聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/2/28 アモス書9章8-15節「破れを繕う神 一書説教 アモス書」

2021-02-27 12:57:30 | 一書説教
2020/2/28 アモス書9章8-15節「破れを繕う神 一書説教 アモス書」[1]

前奏 
招詞 マタイ11章28~30節
祈祷
賛美 讃美歌11「天地にまさる」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読 詩篇23篇(6)
賛美 讃美歌237「御神の深き御旨の」①②
聖書 アモス書9章8~15節
説教 「破れを繕う神 一書説教 アモス書」古川和男牧師
賛美 讃美歌237 ③④
献金
感謝祈祷
 報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄 讃美歌545上「父の御神に」
*祝祷
*後奏

 アモス書1章1節によれば、アモスはエルサレムの南の町テコアの牧者でした[2]。
テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。

 イスラエル王国が南と北に分裂していた時代に、南の農民であったアモスが主に召され、北のベテルに遣わされて主の言葉を語ったのです。北イスラエルの王はヤロブアム(紀元前十世紀の北イスラエル最初の王もヤロブアムですから「ヤロブアム二世」と呼ばれます)、紀元前八世紀です。
 この時代は、北イスラエル王国の全盛期でした。イスラエルの周辺諸国の脅威が小さくなり、ヤロブアム王は領土を最大に拡大し、経済的にも非常に富んだのです。しかし、その富を富裕層が独占して、貧民はますます借金漬けになっていた。不正が合法的になされて、社会の弱者が声をあげることもできない、という状況でした。2章6節以下、その背きが糾弾されます[3]。
「主はこう言われる。「イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売ったからだ。7彼らは、弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げている。子とその父が同じ女のもとに通って、わたしの聖なる名を汚している。…」

 こうしてアモスは、主がイスラエルの中で行われている社会的な不正を責めて、その報いを告げるのです。北イスラエルは事実上の偶像崇拝をしている問題もありました。しかし、アモス書はその礼拝の間違いを責めません。むしろ、礼拝や生け贄には熱心でも、その社会に不正や搾取が居座っているなら、そんな礼拝を神は喜ばれるはずがない、と非難するのです。
 目に見えない神を形の上で正しく礼拝しているかより、目に見える隣人や他者との関係の正しさを神は問われます[4]。アモス書5章24節は有名で、大事な言葉です[5]。
アモス五24
公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。

 アモス書はこの「正義」を繰り返して強調します[6]。これは、「人間を生かしてくれる神の恵みの力のことも示している」義です。神が私もあの人も生かしておられる、という感謝が正義です。自分の力で生きている、幸福を勝ち取る、他者を押しのけてでも自分の幸せを守る。そういう事であれば、事実上、力とか富とか自分の居心地良さを崇める、貪りという偶像崇拝なのです[7]。そこに神への本当の感謝も弱者への配慮もなく、他者を蹂躙するのは当然です[8]。
 アモスは非常に激しい言葉で、「わざわいだ」とか、将来の「捕囚」という予告を初めて明言した預言者です[9]。そして、アモスから数十年後、紀元前七二二年に、預言通り北イスラエル王国はアッシリア帝国の侵略によって滅亡します。アモス書の厳しい言葉は成就しました。
 しかし、それだけではありません。今日読んだ9章の11~12節で主は言われます。
「その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。12これは、エドムの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての国々を、彼らが所有するためだ。──これを行う主のことば。」
 これが使徒の働き15章16-18節で引用されます[10]。厳しいアモス書の終わりに語られる主の言葉です。倒れた仮庵を起こし、破れを繕い、建て直す、回復させる。また、農夫だったアモスらしく、葡萄畑や果樹園の光景で将来像が描き出されます。厳しい裁きの末に、こういう回復が語られます。緊張を緩めさせかねないと戸惑います。しかし、使徒の働きは、このアモスの言葉をもって、「すべての異邦人が主を求めるようになる」というご計画を確信するのです。ユダヤ人も異邦人も、ともに主の民となるという、救いの大きな物語を確認しました[11]。
 だから今ここでも、異邦人を躓かせたり、他者を踏みつけたり、弱者を利用したり排除するような扱いを拒む、という順番です。排除は、私たちの中にある「破れ」を癒やそうともせず、もっと引き裂くような事だからです。そうしたすべての破れが癒やされて、私たちが回復されて、ともに生きることをこそ主は求められます。「助け合わなければならない」「不正をしてはならない」という道徳ではないのです[12]。求められるのが道徳なら、それが出来にくい人、破れた人がダメな人として排除され、ますます希望のない、冷たい社会になります。

 主が求めているのは私たちの回復――破れた私たちの関係の回復です。だから、主は破れた私たちを捨てるより、破れを繕います。
 私たちを癒やされ、将来の回復に向けて、導かれます。
 ダメな人などいない、誰もが破れていて、その破れた同士が、なお神に愛され、繕われて、互いに尊び合う神の国へと歩んでいます。
 その不正や愛のなさを糾弾して終わらず、将来の回復を豊かに描かれるのです。
 罰して責めて終わる以上に、回復と希望の言葉に聞き続けます。

