聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/3/28 創世記3章1-7節「へびのうそ」こども聖書⑨

2021-03-27 12:52:39 | こども聖書
2021/3/28 創世記3章1-7節「へびのうそ」こども聖書⑨

さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
2女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。
4すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
6そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
7こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの派をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。

 今日は、世界の教会が「棕櫚の主日」と呼んでいる、一年に一度の日曜日です。そして来週の日曜日は「イースター」(復活節)という、一年で最も嬉しい日曜日です。今では日本のあちこちでもイースターのお祝いを見かけます。カラフルな卵や兎が出て来るお祝いです。その前の今週は、イエス・キリストが私たちのために、十字架にかかる、最後の一週間をお過ごしになったことを、覚えるのです。それが今週の「受難週」です。今日は、なぜキリストの十字架が必要になってしまったのかをお話ししましょう。

 神様が作られた世界は、すばらしい、よい世界でした。そこに置かれた人間は、神様を信頼して、互いに助け合っていました。

 そこに、蛇が近づいて来たのです。

ある日、蛇がエバに話しかけてきました。「あなたがたは、庭のどんな木からも食べてはならない、と神は本当に言われたのですか。」「いいえ、庭にある木の実は食べて良いと言われました。ただ、庭の真ん中にある木だけは食べてはならない、それにさわると死んでしまう、と言われました。」「とんでもない! 死ぬもんですか。」とずる賢い蛇は、シューと息を吐きながら続けます。「あの甘い実をあなたがたが食べたら、神のように賢くなることを、神は知っておられるのですよ。」エバはあの実を見つめました。今にも手の中に落ちてきそうです。とても美味しそうに見えました。とうとうエバはその実をもぎとり、食べてしまいました。

 この木の実は、神がアダムとエバに、これだけは取って食べてはならない、と命じておられた木でした。他の木はすべて食べて良いのです。何十か、何千もの木の中で、たった一本だけ、その木の実は食べない、という約束で、神はアダムとエバが神に従うことを学ばせようとしておられました。エバは、その禁止を覚えていました。ちょっと間違っているのは、触ると死んでしまう、などとは言っていなかったのですね。それはエバの間違いか、アダムが伝え間違ったのか、なぜか誤解してしまっています。そこで、蛇は「とんでもない、死ぬもんですか。」と言って、あの実を食べたら死ぬどころか、神のように賢くなるよ、それなのに神はあなたがたに食べるなと言っているのだよ、と吹き込んでいるのです。そう言われてその実を見ていると、とても美味しそうに見えてきてしまいます。エバはその実が食べたくなり、ついに口に入れてしまいました。

エバはこの実をアダムに分け与えました。アダムも一口食べてみました。その途端、何が起こったでしょう。二人は突然、恥ずかしくなったのです。裸であることに気づいたのです。慌てて、葉をかき集め、簡単な服を作り、茂みに隠れました。その時、神様の声が聞こえて来ました。「アダム、エバ、どこにいるのかい?」アダムはこそこそと出て行き、自分たちがしてしまったことを話しました。神様はどんなに悲しまれたことでしょう。神様は、エバを騙した蛇を呪いました。そしてアダムとエバには、この庭から出ていくように言われました。この日からアダムは家族のために一生懸命働かなければならなくなり、エバは子どもを産む苦しみが与えられることになりました。そして最後に死ぬのです。

 蛇の言葉を信じてしまったエバとアダムは、この庭(エデンの園)から出て行かなければならなくなりました。二人はエデンで今までも働いていましたが、これからは今まで以上に汗水流して一生懸命働いて、それでも仕事が回らなくなりました。今までも、エバは子どもを産む役目がありました。でも、その子どもを苦しんで産んで、せっかく産んだ子どもにも悲しまされ苦しみを与えられるようになってしまいました。そして、最後には誰もが死ななければならなくなりました。
 蛇の言葉は本当だったでしょうか。確かに、触るだけでも死ぬわけではありませんでした。アダムとエバが木の実を取って、食べても直ぐには死にませんでした。けれども、食べても神のように賢くなりはしませんでした。目が見えたとき、自分たちが裸であることが分かり、恥ずかしくなって、隠れるようになったのです。神のようになる、なんて嘘でした。それ以上に大きな嘘があります。それは、神様が私たちに意地悪だ、私たちに隠し事をしている、という嘘です。本当はもっと幸せになれるのに、神様はそれをご存じでいながら、教えないのだ、という嘘です。何かあれば、それは神様が私たちを愛していない証拠だ、という嘘です。蛇の嘘の一番大きな嘘は、神様というお方を愛さなくさせる嘘でした。神様の恵みを小さく卑しくして、疑わせてしまう嘘です。そしてその蛇の嘘が今でも、すべての人の中に染みついています。

