2021/3/28 ローマ書5章1~11節「救い主の死の力」
3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。…
は有名です。苦難、忍耐、練られた品性(練達)[1]、希望。とても美しい言葉です。しかし、この言葉だけを取り出すなら
「自分にはそうは思えない。私は信仰が弱いからこんな立派なことまではとても言えない」
と思うことになるでしょう。
この手紙の3~5章では、「私たち」著者と「あなたがた」読者という区別は一度もせず、ずっと読者も含めた「私たち」と言うのです。つまり、この手紙を読む誰もが、十字架にかかり、よみがえったイエスを信じているなら、罪の赦しだけでなく、
「私も神との平和を持っていて、「苦難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を生み出すと知っています」
と言えるのです[2]。どうしてでしょう?
…なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
そして、その愛がどんなものか、が6節以下に語られていきます[3]。それは、一言で言えば、
6実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
7正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
6節と8節で重ねているように、神の愛は、私たちがまだ弱かった頃(まだ罪人であったとき)キリストは不敬虔な者たちのために(私たちのために)死なれた。それが、神の愛とはどんな愛か、を私たちに明らかにしているのです。私が正しかったから、善良だったから、ではないし、それを自覚し反省していたからでもありません。まだ、弱かった頃、何も差し出せる強みがなかった頃、神の方からキリストを遣わして、キリストは死んでくださいました。
今週は主の苦しみを覚える受難週です。キリストの人としての生涯全体が、計り知れない謙りと献身でした。特にその最後の一週間、十字架に殺されるエルサレムで人々に語り、裏切る弟子たちの足を洗い、苦しみへの道を歩まれました。
手足を釘で打ち、磔にする十字架という人間が考え出した最も残酷な拷問も、人から笑われて誤解され、憎まれて呪われる苦しみも、私たちの経験を遙かに超える最期でした。
何より、父なる神から見捨てられ、私たちの代わりに罪への怒りを身に負われた苦痛は、私たちの想像を絶しています。そうしてイエスがご自分のいのちを与えきってくださったのは、私たちがまだ罪人であって、罪人だという自覚もなかった時でした。私たちが救われたいと願うとか、救われるに値する何か欠片の資質でもあったからではなく、そんなものが全く持ちようもない時に、先にキリストが死んで下さったのです。
人間の側からすれば、自分たちが一生懸命憐れみに縋って願えば、神も憐れんで救うぐらいはしてくださるかもしれない、という発想です。だから罪が赦されるだけでも御の字、と思います。しかし、神の側からすれば、人間が願うより先に、キリストのあの苦難と死をも惜しまなかったのです。それは神が、人間の罪を「赦してあげよう」とか、「これだけしてあげたんだから」と恩着せがましくするような事ではない愛です。まず神が、私たちを愛し、赦しと平和と将来栄光にあずからせようと願っておられ、先に行動された神の愛を明らかにしています。
9ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。[4]
「敵」と「和解」。反対の言葉です。「敵との平和」なんて矛盾しています。それが神の愛なのです。敵が降参したらではなく、敵であった時に命を捨てて、敵対(反逆)を赦し、敵をひっくり返して和解し、永遠に平和な関係を下さいました。ですから、私たちは罪が赦されただけでなく、「神との平和」を持っています。また、苦難にあってそれを「愛の神も何かお怒りに違いない」と思ったりせず、キリストが私たちのために苦しまれたのですから、苦難は神の怒りではない、むしろその苦難を通して神は私たちの心を練られて、希望を持たせたいのだと信じるのです。
11それだけではなく[5]、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
神との和解! それは私たちにとって、神が喜びとなる出来事です。それは、神がまず私たちを愛し、喜んでおられると知るからです。キリストが、今から二千年前、本当にあのカルバリの丘で十字架にかかってくださいました。本当に、私たちのために苦しみと死を遂げてくださいました。人が赦しや救いを神妙に願うより先に、罪人であり敵対していた時に、でした。
私たちは、神との平和を持ち、将来、神の栄光にあずかる望みも喜んでいて、苦難さえも希望に至るためだと知らされています。
キリストが私たちのために、私たちに先駆けて、あれほどの苦しみを受けてくださったことは、神の私たちに対する大きな愛を現しています。
その光の中で、私たちは、神との平和を持つ者として、どんな苦難をも新しい目で見始めています。
「主よ。あなたの苦難と死は私たちの想像を絶しています。そこで担われた私たちの罪の大きさも理解できません。それ以上に、罪ある私たちを担われたあなたの愛の大きさを、深さを味わい知らせてください。そこに明らかにされた神の愛を、もう一度私たちの心に注いでください。罪の赦しと、神との平和を持つ者として、遣わしてください。罪の欺きから目覚め、あなたの恵みに忍耐と品性を培ってください。この受難週、主を想い静まって過ごさせてください」
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。7正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。9ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。11それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
脚注
[1] 「練られた品性」ドキメーは「練達」と訳されて、長くこう暗記してきた方も多いでしょう。原意は「証拠」です。
[2] 今日のローマ人への手紙5章は、4章最後の言葉を受けて、救いを豊かに展開する章です。ローマ4章25節「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。五1こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。…」と続くのです。主イエス・キリストによって、私たちは神との平和を持っている。
[3] 「ご自身の愛」は、強調形ヘアウトゥー・アガペーです。一般的な「彼の愛」アガペー・アウトゥーよりも強い言い方になっています。
[4] 神は私たちに対する愛を、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって明らかにされた。それを、私たちは信じるのだ。私たちの信仰が根拠になって、キリストが私たちを救って下さるのではない。キリストが救って下さる愛が根拠になって、私たちは信じる。そこには、神との平和、栄光にあずかる望み、苦難を通しての希望さえ含まれている。
[5] 「それだけではなく」は、3,11節で繰り返されています。こうして福音が、罪の赦しだけでなく、平和・望み・苦難さえも喜び、和解・救いだけでなく、神を喜ぶことさえ含んだ豊かなものであることをイメージさせています。「神との平和」は、単なる「休戦状態」や表面的な和平以上のものです。それが、「神を喜んでいる」という言葉で言い表されています。旧約の「シャローム」という言葉に含まれているのは、繁栄・完全さ・祝福であり、用法をたぐっていくならば、「支払い済み」というニュアンスがあるとも言えます。私たちは、キリストによって、すべての「支払い」がもう済んでいると確信できるのです。考えられないほどの恵みです!