聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/5/23 聖霊降臨主日ローマ人への手紙8章26~30節「神がともにうめく」

2021-05-22 12:18:10 | ローマ書
2021/5/23 聖霊降臨主日ローマ人への手紙8章26~30節「神がともにうめく」

 教会の一年には三つの大きな祝祭の日があります。父なる神が御子イエスを贈ってくださったクリスマス、御子イエスが死からよみがえらされたイースター、そして、聖霊なる神が弟子たちに贈られたペンテコステ、今日の聖霊降臨日です。キリストがなさったことを、聖霊なる神が、私たちの心に深く力強く働いて届けてくださる。私たちが、キリストと出会って福音を信じ、聖書の言葉によって変えられ、喜びや平安、愛を持つことが出来るのは、ひとえに聖霊なる神の働きです。その事が、主イエスの十字架と復活の七週間後の日曜日に起きました。それが使徒の働き2章に書かれています。今日はその記念の、特別な聖霊降臨の主日礼拝です。
 私たちは、クリスマスとイースターと聖霊降臨が既に起きた時を生きています[1]。使徒二章のような激しい出来事はなくても、その後の使徒の働きが淡々と描くような教会の歩みの中に、見えない聖霊の導きや働きがあると信じながら、「我は聖霊を信ず」と告白して歩んでいます。
 ローマ書の八章は、聖霊の働きを繰り返して教えています[2]。その中に有名な言葉として、
8:15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
 私たちが神の子どもとされ、神を親しく「アバ、父」と呼んでいるのは、「子とする御霊」と呼ばれる聖霊なる神の働きです。計り知れない恵みです。その他にも、この八章には聖霊が与えてくださった恵みが豊かに書かれていますが、今日は特に26節以下を読みましょう。
26同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。[3]
 使徒パウロが「何をどう祈ったら良いか分からない」というなんて意外です。けれども、パウロだからこそ正直に、私たちは弱い、神に祈ることにおいても、究極的にはどう祈ったら良いか分かるなんて言えないと告白しています[4]。漠然と「助けてください、守って下さい、祝福してください」とは祈れても、今、ここでどうなることが本当に最善なのか分からず、言葉に詰まる思いをするのです。しかし、その私たちを御霊は助けてくださいます。
 「弱い私たち」
は「私たちの弱さ」という言い方です。私たちの強さ、力を助けるのではなく、私たちの弱さを助けてくださる。何をどう祈れば良いか分からない私たちを受け止めてくださる。思いをどう言葉にすればいいか分からないけれど、その思いの更に奥にある深い呻きを、聖霊もともにうめいてくださり、神に届けて執り成されるのです[5]。本当に苦しい思いをする時、神がいないとか、自分なんか神は見捨てたのだとか、そのように思うとしても、その苦しい呻きこそ、聖霊がともにしておられるのです[6]。その続きが28節の有名な言葉です。
28神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
 欄外に「異本「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを」とあり、「神は」がないのがオリジナルのようです。また29、30節の「神は」も補足で原文では主語は省略されています。ならば27節からの流れから、これらすべてが御霊の働き、聖霊の呻きの延長だと読むのが自然です。聖霊は私たちの心深くの言葉にならない思いをともにし、その聖霊がすべてのことがともに働いて益となるようにされる。それは、
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのために」
です。神のご計画は、神に背を向けた人間が神に立ち返り、神を心から愛するようになることです。それは、聖霊の御業による心の深い変化です。
 私たちの心の奥深くの呻きを共にされつつ、すべてのことがともに働くようにして、私たちがどう祈れば分からないながらも、今を語る言葉を持ち合わせなくても、神を愛し、心から神を信頼し、喜ぶようにと働いてくださる。永遠からのご計画に従って私たちを召して、義を与え、更に栄光も与えて、御子イエスと同じ姿、イエスを兄とする弟や妹として、成長させてくださる[7]。そのために、今の時の苦しみも[8]、私たちが言葉を失うような出来事も、たいしたことがないと思うことも
「すべてのこと」
がともに働く。そして、31節以下39節まで、苦難や苦悩、迫害や上や裸や、死やいのち、どんなことがあっても、
「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」
と言われるのです。そして、神はご計画に従って召してくださったすべての人、私たちにも、そう心から言わせてくださるのです。

 聖霊が注がれたことを記念する今日、今私たちの弱さを告白し、助けていただきましょう。コロナ禍がまだ続く中、何をどう祈ったら良いか分からず戸惑っています。他にも沢山の苦難があり、何がなくても何か心の奥には言葉にならない呻きが響いています。聖霊は、そうした私たちの弱さをともになさるお方。そうして、全てのことがともに働いて、私たちがますます神の愛を知り、神の愛から私たちを引き離すものはないのだと、心から言うように導いてくださる。それが、聖霊がこの世界に来られて、私たちの弱さや呻きにまで、本当に深く謙ってでも、始めておられる事なのです。「それには自分なんか」と思われますか。私もそう思いそうになります。そのあなたや私の弱さこそ、聖霊が助けてくださるよう差し出しましょう。

