聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/1/10 ヨハネ黙示録21章1~4節「寄留者として生きる」ニュー・シティ・カテキズム52

2021-01-09 13:08:50 | ニュー・シティ・カテキズム
2021/1/10 ヨハネ黙示録21章1~4節「寄留者として生きる」ニュー・シティ・カテキズム52

 ニュー・シティ・カテキズムでのお話しも最後になります。第52問はこれです。
問52 私たちにとって、永遠の命にはどのような希望がありますか?
答 それは私たちに今の堕落した世界がすべてではないことを思い起こさせます。もうすぐ私たちは新しい都市で永遠に神と共に住み、神を喜ぶようになります。その新しい天と新しい地において、私たちは罪から完全に、かつ永遠に解放され、新しくされて回復された世界の中で、新しく復活したからだに生きるようになります。

 最後には「永遠のいのち」についての確認です。ここには「新しく」という言葉が、五回も繰り返されています。私たちは、やがて新しくされます。その「新しさ」は、もう古くされることのない新しさです。私たちの生活だと、新しいものは必ずやがて古くなります。
 「新年」も、十日経って、もう慣れてしまいました。新型の家電製品も自動車も「最新式」が交代し続けていきます。新しいオモチャはとても魅力的に見えますが、少しすれば、また次のものが出てくる、際限の無いゲームです。時間が続く限り、新旧が入れ替わり続けるのが、私たちの生活です。でも、その「時間」そのものが終わる時が来て、「永遠」が始まります。古びる時間の代わりに永遠の新しさが始まります。新しい年で、新しい天と新しい地において、新しくされて回復された世界で、新しく復活した体に生きるようになるのです。その世界は永遠に新しく、今の理解を超えています。
ヨハネの黙示録21章1節また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
 当時の人たちにとって「海」は、恐ろしい所、嵐になったら人を飲み込んでしまう、死に通じる場所だったようです。だから、そういう人たちの考えを配慮して「海はない」と言ってあげているのでしょう。そのように、私たちは今の世界の中でしか、将来をも想像することは出来ません。けれども、この今の世界そのものが「以前の天と以前の地」と呼ばれるように、やがて過ぎ去って、「新しい天と新しい地」が来るのです。それは、今の天と地のように、幸せも消え去り、神が見えない世界とは全く違う世界です。
 3私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
 4神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
 以前のものが過ぎ去ったから、涙も死も、悲しみも叫び声も苦しみもない。そういう将来を聖書の終わりに、ハッキリ約束しています。しかし、ここだけではありません。ここにある言葉は、実は聖書の中で繰り返している言葉です。
「神が人々とともに住み、人々は神の民となり、神は彼らの神となり、ともにいてくださる」。
 これは、聖書の最初から最後まで、神がアブラハムを選び、イスラエルの民と契約を結び、預言者たちを通して呼びかけ、繰り返して語っていたことです。神がともにおられる。私たちは神の民、神は私たちの神。主イエスもこの言葉を繰り返して、私たちと神との関係そのものを示してくださいました。私たちが何かをするとか、神が何かをしてくださるとか、そういう行動以上に、私たちが神のもの、神が私たちの神となってくださった、その新しい関係を語られたのです。それは、今すでに始まっていることです。
…今の堕落した世界がすべてではないことを思い起こさせます。…
とありました。今の世界がすべてではない。
 私たちの今の世界はすべてではありません。最新の製品も、人の言葉も、苦しみや悲惨も、成功も喝采も、その時その時、私たちにはそれこそすべてのように思えます。そう思っているうちに、いつの間にか次のものが来、また新しいものが訪れては消えていく。そのような移りゆく世界がすべてではなく、やがて新しい世界が来る。その時に向けて、私たちは進んでいるのです。