 新約の使徒たちは、アモス書の厳しさを、神の大きな希望の中で受け止めて、教会を整えました。今ここに生きる私たちも、アモス書の中に自分を置く時、教会の指針を戴きます。主は、世界の破れを真剣に嘆かれるお方です。そして、その主が破れを繕うと言われています。その約束に、私たち自身の破れを繕って戴き、この恵みの光の中でともに歩ませていただくのです。

「私たちを愛し、成長させる主よ。あなたは、ご自身の理想より、私たちを愛し、私たちを成長させてくださいます。私たちが自分の理想や社会、教会への理想以上に、ここにある現実の一人一人を愛する者としてください。豊かさや安全に安住して、人を押しのけてしまう罪からもお救いください。私たちに出来る行動をさせてください。そして、さばいて終わる言葉からも救い出し、あなたの様々な恵みに励まされて、生かし合い育て合う歩みをお与えください」

脚注:

[1] 今回も、聖書プロジェクト「アモス書」https://youtu.be/rPhOURANFL8と、四日市キリスト教会「一書説教 アモス書 選び出された者として」を参考にしました。

[2] 1章1節「テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。」この「牧者」ノーケードは「羊飼い」ですが、7章14節の「牧者」ボーケールは「牛飼い」の意味です。

[3] アモス書の最初は、1:3~2:3で、神がイスラエルの周辺諸国を糾弾される言葉が続きますが、周囲の七つの国を一つ一つ攻めた最後に、ユダ、そしてイスラエルが断罪されます。他人事ではなかったのです。

[4] Ⅰヨハネ4:20「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」

[5] アモス書5章25-27節「イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。26あなたがたは自分たちの王シクテと自分たちの像キユン、自分たちのために造った神々の星を担いで来た。27わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す――その名が万軍の神である主が言われる。」。使徒の働き7章42-43節(ステパノの説教)「そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の万象に仕えるに任せられました。預言者たちの書に書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。43あなたがたは、モレクの幕屋と神ライパンの星を担いでいた。それらは、あなたがたが拝むために造った像ではないか。わたしはあなたがたをバビロンのかなたへ捕らえ移す。』」 面白い事に、ステパノはアモス書にある固有名詞を変えます(下線部)。それはアモスの責めた北イスラエルと、ステパノの時代のユダヤ民族では状況が違うからです。北イスラエルは偶像崇拝をしていたし、ステパノの時代のユダヤの民は捕囚の反省を踏まえて、厳格な一神教を守っていました。でも、その神との関係を盾にして、主イエスが始めた神の国のあり方、教会の宣教に頑なに抵抗せずにおれない。それは、結局、アモスの時代と変わらない罪だとステパノは指摘したのです。

[6] 「公義ミシュパート」と「正義ツェダーカー」 5:7,24、6:12

[7] エペソ5:5「このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。」、コロサイ3:5「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」

[8] 岩井謙太郎「アモスと神の正義」、中部学院チャペルアワー「日本語の正義という言葉は、イスラエルの言葉ではツェダーカ等と言いますが、ツェダーカは単に社会的次元での正義の話だけには尽きない意味があると言われています。この正義は、人間(動物・植物等生きとし生けるものすべて)を生かしてくれる神様の恵みの力のことをも示しているのです。イスラエルの社会では、神様への礼拝とは、人間が神様の恵みによって生かされていることを感謝するためのものでした。そして、この感謝に対する応答には社会的弱者への配慮(社会的正義の実現への要求)も含まれているのです。裏を返せば、社会的弱者への配慮が見られなかったイスラエルにおいては、本当の意味で自分達が神様に生かされていることに対する感謝がなかったのかもしれません。そのような感謝こそが神様への礼拝の一番大切なことであるとしたならば、預言者アモスにとっては、イスラエルの人々の神殿での神様に対する礼拝が形骸化したものに見えていたに違いありません。つまり、真実の感謝(神への正しい関係)と応答(隣人愛・社会正義)の関係が見られない形骸化した神殿礼拝をアモスは批判したと言えましょう。

[9] アモスは初の「記述預言者」であり、それ以前の預言者(エリヤ、エリシャなど)よりも記録に残る形で、民に神の言葉を語ります。

[10] 使徒の働き15章16~18節「『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。17それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。18――昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』」

[11] そして、既に、アモス書の中にも、希望は随所に語られていました。たとえば、3:12「主はこう言われる。「羊飼いが獅子の口から二本の足、あるいは耳たぶだけでも取り戻すように、サマリアに住むイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長椅子とともに救い出される。」

4:6~12の「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」の五回繰り返し

4:12「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」13見よ、山々を形造り、風を創造した方。その御思い意が何であるかを人間に告げる方。暁と暗闇を造り、地の高き所を歩まれる方。その名は万軍の神、主。