「天の父よ。今も私たちは、御霊の取りなしの故にあなたを父と呼び、祈りを捧げることが出来ます。深い呻きと痛みの中にある私たちを憐れんでください。被造物の世界全体が贖いを待ち望んで呻いています。主よ、この私たちの深い現実を、あなたは贖い、回復し、完成なさるお方です。どうぞ聖霊の働きにより、私たちを助けてください。私たちの弱さを差し出します。元に戻るよりも、あなたの愛に向けて、栄光の完成に向けて、私たちを進ませて、ますますあなたを愛し、互いに愛し、ともに歩む神の家族として成長させてください」

脚注

[1] キリストがお生まれになったクリスマスの出来事も、十字架と復活も、一度きりの決定的な出来事であったように、聖霊が下られた出来事も決定的な出来事です。

[2] ローマ書、1:4、11、2:29、5:5、7:6、14と御霊に触れてきて、8章で二〇回近く多用。既に御霊を受けている、という大前提。御霊が働かなければ、信じることも、良心を刺されることも出来ない。

[3] うめき(シュテナグモス) 8:22(シュステナゾーともにうめく)、23(シュテナゾー 使徒7:34とここのみ)

[4] 22-23節にも「私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。23それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」とあります。この世界が、苦難(18節)や虚無(20節)滅びの束縛(21節)に苦しんで、将来の栄光(18、21節)を待ち望む途上にある以上、苦難がないとしても、私たちはうめきを持っています。

[5] 「言葉にならない呻き」は私たちのとも御霊とも取れます。

[6] この八章には「ともに」が繰り返されます。16節(御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。)、17節(子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。)、22節(私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。)、24節(私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。)、28節(神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。)、29節(神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。)、32節(私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。) 24節の「望みとともに」以外は、動詞に接頭辞スンがついた複合動詞です。24節だけは、名詞の与格を訳したものです。他にも、「ともに」という意味合いでの与格や、そもそも聖霊の働きそのものが「ともに」である、神ご自身が「ともにいます(インマヌエル)」と名乗られるお方であることを考慮すると、スン以外にも神の臨在が溢れている八章だと言えましょう。

[7] …聖霊がわたくしの心の中でわたくしの弱さを助けたもうのに、二種類の仕事があって、ひとつは、わたくしの心の中で言うに言えない「うめき」がある、そのうめきを使って神様に訴えてくださることと、第二に、聖霊がわたくしの心の中に「神を愛する」愛情を育ててくださることによって、「万事を益となるようにして下さる」のだと思います。/…その同じ聖霊が、またわたくしたちの心を「神を愛する」愛情に燃え立たせてくださることによって、“すべては善し”と告白できるように変えてくださるのだと思います。本人がよいとも思わないのに、客観的にだけ物事を万事よいように取り計らって済ますということはあり得ない。本当に究極的な幸せというのは、もちろん初めは本人はそれを自覚しないかもしれませんが、ついには本人も“これがよい”という、心からの神への愛、感謝、満足が本人の心に芽生えない限り、万事が益になったとは言い切れないですね。ですから、パウロは、それを「聖霊が、神を愛する者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」のだと、こう言っているのではないでしょうか。/すべてのことが益になりますのは、そのように、わたくしたち自身の心の中に「神を愛する」という思いが芽生え、神への愛にわたくしたちが生きている中で初めて、わたくしの身の回りの人生のさまざまな出来事が積もり積もりめぐりめぐって結局幸せになっている、と言えるのでありまして、神を信じてもいなければ神に向かってつぶやいているような人に、万事が益になるわけはありません。」榊原康夫『ローマ人への手紙講解3』、138~139頁。

[8] 8章18節「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」

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2021/3/28 ローマ書5章1~11節「救い主の死の力」

2021-03-27 12:35:18 | ローマ書
2021/3/28 ローマ書5章1~11節「救い主の死の力」

 3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。…

は有名です。苦難、忍耐、練られた品性(練達)[1]、希望。とても美しい言葉です。しかし、この言葉だけを取り出すなら
「自分にはそうは思えない。私は信仰が弱いからこんな立派なことまではとても言えない」
と思うことになるでしょう。
 この手紙の3~5章では、「私たち」著者と「あなたがた」読者という区別は一度もせず、ずっと読者も含めた「私たち」と言うのです。つまり、この手紙を読む誰もが、十字架にかかり、よみがえったイエスを信じているなら、罪の赦しだけでなく、
「私も神との平和を持っていて、「苦難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を生み出すと知っています」
と言えるのです[2]。どうしてでしょう?
…なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 そして、その愛がどんなものか、が6節以下に語られていきます[3]。それは、一言で言えば、
6実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
7正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 6節と8節で重ねているように、神の愛は、私たちがまだ弱かった頃(まだ罪人であったとき)キリストは不敬虔な者たちのために(私たちのために)死なれた。それが、神の愛とはどんな愛か、を私たちに明らかにしているのです。私が正しかったから、善良だったから、ではないし、それを自覚し反省していたからでもありません。まだ、弱かった頃、何も差し出せる強みがなかった頃、神の方からキリストを遣わして、キリストは死んでくださいました。

