聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問86「信仰もプレゼント」エペソ2章8節

2015-10-25 20:47:36 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/10/25 ウェストミンスター小教理問答86「信仰もプレゼント」エペソ28

 

 今週は、世界のプロテスタント教会にとって、特別な週です。そして、今日の礼拝を、多くの教会が特別な礼拝の日としています。それは、今週土曜日の1031日が、マルチン・ルターの「宗教改革」が始まった日、宗教改革記念日だからです。今日の礼拝を特に「宗教改革記念礼拝」と呼んでいる教会は数え切れないほどあります。

 今から五百年ほど前、それまでの教会の教えや方向が間違っていることに気づいて、ルターや何人もの人たちが、教会に対する抵抗を始めました。そこで大切にされたのは、私たちは、ただ神の恵みによって救われるのであって、私たちに求められているのは、それを信じる信仰だけだ、という聖書的な告白でした。献金をするとか、教会の教えに従うとか、奉仕や善行や償いの苦行をするとか、そういうことを私たちが付け足さなければ救われないとしたら、おかしい。キリストが百パーセント(五〇パーセントでも九〇パーセントでも九九パーセントでもなく、百パーセント)の救いを果たしてくださった。だから、私たちは、それを信じて、受け入れるだけだ。そういう聖書の教えに帰ったのです。これを「信仰のみ」とか「信仰義認」と言います。とても大切な、私たちの原点です。

 今日の、ウェストミンスター小教理問答問87は、ちょうど信仰を語ります。

87 イエス・キリストに対する信仰とは、何ですか。

答 イエス・キリストに対する信仰とは、それによって私たちが、救いのために、福音において私たちに提供されているままに、キリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼む、そのような、救いに導く神の恵みの賜物です。

 先週お話ししたように、私たちが、罪の報いから逃れるために求められていることは、信仰と悔い改めです。では、その信仰とは何かを、今日の問答では教えています。

 まず信仰とは、それ自体が、「神の恵みの賜物」だと言われていることを覚えましょう。勿論、私たちが信じるのですよ。でも、その信仰さえも、神が恵みによって下さるプレゼントなのです。今読んだエペソ書2章の御言葉にもこうありました。

エペソ二8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 神が信仰も下さったのです。そうでなければ、福音を信じること自体、人間は出来ないのですね。

だから、私たちは、人に福音を伝える時も、何とかして信じる気にさせようとか、自分が下手だから信じてもらえないとか、そんなふうに考えなくてもよいのです。どんなに分かりやすくちゃんと伝えても、その人が心から救いを願って福音を受け入れるかどうかは、神さまがお決めになることです。言葉巧みに信じる気に持っていったとしても、そんな誘導尋問は、後から崩れるだけです。救いは、神さまにかかっています。では、私たちは何もしなくてよいかというとそうではありません。私たちは、福音をちゃんと理解して、正しく伝えることによって、私達自身が成長し、恵まれ、神さまとの絆を強くされていきます。信じるかどうかは、神さまとその人との問題です。私たちは、福音を福音として伝えたらよいのです。

 これを二つ目にしましょう。「救いのために、福音において私たちに提供されているままに、キリストのみを受け入れ、」とありました。イエス・キリストを信じると言っても、肝心のイエス・キリストがどんなお方なのか、全く分かっていないけど、取りあえず信じておこう、というのでは意味がありませんよ。

昔の偉い人ではなく、神の御子であり、人としてこの世にお生まれになり、十字架に掛かって死なれ、三日目によみがえられた方、私たちに「わたしを信じなさい」と招かれるお方なんだ。そういう、肝心なことを信じるんですよ、というのですね。面白いなぁと思うのは、信仰はとても大切なのですけれど、その信仰が何か、というのを問八六になってやっと扱うのですね。そして、ここまで、まず私たちが信じるその中身の福音がどんなものなのかを、丁寧に丁寧に語ってきました。そこに、私たちが信じることが「福音において私たちに提供されている…キリスト」であることが具体的に描き出されて来たのです。こっちが疎かになって、「何」を信じるか、より、信じる「私」が大事になってしまったらおかしくなります。救いを果たしてくださったイエス様より、私がイエス様を信じる信仰に力があって、強い信仰でイエス様から救いや恵みを引き出せると考える大間違いがよくあります。それは、本当に酷い間違いです。大事なのは、私たちの信仰ではなくて、イエス様の恵みが素晴らしいから、それを私たちはただ信じるだけなのです。

 同時に、その「信じる」とは、「キリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼む」、そのような信仰です。キリストを信じるとは、「キリストがおられた事実を信じる」とか「キリスト教の教えがいいものだと信じる」というだけではありません。良い教えだと思っているだけで、実際にはそう生きようともしていないなら、それは本当に信じているとは言えませんね。

英語では、believe in Christと言いますが、聖書でも「キリストの中へと信じる・任せる・従う」というニュアンスがあります。キリストを信じるなら、キリストの言葉をも信じて、お従いするのです。それぐらい、信じることは、私たちの生き方を変えることなのです。