 今日の説教題を「寄留者として生きる」としました。聖書には、私たちを「寄留者」とか「旅人」として描く言葉がいくつもあります。私たちは、今この世界に住んではいますが、私たちの永遠の住まいはここではなく、やがての永遠の家にあります。だから今は、旅をしているのです。今のこの世界がどんなに魅力的でも、どんなに悲惨でも、それは私たちにとって一番の問題ではありません。旅の途中のその場所から、やがては腰を上げて、家に向かっていくのですから。いつか、私たちは死に、この世界のことに別れを告げる日が来ます。この世界で手にしたもので、新しい世界と関係のないものは、すべて朽ちてしまいます。
 その事を思い起こすなら、私たちの生き方は、今ここにあっても自由になります。「永遠のいのち」という言葉は私たちに、今の世界がすべてではないことを思い起こさせてくれる。まもなく、いつまでも新しい世界へと帰り着く。その家に向かって、私たちは帰っていくのだ、ということを思い起こさせてくれるのです。
 人は、将来に対して、色々な希望を持ちます。死後や世界の終わりの先にも、想像力を逞しく、幸せな世界を描きます。神様は、私たちのそうした想像力よりも、遙かに素晴らしく、創造主であるお方ですから、世界の宗教やキリスト教が描き出す永遠よりもすばらしい世界を用意されるでしょう。ここにあった
「罪から完全にかつ永遠に解放され、新しくされて回復された世界」
というのもどんな世界なのか、私たちには到底理解も説明も出来ません。

人が罪をもう問われないとはどういうことでしょう。
私たちが会う人たちは、お互い分かるのでしょうか?
嫌な人にも会うことになるのでしょうか?

 そんな疑問も、今は湧き上がります。

抑も「永遠」なんて飽きないのでしょうか? 
疲れないのでしょうか?

 そんな心配が全部、無用な想像で終わるような、素晴らしい回復を神は用意しておられます。神とお会いすること自体、今はまだ、私たちにとって緊張したり、恐ろしい気もしたりする事です。しかし、私たちは神と共に住み、神を喜ぶようになる。永遠に喜び、生き生きと輝き続ける将来があります。その時に向けて、神は今も私たちを運び、ここで私たちとともにいて、私たちの旅路を導いてくださいます。

「永遠なる神よ、私たちはあなたの御国の完成を心待ちにしています。私たちの涙が完全に拭い去られ、肉体の戦いに苦しむことのない日々を待ち望んでいます。どうか永遠のいのちへの確かな希望によって、今与えられている人生の試練に向かっていく勇気を得ることが出来ますように。アーメン。主イエスよ、来て下さい」
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2021/1/3 ローマ書8章34節「私たちの弁護人」ニュー・シティ・カテキズム51

2021-01-02 12:21:19 | ニュー・シティ・カテキズム
2021/1/3 ローマ書8章34節「私たちの弁護人」ニュー・シティ・カテキズム51

 ニュー・シティ・カテキズムでのお話しもあと二回。最後から二番目はこれです。
問51 キリストの昇天は私たちにとってどのような利点がありますか?
答 キリストは、私たちのために肉をとって地に降りて来たのと同じように、肉を持って私たちのために昇天されました。そして今、父の御前で私たちのために弁護し、私たちのために場所を用意し、私たちに聖霊を送ってくださいます。
 キリストは十字架の死の三日目に復活し、そして「昇天」、天に昇られました。
因みに教会では人が亡くなった時、天に召された「召天」という表現を使います。イエスの昇天と紛らわしいですが、イエスは復活後の昇天です。

 弟子たちの見ている前で、天に上って行かれた、と使徒の働きに記されています。ここでわざわざ「肉を持って」と書かれていて、「肉をとって地に降りてきたのと同じように」と書いています。キリスト者の中にも、キリストの復活も昇天も、本当にあったはずはない、弟子たちの信仰において、キリストは復活し、天に昇ったと理解したのだ、と考える人たちもいます。もしそうだとしたら、キリストの誕生も、本当に神の子が、肉をとって人になったかどうか、ただの人間ではなかったのか、と怪しくなります。私たちは、神の子キリストが本当に人間となってくださったと信じます。同じように、その死の後も本当によみがえって、弟子たちの前に現れ、その体で、天に昇られたのです。
 ここではイエスの昇天の利点を、イエスが「今、父の御前で私たちのために弁護」しておられ、「私たちのために場所を用意」しておられ、「私たちに聖霊を送って」くださる、と三つあげています。