5:6~8「主を求めて息よ。そうでないと、主は非のように、ヨセフの家に激しく下る。火はこれを焼き尽くし、ベテルにはそれを消す者がいなくなる。7彼らは、公正を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。8すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗くして夜にし、海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ方。その名は主。」

14~15「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、ともにいてくださる。15悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきを行え。もしかすると、万軍の神、主はヨセフの残りの者をあわれんでくださるかもしれない。」

24「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」

7:1~6「神である主は私に示された。見よ。王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを備えられた。2 そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうかお赦しください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」3 主はこれを思い直された。そして「そのことは起こらない」と主は言われた。4 神である主は私に示された。見よ、神である主は、責める火を呼ばれた。火は大いなる淵を吞み込み、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。5 私は言った。「神、主よ。どうかおやめください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」6 主はこれを思い直された。そして「そのことも起こらない」と神である主は言われた。」

[12] 道徳と倫理に関して、伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチェ、2020年)の34~42頁に詳しい考察があります。大変興味深いので、一読をお勧めします。下に、引用されている表(道徳と倫理の区別、古田徹也『それは私がしたことなのか』エピローグより)を紹介しておきます。

道徳 (moral)

倫理(ethics)

画一的な「正しさ」「善」を指向する


→ 万人に対する義務や社会全体の幸福が問題となる

「すべきこと」や「生き方」全般を問題にする


→ 「自分がすべきこと」や「自分の生き方」という問題も含まれる。

非難と強力に結びつく


→ 「すべき」が「できる」を含意する

非難とは必ずしも結びつかない


→「すべき」が必ずしも「できる」を含意しない

人々の生活の中で長い時間をかけて定まっていった答えないし価値観が中心となる

答えが定まっていない、現在進行形の重要な問題に対する検討も含まれる

価値を生きること

価値を生きるだけでなく、価値について考え抜くことも含まれる


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/2/28 創世記一章24-25節「さあ動物がやってくる」こども聖書⑥

2021-02-26 16:28:56 | こども聖書
2021/2/28 創世記一章24-25節「さあ動物がやってくる」こども聖書⑥

 聖書の物語を最初から読み進めています。今まで、天地が造られ、光が差し、大空が天と地を分けて、陸に植物が、海と空に生き物が造られた様子を見てきました。神様は、えいやっと一瞬で世界を造ることも出来たのでしょうが、一つずつ、時間をかけて、丁寧に造って行かれました。今日は、動物の創造を見ていきましょう。

この世界はすばらしいところになってきました。きれいで、賑やかで、楽しいところです。でも、神様にはまだご計画がありました。今度は、様々な種類の動物を造られたのです。風のように走る、おしゃれなガゼル、バタバタ動く大きな耳と、長い鼻を持つ象。シマウマや虎には、縞模様をつけ、キリンや豹には、たくさんの斑点をつけられました。ジャングルを歩き回るヒヒやゴリラも、神様が造られました。木にぶら下がって遊ぶチンパンジーや、賑やかな猿も、神様のゆかいな作品です。

場所によっては、神様は違う動物を造られました。氷のある寒いところでは、温かい毛皮を着たシロクマ、雪の上をスイスイと歩くペンギンを造られました。/北国の森では、やさしい鹿や、堂々とした大鹿を造られました。山や森を歩き回る熊やクーガー、尻尾が丸まったアライグマ、ジャンプの上手な兎、愛らしい栗鼠、棘だらけのヤマアラシも神様が造られたものです。

乾いた砂漠には、熱い熱い日差しの中で、長い間、水を飲まずに生きられる動物を造られました。/山や森に住むのではない、特別な種類の動物も造られました。馬や牛、犬、猫、豚、山羊などです。

 先に見た、海の巨獣や空の鳥たちより、動物は私たち人間に、もっと近い生き物です。それでも、動物たちだって、不思議です。知れば知るほど、不思議な発見が続きます。何しろ、世界には137万種類の動物がいるそうです。その一つ一つが、不思議な特徴を持っています。
 ここ数年、日本の読まれている本で大人気なのは「へんな生き物」シリーズだそうです。動物について知るのは、ビックリするような事ばかり



 神様は、実にこの世界をヘンな動物で満たすような、ユニークなことをなさるお方です。

 この動物も含めて、神は世界を造られました。ですから、この創世記の続きで、人間が神から離れて、自分勝手な道を行き、世界もお互いも滅ぼし合うようになった時、神はこの世界を救うため、ノアに箱船を造るようにお命じになりました。ノアの家族だけが救われる救命ボートではなく、すべての動物を救おうとされました。

 そして、箱船から出て来た時、神は、ノアだけでなく、すべての生き物も含めて、こう宣言されました。

創世記9:9 「見よ、わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる。そして、あなたがたの後の子孫との間に。10 また、あなたがたとともにいるすべての生き物との間に。鳥、家畜、それに、あなたがたとともにいるすべての地の獣、箱舟から出て来たすべてのものから、地のすべての生き物に至るまで。