 でも、もう一度言いますが、誤解しないでください。信仰は、神の恵みのプレゼントです。

私たちがイエスを信じて、従っていくことも、恵みなのですし、神がそのようにさせてくださるのです。神の御心は本当に素晴らしく、信じて、その中に飛び込むに値するものです。三位一体の神が、この世界を造られ、尊いご計画をもっておられます。人間は、神に背いて、心が罪で暗くなり、我が儘なのに孤独で苦しんでいますが、その私たちを取り戻すために、イエス・キリストがご自身を捧げて、十字架の贖いを果たしてくださいました。それを知らない人は、何を信じているのでしょうか。いつか、幸せになれるとか、どうせ頑張ってもダメだから、好き勝手に生きた方がいい、とか、そんな当てにならない言葉を信じて従っているのかもしれません。そういう私たちの所に来て、キリストは本当に信頼に値する方として、ご自身を私たちに与えてくださいました。私達自身を新しく生きる生き方に導き、そのための信仰も与えてくださるのです。

 宗教改革記念日を前に、私たちがいつも、この信仰の恵みに立ち帰ることの大切さを今日確認しましょう。主の救いを百パーセント信頼して、従わせていただきましょう。

使徒の働き23742

 

 神が人間に明らかに示してくださった御心は、聖書の中の「十戒」(十のことば)に明言されています。夕拝では、その十戒を一つ一つ丁寧にお話しして来ました。けれども、その十戒を、私達が守ることが出来るのか、というと、そうではない、と続いたのですね。私達は、十戒を守るどころか、毎日破り続けている。そして、神の律法に対する違反は、どんな小さなものであっても、神の怒りと呪いに値する、と言われるものでした。私達は、神の怒りと呪いを受けるような違反をせずには生きられないのです。そして、今日の問85ではこう続きます。■

85 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに何を求めておられますか。

 さあ、この後にどんな言葉が続くでしょうか。神は、私達が罪の報いを免れるために、何をお求めになるのでしょうか。■神の怒りに釣り合うようなこととして、私達は、どんなことを思いつくでしょうか。一生懸命自分の償いになるようなことをして埋め合わせようと思う人もいるでしょう。神さまを喜ばせるように頑張んなきゃ、と考える人もいるでしょう。自分の罪を認めて、謙虚に、いつも項垂(うなだ)れて、罪責感を抱えて生きていかなければ怒られる、と考えてしまう人もいるでしょう。「自分には神さまに合わす顔などないのだと私も思ってしまいやすい一人です。けれども、それは、キリスト教の教えではないのですよ、とこの85の答はあっさり言うのです。■

答 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに、イエス・キリストに対する信仰と、命に至る悔い改めを、贖いに伴う様々な益をキリストが私たちに分かち与えるのにお用いになる、すべての外的手段の熱心な使用とともに、求めておられます。

 つまり■ここに言われているのは三つです。「イエス・キリストに対する信仰」と「命に至る悔い改め」と、「外的手段の熱心な使用」です。この一つ一つを、次の問86から見ていきます。特に、外的手段は、問88以下でずっと扱われて、御言葉、聖礼典、そして、祈りの三つの外的手段について学びながら、このウェストミンスター小教理問答は結びにします。ですから、一つ一つの内容については、この後に詳しく見ることにします。今日覚えて欲しいことはこれです。人間が頑張って善いことをして神さまを喜ばせるとか、神の怒りにビクビクしていないといけないとか、そういうことは言われていないのです。また、神を怒らせた後始末を少しでもしなければ、神に近づくことは出来るわけがない、とも言いません。神の怒りと呪いを免れるためにこそ、イエス・キリストに対する信仰を、神は私達にお求めになる。これは、何と不思議なことでしょうか。そして、何と素晴らしいことでしょうか。イエス様がよみがえって天に昇られた後、お弟子達が初めて公に伝道をした時、正にこのことをペテロは言いました。

 使徒の働き二37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。…」

 ペテロが命じたのは、悔い改めて、イエスを信じ、バプテスマを受けること、でした。神の怒りを免れるために、何かをしよう、怒りを宥めてもらうような何か埋め合わせをしてから、神に顔向けが出来るとか、それが出来そうにないから、もう神から逃げていよう、というのではダメなのです。そうではなく、反対に、神の怒りを免れる唯一の方法は、神に向いて、イエス・キリストへの信仰と、罪から神に向き直ることなのです。■神が差し出して下さる、イエス・キリストの救いを受け取ることなのです。

 私達人間は、自分の力で、罪に対する神の正しい当然の怒りを少しでも宥めることは出来ません。人間は小さく、神は宇宙よりも大きく、聖なる無限のお方です。いくら背伸びをしても、神を動かせはしません。それが出来るなどと考えるなら、「烏滸(おこ)がましいにも程がある」と言うべき、甚だしい勘違いです。ただ只管、神が人間を憐れんで、怒りの元である人間の罪を解決し、受け入れてくださるのです。神がイエス・キリストを遣わして、私達のすべての罪をご自身に引き受けてくださいました。そのイエス・キリストという、神の一方的な救いの提供を、私達はいただく。それだけなのです。