 けれども、本当の神様は、蛇の嘘よりも遙かに大きく、すばらしく、恵みに満ちているお方です。ですから、この時も、約束を破った人間をお怒りになって、即座に死なすことはなさいませんでした。園から追い出して、苦しみや死に至る生涯を歩むようになったのも、そこにも神様の良いご計画がありました。アダムとエバを園から追放した後、神様ご自身も園から出てこられて、アダムとエバを追いかけてくださるのです。神様から離れていく人間を、諦めずに追い求めて、神様を信頼して、神の言葉に従うよう、求め呼びかけてくださるのです。人間を騙した蛇や悪いものを、しっかりと呪って、疑いや恥ずかしさが入ってしまったこの世界を、完全に元通りにしてくださるご計画が、このあと始まるのです。それがこの後の、聖書の物語です。

 そのクライマックスが受難週とイースターです。

 神であるイエス・キリストご自身が、この世界に来られました。苦しむようになった人間となり、働いて、最後は裸にされて、死んでくださいました。神の子イエス様は、人の苦しみをともに味わってくださいました。どんなに神の愛を疑わせるような言葉を浴びせられても、神の言葉に従い尽くしてくださいました。神のようになろうとして、裸でしかない私たちを、イエスは愛して、ご自身を献げてくださった。それが、本当の神様です。それが、蛇の大嘘とエデンの園での大失敗をもそのままで終わらせなかった、神の回復の物語なのです。今週の受難週、私たちのためにイエスが最も低くなってくださったことを覚えてます。そのイエス様が、私たちを取り戻してくださる。これこそが、嘘ではない、本当の私たちの物語です。

「私たちの主よ、蛇のどんな嘘にも勝り、あなたは真実であり、御言葉は真理です。嘘を信じ約束を破った子孫の私たちを、真理であるあなたと御言葉への信頼へと、恵みによって立ち戻らせてください。主イエスのいのちによって私たちを死から救い、この世界であなたを賛美させてください。主の苦しみと憐れみを味わう受難週としてください」
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2021/3/28 ローマ書5章1~11節「救い主の死の力」

2021-03-27 12:35:18 | ローマ書
2021/3/28 ローマ書5章1~11節「救い主の死の力」

 3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。…

は有名です。苦難、忍耐、練られた品性(練達)[1]、希望。とても美しい言葉です。しかし、この言葉だけを取り出すなら
「自分にはそうは思えない。私は信仰が弱いからこんな立派なことまではとても言えない」
と思うことになるでしょう。
 この手紙の3~5章では、「私たち」著者と「あなたがた」読者という区別は一度もせず、ずっと読者も含めた「私たち」と言うのです。つまり、この手紙を読む誰もが、十字架にかかり、よみがえったイエスを信じているなら、罪の赦しだけでなく、
「私も神との平和を持っていて、「苦難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を生み出すと知っています」
と言えるのです[2]。どうしてでしょう?
…なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 そして、その愛がどんなものか、が6節以下に語られていきます[3]。それは、一言で言えば、
6実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
7正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 6節と8節で重ねているように、神の愛は、私たちがまだ弱かった頃(まだ罪人であったとき)キリストは不敬虔な者たちのために(私たちのために)死なれた。それが、神の愛とはどんな愛か、を私たちに明らかにしているのです。私が正しかったから、善良だったから、ではないし、それを自覚し反省していたからでもありません。まだ、弱かった頃、何も差し出せる強みがなかった頃、神の方からキリストを遣わして、キリストは死んでくださいました。

 今週は主の苦しみを覚える受難週です。キリストの人としての生涯全体が、計り知れない謙りと献身でした。特にその最後の一週間、十字架に殺されるエルサレムで人々に語り、裏切る弟子たちの足を洗い、苦しみへの道を歩まれました。
 手足を釘で打ち、磔にする十字架という人間が考え出した最も残酷な拷問も、人から笑われて誤解され、憎まれて呪われる苦しみも、私たちの経験を遙かに超える最期でした。
 何より、父なる神から見捨てられ、私たちの代わりに罪への怒りを身に負われた苦痛は、私たちの想像を絶しています。そうしてイエスがご自分のいのちを与えきってくださったのは、私たちがまだ罪人であって、罪人だという自覚もなかった時でした。私たちが救われたいと願うとか、救われるに値する何か欠片の資質でもあったからではなく、そんなものが全く持ちようもない時に、先にキリストが死んで下さったのです。
 人間の側からすれば、自分たちが一生懸命憐れみに縋って願えば、神も憐れんで救うぐらいはしてくださるかもしれない、という発想です。だから罪が赦されるだけでも御の字、と思います。しかし、神の側からすれば、人間が願うより先に、キリストのあの苦難と死をも惜しまなかったのです。それは神が、人間の罪を「赦してあげよう」とか、「これだけしてあげたんだから」と恩着せがましくするような事ではない愛です。まず神が、私たちを愛し、赦しと平和と将来栄光にあずからせようと願っておられ、先に行動された神の愛を明らかにしています。
 9ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。[4]

