聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問20 「恵みの契約」エペソ2章1~8節

2014-09-28 17:39:18 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/09/21「恵みの契約」エペソ2章1~8節 ウェストミンスター小教理問答20

 

 先週まで、罪について詳しくお話しして来ましたが、今日から一転して「救い」についての教えを聞いていきます。罪の暗い話に、パアッと明るい光が差すのです!

問 神は全人類を、罪と悲惨の状態の中で滅びるままにしておかれましたか。

答 神は、ひとえに御自身がよしとされるところに従い、全くの永遠からある人々を永遠の命へと選んでおられたので、ひとりの贖い主により、彼らを罪と悲惨の状態から助け出し、救いの状態に入れるために、恵みの契約に入られました。

 この後、問38まで、その「ひとりの贖い主」とはどのような方なのか、そして、私たちが「救いの状態」に与るとはどんなに素晴らしい事なのか、詳しく教えてもらうことになります。ですから、今日は、罪と悲惨に滅びるしかなかった私たちを、

神は、ひとえに御自身がよしとされるところに従い、全くの永遠からある人々を永遠の命へと選んでおられたので、…恵みの契約に入られました。

そういう、素晴らしい恵みの教えを学ぶことにしましょう。神様は、私たちが滅びてもどうなってもいいとは思われないで、私たちを救ってくださいました。でも、それは、本当に不思議なことです。救われる側に、何か良い所があったから、ではなくて、

ひとえに御自身がよしとされるところに従い、

というのですね。

 私は、聖書のことをちゃんと学ぶまでは、こんな風に考えていました。神様は人間が堕落して滅びるようになったとき、救いの道を考えてくださった。そして、人間に「神様を信じなさい。そうしたら救われますよ」と呼びかけてくださった。それは、テレビの宣伝や新聞の広告のようなものです。「信じる人、大募集! だれでも歓迎。必ず救われます」というポスターのようなものです。誰でもどうぞ、なのです。だけど、誰でも、であって、私に、とか、誰かこの人に、ではないと思っていました。神様は神様で、救いの手を差し伸べてくださるけれど、人間がその神様の手を握りしめるかどうかは本人次第だと思っていました。だから、人間が神様の手を最後までつかんでいなければならなくて、最後の最後で手をうっかりでも離してしまえば、救われなくなるのだということです。神様の呼びかけが50あって、人間の応答も50なくてはならない。両方揃って、100になる救いです。私がそのうち信じられなくなったり、神様を裏切ってしまったりすれば、神様は「残念だったね」と仰って、私が滅びることを仕方が無いと思う、いいえ、むしろ、「せっかく救いを用意してやったのに、信じないのだから、なんて酷い罪人だ」と、地獄で永遠に怒りの火で苦しめられるのだ、と思っていました。

 けれども、聖書の御言葉を知っていくうちに、そうではないのだと分かりました。神様は、私を選んでくださって、救うことに決めてくださっていたのだ、と、そう聖書は教えてくれているのです。なんと素晴らしいことでしょう。神様は、私が滅びても構わないとは思われなかった。私が救われることを御心にしてくださった。モチロン、人間は信じなければなりませんが、その信じる気持ちを-それどころか、信じたい、救われたいという願いすら-神様がこの私にお与えくださるから、信じることも出来るのです。神様は、「誰でもどうぞ」と門を広く開けたまま、誰も来ないかも知れないまま待っておられるのではなく、私たちの所に来られて、選んでおいた人間の所に来て、声を掛け、手を引いて導き、救いに連れて行ってくださるのです。だから、私たちは、自分の信仰や心が弱くても、神様が永遠の昔から私の救いを決めてくださっていたのだから、大丈夫だ、神様にお任せしていこう、と安心することが出来るのです。同時に、こんなに私のことを愛してくださっている神様に、精一杯、心の底から従って行こう、とも願うのですね。

 神様が誰を選んでおられるのかは、神様がお決めになったことですから、この人は救われそうだとかこの人は信じないだろう、などと決めつけることは、私たち人間には出来ません。ですから、教会でもどこでも、私たちがイエス様のことを伝えるときには、「誰でもイエス様を信じるなら救われる」、また、「誰でも罪を悔い改めて神様に帰らなければならない」「愛の神様は、どんな人をも愛して、救ってくださる」と言うのです。その結果、信じたとしたら、それは神様がその人のうちに信仰を与えてくださったのだ、そして、それは神様が、その人をずっと昔、その人が生まれる遙か昔から選んでおられて、導いておられて、信仰を持たせてくださったのだ、と受け止めるのですね。それは、救いが人間の信仰を条件に実現するのではなくて、神様の救いの御業を土台にして、人間の信仰が成り立つのだからです。神様が立ててくださった「恵みの契約」があって、私たちは救いに与るのです。

