聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2013/02/03 民数記二三章「祝福はくつがえせない」

2013-02-27 10:41:16 | 民数記
2013/02/03 民数記二三章「祝福はくつがえせない」
詩篇一一五篇 マタイ伝六5-15

 この民数記二三章は、二二章から二四章まで続いている、モアブの王バラクと呪術師バラムとのエピソードの真ん中に当たります。ですから、二二章のおさらいをしておきましょう。エジプトから出て来たイスラエルの民、数十万は、四〇年の放浪を終えて、いよいよ約束の地に入ろうとしています。最後に、ヨルダン川の対岸、モアブの草原に宿営を張って、備えたと二二章の頭にありました。これを脅威としたモアブの王は、神頼みを思いつき、ひとりの呪術師、バラムを呼び寄せます。二二章では、バラムがイスラエルの民を呪うことは、神の御心ではない、ということを示す出来事が続きましたが、そのような出来事を経て、バラクの所に辿り着いたバラムが、いよいよイスラエルの民を前にして、さて何を言うか、というのが今日の二三章、そして次の二四章です。
 今、一度読んでお分かりかと思いますが、結果的にバラムはイスラエルの民を呪うことは出来ませんでした。次の二四章と合わせて、四度、バラムは神から授かった祝福の言葉を述べます。もちろん、それは、バラムの霊力によって実際にイスラエルが何かの祝福(御利益とか恩恵)を授かった、という意味ではありませんし、神がご自身の民を祝福されるのにバラムの力を借りた(借りなければならなかった)ということでもありません。モアブの王は、バラムの力でイスラエルを呪おうとしましたが、それは神の御心ではなく、神がイスラエルを祝福されることこそが神の御心であり、それがどれほど豊かな祝福であるか、がバラムの口を通して、モアブの王たちに対して明らかにされた、ということに他なりません。
 そのような、二つの「祝福」が二三章にあるわけですが、キディという注解者が、この内容をまとめているものをお借りして、簡単に見ておきましょう 。7節から10節の、第一の託宣では、次の四つのことが言われているとキディは言います。一、神はイスラエルを呪われない。(それゆえ、バラムが彼らを呪うことは不可能です)。二、神はイスラエルを「ひとり離れて住む」民として区別されている。(諸国の中にあって、イスラエルは神との特別(ユニーク)な関係を与えられています。)三、神はイスラエルを明らかな力をもって祝福される。四、神はイスラエルをご自身の契約の民とされている。(彼らの性格と運命は、恵みの契約によって、主に結びつけられています)。」だからバラムは、イスラエルの民の先行きまでも主の契約に守られていることを見やって、「10私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」と言うのです。
 また、18節から24節の、第二の言葉の内容をキディはこう纏めます。「一、神はご自身の約束を守られる。(神がバラムにモアブへ行く事を許したのも、御心が変わったためではなく、御心の変わらないことを示すためであったのです。)二、神はご自身の民を守られる。(神のイスラエルに対する約束の言葉は、彼らのための歴史においてその全能のみわざによって保たれてきました)。三、神は御民にご自身を現し続けられる。(23節は未来形です。「神のなさることは、時に応じてヤコブに告げられることになり、イスラエルに告げられることになっている。」)、四、神は御民が敵を破るのに必要な力をお与えになる。(24節「見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺した者の血を飲むまでは休まない」)」
 つまり、モアブやカナンの民の王たちがイスラエルと戦おうとしても、決して勝つことは出来ず、百獣の王の餌食となる他ない、と言っているのですね。このような、確かで豊かな祝福が、バラムを通して明らかになるのです。
「19神は人間ではなく、偽りを言うことがない。
人の子ではなく、悔いることがない。
神は言われたことを、なさらないだろうか。
約束されたことを成し遂げられないだろうか。」
との言葉も、バラムがバラクに突き付けた言葉です。
 しかし、それ程までの祝福を、確かな御心を、念には念を入れて示されても尚、何とかして民を呪えるのではないか、と考える、モアブの王バラクの姿もまた、この章で強烈に印象づけられることではないでしょうか。神が祝福する、と言われるのに、場所を変え、生贄を捧げ、
「27…もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかもしれません。」
と、藁(わら)にも縋(すが)ろうとするのです。
 いいえ、イエス様は先ほどのマタイ六章で言われていました。
「マタイ六7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
 異邦人の祈り。バラクとバラムの祈りはまさに「異邦人の祈り」です。言葉数が多いこと、祈る人間の側の熱心や繰り返し、数によって、神を拝み倒せると考えます。バラムは結果的には祝福だけを述べ、呪うことはしません。しかし、七つの祭壇と、七頭の雄牛と七頭の雄羊の生贄を三度も捧げさせ 、それを、
 「 3…あなた[バラク]の全焼のいけにえ…」
と呼んでいるところには、バラクが捧げる高価な生贄によって、神の心を変えさせることも出来るのではないか、と当て込んでいた気持ちが覗いて見えます。七という完全数をくり返しているのも、雄牛と雄羊という最高級の生贄を捧げたのも、結局は神のご機嫌を伺うためでした 。また、28節の「ペオルの頂上」以外、あとの二つが精確にどこであったのかは分からないのですが 、草原に広がるイスラエルの民を、違う角度から見るためにはかなり移動しなければならなかった筈です。しかし、それだけの移動も、
 「神の御目にかなって、…のろうことができるかもしれません」
という下心になっていたのです。
 主の御心は、動かない祝福です。私たちにとってそれは本当に感謝な、素晴らしく、慰めに満ちた真理です。しかし、それが自分のことであればよくても、他の人、取り分け自分と利害が衝突する人や、感情的に受け入れがたい人であったら、神がその人を祝福されると言われても、苛立ち、妬み、否定し、変更を願い出て、聞いてもらえるのではないか、と思う所があるのではないでしょうか。敵の不幸にほくそ笑み、自分の損得をいつも数えている。けれども、主の御心は他者を呪わない、というだけでなく、祝福を願い、祈る(勿論それは、全焼のいけにえの思いをもって、心底から、です)。そのために、自分が現状を手放さざるを得なくなろうと、傷つかなければならないとしても、主の祝福を運ぶことです。それを望まず、自分の思いをあくまでも握り締めようとするのであれば、そのような頑なさ、主の御心に対して心を閉ざしてしまう問題と、確り向き合わなければなりません 。この箇所にこういう説明書きがありました。
「バラクはバラムを幾つかの場所に連れて行き、イスラエル人たちをのろうよう、誘い出した。彼は、景色を変えれば、バラムの心情が変わるかもしれないと思ったのだ。しかし、場所を変えたところで、神の御心は変わらない。私たちは、自分の問題の原因と向き合うことを学ばなければならない。問題から逃げることは、解決することをより難しくするだけである。私たちの中に根づいた問題の数々は、景色を変えることによっては解決されないのである。私たちの心を変えることが必要なのに、場所や仕事だけを変えることによって、逆に、私たちの心がかき乱されることもある。」
 いくら場所を変え、やり方を変えても、形の上での礼拝は完全で惜しみなく敬虔そうであったとしても、その心には、自分がしたいようにしたい、神の祝福の定めをも自分の願いに融通を利かせて欲しい、そんな思いが深く取り扱われ、変えられるまでは、何の解決にもならないのです。
 二二章でバラムが乗ってきたロバがしゃべった、というエピソードがありましたが、先のキディは、ここで面白いことを言っています。「私たちはこの部分を、バラムの託宣と呼ぶことがあるが、バラムという、気乗りのしない、神の代弁者によって語られた、神の託宣、というのが事実である。バラムは「神のロバ」であって、神の言葉をモアブに運ばざるを得なかったのである。」  ならば、私たちも祝福を運ばせていただきましょう。イエス様をお乗せしたロバの子を思いだし、小さいながらも、微力ながらも、私たちが謙り、主の祝福を運べるように祈りましょう。怒り憎み、赦せない、自分の頑固なエゴは、ロバ以下の愚かな思いだと弁えて、主の祝福の御心に自分を従わせましょう。主が私たちを、恵みの御心に沿って生きる者へと祝福してくださいますように。