 「敵」と「和解」。反対の言葉です。「敵との平和」なんて矛盾しています。それが神の愛なのです。敵が降参したらではなく、敵であった時に命を捨てて、敵対(反逆)を赦し、敵をひっくり返して和解し、永遠に平和な関係を下さいました。ですから、私たちは罪が赦されただけでなく、「神との平和」を持っています。また、苦難にあってそれを「愛の神も何かお怒りに違いない」と思ったりせず、キリストが私たちのために苦しまれたのですから、苦難は神の怒りではない、むしろその苦難を通して神は私たちの心を練られて、希望を持たせたいのだと信じるのです。
11それだけではなく[5]、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
 神との和解! それは私たちにとって、神が喜びとなる出来事です。それは、神がまず私たちを愛し、喜んでおられると知るからです。キリストが、今から二千年前、本当にあのカルバリの丘で十字架にかかってくださいました。本当に、私たちのために苦しみと死を遂げてくださいました。人が赦しや救いを神妙に願うより先に、罪人であり敵対していた時に、でした。
 私たちは、神との平和を持ち、将来、神の栄光にあずかる望みも喜んでいて、苦難さえも希望に至るためだと知らされています。
 キリストが私たちのために、私たちに先駆けて、あれほどの苦しみを受けてくださったことは、神の私たちに対する大きな愛を現しています。
 その光の中で、私たちは、神との平和を持つ者として、どんな苦難をも新しい目で見始めています。

「主よ。あなたの苦難と死は私たちの想像を絶しています。そこで担われた私たちの罪の大きさも理解できません。それ以上に、罪ある私たちを担われたあなたの愛の大きさを、深さを味わい知らせてください。そこに明らかにされた神の愛を、もう一度私たちの心に注いでください。罪の赦しと、神との平和を持つ者として、遣わしてください。罪の欺きから目覚め、あなたの恵みに忍耐と品性を培ってください。この受難週、主を想い静まって過ごさせてください」

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。7正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。9ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。11それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

脚注

[1] 「練られた品性」ドキメーは「練達」と訳されて、長くこう暗記してきた方も多いでしょう。原意は「証拠」です。

[2] 今日のローマ人への手紙5章は、4章最後の言葉を受けて、救いを豊かに展開する章です。ローマ4章25節「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。五1こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。…」と続くのです。主イエス・キリストによって、私たちは神との平和を持っている。

[3] 「ご自身の愛」は、強調形ヘアウトゥー・アガペーです。一般的な「彼の愛」アガペー・アウトゥーよりも強い言い方になっています。

[4] 神は私たちに対する愛を、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって明らかにされた。それを、私たちは信じるのだ。私たちの信仰が根拠になって、キリストが私たちを救って下さるのではない。キリストが救って下さる愛が根拠になって、私たちは信じる。そこには、神との平和、栄光にあずかる望み、苦難を通しての希望さえ含まれている。

[5] 「それだけではなく」は、3,11節で繰り返されています。こうして福音が、罪の赦しだけでなく、平和・望み・苦難さえも喜び、和解・救いだけでなく、神を喜ぶことさえ含んだ豊かなものであることをイメージさせています。「神との平和」は、単なる「休戦状態」や表面的な和平以上のものです。それが、「神を喜んでいる」という言葉で言い表されています。旧約の「シャローム」という言葉に含まれているのは、繁栄・完全さ・祝福であり、用法をたぐっていくならば、「支払い済み」というニュアンスがあるとも言えます。私たちは、キリストによって、すべての「支払い」がもう済んでいると確信できるのです。考えられないほどの恵みです!

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2021/3/21 マタイ伝17章24~27節「魚の口から」

2021-03-20 12:41:45 | マタイの福音書講解
2021/3/21 マタイ伝17章24~27節「魚の口から」

 魚の口から銀貨が見つかる。イエスがなさった多くの奇蹟の中でも、特に珍しい記事です。そもそもこれを奇蹟と呼んでいいのかも分かりません。手っ取り早く、会計係の財布から出してもいいし、これが出来るぐらいなら弟子たち十二人全員の神殿税を払うことだって出来たでしょうに、魚の口から銀貨一枚。手品みたいで、「遊び」と呼んだ方がしっくり来ます。

マタイ17:24彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」25彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」

 この「神殿税」は、欄外にありますように「二ドラクマ」という言葉です[1]。当時の二日分の労賃です。これがユダヤ人の毎年神殿に納めることになっていたお金でした。これは、出エジプト記30章11~16節に定められていたものです[2]。そこには「償い」としてこうあります。

出エジプト30:11~16…自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。…聖所のシェケルで半シェケル。…償いのための銀…を会見の天幕の用に充てる。…

 この半シェケルがイエスの時代の二ドラクマに当たりますが、
「償い金」(贖い)
と言われています。自分の代わりの半シェケルなのです。神の民はみんな神のものです。そしてその納められたお金を「会見の天幕の用」、後には神殿の維持や必要のために用いる。だから「神殿税」と呼ぶのですが、それは税金という以上に、
「私たちは主の民として、私たちは丸ごと主のものです。そのしるしとして、毎年二ドラクマを納めます。私の代わりに、神殿のため、礼拝のためにお用いください」。
 そういう献身の意味が本来は込められていたのです。
 24節で神殿税の集金人たちがペテロに
「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか」
と聞きます。イエスが当時の習慣の、安息日の制限[3]とか宗教的な手洗い[4]、律法学者やパリサイ人への尊敬から自由だったので、神殿税も納めなくても不思議ではないと思ったのでしょう。ペテロが
「納めます」
と言ったのは、既にイエスが毎年神殿税を納めていたのを見ていたからでしょう。律法の肝心な所はイエスも、後の弟子たちも守っていたのです[5]。しかし、そうはいっても、ペテロの心にはカチンとくるものがあったのかもしれません。
 そのペテロの機(き)先(せん)を制するように、イエスの方から声をかけます。しかも本名で、
…シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。」
 王は子どもたちから税金を取りはしない。特にこの16章17章で、イエスが神の子である、という事がハッキリと確認されたばかりです[6]。イエスには天の父に税金を納める義務はありません[7]。イエスの弟子たちも、そのイエスの庇護の元で免税されることを期待してもいいでしょう。イエスがここでペテロが口を開くより先に、イエスの方から質問したことを、ここでは強調した珍しい言い方をしています[8]。まずイエスから。それは、ペテロの心にあった、神殿税を納める事への忸怩たる思い、払う義務がなければ払いたくない、どうなんですかイエス様、という思いを汲んだからでしょう。イエスはそれを組んで「その義務はないのです」
27しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
と言われます。
「つまずかせないために」。
 神殿税を納める義務はない。でも、この神殿税を集める人たちをつまずかせたくない。「義務はない、自由にして何が悪い」と権利を振りかざしかねないペテロを先回りするように、「どう思うか、そう義務はない、だけどつまずかせないために、しよう」。そう仰るのです。そして、次の18章では6節から「つまずき」の問題が丁寧に取り扱われていくのです[9]。これがこの箇所で一番のポイントでしょう。[10]

 直前の22、23節でイエスはご自分の死と復活を再び予告しました[11]。その「人々」は大祭司や神殿の運営者側の人々です。この「つまずかせないため」も、事を荒立てたらいけない、悶着を起こさぬよう、という義務感ではありません。本当に、「彼らに躓いてほしくない」、生きてほしい。本当に彼らを思いやった態度です。そして、やがては、ご自分の十字架をもって、私たちの代価を払ってくださいました。半シェケルという律法が指していたのは、やがて神の子キリストが人のために、ご自身のいのちを支払ってくださる、という代価です。それだって、神の「義務」ではないのに、私たちが滅びてほしくない、という惜しみない愛からでした[12]。

 そして最後も、釣った魚の口に銀貨だ、予想もしない方法でペテロに二人分の神殿税を納めさせました。義務感で犠牲を払うとか、躓かせたらいけないという我慢よりも伸びやかな、本当に自由な、遊び心のある道をイエスはペテロに示してくださいました。今でもガリラヤ湖のレストランでピーターズフィッシュを注文すると、口に銀貨を仕込んだ魚料理が出て来るそうです[13]。そんな遊びに繋がるようなことをイエスは頑固なペテロにしてくださいました。
 必要も無いのに、こんなユーモアたっぷりの方法をしてくださいました。
 義務はないのに、ご自分の分だけでなく、ペテロの分まで払ってくださいました。
 義務感からではなく、溢れる愛をもって、そして思いがけない方法を楽しませながら、ペテロと歩まれたのでした。
 そのイエスが、私たちのための神殿税をご自身の命で払ってくださいました。私たちも主のものです。義務からの解放と、自分と他者への思いやりを与えられ、小さな楽しみを鏤められているのです。[14]

「夢の森のブログ」より

「主よ。私たちはあなたのものです。あなたが私たちを愛し、躓きから救い出し、躓いてももう一度立ち上がらせてくださいます。どうぞ、恵みによる自由を噛みしめさせてください。あなたの子とされている特権を、解放を味わわせてください。そして、あなたが私たちに備えてくださっている小さな喜びを、毎日の中の奇蹟を見つけて、それを分かち合っていくことが出来ますように。大きなあなたの慈しみが、私たちの生活の隅々にまで命を吹き込みますように」