 こうして、神は人間に、この世界のすべてを造られた神を覚えさせておられます。私たちは、この世界を造り、すべての動物を造り、それぞれに不思議な個性や生態を造られた神を信じて、その神を礼拝しています。ですから、私たちが動物や世界を知り、それに驚いたり、紹介したり、自然を保護することはとても大事なことです。キリスト者として、環境保護や科学者として働いている人は大勢います。聖書のソロモン王も、動物や植物の研究をしていました。世界の自然を自分の好き勝手に弄ったり壊したりすることは、神が造られた世界を滅ぼす行為です。そして、その世界に置かれた人間が、神を恐れず、自然を大事にしないことは、世界に多くの痛みをもたらしています。
ローマ8:19~22「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服し…滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。…被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。




 神が愛しておられるこの世界を、キリスト者も愛して、守っていく責任が与えられています。神が愛されている動物たちは、私たちに本当に多くのことを教えています。
箴言6:6 怠け者よ、蟻のところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ。


 ヨブ記38~39章は、ライオン、烏、野山羊、鹿、ロバ、野牛、馬…とたくさんの動物を通して、神のなさることの不思議さ、人間の知恵と力の貧しさを徹底的に教えます。
 また詩篇104篇には、主が家畜のために草を…生えさせ、夜にはライオンに食物を与え、地はあなたのもので満ちている、と言います。

 動物たちを見せて、神は私たちにご自身の力、知恵、あわれみを示してくださいます。そして、私たちはそうした数え切れない、見えるみわざを通して、ますます神に信頼し、神を賛美することが出来ます。更に聖書は、私たちの将来についても、動物たちを通して語っています。
イザヤ書11:6-9「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。」

 どうでしょう。凄いなぁと思うような、そこにいるのは怖いような気がしませんか。この光景を通して語られているのは、私たちがやがてともに住む世界です。害を加える敵や猛獣に思える人とも、やがて安心してともに住む世界が来る。すべての人が本当に和解して、どんな問題も完全に解消されて、ともに喜び祝い、主を賛美する将来が来る、ということです。それが信じられない時、動物やこの世界を見てください。私たちの周りに、私たちの想像も出来ないような不思議な動物、へんな生き物たちを造られた神は、私たちの今にも、将来にも、人の思いや力を遙かに超えた平和を約束しています。様々な動物たちが、今も共存している世界は、神が約束しておられる恵みの保証です。


「造り主なる主よ。あなたの大いなる、不思議な知恵と力を褒め称えます。動物たちも、あなたの栄光と不思議さを現しています。何一つ、自然に、偶然に出来たものはありません。すべては、あなたのみわざです。あなたの造られた世界を愛し、守り、また世界に支えられ、教えられながら、あなたへの賛美と信頼をもって歩ませてください。」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/2/21 マタイ伝17章1~9節「ここにいることはすばらしいこと」

2021-02-20 12:32:57 | マタイの福音書講解
2021/2/21 マタイ伝17章1~9節「ここにいることはすばらしいこと」

 マタイでは、山上の説教や山に登っての祈り、そして、最後も復活のイエスとの再会がガリラヤの山の上と、よくイエスが山の上に舞台を取られますが、ここでもイエスは山の上に三人を連れて行きます[1]。するとイエスのお姿が輝くように変わったという出来事です。
 イエスの生涯でただ一度、弟子のうちのペテロとヤコブとその兄弟ヨハネの三人だけが目撃した、実に特別な出来事でした。この三人が選ばれたのは、弟子の中でも特に優秀で、篤い信仰だったからとは言えません[2]。前回16章21節でイエスがご自分の苦しみと死を予告した時、ペテロはイエスを窘めて、苦難を否定し、
「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ」
と厳しく咎められたばかりです。むしろ、そのイエスの苦難の予告を、弟子たちがまだ理解しがたい中で、イエスはペテロを含むこの三人だけを連れて、高い山に登られたのです。すると、
2…弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。3そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
 イエスの顔が輝き、衣まで光のように白く輝いて、旧約聖書の有名なモーセとエリヤの二人も登場するのです。
 この二人は、聖書の歴史の上でとても大切な役目を果たした、指導者であり預言者です。モーセもエリヤも、当時の民の不信仰や反逆に振り回されて、手を焼き、失望に打ちひしがれた人です。そして二人とも、その失意のどん底から、主に招かれて山に登って、栄光の神の姿を垣間見させていただく経験をしました。
 モーセのことは出エジプト記32~34章に書かれています。神がモーセに契約の律法を下さっていた時、イスラエルの民は金の子牛を造ってお祭り騒ぎを始めます。全部台無し、という大反逆でした。それでも再出発を許されて、モーセは神の山に登って岩の影から主の栄光を見せていただきました。
「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である」[3]
 もう一人のエリヤは、Ⅰ列王記18章~19章のことです。主なる神が天から火を降らせるという奇蹟を見せてくださったのに、民の興奮はほんの一時的で、エリヤはもう疲れ切って、生きているのが嫌になる。そのエリヤを主は山の上に招いてくださいます。主は強風や火や地震、強いもののではなく、かすかな細い御声で語られるのです[4]。
 エリヤもモーセも、主の栄光が、憐れみ深さ、恵みとまことだと見ました。どうしようもないような民をも憐れみ、何度でも立ち上がらせ、導いて、回復してくださる。それこそが主の栄光です。その二人が、今ここで現れ、イエスと語り合っています。イエスの苦しみと死は、神の栄光、憐れみの御業なのです[5]。
4…「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
 「幕屋」は旧約に出て来る、神の臨在を現す仮住まいです。ペテロは「ここはすばらしい、(美しい[6])場所だから、幕屋を造って山を降りずにここにいましょう」と提案しました。でもそれはイエスが仰った苦難への道を阻む言葉です。モーセとエリヤの生涯も、神がご自身をどんな方として私たちに現してくださったのかも忘れて、神の憐れみが抜け落ちた勘違いです。
5彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
 輝く雲は、神の臨在を現しています[7]。そこからの神の声は、洗礼の時と同じ言葉で、今ご自分の苦しみを語るイエスを承認されます[8]。輝かしい雰囲気に浮かれるより、そこでイエスとモーセとエリヤが何を語るか、これからも何を語っているかに、聞き従いなさい、なのです。
 6弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。7するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。
 イエスが弟子たちに触れた、手を置いたとハッキリあるのはここだけです[9]。栄光のイエスは、分からず屋の弟子たちに手を置かれ、「恐れなくてよい」と仰り、山から下りて、人間社会の中に住まわれました。モーセも絶望しかけて、エリヤも死にたくなって、ペテロは帰りたくないと思ったような人間の現実のために、イエスはご自分を捧げて、十字架への道を歩まれました。それはこの時だけでなく、神が昔から今に至るまでそうなさっていることです。

