聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問107「すべては神からのもの」Ⅰ歴代29章11~14節

2016-03-06 20:02:00 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/03/06 ウ小教理問答107「すべては神からのもの」Ⅰ歴代29章11~14節

 

 今日で「主の祈り」の解説は終わります。そして、「ウェストミンスター小教理問答」もこれが最後の質問になります。分かりますね。

問107 主の祈りの結びの言葉は、私たちに何を教えていますか。

答 主の祈りの結びの言葉、すなわち「国と力と栄えは、永久にあなたのものだからです」は、私たちに、祈りにおける励ましを神からのみ受けるように、また、私たちの祈りにおいて、国と力と栄光を神に帰して神を賛美するように、教えています。そして、祈りが聞かれるようにという私たちの願いと、確かに聞かれるという確信の証しとして、私たちは「アーメン」と言います。

 主の祈りには六つの願いが含まれていますが、その最後にこのような言葉で結ぶ習慣が、ごく最初の頃から出来たようなのですね。「だからです」と言うように、六つの願いを祈ってきた最後に、どうしてこのような願いを祈るのか、という理由を確認するのがこの結びです。

「国と力と栄えは、永久にあなたのものだからです」。

 ここには、二つのことが言えます。一つは

「祈りにおける励ましを神からのみ受けるように」

とあるように、私たちを励まし、この祈りが必ず答えられる、という確信を与える面ですね。「国」言い換えれば、天の父は王であって、全てを支配しておられ、すべてのものはあなたのものだからです。「力」もあなたのものです。神より強いものはないし、天の父にはどんなことでも成し得る全能の力があります。「主の祈り」の六つの願いは、途方もない願いのようにも思えます。

「私たちを試みに会わせないで悪からお救い下さい」

という祈り一つ取っても、本当に私たちが悪から守られるか、大丈夫か、不安にも思えます。しかし、

「国と力と栄えは永久にあなたのもの」

だから、神には私たちの思いや限界を遥かに越えて、私たちを守り救ってくださると信じて、お祈りさせていただけるのです。そういう意味ですね。

 先に読んだ、Ⅰ歴代誌29章の言葉を思い出してください。Ⅰ歴代誌の最後の章です。ここでは、ダビデ王が死ぬ間際に祈った祈りが書かれています。自分が死んだ後、息子ソロモンに、神殿建設という大事業を委ねることになっていました。これは今まで誰もしたことのない、壮大な事業です。上手くいくんだろうか、また、神の御心に叶う事業に出来るのか、不安もあったでしょう。そこでダビデが祈ったのが、この祈りです。

11主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

12富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。

 ここに、主の祈りの結びと同じ言葉が出て来ますね。■力と栄え、王国もあなたのもの。面白い事に、そっくりそのままです。そして■偉大さと栄光と尊厳、天にあるもの、地にあるもの、すべてのもの、富と誉れ、勢いと力、すべてが神のもので、神から出て、神によって大いにされると歌っていますね。だから、ダビデはソロモンが神殿建設をすることも、神様が導き祝福し、聖めてくださるようにと祈っているのですね。神は、王であって、力も栄光もお持ちである。そう信じる事は私たちにとって希望と励ましです。

 同時に、それだけではありません。それはまた、私たち自身の自惚れや勘違いにも気づかせてくれます。

「国と力と栄えとは、永久にあなたのものです」

、言い換えれば、「私のもの」ではありません。私たちは自分が王様のように思い通りにしたい気持ちがあります。神にも自分の願いを叶えてもらいたいと思って、熱心に祈るのです。また、自分の栄光(名誉や賞賛)を求めたがりますね。また、自分が馬鹿にされたり、恥をかいたりしたくない、それよりスポットライトを浴びたい、有名になりたい。そういう思いに動かされていることが多くあるのです。でも「国と力と栄えとは(私のものではなく)あなたのものです」。そういうのですね。ダビデも続いて言いました。■

14まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

 私たちの持っているものはすべて神から出たものです。「これは自分のものだ」なんて言えるものは何一つないのです。その事に気づかされるのですね。ここでも、■

…また、私たちの祈りにおいて、国と力と栄光を神に帰して神を賛美するように、…

とあります。自分のものに握りしめかけていたものを全部神にお返しして、神の御心が、神の御名が崇められるために、行われますように。自分の思いが自分の名誉のために叶うようになんて思いは、お返しします、そう気づかされるのだとも思うのです。