 決して、私達の信仰や、私達の悔い改めが神の怒りを宥めるのではありません。イエス・キリストが神の怒りをなだめてくださったことを、信じるのであり、それに相応しく、私達としては罪を認めてゴメンナサイと言いつつ、神に向いて生き始めるのです。そして、恵みの外的な手段も同じです。聖書を読んだり、洗礼を受けたり、聖晩餐に与り、祈ることで神のご機嫌を宥めるのではありません。聖書を読むことで、神の愛や自分の悔い改めやイエスの救いをより深く味わうのです。洗礼や聖晩餐によって、イエスの福音を、水やパンや杯で、肌で感じ取り、舌で味わって、本当に私は神の子とされたのだ、と確証して戴くのです。祈りを通して、神との生きた交わりをいただいて、ますます神の救いの恵みに豊かに与るのです。私達はただ、イエスをいただくだけです。

 神は、ここまで私達のために、配慮してくださっています。神の怒りをビクビク恐れたり、考えないように逃げたりするのではなくて、神の赦しをいただいて、赦し以上の和解と神の子とされた祝福をいただけるのです。神は、それを私達に与えたいのです。私達が神の怒りからの救いを願うよりも遥かにずっと、神の方が、私達の救いと祝福を強く願い、永遠の喜びを用意しておられるのです。ひとり子イエス様をさえ、与えてくださいました。そしてそれを、私達が、信仰と悔い改めによっていただける、と言われています。更に、それを補強するために、御言葉や聖礼典や祈りという手立てまで下さいました。それを用いることによって、私達が、もう神の怒りを恐れず、救いの道を喜んで歩めるようにと、ご配慮くださってのことです。これは、何と至れり尽くせりのお心遣いでしょうか。信仰と悔い改めを求めてくださっています。私達の手に届く手段を用いるようにと求めてくださっています。人生に、これを生かさない手はありません。

イエスへの信仰である以上、恵みの手段は、それによって救いを得るというような手段ではなく、イエスへの信仰を強める手段。

「福音を自分自身に告げ続ける」ことが必要なのです。

 

39なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

40ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。

41そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

42そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 

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ルカ二三章26~31節「希望のある覚悟」宗教改革記念礼拝

2015-10-25 20:44:37 | ルカ

2015/10/25 ルカ二三章26~31節「希望のある覚悟」宗教改革記念礼拝

 

 土曜日、10月31日は、教会のカレンダーでは「宗教改革記念日」ですが、「ハロウィーン」だと答える人も多いでしょう。ハロウィーンのラッピングをした商品もやたらと目立つようになりました。翌11月1日が「諸聖人の日(万聖節(ハロウマス))」というカトリック教会の記念日で、聖人(ホーリー)たちを記念する前夜祭(イブ)から、なまってハロウィーンとなったそうです。昔からの迷信ともごちゃ混ぜになって、死者の魂が帰って来る日だと信じられ、日本のお盆のようでした。一五一七年、当時の大司教がこの日に当て込んで、免罪符を大々的に売りだそうと聞きつけたマルチン・ルターが、それに抗議をして「九十五カ条の提題」を公開したのです。キリストの尊い十字架の御業を差し置いて、罪を嘆く悔い改めも神に従う信仰もなしに、お金で救いを買い取れるような当時の宗教的な教えに対する、根本的な抵抗(プロテスト)がプロテスタントの始まりでした。

 今日の箇所、イエスがいよいよ十字架にかけられるために、十字架を背負ってカルヴァリへ行かれる道で、そのイエスの後についていった二種類の人々が出て来ます。ここには、宗教改革が「宗教と信仰との違い」を問いかけたのにも似た二つのあり方が見て取れます。一つは、26節の

「クレネ人シモン」

です。聖書に出て来る人物でも、最も「運が悪かった」人の一人かも知れません。北アフリカのクレネからエルサレムまで、祭りのために出て来て、そこにいたのでしょう。弱り切ったイエスの代わりに、十字架を担がされます。重くて苦しく、屈辱で、血で服も宗教的にも汚れて、この後の祭りの行事への参加も諦めざるを得ない出来事でした。せっかくの巡礼がぶち壊しになった。偶々(たまたま)そこに居合わせただけなのに、「なんで俺がこんな目に遭わなければならないのだ」と怒りや疑問や後悔が心中に渦巻いたことでしょう[1]

 しかし、ルカはこの出来事を不幸ではなく、ここに記すに値する出来事としました。抑(そもそ)も、彼の名前やクレネ人という出自や「いなかから出て来た」事情を知っていたのは、彼がいつからか教会に加わり、名前が知られていたからでしょう。マルコ十五21[2]やローマ十六13[3]などを合わせて、シモン家族が信徒となったと想像されています[4]。この時シモンは、最悪だと思ったでしょう。けれど、そのことを通して、主イエスに出会いました。なんで十字架など自分が、と思ったでしょう。しかし、今この十字架を担いでいたナザレのイエスこそ、最も十字架など負う必要のない方でした。十字架を担って歩けないほど憔悴しきっておられるのに、なお主は呪ったり呟いたりせず、嘲笑い敵対する民衆を見つめ、憐れみ、向き合っておられました。そのお姿について十字架を担ぎながら、シモンはどうにかして信仰を持つようになったのです。

 反対に、27節以下に出て来る「女たち」には逆のことが言われます。この女性達は、イエスに向かって胸を叩き、嘆きを現していました。しかし、イエスを十字架に着けよと叫んだ民衆に混じっていた訳ですから、それは本当にイエスを愛していたからというよりも、大袈裟なパフォーマンスだったのでしょう。いずれにしても、イエスは言われました。