 この山がどこか、ヘルモン山かタボル山か、二つ説があって、どちらとも分かりません[10]。きっとどこか分かったらそこが聖地になってしまったでしょう。ペテロは、
「私たちがここにいることはすばらしいことです。」
とそこに留まることを望みましたが、すばらしいのはその場所ではないのです。私たちを愛し、励まし、導いてくださる神がいてくださることです。苦しみや罪の責めも死も引き受けたイエスが、私たちがどんな思いをする時もともにおられます。とてもそうは思えない山や谷を通る時も、主はそこにもともにおられ、私たちをみことばや交わりや様々な恵みによって慰め励ましてくださいます。やがて心から「私たちがここにいることはすばらしいことです。私たちとともにこの人生を歩んでくださり有り難うございます」と、主を賛美させてくださるでしょう。そのためにもイエスはこの山から降りて行かれるのです。

「恵みに富み、慈悲深い主よ、あなたの栄光は高い山の栄光ではなく、十字架にかかり復活された栄光、罪人に赦しを、死にいのちを、破れに回復をもたらすあわれみの栄光です。今日もあなたは強い恵みをもって私たちに先立って、ともに進んでくださいます。私たちに手を置き、恵みの良い言葉を聞かせてください。あなたの衣さえ眩く輝いたように[11]、私たちをも変えてください。あなたの憐れみに触れられて、私たちも恵みの光を映し出させてください」

脚注

[1] マタイのおける「山」は、4:8(悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、)、5:1(その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。)、14(あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。)、14:23(群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。)、15:29(それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。)、17:1、24:3(イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」)、26:30(そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。)、28:16(さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。)

[2] この三人は、十字架直前のゲッセマネでの祈りでも、イエスのそばに置かれます。マタイ26:37「そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。」。マルコ5章、ルカ8章では、ヤイロの娘のよみがえりの時もこの三人だけがそばに置かれたとあります。しかし、マタイはこの事には触れていません。むしろ、マタイはペテロのエピソードを多く引用して、ペテロ個人とのイエスの関わりを重視しているようです。

[3] 出エジプト記33章17~34章10節「主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」18モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」19主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」20また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」21また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。22わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。23わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」34:1主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。2朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。3だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」4 そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。5 主は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。6 主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」8 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。9 彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」10 主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、主のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。」

[4] Ⅰ列王記19章1~14節「アハブは、エリヤがしたことと、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととの一部始終をイゼベルに告げた。2すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」3彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、4自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」5彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。6彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。7主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。8彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。9彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、主のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。10エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」11主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。12地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。13エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」14エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」」

[6] 「すばらしい」カロスは「良い、美しい」の意です。

[7] シェキナーと呼ばれる雲は、旧約に頻出します。出エジプト記24章15、16節他。

[8] 父の声。この父が、ペテロに「あなたこそ生ける神の子キリストです」との告白を与えてくださったのです(16章17節)。イエスを愛し、イエスの苦難と死への道を承認されている父が、ここに幕屋を立てるより、イエスについていくことを命じられる。

[9] 「触れ」8:3(イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。)、15(イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。)、9:20(すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。)、29(そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。)、14:36(せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。)、17:7、20:34(イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。)