 「恵みの契約」は、神様と私たちの間の契約ではありません。父なる神様とイエス様との間で結ばれた契約です。神様がイエス様に、人となってアダムに代わる「代表者」としての務めをお命じになりました。そして、イエス様は、完全な人間として、神様に従って、十字架にまでかかってくださいました。神様とアダムとの間の最初の契約が破られた代わりに、神様とイエス様との間の「救いの契約」が完全に果たされたので、それを根拠に私たちが救いにあずかることが出来るのです。

ヨハネ六39わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

 こういう約束が、イエス様と天の父との間にある、というのです。神様の側でこのご契約があって、私たちはひとりとして失われることがなく、永遠のいのちを頂けると信じるのです。私が救われるのはどうしてですか。それは、神様が、私を永遠の命へと選んで、贖い主イエス様との「恵みの契約」に入られたからです。そうでなければ、救われたいと願いさえしなかった私たちを、神様が「恵みの契約」によって救ってくださったのです。神様の約束は絶対です。1+1=2である以上に、神様はこの私をあいされていて、永遠のいのちを与えてくださる、と信じるように命じられています。

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創世記四一章「苦しみの地で実り多い者と」

2014-09-28 17:38:01 | 創世記

2014/09/28 創世記四一章「苦しみの地で実り多い者と」

 

 父ヤコブに溺愛されていたヨセフが、兄たちの妬みを買ってエジプトに奴隷として売られ、更に、無実の罪で監獄に投げ込まれて十三年。今日の四一章では、エジプト王の見た不思議な夢をヨセフが説き明かすことになり、なんとエジプトの大臣に任命されます。あのパロ(ファラオ)に、

40「あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」

と言わしめるのです。

 本当に不思議な展開です。私たちはここに、神様の摂理というものをまざまざと思い知らされます。妬みを買って、奴隷に売り飛ばされる。大好きな父親から引き離されて、言葉も何も分からない異国に来て、慣れない労働に明け暮れ、その挙げ句に冤罪でぶち込まれ、臭い飯を食わされる。そんなヨセフの不条理な歩みにさえ、神様はともにいてくださり、思いがけない展開を用意しておられました。私たちも、それぞれに痛い目をしたり、夢にも思わなかったような人生の曲がり角を曲がったりすることがあります。大事な人を喪失したり、理不尽な汚名を着せられて生活を変えざるを得なかったりした方もおられるでしょうか。神の民とされた、私たちの先輩たちも絶えずそのような人生を通らされてきました[1]。しかし、その苦難は、苦しむための苦しみや、耐えるしかない暴力ではありません。このヨセフに真実であられたように、インマヌエルの神が私たちとも共におられて、苦難を通らされながらも、測り知れないご計画をもって、導き、時にかなったご計画を進めておられるのです。

 勿論、みんながみんな、ヨセフのようにエジプトの大臣となる程の、大河ドラマのような展開があるということではありません。私たちも思うでしょう。「ヨセフが奴隷や囚人からエジプトの大臣になったなんて、神様はスゴい!ヨセフの物語は素晴らしい! でも、私はエジプトの大臣でなくてもいいから、もっと身近な、自分の身の丈にあった幸せがほしい」。そうです。当の本人だって大臣になれて嬉しかったのでしょうか。私はいつもここを読むと、パロの言葉が胡散臭(うさんくさ)く聞こえるのです。ヨセフを褒めそやし、大きな権威を与えます。絶賛して、信頼しきっているようです。でも、内心、ホッと胸を撫で下ろしていたのではないでしょうか。

55やがて、エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。そこでパロは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ。」

 「責任や面倒臭いことは全てヨセフに押しつけます。問題が起きれば、ヨセフのせい、夢を説き明かしたり不吉な話を持って来たりした怪しいこのヘブル人のせいにしてしまえばいいのです。七年間の豊作の間、その食糧を集めるのだって反対はあったでしょう。飢饉の時の分配はなお大変です。パロの宮中での権力争いやあったでしょう。大臣なんてなるもんじゃない。大統領や総理大臣を見たって、大変なんてもんじゃなさそうですから、そう思います。そのような大変な責任だったのです。神の摂理は、ヨセフを奴隷から大臣に引き上げましたが、それはドラマとか名誉挽回という以上の、重い使命でした。ヨセフ自身、後に言います[2]