28…「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。

29なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』という日が来るのですから。

 これは直接には、この後、四〇年ほどでエルサレムをローマ兵が陥落して、多くのユダヤ人が命を落とす出来事を指しているのでしょう。それは本当に大変な混乱と苦難の時です。この母としての深い嘆きは、小さい子を連れて逃げるのが大変だ、という以上に、大きくなった子どもも戦争に行き、殺されたと知った時の嘆きでしょう。子に先立たれる親の辛さの方が沢山あったはずです。山に向かって「崩れてきてくれ」と願うのは、もう生きていたくない、わが子達が死に、もう希望を持つことも出来ない、心が絶望してしまった叫びです。

 本来、子どもを持つことは、当然祝福です。今もそれは変わりません[5]。しかし人間が、自分達の人生の土台や幸せの基準を子どもでも何でも具体的な祝福そのものに置いてしまうと、それは、いつかは破綻する間違った生き方になります。
 でも私たちは、なかなかそうは思いません。幸せと禍とを光と影のように考えて、
 「自分達は幸せの側にいるから不幸は来ない」
とか
 「禍にあってしまったから、もう死んでしまったほうがましだ」
と考えてやすいのではないでしょうか。この女たちは、イエスのために嘆きつつ、自分に禍が降りかかるとは思っていません。イエスは、嘆きの日が来ることを思い起こさせなさったのです[6]。いいえ、ここだけでなく、主イエスも聖書全体も言います。神を蔑ろにして「いつまでも自分達の好きにやって平気だ、大丈夫だ、神も守ってくださる」と嘯(うそぶ)く人々に言うのです。

「神に背いたまま、自分の幸せ、人生、生き甲斐だと思っているもの。それは全ていつか必ず失われる。自分のために生きるのを止めて、神を神として崇め、神に従い、互いに愛し合う確かな人生に帰りなさい」

と。

 イエスは、この時確実に迫っていた厳しい現実への覚悟を突きつけます。でも、それ自体、主イエスの彼らに対する愛からでした。嫌みや強情さからではありません。ご自分が歩くのもやっとの極限状態で、しかも今正に十字架に釘付けにされるという恐ろしい苦しみを前にして、なおご自分のことよりも、あなたがた自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい、と言われるのです。厳しさの根っこには、愛があります。人生の現実への覚悟をさせたいのは、その先にある希望を、キリストに従う道にある確かな希望を持たせたかったからです。

 クレネ人シモンは、まさにそのイエスを間近に見たのでした。そのお姿を後ろから見ながら、イエスについて行きました。十字架を押しつけられ、失ったことは多くあったでしょう。しかしそれによって初めて、主イエスのお姿を間近に見ました。自分が十字架に掛けられる苦しみよりも、人々の苦しみや不幸、滅びを嘆かれるお方でした。

 そして、シモンの助けを必要となさる方でした。ご自分に代わって十字架につくことを求められたのではありませんが、シモンにもその十字架を担う助けを求められたのです。

 イエスが私たちを招かれる道は、自分の安全や幸せを追い求める道ではありませんし、人の役に立つことを証明する生き方でもありません。私たちを愛して十字架に掛かられた主に従うことは、私たちも痛みや恥や悲しみから逃げずに、愛をもって生きることを第一とすることです。禍や不幸や不運な出来事が降りかかっても、そこで嘆いて絶望して終わるのではなく、その中でなお私たちが助けたり助けられたり、ともかくともに歩んでゆくのが、神が招かれている人生の旅です。自分の幸せを第一に求める広い道から、主イエスに従う旅路へと導かるのです。幸せな将来を追い求め、傷や恥や損や苦しみを遠ざける生き方から回れ右をして、キリストの測り知れない愛を既にいただいている者として、自分を差し出していくのです。自分が出来る事も、自分が助けを必要としている弱さも含めて、自分を差し出す生き方を、イエスご自身が示しておられます。この主イエスを仰ぎ続けるから、私たちは最悪の出来事を通してさえ、私たちを招かれる主の導きを信じることが出来るのです。

 

「主よ。生きるからには覚悟が要ります。あなた様は、それを希望とともに与えてくださいます。どうぞ私たちを、この群れを、自分のためでなく、あなたのため、仕えるために存在させてください。あなたがすべてを私たちのために捧げられたように、あなたに従う事ですべてを失うとしても、そこでも私たちを担い、愛し続ける主の永遠の愛がありますから感謝します」

 



[1] 北アフリカから来たシモンは恐らく黒人ですが、群衆の中から彼を選んだことには、ユダヤ人やローマ兵にとっては、人種差別的な理由もあったのかもしれません。

[2] 「アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が」。

[3] 「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく」

[4] 実際、「26…この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。」という書き方は、以前イエス様が言われた言葉をそのまま使っています。「九23…「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」「十四27自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」

[5] 現代の少子化には「子どもを産んでも将来は暗くなるだろう。子どもも大変だし、自分達も育てる自信がない」という発想があります。それは、間違いです。キリスト者は、どんな時代の暗さにあっても、福音による希望を与えられてきました。今こそは、子どものいのちを、幸いとして確信する信仰が求められています。諦めや絶望は、決して今日の箇所から引いてくるべきメッセージではありません。