 今日の言葉は「主の祈り」の結びの言葉についてだけの解説ではありません。お祈りが終わって、立ち上がったら、関係なくなるのではありません。いいえ、むしろ、私たちの全生活が、どこを取っても神様のもの、どこを切っても神の栄光や愛が思われるはずですね。私たちの生きているすべてが、神の国であり、神の力によって支えられて、神の栄光を現すためのものなのです。主の祈りは、私たちをそのような神の絶大な栄光に引き戻してくれます。私たちの祈りの根拠が、神の力への確信と希望であるとともに、自分の小ささや思い上がりにハッとさせられて、謙虚にさせられ、天の父を心から賛美させられるのですね。祈りは、私たちが神に自分の願いを聞いてもらうためにするのではありません。祈りは、私たちが神ではなく、神に栄光をお返しし、神に焦点を合わせた生き方をさせてくれるのです。祈りの素晴らしさとは、自分の願いを叶えることではなくて、私たちがますます神を信頼するように変えられ、喜びや謙虚、信頼と平安をもって生きるようにしてくれることにあります。

 ウェストミンスター小教理問答で学んできた通り、聖書の教理を学ぶ時、私たちの生き方が、神への信頼を軸として、天の父との親しい交わりに生かされるようになります。

 祈りましょう。祈りましょう。神から喜びと励ましと賛美を戴きましょう。神はそれを下さるお方です。天の父である神は私たちの祈りを喜び、豊かに祝福してくださいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問106「人生に勇気を」ヤコブ書1章12~16節

2016-03-06 19:59:20 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/02/28 ウ小教理問答106「人生に勇気を」ヤコブ書1章12~16節

 

 主の祈りの六つある願いの最後です。私たちは、「試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈る時、どんな「試み」や「悪」を考えているでしょうか。

問106 第六の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第六の祈願、すなわち「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」で私たちは、罪を犯す誘惑から神が私たちを守ってくださるように、また、もし誘惑された場合には、私たちを支え、助け出してくださるように、と祈ります。

 ここでは「罪を犯す誘惑」と言っています。先に第五の祈願では

「私たちの罪(負い目)をお赦しください」

と言いましたが、私たちは、赦して戴いてもまた罪を犯しかねない者です。自分が、臆病で躓きやすい者であると告白して、どうか守ってくださいと祈るのです。「試み」と言うと、何となく、苦しみとか辛いこと、というばかりを私たちは想像しやすいかもしれません。けれども、反対に、お金持ちや人気者になる、人からチヤホヤされたり、成功者の立場に立つ事も、苦しみ以上に大きな誘惑になります。

「悪への道は緩やかなカーブである」

とか

「地獄への道は善意で舗装されている」

という言葉があります。大スターになって、お金も人気も絶頂になって、そういう所で、少しずつ、悪い遊びやお金の使いすぎが始まって行って、気がついたら、人生を台無しにする、という事は、悲しいことによく聞く話です。ただ「苦しい目ではなくて、自分の願いを叶えてください、禍や自分にとって最悪な思いはさせないでください」という願いなら、そういう考え自体から、私たちは救い出される必要がありますね。勿論、私たちは、病気や失敗や災害や犯罪から守られる必要もある弱い者です。そういう自分の弱さ、守って戴く他ない危うさ、小さく、間違いやすい者である、という自覚をもって、この祈りを捧げていきたいと思うのですね。

詩篇一一九71苦しみに会ったことは、 私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。

 神は、私たちを愛しておられます。私たちが罪を犯しやすく、誘惑に会えば、すぐに間違いかねない欲望や妄想を持っているし、自分では自覚がなくて、自分は大丈夫だと自惚れて、人を見下しやすいこともご存じです。だから、私たちを苦しみに遭わせ、それによって、私たちが神に頼ることを学ぶようにと御配慮くださるのです。