「祝福の主が私共の心を開いて、すべての呪わしい思いから、強いてでも救い出してください。あなた様が示された、祝福の定めを受け入れさせてください。上辺ばかりの敬虔さの下に隠した、人への非難、赦すまいとする自分の心を誤魔化しませんよう。あなた様の、永遠からの祝福によって、卑しい心を日々新しくされたいと願わせてください」


文末脚注

1 Keddie, p. 159.
2 1-2節、14節、29-30節。
3 ウェンナムの注解より抜粋「神聖数の七。(天地創造は七日間かかった。一年の第七の月は宗教的祭儀で満ちていた。七年目と五十年目(七×七+一)も特別な意味があった。七頭、あるいは十四頭の子羊が、主要な祭りの時にささげられた(民数28・19、27、29・4、13、17以下)。雄牛と雄羊、最も高価な生贄。それを全焼のいけにえとすることは、神に対する最高の(外見上は)ささげ物であった。バビロニアの粘土板にも酷似した記述あり。)」そこに明らかなように、七という完全数の繰り返しが、自分の願いの保証として用いられるに過ぎない。神への媚びであり、神を操作しようとしての完全な生贄である。イスラエルの神はそのような「完全」を望まれない。外見が整っていても、心に神への恐れがなければ、神は退けられる。
4 第一の箇所、二二40「バモテ・バアル」は「バアルの高き所(つまり祭儀場)の意で、アバリム山脈の東側面に位置するはずであるが、その地点は確定出来ない。」 第二の箇所、二三14「セデ・ツォフィム」「見張り人の野原」の意。「ピスガの頂」は、特定の地名ではなく、アバリム高地に属する小高い丘を指す。ちなみに、モーセが死んだネボ山はその最高峰の一つである(申32:49)」。 第三の場所「ベオルの頂上」は「モアブの神ペオルの聖所があった場所で、シティムの南東約4kmにある小丘と思われる。」(ウェンナム)
5 マタイの話の続きは、「だからあなたがたは祈るとき、このように祈りなさい」と「主の祈り」を教えられますが、その後に加えて、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」となります。8節で「あなたがたに必要なものをご存じ」と言われた主がこのように教えておられるということは、私たちにとって、「日ごとの糧」と同じぐらい、人の罪を赦すということが必要であるからに他なりません。異邦人の祈りは、他者を赦そうなどとしない祈りです。しかし、主の民の祈りは、赦さない心と戦う祈りです。
6 『BIBLEnavi』(いのちのことば社、2012年)241頁。
7 Gordon J. Keddie, According to promise: The message of the book of Numbers, Evangelical Press, 1997, p.158.

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2013/2/24 ローマ書八26-27「言いようもない深いうめきによって」

2013-02-27 10:37:07 | ローマ書
2013/2/24 ローマ書八26-27「言いようもない深いうめきによって」
イザヤ書五二13-五三12 詩篇一七篇