[6] この時のここでだけ、将来の禍(わざわい)を予告されたのではありません。同じ言葉は二一23でも仰っていましたし、エルサレム崩壊も二一章で予告されていたのです。また、30節の「山に向かって」は、旧約聖書のホセア書十8の引用です。

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問85「これを生かさぬ手はない」使徒の働き2章37~42節

2015-10-23 22:16:54 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/10/18 ウェストミンスター小教理問答85「これを生かさぬ手はない」使徒の働き2章37~42節

 

 神が人間に明らかに示してくださった御心は、聖書の中の「十戒」(十のことば)に明言されています。夕拝では、その十戒を一つ一つ丁寧にお話しして来ました。けれども、その十戒を、私達が守ることが出来るのか、というと、そうではない、と続いたのですね。私達は、十戒を守るどころか、毎日破り続けている。そして、神の律法に対する違反は、どんな小さなものであっても、神の怒りと呪いに値する、と言われるものでした。私達は、神の怒りと呪いを受けるような違反をせずには生きられないのです。そして、今日の問85ではこう続きます。

問85 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに何を求めておられますか。

 さあ、この後にどんな言葉が続くでしょうか。神は、私達が罪の報いを免れるために、何をお求めになるのでしょうか。神の怒りに釣り合うようなこととして、私達は、どんなことを思いつくでしょうか。
 一生懸命自分の償いになるようなことをして埋め合わせようと思う人もいるでしょう。
 神さまを喜ばせるように頑張んなきゃ、と考える人もいるでしょう。
 自分の罪を認めて、謙虚に、いつも項垂(うなだ)れて、罪責感を抱えて生きていかなければ怒られる、と考えてしまう人もいるでしょう。
 「自分には神さまに合わす顔などないのだ」と私も思ってしまいやすい一人です。

 けれども、それは、キリスト教の教えではないのですよ、とこの85の答はあっさり言うのです。

答 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに、イエス・キリストに対する信仰と、命に至る悔い改めを、贖いに伴う様々な益をキリストが私たちに分かち与えるのにお用いになる、すべての外的手段の熱心な使用とともに、求めておられます。

 つまり、ここに言われているのは三つです。
 「イエス・キリストに対する信仰」と「命に至る悔い改め」と、「外的手段の熱心な使用」です。
 この一つ一つを、次の問86から見ていきます。
 特に、外的手段は、問88以下でずっと扱われて、御言葉、聖礼典、そして、祈りの三つの外的手段について学びながら、このウェストミンスター小教理問答は結びにします。ですから、一つ一つの内容については、この後に詳しく見ることにします。今日覚えて欲しいことはこれです。人間が頑張って善いことをして神さまを喜ばせるとか、神の怒りにビクビクしていないといけないとか、そういうことは言われていないのです。また、神を怒らせた後始末を少しでもしなければ、神に近づくことは出来るわけがない、とも言いません。神の怒りと呪いを免れるためにこそ、イエス・キリストに対する信仰を、神は私達にお求めになる。これは、何と不思議なことでしょうか。そして、何と素晴らしいことでしょうか。イエス様がよみがえって天に昇られた後、お弟子達が初めて公に伝道をした時、正にこのことをペテロは言いました。

使徒の働き二37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。…」

 ペテロが命じたのは、悔い改めて、イエスを信じ、バプテスマを受けること、でした。神の怒りを免れるために、何かをしよう、怒りを宥めてもらうような何か埋め合わせをしてから、神に顔向けが出来るとか、それが出来そうにないから、もう神から逃げていよう、というのではダメなのです。そうではなく、反対に、神の怒りを免れる唯一の方法は、神に向いて、イエス・キリストへの信仰と、罪から神に向き直ることなのです。神が差し出して下さる、イエス・キリストの救いを受け取ることなのです。

 私達人間は、自分の力で、罪に対する神の正しい当然の怒りを少しでも宥めることは出来ません。人間は小さく、神は宇宙よりも大きく、聖なる無限のお方です。いくら背伸びをしても、神を動かせはしません。それが出来るなどと考えるなら、「烏滸(おこ)がましいにも程がある」と言うべき、甚だしい勘違いです。ただ只管、神が人間を憐れんで、怒りの元である人間の罪を解決し、受け入れてくださるのです。神がイエス・キリストを遣わして、私達のすべての罪をご自身に引き受けてくださいました。そのイエス・キリストという、神の一方的な救いの提供を、私達はいただく。それだけなのです。

 決して、私達の信仰や、私達の悔い改めが神の怒りを宥めるのではありません。イエス・キリストが神の怒りをなだめてくださったことを、信じるのであり、それに相応しく、私達としては罪を認めてゴメンナサイと言いつつ、神に向いて生き始めるのです。そして、恵みの外的な手段も同じです。聖書を読んだり、洗礼を受けたり、聖晩餐に与り、祈ることで神のご機嫌を宥めるのではありません。聖書を読むことで、神の愛や自分の悔い改めやイエスの救いをより深く味わうのです。洗礼や聖晩餐によって、イエスの福音を、水やパンや杯で、肌で感じ取り、舌で味わって、本当に私は神の子とされたのだ、と確証して戴くのです。祈りを通して、神との生きた交わりをいただいて、ますます神の救いの恵みに豊かに与るのです。私達はただ、イエスをいただくだけです。

 神は、ここまで私達のために、配慮してくださっています。神の怒りをビクビク恐れたり、考えないように逃げたりするのではなくて、神の赦しをいただいて、赦し以上の和解と神の子とされた祝福をいただけるのです。神は、それを私達に与えたいのです。私達が神の怒りからの救いを願うよりも遥かにずっと、神の方が、私達の救いと祝福を強く願い、永遠の喜びを用意しておられるのです。ひとり子イエス様をさえ、与えてくださいました。そしてそれを、私達が、信仰と悔い改めによっていただける、と言われています。更に、それを補強するために、御言葉や聖礼典や祈りという手立てまで下さいました。それを用いることによって、私達が、もう神の怒りを恐れず、救いの道を喜んで歩めるようにと、ご配慮くださってのことです。これは、何と至れり尽くせりのお心遣いでしょうか。信仰と悔い改めを求めてくださっています。私達の手に届く手段を用いるようにと求めてくださっています。人生に、これを生かさない手はありません。

 

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問83-84「違いはあれど罪は罪」ローマ七章12~14節

2015-10-11 20:52:36 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/10/11 ウェストミンスター小教理問答83-84「違いはあれど罪は罪」ローマ七章12~14節

 「毒を食らわば皿まで」という言葉を知っていますか。

「(毒を食う以上は、その皿までもなめてしまおうの意で)一度罪を犯した以上は、ためらわずに最後まで悪に徹しようとすることをいう。また、いったん面倒なことに関わってしまったからには、最後まで関わり抜く。」

という意味だそうです。「悪いことにどうせ手を突っ込んでしまったんだから、徹底的にやってしまっても同じだ」という言いぐさです。「嘘を吐いたらもう最後までしらを切ろう」「人のモノを盗っちゃったら、二つ盗っても三つ盗っても同じ」、「一人殺しても十人殺しても同じ」。逆に、嘘やズルがバレた時に、「お前は生まれてから一度も罪を犯したことがないのか。心の中で、恥ずかしい想像や汚い考えをしたことがないっていうのか」と逆ギレする人もいますね。でも、それは間違いです。

問83 律法に対する違反はみな、同じ程度にいまわしいのですか。

答 ある罪は、それ自体で、また、いくつかの加重の理由で、他の罪よりも神の御前に一層いまわしくなります。

問84 すべての罪は、何に値しますか。

答 すべての罪は、この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに値します。 

 ここでは、神の律法に対する違反は、みんな同じ程度に忌まわしいのではなく、罪を「加重」(さらに重くする要素)ということがあるのだ、ということです。

 例えば、同じ罪でも、罪を犯す本人が、年長者、指導者など、責任ある立場にいる人、みんなの模範となることを期待される人がする場合は、よりその罪はひどい影響力を持ちますね。牧師や親、学校の先生、一流選手、政治家の影響は大きいのです。

 それから、相手によっても、罪の責任はより重くなります。人の悪口もいけませんが、神への悪口は更に恐ろしいことです。自分の親や目上の人に対する罪も聖書はより責めています。でも、多くの社会では、貧しい人や障がい者、病人などは、余り顧みられないで、「虫けらのように扱われる」と言われたりします。しかし、聖書はそれとは正反対のことを教えます。イエスは言われました。立場の弱い人、「最も小さい者のひとりにしたのは、このわたしにしたのです」と。弱い人に対する罪は、より重く問われるのです。

 三つ目以降は、罪そのものの背景です。それが「知らずに」した罪、悪いと分かっていなかった、罪だと教わっていなかった、正しいと思ってやってしまったよりも「明らか」に罪だと分かっていた場合の方が、より重く罰せられます。パウロは、イエスに出会う前、教会を迫害していました。沢山のキリスト者を、良かれと思って、捕らえたり苦しめたり殺したりしましたが、それはまだ知らずにやったことだったので、神はそのことを汲み取って憐れんでくださったと言っています(Ⅰテモテ一13)。しかし、悪いと分かっているのにする、あるいは、した方がいいと分かっているのにしないことは、弁解の余地がありませんね。また、ただ考えただけでも罪は罪ですが、やっぱり「思い」だけでなく、それを実際に行動や言葉にする方が、悪いです。また、「うっかり」してしまうだけでも悪いことは悪いのですが、それを「わざと」(ちゃんと分かって、計画的に、悪びれずに、楽しんで)やる方が、当然、神は厳しく責めるでしょう。そして、「はじめて」の罪よりも「二度目、三度目」何度も、のほうが重い。決して、一度やれば、二度も三度も同じ、ではありません。二度目の方がより悪く、三度目はもっといけないのです。最後に、反省や謝罪をしたのに、また繰り返す場合、「ごめんなさい。もうしません」と誓っておきながら、それを破って犯した罪は、より厳しく罰せられます。

 私たちの人間関係でも、これは十分理解できる事ですね。新聞で読む犯罪も、お父さんお母さんや学校の先生や教会の牧師がしたら、ショックは何倍にもなるでしょう? だから、こうしたことは特に神が罰の厳しさに差を付けられる、という意味ではなくて、罪の違いを確認したわけです。その上で、次にこう言われていました。

問84 すべての罪は、何に値しますか。

答 すべての罪は、この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに値します。 

 え、ぢゃあ、罪の加重って何だったんだろう?と突っ込みたくなりますね。すべての罪が、神の怒りと呪いに値するなら、どんな罪も変わらないんじゃないでしょうか? いいえ、要するに、罪の加重というのは、自分の罪の方が小さいから大丈夫、大きな罪は犯さないようにしなさいよ、ということではないんです。そんなことをしている人がいますか? 自分は罪を重くしていない、なんて言える人はいるでしょうか? みんなの上に立てば立つほど、誘惑も大きくなって、罪を犯し、それをまた隠そうとしやすい。うっかりじゃなくて、分かってて、でも罪を願って、確信的に罪を犯してしまうのです。「毒を食らわば皿まで」だなんて言って、もっと罪を犯している。そういう罪の加重を、私たちは現にしているのだ、だから、弁解の余地はないのだ、ということです。

 キリスト者の罪の理解は、私たちが神から離れて、神を失って心が罪に縛られて、「罪人」となったために罪を犯してしまう、のだ、というものです。罪を犯し、沢山の悪を重ねているうちに、その結果、罪人になってしまう、というのではありません。具体的な罪は、罪人である結果なのです。ですから、罪の重さに違いがある、という今日の話は「罪を重くしてはいけませんよ」とお勧めしている以上に「律法が示すように、私たちは実際、軽い罪だけではなく、罪に罪を増し加えるような生き方をしているではありませんか」と、聖書が私たちの罪の性質をハッキリ見つめさせる事を教えています。

 イエスは、私たちの罪のために十字架に死んで、よみがえってくださいました。私たちに、まだ言い訳の余地があるとか、自分の罪はまだ軽い、などと背比べするのは止めましょう。あらゆる重さの罪をも、イエスはすべて徹底的にご存じです。その上で私たちを受け止め、癒やし、新しくして、罪の支配から、主イエスの支配に入れてくださった、と聖書は示しているのです。この新しい恵みの御支配に与るためにも、自分の罪や問題を、ごまかさずに認めましょう。そして、それを主に告白して、恵みの支配に変えて下さるよう、願いましょう。律法が示すのは、本当に罪から自由にされる道なのです。

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ルカ二三章13~25節「罪は見つからないのに」

2015-10-11 20:50:07 | ルカ

2015/10/11 ルカ二三章13~25節「罪は見つからないのに」

 

 「喧嘩(けんか)両成敗(りょうせいばい)」という言葉があります。騒動や暴力沙汰が起きた場合、理非に拘わらず、双方を罰する、という意味のようですが、実際にどんな非があったかを確かめようとせず、この言葉を持ちだして、どんな場合も一律に両方を罰することもあります。今日の所で、ピラトはイエスに罪がないと言いつつ[1]

「懲らしめたうえで、釈放します」

と二度も言っています[2]。罪がないなら、懲らしめる必要だってないでしょう。これは、実際には鞭で打つことです[3]。多くの人が、この鞭打ちは、大変な凶器を使った拷問で、それだけで死ぬこともあるような、一生背中が曲がってしまうような事だったと説明しています[4]。そんな鞭打ちを、どうして罪のない人にしたのでしょう。罪がないならば、即刻、無罪放免にしたら良いはずです。しかし、当時の考えの中には、濡れ衣であったとしても、騒動の原因となっただけで罰せられる、という判断は少なからずあったようです。「喧嘩両成敗」にも通じるような、乱暴な解決方法でしょう。ピラトは、イエスを憎むユダヤの祭司長や指導者たちの要求を拒みつつ、鞭打ちを科することで勘弁してやれ、と妥協案で手を打つ積もりだったのでしょう。

 このピラトは三度もイエスの無罪を主張しているのも印象的です。ある意味では、ピラトが「いい人」にも見えてしまいます。確かに、四つの福音書の中ではルカが一番ピラトに好意的だとも言われます。けれど、決してピラトを善人とか、犠牲者とは考えていません。イエスに罪が見られないことを分かりつつ、自分の立場を守るため、墓穴を掘るようなことばかりしてしまう。そして、最後は押し切られてしまう。いいえ、初めからピラトは逃げ腰でした。自分が結論を出して、議会との関係を拗(こじ)らせるのを避けるため、7節ではヘロデに、13節では「民衆」を巻き込んで、イエスを無罪放免にしようとします[5]。民衆は呼び集めなくても良かったのですし、民衆の許可など得なくても処刑要求は退けられたのです。それを、民衆にも釈放を承認させて、議会の反対を封じよう、などと思ってしまったのでしょう。イエスを殺したいのは議会だけで、民衆までイエスを憎んでいるわけではなかろう、と踏んだのです。

 しかし、民衆はイエスではなくバラバを選びます[6]

「暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた」

とこれも19節と25節で繰り返して強調しています。人々は、暴動と人殺しで捕まっていたバラバが釈放され、何の罪もないイエスが十字架につけられることを願い、叫びました。ピラトは優柔不断で、妥協、臆病、自己保身をしました。民衆は、期待だけさせておいて今は何も抵抗をしないイエスよりも、少なくとも暴動や人殺しでもして戦ったバラバを英雄としました。イエスへの熱狂は殺意に変わりました。そして、祭司長や指導者たちの憎しみや傲慢な思い。様々な人間の愚かさ、間違い、弱さ、自己中心が絡んで、イエスは引き渡されたのです[7]

 しかし、誤解しないでください。ピラトにもうちょっと勇気と潔さ、責任感があったらよかったのに、という話ではありません。ピラトは、「イエスかバラバか」ではなく、「バラバとイエスの二人を無罪にしよう」と提案したら良かったんじゃないかとか、民衆は、バラバではなくイエスを選ぶべきだった、という問題でもありません。「私たちがここにいたら、イエスの十字架を阻止すべきだ」などと読む必要もありません。後にペテロはこう言います。

使徒三13「…あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。

14そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、

15いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。(中略)

17ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。

18しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。

19そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

20それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。」

 ここでペテロは、民衆の間違いをシッカリと思い起こさせつつ、それを非難したり後悔させたりせず、そこにイエスの受難とよみがえりが起こったことを思い出させて、神に立ち返り、主の回復に与りなさい、と勧めています。バラバを選びイエスを十字架につけさせた、人間の狡さ、無責任さ、暴力性を見せて、自分たちがどれほど弱く、当てにならないか、自分の善意や正義感など吹けば飛ぶような者かを見つめさせます。こうならないように正しく生きましょう、正しい社会を作りましょう、なんてことではないのです。何の罪もないイエスをさえ、殺し、代わって実際の犯罪者であるバラバを釈放させた所に、私たち人間のどうしようもない罪は鮮やかに示されたのです。肝心なのは、そこにイエスが飛び込んで来られた事実です。憎しみや裏切りや妥協やプライドや無責任や熱狂が渦巻く坩堝(るつぼ)にイエスがおいでになった福音です。

 では、私たちはどうしたらよいのでしょうか。どうしたら、私たちはそんなずるけた生き方から、救われるのでしょうか。それは、その十字架へとつけられるためにこの世に来てくださったイエスにこそ、解決があることなのです。ペテロが民衆に促したように、自分の罪を認めて神に立ち返り、キリストが回復に来てくださるのを待ち望むのです。

 もちろん、ただ待ち望んで、信じるだけで、何もしないということではありません。置かれたそれぞれの場所で、人を恐れず、責任逃れや下手な策を弄して墓穴を掘るようなことをしない。むしろ、自分の責任を果たし、悪に手を染めない。そう務める事は、私たちの義務です。でも、それが出来たら、神も私たちとともにいて、私たちを祝福してくださる、というのではないのです。神は、暴力や殺意や妬みや嘘の世界の真っ只中に来てくださったのです。駆け引きをしたり、声の大きい者が買ったり、臆病を被害者意識で取り繕ったりする、今日の話は、まさに私たちの生活を映し出しているのではありませんか。そういう社会のどん底に、イエス・キリストは来てくださったのですし、今も私たちの所に来てくださるのです。そして、私たちに「正しく生きよ」と命じて終わるのではなく、人間の思惑やいい加減さ、不正のただ中で、神のご計画が進んでいるのだと教えます。私たちは、その神の御業に与って、恐れや不安から間違いを犯すような生き方から救い出され、キリストのこの愛に感謝し喜んで生きる生き方へと変えられている途中なのです。キリストに罪がないのは、明らかでした。そのキリストを捨てたことに、人間の罪も明らかになりました。そこに来てくださったキリストは、私たちが自分を信じる生き方から、この恵みのキリストを信じる確かな生き方を下さるお方なのです。

 

「主よ。イエスよりもバラバを選んだ民衆の姿に、自分の生活が重なり、自分の邪さを忘れていたと改めて謙り、恥じ入るばかりです。しかしそれ以上に、ここに飛び込んで来られ、ここで御業を力強く始めたもうあなたに感謝します。私共を励まし、あなたの回復の時を信じさせてください。裏切りや駆け引きでなく、真実や信頼や希望を作り出す毎日を送らせてください」



[1] これでさえ、「何の罪も見つからない」(4節)から、「訴えているような罪は」(14節)、「死罪に当たることは」(15、22節)とトーンダウンして、妥協していることに注目。

[2] 16節、22節。

[3] 新共同訳では「鞭で懲らしめ」と訳されています。言語の「パイデューオー」の原意は、子(パイス)として躾ける、というニュアンスがあります。

[4] そうではなく、もっと軽い鞭打ちだったと考える人もいます。それにしても、思い切り鞭打たれるならば、大変な傷と痛みが伴ったはずです。

[5] この「民衆」はルカの福音書では、イエスに好意的な「民」でもあり、指導者たちとは対局をなす存在として使われてきた言葉です。しかし、その神の民たちでさえ、この時はイエスを「十字架につけろ」と叫んだのです。

[6] マルコ一五6-15と比較すると、群衆が来たのは、バラバを釈放してもらうためであったことが分かり、バラバが十字架刑に決まっていたのだろうと推測できます。

[7] 私たちもまた、同じ弱さを、そして取り返しのつかないことをしかねない者です。「難しい決断をするときは、仲間からの圧力があることを覚えておこう。正しい決心には不愉快な結果が伴うことを覚悟しておこう。それは社会的な拒絶、成功の頓挫、公衆の嘲笑などである。それからピラトを思い出し、たとえ他の人がどんな圧力をかけてきても、正しいことを擁護しようと決心しよう。」Bible navi、1711。

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