 しかし、先にヤコブ書を読んだ時の言葉も忘れてはなりません。

12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

13だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

 神が誘惑されるのではない。この「試練」と「誘惑」とは、実は元のギリシャ語では同じ言葉なのですね。ですから、「試練」は絶えるならば幸いだし、耐えていのちの冠を受けるようにと与えられるのに、その誘いに逆に乗っかっちゃったら、「誘惑」となってしまう面もあるのですね。でも、それを「神がこんな誘惑をされたから」と言い訳をしてはならないのです。「試みに会わせないで」とは、「試みに会わせるのは神様だ」と、まるで神が意地悪であるかのように捕らえないようにしましょう。むしろ、苦しくなれば文句を言い、甘い囁きにはコロッと騙されてしまう、本当に間違いやすい自分の弱さを神様が憐れんで、試みに会わせないでください、悪から救ってくださいという祈りです。天の父は、私たちを試みる意地悪なお方なんかではありません。私たちを、試みに会わせず、悪から守ってくださるお方なのです。

 その天の父への信頼の中で、私たちは、勇気をもって生きることができます。私たちの弱さ、失敗しやすさを、私たちより先にご存じの神が、私たちを苦しみから守り、悪から必ず救い出してくださる、と信じて、勇気を与えられて生きてゆけるのです。そして、悪から救い出したいからこそ、私たちに試練も与えられることもあるのです。ぬるま湯や現状維持という試みは、最も大きな誘惑の一つです。「確かさ」や『「繁栄」という名の偶像』は、実に強力です。だから、必要ならば、それを壊して、そこから救い出してください。悪からお救いください、と神に祈るのです。そして、神は、私たちを何としてでも悪から救い出してくださる「天の父」です。イエス・キリストはそのために、この世に来て、すべての試みを味わった上で、悪魔に打ち勝ってくださったのです。

 因みに、この「悪」とは先に言ったように、自分にとっての「最悪な状況」とか「嫌なこと」では勿論ありませんし、それ以上に「悪魔」と訳すべきとされます。つまり、私たちを滅ぼそう、悪い方に引き込もう、騙して間違わせようという人格的な存在が働いているのですね。悪意の塊、邪なサタンが、私たちを神から引き離そうと、あの手この手で、そこら中で待ち構えているのです。ともすると、「一寸ぐらい悪もいいじゃない」とのんきに油断してしまいがちですが、それ自体が悪魔の罠の手口です。とても太刀打ちできないような悪の企みが私たちの周りに張り巡らされている。その悪の力から、私たちを救ってくださいと祈るよう、イエスは教えてくださいました。私たちを、どうにかしてでも、悪魔から救ってくださいと祈る大切さに気づかせてくださった。私たちには何が悪で、何が悪でないか分からないとしても、天の父が、何が善で何が悪か、悪魔が考えている悪巧みの全てから、強いてでも私たちを守って救い出してくださいますように。この祈りもまた、私たちを悪から救い出されるイエスの下さった「命綱」です。

 最後の部分で

「また、もし誘惑された場合には、私たちを支え、助け出してくださるように、と祈ります。」

とあります。これも慰めですね。サタンは、私たちに誘惑をしかけて、「一寸ぐらい大丈夫、みんなやっているから平気だ」と言いながら、やってしまった後は、掌を返すように「お前はもうダメだ、こんな事をして赦されやしない」と絶望を吹き込むのです。しかし福音とは、そのような絶望や間違いからも救い出してくれるものです。私たちの天の父は、私たちが悔い改めて帰って来るのを待っておられます。何度失敗しても、私たちを支え、助け出してくださるお方です。この祈りは自信家を謙虚にするとともに、項垂れている者には希望を与えてくれる宝物です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問105「和解の福音」エペソ2章14~16節

2016-02-21 17:21:24 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/02/21 ウ小教理問答105「和解の福音」エペソ2章14~16節

 

 ドイツに行ったある牧師が、招かれた家での食事で、お祈りを捧げた子どもがこんな祈りを聞いたことが忘れられない、というエピソードを言っていました。■「父よ。我らに今日もなくてはならぬものを与えたまえ。日ごとの糧と、罪の赦し」。先週もお話ししたように、「日ごとの糧」と「罪の赦し」は並んで、必要な無くてはならぬものです。今日は朝の礼拝でも「罪の赦し」という福音をお話しして、午後の学び会でも「罪意識は必要?」というテーマで学び、夕拝でも第五祈願から「赦し」の話しをします。

問105 第五の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第五の祈願、すなわち「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しましたから」で、私たちは、神がキリストのゆえに、私たちのすべての罪を、無償で赦してくださるように、と祈りますが、私たちは、神の恵みにより、他の人々を心から赦すことができるようにされているので、なおさらそのように求めることが奨励されています。

