聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/8/30 エレミヤ書17章14~17節「預言者の涙 一書説教 エレミヤ書」

2020-08-29 11:34:55 | 一書説教
2020/8/30 エレミヤ書17章14~17節「預言者の涙 一書説教 エレミヤ書」[1]

前奏
招詞  イザヤ書2章3節
祈祷
賛美  讃美歌73「奇しき神」①③
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読  詩篇121篇(29) 
賛美  讃美歌259「天なる主イエスの」①②
聖書  エレミヤ書17章14~17節
説教  「涙の預言者 一書説教」古川和男牧師
賛美  讃美歌259 ③④
応答祈祷
報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌546「聖なるかな」
*祝祷
*後奏

 「エレミヤ書」の一書説教として「預言者の涙」としました[2]。今読んだ箇所もエレミヤの嘆きが吐露されています。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。聖書の歴史でも、最も悲惨な時期でした。紀元前7世紀。イスラエルの国が、神に背信を続け、社会に不正や暴力を満たして四百年、とうとう北の大国バビロンが侵攻してエルサレムの都が破壊される時代。その前後を、エレミヤは目撃しながら、民に罪を指摘して、主に立ち返るよう語ったのです[3]。

 しかし、エレミヤ書が悲惨で、重く暗いだけの書かといえば決してそうではありません。
29:11わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
31:3主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」

 このような慰めに満ちた言葉がエレミヤ書に語られます。25章には捕囚となって連れて行かれた人々が70年後に帰還する予告もされます[4]。
 31章には「新しい契約」が宣言されます。
33…わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。[5]

 このような慰めや希望に満ちた言葉が語られるのもエレミヤ書です[6]。将来、囚われた人も帰ってくる。主は災いではなく平安を与える計画がある。「新しい契約」を立てて、私たちの心に神の御心を記してくださる。だからこそその主に立ち返って、今、亡国の事実を見つめて、悔い改めなさい。この社会の悲惨、苦しみに喘いでいる人の声を聴いて、嘆きなさいと、エレミヤは語り続けました。でもそう語っても、聴いてもらえません。それどころか笑われたり、命を狙われたりする目にあうのです。その事が今日の箇所でも吐露されています。

17:14「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。15ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』

 聴いてくれるどころか馬鹿にされる。その嘆きが、随所に出てくる。預言者の内面の思いを最も伝えているのもエレミヤ書です[7]。この言葉も絞り出すように叫ばれているのでしょう。
16…私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。17私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。
 こう逞しく語っています。嘆き、癒やしを求めつつ、
「癒やされない日を望んだことはない」
と主に助けを確信しています。
 これは、エレミヤの成長でした。一章で、まだ若かったエレミヤが預言者として神に召された時、エレミヤは最初、辞退しようとしました。臆病でした。
6「私はまだ若くて、どう語って良いのか分かりません」

しかし、主は言われます。

7「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。
8彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」

 この言葉通り、主はエレミヤと一緒にいてくださいました。エレミヤが嘆き、疲れる時も、その言葉を受け止めてくださっています。いいえ、主ご自身が民のため、人間のため、傷ついて嘆きを忘れた人のために、なりふり構わず嘆いています。
 新改訳聖書では、一人称の「私・わたし」を、人間の場合は漢字の「私」、神やイエスの場合はひらがなで「わたし」と区別しています。これは親切なのですが、エレミヤ書はこれが難しいのです。どっちと訳していいのか分かれる。いや、あえてどっちとも読めるくらい、神とエレミヤが一つになって嘆いている。エレミヤの涙は主の涙でした。預言者の涙は、私たちのために嘆く神の涙です。だからエレミヤは自分の嘆きを恥じたり我慢したりせず、率直に吐露しています。同時に主を
「私の賛美…私の身の避け所です」
と告白しています。
「癒やされない日を待ち望んだこともありません」
と、主を待ち望み続けたのです。そういう意味では、嘆きつつ希望を語った主イエスの先取りなのです。
 エレミヤは、人の罪が招く悲惨を確り見つめて、指摘しました。避けられないバビロン軍によるエルサレム陥落を予告しつつ、その先にある希望を語りました。その最たる希望が
「新しい契約」
でした。エルサレム陥落なんて「最悪」と思える絶望的な出来事ですが、エレミヤは「最悪」に見える神のさばきの先にこそ、人が思いもつかない「新しい契約」を主が備えてくださっていると語ります。だから、その主に立ち返りなさいと強く語るのです。「回復」という言葉が最も多く出てくるのもエレミヤ書です[8]。悔い改めたら回復してあげよう、ではなく、私たちのために嘆いてくださる神の回復があるから、その神に立ち返りなさい、なのです。神の、大きくて、熱いご計画を、エレミヤ書は教えてくれます[9]。

「天地を造られた主よ。天地の法則が確かなように、あなたは私たちを確かに回復なさいます。今もあなたはここに働いて、心からの悔い改めと感謝を与えようとしておられます。私たちはその御国を信じます。だからこそ、エレミヤが語ったように、今の不正や現実を、嘆き、悲しみ、心を取り戻したいのです。そして深い、心からの賛美を喜び歌う日を迎えさせてください」
[1] http://www.sujp.org/biblereading.html
[2] 今回の参考として、ブルッゲマン『預言者の想像力』107~127頁、動画「エレミヤ書」(Bibleプロジェクト https://www.youtube.com/watch?v=mbmWnapAZhg)。
[3] エレミヤは、ヨシヤ王の時代に預言者として召されました。ヨシヤ王は敬虔な王で、偶像崇拝を一掃しようとしたのですが、強硬な改革で、本当の悔い改めにはならなかったようです。その息子のエホヤキム、更にその子のエホヤキン、次のゼデキヤ王の時、バビロン帝国軍がエルサレムを陥落して、残された民もまだ混沌としている。その50年の間を、預言者として活躍したのがエレミヤでした。
[4] 25:11-12「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。13わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。14 多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』」。ダニエルはこの言葉を知って、バビロンから祈っています。ダニエル書9章2節。
[5] 「新しい契約」の箇所を、もう少し前後を長く引用します。「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
[6] この他にも、次のような言葉は有名でしょう。9:23~24「 ──主はこう言われる──知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。──主のことば。』」、10:23~25「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。24 主よ、私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ、公正をもって。そうでなければ、私は無に帰してしまいます。25 あなたを知らない国々の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。」、13:23~24「クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。24 わたしは彼らを、荒野の風に吹き飛ばされる藁のように散らす。」、17:9~10「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。10 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」、20:8~9「私は、語るたびに大声を出して『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。主のことばが、一日中、私への嘲りのもととなり、笑いぐさとなるのです。9 私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。」、20:14 「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15 のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。」、23:7~8「それゆえ、見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた主は生きておられる』と言うことはなく、8 『イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた主は、生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」、同23~24「わたしは近くにいれば、神なのか。──主のことば──遠くにいれば、神ではないのか。24 人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。──主のことば──天にも地にも、わたしは満ちているではないか。──主のことば。」、29:4~7「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。7わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』」
[7] エレミヤの告白: 11:18-12:6、15:10-21、17:14-18、18:18-23、20:7-18。神との対話は、1:4-19,24:1-3
[8] エレミヤ書30:3「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──主は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」、18 ──主はこう言われる──見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。」、33:6「見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。7 わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。」、11「楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──主は言われる。」、26「わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」、48:47「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる。──主のことば。」ここまでがモアブへのさばきである。」、49:6「その後、わたしはアンモン人を回復させる。──主のことば。」、39「しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──主のことば。」
[9] エレミヤの名前は「主は基礎づける」とも「主は高められる」とも訳せます。「基礎づける」と「高める」は正反対のようですが、神は土台をしっかり据えられるからこそ、高められるお方です。大きな山は、裾野を広く持ち、人を下から支えているではありませんか。
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2020/8/30 エペソ書6章17~18節「光も思いも与える神」ニューシティカテキズム37

2020-08-28 15:52:23 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/8/30 エペソ書6章17~18節「光も思いも与える神」ニューシティカテキズム37

 夕拝では、しばらく「聖霊なる神」のお話をしています。天の父なる神様は、ひとり子イエス・キリストを私たちの救い主として、この世界の送ってくださいました。そのイエスは、私たちに聖霊を使わしてくださって、救いを受け取ることが出来るようにしてくださいます。この父と子と聖霊様の、連係プレーがあって、私たちは確かに救いに与るのです。今日はその続きを、「ニューシティカテキズム」の三七問から見ましょう。
第三十七問 聖霊は私たちをどのように助けてくださるのですか? 答 聖霊は私たちに罪を認めさせ、私たちを慰め、導き、霊的な賜物を与え、神に従う思いを与えてくださいます。そして私たちが祈ることができるよう、また神のみことばを理解できるようにしてくださます。

 聖霊は、私たちをどう助けてくださるのですか? ここには、七つのことが書かれています。
①罪を認めさせ、
②私たちを慰め、
③導き、
④霊的な賜物を与え、
⑤神に従う思いを与えてくれ、
⑥祈れるようになり、
⑦神の御言葉を理解させてくれる。

 聖霊が私たちを助けてくれるのは、このように豊かな内容です。主イエスは仰いました。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。 ヨハネ15:5

 ブドウの枝が、木につながっていれば、豊かな実を結びます。それは枝が、木から養分たっぷりの水をもらうからです。私たちもそうです。御霊が私たちに、キリストの豊かな恵みを届けてくださるから、豊かな命を得ます。罪を認めること、慰め、導き、霊的な賜物、神に従う思いをいただけます。もし聖霊様が私たちに働かれなければ、どうなるでしょう。折れた枝のようになります。枝は木から折られたら、枯れてしまいます。養分をもらわなければ、枝はゆっくりと朽ちます。枯れ枝になってしまいます。細々と生きていく、少ししか実を結べない、というどころではありません。枯れるのです。
 聖霊様が働かなければ、私たちも枯れるのです。私たちはイエス様から離れては、何もすることはできないのです。何も、です。何か出来るとしたら、それは、聖霊様が私たちに命を注いでくださっているからに他なりません。聖霊が私たちを助けてくださるとは、私たちが願う特別なことをしてくださる、というよりも、私たちが罪を認めたり、慰めや導きをいただき、なにかをすることが出来る、そのすべてが聖霊の助けなのだ、ということです。聖霊なしで、私たちができる限りの事をして、後の足りないところを、埋め合わせてくれる、というよりも大きな助けなのです。

 今日の説教題を「光も思いも与える神」としました。聖霊が私たちを助けてくださることを、光と思いで表せると思ったのです。聖霊様が私たちの心を照らすと、私たちの心に光が差し込んで、私たちは自分の罪が分かります。神である聖霊に、私たちは何も隠すことができません。だから、自分のあるがままの姿や、隠していたことにも気づきます。私は臆病で、怖くなってしまうと、自分の失敗を神様が何とかして隠して、ごまかせるように助けてくださいと願ってしまっていたものです。それは、聖霊が下さる光とは反対です。光は、隠すのではなく、隠さずに、正直にどんな問題も認めさせるのです。でも、それだけではありません。聖霊は、私たちに思いも下さるのです。隠そう、ごまかそうとした思いを、もう隠さない、正直に告白しよう。自分の願いのように神様がしてくれたらなぁ、という思いを変えて、神様が下さる慰めや導きよりも素晴らしいものはない!という思いに変えてくださるのです。

 今日、この聖霊の助けについて学びました。「ニューシティカテキズム」では、次の38問から「祈りについて」お話をして、第42問から「御言葉」についての内容になります。ですから、今日の37問で、聖霊の助けの最後に「私たちが祈ることができるよう、また神のみことばを理解できるようにしてくださいます」とあったのは、その導入でもあるわけです。聖霊の助けの中でも、特に大事なのは、私たちが、父なる神に祈ることができるようにしてくださること、そして、御言葉を理解できるようにしてくださる。祈りとみことば。私たちが神に話し、また、神の言葉を聴く。この神との交わりこそ、聖霊の助けの中でも最大の恵みです。最初に読んだ御言葉でもこうありました。
エペソ6:17救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。18あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

 兜、剣、と勇ましい言葉が続きます。ここでは「神の武具」という話が出て来ています。そこでも、最後に出てくるのは「神の言葉」と「祈り」だと気づいてください。私たちが聖書の言葉を理解して、神様に祈るようになる。これが、何よりも私たちを守るのです。それが聖霊が下さる助けです。祈りなんて要らない、聖書も読むのは面倒くさい、と思いますか? そんなことをしなくてもいいよう、聖霊が助けてくれたらな、と思う気持ちもないでしょうか。それが、聖霊の助けは、私たちがますます神様に祈るようになり、聖書を読まずにおれなくなる。神様をますます頼って、神の言葉によって強められる。そういう助けなのだ、とここから語っていくのです。

 先週お話ししたように、聖霊は「メガネ」のようです。

 メガネをかけるとメガネが見えるのでなく、周りが見えるようになります。聖霊が働くと、聖霊が見えるようになるのではなく、イエスが分かり、イエスの御言葉が分かるのです。イエスは愛のお方です。強いよりも、弱さを知り、涙を知り、悲しみを恐れないお方でした。聖霊の力も、私たちをスーパーマンや仙人のように変える力ではありません。イエスのように、人を愛し、傷つきやすくなり、弱さを思いやり、涙を流せるようになるのです。聖霊が下さる思いは、鉄の心ではなく、イエスの心なのです。そして、主イエスがいつも父なる神に祈っていたように、私たちも祈り、聖書に聴いていきましょう。聖霊が助けてくださいます。

「聖霊なる神よ、私たちを導いてください。私たちの心に潜んでいる罪に光を当ててください。私たちには重すぎる使命を成し遂げられるよう整えてください。あなたの喜ばれることを進んで行わせてください。真理のみことばを正しく理解できるようにとりなし、私たちの目を開いてください。アーメン」
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2020/8/23 ヨハネ伝14章16~17節「助け主なる神」ニューシティカテキズム36

2020-08-22 13:39:23 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/8/23 ヨハネ伝14章16~17節「助け主なる神」ニューシティカテキズム36

 夕拝で、お話をしている「ニュー・シティ・カテキズム」は、今日から最後の部分、第三部に入ります。
 今まで、第一部では「神・創造と堕落、律法」という土台の話を
 第二部では「キリスト、贖い、恵み」という福音の話をしてきました。
 ここからは、神が作られた世界で、救い主イエスの救いが、私たちにどのように届けられていくのか、をお話ししていきます。ただ、聖書のすばらしいお話を私たちが信じるとか、イエス様の救いを私たちが信じる、という以上のことが聖書の救いなのだと、今日から見ていきましょう。その最初に触れるのは、聖霊のことです。先週、信仰も神が下さる、神が信仰を聖霊によってプレゼントしてくださる、というお話をした、その流れです。

第三十六問 聖霊について私たちは何を信じていますか? 答 聖霊は神であり、父、子と共に永遠であり、神は信じるすべての者に聖霊を必ずお与えになります。

 「聖霊」という字を、パソコンで打ち込むと「精霊」と変換されるかもしれません。精霊とはフェアリー、妖精みたいなものですが、教会で言う聖霊は、神ご自身です。この世界のすべてを作り治めている、永遠で、父なる神、御子なるキリストと等しいお方です。その神である聖霊が、御父が決断し、イエス様が人となって果たされた救いの御業を私たちに届けてくださるのです。もっと言えば、神が聖霊なる神を私たちに与えてくださるのです。聖霊が来て下さることによって、私たちは、信じる心を持ち、イエス様の救いに与ることが出来ます。私たちが今、イエス様が少しずつでも分かっていくとしたら、信じたいと思い始めているとしたら、聖書の言葉が私たちの心に働いているとしたら、それは、他ならない聖霊のお働きによるのです。聖霊が私たちのところにきてくださらなければ、決して私たちは、信じることも救いを求める事も出来ません。
ヨハネ一四16そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。17この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
 主イエスはこう言われました。イエスが父にお願いして、父が私たちに与えてくださる助け主。それが聖霊です。神は、聖霊を通して、私たちに救いを届け、信仰を与えてくださいます。ですから、私たちが、キリストの救いをいただくことが出来るのです。
 聖霊は「この方」と言われています。聖霊は、神であられて、人格をお持ちです。イエス様と違って、目には見えませんし、父なる神よりももっと思い巡らしにくいですが、何よりも私たちに近くおられ、私たちを愛しておられる、人格的なお方です。聖書には、
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
という言い方も出て来ます(エペソ4:30 )。悲しまれ、喜ばれ、私たちを愛されるお方です。父なる神も、御子イエスも聖霊をただ遣わすだけでなく、愛しておられます。神は、深く深く愛しておられる聖霊を、私たちのうちに住まわせてくださっています。ですから、この方がただの助け手、力ではなく、心あるお方であることを思い出すために、「聖霊」と呼び捨てにするのではなく、「御聖霊」とか「聖霊様」と呼ぶのは相応しいことですし、私たちの心に聖霊への畏敬の念を呼び覚ましてくれます。本当に恐れ多いことに、聖霊なる神様が、私たちのうちに、信仰を届けて、救いを確かに届けてくださるのです。
 しかし聖霊は、「キリストの御霊」です。私たちにご自身を示そうとはなさいません。私たちが主イエスを知り、主イエスの仰った御言葉を理解するようにしてくださるのです。「聖霊が見たい、感じたい、体験したい」と思う人もいますが、聖霊のお働きは、私たちが主イエスを信頼し、主イエスに結びつくことにあります。中には、聖霊を体験した、身体が熱くなったり、感じたり出来るような出来事をした人もいます。そういう人もいれば、そうでない人もいます。大事なのは、何か特別な霊的体験をすることではなく、私たちがますます主イエスを信じ、イエスに結びつくこと。イエスを知って、イエスへの信仰を深められ、イエスに従うよう変えられていくこと。体験も憧れる気持ちも分かりますが、体験や奇蹟がなくて、信仰を吹き消すような状況の中でも、それでも主イエスに心を向けるような信仰を持っていくことです。それが、聖霊のお働きなのです。
 聖霊の働きは「メガネ」のようです。メガネをかけると、周りが見えるようになります。メガネが見えるようになるのではありません。「目が見える」というのも面白い言い方で、目が見えるのではなく、目の前にあるものが見えるようになるのです。聖霊が来て下さると、聖霊が見えるのではなく、主イエスが見えるように、心の目が開かれるのです。「聖霊は謙虚な神」とか「控えめな神」「慎ましい神」とも言われるのです。

 しかし、聖霊が私たちに働いて、イエスが見えるようになり、神の恵みによって、神の子どもとされたと知るなら、私たちは慎ましいとか、控えめ、遠慮がちに生きるはずがありません。主イエスは、弟子たちに
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」
と言われました(使徒1:8)。聖霊は、私たちに信仰や救いを与えるだけでなく、私たちをイエスの証しとしてくださるのです。神は私たちを通して、私たちの思いを超えた、大きな事をなさろうとしています。そしてそれは、私たちの心に信仰を持つという、目には見えない本当に地味なことからしか始まらない、とてもデリケートなことなのです。その結果、私たちは勇気を持ち、大胆になります。安心して、もっと自分らしく、本領を発揮して、面白い人になるはずです。
 今日も礼拝の最後に、祝福をします。主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、そして「聖霊の交わり」があるように。皆さんに聖霊が来て、働きかけて、主イエスの福音を豊かにいただけますように、そうして主イエスの証人として出て行きましょう。

「助け主、主よ。私たちに聖霊を送り、その御霊を私たちのうちに住まわせてくださり感謝します。聖霊が私たちを戒め、訓練し、力づけ、慰めてくださりありがとうございます。どうか私たちが自分の力に頼らず、御霊の助けによって、信仰の道を進むことができますように。どうか従順の道を歩み、喜びに満たされますように。アーメン」


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2020/8/23 マタイ伝9章35~38節「深く憐れむイエス」

2020-08-22 13:22:46 | マタイの福音書講解
前奏 
招詞  マタイ11章28~30節
祈祷
賛美  讃美歌71「造り主よ」①③
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読  詩篇23篇(6)
賛美  讃美歌504「実れる田の面は」①②
聖書  マタイの福音書9章35~38節
説教  「深く憐れむイエス」古川和男牧師
賛美  讃美歌504 ③④
応答祈祷
 報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌545下「父の御神に」
*祝祷
*後奏

2020/8/23 マタイ伝9章35~38節「深く憐れむイエス」
 主イエスの教えと奇蹟とを綴っていくマタイ福音書は、この九章の終わりで一区切りします。次の10章からは第二段階になります。35節の「イエスはすべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」は4章35節とほぼ同じ言葉で、4章から公式に始まったお働きがいったん総括されたと言えます。多くの人に語って、弟子も集まり、奇蹟も沢山なさった。その時、イエスは何を思ったのでしょうか。
36また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
 「深くあわれまれた」。この言葉は何度もお話ししていて、それでも思い出したい言葉で、内蔵(腸)から来ています[1]。「あわれむ」というと、同情、蔑む、「上から目線」という響きもないではありません[2]。そういう他人事(ひとごと)の「可哀想に」とは違います。他人事どころか、自分の腸、内蔵、心臓を動かされたのです[3]。日本語でも「断腸の思い」とか肝腎・肝心、心臓を鷲掴みにされる、胃が痛む、等の表現がありますが、この「深いあわれみ」「腸する」とでも訳すほかなかった言葉は、そんな深い痛みです。そもそも、この「腸する」という強い言葉も、神に使うことは決してなかったそうです。人間が誰かの惨状に、自分の内臓をえぐられるような思いをすることはある。けれども、人間とは違う神にはそんな痛みなどあるはずがない。神が痛むような神なら神ではない。そう思われたのです[4]。その神らしくない言葉が、イエスが群衆をご覧になって抱いた思いでした[5]。イエスは群衆を見て内臓を揺さぶられた。それは
彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからで
した。
 羊はとても弱い動物で、羊飼いがいないと餌も見つけられず、敵に襲われたら食べられるままになってしまうそうです。また聖書には、羊飼いがいても「雇われ羊飼い」で羊を構わない様子も出て来ますね[6]。羊飼いが羊を虐めたり、ほったらかしにしたり。「弱り果てて」は欄外で「あるいは「苦しめられて」」とありますが、英語では「ハラス」、ハラスメント(虐待)の動詞が使われています[7]。今でこそハラスメントが取り沙汰されていますが、今までも虐待やネグレクトは隠れてありました。同じようにイエスの時代も、全くの無法状態で、野戦病院やスラムのような社会ではありませんでした。王もおり、国もそれなりに機能して、戦争のない状態が続いていました。けれども、見えないところで本当のケアがされていない。人として必要な扱いがされていない。憎しみや敵意があり、罪の赦しも恵みもない[8]。戦争はないけれど、言葉や思いでの暴力が社会を覆っていた。その深い深い孤独を、イエスは悲しまれたのです[9]。
 特にこの時、イエスが既に
「すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気…わずらいを癒やされた」
後です。それだけの働きをしたのだから、群衆は元気になった、社会が良くなった、とイエスは満足された、という方が自然ではないでしょうか。あるいは、あわれんでいるだけでなく、癒やしたり力づけたりすることがイエスには出来たのではないでしょうか。しかし、イエスは人が、病気の癒やしや教えでは簡単に癒やせない深い苦しみをもっているとご存じだからこそ、深く心を痛められたのです。イエスがここで見せた深いあわれみは、イエスが人間の苦しみを深く知っておられることの証拠です。
 しかしそれは無力なあわれみではありません。イエスは深くあわれんでこう仰います。
37そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
 収穫! イエスはこの弱り果てて倒れている人に内臓が痛むほどの思いを抱きつつ、その人々を「収穫」、豊かに実って喜んで刈り取られるのを待っている作物と見ています。荒れ地、不毛の地、とは見ず、収穫は多いと言われます。神は収穫の主であって、ご自分の収穫を決して無にはなさらないと信じています。そして弟子たちにも、「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われるのです[10]。
 この後、イエスは弟子の中から特に12人を選んで派遣します。でも、その前にイエスは
「収穫の主に働き手を送ってくださるように祈りなさい
と言われました。働き手になれ、収穫に出て行け、人々を世話しなさい、と言われるより、祈りなさい、と言われました。弟子の全員が、イエスの深い憐れみに押し出されて
「働き手を送って下さい」
と祈る。それなら誰でも出来ることです。そしてそう祈る時、この世界を深い憐れみをもって見ておられるイエスの眼差しで見るようになります。この世界が、神の畑であって、ここに豊かな命を実らせる神がおられることを見るようになります。そのためにも命じられたのは
「祈りなさい」
なのです。
 大勢の人を教え、癒やし、触れたイエスさえ簡単に解決しようとはなさらなかった、深い苦しみ、虐げがこの世界にはあります。それを癒やすのは、奇蹟の力ではないのです。人が主イエスのあわれみの心と、収穫の主への信頼を持つことによってなのです。主イエスの深い憐れみと、神への希望を、祈り続けるうちに私たちはいただきたいと願います。
 その一歩として、今日は、この御言葉に沿って祈りましょう。

「主よ、あなたは私たちを見て深くあわれんでくださいました。羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れているのをご覧になる方です。収穫の主よ、どうぞあなたの収穫のために働き手を送ってください。そして、私たちがあなたの深い憐れみをいただいていることを絶えず覚え、私たちの周りの人もそれを必要とする人であることを見ていけますように」

脚注

[1] スプランクニゾマイ。マタイでは5回用いられます。14:14「イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。」、15:32「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」、18:27「家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。」、20:34「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」」
[2] 『広辞苑』では「あわれ・む【哀れむ・憐れむ】 アハレム〔他五〕 (1)《哀》賞美する。愛する。源氏物語(若菜下)「女は春を―・む」 (2)ふびんに思う。同情する。気の毒に思う。今昔物語集(1)「これを―・みて抱き取りて箭(や)を抜きて」。「狭い了見を―・みさげすむ」「難民の境遇を―・む」 (3)慈悲の心をかける。めぐむ。今昔物語集(1)「衆生を―・み給はむが為に、はやく閻浮提に下り給へ」と定義されています。
[3] また、新約聖書の土台となる旧約聖書のヘブル語では「レハミーム」という言いますが、この言葉は「子宮」から来ています。母が胎を痛めて産んだ子どもに対する「あわれみ」(母性的愛)を、聖書の神である主は人に対して抱かれるのです。
[4] 加藤常昭『マタイによる福音書2』より。
[5] ある意味では、イエスは「神であることを止めた神」とさえ言える。イエスは、神らしくない神だ。教会は、神のために存在するとも言えるが、その神は人間のためにご自身を捨てることをためらわなかった神である。教会が教会のために存在せず、他者のために生き、死なれたキリストの教会として、痛みを持って、しかし希望をもって、祈りをもって生きる。それが教会の召し。
[6] 「羊飼いのいない羊の群れ」というモチーフは、旧約聖書にたびたび用いられています。①指導者がいない状態(民数記27:17「彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」)、②指導者(王)が無責任である無法状態(列王記第一22:17「彼は答えた。「私は全イスラエルが山々に散らされているのを見た。まるで、羊飼いのいない羊の群れのように。そのとき主はこう言われた。『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ。』」、歴代誌第二18:16)、③支配者が利権を求め、弱者をないがしろにしている状態(エゼキエル書34:3-4「あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。4弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。」、④偽りの占いやむなしい慰めで人々が翻弄されている状態(ゼカリア10:2「テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。夢見る者は意味のないことを語り、空しい慰めを与える。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。」)。また、有名なヨハネの福音書10章の「良い牧者」の教えでも「12牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。13彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。」と言われています。
[7] ESV英語標準訳。
[8] この「弱り果てて」は、マタイで強調していることで言えば、罪の赦しを知らないことから来る。そのヒントは、この直前で、主の癒やしを見て、群衆はイエスに自分本位の期待を膨らませ、パリサイ人たちは「悪霊のかしらの力だ」と難癖をつけることに現れているだろう。神の赦しを知らず、傷つき、諦め、孤独だと思っている「弱り果て」である。私たちは、和解・癒やし・赦しがあることを信じる。
[9] ウェストミンスター小教理問答17、19「堕落は、人類をどんな状態に落としましたか。 答 堕落は人類を、罪と悲惨の状態に落としました。…問19人が堕落した状態の悲惨とは、何ですか。 答 全人類は、堕落によって神との交わりを失いました。今は神の怒りとのろいの下にあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と死そのものと永遠の地獄の刑罰との責めを負わされています。」そして、問20「神は全人類を、罪と悲惨の状態のうちに滅びるままにされましたか。 答 神は、全くの御好意によって、永遠の昔から、ある人々を永遠の命に選んでおられたので、彼らと恵みの契約を結ばれました。それは、ひとりのあがない主によって、彼らを罪と悲惨の状態から救助して、救いの状態に入れるためです。」!
[10] 「この教会」の「収穫」(=伝道による人集め・会員増強)ではありません。教会は伝道を、神のわざ全体、世界の神の民の大きな歩みの中で捉えるよう召されています。

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2020/8/16 テトス書3章4~6節「神は信仰もくださいます」ニューシティカテキズム35

2020-08-15 14:37:02 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/8/16 テトス書3章4~6節「神は信仰もくださいます」ニューシティカテキズム35

 神は信仰も下さいます。「も」というのは、これまで夕拝でお話ししてきたように、聖書の教えや、イエス・キリストも神が下さったものでした。神は私たちに、罪の赦しも下さり、救いも下さいます。この救いを神からいただくのに、私たちは良い行いとか、何か条件を求められることはありません。ただ、信仰だけでいただけるのです。信仰だけで。では、その信仰は、私たちが一生懸命信じなければならないのでしょうか? いいえ、その信仰も、神が下さるのです! 今日はその事をお話しします。
第三十五問 私たちが恵みのみ、また信仰のみによって贖われたのであれば、この信仰はどこからくるのですか?
答 私たちがキリストから受けるすべての贈り物は、信仰も含め聖霊を通して受け取るのです。
 信仰のみでもらえる、と言っても、その信仰だって、神が私たちに下さった贈り物。だから、私たちは「神様が信じるだけで救ってくださるって言っても、その信じる信仰が自分には足りないなぁ」なんて考えなくていいのです。また、「イエス様を信じるだけでいい」って言っていながら、その最後の信仰を自慢したり、強制したり、信仰が足りないって責めたりすることも、しなくていいんです。だって、信仰も神様が下さる贈り物なのですから。私たちが、救われたい、イエスを信じたい、この福音に預かりたい。そういう思いそのものが、人間が自分で持つことは出来ません。救い主であるイエス・キリストとの出会いそのものが、神からのプレゼントなのです。
テトス三4しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、5神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。6神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
 神が現れたとき、私たちが救われるのは、私たちの正しい行いではなく、聖霊なる神が、私たちの中で、再生(もう一度、生きるようになること)と刷新(すっかり新しくしてくれること)をなしてくださるのです。これは、神がイエス・キリストによって成就した贖いを、聖霊によって私たちの心や生き方に届けてくださる出来事です。只管、神の御業です。そうでないと、私たちは救いを求めることも、信じることも、罪を認めることも決して出来ません。いくら神が素晴らしい救いや、慰めに満ちた言葉や、励ましや喜びに満ちたお祝いを約束してくださっても、それを信じるかどうかはあなた次第ですよ、となったら、私たちの心に任されてしまうなら、私たちは神よりも自分を求めようとしてしまうでしょう。聖霊が私たちの心に命を吹き込んでくださって初めて、私たちの心は神との和解、神の子どもとしての生き方を踏み出すことが出来るのです。
 そして、私たちはだんだん年をとれば、頭も働かなくなって、聖書の御言葉も、イエスの名前も忘れるかもしれません。自分が誰かさえ、分からなくなることがあります。信仰どころではなくなります。それで私たちが神との関係も保てなくなるのだとしたら悲惨です。でも、救いは、信仰まで含めてすべて、聖霊のお働きです。すべてを下さる神は、私を救おう、と願って下さったのです。「信じたら救おう、信じなかったら残念でした」ではなく、信じる心も力も贈り物としてくださるのです。もし年をとったり病気になったり、脳死になったりして、信じる力を失っても、それでも神は決して私たちを諦めたり手放したりはなさらないのです。聖霊が私たちを確り捉えてくださるのです。
 「猫の法則と猿の法則」ということを教えてくれた先生がいました。猿は、赤ちゃんを運ぶとき、こどもがお母さんにしっかり捕まります。子どもが手を離したら、落ちてしまいます。お母さん猿がどんなにしっかりしていても、子どもがよそ見をしたりしたら一巻の終わりになります。子どもが一生懸命捕まっていても、最後の最後で手を離してしまうかもしれません。油断は出来ない、安心できない関係です。

 これと同じように、神様の救いが大きくても、それを信じるあなたの努力も必要、という考えは、多くの宗教に、そして、キリスト教の中にもあります。もう一つの「猫の法則」はどうでしょう。
 猫の赤ちゃんは、お母さんが首を加えて運びます。赤ちゃん猫がいくら暴れたりよそ見をしたりうっかりしても、お母さんはますます首をしっかり加えるでしょう。お母さん猫が子ども猫に協力を求めたり、しっかり捕まってなきゃダメよと脅したりすることはありません。お母さんは、子どもではなく、自分を信頼します。勿論、お母さんですから、赤ちゃんを育て、しつけて教えます。子どもは段々成長し、たくましくなっていきます。いつまでも受け身で赤ちゃんのままでいるわけではありません。お母さんの大きな愛の中で、赤ちゃん猫は訓練されたり成長したりするのです。これが「猫の法則」です。

 神様の救いは、この猫の法則のように、神様の側にかかっています。私たちの信仰や努力次第、ではなく、信仰も努力も、神が父となって私たちを育ててくださる贈り物なのです。だから、私たちは最後まで安心できます。そして、その確りとした神との関係の中でこそ、思い上がることなく、謙虚に、そして安心して成長していくのです。
 このような救いを強調するのは、私たちの教会の特徴です。鳴門キリスト教会は「日本長老教会」の教会ですが、長老教会の立つ「改革主義」という神学の特徴は「神の主権」の告白です。神に100パーセントの主権がある。99が神で、最後の1はあなた次第、では決してない。神様が100なのです。そういう信仰が、私たち長老教会の特徴の一つです。神が私を救ってくださる。私たちに信仰を下さったのも神様。すべての良いものは神様から来る。そして、神は私たちに、すべての良いものを惜しみなく下さる、良いお方です。すべては神様の恵み、すべては聖霊が私たちに届けて下さっている贈り物。これからも信仰も、知恵も、忍耐も、喜びも、どうぞ神様私たちにお与え下さい。そう告白しながら、私たちは、神様を礼拝し、神の子どもとして生きていくのです。

「聖霊なる神よ、罪過と罪との中に死んでいたためあなたを求めることができなかった私たちを、あなたは追い求めてくださいました。信仰はあなたからの賜物です。石の心を肉の心に造り替えられる主の救いの恵みがなければ、私たちは誰一人として信仰を持つことはできませんでした。受けるに値しない憐れみを私たちは得たのですから、どうか私たちが誇ることのないように助けてください。アーメン」
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