四五5「…神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」

 それは、格好いいとか英雄的なものではなくて、泥臭い、誘惑と葛藤に満ちたものです。でも、神は、いのちを救うために、ヨセフをここまで導かれ、訓練し、鍛えておられたのです。53節以下で、飢饉の七年が始まります。これは、本当に大変な禍でした。備蓄がなければ、エジプトだけではない、全世界が滅びる所でした。56節、57節では「ききんは全世界に」と繰り返して、この大災害の規模を印象づけていますね[3]。実は、創世記には以前も全世界を覆った災害がありました。そうです。ノアの大洪水です。創世記の研究者は、ノアの大洪水とヨセフの大飢饉とには重なるものがある、と言います。ノアが箱舟を造ったように、ヨセフは食糧の備蓄をしました。ノアが家族を救ったように、ヨセフは家族を救い、そして、エジプトや世界の人々に食糧を求めて来た時に穀物をあげていのちを救うのです。神様の世界大のご計画の要として、ヨセフはノアのような使命を担うのです。

 でも、そのためにはヨセフ自身がノアのように、神とともに歩み、恵みを得て、相応しく整えられる必要がありました。神様のご計画は、世界の創造、大洪水や大飢饉というダイナミックなものであると同時に、アダムの罪、アブラハムの献身、ヤコブとの格闘など、一人一人の心の奥深くに関わられるものです。その両面が結びついています。ここでも、ヨセフがそうでした。パロはヨセフに「ツァフェナテ・パネアハ」というエジプトの名前をつけます。でも、彼はその名前を一度も使いません。自分のヘブル人としてのアイデンティティに留まります。そして、ヨセフが家族を得て、その子等に名前をつけたとあります[4]。その名前の意味が、

51…「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」…「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」…

と言うのですね。ヨセフの内面の吐露です。静かですが、深い言葉で、ヨセフの今までの労苦、家から引き剥がされた悲しみの深さを物語っていますね。同時に、新しい家族を得たことが、ヨセフにとってどれほど大きな慰めであったかとしみじみと思わされます。しかし、忘れたと言いつつ、この名前も、エジプトの名前ではなく、ヘブル語の名前なのですね。彼は、エジプトにあって、エジプトに流されることなく、なお神と共に歩み続けたのです。過去の労苦や現在の苦しみは大きくても、神がそれを乗り越えて、私を今導いておられる、という告白に生きています。ヨセフの成熟を深く思わされます。

 大臣となって得た権力、立場があれば、家族の元に飛んでいって、兄たちに復讐をすることや父親に会うことも出来たでしょう。あの家にいたときに、麦の束や星々が自分を拝むという夢を、自分の力で実現させて、兄たちを平伏させることも出来たでしょう。しかし、彼はそのような行動は取りませんでした。主は、ヨセフの心から復讐心の棘を抜いてくださっていた。そして、思いも掛けない形で、この時の精一杯の慰めを下さっていました[5]。これで終わり、ではありません。次章から全世界の命を救うという大仕事が始まります。そして、兄たちとの和解、父との再会という本当の回復が待っていますが、ヨセフはそれをまだ知りません。今はここで、新しい家族が与えられることで、精一杯の、十分な慰めが与えられたのです[6]

 主イエス・キリストが十字架と復活において果たしてくださった御業は、神が創造された世界の回復と完成であると同時に、私たちをすべての罪からきよめ聖なる者とする事でした。私たちに対する神様の御心とか摂理は、様々な苦難や事件をも巻き込みながら、全てを働かせて益としながら前進していきます。でもそれは「ハッピーエンド」とか「無駄なことは何もない」とか言う以上に、私たち一人一人を変えて、成長させるご計画です。人に仕えること、怒りや恨みを手放しつつ、深い所で癒され、慰めを戴くのです。過去に失ったものを取り戻すことは出来ませんが、そこからでなければ始まらなかった今、新しい自分の歩みに、完全ではなくとも、十分な恵み、出会い、務めがあって、それをしっかり受け止めて歩み出すのです。神様の、世界大のご計画は大きくて、私たちには今自分がどこで何をしているのか、何をすべきなのかもよくは見えません。けれども、今私たちを仕える者として鍛えられ、心の底に触れつつ導いていてくださる主が、長い大きなご計画を実現しつつあることを信じるのです。

 