 主イエスは、私たちに、このように祈るようにと仰いました。私たちが、祈る度に、主の赦しを頂くように、そして、他の人を赦すように、と御配慮くださいました。これは本当に大きな恵みです。私たちが、赦されて者として、また他者を赦す者として生きる。それは、私たちの内側からは決して出て来ない、神からの恵みの賜物なのです。

 もちろん、私たちが人を赦すことで、天の父も私たちを赦してやろう、と思ってくださる、という事ではありません。人を赦せないなら、私たちのことも赦してはくださらない、なんて筈はありません。そうでないと私たちも、「どうしても赦したくない人がいるから、私のことも赦してもらえなくたっていいや」とやけっぱちになるかもしれませんね。天の父は、私たちに、人を赦すことを「条件」として求めておられるのではないのです。天の父は、私たちの負い目を赦すだけでなく、私たちにも人を赦す者になってほしいのです。赦されて嬉しい、ホッとした、というだけで、人の事は赦せない、腹が立つ、いつまでも怨みを抱いている-そういう生き方から、赦しへと招かれます。

 主の祈りのここで、文語文では

「罪」

というのを、新改訳では

「負い目」

としていますね。「負債・借金」のことです。罪とは、ただ悪いこと、だけではありません。私たちは神から、この身体や、人生、チャンス、能力や時間を、お預かりしているのですね。それを、神の御用のために使うように、とお借りしているのです。それを、私たちが勝手に自分のものにして、違う使い方をしてしまうのが罪です。神に負債を造るのです。しかもそれは決して返せません。ただ、神がその私たちを憐れんで、借金を肩代わりしてくださるのです。決して、ただ帳消しにするのではありませんよ。それは、不正ですからね。そうではなくて、神が私たちに代わって、負債を肩代わりしてくださる。それが、イエス・キリストが人間として、私たちの代わりに、正しく聖い生き方を、完全に果たしてくださって、十字架にいのちまで捧げてくださった御業です。

エペソ二14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、

16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

 ここには、キリストが、十字架の死において、罪の赦しだけでなく、「私たちの平和」となってくださったと言われていますね。人間が、生まれや国や民族が違ったり、戦い合っていたり、ぶつかったり傷つけたり、敵意を抱いたりしている関係から、平和を持ち、互いに和解して、赦し合うようになること。それが、神との和解と結びついています。神とだけでなく、お互いにも和解させることが、十字架の目的だというのです。ですから、イエス・キリストの福音とは、ただ私たちの罪が赦される、というだけではありません。自分が赦されて終わり、というほっぽり出した御利益ではなく、神とも全ての人とも、敵意から和解へ、平和へ、新しい「神の家族」へと導きたいのが、十字架のゴールなのです(エペソ二19)。その手始めとして、私たちは自分の罪が赦される、それもイエス・キリストの十字架によって、完全に赦される恵みに与るのですね。

 けれども、人を赦すというのは、難しいことです。小さなことでも、大きな負債でも、簡単ではありません。悪いことは悪いとした上で、ですが、私たちの心の中で、人を恨んだり憎んだりしないのは難しいことです。でも、その赦すことの難しさに気づくことがあって初めて、自分が赦されることも、当たり前ではないと気づけるのです。赦される事ばかり求めているなら、その有り難みさえ忘れます。戦争や大変な苦しい出来事があった後、教会の礼拝でも主の祈りを祈る時、この第五祈願の所では、「私たちに負い目のある人たちを赦しました」と言えなくて、声が小さくなった、という話しがあります。赦していない自分の罪に気づく時に、赦しを戴くことが簡単ではないと迫られたのです。そして、自分も神に赦してもらったに過ぎない、同じ事をしている者に他ならない、そう気づかされることが、私たちにとって必要なのです。■

 イエスは、私たちが心からの赦しと和解に生きるために、この祈りを教えてくださいました。私たちが自分で憎しみから解放されることは出来ません。イエスが私たちを憎しみや思い上がりから救い出してくださるのです。日ごとの糧を祈り求める前から、毎日の食事や必要が与えられているように、この祈りに先立って、イエスは私たちに赦しを下さり、和解と平和、神の家族の交わりを既に備えてくださっています。実際、犯罪の被害者が犯人を赦したり、殉教者の家族が迫害者を赦したりした事実は、沢山あるのです。そこに向けて、私たちは生かされています。人を赦せないから自分の罪も赦されていないと恐れる必要はありません。十字架によって、既に私たちは完全に赦されています。人を赦せない思いは、赦した振りをしたりせず、その思いこそ、主の前に差し出して、じっくりと解放して戴きましょう。そして、私たちが主の恵みによって、考えられないほどの大きな赦しと和解へと進んで行く途上にあることを信じていきましょう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問104「いのちを豊かに下さる主」箴言三〇7-9

2016-02-14 16:34:47 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/02/14 ウ小教理問答104「いのちを豊かに下さる主」箴言三〇7-9

 

 前回まで、主の祈りの最初の三つの願いを見てきました。天の父の御名、御国、御心を優先して祈ってきました。それに続く四つ目から、「私たち」の事を祈ります。

問104 第四の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第四の祈願、すなわち「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」で私たちは、神の無償の賜物の中から私たちが、この世の良きものをふさわしい分だけ受け、それらをもって神の祝福を喜ぶことができるように、と祈ります。

 「私たちの日ごとの糧」という言葉は、原語では「パン」、日本語なら「ご飯」です。毎日のご飯を私たちに与えてください、という祈りです。とはいえ、ご飯を食べている人が全員、主の祈りを唱えているわけでも、日ごとの糧を祈り願っているわけでもありません。こう祈らなければ、日ごとの糧をもらえないわけではないのです。祈る相手の神は「天にいます私たちの父」です。天の父は私たちが祈る前に、私たちに必要なものをご存じであり、私たちを愛して養ってくださっているお方です。ですから私たちがこの祈りを祈るのは、日ごとの糧を頂くためではなく、日ごとの糧さえ神が下さっていることを覚えるためです。食べ物や健康、家や生活、そういうものがあることを感謝しているのでしょうか。食べ物があるのは当たり前、生きているのは当たり前、そう思っているから、もっと違うものを「あれも欲しい」「これも欲しい」と思っているのではありませんか。欲しい物がいろいろあるのが悪いのではありませんが、イエスが仰ったとおり、全世界さえ手に入れたとしても、肝心ないのちが損なわれていれば何の意味もないのです。私たちがいのちを与えられている、今日も食べるものが与えられている。これさえ、当たり前ではなく、「神の無償の賜物」である。そう気づかされるのです。

 「日ごとの糧」は、食べ物に象徴する全ての必要ですね。

問い 「日用の糧」とはどういう意味ですか。 

答え わたしたちのからだを養い、必要を満たしてくれるすべてのものです。 たとえば、食べ物、飲み物、着る物、靴、家、庭、土地、家畜、金銭、財産、善い妻や夫、愛する子どもたち、忠実な雇い人、誠実な指導者、善い政府、好い天気、平和、健康、学問、名誉、良い友だち、信頼できる隣人などです。(ルターの小教理問答)

 食料だけあっても人は生きてゆけません。衣食住が揃ってもダメです。神様が世界の創造のときに、「人がひとりでいるのは良くない」と言われたように、パートナーや家族も必要です。治安も、天候も、名誉や人間関係においても、私たちは養われる必要があります。そうした全てが「日ごとの糧」にギュッと詰まっているのです。

 中には、とても遠慮深くて、自分の毎日の生活の些細なことなど祈るのは申し訳ない、と言う方がいます。自分の詰まらない願いより、もっと高尚なことを祈るべきだ、と考える人が少なくありません。でも、イエス様が教えて下さった祈りは、私たちの毎日のパンさえ、天の父の賜物だと言っています。喜んで私たちのいのちを養い、お世話をして下さっています。ですから、私たちは変な遠慮などせずに、すべての願いや必要を求めたら良いのです。神から離れて、自分が手に入られるものなどないのです。神の恵みによって、いのちが支えられて、毎日を生き生きと楽しみ喜びながら生きていけるようになることを、大胆に、神に祈り求めましょう。

 同時に、私たちは、罪人であり、欲しがる必要のないものを欲しがり、人から奪い取ることさえある事実を知っています。今日の第四の祈願には、

「私たちの日ごとの糧」

とありますね。私たちの分の糧を与えて下さい、という所を、ウェストミンスター小教理問答では

「この世の良きものをふさわしい分だけ受け」

と解説しています。

「私たちの糧をお与え下さい。他の人の分まで盗ったり、本当は良くないものを欲しがったりせずに、私たちに相応しい分だけを下さい」

なのです。泥棒は勿論良くないことです。世界の多くの国を貧しくしているのは、強い国や企業がそこから無理遣り利益を吸い上げているからです。そうして、お金や権力を持つ内に、どんどん人間は背伸びをしたり、豪華な暮らしに膨らもうとしたり、麻薬や武器や犯罪にも手を染めたりしてしまいます。もし私たちが悪いものを欲しがったとしても、それを与えないで下さい。そういう祈りもここにはあるのでしょう。先に読んだ箴言の言葉にはこうありました。