[10] タボル山は、紀元2世紀に、山上の変貌の山とされ、記念会堂が建てられました。ガリラヤ湖のそばで、次のエピソードとのつながりがスムーズです。しかし、標高588メートルで「高い山」と呼べるのかなどの問題があります。もう一つは、ピリポ・カイサリアの向こうの、2,815mの雄峰ヘルモン山とする説です。こちらは、多数の支持を得ています。

[11] 今まで、イエスの衣は、長血の女や病人たちが触れて癒やされたもの(9:20、14:36)。やがては十字架の時に剥ぎ取られて、着せられ血まみれになり、くじ引きにされた(27:31、35)ものです。特別な服では無く、通常の衣服でした。イエスの栄光の服だから輝いたのでは無く、通常の服さえ輝かせたことは、主が私たちをも変えて下さることを思い起こさせないでしょうか。「姿が変わるメタモルフォーシス」は、ローマ書12:2(この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。)、Ⅱコリント3:18(私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。)で用いられているのと同じ言葉です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/2/21 創世記一章20-23節「空の鳥たち」こども聖書⑤

2021-02-17 17:37:14 | こども聖書
2021/2/21 創世記一章20-23節「空の鳥たち」こども聖書⑤

 神はこの世界に、植物、そして動物を造られました。聖書では、まず海の巨獣と、水に群がり蠢くすべての生き物、それから翼のあるすべての鳥を創造されたとあります。
「鳥よ、空いっぱいになれ。」神様の力強いおことばとともに、そのようになりました。明るい色の鳥、小さいものから大きいものまで、空を飛び回ります。上品な首を持つ白鳥や小さな羽のハチドリ、空高くまでものすごいスピードで飛べる鷲も神様の造られたものです。まもなく、鳥たちの幸せそうな囀りが、世界に響き始めました。毎日、鳥たちは声を上げて、賛美をしているのです。
 そうですね、一口で鳥といっても、鳥の種類は様々です。世界には一万種類もの鳥がいると言われます。色も様々、いや、鳥だけに、「色とりどり」です!
 最も大きなダチョウは200キロ、最も小さなマメハチドリは一円玉二枚よりも軽い。

 スピードは最も早いハヤブサは時速390km、最も遅いのはアメリカヤマシギで時速8km、人間の歩く速さより遅い。
ハヤブサ
アメリカヤマシギ

 鳥の囀りも、本当に美しく歌うものから、しゃがれた声まであります。
 ここで神は
「鳥は地の上、天の大空を飛べ」
と仰いました。そして
「翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された」
とあります。ところが鳥の中には、ダチョウやペンギンなど、空を飛べない鳥もいます。そうした鳥たちも神がお造りになりました。また、私たちの時代までに、恐竜の化石もたくさん発見されています。聖書には、恐竜のことは書かれていないように見えます。

 きっと、聖書が言いたいのは、世界がどのように出来たのか、という説明よりも、私たちが周りに見ることの出来るものすべてが、神がお造りになったものだよ、ということでしょう。そして、その翼のある鳥に目を向けて、行くときに、私たちの心にも翼が生えるような思いをするのです。イエスは言われました。
マタイ6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
 これは「よく観察し、注目しなさい」と言う言葉です。この言葉を聞いただけなら、なんだか鳥は仕事もせずに、のんきに歌ったり飛んで遊んだりして気楽でいいなぁと思うでしょう。実際は、鳥は一日中、空を飛びながら餌を探しています。歌っているのは、雄が雌にアピールするためだったりします。鳥は呑気に歌ってなどおらず、その日その日を精一杯働いて生きています。

 また鳥が飛ぶのは大変な運動です。人間が鳥のように飛ぶためには、もっとどれほどの筋肉をつけなければならないか、驚きます。

 でも、そんな飛ぶ鳥たちを見上げさせて、神は私たちの想像力に翼を与えてくださいます。聖書には、ペンギンや恐竜のことは出て来ない理由は分かりませんが、翼のある鳥たちを見上げて、よく観察することを通して、神は私たちに沢山のことを教えてくださいます。

 その一つは、自由とか希望でしょう。翼のある鳥の空を舞う姿に憧れましょう。
イザヤ書四〇31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

 また、翼は、柔らかく大きく、ヒナを守る覆いでもあります。そして、神である主ご自身が、ご自分を翼がある母鳥のように描かれて、神の民への守り、愛を描かれます。
詩篇63:8まことにあなたは私の助けでした。御翼の陰で私は喜び歌います。
91:4主は ご自分の羽であなたをおおい あなたは その翼の下に身を避ける。
イザヤ書31:5 万軍の主は、舞い飛ぶ鳥のようにエルサレムを守る。これを守って救い出し、これを助けて解放する。

 鳥の翼の羽は、軽くて温かいです。羽毛の布団は、高級で心地よい寝具です。それもまた、人間には簡単に真似できない、神の素晴らしい手の業です。そして、その神が私たちをも翼を伸べ広げるようにして覆い、守っていてくださるのです。今日の招詞も、
詩篇124:7 鳥のように 私たちのたましいは 仕掛けられた罠から助け出された。罠は破られ 私たちは助け出された。