 今週は主の苦しみを覚える受難週です。キリストの人としての生涯全体が、計り知れない謙りと献身でした。特にその最後の一週間、十字架に殺されるエルサレムで人々に語り、裏切る弟子たちの足を洗い、苦しみへの道を歩まれました。
 手足を釘で打ち、磔にする十字架という人間が考え出した最も残酷な拷問も、人から笑われて誤解され、憎まれて呪われる苦しみも、私たちの経験を遙かに超える最期でした。
 何より、父なる神から見捨てられ、私たちの代わりに罪への怒りを身に負われた苦痛は、私たちの想像を絶しています。そうしてイエスがご自分のいのちを与えきってくださったのは、私たちがまだ罪人であって、罪人だという自覚もなかった時でした。私たちが救われたいと願うとか、救われるに値する何か欠片の資質でもあったからではなく、そんなものが全く持ちようもない時に、先にキリストが死んで下さったのです。
 人間の側からすれば、自分たちが一生懸命憐れみに縋って願えば、神も憐れんで救うぐらいはしてくださるかもしれない、という発想です。だから罪が赦されるだけでも御の字、と思います。しかし、神の側からすれば、人間が願うより先に、キリストのあの苦難と死をも惜しまなかったのです。それは神が、人間の罪を「赦してあげよう」とか、「これだけしてあげたんだから」と恩着せがましくするような事ではない愛です。まず神が、私たちを愛し、赦しと平和と将来栄光にあずからせようと願っておられ、先に行動された神の愛を明らかにしています。
 9ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。[4]

 「敵」と「和解」。反対の言葉です。「敵との平和」なんて矛盾しています。それが神の愛なのです。敵が降参したらではなく、敵であった時に命を捨てて、敵対(反逆)を赦し、敵をひっくり返して和解し、永遠に平和な関係を下さいました。ですから、私たちは罪が赦されただけでなく、「神との平和」を持っています。また、苦難にあってそれを「愛の神も何かお怒りに違いない」と思ったりせず、キリストが私たちのために苦しまれたのですから、苦難は神の怒りではない、むしろその苦難を通して神は私たちの心を練られて、希望を持たせたいのだと信じるのです。
11それだけではなく[5]、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
 神との和解! それは私たちにとって、神が喜びとなる出来事です。それは、神がまず私たちを愛し、喜んでおられると知るからです。キリストが、今から二千年前、本当にあのカルバリの丘で十字架にかかってくださいました。本当に、私たちのために苦しみと死を遂げてくださいました。人が赦しや救いを神妙に願うより先に、罪人であり敵対していた時に、でした。
 私たちは、神との平和を持ち、将来、神の栄光にあずかる望みも喜んでいて、苦難さえも希望に至るためだと知らされています。
 キリストが私たちのために、私たちに先駆けて、あれほどの苦しみを受けてくださったことは、神の私たちに対する大きな愛を現しています。
 その光の中で、私たちは、神との平和を持つ者として、どんな苦難をも新しい目で見始めています。

「主よ。あなたの苦難と死は私たちの想像を絶しています。そこで担われた私たちの罪の大きさも理解できません。それ以上に、罪ある私たちを担われたあなたの愛の大きさを、深さを味わい知らせてください。そこに明らかにされた神の愛を、もう一度私たちの心に注いでください。罪の赦しと、神との平和を持つ者として、遣わしてください。罪の欺きから目覚め、あなたの恵みに忍耐と品性を培ってください。この受難週、主を想い静まって過ごさせてください」

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。7正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。9ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。11それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

脚注

[1] 「練られた品性」ドキメーは「練達」と訳されて、長くこう暗記してきた方も多いでしょう。原意は「証拠」です。

[2] 今日のローマ人への手紙5章は、4章最後の言葉を受けて、救いを豊かに展開する章です。ローマ4章25節「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。五1こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。…」と続くのです。主イエス・キリストによって、私たちは神との平和を持っている。

[3] 「ご自身の愛」は、強調形ヘアウトゥー・アガペーです。一般的な「彼の愛」アガペー・アウトゥーよりも強い言い方になっています。

[4] 神は私たちに対する愛を、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって明らかにされた。それを、私たちは信じるのだ。私たちの信仰が根拠になって、キリストが私たちを救って下さるのではない。キリストが救って下さる愛が根拠になって、私たちは信じる。そこには、神との平和、栄光にあずかる望み、苦難を通しての希望さえ含まれている。

[5] 「それだけではなく」は、3,11節で繰り返されています。こうして福音が、罪の赦しだけでなく、平和・望み・苦難さえも喜び、和解・救いだけでなく、神を喜ぶことさえ含んだ豊かなものであることをイメージさせています。「神との平和」は、単なる「休戦状態」や表面的な和平以上のものです。それが、「神を喜んでいる」という言葉で言い表されています。旧約の「シャローム」という言葉に含まれているのは、繁栄・完全さ・祝福であり、用法をたぐっていくならば、「支払い済み」というニュアンスがあるとも言えます。私たちは、キリストによって、すべての「支払い」がもう済んでいると確信できるのです。考えられないほどの恵みです!