箴言三〇8…貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。

 9私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。

 貧しすぎると、苦しくて心も生き方も廃れてしまいます。豊かすぎても、私たちは神を忘れて、思い上がってしまいます。お金持ちになれたら幸せ、というのは大嘘です。でも、良い暮らしや豊かさが、悪いとか捨てた方がいいとか後ろめたさを覚えるべきことなのでもありません。一人一人が与えられた生活の中で精一杯、感謝して、正しく、賢く生きていく使命があるのです。ここには

「神の祝福を喜ぶことができるように、と祈ります」

とあります。日ごとの糧を与えて下さるのは、天の父の惜しみない祝福です。ただいのちを与えて生かすだけでなく、私たちそれぞれに人生を与え、よいご計画を与えて、私たちを愛される神のご計画があるのですね。私たちが、その神の祝福の中で、喜んで生きるようにするためにこそ、日ごとの糧を下さっているのですね。

ヨハネ十10…「わたしはよい牧者です。…わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」

とイエスは言われました。ただ羊を生かし、飼い殺しにするのではなくて、いのちを豊かに持たせたい。これが、イエスが来られた目的です。私たちが、天の父の豊かな養いに、感謝をもって生きる者となること。神の祝福を喜んで生きる者となること。そのように私たちを養いたいのです。そのために、私たちは多くの「糧」を必要としています。何よりも、御言葉のパンが必要です。聖書を読み、御言葉を学ぶことは、何にも代えられません。でもそれだけではありません。私たちが毎日食べている物、楽しんでいること、生き甲斐を感じること、幸せを感じること。それらすべてが、神の祝福であると気づいて、その喜びの真っ只中で、感謝をすることも、祝福を喜ぶということです。私たちはただパンだけでは生きていけません。食べ物や健康だけではなく、生きる意味や愛や生き甲斐もなければ生きていけません。そして、自己中心な思いで自分を窒息させてしまう罪から清められることも必要です。次の祈りで祈るように、負い目を赦されることも人の負い目を赦すことも、どうしても必要なのです。イエスは、そのように祝福を喜ぶ者へと変えられる人生を、聖霊によって与えて、私たちを生かしてくださいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問103「神の御心は最善で最高」マタイ二六39

2016-02-14 16:31:14 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/02/07 ウ小教理問答103「神の御心は最善で最高」マタイ二六39

 

 主の祈りの六つの願いを一つずつ見ています。イエスは私たちに「天にいます私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と祈りなさい、と教えて下さいました。「父の御名、父の御国」それに続く、今日は第三の願いです。

問 第三の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第三の祈願、すなわち「御心が天で行われるように、地でも行われますように」で私たちは、神がその恵みにより、ちょうど天使たちが天においてしているように、私たちもすべてのことにおいて、神の御心を知り、それに従い、服することができるように、またそう望むようにしてくださるように、と祈ります。

 「御心」とは、「御名」「御国」と同様「あなたの意志(御意志)」という言葉です。神の御意志が行われますように、ですね。私たちは神に、自分の願いや計画を叶えてもらおうとして祈るものです。自分の意志を聞き届けてもらうために祈りがちです。そういう私たちにイエスは教えられたのは、徹底して、「私たちの」ではなく「天の父よ、あなたの御名、御国、御意志が」という祈りだったのですね。私の計画や願いがある時も、逆にそれがダメになりそうで焦っている時も、私たちはその私たちの計画以上に、天にいます私たちの父となって下さった神の御意志がなるほうが大切だ、その大きく確かで素晴らしい神の御意志がなりますように、と祈るのです。

 でも、この願いについては、私はずっとこんな思い込みがありました。

「御心が天で行われているように、地で行われますように、というように、確かにこの地上では、嫌な事や悪いことばかり起きているなぁ。天国のように、平和で楽しくて、素晴らしい事がある世界になりますように」。

