聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/8/1 ローマ人への手紙12章1-2節「ともに喜びともに泣く 一書説教 ローマ書」

2021-07-31 12:27:59 | 一書説教
2021/8/1 ローマ人への手紙12章1-2節「ともに喜びともに泣く 一書説教 ローマ書」[1]

 新約聖書六巻目のローマ人への手紙は、16章ある長い手紙です。一度読んだだけでは分からなくても、多くの忘れがたい言葉が鏤められているのもローマ書です。私も、8章の終わりは葬儀で読んでもらいたい箇所[2]。この12章1、2節は神学校で学ぶ時に大いに励まされた言葉です。勿論、私だけでなく、全てのキリスト者がこう言われています。
12:1ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。…
 この「ですから」はローマ書の大きな鍵です。ここまでの全ての内容、11章まで語ってきた言葉をすべてぎゅっと詰め込んでの「ですから」なのです。ここまで長く語ってきたのは、主の一方的なあわれみですから、勧めはとてもまれでした。ここからはそのあわれみを踏まえて、神に自分を捧げた生き方、神の恵みに溢れた生き方を畳みかけて語ります。その流れで5節、
大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
と語って、互いにキリストにある体の器官として助け合いなさい、という勧めが、この手紙の最後まで続きます。
 ですから大雑把に分けると、ローマ書は11章までが神のあわれみ、キリストの福音について教え、12章からがキリスト者の生き方についての勧めだと言えます。

 ところで、14章15章で語られるのは「信仰の弱い人を受け入れなさい」「力のない人たちの弱さを担うべき」だという勧めです。具体的には、何を食べても良いと思う人と、野菜しか食べない人、ある日を別の日よりも大事と考える人と、どの日も大事だと考える人。これは「例えばの話」というより、実際にそうした分断がローマの教会で大きな問題だったのです。当時の各地の教会も、伝統的な聖書の律法文化に生きていたユダヤ人と、聖書を全く知らない異邦人の摩擦が続いていました。お互いに、律法主義だ、自由すぎる、と対立していた。その事をパウロも伝え聞いて、心を痛めながら、今出来る事として執筆したのがローマ人への手紙です。



 この対立や分断こそ、パウロが長い手紙を書いて取り扱い、福音を知ってほしかった事です。その具体的な不和を扱うに当たって、前半11章もかけて福音を辿り直したのです。福音は、ユダヤ人もギリシア人も、信じるすべての人に救いをもたらす神の力だ[3]。ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にある[4]。ユダヤ人が異邦人をさばくことは出来ない[5]。この罪の徹底ぶりと、それに勝るキリストの贖いを「異邦人」を29回も繰り返してずっと語るのです。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いを通して、価なしに義と認められるからです。[6]
 これは本当に私たちの高慢を打ち砕く事実であり、絶望を喜びへと変える福音です[7]。この神のあわれみは、ユダヤ人もギリシア人も、どんな人も等しく大きく包んでいます。キリストのあわれみの中に、私たちすべてがあるのです。それが、福音がもたらす光です。
 ローマの教会は分裂や裁き合う問題がありました。それはローマ教会だけでなく、この世界の誰もが苦しんでいる現実です。神から離れ、神ならぬ何か、人に分裂をもたらすか、分断の傷を癒やすことが出来ない、何か神ならぬものを礼拝しているための現実です。そこにキリストが来て下さいました。そして私たちのためにいのちを捧げて、私たちを生かしてくださいました。それは、神が私の罪を赦す(=怒らない?)だけではなく、私たちが生き方丸ごと、神への聖なるささげ物として献げる、新しい生き方を始めて下さったことです。
 福音は、罪の赦しだけでなく、私たちを新しくしてくれる、神のあわれみです。ローマ書の1~11章が福音の教理で、12章からは生活、という分け方よりも、1章から最後までが福音の教理であり、私たちの生活の土台である神のあわれみを教えています。私たちが自分たちの罪を告白し、キリストを信じる信仰に立つことは、私たちと神との関係だけでなく、私たちの生き方を強めます。問題の絶えない現実で生きることへと力づけてくれます。ユダヤ人とギリシア人、教会の内外の違いや分断、人間関係のさばき合いや批判を、ローマ書は取り扱って、私たちに、謙りと希望を与えてくれます。お互いに認め合い、尊重し合う関係へと招く[8]。そういう福音を見せてくれるのです。[9]
 一章に
「福音は信じるすべての人に救いを得させる神の
とあります。パウロも
「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです」
と語っています[10]。そして結びの祈りでも神を
「あなたがたを強くしてくださる方
と呼んでいます[11]。神は、私たちを強くしてくださる方。