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2020/10/25 ローマ書1章16~17節「神の義は人を生かす」宗教改革記念礼拝

2020-10-24 12:40:24 | ローマ書
2020/10/25 ローマ書1章16~17節「神の義は人を生かす」宗教改革記念礼拝

 今週末まで、黒とオレンジで彩られた、南瓜やお化けの絵で見かけるハロウィン商戦が続きます。その後は一挙にクリスマスカラーに様変わりする景色もお馴染みになりました。今よりもっと違う形で五百年前に行われていたこのハロウィンに、この諸聖人の記念のお祭りに託(かこつ)けて「贖宥状」の大商戦が張られました。それに対してマルチン・ルターが「九十五箇条の提題」を出して、宗教改革が始まりました。10月31日はプロテスタント宗教改革記念日です。
 マルチン・ルターは「宗教改革を始めよう」と思っていたわけではありません。彼はただの修道士で、その数年前から大学で詩篇やローマ書を教えていただけです。そのローマ書の授業の準備の中で、ルターを大きく変えたのが、このローマ書1章16~17節の言葉です。
16私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。17福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
 福音には神の義が啓示されている。ルターは
「神の義」
に悩み続けていました。人間よりも遙かに正しく、絶対的に歪められる所のないのが、神です。神の義、神の道です。では、その絶対的な義である神の前に、罪人である自分が受け入れてもらうために何をしたらいいのか。どんなに苦行を積み、懺悔を繰り返しても、神の怒りの顔を宥めることは出来ない。その事にノイローゼ気味になっていたルターが、聖書研究をするうちにこの言葉に出会いました。
「福音には神の義が啓示されて」
いる。神の義と福音とは相容れない、と思っていたのに、福音において啓示されているのが「神の義」だと気づいたのです[1]。神の義は、福音という、
…信じるすべての人に救いをもたらす神の力…
において啓示されている、という事です。人間の義(さばき)は、罪を罰し、罪を犯した者を滅ぼすことしか出来ないでしょう。神の義は、その延長ではないのです。福音、信じるすべての人に救いをもたらす福音において、神の義というものが啓示されている。罪人が救われない神の義ではなくて、救いをもたらす神の力にこそ、神の義が表されている。
 言い方を変えれば、ここでパウロは
「私は福音を恥としません」
と言います。かつてのパウロは潔癖症なパリサイ派でした。その彼には、十字架にかけられたイエスが救い主だなんて、恥・冒涜、許せない信仰でした。教会を迫害しながら、「恥を知れ」と思っていたでしょう。しかしパウロは、キリストがこの福音を恥じなかったことを知りました。義なるキリストが十字架を恥じなかった。罪人のために、屈辱や呪いや誤解を一人で受けることも躊躇わなかった。もっと言えば、ユダヤ人もギリシア人も、人から「あの人は救われようがない」と思われている罪人も、自分で自分を恥じている人も、取りも直さず、私自身を恥じず、私のために十字架に着くことを恥じなかった、ということです。キリストが私たちを恥とせず、福音を恥じず、私たちのための十字架の恥をも忍ばれました[2]。だから、パウロも福音を恥じないのです。
 そして続く18節
「というのは、…」
と繋いでこの後、福音とはどんなものか、主イエス・キリストの福音がどれほど完全で十分で、その救いとはどんな新しい生き方なのかを語ります。パウロ自身の内面の葛藤や恥も吐露します[3]。お互いに裁き合う現状に対して
「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を」
あなたの意見で滅ぼさないでほしい[4]。そう展開しながら、ローマ書全体、十六章までかけて、福音を本当に豊かに、力強く論じていくのです。
 聖書を読んで、この福音に気づいたルターは、イエス・キリストの十字架と復活だけでは不十分であるかのような「贖宥状」や当時の教会儀式には抗議せずにはおれませんでした。この「九十五箇条の提題」をきっかけに論争が始まり、段々とルターの考えが深まり、大きな宗教改革運動になりました。しかしそのきっかけになったのは、いわばほんの小さな一語。
「神の義」
が「神だけが持っている義」の「の」なのか、「神が私たち罪人を赦して義として下さる」の「の」なのか、その差だったとも言えます[5]。その小さな、しかし大きな「神の義」の違いが、ルターを
「信仰に始まり信仰に進ませ」
たのです[6]。信じて受け取るだけでは不十分で、まだ私たちの努力や何かが必要に思う心につけ込むやり方に抗議して立ち上がる力を得ました。信仰を育てられて、その後も様々な妨害や混乱に揺さぶられながらも、神の言葉の福音を語り続けました。恵みは、私たちを怠惰にするどころか、私たちを新しくする力です[7]。
 宗教改革記念日に、この神の義に立ち戻ります。福音は、私たちを救うのは神であり、自分の正しさや信仰ではないとの告白です。正しくない私のために主イエスが死んでくださり、よみがえってくださいました。罪を赦し、更にいのちを与えて生かし、力づけて、新しくしてくださいました。その福音が世界の人に届くよう、神は働いておられ、私たちにも届けられました。教会が間違い、大きく道を逸れかねない、自分たちの危うさ、不完全さも謙虚に認めます。そして、そこにも主が働いて、恵みの福音に立ち戻らせ、救いを得させてくださるのです。