 そういう願いがこの意味だと思っていました。しかし、

 …ちょうど天使たちが天においてしているように、私たちもすべてのことにおいて、神の御心を知り、それに従い、服することができるように、またそう望むようにしてくださるように。

 天使たちが天で御心を知り、従い、服し、それを心から望んでそうしている。でも私たちは、神の御心に背を向け、何となく幸せで、苦難や嫌な事がないことを願っているだけなら、それはこの祈りとは全く違うのだ、と気づかされたのです。私たちの中に、神の御心に叶わない願いがあります。神を差し置いて、自分の名声や自分の力や自分の願望を果たそうとする思いがあります。私たちの父となって下さった神の愛を信じられず、疑ったり、試そうとしたりする思いがあります。周りの環境が思い通りにならないとふくれ面をして、「天国が早く来れば良いのに」と思うぐらいなら、天国に行った時に、自分の嫌いな人がいたり、隠してきた自分の問題も明るみに曝されたりしたら、「こんな所に居たくない。地獄の方がいい」と飛び出しかねない。それが私たちです。

 そういう私たちに、イエスは教えてくださいました。

「御心が天で行われるように、地で行われますように」

と祈りなさい、と教えてくださいました。自分の願いや計画ばかりに捕らわれている生き方から、神の御心を第一に願い、それを受け入れ、従い、そればかりでなく、積極的に神の御心を学んで知り、それを行う。それが私たちの人生でありますように、そういう生き方を指し示してくださったのですね。いいえ、ただ教えるだけでなく、イエスご自身の生涯が、御心を喜び、御心に従い、御心を願うものでした。先に読んだように、十字架の死を前にした夜、ゲッセマネで祈られました。

マタイ二六39…「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 十字架の苦しみの恐ろしさ、苦しさ、悲しさを、イエスは正直に祈り、出来るものなら避けたい気持ちも、格好付けずに祈っています。しかし、それ以上に、イエスの願いは、自分の願うようになることではなく、父の御心のようになることでした。それに従って、イエスは十字架に掛かり、私たちのための贖いの業を完成してくださいました。それはその時は逃げ出したいような苦しみでしたが、しかし、天の父の大きな愛のご計画の一部であるならば受け入れて、従ってくださいました。そのための力や思いをも下さることに委ねたのだと言えます。これは、私たちにとって見本でもあります。

 しかし「御心がなりますように」と祈ることは、自分の願いを捧げて、神に服従することですが、決して悪い意味で「諦める」とか「仕方がない」と思うのとは違います。「どうせ私の願いなんか祈っても叶わないんだから諦めよう」と考える人がいますが、そういう思いこそ、神の御心ではありません。私たちの天の父である神の御心は本当に素晴らしく、賢く、恵み豊かです。

 「総合的に見てこれが精一杯の最善」

であるだけでなく、人間には考えつかないほど素晴らしく、絶妙で最高のご計画です。今は分からなくとも、大きなご計画があり、私たちを測り知れない愛で愛し、育て、喜ばせるご計画があるのです。今私たちにはその全体像など見えません。だから、出来ないことに目が行きます。神様がケチだとか、不公平だとか思いたくなります。エデンの園でも、サタンはエバに神が人間の成長を妬んで隠しているのだと唆して、神との大事な約束を破らせました。しかし、それは大きな悲しみの始まりになってしまったのです。

 けれども、神は私たちをロボットのように、間違いなく従うようにとはお造りになりませんでした。考えたり悩んだり、ノーという自由もあった上で、心からの愛で従って欲しいのです。失敗しても良いから、心から、わたしへの信頼をもって従って欲しい、そう待たれているのです。なぜなら、神は天の父として、私たちを愛しておられるからです。私たちは、分からないことを疑ったりせず、聖書にハッキリと教えられている御心に従いながら、見えない神の御心が行われることを求めましょう。神の善き御心を信じる時に、私たちは自分の失敗をクヨクヨ後悔することからも自由になれますね。

 過去を振り返る生き方も、未来に不安を抱くこともなくて済むのは、

「御心が行われますように」

と祈りながら歩む幸せの一つです。そのようにして、私たちが神を信頼し、喜んで神が聖書に教えて下さった御心に従うこと-たとえその時にはどんなに大変で、誘惑があるとしても、御心に信頼して服従すること-こそ一番大事な御心です。天の父の御心は素晴らしく、最善で最高であることを覚えて、私たちも心から祈りましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする