聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問58「永遠の値打ちあるもの」ヨハネ十七章1-6節

2017-03-26 16:47:07 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/3/26 ハ信仰問答58「永遠の値打ちあるもの」ヨハネ十七章1-6節

 今日でハイデルベルグ信仰問答の「使徒信条」を解説するシリーズはお終いです。使徒信条の終わりは「永遠のいのちを信ず」ですから、「永遠のいのち」を学びましょう。その最初に、今日読んだヨハネの福音書で、イエスが何と仰っていたでしょうか。

 3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

 どうでしょうか。これは、私たちが考える「永遠のいのち」とは全く違うことを言っています。一般的には「永遠のいのち」といえば「不死」、いつまでも生きて死なないことを考えるでしょう。永遠に続くいのちです。しかし、イエスは全く違うことを仰いました。本当の神を知り、神が遣わされたイエスを知ることが永遠のいのち。この場合の「知る」とはただ頭の知識としてではなく、知り合うとか深く関わるとか友人となるという意味があります。ですから、神を知るとは、神について調べて、知識を積むということではなく、永遠なる神と出会い、神を心に迎え入れることです。そして、神が遣わされたイエス・キリストを知り、イエスへの信頼をもって生きることです。そういう、永遠なる方と結び合わされた歩みこそが「永遠のいのち」なのです。

問58 「永遠の命」という箇条はあなたにどのような慰めを与えますか。

答 わたしが今、永遠の喜びを心に感じているように、この命の後には、目が見たことも耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。

 ここでも言われていますね。永遠のいのちとは「この命の後」のことでもあるけれども、まずは

「今、永遠の喜びを(既に)心に感じている」

のだと。私たちが真の神と出会い、イエス・キリストを知る時、私たちは喜びを抱くようになります。それは何よりも、永遠なる神との関係に入れられることの喜びです。実は、この言葉は、ハイデルベルグ信仰問答の別の判では

「永遠の命を心に感じている」

とされているのだそうです。「命」と「喜び」は入れ替えて言えるようなことだとしたら、なるほど、と思います。喜びがない命とは、なんと詰まらない命でしょうか。喜びを欠いたまま、永遠にあるとしたら、それは永遠のいのちではなく、永遠の死、永遠の呪いかもしれません。

 確かに聖書には命を指す二つの言葉があります。一つは、ゾーエーといい、「永遠の命」の場合にはこのゾーエーが使われています。もう一つはビオスといいます。これはバイオテクノロジーなどの語源で、生物学的な生命力・死んでいない状態です。動物の命はビオスです。それが永遠に続くのだとしたら、幸せでしょうか。喜びがなくても永遠に滅びない。神との出会いのような素晴らしい相手がいない、孤独で意味もない状態がずっと永遠に続いていくとしたら、そんなものは、とても望ましいとは思えません。「永遠などというものがあるとしたら、さぞかし退屈だろう」という人もいますが、そういう人が考えるのは、ただの不死の状態で、永遠のビオスです。

 でも聖書がいうのは永遠のビオスではなく、永遠のゾーエーです。英語でも女性でゾーイという名前が珍しくありません。私たちの友人も娘にゾーイちゃんがいます。親が子どもに名前をつけるような、愛のこもったプレゼントです。そして、神は後の

「永遠のいのち」

ではなく、今私たちと出会い、私たちに喜びや愛や慰めを下さっています。この世界には、神の驚くべき御業が満ち満ちています。そして、イエスは今の私たちに関わり、喜びがないような状況でも喜びや希望をもって生きるようにしてくださいます。私たちといつまでもともにおられ、大切なことを教えてくださいます。今この時、イエスがともにいてくださって、私たちに喜びを下さいます。それこそが、もう永遠のいのちを与えられている始まりなのです。先ほど、「永遠など詰まらない」と言う人たちの話をしましたが、そういう人は今の人生を詰まらないと思っているのかもしれません。今が詰まらなければ永遠だって飽き飽きするでしょう。今日を楽しめなければ、永遠の喜びだって思い描けないのは当然です。しかし、イエス・キリストに出会い、自分の頭の中だけの世界から出て来るなら、私たちの人生は「詰まらない」はずがありません。聖書を通しても、人との関わりや、神が作られた世界の様々なもの、自然、また美しいもの、楽しいものに驚かされます。そして、それは今だけではありません。私たちが死んで、よみがえらされ、栄光のからだをいただいても、永遠に果てしなく喜ぶのです。

 ハイデルベルグ信仰問答では

「この命の後には、目が見たことも耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる」

とありました。これは、聖書のⅠコリント二9の言葉からの表現です。

 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

 神は、神を愛する者のために、私たちが見たことも聞いたことも、思い浮かべたこともないことを備えてくださいます。今もそうですし、死の後にも、それは永遠に

「完全な祝福」

を受け続ける。そして、その結果

「神を永遠にほめたたえる」

というのです。それはどういう状態か、私たちには想像できません。心に思い浮かびもしないこと、というのですから、それを想像しようというのは無理な話です。でも、それによって私たちは永遠に神を誉め称えることは分かっています。それは、ただの義務感や仕事だから永遠に神をほめたたえるのではありません。本当に永遠に、神の素晴らしさを味わい、心を永遠に打たれて、喜びながら、ますます感激しながら、神を賛美するのです。そういう喜び歌う姿が、永遠のいのちには伴っていることは聖書に繰り返されています。神とイエス・キリストを知ることは、永遠に生きるに値することです。細く長く永遠に生きるのではないのです。永遠に、ますます喜び溢れ、限りなく神の素晴らしさを賛美する。そういう永遠の値打ちのあるいのちを神は私たちに下さるのです。

 自分の死を恐れて「永遠のいのち」を求めなら、永遠も退屈に思えて揺れます。しかし、いのちよりも大事なもの、神と出会い、キリストにある人生をいただく時、今を喜び、死も恐れなくなります。神を誉め称え、人も自分も大事にするようになります。それは、イエス・キリストが私たちに、永遠に生きるいのちを与えられたしるしなのです。

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「ゼカリヤ書 夕暮れ時に光がある」ゼカリヤ書14章4-11節

2017-03-26 16:42:24 | 聖書

2017/3/26 「ゼカリヤ書 夕暮れ時に光がある」ゼカリヤ書14章4-11節

 来週4月の月報が出ます。受難週とイースター、そして六〇周年記念礼拝を控えた4月ですので、いつもの巻頭言と違い、私も自分の十年の歩みを振り返った内容を書きました。鳴門教会の六〇年、また前回の五〇周年から十年を振り返りつつ、私たちも自分の歩みを振り返ること。そして、かつてとは違う「今」を受け止め、将来に目を向けたい、と思うのです。

1.失意の中でのゼカリヤ書

 今月取り上げる「ゼカリヤ書」は旧約聖書の最後から二番目にあります。旧約の歴史の終盤です。旧約聖書の歴史の最後に、捕虜となったバビロンから、イスラエルの民族がエルサレムに戻ってきて、神殿の再建を始めるのです。もう一度、神を礼拝する民として歩み直そうとするのです。ところが再建工事を始めたのに、六年後、周囲の敵やペルシヤの政治情勢が理由で、工事は中断してしまいます。この辺りはエズラ記の四章に書かれています[1]。しかもその中断期間は十年にも及びました。そういう中断期間に、エズラ記五章にこう書かれるのです。

エズラ五1さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。

 2そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。…」[2]

 これが今日の「ゼカリヤ書」と結びつくのですね。イスラエルの民は折角復興を始めたけれど、肝心の神殿建設は進まないという失意を抱えていました。いいえ、そもそも神殿の土台を据えた時点で、以前の壮大なソロモンの神殿を知っていた人々は、あまりにも質素な建物だと嘆いていたのです。「昔はもっと良かった」という不毛な懐かしみです。そして現実に対しても、十年、諦めや現状容認の状態になって、礼拝が後回しにされていました。主はそういう時代にゼカリヤを立てられて、イスラエルの民を励まし、奮い立たせようとなさったのです。

 更に、ゼカリヤ書の九章以降は、八章までのメッセージの四〇年近い後に書かれたと考えられています。工事が中断されていた神殿は、民の奮起によって再建されましたが、まだ彼らの歩みは続き、願っていたような展望も開けません。そういう中で、神は再びゼカリヤを送られて、気落ちした民にお語りになりました。四〇年ぶりでしたが、主はまた民にお語りになりました。そしてここで、聖書の小預言書で最も多くの「メシヤ預言」が語られていくのです。

2.数々の幻をもって

 ゼカリヤ書の中には沢山の不思議な幻が出て来ます。預言書の中でも特に幻想的な、黙示文学でもあります。人や四つの角、測り綱、汚れた祭司とサタンの法廷、燭台と二本のオリーブの木、飛んでいる巻き物、四台の戦車、などなどです。その一つ一つの意味を詳しく解説することは到底できません。ただ、そういう思い切った幻を人々に思い出させることで、主は意気消沈した人たちの想像力に働きかけたのでしょう。どういう意味かは大事なはずですが、現実には確定しがたいのです。むしろ、その幻を想像することで持たせられる強いインパクト、衝撃的なイメージそのものを大事にしたほうがいいのかもしれません。

 その一つが、九章の9-10節で出て来る「ろばの子に乗る王」という預言です。これは、主イエスが十字架にかかられる週の最初にエルサレムにおいでになった時に成就しました。

 9シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和でろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

 王となるお方がおいでになる。それは良いのですが、その方が「柔和でろばに乗られる」とは全く意外であったはずです。強い王として軍馬に乗って入場されるなら分かります。しかし、軍馬ではなくロバ、それもまだ人を乗せ慣れていない子ろばに乗って来られる。振り落とされるかもしれません。

 威厳どころか、笑いものになるような、そんな柔和な王としておいでになる。それは民にとって、本当にビックリするようなものだったのだと思います。ゼカリヤは、民の不信仰や意気消沈に発破をかけます。惰性的な礼拝や、神を小さく考える態度を戒めます。でもそれを叱って脅しつけて、神を恐れさせたかったのではありません。

一14…万軍の主はこう仰せられる。「わたしは、エルサレムとシオンとを、ねたむほど激しく愛した。」17…『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』

二8あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。

 こういう神の情熱的な愛の言葉を鏤めながら主がおいでになることをゼカリヤは語るのです[3]。そしてそれを言葉だけでなく、豊かなイメージで告げるのです。そのイメージはまさにイエスにおいて成就しました。当時は到底理解も納得も出来なかったことですが、ゼカリヤの預言通りイエスはおいでになり、子ろばに乗り、銀貨三〇枚で売られ[4]、突き刺されたのです[5]

3.「夕暮れ時に光」

 そういうゼカリヤ書の最後一四章も、想像しづらいイメージが畳み掛けられています。私たちにはその全てを理解も説明も出来ません。何かとても力強く、社会の常識をひっくり返してしまうようなことを神はなさる、というのが精一杯のような気がします。その中にある、忘れがたい言葉の一つがこの7節の

「昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある」

という言葉です。

 夕暮れ時。それは、ゼカリヤの時代の人々が体験していた時代とも重なります。エルサレムに帰ってきたけれど、神殿建設を諦めざるを得なかった時代。また、やっと工事を再開して神殿を完成させたけれども、直ぐに礼拝が惰性的になっていった時代。そして、旧約時代も終わりに差し掛かっていたという意味でも「夕暮れ」というイメージはピッタリです。でも、ゼカリヤはそういう夕暮れ時にも

「光がある」

と語ります。神がメシヤをお遣わしになる時、夕暮れで、どんどん暗くなる一方という時にも薄れることのない光が与えられるのです。そして、旧約のもう終わりという夕暮れに、失望の中に埋もれそうな民に、神がこの不思議なゼカリヤの預言を与えられたことが「光」でした。神はあなたがたを嫉むほどに愛しておられると語られました。三章では、罪の汚れた服を着ている大祭司の汚れた服を脱がせ、礼服を着せ、きよいかぶり物をかぶらせてくださる幻が語られています。主は、私たちが、自分の罪で真っ暗闇の中にいるような思いをする時にも、そこに光を与えて、新しい歩みをくださいます。主御自身が、人の時間や常識を超えた光を与えてくださると約束されたのです。

 ゼカリヤ書が約束したイエスがおいでになるのは五〇〇年も後でした。イエスの御生涯を通して成就した預言もあれば、いまだに分からない言葉もあります。ですがその預言の意味や成就と同じぐらい大事なのは、主がその時代の人々に希望を示された事です。ゼカリヤ書を想像力を働かせて読むなら、私たちも夕暮れ時に光を照らされる主の恵みをいただくのです。教会の歩み、私自身の歩み、皆さんの歩み。そこにイエスが来られても、夕暮れや真夜中もあるでしょう。これまでも、これからも、私たちが予想もしない歩みをするのです。でも、そこにも神は光があると約束されます。思いもかけない光を下さるのです。御言葉を通して、おいでになったイエスの慰めと愛をゼカリヤ以上にハッキリ深く知ります。そればかりでなく、イエスは私たちの闇をも、かけがえのない時間にしてくださり、慰めを下さいます。その闇を通らなければ分からない本当の光を知るのです。不思議なゼカリヤ書を通して、神が不思議なお方であり、私たちの歩みに不思議な恵みを輝かせるお方である、この事実を教えられたいのです。

「世の光なるイエス[6]。ゼカリヤの時代の人々とともにおられたように、私どもとともにおられます。何十年、何百年のスパンで、人の思いや予想を超えたあなた様の良きご計画が、喜びや慰めの光がある幸いを感謝します。私たちを御自身の瞳として慈しまれ、罪の赦しや再出発、慰めや癒やしの恵みを、どうぞ今、私どもの小さな歩みを通して、豊かに輝かせてください」



[1] 紀元前539年、バビロンがペルシヤによって滅ぼされる。538年、ペルシヤ王クロスによる、イスラエルの民のエルサレム帰還の勅令。536年、神殿再建開始。530年、神殿再建中断。520年、ハガイ、ゼカリヤによる神殿再建再開。516年、神殿完成。

[2] また、エズラ記六14にも「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシヤの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。15こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。」と書かれています。

[3] ゼカリヤとハガイは、神殿工事が中断した中で、工事の再建を促しました。しかし、ハガイも神殿再建そのものを求めたのではなく、心からの礼拝を求めたのでした。ゼカリヤはそれがもっと全面的に教えられています。「ゼカリヤは、ハガイのように民に対して神殿再建を完遂するよう励ましたが、ゼカリヤのメッセージは物質的な壁や現時点での諸問題をはるかに超えていた。ゼカリヤは壮麗で黙示に満ちた象徴を細部まで生き生きと描きながら、神の民を救い全世界を治めるために神から遣わされるメシヤという人物について語っている。ゼカリヤ書は非常に重要な預言書の一つであり、メシヤについてこまごまと言及している。これらはイエス・キリストの生涯において明らかに成就された。」バイブルナビ1475ページ。

[4] 十一13主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い値を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。

[5] ゼカリヤ書十二10-11など。

[6] ヨハネ八12「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

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問57「体を大事にする理由」Ⅰコリント15章50-58節

2017-03-19 14:48:09 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/3/19 ハ信仰問答57「体を大事にする理由」Ⅰコリント15章50-58節

 

 私が聖書や教会のことを勉強した神学校で、学長がこう教えてくれました。

 「キリスト者は「体の蘇り」を信ずるのであって、「魂の不滅」を信じるのではない」。

 この言葉を私はいつも思い出すのです。どういうことでしょうか。

「魂の不滅」

という考えは、人間には体と魂があるけれど、体はやがて死に、魂はその後も滅びることがない。死んだ後、体は朽ちていきますが、魂は永遠に生きる。そういう考えです。そして魂は、どんな形があるのか、あれこれ想像します。幽霊のようなものか、個性はあるのか、生きていた時と同じような形があるのか。それでも、よくは分かりません。どちらにしても、体は滅びて、魂だけが永遠にある。そういう考えです。教会の中にも、こういう考え方を知らず知らずにしている人がいます。死んだら体は焼かれるけれど、魂は神様の所に帰る。そうしていつまでもイエスとともにいる。そう考えている人もいます。

 私の神学校の先生は、そうではないと言いました。私たちは「霊魂の不滅」ではなく

「からだのよみがえり」

を信じるのです。神様は、霊魂だけを不滅に作られたのではありません。私たちの体もお造りになりました。死んだら体は焼かれたり腐ったりするけれど、魂だけは不滅、というのではないのです。やがて、体もよみがえる、そうして魂と再び結び合わされる。そう信じるのが、教会の信仰なのです。

問57 「身体のよみがえり」はあなたにどのような慰めを与えますか。

答 わたしの魂が、今の命の後 直ちに頭なるキリストのもとへ引き上げられる、というだけではなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされてキリストの栄光の御体に似たものとなる、ということです。

 これは自分の身体に対する見方を、「魂の不滅」とはがらりと変える告白です。魂だけがキリストのもとに行くだけではなく、私のこの身体もまた、キリストの御力によって引き起こされる、といいます。そして、再び私の魂と結び合わされて、キリストの栄光の御姿に似たものとなる。「キリストの栄光の御姿」とは、キリスト御自身が死んで、三日目によみがえられた体のことです。それと同じ体を私たちはいただくのです。

 今日読みました、Ⅰコリント15章では、復活を信じない人たちに向けてパウロが論じています。長い章ですので、要点だけを紹介します。パウロは、もし私たちがよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったはずだ。キリストがよみがえられたのは、私たちがよみがえることの保証だ。そのことについて私たちは分からないことも多くあるけれども、人間の今の状態のままでは、神の国に入ることは出来ないことは確かだ、というのです。そうして今日の箇所に入るのです。

Ⅰコリント十五50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。■

52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

53朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

 私たちの体は、よみがえって、朽ちない身体に変えられる、というのです。キリストが死に勝利されて復活されたのは、私たちもよみがえって、朽ちることのない体とされるためだ、というのです。ここで注意して下さい。今の体がよみがえって、変えられる、というのです。今の体ではない、別の朽ちない身体をいただく、のではないのです。この身体がよみがえって、不死とされる、というのです。回りくどいようですが、神はそうなさるのです。イエスの体もそうでした。その手と足には釘の跡があり、その脇腹には槍で刺された穴がありました。十字架に打たれた、尊い傷は、復活のお身体にも残っていました。そんな傷は醜い、ないほうがいい、とはされず、むしろその傷が、イエスが本当にイエスであるしるしとして残りました。

 私たちも同じなのでしょう。私たちのこの体も、生きていく内に色々な傷が付くでしょう。年を取れば、手や顔にしわが着いたり、曲がったりしてくるでしょう。でもそれを醜い、美しくないなどと思うのは人間であって、神ではありません。神は、私たちの体や私たちの今の生涯を、大切に思っておられます。魂だけを不滅にして、体はやがて滅びるもの、余り価値のないものと考えられはなさいません。私たちが今生きる事、この体ですること、勉強したり働いたり遊んだり食べたり飲んだりするこの体のすべてを、神は大事に考えておられます。

Ⅰコリント十五58ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 「からだのよみがえり」という告白は

「堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい」

との勧めに直結していきました。コリントの教会には復活を信じない人達がいましたが、その人達は「魂は不滅だから大事だけれど、体はやがて滅びる。世界はやがて終わるのだから、私たちの今の生活や仕事など、どうせ大事ではないさ」。そんな生き方をしていたらしいのです。だからパウロは復活のことを論じた最後は、自分たちの労苦は主にあって無駄でない、という結論をします。

「からだのよみがえり」

を信じるかどうかは、将来だけのことではありません。今の私たちの体をどう見るか、体をどう大事にするか。人生にどう取り組むか。そういう事と結びついているのです。

 天の父は私たちにこの体を下さり、この体で生きる人生を導いておられます。私たちのために、イエス・キリストは体を持ち、十字架に死に、栄光に復活されました。無駄に思える出来事もあるでしょう。苦しみや悲しみがあり、体も心も傷ついたりくたびれたりするでしょう。しかし、その全てを神は知っておられ、永遠に覚えておられます。私たちの人生をかけがえのないものとして受け止められ、後には永遠のからだとして迎え入れてくださいます。そのキリストの御業の中で、自分をも他者をも見る者とされたいと思います。そして、天の父の助けやご配慮を求めて、ともに希望に生きるのです。

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「礼拝⑮ 赦せない苦しみからの解放」マタイ18章21-35節

2017-03-19 14:41:50 | シリーズ礼拝

2017/3/19 「礼拝⑮ 赦せない苦しみからの解放」マタイ18章21-35節

 主の祈りの第四の願いは

「日毎の糧を今日もお与えください」

でした。それに続く「私たち」の願いの二つ目は

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しましたから」。

 日毎の糧と罪の赦し。これこそ私たちの必要であり願うべきことです。

1.無制限の赦し

 このマタイ十八章の「王としもべの例え」は、弟子ペテロの

「何度まで赦すべきでしょうか」

という質問をきっかけに語られた「赦し」についての教えです。このマタイの福音書では「赦し」という言葉が十八回も使われて、とても「赦し」を大事にしています[1]。「赦しの必要に気づいている」といったほうがいいかもしれません。マタイは、その六章で「主の祈り」を記していますが、その直後でも、今日の35節と同じ事を強く教えているのです。

マタイ六14もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

 「主の祈り」を教えられた最後にこう確認されます。第五の「赦し」の願いを、他の願いに勝ってもう一度取り上げられるのです。このように、マタイは「赦し」を丁寧に取り上げます。今日の十八章の例えが示しているように、私たちは「人を赦してやるなら何度までか」と考えがちです。しかし、それに対してイエスが語られるのは、そもそも私たち自身が赦されていること、それも膨大な負債を赦して戴いていることです。主の祈りでは「罪」を「負い目」(負債・借金)と呼んでいますが、この十八章の例えでも

「一万タラント」

の借りのあるしもべが出て来ます。一万タラントとは欄外にありますように、一日分の労賃一デナリの六千倍の一万倍です。つまり、二〇万年分の労賃という膨大な金額です。これほどの負債を、彼はどうやって作ったのでしょうか。そして、彼はどうやって返済するつもりなのでしょうか。しかし、その彼のため、王は心を深く深く痛めてくださいました。27節の

「かわいそうに思って」

は簡単な言葉ではなく「腸で感じる」という言葉です[2]。そういう深い深いあわれみをもって、このしもべの莫大な負債を免除してくれました。それなのに、彼は、自分に負債のある仲間を赦しませんでした。自分が赦してもらった借金の六〇万分の一でしかない額を赦してやりませんでした。それを知った王は、彼を呼びつけて、怒り、投獄したという話です。

 ここで大事なのは、王が先に彼を憐れんで巨額の負債を赦されたことです。王は「お前が仲間を赦したら、私も赦してやろう」とは言われません。まず王が、測り知れない慈悲を垂れて、返せもしない負債を返しますといって憚らないしもべさえ憐れんで下さったのです。その驚くべき赦しに対する応答は、自分もまた同じように人を赦す、という形以外にないのです。

2.「赦せませんが、赦してください」はダメ?

 主の祈りを祈りながらも、こう考えていることはないでしょうか。「『我らに罪を冒す者を』私たちが赦し切れていないなら、神が私の罪を赦されないのだろうか」[3]。もっとすっぱりと

「私たちに負い目のある人を私たちは赦せませんけれども、私たちの負い目をお赦しください」

と祈るなら、どんなに楽か、と思ったりします[4]

 しかし、そうではないのです。イエスが求められたのは、私たちが赦されるだけではなく、赦されるからこそ人をも赦す生き方です。決して、私たちが人を赦したならそれに基づいて神も私たちを赦してくださる、ということではありません。まず神が私たちを圧倒的な愛で赦してくださったのです。そこには、私たちが赦すなら神も私たちを赦してくださる、という条件付きの保留はありませんでした。条件もなければ理由もない、全くもって不可解な、計りがたい赦しがありました。私たちもこのしもべも、同じように思いがけない新しい人生、赦された者としての新しい人生が与えられました。そしてその新しさは、神の憐れみに基づいています。莫大な負債さえ赦す、もっと莫大な愛をいただいたのです。だから、私たちも他者を赦すのです。他者に対して、冷たい心を捨てるのです。そうしないなら、私たちは自分が新しくされた土台を否定することになります。神は恩着せがましい方ではありません。この例えの、

33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。

は、王の心外さ、悲しみ、叫びです。王は彼にも憐れみ深く生きて欲しかったのです。神は、私たちを赦すだけでなく、私たちが互いに赦し合うことを心から願うのです。

「我らに罪を犯す者を我らは赦せないけれど、我らの罪をば赦したまえ」

という祈りなんかではないのです。

 私も誤解しやすいのですが、赦しとは「不問に付す」「大目に見る」のとは違います。この十八章も直前の20節までで丁寧に、教会の中での「つまずき」の問題を扱っています。つまずきが起こるのは避けられない[5]。人間関係で大きなダメージが起きることは避けられない。それをイエスは丁寧に扱われ、15節以下で対処を論じられます。責め、報告し、公開し、祈るのです。何も対処をせず目を瞑り、放任するのが赦しではありません[6]。そうした現実的な対応のアプローチが示されるのです。その続きの21節以下で、その対処が七度までか、いや、七度の七十倍、つまり「限りなくせよ」と言われたのです。それは本人の回復を願うからです。

3.「罪人」ではなく「神の子」

 躓きが起こるのは避けられません。私たちも神に対して負い目を重ねずには生きられません。神からお預かりした命や時間や体を、本来の目的通り運用する事が出来ません。口や手、能力や特権を神の御名があがめられるためではなく、御心を行うためでなく、悪用してしまうことが避けられない私たちの現実を神は十分にご存じです。そこで神が私たちに求められるのは何でしょう。失敗を繰り返さない努力でしょうか。ゴメンナサイと謝罪し、罪意識を抱えて生きることでしょうか。いいえ、神は私たちをご存じです[7]。その避けがたい現実に苛立つよりも、その私たちの「天にいます父」となってくださいました。イエスは主の祈りの最初に、罪を怒る神、返しきれない罪を責め、眉をひそめている王ではなく、

「天にいます私たちの父」

と呼ばせてくださいます。神は既に私たちの「父」となり、私たちを深く憐れみ、私たちにも神に愛された者として生きる新しい歩みを下さったのです[8]。神が私たちを赦されるのは、私たちを愛しておられるからです。そして、私たちの現実をどう変えていけば良いか、一緒に苦しみ、取り組み、助けてくださいます。躓きや罪が避けられない中で、今ある現実に対処しつつ、何度でも何度でも、回復や和解や癒やしに向かうことを願い、助けてくださる「父」なのです。

 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」。

 そう祈りなさいと言われた主のお言葉自体が、私たちに与えられた新しい生き方の証しです。主イエスは、赦しなさいと道徳を命じられ、赦さなければ赦されない、と捨て台詞を残されたのではありません。そして、神が人間の罪を丁寧に赦し、責めるよりも救いを下さることを何度も宣言されました。そして最後には、御自身が十字架に犯罪者として殺されることを通して、すべての負い目を代わって支払ってくださいました。[9]

 私たちにはまだ罪の性質はあります。躓きは避けられません。でも神は赦しのお方です。「罪人」とは私たちの性質や自覚であって、決して私たちのアイデンティティや肩書きではありません。私たちは神の子どもです。神の赦しを戴く者です。神の憐れみは膨大な借金よりも大きく、神の恵みの力は私たちのどんな失敗よりも強い。そして、十字架のキリストが下さる罪の赦しを信じる者です。福音は、私たちの罪を責めない以上のものです。それは私たちに自分の罪を認めさせて赦しを求めさせ、他の人を赦せない思いからも解放してくれます。

 赦しがたい問題があり、赦せない心がある私たちの現実に、この祈りは光を与えてくれています。

「主よ。私たちの負い目の赦しを願うのは、あなた様の測り知れない憐れみを信じるからです。その赦しの恵みを仰がせてくださり、人を赦せない思いや人を傷つける自分の姿にも気づかせてください。そうして自分を責め、あなたを冷たい神だと決めつける思い込みからも救い出してください。主イエスの下さった赦しとこの祈りにより、どうぞ私どもを新しくしてください」



[1] アフィエーミが十八回で、そのうち「赦す」と訳されているのは十八回です。他は、放っておく、置いておく、そのままにする、などの意味で使われています。「(罪の)赦し」に限らず、網や死人や雑草、を構わなくすることがアフィエーミです。二二22(イエスを残して立ち去った)が最も分かりやすいでしょう。罪を過去の変えられない出来事として、過去に置いておくことが「赦し」です。もし過去を何とかしよう、あるいはまだ捨てずに持っていたい、というなら、それは「赦し」を求めているとは言えませんし、そんな態度は神も赦しようがないでしょう。赦すとは、そのものから自由に生きることなのです。

[2] ギリシャ語「スプランクニゾマイ」。

[3] あるいは、文語では「我らが赦す如く」と言い、新改訳では「私たちも…赦しました」と言う、その微妙なニュアンスの違いで、自分たちの赦し方に基づいて、神の赦しも代わるのかどうか、でまた悩みそうになるかも知れません。この接続詞の訳は、日本語に訳すのが難しいのです。しかし、後述するように、全体的な「神の赦しと私たちの赦しとの対応」が分かれば、この訳語や関係で悩むことはないでしょう。「どこまで赦さなければならないのか」という問い自体、十八章21節以下でペテロが問い、イエスが覆された人間的な発想なのです。

[4] ここを読んで、「神の赦しは、私たちの赦しが十分でなければ、与えられないのだ」とは思わないでください。神は私たちを赦して、もう完全な救いに入れて下さるのです。しかし、それは私たちが人を赦さなくても自分だけは救ってもらえる、という「救い」ではありません。私たちが人への傲慢、自分を義とするプライド、他者の罪や過ちへの軽蔑、そして「そもそも自分が赦されたこと自体、大して自分には非がなかったからなのだ」と言わんばかりの思いから救われることが必要なのです。自分の失敗を隠し、胡麻菓子、言い訳し、他者に対して攻撃的である生き方そのものから救い出され、かぶっていた鎧を解くようになる救いへと、神は招かれるのです。

[5] マタイ十八7つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。

[6] 復讐は神に委ねる、ももう一つの柱。個人的に、感情的に、「正義」を果たそうとしてはならないことの自戒です。「復讐をしない」という意味での赦しは、「復讐は神の正義に委ねる」という意味です。神は人の復讐心を怒られると言うより、「わたしに委ねなさい」と引き受けてくださるのです。

[7] 私たちが一方で「まだ神は怒っておられるのではないか」とビクビク考え、他方で自分が赦されたことを忘れて他人の失敗を怒っている、そういう生き方そのものを憐れんでおられます。なぜなら、神は「天にいます私たちの父」だからです。

[8] イエスが世界に差し出されたのは、神が裁くお方である以上に赦しの神、回復の神、和解と平和を創り出す大いなる神であるという福音でした。私たちはその赦しに自らを差し出します。決して、神の怒りを恐れて、その宥めをビクビクと求め、キリストの慈悲に縋って赦しにあずかるためではなく、神の大いなる愛とあわれみのゆえに、差し出された赦しと救いをいただくのです。そして、その赦しをいただいた者として、私たちが他者を赦す時、私たちはイエスが始められた大いなる赦しの宣言に加えられるのです。

[9] そして、三日目に復活されて、弟子達に現れた時、その赦しや身代わりを恩着せがましく語られはしませんでした。むしろ、神の子どもとする聖霊を与えてくださったのです。

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問56「赦し以上の恵みを」ローマ8章1-2節

2017-03-12 20:22:54 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/3/12 ハイデルベルグ信仰問答56「赦し以上の恵みを」ローマ8章1-2節

 

 先ほど「罪の告白」の最初に、ミカ書の言葉を読みました。

ミカ書七19もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。

 「海の深み」ってどれほど深いのでしょうか。

 調べてみると、世界でも最も深い海のマリアナ海溝は一万メートル以上。エベレストの山がすっぽり入ってしまうほどなのだそうです。聖書は、罪の赦しとは、神が私たちの咎を踏みつけて、すべての私たちの罪をマリアナ海溝の底に投げ込んでしまわれるようなことだと教えています。投げ込んでしまったものは、もう海の深みにもう一度潜って取ってくることは出来ません。神が私たちのすべての罪を海の深みに投げ入れるとは、もうそれを決して持ち出すことなく、完全に永遠に赦してしまわれた、ということ。私たちも、罪をそのような神の赦しによって受け止めていく、ということです。これはキリスト者の信ずる画期的な告白です。

問56 「罪のゆるし」についてあなたは何を信じていますか。

答 神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わねばならない罪深い性質をももはや覚えようとはなさらず、それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決してさばきにあうことのないようにしてくださる、ということです。

 「使徒信条」もあと少しという所になって「罪の赦し…を信ず」という言葉が出て来ます。聖霊のお働きを、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と見てきた大きな告白に続いて、「罪の赦し」という私たちの生き方の問題点にスポットライトが当てられます。人間の恥部、聖なる教会の影である「罪」が取り上げられます。しかし、それは「罪の赦し」としてです。罪や恥を、今や「赦し」という光の中で見ることが出来るようになった、というのです。「罪の赦し」というと「キリスト教は暗いなぁ、堅いなぁ」と考えるむきもあります。しかし、罪の赦しは人間を責め立てるものではありません。むしろ驚くほどの解放、希望、明るい告白なのです。

 悲しいことに、「罪の赦し」を「赦し」よりも「罪」に強調を置いて考える人は少なくありません。キリスト者や牧師でさえそうです。神は私たちの罪を責め、いつも反省を求められ、赦しを乞うたら、「よし赦してやろう」と言ってくださる。そういうパターンを考えている人は少なくありません。それは、人間の出来る「赦し」がせいぜいそのような反省や謝罪によってでなければ、罪が造り出してしまった傷を乗り越えることが出来ないからです。罪を扱う難しさを、人間はどうすればよいか分からないのです。ですから、神が「罪の赦し」を語られると人間もたじろぎ、きっと神は無理矢理「寝た子を起こす」ようなことをなさるのだろう、と思い込みます。

 あるいは逆に、神は「罪を赦して、大目に見てくださるのだ」と勝手に思い込みます。「大目に見る」「目をつぶる」というのも人間の冒しがちな問題解決だからです。神は私たちの罪を見ないふりをされて、罰することをなさらないお方なのだ、と考えるのです。それが「罪の赦し」であるとしたらキリスト教はとんでもない甘ったれか、無責任か、現実逃避です。

 罪の赦しとは、そのような甘やかしとは違います。罪なんてたいしたことはない、だれでもやっているさ、と大目に見るどころか、罪のもたらす傷や問題、人間の心にあるすべての醜い思いをシッカリと見るのです。だからこそ、神はそれを私たちにあってはならないこととして、処分され、海の深みに投げ込んでしまわずにはおれません。私たちがそれを抱えたまま、握りしめたままでもいいとは決して仰らないのです。でも、神はすべての罪を踏みつけて海の深みに投げ込まれるのであって、罪を抱えた「私たちを踏みつけて、海や地獄に投げ込もう」とは決してなさいません。そして、どんなに大きく、取り返しのつかないような罪を犯した人も、もうその罪や過去を消せないで、永遠にその看板を背負った者として見るのではなく、その罪の過去を海の深みに投げ込まれた者として、受け入れ、愛し、喜んでくださるということです。これは実に大胆な告白です。

 ですから、「罪の赦し」を信じるとは、自分の罪はもう赦されたのだから自分は悪くないのだ、と開き直ることとは違います。もし罪がそのような軽いものだとしたら、そもそも赦される必要もないし、神が踏みつけてしまうこともないでしょう。そして私たちはどこかでそれが分かっているからこそ、いつも後ろめたい思いを抱えているのです。自分の過去がバレたら人が離れていくだろう、神様も本当は私の心を知って業を煮やしておられるに違いない。そう思いがちなのです。そういう私たちのために、礼拝で、「罪の赦し」の時間を設けるのです。

 夕拝で「罪の告白」の祈りや沈黙の一分間を持つのは、そうすることで罪を赦していただくため、ではありません。その逆です。まだ赦されていないように思っている罪、心に重くのしかかっている思いをそのままに主に祈るのです。そして、「この罪も赦して戴いたと信じます。この重荷も、もう私が負うのではなく、あなたが負って下さったと信じます」。そうやって「赦し」を受け止めるのです。そういう測り知れない恵みと慰めを、「罪の告白と赦し」で確認するのです。

 イエスは、私たちを罪から救うために十字架にかかって生贄をなってくださいました。私たちの罪をすべて海の深みに投げ入れてくださいました。だから私たちは、「罪の赦し」を「罪」ではなく「赦し」に強調を置いて大切にするのです。そこに与えられたのは赦し以上の恵みです。私たちが罪を赦されただけでなく、キリストの義を与えられて、罪に振り回されない正しい生き方をさえ戴けるのです。まだまだ罪の性質は残っています。しかしもう罪は私たちのアイデンティティではありません。私たちは日々、主イエスに助けていただいて、罪や不法のない生活を求めます。誰かを傷つけてしまったことには、本当に悔いて恥じ、誠心誠意を尽くして、償うべき事を償おうともするのです。そして、自分の罪の重荷に押しつぶされそうな人、人生を棒に振ってしまったような人にも、「罪の赦し」を信じる者として、向き合うのです。

 イエスが接したのは、売春婦や病人、卑しい職業についていた人たちでした。イエスは彼らと普通に交わり、一緒に食事をし、新しい希望を与えられました。それは当時の社会では考えも着かなかった驚くべき関係でした。「罪の赦し」を信じるとは、お高くとまるどころではない、自分をも他者をも、何よりも神御自身を、度肝を抜くほど新しい関係に置く告白なのです。

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