「教会のかしら、イエス・キリストの父よ。あなたが宗教改革によって『神の義』の素晴らしい知らせを回復して下さり感謝します。なおも誤りやすく、日々みことばによって新しくされ、喜びの知らせを届けていけますように。福音を恥じそうになる時、自分を恥じそうになるとき、あなたが私たちを決して恥とせず、主イエスが十字架の辱めを受けてくださったことを思い起こさせてください。私たちの歩みを通しても、恵みに溢れるあなたの栄光を現してください」

脚注:

[1] それは、3章21節以下と読み比べると分かります。「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。23すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、24神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」

[2] ヘブル書に2カ所、この言葉があります。2:11「聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。」、11:16「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」

[3] 七章。

[4] ローマ書14章4節「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。5ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。6特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。7私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。8私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。9キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。10それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。11次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」12ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。14:13 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。14私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。15もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。16ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。17なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。18このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。19ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」

[5] 神学校時代の恩師、丸山忠孝氏の解説でした。文法的には、「所有的属格」か「主格的属格」か、と言います。

[6] 罪を罰し、怒るだけの神であれば、信仰は持てません。信頼より恐怖です。しかし、神の義は罰するより、救いをもたらす義です。

[7] 当時の教会は、ルターにこう反論しました。「神の恵みだけで救われる、行いは要らないなどとしたら、人々は怠惰に生きるようになって、とんでもないことになる」。しかし、聖書そのものが教えているのは、その逆です。救われるために行いが必要なら、それは偽善です。ただ、神の恵みによって私たちを救い、私たちが魂の手である信仰でそれを受け取るだけでいい。その神の義によって、私たちのうちに信仰が、神への心からの信頼、安心、憧れ、従おう、お任せしようという信仰が始まるのです。そして、神の義が私たちを支えて、ますます信仰を養われていくのです。

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2013/2/24 ローマ書八26-27「言いようもない深いうめきによって」

2013-02-27 10:37:07 | ローマ書
2013/2/24 ローマ書八26-27「言いようもない深いうめきによって」
イザヤ書五二13-五三12 詩篇一七篇