「天地万物の造り主よ。今もあなた様が世界を治め、私達の心の襞(ひだ)までご存じで、全てを働かせて益となさるとの約束をヨセフの生涯にも教えられて有難うございます。私達はこの世界にあって鍛えられ、どんな時もともにいて最善をなしてくださる主を信じ、その主の御真実を現すしもべとして、共に新しくされている群れです。この恵みにますます与らせてください」



[1] 旧約の時代でも、初代教会でも、いつの時代でも、信仰があることが癒やしや奇蹟を保証するわけではなく、熱心な祈りが苦しみや喪失の免除となることもありませんでした。聖書は、神の民の試練や、世にあっては艱難があることを、これでもかと言わんばかりに強調しています。

[2] 「父と母を離れ(創世記二24)」るべきヨセフが、父の家を「忘れた」ことは、人としての自立・大きな成長・不可欠な成熟を示唆する。「あなたの父の家を忘れよ」(詩篇四五10)

[3] 54-57節で、「すべてコル」が8回も使われ、全世界的な規模を強調しています。

[4] 本章での命名は実に意味深長です。ヨセフが与えられた「ツァフェナテ・パネアハ」という名前の意味は「神語る、彼生きん、大地の糧は生命、生命の支え手」などが提唱されています。(小畑進『創世記 講録』711頁)。しかし、この名前は二度と登場しないのです。名前を与えたり、変えたりすることは、創世記では特別な意味を持ちます。アダムの動物に対する命名(二19)、神がアブラムをアブラハムに、ヤコブをイスラエルにと変名されたこと。いずれも、新しい出発、性質の改変。しかし、ヨセフはパロによっての命名(それがどんな意味であろうと!)を聞き流し、二度使用しないのです。ヨセフは自分のアイデンティティに留まります。55節では、パロ本人でさえ、ヨセフを自分がつけたエジプト名ではなく、「ヨセフ」と呼びます。また、アブラハムも、イサクも、ヤコブの十二人の子どもへの命名も、いずれも妻によってなされ、夫(父親)はしませんでしたが、ヨセフが自らわが子に命名するということも特筆すべきことです。

[5] 42節で「そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、そのクビに金の首飾りを掛けた」とあるのは、父からもらい兄たちにはぎ取られた長服や、ポティファルの妻の手元に残した上着を思い起こさせます。

[6] ここでは「忘れた」と言えます。しかし、主は後に思い出させるのです(四二章。特に、9節)。四〇23でいえば、忘れさせることも主の御業であり(ただし、ここで使われている「忘れる」という動詞は、別々の単語です)、忘れて癒されることもあるのでしょうが(そうするしかない場合も)、しかし主がヨセフに用意されていたのは、真の和解であって、忘却ではなかったのです。

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ルカ18章35~43節「見えるようになれ」

2014-09-28 17:34:51 | ルカ

2014/09/21 ルカ18章35~43節「見えるようになれ」

 

 目の見えない人が、イエス様によって癒されて、見えるようにしていただいた奇蹟です。最初はイエス様と群衆が彼の前を通り過ぎるだけでした。物乞いをしていたこの人は、

36群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。

 それで、イエス様のお通りを知って、イエス様を大声で呼び求めたのですが、

39彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめた…

と言うのですね。この盲人がイエス様の憐れみに与ることを喜び、イエス様の所に連れて行く所か、五月蠅(うるさ)い、静かにしろ、と叱ったのです。このように、人々がイエス様のお恵みに与るには相応しくないと見下されていた人々がイエス様の所に来て、冷たくあしらわれながらも、イエス様から恵みを戴く、というパターンは、このルカの福音書で繰り返されてきたものです。異邦人の百人隊長[1]、罪深い女[2]、長血の女[3]、ツァラアトの病を癒された十人の中にいたサマリヤ人[4]、当時「取税人のようでないことを感謝します」と言われてさえいて自分でも「こんな罪人の私」と言うしかなかった取税人[5]、祝福のために連れて来られた子どもたち[6]、などでした[7]。そして、そういう最後に、イエス様がよく仰っていたのが、

「あなたの信仰があなたを救った(直した)のです」

というお言葉でした。今日の所でもそう言われます。勿論イエス様は「わたしの力ではなくて、あなたの信仰があなたを救ったのですよ」と仰ったのではありません。人の信仰に力があるのではありません。この人たちは、常識的に考えれば、信仰や神様との近さにおいて、後回しにされ、「しゃしゃり出るな」と窘(たしな)められるような人たちでした。だからこそ、彼らは自分にある信仰深さとか立派さを頼みには出来なかったのです[8]。この、目の見えない人は、