 第一は「今、父の御前で私たちのために弁護」しておられること、言わば、イエスが私たちの弁護人になってくださる、ということです。
ローマ書8章34節だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
 ここにあるように、私たちは「罪あり」と言われかねないような罪、過ち、悪を行ってしまいます。少しずつ完成されつつも、不完全です。大きな過ちも冒しかねませんし、そうでなくとも罪悪感や後悔に責めさいなむ事は多くあります。しかし、自分や誰かが「罪あり(有罪!)」と言うとしても、キリスト・イエスが、神の右の座に着いておられます。私たちの罪のために死なれた主イエスが神と私たちの間におられます。
 その上、主は私たちのためにとりなしておられます。取りなすとは「よいようにはからう。もめ事などの中に立っておさまりがつくようにする。なだめて機嫌よくさせる。」という意味だと辞書には書かれています。主イエスは、私たちと神との間に立って、良いように計らってくださいます。罪が引き起こす様々な問題の間に立って、収まりがつくようにしてくださいます。「宥めて機嫌良くさせる」は主イエスの場合、違います。何しろ、神ご自身が御子を右の座に置くことを選んだのであって、神が怒っているのを主イエスが「まぁまぁ」と宥めるのではないのです。また、人間の弁護人なら、口がうまく、裁判官を丸め込んで問題をもみ消す、というような悪い弁護士も思い浮かびます。
 でも、イエスはそのようなことはなさいません。そのローマ書の少し前27節には、
…御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださる…
とあります。神の御心に従ってのとりなしです。ですから、私たちは有罪だと罰せられたり、切り捨てられたりすることはありませんが、自分の罪を認め、その責任を負い、回復のために成長するようにしてくださいます。実際の裁判でも、加害者を罰するか、無罪とするか、だけではなく、罪を犯したのは事実だからこそ、罰するより、更正させていくというやり方が今広まってきています。主イエスの取りなしもそうです。罰する、罰しない以上に、私たちを神の子どもとして成長させてくださるのです。


 第二は「場所を備えに行く」です。イエスは十字架に掛けられる前の夜、言いました。
ヨハネ伝14章2節わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
 イエスが天に昇られたのは、私たちのために場所を用意してくださるためでした。私たちは、主イエスが私たちのために場所を備えてくださっていることに安心して良いのです。それがどんな場所か、私たちには分かりません。でも、今「居場所」という言葉が時代のキーワードになっています。自分が自分のままで受け入れられる場所、心からくつろげてホッと出来る場所。また、自分が貢献できる場所。学校や職場、自宅でも、自分の居場所が見つからなくて苦しい人が多いのです。そういう私たちに、主は場所を備えてくださると約束されています。「自分には居場所なんてない」と思ってしまう人も主イエスが場所を用意してくださっている。私には居場所がある、帰る家がある。そう思えるとはなんと幸せなことでしょう。

 第三は「聖霊を送ってくださる」です。
ヨハネの福音書16章7節…わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
 天に昇ったイエスはそこから助け主なる聖霊を遣わしてくださいます。聖霊が私たちに働いてくださって、主イエスへの信仰を与えてくださいます。みことばの約束を私たちに果たして、私たちを励ましたり、慰めたりしてくださいます。私たちが祈る時、言葉にならない思いも、イエスがともに呻き、とりなしてくださいます。私たちを通して神の栄光を現してくださいます。そして私たちが最後には、用意された場所、私たちの居場所、家に必ず帰り着くことが出来るようにしてくださいます。

 主イエスの昇天は、私たちと天とがシッカリと結ばれていることを教えてくれるのです。だから今、希望と大胆さをもって、ここで生きることが出来る。ここから踏み出して行けるのです。

「私たちのためにとりなしてくださる救い主、主よ。あなたは絶えず私たちをあわれんでくださいます。あなたは人と同じ誘惑を受けたので、今私たちの受ける誘惑を知ってくださり、私たちのためにとりなしてくださいます。地上にあるものすべてを裁かれる父なる神の御前で、どうか主が私たちを弁護し導いてくださいますように。アーメン」
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2020/12/20 Ⅰテサロニケ4章13~14節「命が光り輝いている」ニュー・シティ・カテキズム50

2020-12-19 12:46:04 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/12/20 Ⅰテサロニケ4章13~14節「命が光り輝いている」ニュー・シティ・カテキズム50

 今週金曜日は、クリスマス。主イエス・キリストが人としてお生まれになったことをお祝いするお祭りです。プレゼントをもらったり、ケーキを食べたりする楽しみもあるでしょう。その元になったのは、神ご自身が私たちに、ひとり子イエスを贈ってくださったというかけがえのないプレゼントです。その感謝から、私たちもお互いに贈り物を贈り合い、人を招いて一緒に食事をしてお祝いするようになったのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。