[1] ディドラクマ。「ドラクマが二つ」という文ではなく、一つの単語です。この一語で、出エジプト記30章11~16節で言われている神殿税を指します。

[2] 出エジプト記30章11~16節「主はモーセに告げられた。「12あなたがイスラエルの子らの登録のためにその頭数を調べるとき、各人はその登録にあたり、自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録にあたり、彼らにわざわいが起こらないようにするためである。13登録される者がそれぞれ納めるのは、これである。 聖所のシェケルで半シェケル。一シェケルは二十ゲラで、半シェケルが主への奉納物である。14二十歳またそれ以上の者で、登録される者はみな、主にこの奉納物を納める。15あなたがたのたましいのために宥めを行おうと、主に奉納物を納めるときには、 富む人も半シェケルより多く払ってはならず、 貧しい人もそれより少なく払ってはならない。16イスラエルの子らから償いのための銀を受け取ったなら、それを会見の天幕の用に充てる。 こうしてそれは、イスラエルの子らにとって、 あなたがたのたましいに宥めがなされたことに対する、主の前での記念となる。」」

[3] マタイの福音書12章1~14節参照。

[4] マタイの福音書15章1~11節参照。

[5] 使徒の働き21章20節「彼ら(エルサレム教会の長老たち)はこれ(パウロの異邦人伝道の報告)を聞いて神をほめたたえ、パウロに言った。「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。」」

[6] マタイの福音書16章17節「すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」、17章5節「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。」

[7] 26節の「その義務はない」は、「自由であるエリューセロイ」という言葉です。これは、奴隷との対比で語られる、自由人としての立場を現しています。新約聖書の用例:ヨハネ8:33(彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」)、8:36(ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです)、ローマ6:20(あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。)、7:3(したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません。)、Ⅰコリント7:21(あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。22主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。)、7:39(妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。)、9:1(私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。)、9:19(私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。)、12:13(私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。)、ガラテヤ3:28(ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。)、4:22(アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。23女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。)、26(しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。)、30(しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」31こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。)、エペソ6:8(奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。)、コロサイ人3:11(そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。)、Ⅰペテロ2:16(自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。)、ヨハネの黙示録6:15(地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。)、13:16(また獣は、すべての者に、すなわち、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。)、19:18(王たちの肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ。」)

[8] プロエフサセン。動詞プロエフサノーは新約聖書でここだけに使われる言葉です。

[9] ともすると、26節の「義務はない」に私たちの目は止まって、27節の「つまずかせないために」は、付け足しのように思うかも知れません。本当は「義務」はないのだけど、角が立たないように、魚を取ってきなさい、と仰ったように思いそうになります。しかし、「つまずき」は大切な問題として扱われていくのです。

[10] 「つまずき」スカンダロンは、どの福音書よりもマタイで繰り返される言葉です。5:29(もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。30もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。)、11:6(だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」)、13:21(しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。)、13:41(人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、)、13:57(こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」)、16:23(しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」)、15:12(そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」)、17:27(しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」)、18:6(わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。7つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。8あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。9また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。)、24:10(そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。)、26:31(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。」、33(すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」)

[11] マタイの福音書17章22~23節「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。23人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。」

[12] それゆえ、私たちにも「自由」は「仕える自由」として提示されます。ガラテヤ人への手紙5章1節「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」13「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。15律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。」

[13] 「キリストの高弟の伝説が残る湖では口に銀貨をくわえた魚が釣れる?」https://crea.bunshun.jp/articles/-/14748

[14] ユダの手紙24~25節「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、25私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン」

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2021/3/7 マタイ伝17章14~23節「できないことは何もない」

2021-03-06 13:22:33 | マタイの福音書講解
2021/3/7 マタイ伝17章14~23節「できないことは何もない」

前奏
招詞 イザヤ書57章15、18節
祈祷
賛美 讃美歌12「恵み豊けき主を」①③
*主の祈り (週報裏面参照)
交読 詩篇100篇(24)
 賛美 讃美歌527「わが喜び」①②④
聖書 マタイの福音書17章14~23節
説教 「できないことは何もない」古川和男牧師

賛美 讃美歌448「御恵みを」
献金
感謝祈祷
 報告
*使徒信条(週報裏面参照)
*頌栄 讃美歌545下「父の御神に」
*祝祷
*後奏

 17章の最初には、イエスが三人の弟子だけを連れて、高い山に登られて、輝くお姿に変わるのを見せる出来事がありました。その山から下りてきて、残りの弟子たちの所に行くと、群衆たちが集まっていた、というのが今日の話の始まりです。そこに一人の父親が、息子の病気を癒やしてほしい、と連れて来ました。弟子たちにお願いしたけれど、出来ませんでした、と。

彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、15こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。16そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」

 「てんかん」と訳されている言葉は欄外に「直訳「月に打たれて」」とあります。癲癇は、とても苦しく、また理解のされがたい病気で、今でも解明されていない病気です。二千年前は、月と関係するのだろうとか悪霊のせいだろうと思われたりして、そんな言葉遣いが出て来ます。今こんな言い方はしませんが、それでも病気の当事者の苦しみ、それを見て何も出来ないこの父親の悲痛な叫びは、今にも十分に通じます[1]。そして、イエスもそれを聞いて嘆かれます。

17イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか[2]。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 この強い言葉が指す「あなたがた」が、父親も含めた群衆なのか、弟子たちなのか、この時代全体の事なのか、分かりません。大事なのは、その不信仰を踏み越えて、主が
「その子を…連れて来なさい」
と言って癒やされたことです[3]。人の不信仰のただ中で、苦しむ人をあわれみ助けてくださる。ここに、私たちの希望があります。この方を信じるのが私たちの信仰です。
19それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」20イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」

 弟子たちは「なぜ私たちには」と聞きました。自分たちの能力や資質の問題と考えています。10章1節ではイエスに、病気や悪霊を癒やす権威を与えられて派遣された彼らですが[4]、いつのまにかそれが、イエスのあわれみから出た権威ではなくて、自分たちの権威、力、プライドとすり替わったのでしょうか。
「私たちには」
と聞くし、
「そっと」
という態度は、恥ずかしさ、つまり裏返したプライドに見えます。イエスは
「あなたがたの信仰が薄い」
と言われます。弟子たちの信仰はいつも「薄い」と言われます[5]。信仰が薄いから出来ない、というより「あなたがたの信仰は薄い。自分が追い出せるとか、なぜ追い出せなかったのかという問題ではない」と言うことでしょう。
「からし種」
とは、当時の慣用句で極々小さいことの譬え。
「山を移す」
も慣用句で、大事業や大変化を指す表現です[6]。ですから「なぜ自分には出来ないのか、もっと信仰があれば悪霊も追い出せる、山に命じても移せるはずだ」ではなく、信仰は芥子種のように小さくても、神を信じる信仰だから力がある。私の力、私の信仰によってではなくて、悪霊よりも強く山々も造られた神を信じる。私たちを憐れみ愛する主への信仰。それこそ、私たちをプライドや無力さを恥じ入る劣等感から救い出してくれます。神には出来ないことはない、と神に信頼することが、目の前の問題が山のように大きくても、希望を与えてくれます。[7]
 ですから、この直後、イエスはまたご自分の最後について予告します。

22彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。23人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。

 イエスが本当に山に命じれば山も動かせる方、石に命じればパンになり[8]、御使いの軍勢も呼べる方が[9]、渡され、殺され、よみがえる道を行かれたのです。そんな恥ずかしくて苦しい最期を、動かそうと思えば動かせるお方が、その最期へとご自分の道を見定めました。
 しかし・・・逆に言えば、イエスは自分のために山を動かすより、遙かに大きな事をなさいます。神である方が人間になり、罪人のために自分を差し出し、苦難と恥の十字架で死に、三日目によみがえる。それが、イエスが選ばれた愛を貫く道でした。愛を貫く道を行く。それに比べたら、山を動かすなんてちっぽけでつまらないことです。
 そして、そのイエスの恵みの力が私たちに注がれて、私たちも主イエスが愛してくださったように愛し、主が赦してくださったように赦し、主が歩まれたように私たちも歩む。私たちが恵みで生きるようになる。イエスはそんなことを仰っています。そう仰るイエスを受け入れる「からし種ほどの信仰」を、私たちはいただいています。自分のために「山」を動かしたり人を動かそうとする生き方から、イエスが御父を信頼し私たちを愛し十字架への道を歩まれ、その道に従う信仰です[10]。
 イエスは、私という信仰の薄い者をも愛されて、この私をも少しずつでも動かし、私たちには恥とか悲しみ[11]としか思えないことをさえ、恵みに変えてくださる。困難な山の上でこそ栄光を現して、悲惨な死をさえいのちに変えてくださる。そういう御業を、小さな信仰の中で精一杯期待し、信じて、願うよう、私たちを変えてくださるのです。

 こども讃美歌に「息することさえも」という歌があります。「あなたがいるからそうなんでも出来る。息することさえも」という歌詞です[12]。そう、神がいなければ山を動かすどころか小さな種も動かせないし、息することも出来ません。神がおられて息も、信仰も罪の赦しも、深い回復も下さいます。それは、神の子イエスが、私たちのために動いてくださったからです。
 その主を信じる信仰を、私たちは決してつまらない信仰のように卑下する必要はありません。むしろ、この主への小さな信仰が働く時、神が私たちの思いを遙かに超えて深いことをなしてくださると、信頼させていただけます。その私たちを動かすことこそ、主への信仰の恵みです。