 前回、22節23節で、
「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている…。
23そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと…を待ち望んでいます。」
と言っていました。それに続いて、今日の箇所では、
「26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
と、その「うめき」についての考察を深めていきます 。
私たちはこの言葉をよく聴かされています。祈りについて語るときには、必ずここが引かれるといってよい位、知っている言葉です。私たちがどのように祈るか分からなくても、御霊が取り成してくださっている事に望みをかけて、祈ることが出来る。そう励まされて来た言葉でもあるでしょう。けれども、今日、改めてこの言葉を、本来のローマ書八章26節という位置付けで読むこともまたとても大切であります。何しろ、最初に、御霊も、と言われています。今の私たちが、苦しみや罪の中で、そのままであればとてもとても救われることなど出来ないし、滅びを覚悟するしかなかったのに、神は私たちを救い、キリストは十字架にかかるまでにご自身を与え、救いに入れて下さり、将来には、すべての苦しみをも取るに足りないとするほどの栄光を、私たちの中に入れてくださると約束して、私たちを慰め、励ましてくださっている。そこには、全被造物に対する神様の大きなご計画がありました。その話の中で、今日の、「御霊も同じように」という踏み込んだ教えがあるのです。
 ですから、ここで私たちの祈り、ということが言われますが、これはただ、祈りという、人間の宗教的な生活のさらにごく一面だけのことを言っているのではありません。この「弱い私たち」とは、「私たちの弱さ」という言葉ですが、私たちの弱さが、祈りの貧しさに表れるから、ここに、
「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、」
という言い方になるのです。これは、どう祈ったらよいか分からない時もあるではないのです。分からない時もあるけれど、分かる時もある、ではないのです。分からない、です。私たちは、本当に神に祈るとはどういうことか分からない。聖なる神、心の奥まで知っておられる神に祈るとは、どのように祈ればいいのか。どう祈ればいいか、ということは、言葉を整えるだけのことではありません。私たちの心、祈る内容、願い、そうしたものが問われてくる。そんなことを言われたら祈れなくなる、と思うかも知れませんが、パウロは、そのままの祈りでいいんだ、とは言いません。祈りの根拠は、祈る私たちの側にではなく、聖霊の執り成しのゆえに祈ることが出来る。それが、パウロの、聖書のアプローチなのですね。
 別の言い方をすると、この「うめき」は、私たちが呻かざるを得ないような困難な状況とか祈りの課題があるかどうか、ということには限られません 。勿論、そうした、祈る言葉も出ないほどの、どうしようもない状況も私たちの人生には起こるのです。しかしそうした時でも、祈っているうちに、「確信が与えられる」というよりも、本当に色々なことを考えさせられるようになり、その問題さえなくなってくれれば、ということから、その事を通しても神様が良いようにしてくださいますように、としか祈れなくなることもあるのではないでしょうか。しかし、その問題がそのままでいいとは祈れません。そういう、どうにも不甲斐ない思いになることがないでしょうか。結局、私たちは自分の人生というものをさえ、ちゃんと捉えることは出来ない。そして、抑(そもそ)も置かれた状況が楽かどうか、祈ったことが叶わなかったかどうか、そういうことに関わらず、この地上にあり、贖いの完成を待ち望んでいるただ、そのような私たちの貧しさ、限界を超えて、主が働いてくださるという所に、私たちの望みも慰めもあるのです。
 二つのことを考えたいと思います。一つは、人間は、自分たちが熱心に祈るならば、神も必ず悪いようにはなさるまい、と考えます。それも、善意や信仰深さから、そう思います。しかし、今日の箇所や聖書全体が教えるのは、私たちはどのように祈ればよいかさえ分からない者なのだ。しかし、その私たちの貧しさ、弱さをも共にしてくださる神の御霊が、私たちの思いの底の底、言葉にならない呻きさえ汲み取ってくださり、私たちと一つになり、祈りを神のもとに届けてくださるのだ。人間の思いに神が答えられるのではなく、神の測り知れない、ひとりひとりに寄せてくださる慈しみによって、私たちの祈りがある。この順番を覚えたいと思います。
 もう一つ覚えたいのは、この後28節に出て来る有名な言葉との繋がりです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 この言葉の前に、今日の、御霊の呻きによる執り成しが教えられるのです。28節そのものは次回に詳しく話しますが、一言で言うなら、私たちは御霊の呻きを抜きにして、万事を働かせて益としてくださるという所に、一足飛びに逃げてはならないのです。
 万事を働かせて益としてくださる、というと兎角(とかく)すべてのことが「うまくいく」とか「結果オーライ」とか、物事の事象面を考えがちです。しかし、もし出来事さえうまくいけばいいのであれば、御霊が呻く必要はありません。私たちの祈りが貧しくても、神様の方では先回りしてご存じであり、物事をうまく運んでくださればいいのですから。しかし、そうではない。御霊が、私たちの呻きをご自身の呻きとして、言いようもなく深いほどに取り成して、また、神の御心に従って、私たちの心を探り極めてくださる。ここにもまた、神が、私たちの心を見ておられ、心を深く取り扱われる方、出来事よりもこの人生でのハッピーエンドよりも、もっと大きなスパンで私たちの心を導かれるお方であることを覚えたいのです。
「27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
 私たちがあれこれと祈ったり一喜一憂したりする、そういう表のことではなく、もっと深いところにある、言葉にすることさえ出来ない呻きのような願いを、御霊はすくい取って、ご自身の呻きとしてくださいます。御霊がその私たちの呻きを神のもとに届けるという事によって、私たちの祈りが上っ面の祈りではなく、本当に心を神にささげるように祈ることが出来るようにされていきます 。それが、「神の御心に従って」御霊が私たちを「助けて」くださるという助けです 。私たちの祈りがしどろもどろで的を射ていなくても、その私たちの貧しい祈りを、御霊がご自身の思いとして、言わば「言い直して」くださいますので、人間の心を探り窮める方は、その御霊の思いという、御心のフィルターを通して、私たちの心を知ってくださると信じることが出来るのです。
 神が、人間の心を探り窮めるお方である、とは恐れ多いことです。穴があったら入りたいような、恥ずかしいような、ゾッとするような、そんな私たちの心の底にある思い、本音。自分でも直視したら呻いてしまうような思い。御霊をも呻かせてしまうほかない、私たちの罪があります。その、深い呻きを消したくて、私たちはあれやこれやの願いを祈ります。何か、周りの状況が変われば、夢が叶えば、心は満たされるのではないか、と望みますが、どんなに願いが叶っても、心の深い空洞は呻き続けるのです。いいえ、そうである限り、いくら万事が収まるところに収まった、絶妙などんでん返しの最後を迎えたとしても、私たちはなお、自分の願いが叶わなかったことを数えるでしょう。将来、すべての苦しみを取るに足りないとするほどの栄光に与ろうとする時にも、地上で受けた苦しみを数えて、神様のご計画にケチをつけてしまうでしょう。
 しかし、御霊はそんな私たちの思いを睨んだり嫌悪したりはなさらず、ご自身の呻きとしてくださり、しっかりと呻いておられます。私たちのために、私たち以上に、深く呻き続けておられます。私たちが自分でも気づかないほどの、深い虚無、滅びに至る悩み、自己中心で、思い上がった願い。そういう私たちの心に聖霊が中に入ってこられてともにしてくださり、今も、ご自身に引き受けつつ、こんな私たちを神様に取り成してくださっている 。そういう御聖霊の測り知れない慈しみを思えば、万事もまた益となるように働かせてくださらないはずがない、と信じられるのです。

「私共が祈ることが出来る。心を探り窮める方が御霊によって私共の思いをすべて知ってくださっているからです。どうぞ、祈る言葉にもまして、祈る心そのものを整えてください。そして、本当に願うべきことを願う者へと、呻くべきことを呻く者へと強めてください。産みの苦しみをもって、新しくされることを、日々強く願わせてください」


文末脚注

1 ここと、使徒七34「うめき声」と名詞形で。
2 Gordon Feeはこの「うめき」を異言と解釈すします。(『過去 20 年におけるペンテコステ神学の深化』-Gordon D. Fee の 「パウロの異言の神学に向けて」を一例として- より)。この文献は、以下のウェブサイト、もしくは「大坂太郎 フィー」で検索するとみることが出来ます。
http://jeanet.org/menu_contents/JEA%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E9%96%A2%E4%BF%82/20070605_22%E5%9B%9E%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%A4%AA%E9%83%8E_%E7%99%BA%E9%A1%8C.pdf
3 こういう視点からの詩を二編紹介しましょう。
当てはずれ(ツルバラ)/あなたは私が考えていたような方ではなかった/あなたは私が想っていたほうからは来なかった/私が願ったようにはしてくれなかった/しかしあなたは 私が望んだ何倍ものことをして下さっていた 星野富弘