 それは私たちが、罪を犯さなくなり、正しく生き、正しくない相手を打ち負かせるという強さではありません。むしろ、7章でパウロは自分の葛藤、無力さを赤裸々に言い表しています。そんな正直で謙虚な告白が出来る力です。罪を認める力と、罪の赦しと希望に大喜びする力。自分と考えの違う相手をも認められる力です。復讐を主に委ねられる力です。違いはあっても、霊的な成長を追い求める力です。そして、その中にある最も美しい言葉の一つが、あの
「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちともに泣きなさい」
でしょう。意見が違っても互いの喜びを(水を差さずに)喜び、互いの悲しみを(つけ込んだりせずに)共に泣く。そう変えていただくのです。
 福音は私たちの魂の救いだけでなく、私たちの生き方を救い、さばきや争い、内にこもった思いから、神との深い平和を持って生かす力です[12]。ですから「私をお献げします。どうぞ強めて下さい」とその力を求めて祈りましょう。



「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(15:13、33、16:20) 私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって──永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン(16:25~27)」


ローマ書の有名な言葉集(抄)[13]

参考資料:
大竹護「ローマ書~確信していること~」四日市キリスト教会
聖書プロジェクト ローマ人への手紙1と2

脚注:


[1] 久しぶりの「一書説教」です。これまで「聖書同盟」の「聖書通読表」に沿って、テキストとなる書を選んできましたが、8月の「使徒の働き」も「Ⅱ歴代誌」も既にお話ししていますので、9月の「ローマ人への手紙」からお話しします。https://calendar.google.com/calendar/u/0/r?cid=q0c9b319jurffiu1s6lb5mcid4@group.calendar.google.com

[2] ローマ書8章31~39節「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。33だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。34だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。35だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」37しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、39高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 この箇所についての詳しい説教を友人がしていました。http://www.logos-ministries.org/new_b/rm8_31-39.pdf

[3] ローマ書1章16節「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」

[4] 3章9節「では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。」。また、2章9~10節(悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、10善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。)、10章12節(ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。)も参照。

[5] 2章1節「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」

[6] ローマ書3章23、24節。

[7] パウロは5章まで命令や勧めを一言も語りません。6章の11節で、初めて、「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」と命令形が出て来ます。しかもこれも「何かをしなさい」というより「あなたが何をしようとしまいと関係なく、既に自分が罪の下ではなく、神との関係に活かされている事実に立ちなさい」という勧めですね。そして、その後に、「12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。13また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。14罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。」と「からだ」を献げるメッセージが続きます。これが12章1節でもう一度繰り返され「あなたがたのからだを神に喜ばれる生きた聖なるささげ物として献げなさい」と言われ、12章以下15章まで膨らまされていくのです。

[8] 14章19節「私たちは、平和に役立つこと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」は、すばらしい勧めです。

[9] ここに、今日の説教題ともした「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」や「自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい」などの言葉が出て来ます(ローマ書12章15節、19、21節)。また、13章では「上に立つ権威」に対しての態度が教えられます。

[10] 1章11節「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。」

[11] 16章25~27節〔私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって──26永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方、27知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン〕 この部分が〔〕で括られているのは、欄外注にもあるように、この節を欠いた写本が多くあるからですが、本節がある写本が多数ですから、パウロの書いた言葉であると考えて良いと判断します。

[12] パウロが示す福音は、罪の赦しだけでなく、苦難さえ喜び、希望を与える大きなもの。これを引き下ろしてしまうと、神の恵みが見えなくなる。倫理も、自分たちに出来る程度に引き下ろして、「~しなければならない」にゴール設定をしてしまうと、途方もないビジョンが見えなくなる。パウロは、アダムの罪を償って余りあるキリスト(第二のアダム)の恵みを歌い上げている。

[13] 有名なことば:

1:16「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」

2:1「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」

3:23「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、24神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」

4:25「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」

5:1「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2このキリストによって私たちは、信仰によって、居間立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。7正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

5:19 すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。20律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。21 それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。

6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

6:11 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。

6:23「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

7:15「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。16自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。17ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。18私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。19私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」

8:1「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。2なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。3肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」 8章は、宝のような言葉が鏤められている。

9:16「ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

10:2「私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。3彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。5 モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。7また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。8では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

11:27 これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。28彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。29神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。30あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。31 それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。32神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。

12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。

12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

12:12 望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。

12:13 聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。

12:14 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。

12:15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。

12:16 互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。

12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。

12:18 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。

12:19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。9 「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。10 愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。

14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

14:6 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

14:8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

15:1 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。2 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。

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2021/8/1 出エジプト記2-3章「逃げるモーセ」こども聖書㉔

2021-07-31 12:15:58 | こども聖書
2021/8/1 出エジプト記2-3章「逃げるモーセ」こども聖書㉔

 前回から、モーセのことをお話ししています。紀元前16世紀、キリストの時代の1500年以上前の時代です。その時、モーセはエジプトにいました。モーセの先祖、ヤコブの家族がエジプトにやって来て、大きな民族になっていき、エジプトの王が彼らイスラエル民族を奴隷として苦しめていた時代でした。モーセは、不思議にも命を救い出されましたが、その後、大きくなってからも、モーセの人生は波乱続きでした。
出エジプト記2:11こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。12彼は当たりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。
 モーセは、エジプト人に苦しめられている仲間のヘブル人を見て、我慢できませんでした。誰も見ていないのを確かめて殺したのです。しかし次の日、彼が見たのは、
13次の日、また外に出てみると、見よ、二人のヘブル人が争っていた。モーセは、悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言った。14彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」…
 誰も見ていなかったはずなのに、どうして知られたのでしょう? 簡単ですね、助けた人がいたんですから、誰も見ていないわけがありません。そして、エジプト人だけが悪いのではなく、ヘブル人も争い、仲間を打ちたたいていました。だから、モーセがこっそりヘブル人を助けたら、全てが上手く行くなんて単純なことではなかったのです。

 だからモーセは逃げなければならなくなりました。砂漠を越えて荒野に行きました。そこでモーセはミディアン人の家族に出会って、結婚し、羊飼いとなりました。そして、四十年が絶ちました。モーセは80歳! もうエジプトから離れた時間の方が長くなってきた頃、またまた神様は、モーセの人生を大きく変えられたのです。
 3:1モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。2すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。3モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
 こうして近づこうとしたモーセに、主は語りかけました。
4…神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。5神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」

 モーセはびっくりして、顔を隠して、平伏します。
 主はモーセに語り続けます。

7…「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。8わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に…彼らを導き上るためである。

 こう仰った主は、今度はモーセに言われます。

9今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。10今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。

 40年もエジプトから遠く離れて、羊を飼って生活していたモーセには、びっくりの話です。また、エジプトを40年前に離れたのは、自分が仲間を助けようとして失敗したからです。苦い思い出がよみがえります。とてもエジプトに行く気にはなれません。

11モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」

 その通りですね。私たちだって、こんなことを言われたら戸惑うでしょう。

12神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。…

 わたしがあなたとともにいる。全然、モーセの質問、「私はいったい何者なのでしょう」の答えになっていませんね。だからモーセは続けてこう聞いて食い下がります。
13…今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」

 すると神は先ほどの、答えにならない答えと同じことを仰います。

14神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。…『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」

 神は、わたしはあるわたしはともにいるそれがわたし(神)だ、と仰います。
 私たちがどこにいても、神はともにおられます。神がおられない場所などありません。どんな所でも、そこで「わたしはある」と言われる。それが神です。モーセがエジプトにいても、そこから逃げてミディアンにいても、神はともにおられます。ヘブル人が苦しみに叫んでいた時も、神はともにおられ、時至って、今彼らを救い出そうとされています。
 エジプトでは、神のように権力を振るって、人を奴隷にして苦しめていたのは、王ファラオでした。モーセがファラオの所に行っても、ファラオは耳を貸そうとせず、ますますイスラエル人を苦しめます。神など、追い払えると思ったのです。しかし、ファラオも人間です。神ではありません。いつでもどこでも、そこにいるのは神であって、人間は神を追い出すことは出来ません。この神だけが、「ともにいます」というお方で、今もこれからも私たちとともにおられるのです。その神だけが神であることを、私たちは証しするように、ここから遣わされます。これ以外に答えや理由はないのです。

「ともにおられる神様。あなたは、いつも私たちとともにおられ、どこででもそこからあなたの業を始められます。あなたが見えない時、あなたを忘れる時、あなたを拒む時もあなたがおられることは決して動くことがありません。どうぞ私たちとともにいて、私たちを強めて、全ての人があなたとともに歩む喜びに生きるため、用いてください」
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2021/7/25 出エジプト記1-2章「赤ちゃんのモーセ」こども聖書㉔

2021-07-24 14:18:43 | こども聖書
2021/7/25 出エジプト記1-2章「赤ちゃんのモーセ」こども聖書㉔

 この世界は神様が造られた世界ですが、苦しみや悪い力に縛られてしまうことも多々あります。その苦しみから、神は私たちを不思議な力で救いだしてくださる。その事を、とても力強く描き出しているのが、聖書の二巻目、「出エジプト記」という書なのです。
 前回までの創世記は、最後にヤコブ(イスラエル)とその家族たちが、飢饉を逃れてエジプトにやって来たことで終わりました。それから四百年が立って、世代がすっかり変わって、ヤコブの子孫は大家族になりました。エジプトの王も世代が変わり、違う王の家族に変わり、ヤコブ家族への親しさよりも、その多さを脅威とする王になったのです。そこで、その王はヤコブの子孫(イスラエル人)を、自分たちのために「奴隷」にしてしまいました。大きな町や建物を作るため、イスラエル人を強制労働しました。
出エジプト記1章13節…エジプト人は、イスラエルの子らに過酷な労働を課し、14漆喰やれんが作りの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、彼らに課す過酷なすべての労働で、彼らの生活を苦しいものにした。

 エジプトの王は、イスラエル人や人間扱いせず、自分たちのために働かせ、苦しめて、弱らせようとしたのです。それだけではありません。エジプト王は、イスラエル人が子どもを産んだら、少しずつ減らそうとしていました。それでも生まれたならば、
22…「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」
 こんな酷い扱いで、エジプトにいたイスラエル人たちは苦しみ、辛くて、しかし抵抗できずにいました。たくさんの子どもたちが殺されて、大人たちもヘトヘトでした。そんなイスラエル人の中に、一人の家で男の子が生まれました。その子のかわいさを見て、親は三ヶ月、こどもを隠していました。けれど、三ヶ月も経つと、泣く声も大きくなります。もう隠しておけなくなり、小さな籠を作りました。ナイル川に生えているパピルスという草で編んだ箱に、水が入らないよう回りに樹脂を塗りました。
 それは、丁度、大洪水の時、ノアが箱形の舟を作って、その中に家族も動物たちも入って、助かったように、この子どもの命を助ける箱の舟となってほしかったのでしょう。大きさは全然違いますが、この二つの箱は重なります。草で箱を作ったお母さんの思いは、ノアとその家族を救ってくださった神様の思い、ノアの思いと重なります。そして、神は確かに、この箱の中に入れられた子どもを守ってくださったのです。

 そこにやって来たのは、エジプトの王ファラオの娘です。イスラエル人の男の子はみんなナイル川に投げ込んで殺してしまえ、と言った王様本人の娘です。その王妃が、あの箱を見つけました。それを取ってこさせ開けてみると、子どもが泣いています。
2:6なんとそれは男の子で、泣いていた。彼女はその子をかわいそうに思い、言った。「これはヘブル人の子どもです。」
 王妃が父親の命令を知らなかったはずはないでしょうに、このヘブル人の子どもを殺そうとするより、可哀想に思ったのです。そこに、赤ちゃんのお姉さんが見ていました。弟が心配だったのでしょう。ファラオの娘が優しそうなのを見て、お姉さんは飛び出し、
7…言った。「私が言って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に父を飲ませるために。」
8ファラオの娘が「行って来ておくれ」と言ったので、少女は行き、その子の母を呼んで来た。
9ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。
 こうして、赤ちゃんは本当の母親の元に戻ってきました。もう隠せずに箱に入れて捨てたのが、ファラオの娘に拾われて、堂々と育てることが出来るようになりました。費用もファラオの娘が払ってくれることになったのです。こうしてこの子は育てられます。
10その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。
 この子の名前をモーセとつけたのも、ファラオの王妃です。それはこの出来事だけでなく、後々のすべてを象徴する名前でした。エジプトの奴隷生活から、神はイスラエル人を引き出して救ってくれました。かつての大洪水からもノアの家族を救った神は、海を通ってイスラエル人を救い、奴隷の生活から、人間らしい生活へと変えてくれました。そして、モーセはその指導者となって、イスラエル人を導くのです。

 使徒の働きでは、
使徒7:17-21「さて、神がアブラハムになされた約束の時が近づくにしたがい、民はエジプトで大いに数が増え、18ヨセフのことを知らない別の王がエジプトに起こる時まで続きました。19この王は、私たちの同胞に対して策略をめぐらし、私たちの先祖たちを苦しめて幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。20モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子で、三ヶ月の間、父の家で育てられましたが、21ついに捨てられたのをファラオの娘が拾い上げ、自分の子として育てました。

 遂に捨てられたのを、ファラオの娘が拾い上げた。人間が「可愛い、捨てたくない」と思っても、それには限界があります。捨てざるを得なかった子どもが、神によって拾われ、エジプトの支配をひっくり返す働きをしました。誰かを奴隷にしたり、虐めたり、踏みつける社会を、神は必ずひっくり返されます。出エジプトは、神様の大きな業、イエス様を知らせる出来事です。
 今でも、奴隷や人間扱いされていない人、いろんなことに囚われている人たちが、この出来事を通して解放されてきました。多くの人を力づけ、目覚めさせてきた、モーセの物語です。神の御心は、祝福であって、誰かを犠牲にして繁栄することではないからです。虐げられている人を力尽くででも救い出す。そして、人を助ける働きに用いられる。それが神の物語の中心にあるテーマです。

「奴隷を解放し、捨てられた者を用いられる主よ。私たちもあなた以外のものに囚われた生き方から自由にしてください。多くの人を力づけ、今に至るまで語り継がれてきたこの物語が、今も私たちの道標となりますように。命の危険や、権利を奪われた人たち、心を不自由にされている私たちを、不思議にも救い出し、解放を宣言させてください」
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2021/7/25 マタイ伝22章23~33節「思い違うほどの神の力」

2021-07-24 10:02:14 | マタイの福音書講解
2021/7/25 マタイ伝22章23~33節「思い違うほどの神の力」

 今日の箇所、24節で引用されているモーセの律法は、伝統社会ではあり得る規則でした[1]。
…「もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない」[2]
 これを根拠に、イエスに対し、「では実際にある人が子がないまま死んで、残された妻を弟たちが順に娶ったとしたら、将来その人は誰の妻になるのか」という質問です。これは、当時の家族の考え、家を長男が継ぐという発想や、聖書の律法を背景にした問答です。しかしそうでなくとも、私たちが将来とか死の後の世界を考える時には、答えに窮する質問でもないでしょうか。「愛する人との再会が死後に待っている」という言い方はよくされます。しかし、そうでない人との再会はどうなるのでしょうか。向こうが会いたいと思ってもこちらは会いたくない場合はどうでしょう。お互い会いたくないとか、ここで問われているように、再婚相手全員が顔を合わせるなんて、どんな顔をすれば良いのか。その気まずさに解決は思いつきません。
 そこをツッコんで「だから復活はない」と言ったのが、ここに出てくるサドカイ人でした。でもそのようにツッコまれても答えることの出来ない、薄い将来像、今の世界・人生の延長でしか復活を思い描けていないのが、当時の復活を信じる人たちの将来像でもあったのです[3]。引いては私たち自身も、将来とか救い、神の国をどう思い描いているだろうか。神が語っておられるような将来、人にも本当に「福音」として届く将来への希望だろうか、と問われます。
29イエスは…答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。30復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
 ここで「天の御使いたちのよう」と言われたのも、人は自分の経験や想像の範囲で狭く小さく考えて「天使のように中性的で、性欲とか欲望、欲求などなくなる」と思うかもしれません。しかしマタイで御使いは繰り返して登場します。聖書に出て来る御使いは、人が一目見たら、恐ろしさに震えてしまう存在です。去勢どころか、生き生きと輝いて、人間の夢にも現れて神の民を助け、文字通り神の使いを果たす存在です[4]。そういう輝く御使いのように、人はやがてなる。もう「誰の妻か」ではないのです。「俺の妻だ」「私の子でしょ」とか、ややこしい関係とか、今はそれを引きずっていて、それのない将来像なんて思い描けない。でも聖書はそこからの解放を語っています。神の力は、人を縛り付けているあらゆる鎖を解き放つ力です。
 このサドカイ人たちの想定問答も、全くの男性目線で、これ自体問題だらけです。まず、七人兄弟の誰の妻か、と問いますが、逆に、一人の男性が離婚して再婚をしたり、一夫多妻や浮気をしたり、には当時は非常に甘かったのです(日本も最近までそうでした)。また「彼女は誰の妻か」の問いには、その女性本人の気持ちとか気まずさへの思いやりより、夫たちの所有権を巡ってで、それには決着が付かない、と決めつけた理屈ですね。本当に妻の気持ちを思いやるなら、兄弟たちが譲り合ったり仲良くしたりして困らせなければいい。「復活があるなら」という仮定でなく、今現在、妻の気持ちを思いやれたら、こんな問いは無用です[5]。それがなければ、自分の妻だって、復活してからも自分の妻だなんて真っ平御免だと思っているかも知れない。将来の復活の有無でなく、今、妻の思いよりも「誰の妻か」を論じたり、それに応えられない将来しか差し出せなかったりする、その冷たさこそが問題です。[6]

 だからイエスは言われます。
「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。」
 聖書は今の争い、自分の権利とか「自分のものだ」という主張を一切解体します。神の力とは、人の争いや思い違い[7]を引き下ろして、そこで縛られている人を解放する力です。
31死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。
32『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」33群衆はこれを聴いて、イエスの教えに驚嘆した。
 これは出エジプト記3章の神の自己紹介です[8]。どんな神にでもなれる神が、アブラハム、イサク、ヤコブ[9]――四百年以上前に死んでいた先祖の神として名乗られました[10]。神が彼らの神となったなら、その人の死は終わりではなく、魂だけになるのでもなく、身体も魂もあっての人間はやがて復活して、神のものとして永遠に生かされないはずがないのです[11]。

 イエスはこう復活をハッキリと教えておられます。それでも、それを聞く私たちの理解は必ず限界があります。思い違いがあるはずです。愛する人との再会、が精一杯の、乏しい私たちの理解で、それもちょっと考えて始めるとあれやこれやはどうなるのか、心配です。そんな私たちの狭く限界ある想像よりも遙かに大きく、自由で生き生きとした将来を神は備えてくださいます。気まずい思いも心配しなくていい。何より、私たちは「誰の妻(夫、母、子、娘)」とか「○の○」、或いはそういう肩書きが何もないとか、そんな今だけの呼ばれ方は終わって、ただ神が「私の神」でいてくださる時が始まるのです。お互いをも「神がこの人の神でいてくださる」と見る。それは、死よりもどんな柵よりも強い神の新しい恵みです。
 その神の御国を私たちは今ここでも証しするため、今すでに、誰にも縛られず、誰をも肩書きで縛らないのです。神が私たちの神でいてくださる。それゆえに、互いを尊び合うのです。本当に思いやりや和解ある関係を求めて、永遠を少しでも先取りすることを願いながら、今ここで生きるのです。


※ カバー写真は、こちらから。なんとも笑ってしまう写真なので、紹介しました。http://openingtheseals.com/matthew-24-2/the-sadducees-question-the-resurrection/
「私たちの神である主よ。あなたが私たちの神である故に、私たちは永遠を生き、死の先にも復活を約束されています。思い描くのは難しくても、神であるあなたが、愛するすべての人に、御使いのように輝く、驚くばかりの恵みを、想像を絶して深い幸いを備えておられます。どうぞ今この生涯でそれを少しでも味わい、受け取り、眼差しも考えも、新しくしてください。他の何物でもなく、ただあなたのものである幸いに喜び、それゆえ互いに尊び合わせてください」

[1] これを「レビラート婚」と言いますが、創世記39章には、ヤコブの息子ユダが、自分の長男が死んだ時、その妻を次男に嫁がせ、次男も死んだら三男に嫁がせることを考えた出来事が書かれています。モーセの律法の四百年以上前に、このような習慣が既に当地にはあったことが窺えます。モーセ律法がこのように定めた、というよりも、家父長権・世襲制のシステムで、跡継ぎの長男の名を残さなければならないというあり方を、モーセも容認しているのです。

[2] 申命記25章5、7節(兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。6そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。7しかし、もしその人が自分の兄弟の妻を妻としたくないなら、その兄弟の妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」)

[3] たとえば、ルカの福音書14章15節以下では、「イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」」と言いますが、イエスはこれに対して、神の国を婚宴に譬え、招待されても自分のことを優先して、断る人々の姿を描きます。

[4] マタイでは20回!1:20(彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。)、24(ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、)、2:13(彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」)、4:6(こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」)、4:11(すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。)、11:10(この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。)、13:39-41(毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。…41人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、)、13:49(この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、)、16:27(人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。)、18:10(あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。)、22:30、24:31(人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。)、24:36(ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。)、25:31(人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。)、26:53(それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。)、28:2(すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。)、28:5(御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。」

[5] ドラマだと、夫が死んだと思って別の男性と再婚したら生きていたとか、複雑な事情で二人の男性が一人の女性を巡って争うなんて筋書きはあって、泥沼劇になるものとして描かれるものはよく見ます。古くは映画「ひまわり」、韓国ドラマ「冬のソナタ」や「伝説の魔女」など。

[6] 参照、レベッカ・ソルニット『私たちが沈黙させられるいくつかの問い』(ハーン小路恭子訳、左右社、2021年)。https://bookmeter.com/books/17296609

[7] 思い違いをしているプラナオー 道を外れている。彷徨っている。 18:12-13(あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。13まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。)、22:29、24:4-5(そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。5わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。)、11(また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。)、24(偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。) 27:63(こう言った。「閣下。人を惑わすあの男プラノスがまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。」、27:64(ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしプラネーのほうが、前の[惑わし]よりもひどいものになります。」)も同語根。

[8] 出エジプト記3:6~16節「さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。…12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」…14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。…」。また、同4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」

[9] ヤコブも、四人の妻の間で、気まずい人生を歩んだ人でした。

[10] この言葉は、ブレーズ・パスカルが上着に縫い付けていた羊皮紙に書き付けられていた言葉を思い起こさせます。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者や学者の神ではない、確実、確実、直感、喜び、平安。イエス・キリストの神」。神は哲学者や学者の神ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして私たちの神となってくださった、イエス・キリストの神でいてくださいます。

[11] 聖書は、人間を魂だけではなく、からだもあるものとして見ています。創世記2:7「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」。ですから、人の死は、「魂と体の分離」と理解して、「魂だけが存在する」という状態は、人間としては不完全であり、やがてもう一度身体がよみがえって、魂と結ばれて初めて、人としての希望ある将来が始まると考えています。

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2021/7/18 創世記42-46章「助けを求めてエジプトへ」こども聖書㉓

2021-07-17 12:11:21 | こども聖書
2021/7/18 創世記42-46章「助けを求めてエジプトへ」こども聖書㉓

 聖書の最初の「創世記」は、ヨセフという人のことを、最後にとても詳しく書いています。ヨセフは、お父さんから可愛がられ、溺愛されて、お兄さんたちに妬まれて、エジプトに売り飛ばされてしまいました。そこで、奴隷として働かされ、無実の罪で監獄に入れられ、そこから出されて、エジプトの大臣になったのです。
使徒7章9~16節
「族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、
10あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王ファラオの前で恵みと知恵を与えられたので、ファラオは彼をエジプトと欧の全家を治める高官に任じました。
11すると、エジプトとカナンの全地に飢饉が起こり、大きな苦難が襲って来たので、私たちの父祖たちは食べ物を手に入れることができなくなりました。
12しかし、ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まず私たちの父祖たちを遣わしました。
13二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分のことを打ち明け、ヨセフの家族のことがファラオに明らかになりました。
14そこで、ヨセフは人を遣わして、自分の父ヤコブと七十五人の親族全員を呼び寄せました。
15こうして、ヤコブはエジプトに下り、そこで彼も私たちの父祖たちも死にました。」



 このように詳しく書かれている通り、ヨセフの波乱に満ちた生涯は、聖書の中でも特に印象深い、波乱に満ちた物語で、私たちの心に刻む価値のある神様からの贈り物です。
 ここには、二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分のことを打ち明け、と書いていますが、勿論それは簡単ではありませんでした。この時ヨセフは50歳近く。兄たちに突然捕まえられてエジプトに売られたのが17歳。それから奴隷と囚人として23年。大臣になって、8年以上。33年も経っていました。まずヨセフはビックリしたでしょうし、兄たちはヨセフだとさえ分かりませんでした。ヨセフは、最初お兄さんたちを試そうとしたのでしょうか。
「あなたがたは回し者(スパイ)だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう」(42章9節)
と疑いを掛け、閉じ込めてしまいます。そして、一人を残して、残りのお兄さんたちが家に帰って、もう一人の兄弟、末の弟を連れてくるように、乱暴な言い方で言うのです。お兄さんたちは、何が何だか、訳が分かりません。その時、
42:21彼らは互いに言った。「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」
 この言葉をヨセフは聞いていました。兄たちは、ヨセフがエジプト人で、自分たちの言葉が分かるはずがないと思っていましたけれど、ヨセフは分かったのですね。
23彼らは、ヨセフが聞いていることを知らなかった。ヨセフと兄弟たちの間には通訳がいたからである。24ヨセフは彼らから離れて、泣いた。…
 兄たちが、30年経っても苦しんでいること、この出来事も、弟を苦しめた罰だと思ってしまっていること、それでもまだ自分が兄たちに名乗ることを躊躇わせる思いがあること…。そうした複雑な深い思いの詰まった、ヨセフの涙ですね。この後も、ヨセフは何度も涙を流します。やがて兄たちは一度家に帰ってから、父親を説得して、弟のベニヤミンを連れてきます。ヨセフは、ベニヤミンも一緒にいるのを見て、また泣きます。
43:30ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。31やがて、彼は顔を洗って出て来た。…
 こんな事を繰り返しながら、兄たちが本当に悲しみ、心を痛めていることを知ります。そして、遂にヨセフは兄たちに、自分がヨセフであることを打ち明けるのですね。
45:3ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。…
5私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。…
7神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。
8ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。

 兄たちがヨセフを憎み、売り飛ばした事は確かに酷い暴力です。兄たちは、長く苦しまずにおれないことでした。けれど、そうしてエジプトに来たヨセフは、今、飢饉でも人々が死なないよう食べ物を蓄え、配る働きをしています。ヨセフが来ることがなかったら、大勢の人がどうなっていたか分かりません。ヨセフはそれを、「神が私を遣わしてくださった」と受け止めています。神はどんな悪をも、不思議に益となさいます。
ローマ書8章28節
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

 神はどんな禍をも益に変えてくださる。だから何が起きても平気、ではありません。ヨセフ物語の結末は、ヨセフの涙を何度も描きます。溜まっていた悲しみ、怒り、思いが涙になって流れ出します。そして最後は喜びの涙が溢れるのです。ヨセフが後悔してもしきれない兄たちを赦し、慰めたことは説明を超えた奇蹟です。
 そして、ヨセフが弟懐かしさに胸が熱くなったように、主は私たちに胸が熱くなるほどのあわれみをお持ちです。深い心を持つ神は、私たちの心にも触れてくださいます。

ホセア11:8 
エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。
イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。
どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。
どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。
わたしの心はわたしのうちで沸き返り、
わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

 その神の御子イエス・キリストが、後に来られた時の出来事は、ヨセフの歩みと多く重なります。イエスも人々を救うために、父の元から遠く離れた地に来られました。着物をはぎ取られ、無実の罪を着せられました。牢でも飢饉でも、そこにいる人々に仕えました。そして、憎まれ妬まれて酷い目にあったのに、赦し、近づいてくださるお方です。
「心を痛めたり、自分を責めたりしないで」
と言ってくださるお方です。

「天地の創造主なる神様。あなたは、世界を創り、ヨセフの人生をも創られ、この世界に命の業を創ってくださるお方です。私たちを、罪や過去の重荷から救い出して、あなたが人を生かし、慰め、祝福してくださる業に加えてください。御子イエス様が、呪いの十字架を、復活の希望へと変えてくださったように、私たちも、あなたの摂理と愛の御心を信じて、前に進ませてください。心にも触れて十分に涙をも流させてください」
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