「山々を造り、太陽も宇宙も動かしておられる主よ。あなたの御力を褒め称えます。そして、あなたの力はあなたのあわれみ、自分を捨てた十字架と復活にこそ現れました。どうぞ、その力を私たちにも注いでください。悲しみ、もどかしさに苦しむ私たちを、癒やしてください。私たちの心を動かし、息をすることもあなたを信じたことも、すべてが恵みであると褒め称えさせてください。私たちの小さな願い以上の、あなたの真実な御業に、私たちをお委ねします」



脚注

[1] 聖書にこうあるからと、てんかんが「悪霊」のせいだというのは、「月に打たれた」という言葉遣いを杓子定規に取るのと同じぐらい、筋違いの解釈です。そもそも、この「てんかん」を今の医学の基準で言う「癲癇」と同じだと考えることも不可能です。『広辞苑』には「発作的に痙攣(けいれん)・意識喪失などの症状を現す疾患。脳に外傷・腫瘍などがあって起こる症候性のものと、原因の明らかでない真性癲癇とがある」と解説されています。

[2] 「我慢」アネコマイ 担う、背負う、耐える。原意は、「手で支え続ける」です。マタイではここだけに出て来る言葉です。

[3] 「その子をお叱りになると悪霊は出て行った」とありますが、イエスがその子を叱ったように見えて、実は、その子を癒やされたのです。その子に責めがあるとも、なかったとも言えません。

[4] マタイの福音書10章1節「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」

[5] マタイの福音書6章30節(今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。)、8:26(イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。)、14:31(イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」)、16:8(イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。」

[6] マタイ21章21節(イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。」、Ⅰコリント13:2(たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。)

[7] 神に出来ないことはない。これは、特にルカが強調する、私たちの基本的な信仰。マタイ19:26(金持ちの求道「イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」)、ルカの福音書1:37(マリアの処女降誕「神にとって不可能なことは何もありません。」)、ピリピ4:13(私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。)

[8] マタイ4章3-4節「すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」4イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

[9] マタイ26章52-54節「そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。53それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。54しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」

[10] 『境界線』の考えでは、自分を制するより他者を制御しようとするのが幼児性で、成熟とは他者を制することから自制するようになっていくことです。万能感からセルフコントロールへ、不満から自立へ、とも言えます。神は、完全に自立したお方です。

[11] 悲しんだ 14:9(王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、)、17:23、18:31(彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。)、19:22(青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。)、26:22(弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。)、26:37(そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。)

[12] 「息することさえも」Every Move I Make, by Hilsong 「あなたがいるからそう なんでもできるJesus息することさえも すべての歩みもそう あなたの一緒Jesus 息することさえも うちよせるこの喜び どこにいてもI see Your face 愛にとらえられ Oh my God Ah すばらしい」https://youtu.be/0hhQYp8upk0 英語の原曲もたくさん動画があります。 https://youtu.be/3G1plc8_vQg

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2021/3/7 創世記二章7-27節(7-9、15-17)「人」こども聖書⑦

2021-03-06 12:03:56 | こども聖書
2021/3/7 創世記二章7-27節(7-9、15-17)「人」こども聖書⑦

 『こども聖書』の34頁になります。神様はこの世界を造って、そこに植物や海の巨獣や空の鳥、地上の動物たちを、一つ一つお造りになりました。そして、最後に造られたのが、人間・人です。今日はこの「人」の創造について、聞きましょう。

神様は今まで造ったものすべてをご覧になり、喜ばれました。
それらはとても良かったのです。
でも何か足りません。
一緒に歩いて、お話しの出来る友達がいません。
神様は、ご自分によく似たものを造りたいと思われました。
そこで、土の塵を取り上げ、優しく息を吹きかけて、命を吹き込みました。
こうやって、神様は人を造られたのです。
神様は、この人をアダムと名づけました。
そして、特別な庭の中に人を起きました。
この庭は、神様が人のために造られた所で、エデンの園と言います。

 神様が造られたすべてのものは、とても良かったのです。でも、それで終わりではありません。神様は、ご自分が一緒に歩き、語り、友達になれるようなものをお造りになろうとしました。勿論、この世界をもお造りになる偉大な神様にとって、友達がいなくて寂しいということはありません。神様は、すでに御子イエス様と、聖霊なる神様とともに十分な関係にありました。神様は、父、子、聖霊の三つのお方が互いに愛し合い、友達であるような、永遠のお方です。だからこそ、その神様が造られた世界には、神様の友となるような、心があり、個性があるものがなければ、足りないのです。どんなに美しく、完全でも、それを見て、驚き、喜ぶものがいなければ、足りないのです。だから神様は、ご自分に良く似た者として、人間をお造りになりました。