 前回、22節23節で、
「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている…。
23そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと…を待ち望んでいます。」
と言っていました。それに続いて、今日の箇所では、
「26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
と、その「うめき」についての考察を深めていきます 。
私たちはこの言葉をよく聴かされています。祈りについて語るときには、必ずここが引かれるといってよい位、知っている言葉です。私たちがどのように祈るか分からなくても、御霊が取り成してくださっている事に望みをかけて、祈ることが出来る。そう励まされて来た言葉でもあるでしょう。けれども、今日、改めてこの言葉を、本来のローマ書八章26節という位置付けで読むこともまたとても大切であります。何しろ、最初に、御霊も、と言われています。今の私たちが、苦しみや罪の中で、そのままであればとてもとても救われることなど出来ないし、滅びを覚悟するしかなかったのに、神は私たちを救い、キリストは十字架にかかるまでにご自身を与え、救いに入れて下さり、将来には、すべての苦しみをも取るに足りないとするほどの栄光を、私たちの中に入れてくださると約束して、私たちを慰め、励ましてくださっている。そこには、全被造物に対する神様の大きなご計画がありました。その話の中で、今日の、「御霊も同じように」という踏み込んだ教えがあるのです。
 ですから、ここで私たちの祈り、ということが言われますが、これはただ、祈りという、人間の宗教的な生活のさらにごく一面だけのことを言っているのではありません。この「弱い私たち」とは、「私たちの弱さ」という言葉ですが、私たちの弱さが、祈りの貧しさに表れるから、ここに、
「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、」
という言い方になるのです。これは、どう祈ったらよいか分からない時もあるではないのです。分からない時もあるけれど、分かる時もある、ではないのです。分からない、です。私たちは、本当に神に祈るとはどういうことか分からない。聖なる神、心の奥まで知っておられる神に祈るとは、どのように祈ればいいのか。どう祈ればいいか、ということは、言葉を整えるだけのことではありません。私たちの心、祈る内容、願い、そうしたものが問われてくる。そんなことを言われたら祈れなくなる、と思うかも知れませんが、パウロは、そのままの祈りでいいんだ、とは言いません。祈りの根拠は、祈る私たちの側にではなく、聖霊の執り成しのゆえに祈ることが出来る。それが、パウロの、聖書のアプローチなのですね。
 別の言い方をすると、この「うめき」は、私たちが呻かざるを得ないような困難な状況とか祈りの課題があるかどうか、ということには限られません 。勿論、そうした、祈る言葉も出ないほどの、どうしようもない状況も私たちの人生には起こるのです。しかしそうした時でも、祈っているうちに、「確信が与えられる」というよりも、本当に色々なことを考えさせられるようになり、その問題さえなくなってくれれば、ということから、その事を通しても神様が良いようにしてくださいますように、としか祈れなくなることもあるのではないでしょうか。しかし、その問題がそのままでいいとは祈れません。そういう、どうにも不甲斐ない思いになることがないでしょうか。結局、私たちは自分の人生というものをさえ、ちゃんと捉えることは出来ない。そして、抑(そもそ)も置かれた状況が楽かどうか、祈ったことが叶わなかったかどうか、そういうことに関わらず、この地上にあり、贖いの完成を待ち望んでいるただ、そのような私たちの貧しさ、限界を超えて、主が働いてくださるという所に、私たちの望みも慰めもあるのです。
 二つのことを考えたいと思います。一つは、人間は、自分たちが熱心に祈るならば、神も必ず悪いようにはなさるまい、と考えます。それも、善意や信仰深さから、そう思います。しかし、今日の箇所や聖書全体が教えるのは、私たちはどのように祈ればよいかさえ分からない者なのだ。しかし、その私たちの貧しさ、弱さをも共にしてくださる神の御霊が、私たちの思いの底の底、言葉にならない呻きさえ汲み取ってくださり、私たちと一つになり、祈りを神のもとに届けてくださるのだ。人間の思いに神が答えられるのではなく、神の測り知れない、ひとりひとりに寄せてくださる慈しみによって、私たちの祈りがある。この順番を覚えたいと思います。
 もう一つ覚えたいのは、この後28節に出て来る有名な言葉との繋がりです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 この言葉の前に、今日の、御霊の呻きによる執り成しが教えられるのです。28節そのものは次回に詳しく話しますが、一言で言うなら、私たちは御霊の呻きを抜きにして、万事を働かせて益としてくださるという所に、一足飛びに逃げてはならないのです。
 万事を働かせて益としてくださる、というと兎角(とかく)すべてのことが「うまくいく」とか「結果オーライ」とか、物事の事象面を考えがちです。しかし、もし出来事さえうまくいけばいいのであれば、御霊が呻く必要はありません。私たちの祈りが貧しくても、神様の方では先回りしてご存じであり、物事をうまく運んでくださればいいのですから。しかし、そうではない。御霊が、私たちの呻きをご自身の呻きとして、言いようもなく深いほどに取り成して、また、神の御心に従って、私たちの心を探り極めてくださる。ここにもまた、神が、私たちの心を見ておられ、心を深く取り扱われる方、出来事よりもこの人生でのハッピーエンドよりも、もっと大きなスパンで私たちの心を導かれるお方であることを覚えたいのです。
「27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
 私たちがあれこれと祈ったり一喜一憂したりする、そういう表のことではなく、もっと深いところにある、言葉にすることさえ出来ない呻きのような願いを、御霊はすくい取って、ご自身の呻きとしてくださいます。御霊がその私たちの呻きを神のもとに届けるという事によって、私たちの祈りが上っ面の祈りではなく、本当に心を神にささげるように祈ることが出来るようにされていきます 。それが、「神の御心に従って」御霊が私たちを「助けて」くださるという助けです 。私たちの祈りがしどろもどろで的を射ていなくても、その私たちの貧しい祈りを、御霊がご自身の思いとして、言わば「言い直して」くださいますので、人間の心を探り窮める方は、その御霊の思いという、御心のフィルターを通して、私たちの心を知ってくださると信じることが出来るのです。
 神が、人間の心を探り窮めるお方である、とは恐れ多いことです。穴があったら入りたいような、恥ずかしいような、ゾッとするような、そんな私たちの心の底にある思い、本音。自分でも直視したら呻いてしまうような思い。御霊をも呻かせてしまうほかない、私たちの罪があります。その、深い呻きを消したくて、私たちはあれやこれやの願いを祈ります。何か、周りの状況が変われば、夢が叶えば、心は満たされるのではないか、と望みますが、どんなに願いが叶っても、心の深い空洞は呻き続けるのです。いいえ、そうである限り、いくら万事が収まるところに収まった、絶妙などんでん返しの最後を迎えたとしても、私たちはなお、自分の願いが叶わなかったことを数えるでしょう。将来、すべての苦しみを取るに足りないとするほどの栄光に与ろうとする時にも、地上で受けた苦しみを数えて、神様のご計画にケチをつけてしまうでしょう。
 しかし、御霊はそんな私たちの思いを睨んだり嫌悪したりはなさらず、ご自身の呻きとしてくださり、しっかりと呻いておられます。私たちのために、私たち以上に、深く呻き続けておられます。私たちが自分でも気づかないほどの、深い虚無、滅びに至る悩み、自己中心で、思い上がった願い。そういう私たちの心に聖霊が中に入ってこられてともにしてくださり、今も、ご自身に引き受けつつ、こんな私たちを神様に取り成してくださっている 。そういう御聖霊の測り知れない慈しみを思えば、万事もまた益となるように働かせてくださらないはずがない、と信じられるのです。