 また、鳥は「帰巣本能」があり、家に帰ります。その姿も驚くべきことです。
エレミヤ書8:7 空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。

 コウノトリは南アフリカから北欧まで、12,000kmもの旅をします。エベレストを超えて旅をする渡り鳥もいます。鳩の帰巣本能を利用した伝書鳩は、ごく最近まで大切な通信手段として使われていました。手紙を足に付けて、200km、鳴門から琵琶湖か松山までぐらいの距離を飛ぶのが伝書鳩ですが、鳩の帰巣本能は1000km、鳴門から青森でも帰って行けるのだそうです。

 その姿に準えて、主は主の民にも言われるのです。帰って来なさい。わたしの元に帰ってきなさい、と。どんなに神様から遠く離れたようでも遅いとか遠すぎることはありません。神が私たちのそばに飛んで来て下さるからです。
 鳥の帰巣本能は不思議で、未だに何故鳥がそんなに遠くの巣が分かるのか、どうして不思議な生活をしているのか、私たちには分かりません。不思議な鳥の生態は、私たちに、自分の知識の限界を思い知らせてくれます。そこで、こんな言葉も出て来ます。
ヨブ39:26あなたの考えによってか。鷹が舞い上がり、南にその翼を広げるのは。あなたの命令によってか。鷲が高く上がり、その巣を高いところに作るのは。

箴言30:18-19私にとって不思議なことが三つある。…天にある鷲の道、岩の上にある蛇の道、海の真ん中にある船の道、…



 神は鳥をお造りになりました。その生態も、本当に不思議でユニークで、まだまだ知られていません。そんな鳥たちを私たちの上に飛ばせて、神は沢山のことを気づかせてくれます。そして、その鳥をさえ養っている神は、まして私たちのことも気にかけていないはずがないでしょう?と言われるのです。神は、私たちを守り、御翼の陰に入れて、守って下さる。なんと生き生きとしたイメージでしょう。鳥も神からのプレゼントです。

「造り主なる神様。あなたは、空を飛ぶ、翼を持つ鳥たちを作られて、驚くばかりの個性を与えておられます。あなたの不思議で、惜しみない御業が、空を飛び回っています。どうぞ、私たちが自分の小さな狭い世界の中に閉じ籠もらないよう、私たちの心にも、歩みにも、翼を与えてください。禍からは逃れさせて御翼の下に匿ってください。自由に大空に羽ばたいていく勇気も与えてください。あなたの栄光を歌わせてください」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/2/14 創世記一章20-23節「海の生き物」こども聖書④

2021-02-13 12:30:58 | こども聖書
2021/2/14 創世記一章20-23節「海の生き物」こども聖書④

 聖書の最初に書かれているのは、この世界の始まりです。世界を造り、光、空、陸、そして植物を造られた神様。神様の力は、大きくて、素晴らしく、ユニークです。そして神は次に動物を造られました。命があり、動くものです。そこにも、神の業の偉大さ、素晴らしさが現れています。初めての動物は、海の生き物と空の鳥たちでした。それが、今日の創世記一章です。「こども聖書」で、まず海の生き物の創造を読みましょう。
神様は、静かな海をご覧になり、力と権威をもって、海で生きる生き物を造られました。可愛らしい貝の中で生きる小さな生き物や、波に揺れ動くたくさんの足を持ったイカ。海深く潜る大きな鯨や、鋭い歯を持つ鮫も造られました。この生き物たちに、神様はこう仰有いました。「大きくなり、海一杯に増えなさい。」

川、池、湖はきれいな水がいっぱい注がれています。神様はここにも生き物を造られました。すばやく泳ぐ銀色の魚、曲がった足に飛び出た目を持つ蛙、大きくて固い甲羅を背負う亀や、ハサミを持ったザリガニなどです。
 こうして、世界の海や水の中に、沢山の生き物が群がりました。

 海には沢山の生き物がいます。陸上よりも海の中の生き物のほうが何倍も多いのだそうです。現在の予想では、おそらく1,000万種類以上の生物がいるとされています。ちなみに、陸上に住む生物はおよそ100万種類で、その85%が昆虫といわれています。地球上にいるすべての生物を重さであらわしたとき、その90%は海の生物といわれています。今でも、海の中にどんな生き物がいるのか、新しい発見があって、驚くことばかりです。

 また、いま地球で最も大きな動物は、海の中にいるシロナガスクジラです。他にも海には沢山の大きな動物がいます。大きな海は、大きな動物が住んでいますし、そんなイメージがあります。ダイオウイカや、メガドロンなど、本当にいる動物もあります。
2019年に座礁していたのは新種の鯨(2021年1月10日のニュース)
オニイソメ(海底で全長3mに成長する巨大な蠕虫)は、2千万年も前から魚を襲っていた 。2021年2月6日のニュース