ある不治の病に伏す患者の詩
大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと/神に求めたのに謙遜を学ぶようにと弱さを授かった
より偉大なことができるようにと健康を求めたのに/よりよきことができるようにと病弱をあたえられた
幸せになろうとして富を求めたのに/賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに/得意にならないようにと失敗を授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに/あらゆることを喜べるようにといのちを授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが、/願いはすべて聞き届けられた
神の意に添わぬものであるにもかかわらず/心の中で言い表せないものはすべて叶えられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されていたのだ
4 ルカ十40(手伝いをする)と、ここのみの言葉です。
5 八章34節には、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。神の右の座にいるキリストのとりなしと、私たちのうちにおられて私たちに祈らせてくださる御霊のとりなしという、二方向の執り成しが語られています。


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2013/2/17 ローマ書八18-25「望みとうめきによって」

2013-02-27 10:35:10 | ローマ書
2013/2/17 ローマ書八18-25「望みとうめきによって」
イザヤ書六五12―25 詩篇九六篇

 前回の最後、17節に、
「…私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
とありました。今日の18節以下は、その解説です。訳されていませんが、18節、19節、20節、22節、24節のギリシャ語原文冒頭には、「ガル(なぜなら)」という接続詞があります。ずっと一続きのことを言っています。そして、特に、苦難を味わうことの絶えないこの人生に、パウロは、栄光や望み、うめき、という言葉をもって、私たちを慰め、力づけ、励まそう、奮い立たせようとしてくれるのです。
「18[なぜなら]今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」
 17節で、苦難をともにしている、栄光をともに受ける、と言っていました。しかし、ここでパウロは注意を促します。苦難と栄光は、どっこいどっこい、ではない。苦難と栄光が釣り合うというのでもない。将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べたら、今の時の苦しみは「取るに足りない」と言い切っているのです。
 「今の時」と「将来私たちに啓示されようとしている栄光」が対比されています。
「21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」
と言われてもいます。23節では、
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
ともあります 。ですから、ここで言われているのは、全世界がやがて神の栄光によって新しくされ、罪や死の一切ないものとされ、神の栄光によって満たされるとき。私たちが復活して、からだごと完全に贖われて永遠のいのちをいただき、本当に罪のない「神の子ども」として現される時のことです。その時に現される栄光に比べたら、今の時の苦しみがどんなに多かろうと、重かろうと、取るに足りない、というのです 。
 「取るに足りない」とは、語源では「秤を動かす」という意味だそうです 。私たちのこの地上での苦難を秤のこちら側に積み上げる。ありったけを高く積み上げたとしても、向こう側に用意されている将来の栄光の方が圧倒的に重いので、秤はビクともしない。それが、「取るに足りない」という意味です。もともと「栄光」とは、ヘブル語の語源からして「重い」という意味なのですが、私たちがキリストとともに受ける永遠の栄光は「重い」のであって、ドッシリと構えているのです。
 しかし、パウロはこれを、被造物全体のことにまで話を押し広げて展開します。
「19被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
20それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。」
 その「望み」とは何かというと、
「21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」
という望みです 。そして、改めて22節で、
「22私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」
と言われるのです。つまり、今この世界に苦しみがある、「滅びの束縛」があって、呻いている。神様が造られたこの世界が、神様によって「虚無に」「服従させ」られている、そのこと自体に、この世界がこれでは終わらない、私たちの人生というものも、いろいろな苦しみがあるけれども、それが全てではない、将来の栄光、自由、望みというものの根拠がある、と言っているのですね 。
 パウロはここで、希望を語っています。望みという言葉が六回、そして、「首を長くして待つ」という意味の、ここにしか使われない「待ち望む(熱心に待つ)」という強い言葉を二度使います。24節では、
 「私たちは、この望みによって救われているのです。」
とまで言います。信仰によって救われる、と言うことは多いのですが、望みによって救われる、と言い切るのはここだけです 。とかく救いと言えば、イエス様の十字架や復活といった過去への信仰、また、そのみわざが今の私の救いである、という現在の信仰を考えがちですが、それはまた、将来に対する希望、やがて私たちのからだが贖われて、全世界が確かに新しくされる、という約束への強い希望でもあるのです。
 決してパウロは、今の苦しみ、人生の辛酸(しんさん)を嘗(な)めるということと縁の薄い生活を送っていたのではありません。ほぼ同時期に書かれたⅡコリント十一23以下には、パウロの苦難のリストというものがあります 。そこにある苦難の数々は、よくも生きておれたな、と言葉を失うほどです。また、そこでパウロは正直に、苦しみに遭った時に自分の心が折れそうになる弱さをも告白しています。決してパウロは、苦難を知らない青モヤシでもなければ、苦難をも跳ね返す鉄人でもありませんでした。いいえ、苦難を味わうばかりか、その重さから目を背けることもなかったからこそ、この地上では、自分だけではない、被造物全体が虚無に服して、呻いている、という洞察にまで至れたのではないでしょうか。自然界の営みだとか、厳しさだとか、苦しみの分だけ喜びもあるだとか、そんなこじつけでは間に合わないほどの苦難。今の世界とは根本的に違う、栄光の世界、解放されて自由になる世界がやがて訪れるという悲願の他に望みのない、そういう認識を持って、その上で、この世界の、あらゆる苦しみをも取るに足らずとする栄光が来る、と言い切っているのです。
 パウロが言っているのは、その世界丸ごとに対する神様の栄光の御計画です。私たちの今の歩みにおいても勿論、神様は深い恵みとあわれみをもって働いておられ、みわざをなしてくださるのですが、しかし、それがなくても、と言っていることも確り心に刻んでおきたいのです。確かに神様は、今に働いておられます。人の願いや思いを越えた不思議をなしてくださいます。人間が諦めてしまうようなことにも、解決以上の素晴らしい展開を見せてくださることもあります。けれども、ここでパウロは、それを約束するのではない。この地上の生涯が、苦しみ一色で終わったとしても、呻き悩んで終わる人生であったとしても、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、苦しみも取るに足らずという約束です。逆に言えば、地上でいくら素晴らしい思いをし、神様の奇蹟の経験を重ねたとしても、それらに勝るやがての栄光への、首を長くして待つ望みがなければ、そういう人生・信仰は勿体ない、ということです。
 18節の、私たちに啓示されようとしている栄光、という言葉は、正確には「私たちの中へ啓示されようとしている栄光」と訳せる言葉遣いをしています 。やがて、この世界という幕が上がって、神様の栄光が現されます。しかし、それを私たちは見物して、ナルホドと見るのではありません。その栄光が、私たちの中に入ってきて、私たちを新しくし、私たちを「神の子どもたち」として「現れ」さす(啓示する)のです(19節)。
「24…目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」
 私たちは見える保証を求めがちです。見えないものがどうして信じられるか、と思ってしまいます。しかし、パウロは、見えないからこそ望むのだと言います。それも、今の目の前の問題がきっと好転する、と信じる(思い込む)ことを勧めているのではなくて、それがどんな結果になろうとも、呻き、七転八倒するような展開になったとしても、その呻き、苦しみが「産みの苦しみ」となって私たちが神の子どもとして現れる将来へと備えさすのだ、と言うのです 。
 こんなに素晴らしい約束をいただいています。小手先の、上辺(うわべ)の恵みや奇蹟ではない、全世界と私たちへの御計画です。それを待ち望まなくて、うめく人生も厭い、地上的な幸いだけでよしとするなら、なんと勿体ないことでしょう。大きな、素晴らしい約束を待ち望み、世界の痛み、自分の罪を本当に嘆いて、呻いて、新しくされることを強く待ち望む、そういう信仰において成長させられたいと願います。