 このヨハネ3章16節は聖書の福音のエッセンスです。神は私たちを愛されて、最愛の御子を、この世界に与えてくださいました。クリスマスは、キリストのお誕生をお祝いするとともに、神がキリストをお与えになるほどに私たちを愛して、永遠のいのちを持たせてくださった喜びの想起です。キリストが二千年前にお生まれになっただけでなく、今も私たちにいのちを注いでくださり、永遠のいのちを与えてくださったお祝いです。
 先週はキリストは今どこにおられますか?というお話しをしました。キリストは、死んで復活され、天に昇って神の座の右に座し、やがてもう一度おいでになります。その「復活」、「昇天」、「永遠のいのち」についてお話ししていきます。今日は復活です。

問50 キリストの復活は私たちにとって何を意味しますか?
答 キリストは、ご自身を信じるすべての者がこの世にあって新しい命へと入れられ、来たる世には永遠の命へと入れられるために、罪と死に勝利され、肉体を持って復活されました。私たちがいつか復活するのと同じように、この世界はいつか回復されます。しかし、キリストを信じない者は永遠の死に定められます。

 先のヨハネの福音書の言葉では、神がそのひとり子をお与えになったのは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである、とありました。イエス・キリストは、私たち信じる者が永遠のいのちを持つために、生まれ、十字架に、死に、復活されました。いわばイエスは、死ぬためにこの世にお生まれになったのです。神であるイエスにとって、人間となるだけでも想像を絶する謙りですが、その後、本当に低い道を歩み、最後は殺される死へと歩まれました。それが、「神がひとり子をお与えになった」に含まれていたことです。そして、その三日目に、イエスは墓からよみがえりました。それが、イエスの復活の意味です。ですから、イエスは死んでよみがえり、私たちに新しい命を下さり、永遠のいのちを下さるためにお生まれになったのです。イエスの誕生と死と復活は、私たちを永遠のいのちに生かすためでした。
13眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。
14イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
 ここで「眠っている」とあるのは、死んだ人のことです。テサロニケの教会の中で、亡くなった方がいたのでしょう。その死の悲しみでいっぱいになっていた人々に、パウロは「望みの無い他の人々のように悲しまない」でほしい、と思い出させるのが、イエスが死んで復活されたことなのです。イエスが死んで復活されたのだから、イエスにある人、イエスを信じる私たちも、死んで終わりではないのです。イエスが死に勝利された以上、私たちも死んでも終わりではなく、必ずいのちを与えられるのです。勿論、それでも、今誰かが死ぬことは悲しく、辛いことです。大きな怪我をしたら、手術をすればすぐに必ず直ると分かっても、今の痛みは痛いのです。死別は悲しいことです。しかしその悲しみを、二度と会えない永遠の別れではない。イエスを復活させた神は、私たちにも死の後の新しいいのちを下さる。そう信じた上で、悲しみ、嘆き、生きるようにしていただけるのです。
 イエスの復活は、私たちにとっても復活があるという保証です。その復活の希望を持ちつつ、今を生きることが出来るのです。

 このキリストの復活は、死後への希望だけではなく、
「この世にあって新しい命」
へと入れてくれます。更には
「この世界はいつか回復されます」
と、この世界そのものを新しい目で見させてくれるものでもあります。もし、この世界を神が諦めているなら、御子がこの世界のただ中に来る必要はなかったでしょう。もし、人間の体にたいした価値がないのであれば、神の御子が人間の体を持つことなど無駄な遠回りでしかなかったはずです。まして、そのイエスに対する人間の仕打ちが、蔑みや反対、苦しみの十字架の死であった時、よみがえらず、魂の姿で現れて、弟子たちに将来の希望だけを語ることも出来ました。けれども、御子イエスは人となって生まれ、その命を最後まで献げきって、死んだ三日目に、からだをもってよみがえられたのです。そこには、神がお造りになったこの世界が、神の命によって生かされること、必ず、この世界は回復さること、私たちが今ここで生きて、世界を愛し、人生を育み、精一杯いまを大事にして生きる歩みが、永遠の価値を持っていることが保証されているのです。つまり、今ここにある私たちの生き方、世界に対する態度を、根本的に新しくするのです。キリストが体をとって、人となって生まれ、ボロボロにされる人生を歩んで死んだあと、復活されました。
 イエスの命は、闇の中に輝いています。生きていることは無駄に思えて、生まれてこない方が良かったように言われる中、イエスの復活は、闇の中に輝いている希望です。
ヨハネの福音書1章4、5、9節
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。…
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
 この輝いている光が来たことを、お祝いするのがクリスマスです。闇に生まれたキリストは、十字架の死からよみがえり、私たちに永遠のいのちを下さいました。私たちは今、どんな思いをする時にも、神がこの世界と私たちに果たされる豊かなご計画を信じるのです。それを私たちの周りの大切な人たちにも分かち合わせていただきましょう。

「復活の神よ、死が私たちのいのちの終わりではないことを、どうか覚えさせてください。私たちを神の裁きから救い、また誰もが神の怒りから逃れることが出来るように、強く勧める信仰を与えてください。キリストの御業によって神の怒りから救い出された私たちは、いつの日か復活の衣を身にまとい、新しい地で生かされる喜びを、心から待ち望みます。アーメン」
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2020/12/13 エペソ1章20~21節「キリストは今どこに?」ニュー・シティ・カテキズム48

2020-12-12 12:08:34 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/12/13 エペソ1章20~21節「キリストは今どこに?」ニュー・シティ・カテキズム48

 クリスマスが来週に近づきました。イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするクリスマスは、教会にとって大きな喜びです。クリスマスまでの四回の日曜日、アドベント、日本語で「待降節」と呼ぶ時期を過ごしています。「待降」、降るのを待つと書きます。クリスマスは「降誕」。キリストが、天から地上に降ってきて、誕生してくださった日。その降誕を待つので「待降節」です。そして、そこにはもう一つの意味があります。それは、もう一度キリストが降ってこられることを待つ、という「待降」です。今から二千年ほど前、キリストがお生まれになりました。でも、その昔々の歴史を思い出し、懐かしんでいるのではなく、もう一度、キリストがおいでになる。その時を私たちは待ち望んでいるのです。今日は、二千年前にお生まれになったキリストが、今どこにいるかを覚えます。そうすることで、クリスマスのお祝いも、本当に私たちにとって嬉しい事だと、喜ぶ気持ちがぐーんと大きくなって欲しいのです。

問49 キリストは今どこにおられますか? 
答 キリストは死んで後、3日目に肉体を持って墓からよみがえり、父の右の座に着き、再び来られて、全世界を裁いて新しくされるまで、御国を統べ治め、私たちのためにとりなしてくださっています。

 今から二千年前に、地上にお生まれになったキリストは、その後、30歳頃に三年ほど神の国を宣べ伝えて、捕らえられ、十字架に殺されました。その三日目に、墓からよみがえって、天に上られました。それは、天の父の右の座に着かれるためでした。右の座というのは、神と共に治めている、ということです。ここにあるように「御国を統べ治め、私たちのために執り成して下さっています」ということです。
エペソ1:20~21「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」

 イエス・キリストは今、目には見えません。クリスマスのお祝いも、今ではキリスト抜きの、ただのお祝いです。教会やキリスト教と関係なく、パーティをしたり、プレゼントを期待したり、盛り上がっています。お寺や神社でも、クリスマス会をしています。クリスマスがキリストの誕生のお祝いだというのは、最初だけで、今は別に関係ない、と思われているのでしょう。けれども、教会は、キリストが天上で神の右の座に着かせられている、すべての名の上に高く置かれていると信じています。目には見えなくても、イエスこそが、世界の治めるお方、王なのです。
 主イエスがお生まれになることは、主イエスがおいでになる何百年も前から、旧約聖書の中で約束されていました。救い主であり王である方が来られること、ダビデの家系から生まれること、ひとりの赤ん坊としてお生まれになること、ベツレヘムでお生まれになること、そして、主イエスの御生涯、十字架の死、復活についても沢山の預言があり、その多くが既に成就しました。この絵は、聖書の創世記から黙示録までを並べていったとき、そこにあった旧約の約束(預言)とそれが成就した新約の箇所を結びつけた図だそうです。