「私共が祈ることが出来る。心を探り窮める方が御霊によって私共の思いをすべて知ってくださっているからです。どうぞ、祈る言葉にもまして、祈る心そのものを整えてください。そして、本当に願うべきことを願う者へと、呻くべきことを呻く者へと強めてください。産みの苦しみをもって、新しくされることを、日々強く願わせてください」


文末脚注

1 ここと、使徒七34「うめき声」と名詞形で。
2 Gordon Feeはこの「うめき」を異言と解釈すします。(『過去 20 年におけるペンテコステ神学の深化』-Gordon D. Fee の 「パウロの異言の神学に向けて」を一例として- より)。この文献は、以下のウェブサイト、もしくは「大坂太郎 フィー」で検索するとみることが出来ます。
http://jeanet.org/menu_contents/JEA%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E9%96%A2%E4%BF%82/20070605_22%E5%9B%9E%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%A4%AA%E9%83%8E_%E7%99%BA%E9%A1%8C.pdf
3 こういう視点からの詩を二編紹介しましょう。
当てはずれ(ツルバラ)/あなたは私が考えていたような方ではなかった/あなたは私が想っていたほうからは来なかった/私が願ったようにはしてくれなかった/しかしあなたは 私が望んだ何倍ものことをして下さっていた 星野富弘

ある不治の病に伏す患者の詩
大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと/神に求めたのに謙遜を学ぶようにと弱さを授かった
より偉大なことができるようにと健康を求めたのに/よりよきことができるようにと病弱をあたえられた
幸せになろうとして富を求めたのに/賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに/得意にならないようにと失敗を授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに/あらゆることを喜べるようにといのちを授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが、/願いはすべて聞き届けられた
神の意に添わぬものであるにもかかわらず/心の中で言い表せないものはすべて叶えられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されていたのだ
4 ルカ十40(手伝いをする)と、ここのみの言葉です。
5 八章34節には、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。神の右の座にいるキリストのとりなしと、私たちのうちにおられて私たちに祈らせてくださる御霊のとりなしという、二方向の執り成しが語られています。


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2013/2/17 ローマ書八18-25「望みとうめきによって」

2013-02-27 10:35:10 | ローマ書
2013/2/17 ローマ書八18-25「望みとうめきによって」
イザヤ書六五12―25 詩篇九六篇

 前回の最後、17節に、
「…私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
とありました。今日の18節以下は、その解説です。訳されていませんが、18節、19節、20節、22節、24節のギリシャ語原文冒頭には、「ガル(なぜなら)」という接続詞があります。ずっと一続きのことを言っています。そして、特に、苦難を味わうことの絶えないこの人生に、パウロは、栄光や望み、うめき、という言葉をもって、私たちを慰め、力づけ、励まそう、奮い立たせようとしてくれるのです。
「18[なぜなら]今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」
 17節で、苦難をともにしている、栄光をともに受ける、と言っていました。しかし、ここでパウロは注意を促します。苦難と栄光は、どっこいどっこい、ではない。苦難と栄光が釣り合うというのでもない。将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べたら、今の時の苦しみは「取るに足りない」と言い切っているのです。
 「今の時」と「将来私たちに啓示されようとしている栄光」が対比されています。
「21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」
と言われてもいます。23節では、
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
ともあります 。ですから、ここで言われているのは、全世界がやがて神の栄光によって新しくされ、罪や死の一切ないものとされ、神の栄光によって満たされるとき。私たちが復活して、からだごと完全に贖われて永遠のいのちをいただき、本当に罪のない「神の子ども」として現される時のことです。その時に現される栄光に比べたら、今の時の苦しみがどんなに多かろうと、重かろうと、取るに足りない、というのです 。
 「取るに足りない」とは、語源では「秤を動かす」という意味だそうです 。私たちのこの地上での苦難を秤のこちら側に積み上げる。ありったけを高く積み上げたとしても、向こう側に用意されている将来の栄光の方が圧倒的に重いので、秤はビクともしない。それが、「取るに足りない」という意味です。もともと「栄光」とは、ヘブル語の語源からして「重い」という意味なのですが、私たちがキリストとともに受ける永遠の栄光は「重い」のであって、ドッシリと構えているのです。
 しかし、パウロはこれを、被造物全体のことにまで話を押し広げて展開します。
「19被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
20それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。」
 その「望み」とは何かというと、
「21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」
という望みです 。そして、改めて22節で、
「22私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」
と言われるのです。つまり、今この世界に苦しみがある、「滅びの束縛」があって、呻いている。神様が造られたこの世界が、神様によって「虚無に」「服従させ」られている、そのこと自体に、この世界がこれでは終わらない、私たちの人生というものも、いろいろな苦しみがあるけれども、それが全てではない、将来の栄光、自由、望みというものの根拠がある、と言っているのですね 。
 パウロはここで、希望を語っています。望みという言葉が六回、そして、「首を長くして待つ」という意味の、ここにしか使われない「待ち望む(熱心に待つ)」という強い言葉を二度使います。24節では、
 「私たちは、この望みによって救われているのです。」
とまで言います。信仰によって救われる、と言うことは多いのですが、望みによって救われる、と言い切るのはここだけです 。とかく救いと言えば、イエス様の十字架や復活といった過去への信仰、また、そのみわざが今の私の救いである、という現在の信仰を考えがちですが、それはまた、将来に対する希望、やがて私たちのからだが贖われて、全世界が確かに新しくされる、という約束への強い希望でもあるのです。
 決してパウロは、今の苦しみ、人生の辛酸(しんさん)を嘗(な)めるということと縁の薄い生活を送っていたのではありません。ほぼ同時期に書かれたⅡコリント十一23以下には、パウロの苦難のリストというものがあります 。そこにある苦難の数々は、よくも生きておれたな、と言葉を失うほどです。また、そこでパウロは正直に、苦しみに遭った時に自分の心が折れそうになる弱さをも告白しています。決してパウロは、苦難を知らない青モヤシでもなければ、苦難をも跳ね返す鉄人でもありませんでした。いいえ、苦難を味わうばかりか、その重さから目を背けることもなかったからこそ、この地上では、自分だけではない、被造物全体が虚無に服して、呻いている、という洞察にまで至れたのではないでしょうか。自然界の営みだとか、厳しさだとか、苦しみの分だけ喜びもあるだとか、そんなこじつけでは間に合わないほどの苦難。今の世界とは根本的に違う、栄光の世界、解放されて自由になる世界がやがて訪れるという悲願の他に望みのない、そういう認識を持って、その上で、この世界の、あらゆる苦しみをも取るに足らずとする栄光が来る、と言い切っているのです。
 パウロが言っているのは、その世界丸ごとに対する神様の栄光の御計画です。私たちの今の歩みにおいても勿論、神様は深い恵みとあわれみをもって働いておられ、みわざをなしてくださるのですが、しかし、それがなくても、と言っていることも確り心に刻んでおきたいのです。確かに神様は、今に働いておられます。人の願いや思いを越えた不思議をなしてくださいます。人間が諦めてしまうようなことにも、解決以上の素晴らしい展開を見せてくださることもあります。けれども、ここでパウロは、それを約束するのではない。この地上の生涯が、苦しみ一色で終わったとしても、呻き悩んで終わる人生であったとしても、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、苦しみも取るに足らずという約束です。逆に言えば、地上でいくら素晴らしい思いをし、神様の奇蹟の経験を重ねたとしても、それらに勝るやがての栄光への、首を長くして待つ望みがなければ、そういう人生・信仰は勿体ない、ということです。
 18節の、私たちに啓示されようとしている栄光、という言葉は、正確には「私たちの中へ啓示されようとしている栄光」と訳せる言葉遣いをしています 。やがて、この世界という幕が上がって、神様の栄光が現されます。しかし、それを私たちは見物して、ナルホドと見るのではありません。その栄光が、私たちの中に入ってきて、私たちを新しくし、私たちを「神の子どもたち」として「現れ」さす(啓示する)のです(19節)。
「24…目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」
 私たちは見える保証を求めがちです。見えないものがどうして信じられるか、と思ってしまいます。しかし、パウロは、見えないからこそ望むのだと言います。それも、今の目の前の問題がきっと好転する、と信じる(思い込む)ことを勧めているのではなくて、それがどんな結果になろうとも、呻き、七転八倒するような展開になったとしても、その呻き、苦しみが「産みの苦しみ」となって私たちが神の子どもとして現れる将来へと備えさすのだ、と言うのです 。
 こんなに素晴らしい約束をいただいています。小手先の、上辺(うわべ)の恵みや奇蹟ではない、全世界と私たちへの御計画です。それを待ち望まなくて、うめく人生も厭い、地上的な幸いだけでよしとするなら、なんと勿体ないことでしょう。大きな、素晴らしい約束を待ち望み、世界の痛み、自分の罪を本当に嘆いて、呻いて、新しくされることを強く待ち望む、そういう信仰において成長させられたいと願います。

「いのちよりも大切なもの、という言葉を改めて我が身に当てはめます。尊い救いにあずかっている幸いを、あなた様のもとから自分の方へと引き寄せるばかりであったことを悔い改めます。一切に勝る豊かな祝福へと、一切を惜しまずに踏み出す信仰。待ち望み、忍耐し、呻き、やがての、神の子とされる栄光を受ける者として整えてください。」


文末脚注

1 「「御霊」という「最初の実を持っている」…「御霊」は、わたくしたちが終わりの日に「からだ」ごと丸ごと救われるということの「初穂」、保証なのです。」榊原、p.123
2 榊原、p.116
3 榊原、p.113
4 20節21節は一文。「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、〈被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられるという望み〉があるからです。」
5 「ここで「虚無」と訳されております「むなしいもの」という言葉は、旧約聖書以来たびたび外国の異なる神々、偶像を表すのに使ってきた言葉であります(詩三一・六、四〇・四、行一四・一五)。ですから、ただ、科学的に言って自然界が本来備えているべきエネルギーを失っているという力不足だけではなくて、本来の造り主であり本来の支配者であられる神ではなくて、異なれる神々、本当の自然界の持ち主でも支配者でもない者が自然界を支配し、牛耳り、管理してしまっていて、それでさまざまな力不足が自然界に現実にある、ということを聖書は言おうとしているのだと思います。」榊原、p.118
6 似ているのは、テトス書三7でしょうか。「それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」
7 「Ⅱコリント十一23…私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。24ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、25むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。26幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、27労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。28このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。29だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおれましょうか。」
8 榊原、p.114
9 「しかし、今や、神はわれわれの救いを、その御ふところに固く抱くのをよみしたもうのであるから、この世にあって、あえぐこと、おしひしがれること、深く悲しむこと、うめくこと、さらに、苦悩によって半ば死んだ人のようになり、あるいは死に絶えたかと思われるようになることも、われわれにとって益があるのである。なぜなら、ここで、己れの救いを目に見える形においてつかもうとするものたちは、神の定めたもうた門衛であるところの希望を否認することによって、この救いの門を自ら閉じるからである。」カルヴァン、p.220

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2013/2/10 ローマ書八12-17「私たちが神の子どもであること」

2013-02-27 10:33:25 | ローマ書
2013/2/10 ローマ書八12-17「私たちが神の子どもであること」
イザヤ書六三7-19 詩篇七三篇

 ローマ書八章に入り、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる。そのように力強い宣言を聞いてきました。そして今日また、力に満ちた慰めの言葉を聞いたのです。
 改めて繰り返しますが、ここでは命令や警告ではなく、事実と福音を告げています。
「12ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
13もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
 これもまた、私たちに「肉に従って生きてはなりませんぞ」と脅しているのではないのです。もし、とは言いますが、これは私たちの選択を迫っているのではなく、事実を述べています。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいない。もし肉に従って生きるなら、私たちは死んでいた。しかし、御霊によって生きる者とされて、からだの行いを殺す者、すなわち、肉に従って歩むのではない者とされたのだから、私たちは生きる。10節11節でも、私たちは生きている、生かされている。これが、福音によって与えられた事実であるのです。これが、14節の、
「14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
と繋がっていくのですが、続いて、
「15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」
と言われます。人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けた。奴隷は、従わなければ罰せられる、言う通りにしなければ怒りを買う、役に立たなくなれば捨てられる。そういう関係です。中には善いご主人もいるでしょうが、基本的には、奴隷というのは主人の御用や便利のために存在を許された手段に過ぎません。そこにある関係は、人格的な関係ではなく、条件的な関係です。そこには、気に食わなければ捨てられる、という恐怖があります。
 けれども、キリストが与えてくださったのは、神の子ども、という関係です 。そこにあるのは、御霊に従わなければ捨てられるとか、神様を喜ばせなければ怒らせてしまうという恐れは、一切ありません。また、神様は、その聖なるご性質のゆえに、罪に対しては怒られます(それも、激しく、厳しく、最終的には永遠に怒られます)が、決して私たちを恐怖によって支配しよう、怒りや「見捨てられ不安」といったもので動機づけようとはなさいません。むしろ、そうした動機付けではなく、神の子どもとされて、永遠に、何があっても切れることのない親しい関係の中に入れられたことを知らせたい。そして、恐れや不安、何かしなければ見捨てられるという動機付けから解放されていくことを願っておられます。
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」
と言われる通りです。私たちは、恐れではなく、また自分のしたことによって左右されるような思いではなく、愛によって、また神様の主権的で一方的に注がれた愛に動機づけられて、自分というものを(また、すべての周囲の人を)考えていくのです。
 自分の肉で頑張って生きようとする、というのでなく、神の御霊が私たちを導かれる。それは、私たちは神の子どもである、と言い換えられる事実があります。更にパウロは、「子としてくださる御霊」にかけて、「私たちは[その]御霊によって、「アバ、父」と呼びます」と付け加えます。この「アバ」という言葉は、よく説明される通り、言葉をようやく話せるようになった赤ちゃんが、父親を「アッバ、アッバ」と呼ぶ親しい呼びかけです。大きくなって人前でうっかりお父さんを「アバ」と呼んだら恥ずかしいとされるような、限りない親しみの籠もった言い方。そういう言葉で、神様を呼ぶことが出来る。勿論、「そんなに気安く呼んだら窘(たしな)められるのではないか」と恐れる必要は全くない。恐れ多いことですが、本当にそれほど親しい関係を与えられているのです。
 ところで、この「「アバ、父」と呼びます」とあるのは、「叫ぶ」という言葉です。そして、榊原康夫先生の注解によると、神に向かって使われるのは三回だけだそうで、いずれも生死の瀬戸際のような、必死の状況下での叫びです 。叫ぶ、ということ自体がそうですが、御霊によって「アバ、父」と叫ぶ、という言葉遣いは、私たちが静かに、親しみや信頼を込めて呼ぶ、その状況が、生死の境目、「死の影の谷」を行くような状況であるとしても、とのニュアンスを伝えています。のんびり、長閑(のどか)に「お父さん」とベタベタするのでなく、もっと厳しい、嵐のような状況下でも、神への深い信頼をもって、父よ、と呼ぶのです。「こんな厳しい目に遭わせて、神なんて信じられない」と恨(うら)みを零(こぼ)すのではないのです。悲しみや痛みに翻弄されながらも、なお神の子として、父なる神の愛を信頼して、神に「アバ、父」と叫ぶのです。(これが、この八35以下に具体化されるのです。)
「16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
 これは、15節の続きです。子としてくださる御霊、この方にあって「アバ、父」と呼ばせてくださる御霊、その御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださる、という繋がりです。つまり、御霊が私たちが神の子どもであることを証ししてくださるとは、15節で言っていた、私たちが御霊によって、「アバ、父」と叫ぶようにされている事実のことなのです。カルヴァンを引用する、榊原先生の解説をそのまま孫引きしてみましょう。
「わたしたちが神の子であるということ、また自分たちが本当に信者であるということがはっきり分かるのは、祈るときにおいてである。…祈りにおいて、「アバ、父よ」と叫ぶ祈りをしている事実が、まさに“私は神の子なんだなあ”ということを「あかしする」のである。だから、祈らないクリスチャンというのは、自分がクリスチャンであることをいつも確信し続けることができない、ということなのです 。」
 更に、17節では、「相続人」と言われます。
「17もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
 「神の相続人」とは、神を相続とする、ということです。詩篇七三篇でダビデが、
「25天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
26この身とこの心とは尽き果てましょう。
しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」
という、あの相続です。そして神が私の相続、神が私のものとなってくださるために、私たちは今、キリストと苦難をともにしている。それによって、キリストと栄光をともにする将来が約束されているのですが、その「栄光」とは、神が私の相続となる、という「栄光」なのです。
 肉に従う生き方は、恐怖や不安を秘めている生き方です。神の愛は、そのような恐怖を取り除き、神の一方的な愛に安らいで、もう私たちが神の子であるという動かされない事実を約束してくれています。しかし、だからといって、私たちが、そこに甘んじて楽ばかりを求めたり、苦難を不服としたりする、というのではないのです。神が私の相続となってくださっていることだけで十分とし、恐怖があろうとも脅かされない。叫ぶような状況でも、神の、父としての御愛を信じて動かされない。そればかりか、キリストが苦難を負われることなしに栄光をお受けにならなかったように、私たちもまた、苦難を負うことにこそ、地上における神の子らの歩みがあることを心する。あるいは、私たちが神を相続させていただくためには、なお多くの苦しみを経て、私たち自身の思いをきよくされ、取り扱っていただく必要があると知っている。だから、苦しみそのものはその時は辛いわけですが、やはり恵みであるわけです。それによって、神が私の相続であることで十分と喜び、また、私たちも他の人と、恐れや律法による関係ではなく、本当に自由で、愛によって動かされる関係を築き上げていきたいと願うのです。