 人間は、神に似た者として、神のかたちに造られました。私たちは、だれもが、神様を現している、尊い存在です。人間は、みんな神様を映し出す、かけがえのない存在です。神様を恐れない人間は、人間を比べて、あの人は頭が良いから偉い、この人は出来ないことが多いからダメ、と人を値踏みしてしまうことがあります。障がいがあっても、自分には理解できない人でも、その人を否定したり笑ったり貶めていいことは決してありません。「神のかたちに造られた」という尊厳を、すべての人は持っています。
ヤコブ書三9私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。10同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。


 神の似姿に造られた人間を呪うことはあってはなりません。その中には、私たち自身のことも含まれています。私たちは、自分も誰をも、神がご自身に似せて、ご自身のかたちに造られた存在として見るのです。私たちは、自分のことも呪ったり、価値がないように思ってはなりません。神ご自身が、私たちを愛して、ご自身を現すように造られて、そうしてくださるのですから。これは、本当に不思議なことです。

 神は人を、塵からお造りになりました。地の塵から造って、地を耕し、汗を流して働くような人間を、神はご自身のかたち、神様とはどんなお方かを映し出すものとなさったのです。世界の中に、もっと大きく、力強く、完璧な存在を造ることも出来たでしょうに、私たちのような人間こそ、神様のかたちだというのです。そして、神は人間に、エデンという園を造ってくださって、そこに人間を住まわせたのですね。人間は、神が創造されたものの最後ですが、最高の特別扱いをされています。人間は「被造物の頂点」と呼ばれるのです。そして神は人に何をお命じになったのでしょうか。


 神様はアダムに、木や花、動物の面倒を見るように、そして、名前もつけるように、と言われました。エデンの園にある果物、野菜は何でも食べて良い、と言われました。が、ひとつのものだけ、別でした。庭の真ん中にある木からは、取って食べてはいけない、もし食べれば死ぬ、とアダムに仰いました。アダムは神様の言われる通りにしました。でも、アダムを手伝ってくれるような生き物はいませんでした。しばらくして、アダムは寂しくなりました。動物たちは、互いに似たものがいるのに、アダムには、自分に似た人がいなかったからです。
 ここで神様がどんなことをなさっているでしょう。神がお造りになった木や花や、動物のお世話を、人間に引き継がせました。動物には名前をつけさせました。広い園に生えている沢山の木は、どれからでも実を取って食べて良いけれど、たった一本だけ、食べてはならないと命じました。神が創造主ですから、人間もその創造の業に加わります。神がこの世界を美しく命で満たしましたから、人間も、その命を見たり味わったりすることで生かされます。人間は、エデンの園で、のんびりだらだらと暮らしていたのではありません。園を耕したり守ったり、管理者として働いていたのです。また、神様から約束を与えられて、その約束を守る責任もありました。
 何より、神様は人に語りかけて、人間との関係を持たれました。他の動物とは違って、神は人間だけに語りかけて、それに応える関係を持ちました。神と語り合う関係がなくては人は生きていけません。そして、私たち人間同士も、語り、聴き、心を傾けて向き合うことが必要です。約束をしたり、それを守ったり、助け合うように造られています。



 ですから、最初のアダムも、一人では寂しくて堪りませんでした。神様はわざわざ、最初に一人を造られて、ひとりだと寂しいな、他の動物の手伝いでは違うな、自分に似た人がほしいなぁ、と思うような段階を踏まれました。そして、人間が、一人ではなく、友達や家族、仲間と一緒に生きる時にこそ、神様の形を映し出すのです。そこで、この後、神がもう一人の人間をお造りになることが聖書に書かれています。

 こうして、世界をお造りになった大いなる神様が、その最後に、私たちのような小さな人間をお造りになり、私たちがともに生きる歩みを通して、この世界の歴史を始められました。神様が人間を造ったことで、何をなさろうとしているのか、それはまだ僅かしか分かりません。でも、神様は私たちを造り、私たちと一緒に歩むことで、その目的を果たされるのです。そして、神様が神様である以上、それは必ず最後には完成するのです。神が神でいてくださり、私たちとこの世界を治めて、導いてくださるのです。

「造り主であり王である神様。あなたはこの世界の創造の最後に人間をお造りになりました。私たちはあなたによって造られ、あなたに息を吹き込まれた者です。どんな人も、自分をも、あなたのかたちに造られたかけがえのない者。ここに立ち戻れることを感謝します。どうぞ、私たちの歩みのすべてがあなたの栄光を映し出しますように」
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