 天地を創造された神の大きなご計画は、黙示録の、この天地の終わりに至るまで見事に、美しく成就していきます。この世界を、神の作られた世界として完成なさるのです。その約束と成就が、美しいアーチを、まるで虹のように描いています。神が王である世界で、父と共に治められる王、主イエスの御降誕と十字架の死と復活は、その中でも中心となる御業です。そのたくさんある旧約聖書の預言の中でも、最も多く新約聖書に引用されているのが、詩篇の110篇1節のこの言葉です。
主は 私の主に言われた。
「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」
 この言葉が、主イエスにおいて成就した。イエス・キリストは、十字架に死んで、よみがえって、今は天に上げられて、神の右の座についておられる。目には見えなくても、主イエスが私たちを治めて、敵や悪の支配を踏みつけてくださる。今、イエスが、この世界を治める王座の右におられる。これを、最も大きな告白の一つとしたのです。
 もちろん、戦争、暴力や悲劇はあります。自然災害や、ウイルスの蔓延で世界が大きく混乱している今のようなこともありますし、これからもどんなことが起こるか分かりません。今年は特にそのことを痛感している一年ですね。神がいるなら、どうしてこんなことがあるんだろう。イエスが敵を踏みつけているなら、どうして悲しいこと、苦しいことがあるんだろう、と言う声も多くあります。悪の方が好き放題しているようです。

 それでも、私たちは、主イエスが治めていることを信じます。主イエスご自身の生涯は、貧しく低い始まりでした。悪い王様に命を狙われ、権力者に憎まれ、最後は、歪められた裁判で、残酷な十字架につけられる死でした。悪が買ったように見えました。イエスご自身が、
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ばれました。本当に、神に見捨てられたように思える時もあることを、主イエスは誰よりもご存じです。でも、その死は主イエスの敗北ではなく、神の御業でした。人の苦しみや悪の挑発をとことんまで受けて、なおイエスは神を見上げていました。そのイエスを天の父はよみがえらせて、ご自分の右に着かせてくださいました。

 今の世界の、苦しみも疑問も、イエスは知っておられます。誰よりも、苦しみや疑いを味わって知っているイエスが、今、天の右の座で、治めておられます。その良い支配を私たちは信じて、自分たちに出来ることをしていきます。この世界が良くなっていくよう、悪がなくなるよう責任を与えられています。でも、十分に最善を尽くせなくても、その私たちのため、
キリストは…父の右の座に着き、再び来られて、全世界を裁いて新しくされるまで、御国を統べ治め、私たちのためにとりなしてくださっています。
と信じるのです。このイエスの支配と取りなしを信じつつ、イエスが再び来られる時を待ち望んでいる。それが、クリスマスを前に心を向ける、もう一つの待望です。

「復活の主、昇天の主よ。この地上にはおられなくとも、あなたは天の御座から私たちを治めていてくださいます。すべての権威と力はあなたにあります。あなたの御名にまさる名はありません。どうか終わりの日に私たちをよみがえらせ、あなたの御国でともに住まわせてください。アーメン」
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2020/12/6 Ⅱテサロニ2章13節「教会とは何ですか」ニュー・シティ・カテキズム48

2020-12-05 12:36:21 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/12/6 Ⅱテサロニ2章13節「教会とは何ですか」ニュー・シティ・カテキズム48
 
 アドベントの第2週を迎えました。毎年、キリストの御降誕を覚えながら、クリスマスの物語に出てくる人々が、不思議な集まりであったことを思い巡らしています。
 羊飼いたち、博士たち、ヨセフとマリア、そして、後からはシメオンとアンナという年を召した二人が出て来ます。羊飼いは、その頃、野原で羊を見ていた、つまり、家で温かく過ごすことが出来なかった仕事をしていた人たちです。一説に拠れば、羊飼いは、羊を襲う狼が耐えなかったので、血で汚れたり、羊の数をごまかしたりするとして、社会では信用されていなかった、裁判でも羊飼いの証言は採用されなかった、という人もいます。そのような、社会では外れ者、文字通り、蚊帳の外に置かれていた羊飼いが、真っ先に、救い主イエス・キリストの誕生を告げられて、「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と言われたのです。これは、本当に不思議なことです。
 次に、博士たちは、イエス・キリストにとっては外国人です。聖書には、博士たちが何人だったか、明記されてはいません。しかし、教会はずいぶん長く、三人の博士たちとしてきました。そして、その三人は、肌の色が白い人、黒い人、黄色い人と、違う人種を代表していると伝えてきました。世界中のすべての人、国籍も肌の色も違う、すべての人が集まってきた場所、それがイエス・キリストの誕生でした。
 他にも、シメオンとアンナは老人です。他ならぬ、母マリアは田舎の村、ナザレの少女です。田舎の訛りでしゃべる、十四歳ぐらいの女の子でした。ヨセフについては書かれていません。しかし、ここには、本当に色々な人たちが集まっていました。世界の救い主をお迎えするのに、集められたのは、このような人たちでした。



 もし今、世界に神の元からやってきた使いをお迎えするとしたら、どうでしょう。誰がお迎えするでしょうか。国の首相や地位のある人や有名な人が、黒ずくめのスーツやきれいなドレスで、盛大な準備をして迎えるでしょう。オリンピックの開会式よりも派手派手しい歓迎会をするでしょう。入れる人は制限されるでしょう。その時、汚い羊飼いや、見知らぬ外国人や、老人や田舎の少女なんて、真っ先にはじき出されるでしょう。でも、クリスマスは、王様や地位のある人たちが集まる場所ではありませんでした。むしろ、盛大な歓迎会ならはじき出されるような人たちが集められたのです。でも、それこそがイエス・キリストが集められた、新しいコミュニティ(共同体)でした。いわば、ここに、キリスト教会の姿が生き生きと描き出されています。今日は教会についてです。

問48 教会とは何ですか?
答 神はご自身のために、永遠の命に選ばれ、信仰によって結ばれた共同体、すなわち、神を愛し、神に従い、神から学び、神を共に礼拝する共同体を選び、守られます。神はこの共同体が、福音を宣べ伝え、共に歩む生活と互いへの愛によって、未だ見ぬキリストの御国を現すために遣わしておられます。

 「教会」と聴けば、建物を指すことが多いし、十字架のある建物を連想するでしょう。建物は分かりやすいですが、教会とは「共同体」です。建物は、その共同体の集まる場所で、「会堂」と言った方が正確です。何よりも、神が選ばれ、集めてくださるのが教会という共同体です。クリスチャンが集まって、自分たちで教会を作る。そのような集まりがあちこちにバラバラにある、というよりも、神が選び、信仰を与え、結び合わせてくださる共同体なのです。ここには、神を愛し、神に従い、神から学び、神をともに礼拝するという使命があります。「神はこの共同体が、福音を宣べ伝え、ともに歩む生活と互いへの愛によって、未だ見ぬキリストの御国を現すために遣わしておられます」ともある通りです。これが、教会なのです。教会とは、神が集めて下さった共同体で、そこにキリストの御国が現されている集まりなのです。
 なんだかそれを聞くと、立派なクリスチャンだけの集まりのように思ってしまうかもしれません。だから、思い出してください。クリスマスの集まりを。立派な人、尊敬される人格者、きらびやかな服を着た名士さんたちではなく、羊飼いや博士や老人や田舎者が集められました。そこにこそ、福音が宣べ伝えられています。キリストの教会は、すべての人の教会の始まりでした。そして、そのキリストが集められなければともにいることなど考えられなかった、多様な人が集まっているのが教会です。



 教会は、清らかな人しか集まれない場所だと思われがちです。本当は、貧しい人、障害がある人、外国の人も、おかしな格好をした人も、お年寄りも若い人も、敷居が高いところには入れない人たちが、神に招かれて、集まれるのが教会です。そうすることでキリストの御国を現しているのです。私たちは一人一人、神に招かれここにいます。一人一人が、神を愛し、神に従い、神から学び、神を共に礼拝する。それが、やがて完成するキリストの御国がどんなものかを告げ知らせています。今日読んだⅡテサロニ2章13節、
しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。
 神が選んでくださった教会、キリストの周りに集まる共同体は「初穂」です。神がすべての人を集めて、愛して、新しい関係を作ってくださるのです。私たちの社会は、なかなかそうはいきません。社会にとって都合の悪い人、よそ者、変わった人は悲しいことに虐められたり弾かれたりします。それが当たり前のようになっている社会の、最も外にいる人たちが、キリストの誕生の時、集められて、主イエスに礼拝を捧げました。福音の初穂となり、神を愛し、神に学び、ともに教会という共同体にされました。そこから始まったキリストは、生涯、様々な人たちを招かれました。そして、その後始まった教会は、二千年かけて今に至るまで、歩みを重ねています。神が、教会に多くの方を加えてくださっています。そして、これからも私たちは、神が招いてくださっている多くの方と、神を愛し、ともに主を礼拝し、キリストの御国の表れを待ち望むのです。

「すべてにまさる王よ。あなたは私たちを神の家族として一つにしてくださいました。どうか共に礼拝を捧げ、互いに愛し合い、互いの必要を補い合うことを怠らないように守ってください。私たちの交わりが真実なものでありますように、また互いの信仰を高め合うものでありますように。アーメン」
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