「いのちよりも大切なもの、という言葉を改めて我が身に当てはめます。尊い救いにあずかっている幸いを、あなた様のもとから自分の方へと引き寄せるばかりであったことを悔い改めます。一切に勝る豊かな祝福へと、一切を惜しまずに踏み出す信仰。待ち望み、忍耐し、呻き、やがての、神の子とされる栄光を受ける者として整えてください。」


文末脚注

1 「「御霊」という「最初の実を持っている」…「御霊」は、わたくしたちが終わりの日に「からだ」ごと丸ごと救われるということの「初穂」、保証なのです。」榊原、p.123
2 榊原、p.116
3 榊原、p.113
4 20節21節は一文。「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、〈被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられるという望み〉があるからです。」
5 「ここで「虚無」と訳されております「むなしいもの」という言葉は、旧約聖書以来たびたび外国の異なる神々、偶像を表すのに使ってきた言葉であります(詩三一・六、四〇・四、行一四・一五)。ですから、ただ、科学的に言って自然界が本来備えているべきエネルギーを失っているという力不足だけではなくて、本来の造り主であり本来の支配者であられる神ではなくて、異なれる神々、本当の自然界の持ち主でも支配者でもない者が自然界を支配し、牛耳り、管理してしまっていて、それでさまざまな力不足が自然界に現実にある、ということを聖書は言おうとしているのだと思います。」榊原、p.118
6 似ているのは、テトス書三7でしょうか。「それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」
7 「Ⅱコリント十一23…私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。24ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、25むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。26幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、27労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。28このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。29だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおれましょうか。」
8 榊原、p.114
9 「しかし、今や、神はわれわれの救いを、その御ふところに固く抱くのをよみしたもうのであるから、この世にあって、あえぐこと、おしひしがれること、深く悲しむこと、うめくこと、さらに、苦悩によって半ば死んだ人のようになり、あるいは死に絶えたかと思われるようになることも、われわれにとって益があるのである。なぜなら、ここで、己れの救いを目に見える形においてつかもうとするものたちは、神の定めたもうた門衛であるところの希望を否認することによって、この救いの門を自ら閉じるからである。」カルヴァン、p.220

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