 また、映画やマンガでも海にはとてつもなく大きな動物がよく出て来ます。大きな巨獣が、それよりももっと大きな怪物に食べられるなんて、よく見ますね。
 人間なんて比べることも出来ないぐらい小さくて、海の巨獣には目にも留まらないほどです。そんな怪物が住んでいると、昔から人々は考えていました。時には海が荒れ狂うと、その波が海獣やオオタコの手足に見えたりしたからでしょうか、怪物が暴れるせいで、嵐や地震や津波が起きる、という考えもあったり、その怪物を宥めるために、海の獣を「神様」として礼拝するような習慣も、世界中にあったのです。

 実は聖書の中にも、海を恐ろしい場所だと考えていた見方があります。今日読んだ創世記でも「海の巨獣」とありました。魚や貝よりも、「巨獣」が海の生き物にあげられています。中でも有名なのが、レビヤタンという巨獣です。その詳しい描写は、ヨブ記の四〇章に詳しく出て来ます。ウロコで覆われ、牙があって、口からは火が、鼻からは煙が出ていて、どんな武器も歯が立たない、人間には負かすなんて出来ない強い獣でした。本当にそういう動物がいた、ということではありません。当時の人々が考えていた、海に住んでいる、とてつもなく恐ろしい獣が、こんな姿だと考えていたのです。
ヨブ記41章、詩篇104編26節

 また、聖書の最後の黙示録でも、海から獣が出て来る、というくだりがあります。海は死とか恐怖の象徴でした。聖書がそうだといっている、というより、当時の人がそう考えていたので、聖書も、そういう考え方に合わせた書き方をしているのです。
ヨハネの黙示録13章1節

 他にもそういう巨獣がいるのが海という場所でした。海は人間の力を越えた恐ろしい場所。嵐になれば人を飲み込んでしまう、死の場所。その海の巨獣も、神がお造りになったもの、とあっさり言っているのが、今日の聖書の箇所なのです。

 海の獣が神様と拝んで、生け贄を捧げて宥めようとするような信仰は、今でも世界中にあります。それだけ、海の力は強大です。聖書のヨナ書のお話しがあります。預言者ヨナが逃げた時、彼の乗った船が大嵐に遭いました。船の人々は必死に「それぞれ自分の神に向かって叫んだ。そして、船を軽くしようと積み荷を海に投げ捨てた」のです。それでも嵐は静まりませんでしたが、ヨナが海に投げ込まれると、神は嵐を凪に変えました。人々は「非常に主を恐れ、主に生け贄を献げて誓願を立てた」とあります(2:16)。そして、神である主は何をなさいましたか? 大きな魚を備えて、ヨナを呑み込ませ、命を救ってくださったのです。この神である主が、神であり、嵐を起こしも鎮めもなさるお方です。

 海の巨獣は神ではなく、神によって造られたもの、そして、神はその海の巨獣も用いるお方です。どんなに海の巨獣が大きいとしても、天地を造られたまことの神の前はそれよりも遙かに大きいお方です。
 先のヨブ記でも、レビヤタンが出て来たのは、ヨブと私たちに大切なことを教えるためでした。ヨブは、突然、嵐や蛮族によって、家畜の全財産も、子どもたちも失い、病気で自分の健康も失いました。どうしてこんなことが、と嘆いて訴えるのがヨブ記の殆どです。そのヨブ記の最後に、海の巨獣レビヤタンが持ち出されたのは、人間には理解も太刀打ちも出来ないものが世界にある、ということを教えます。この世界は、神がお造りになった世界で、私たちはそこに置かれているちっぽけな人間でしかありません。私たちには分からないことも、どうにもならないこともたくさんあります。それを神様がなぜなさったのか、神がどうしてこんなものを造られたのか、私たちの小さな頭では理解できない。それでも、神はすべてを造り、支配しています。悪や巨獣や嵐が圧倒的でも、それは神ではなく、主なる神が神です。私たちは、この大いなる主の前に、自分の小ささを心に刻んで、謙虚になります。大いなる主を賛美し、礼拝し、信頼します。

 聖書の時代より、今はもっと科学や発見が進んで、嵐の仕組み、海の役割、世界の海の様子がたくさん分かってきました。レビヤタンや海の巨獣はまだ見つかっていないので、いないかもしれませんが、鯨やワニの力強さは侮れません。海の事故や嵐の恐ろしさもあります。海の研究者たちは、人はまだ海のことを僅かしか分かっていない、と言います。私たちが毎日見ている海も、私たちの神が治めておられます。

「海を造り、いのちを満たしたもう神。今でも海は神秘です。大きな嵐の力もあなたは治め、また美しい生き物やおいしい魚もあなたが備えてくださったものです。私たちに襲いかかる禍や出来事は、私たちの理解を超えるばかりですが、あなたはそのすべてを御手の中で治めておられます。嵐の中もともにいてくださる主を、海の生き物を通しても覚えて、賛美し、謙ってあなたに信頼し、船旅のような毎日を続けさせてください」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする