませんし、神がご自身の民を祝福されるのにバラムの力を借りた(借りなければならなかった)ということでもありません。モアブの王は、バラムの力でイスラエルを呪おうとしましたが、それは神の御心ではなく、神がイスラエルを祝福されることこそが神の御心であり、それがどれほど豊かな祝福であるか、がバラムの口を通して、モアブの王たちに対して明らかにされた、ということに他なりません。
 そのような、二つの「祝福」が二三章にあるわけですが、キディという注解者が、この内容をまとめているものをお借りして、簡単に見ておきましょう 。7節から10節の、第一の託宣では、次の四つのことが言われているとキディは言います。一、神はイスラエルを呪われない。(それゆえ、バラムが彼らを呪うことは不可能です)。二、神はイスラエルを「ひとり離れて住む」民として区別されている。(諸国の中にあって、イスラエルは神との特別(ユニーク)な関係を与えられています。)三、神はイスラエルを明らかな力をもって祝福される。四、神はイスラエルをご自身の契約の民とされている。(彼らの性格と運命は、恵みの契約によって、主に結びつけられています)。」だからバラムは、イスラエルの民の先行きまでも主の契約に守られていることを見やって、「10私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」と言うのです。
 また、18節から24節の、第二の言葉の内容をキディはこう纏めます。「一、神はご自身の約束を守られる。(神がバラムにモアブへ行く事を許したのも、御心が変わったためではなく、御心の変わらないことを示すためであったのです。)二、神はご自身の民を守られる。(神のイスラエルに対する約束の言葉は、彼らのための歴史においてその全能のみわざによって保たれてきました)。三、神は御民にご自身を現し続けられる。(23節は未来形です。「神のなさることは、時に応じてヤコブに告げられることになり、イスラエルに告げられることになっている。」)、四、神は御民が敵を破るのに必要な力をお与えになる。(24節「見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺した者の血を飲むまでは休まない」)」
 つまり、モアブやカナンの民の王たちがイスラエルと戦おうとしても、決して勝つことは出来ず、百獣の王の餌食となる他ない、と言っているのですね。このような、確かで豊かな祝福が、バラムを通して明らかになるのです。
「19神は人間ではなく、偽りを言うことがない。
人の子ではなく、悔いることがない。
神は言われたことを、なさらないだろうか。
約束されたことを成し遂げられないだろうか。」
との言葉も、バラムがバラクに突き付けた言葉です。
 しかし、それ程までの祝福を、確かな御心を、念には念を入れて示されても尚、何とかして民を呪えるのではないか、と考える、モアブの王バラクの姿もまた、この章で強烈に印象づけられることではないでしょうか。神が祝福する、と言われるのに、場所を変え、生贄を捧げ、
「27…もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかもしれません。」
と、藁(わら)にも縋(すが)ろうとするのです。
 いいえ、イエス様は先ほどのマタイ六章で言われていました。
「マタイ六7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
 異邦人の祈り。バラクとバラムの祈りはまさに「異邦人の祈り」です。言葉数が多いこと、祈る人間の側の熱心や繰り返し、数によって、神を拝み倒せると考えます。バラムは結果的には祝福だけを述べ、呪うことはしません。しかし、七つの祭壇と、七頭の雄牛と七頭の雄羊の生贄を三度も捧げさせ 、それを、
 「 3…あなた[バラク]の全焼のいけにえ…」
と呼んでいるところには、バラクが捧げる高価な生贄によって、神の心を変えさせることも出来るのではないか、と当て込んでいた気持ちが覗いて見えます。七という完全数をくり返しているのも、雄牛と雄羊という最高級の生贄を捧げたのも、結局は神のご機嫌を伺うためでした 。また、28節の「ペオルの頂上」以外、あとの二つが精確にどこであったのかは分からないのですが 、草原に広がるイスラエルの民を、違う角度から見るためにはかなり移動しなければならなかった筈です。しかし、それだけの移動も、
 「神の御目にかなって、…のろうことができるかもしれません」
という下心になっていたのです。
 主の御心は、動かない祝福です。私たちにとってそれは本当に感謝な、素晴らしく、慰めに満ちた真理です。しかし、それが自分のことであればよくても、他の人、取り分け自分と利害が衝突する人や、感情的に受け入れがたい人であったら、神がその人を祝福されると言われても、苛立ち、妬み、否定し、変更を願い出て、聞いてもらえるのではないか、と思う所があるのではないでしょうか。敵の不幸にほくそ笑み、自分の損得をいつも数えている。けれども、主の御心は他者を呪わない、というだけでなく、祝福を願い、祈る(勿論それは、全焼のいけにえの思いをもって、心底から、です)。そのために、自分が現状を手放さざるを得なくなろうと、傷つかなければならないとしても、主の祝福を運ぶことです。それを望まず、自分の思いをあくまでも握り締めようとするのであれば、そのような頑なさ、主の御心に対して心を閉ざしてしまう問題と、確り向き合わなければなりません 。この箇所にこういう説明書きがありました。
「バラクはバラムを幾つかの場所に連れて行き、イスラエル人たちをのろうよう、誘い出した。彼は、景色を変えれば、バラムの心情が変わるかもしれないと思ったのだ。しかし、場所を変えたところで、神の御心は変わらない。私たちは、自分の問題の原因と向き合うことを学ばなければならない。問題から逃げることは、解決することをより難しくするだけである。私たちの中に根づいた問題の数々は、景色を変えることによっては解決されないのである。私たちの心を変えることが必要なのに、場所や仕事だけを変えることによって、逆に、私たちの心がかき乱されることもある。」
 いくら場所を変え、やり方を変えても、形の上での礼拝は完全で惜しみなく敬虔そうであったとしても、その心には、自分がしたいようにしたい、神の祝福の定めをも自分の願いに融通を利かせて欲しい、そんな思いが深く取り扱われ、変えられるまでは、何の解決にもならないのです。
 二二章でバラムが乗ってきたロバがしゃべった、というエピソードがありましたが、先のキディは、ここで面白いことを言っています。「私たちはこの部分を、バラムの託宣と呼ぶことがあるが、バラムという、気乗りのしない、神の代弁者によって語られた、神の託宣、というのが事実である。バラムは「神のロバ」であって、神の言葉をモアブに運ばざるを得なかったのである。」  ならば、私たちも祝福を運ばせていただきましょう。イエス様をお乗せしたロバの子を思いだし、小さいながらも、微力ながらも、私たちが謙り、主の祝福を運べるように祈りましょう。怒り憎み、赦せない、自分の頑固なエゴは、ロバ以下の愚かな思いだと弁えて、主の祝福の御心に自分を従わせましょう。主が私たちを、恵みの御心に沿って生きる者へと祝福してくださいますように。

「祝福の主が私共の心を開いて、すべての呪わしい思いから、強いてでも救い出してください。あなた様が示された、祝福の定めを受け入れさせてください。上辺ばかりの敬虔さの下に隠した、人への非難、赦すまいとする自分の心を誤魔化しませんよう。あなた様の、永遠からの祝福によって、卑しい心を日々新しくされたいと願わせてください」


文末脚注

1 Keddie, p. 159.
2 1-2節、14節、29-30節。
3 ウェンナムの注解より抜粋「神聖数の七。(天地創造は七日間かかった。一年の第七の月は宗教的祭儀で満ちていた。七年目と五十年目(七×七+一)も特別な意味があった。七頭、あるいは十四頭の子羊が、主要な祭りの時にささげられた(民数28・19、27、29・4、13、17以下)。雄牛と雄羊、最も高価な生贄。それを全焼のいけにえとすることは、神に対する最高の(外見上は)ささげ物であった。バビロニアの粘土板にも酷似した記述あり。)」そこに明らかなように、七という完全数の繰り返しが、自分の願いの保証として用いられるに過ぎない。神への媚びであり、神を操作しようとしての完全な生贄である。イスラエルの神はそのような「完全」を望まれない。外見が整っていても、心に神への恐れがなければ、神は退けられる。
4 第一の箇所、二二40「バモテ・バアル」は「バアルの高き所(つまり祭儀場)の意で、アバリム山脈の東側面に位置するはずであるが、その地点は確定出来ない。」 第二の箇所、二三14「セデ・ツォフィム」「見張り人の野原」の意。「ピスガの頂」は、特定の地名ではなく、アバリム高地に属する小高い丘を指す。ちなみに、モーセが死んだネボ山はその最高峰の一つである(申32:49)」。 第三の場所「ベオルの頂上」は「モアブの神ペオルの聖所があった場所で、シティムの南東約4kmにある小丘と思われる。」(ウェンナム)
5 マタイの話の続きは、「だからあなたがたは祈るとき、このように祈りなさい」と「主の祈り」を教えられますが、その後に加えて、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」となります。8節で「あなたがたに必要なものをご存じ」と言われた主がこのように教えておられるということは、私たちにとって、「日ごとの糧」と同じぐらい、人の罪を赦すということが必要であるからに他なりません。異邦人の祈りは、他者を赦そうなどとしない祈りです。しかし、主の民の祈りは、赦さない心と戦う祈りです。
6 『BIBLEnavi』(いのちのことば社、2012年)241頁。
7 Gordon J. Keddie, According to promise: The message of the book of Numbers, Evangelical Press, 1997, p.158.

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2013/1/6 民数記二二章「ろばの口を開いて」

2013-02-27 10:26:36 | 民数記
2013/1/6 民数記二二章「ろばの口を開いて」
ルカ伝一29-32 Ⅱペテロ書二15-19

 民数記の二二章から二四章まで、このバラムとバラクの話が続きます。どっちがバラムでどっちがバラクか、よく分からなくなることがありますが、今読みましたペテロの手紙のように、新約聖書にも三箇所、このバラムが引き合いに出されています 。旧約の中でも有名な、ずる賢い、主の敵です。
 しかし、今日の箇所を読むと、むしろバラムは、主に従おうとしているように見えます。最初は、主が、バラクの使いと一緒に行くことを禁じたので、
 「13…主は私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。」」
と同行を断っています。二回目も、最初は、
「18…「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。」
と宣言しているのですね。それでも、神が20節で許可なさったので、出掛けたのです。ところが、そうして出掛けたら、22節で、
 「…神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。…」
ということになるのです。
 異邦人の呪術師とはいえ、ここまで誠実に答えている人物もなかなか珍しい、ということと、それなのに主が御自身で出立を許可しておきながら、バラムを殺そうとするとは一体どういうことか、よく分からなくなってしまうような戸惑いを覚えるのです。
 けれども、この民数記自体、三一章の8節や16節で、バラムの悪が罰せられるべきだと評価しているのです 。バラムの言葉が、バラムの誠実さを保証するわけではない。いいえ、そもそも人間の言葉も、私たちが何を言うかも、「口では何とでも言える」と言われる通りで、その内容を保証することにはなりません。
 また、この後、二三章二四章と続けて、バラクはバラムにイスラエルを呪わせようと再三するのですが、主はバラムに命じてイスラエルを祝福させられます。直接出てくるだけでも三章も掛けてこのエピソードは続きますし、このまま民数記の最後三六章まで、「モアブの草原」が舞台となる、大きな区分が続きます。そういう意味でも、この最初の長いエピソードは重要なのですが、そこでバラムがイスラエルを祝福します。けれどもそれも、バラムが正しいとか、信仰を持っていたということではなくて、イスラエルを呪おうとした、欲深いバラムを通してさえ、主なる神はイスラエルを祝福され、また御自身の御心がイスラエルを祝福することであると大々的に啓示された。そこにこそ、この部分の意味があるのですね。
 勿論、私たちはバラムの問題を通して教えられること、悔い改め、自己吟味するべきことは多々あるのですが、それと共に、これが主の民の外で起きた、という第一の意味を確り心に刻みたいのです。主は、主の民を祝福されるだけでなく、主の敵にも働いておられます。私たちを祝福される、また、私たちの心の底にまで働き、バラムのように言葉の裏に秘めた真意を問うてこられるお方であるとともに、私たちの敵、神を憎む者たちのうちにも働いておられ、その悪意を牽制し、益に変えてくださる。キリスト者の祝福を妨げるものに対しても、神は強く、御心をなしておられる。そのような力強い宣言であるのです。
 とはいえ、やはりバラムの罪が、教会の中に入っていると、ペテロやユダや黙示録が警告していることを考えると、敵対者や他人事、対岸のことと安心しているだけ、というのでも片手落ちとなるでしょう。バラムから学ぶべきこともまた、謙虚に学びたいと思います。それは、ロバの口が開いて暴露されているような愚かさ、だったのです。
 ロバが話す、というのは、まことに不思議な記事です。それだけで興味津々になって、ロバならぬ野次馬となって終わっている人も多いようです。私は勿論本当にこの時ロバが口を開いて話したのだと信じていますし、それが一番自然な読み方であるわけです。けれども問題は、ロバが話せるかどうか、という事ではないのです。バラムがロバよりも愚かになっている。ロバには御使いが見えたのに、だから進むべきではないと分かったのに、バラムがそれに気づかずに無理にでも行こうとする。今まで逆らったことのないロバが身を巡らしたのだから、何かあるに違いない、と思ってもよかったのに、そうは気づかずに、
 「29…おまえが私をばかにしたからだ。…」
という理由で、ロバを鞭打つのです。このことだけではないのですね。前夜も、その以前にも、神がバラムに現れて、行く事を許される、という特別な啓示を受けたのです。夕べのことだけでなく、主がバラムに言うべき事を告げる。また、それだけを語るかどうかも見ておられる。そういう約束に、逆らうことの出来ないという緊張と恐れがあって然るべきでした。そこでのロバの不可解な行動にも、何かあると気づけてよかったのです。しかし、それが出来なかった、と言うところにバラムの霊的な盲目さ、暗さが馬脚を現していたのです。
 バラクが何としてでもバラムを招き、イスラエルを呪わせたいと思ったぐらい、バラムは凄腕の呪術師だと思われていました。本当に神や霊と語り、呪うことが出来た魔術師というよりも、インチキや怪しげなことをして人々を誑かす者だったとしても、それは相当な策謀家でなければ出来なかったことです。バラクがバラムを何としてでも招きたいとしたための労力や出費は並大抵ではなかったでしょう。しかし、それほど頼みにされるような賢人バラムが、実は、ロバよりも愚かだった、という皮肉です 。そして、その目を塞(ふさ)ぎ、知恵を霞ませていたのは、彼の貪欲さだったのです。
 新約において、ペテロもユダも口を揃えて、バラムは利益を求めて何でもした、と非難します。「不義の報酬を愛したベオルの子バラム」と言われ、「利益のためにバラムの迷いに陥り」と言われるのです 。そして、バラムの行為は、他者に
「自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷なのです」
と言われるのですね。
 バラムは神々と語り、イスラエルの神の名が主であることにも通じていました。しかし、その心にあったのは、自分の利得、報酬を愛する貪りでした。パウロが言う通り、
 「むさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」
だとすると、バラムはどんなに敬虔そうな言葉を語り、もっともらしく主の言葉の通りに従いますと見得を切ったところで、その心の目は瞑っており、総身の知恵もたかが知れる他なかったのです。出掛けるときは、主が告げたことだけを語ろうと思い定めていたかもしれませんが、何歩も進まないうちに、もう彼の心はバラクからの報酬がどれだけになるかの算盤(そろばん)を弾(はじ)きはじめていて、早く前に進もうとばかり考えていたのではないでしょうか。
 そういうバラムをも、主は窘めつつ、怒りつつ、民を祝福するための器としてお用いになります。呪いを祝福に変えられます。でもそれは、言わば「外側から」の制御です。主に逆らう人がどんなに悪事を企んでも、その悪意を損ね(あるいは叶えることさえして)主は御心を成し遂げられます 。しかし、主が御自身の民に向かわれるときはそのようではありません。私たちの心に偶像や罪を秘めたまま、ただ外側で摂理的に働かれて万事を益としてくださる-そういうおつもりではありません。主は、私たちの心を取り扱われ、新しくしようとなさってくださる。これは、生易しいことでは決してありませんし、そのただ中にあっては、私たちはあらん限りの力を振り絞って抵抗しようとさえしてしまう事ですけれども、しかし、そのようにして、天の父が私たちを御自身の子として真摯に訓練してくださることは、測り知れない慰めに違いありません。御自身の民には、内側にも働いて、心を新しくしてくださる。したくないと願うことをもさせる、よりも、したいと願うように変えてくださる、それが御自身の民に対するお取り扱いであり、御心である。それは、バラムにはない、民に許された確信なのです。
 私たちの中にも、様々な形で、主ならぬものを愛し、頼り、すがろうとする偶像があります。それがないと、怒り、絶望し、自分を捧げてしまうものは偶像です。神が、これほど大いなるお方であるのに、まだ自分が中心となり、神への感謝よりも自分の損得を考えて突き進もうとしていることがないでしょうか。口先だけではしおらしくても、ロバならぬ何かが警告を発してくれているのに、自分の握り締めているものを突き進めようとしていることが、地上にある限りはあるものなのです。主がそれに気づかせて、本当に主にある喜びと自由をもって歩ませてくださることは感謝に堪えません。

「今、主の聖晩餐に与ります。私共の心を主によって真実に養ってください。エマオ途上で主がパンを取って祝福し裂いて弟子達に渡されたとき、弟子達の目が開けました 。私共の目も開いてください。十字架に証しされた祝福の道を、一心に進ませてください。主の細き御声を聞き分ける、よき心をも保って、あなた様だけに従い行かせてください」


文末脚注

1 Ⅱペテロ二章「15彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。19 その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷なのです。」、ユダ11「ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。」、黙示録二14「しかし、あなた[ペルガモ教会]には少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。」
2 民数記三一8「彼ら[イスラエルの軍隊]はその殺した者たちのほかに、ミデヤンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミデヤンの王たちを殺した。彼らはベオルの子バラムを剣で殺した。」、同16節「ああ、この女たちはバラムの事件のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行わせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ。」 その他の旧約のバラム批判は、申命記二三4-5、ヨシュア記十三22。
3  「罪がもたらす大きな皮肉の一つは人間が人間以上に、つまり神のようになろうと努力するとき、人間以下になり下がってしまうということにあります。自分が自分の髪になり、自分の栄光と権力のために生きると、誰よりも獣のような残酷さを帯びた行動を生み出します。高慢は、あなたを人ではなく、人を食い物にする者にするのです。」(ティモシー・ケラー『偽りの神々 かなわない夢と唯一の希望』(廣橋麻子訳、いのちのことば社、2012年)160頁。ここでも、バラムにロバが語っていることは、バラムがロバと同列になっている、いいえ、ロバ以下になっている、という事実を語っているのです。
4 脚注1参照。
5 Ⅱペテロ書二19。
6 コロサイ書三5。
7 このような事例は聖書にも随所にあります。ですから、私たちは、誰かが「用いられ」ているからといって、それがその人の救いや信仰深さを保証すると考えてはなりません。例えば、申命記十三一-五、Ⅰサムエル記十九23-24、ヨハネ伝十一51-52、マルコ伝九38-39、使徒十九13-16など。
8 ルカ伝二四30-31。バラムの目が開けたのは、自分の非を(渋々ではあっても)認めたときでした。

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