「恵みによって私共を救い、神の子、神の相続人としてくださった主が、恵みならざる一切のものから私共を救い出してください。アバ、父と呼ぶ祈りの中で成長させてくださり、苦難を通して精錬してください。そのすべてに、見えざる御霊の確かな手がある。ですから、私共もまた、他者を恵みによって愛する者と強いてでもならせてください」

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2013/01/27 ローマ書八9-11「イエスをよみがえらせた方の御霊が」

2013-02-27 10:31:56 | ローマ書
2013/01/27 ローマ書八9-11「イエスをよみがえらせた方の御霊が」
ゼカリヤ書二6-13 イザヤ書五七15-19

 短い、このたった三節の中に、「もし」という言葉が三度繰り返されます。原文を読みますと、9節の後半も「もし」という言い方をしているのです 。もし、キリストの御霊を持たない人であれば、キリストのものではありません、と直訳できます。あまり、もし、もし、と畳みかけられると、自分はどうなんだろうか、神の御霊が自分の中に住んでいるのだろうか、キリストが私のうちにおられるのだろうか、と何となく不安に思わないではなくなる。自分は大丈夫だろうか、と落ち着かなくなる気もします。
 けれども、これも原文を読むとハッキリするのですが、9節は実は、「あなたがたは、しかし、」という言い方で始まるのですね。非常に強い言い方で、
 「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。」
 そして、そのことに加えて、
 「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのであれば」
なのです。つまり、「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられますか、どうですか、ダメだったら話は別ですけれど、御霊が住んでおられるのであれば、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるですけれどね」、そんな曖昧な話をしているのではないのですね。あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいる。なぜなら、神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるわけですから。そのように言っているのです。
 繰り返してお話ししてきましたように、パウロはこのローマ書の前半では、キリストの福音を語っています。キリストの一方的な恵みによる救いです。だから、ここではパウロは読者に向かって、こうしなさい、ああしなさい、肉によらず御霊に従いなさい、というような命令・勧告はほとんどしていません。ここでもそうです。前回の8節まででも、肉にある者は神を喜ばせることが出来ません、と言っていたのですが、それは、あなたがたが肉の中にあるなら神様を喜ばせることは出来ませんよ、気をつけなさい、と言いたかったのではない。この9節でハッキリと、
 「けれども、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」
と言い切っているのです。ただ、それが無条件に、ではなくて、神の御霊が私たちのうちに住んでおられるということが前提・証拠としてある。ただの言葉ではなく、本当に私たちのうちにおられる。それを裏付ける事実として、御霊が私たちのうちに住んでおられる事実を持ち出しているのです。同じ事が、あとの「もし」にも言えます。
 「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」
 けれども、パウロは読者の教会に、キリストの御霊を持たない人がいるかもしれない、と考えているのではありません 。あなたがたはキリストのもの。私たちはもう罪の奴隷ではなく、神の奴隷、義のしもべである、と言ってきたのです 。ある方は、キリストのもの、というのを言い換えて、キリスト者、クリスチャンと説明します。あなたがたがキリスト者であるという以上は、神の御霊が住んでおられるのだ。神の御霊が住んでくださったからこそ、私たちがキリストを信じ、悔い改め、神に従おうと歩み始めることが出来た。それは、人間の力、肉によっては決して始めることも、願うことも出来ないものでした。しかし、キリストが私たちを捉えてくださいました。
 「キリスト・イエスにある者」
としてくださいました。それは、ただ私たちの与(あずか)り知らないところで所属が変わったとか役所かどこかで手続きがなされた、というだけの話とは違うのです 。御霊が私たちを捉え、御霊が私たちの中に住んでくださっている。それによって、私たちが新しく、キリストのものとなって、信仰や悔い改めをいただいているのです。私たちはキリストのもの、キリスト者、である。そのように言えるのは、ただキリストが私たちに、御自身の御霊を通して住んでくださっているからなのです。
「10もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」
 この10節の「霊」は私たちの霊ではなく、定冠詞付きの霊、すなわち、神の御霊です。私たちの体は死んでも、私たちの霊や魂は死なない、という霊肉二元論ではありません。からだは罪のゆえに死んでいる(やがて死ぬ、ではなく、今、生きながら罪に死んでいる状態である)としても、その私たちのうちにキリストがおられ、いのちの御霊が生きていてくださる。そう言っているのです。エデンの園で主に背いたアダム以来、罪と共に死が人類に入って来ました。しかし、キリストが私たちのうちにおられるなら、義の故に-あの、十字架において果たされた義、不義なる者を義としてくださる神の義のゆえに-御霊が私たちの中に住まわれ、私たちのいのちとなっていてくださるのです。これが次の11節にも繋がっていくのです 。
「11もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
 内容的には10節を繰り返して強調しているのですが、さらに一歩踏み込んでいる、とも言えます。特に、「イエスを死者の中からよみがえらせた方」と二度も同じ事を言う辺りに、パウロの熱い思いが伝わってこないでしょうか。十字架に死なれたイエス様を、父なる神は御霊によってよみがえらせなさいました。もちろん、イエス様御自身、永遠で全能の神ですから、イエス様がよみがえった、と言っても可笑(おか)しくはないのですが 、聖書は御父が御霊によってイエス様をよみがえらせなさった、イエス様はよみがえらされた、といつも受け身で語っています。そして、そのイエス様をよみがえらせた方の御霊が、私たちのうちにも住んでおられて、この私たちのからだ(私のからだ、皆さんのそのからだ)に住んでいてくださる。イザヤ書五七15にも、主が民の中に住まわれる、という言い方がありました。他にもあちこちに、聖書の契約が、主が民の中に住まわれることを柱とするものとして語られています 。主が私たちのうちに住まわれる、というのは、聖書の救い理解、神の民のあり方を語っています。けれども、それが私たちのからだに住まわれる、と言われているのですね。私たちのこのからだ、生身のこのからだに、神が御霊を住まわせておられる。それは、この私たちのからだは、生きているようであっても罪に死んでいる、実際の死に向かってゆっくりと朽ちていくようなからだであるけれども、そこにイエス様のよみがえりのいのちを持つ御霊がいのちとなっておられて、このからだを生かしてくださるためだ。そう言われているのです。
 当然ですが、イエス様の御霊が復活のいのちをもって私たちのうちにおられるからといって、私たちが死ななくなるわけではありません。病気が健やかに癒えるとか、鋼(はがね)のように頑強なパワーを持つと約束されているのでもありません。むしろ、どんなに健康で肉体美を誇るような体であったとしても(実際、ギリシャの彫刻のような体が当時も憧れられていたわけですが)、それをも「死すべきからだ」「罪のゆえに死んでいる」とパウロが言い切るように、やがては死ぬからだの健康をどんなに飾ったところで御霊のいのちとは別のものでしかないのでしょう。私たちのからだは、本当に不思議な力や構成を持っている神秘的なものでもありますが、同時にやはり、朽ちるもの、病気をしたり老化したりするものです。また、現代の医学では、DNAだとか脳の働きやホルモンバランスなどが解明されてきて、それぞれの体の要素から、私たちの性格や行動、感情、男女差、好みなどがどれだけ影響を受けて、縛られているか、ということも言われています。そういう、このからだの中に、御霊が住んでおられる。私たちの弱さ、脆さ、痛み、不自由…。そういうものを全部ご存じの上で、御霊が私たちのうちに住まわれている。そして、私たちを、不老不死や無病息災とは根本的に異なる、イエス様の復活のいのち、自分を与えるいのち、厳しくも思いやりに満ちたいのち、神によって与えられた十字架の道を委ねきって生き、死ぬ、そういういのちに満たしてくださるのです。
 主イエス様をよみがえらせた方の御霊が、私たちのからだにも住んでおられる。これは物凄い事を言っているわけです。あまりに凄すぎて、ピンと来ないこともあるでしょう。そして、それに比べれば遥かに些細(ささい)であるはずの日常的なこと、周囲の人間、また自分自身の問題などに思いを向けて、不満や虚しさを訴えてしまったりするのです。だからこそ、私たちがキリスト者であるからには、このからだがよみがえりのいのちの御霊によって生かされているのだ、と心に教え、目を天に向けて、本当に主にあって自由にされ、何者にも振り回されず、主に結ばれて歩む者とされたいと願うのです。

「いのちの御霊が私共を住まいとしておられます。私共の貧しさ、弱さや欠けを先刻承知の上でこの私共のからだ、歩みを通して、イエス様の愛、死、いのちを現したもう。そのお約束に私共をお委ねします。主が私共の主であられることがどれほど尊く、確かであるかを共に知り、信じて歩ませてください。総会をも祝し、ひとりひとりが主の宮として成長する中で、この教会の歩みが主のいのちを輝かせるものとなりますように」

文末脚注

1 ただし、9節の最初は、あとの3回と違う、エイペルという言葉です。後の3回はエイです。
2 「さらに、読者がたは、ここで御霊が、今度は「父なる神の御霊」、今度は「キリストの御霊」として、無頓着に呼び変えられていることに注意しなければならない。これは、単に、御霊の満ち満ちた方が、われわれの仲保者であり・首(かしら)でありたもうキリストの上にひろがり、これにより、そこから、われわれのひとりびとりにもその分け前が注がれるからだけではない。それのみでなく、この同一の御霊がまた、その本質を一つにし、永遠なる同一の神性を持ちたもうところの、御父と御子とに共通な御霊であるからでもある。しかし、そうであるけれども、われわれは、キリストによることなくしては、神との連絡を何一つも持つことがないので、使徒は慎重にも、われわれから遠くへだたっておられるように見える父なる神〔の御霊〕というところからはじめて、次にキリスト〔の御霊〕へとくだって来るのである。」カルヴァン、206頁
3 ローマ書六6、18など。
4 ローマ書八1。
5 永遠の聖定ということでは、世の始まる前、すでに神の側で私たちの救いは定まっていました。十字架において、私たちの救いのみわざは成し遂げられました。その意味では、私たちは、自分の外において救いが果たされたことを信じます。しかし、その「外」の救いが私たちの「中」に働いて、信仰があり、救いを確証することが出来る、という事実もあるのです。Extra nos(私たちの外)での救いが、In nobis(私たちのうちに)来るという両面が、改革主義的な救い理解の特徴です。
6  「神の子たちが霊的であると価値付けられるのは、彼らが完全・無欠な完成されたものになっているがゆえにではなく、ただ、かれらのうちで始まっている新しい生命のみのゆえにである」カルヴァン、206頁
7 他にも、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ書二20)、「私にとって生きることはキリスト死ぬこともまた益です。」(ピリピ書一21)などが、この箇所とこの解釈に重なります。
8 事実、イエス様は御自身を「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来るときが来ます」(ヨハネ伝五28)、「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです」(ヨハネ伝六39)、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ伝十一25)とおっしゃいます。イエス様のことばによって、死者はよみがえる、と明言されています。ただ、それは、御霊抜きに、ではなく、御霊が「イエスの御霊」としてお働きになる、御子のみわざでもあるのです。御父、御子、御霊は、バラバラに働かれるのではなく、三位一体としてそれぞれにお働きをなさるのです。
9 出エジプト二九46「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼の間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。」など。

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