38大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。

 この「あわれんでください」という言葉は、可哀想に思うという意味ですが、ただ憐れんでくれ、だから百円でも二百円でも恵んでくれ、という意味ではありませんでした[9]

41…(イエス様が)「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。

 彼がイエス様に求めたのは、自分の目が見えるようになることでした。勿論、彼は他の人にはこんなことを求めはしなかったでしょう。物乞いをしながら、誰彼構わず「目が見えるようにしてくれ」と頼みまくっていたのではないはずです。でも、彼はイエス様を、

…「ダビデの子のイエスさま。…主よ。…」

とお呼びしています。イエス様のことを、聖書がずっと預言してきた、真の王、私たちを治めて救ってくださる主なるお方として信じたのです。その方に彼が求めたのは、お金の施しではありません。ただの同情や愚痴を聞いてくれることでもありません。自分の目が見えるようになることでした。それを、このイエス様ならば出来ると信じたのです。それをイエス様に願ったのです。自分の側に立派な信仰や神様に褒めてもらえるものがあるとは思ってもいませんでした。ただ、憐れんでくださいと言う他に術(すべ)を知りませんでした。しかし、イエス様が私を憐れんでくだされば、見えるようになると信じました。そういうイエス様に対する信仰は正しいのだと、あなたの信仰には私たちを救い、癒す力が働くのだと、イエス様は仰ったのです。

 前回31-34節では、イエス様がご自分の最期、どのような死に方をされて、その後によみがえるかを、再三弟子たちに語られたことが書かれていました。でも、弟子たちはそれを聞いても理解できませんでした。その後に、見えない人の目を癒されるイエス様の奇蹟があるのです。ルカはたった一度だけ目の癒やしを伝えていますが、他ではなくあえてこの位置に置くのです[10]。心の目が閉じている弟子たちにも、イエス様は見るべきものを見る力を下さるのだと、大切なことを理解できるようにしてくださる方です。もっと言えば、私たちにも、自分が見えているつもり、分かっているつもりを止めて、「私をあわれんでください。目が見えるようにしてください」と求めることを、イエス様は待っておられるのです。黙らせられても、窘(たしな)められても、恥ずかしがらずに大きな声で叫んだこの人のような熱心さ、しぶとさをもって、見えるようにしてくださいと願う、そういう信仰をイエス様は私たちにも持って欲しいのです。

 エペソ人への手紙の中で、使徒パウロが読者のために、こう祈っていると言います。

エペソ一17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

19また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

 神の御霊が与えられるときに、私たちが頂く望み、栄光に富んだ嗣業、偉大な力が分かるように、心の目が開かれる。そうなることを祈っている、とパウロは言うのです[11]。それは、私たちの現実からかけ離れた知識ではありませんね。知っても知らなくてもどうでもいいような高尚な事ではなくて、私たちの心を明るくし、新しくして、生きる希望と、どんな困難や死にさえも負けない喜びを与えてくれるような、力強い真理が見えるようになるという祈りです。

 今日の所で、目の見えない人が、見えるようにしてくださいと願ったのはアタリマエのように思えます。でもそう簡単でもないのかも知れません。貧民街(スラム)で生きてきた人は案外そこから出て働く気力はないことが多い。目が見えない生活に慣れて、見えないからこそ社会の冷たさを感じたり、人間の汚さに傷つけられたりして、人生こんなもんだと思っているのも楽だったかも知れません。イエス様に多めの施しを願うだけで終わることだってあり得ました。逆に見えるようになって、まだ文句を言い、恨み言を零(こぼ)すこともあり得ました。でも、彼は違います。

43彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。

 まだ一文無しで、今まで失った時間は取り戻せないし、これからだって苦労は待っています。でも、神様を賛美しながら、イエス様に喜んで従って行く、無邪気な姿です。私たちもまた、イエス様によって目が開かれる時に、こうなるのだと言われているのではないでしょうか。イエス様が下さる望み、栄光、力の素晴らしさを見せていただいて、神様を賛美しながら生きていこう。お金持ちになるのでもない。恥もかき、人からの反対もある。しぶとく願い、汗水流して働かねばならない。人の心の裏側を知ることもあるし、自分もまた善人ではなくてあわれんでくださいと叫ぶしかないとつくづく思い知る。でもだからこそイエス様は、「見えるようになれ、わたしを信じる信仰はあなたを救うのだ」と仰います。私たちに望みを下さって、賛美を歌わせてくださいます。イエス様に着いていける素晴らしさが、一際(ひときわ)輝く灯りとなります。

 

「折角(せっかく)『何をしてほしいのか』と聞かれても、本当に何を願えばいいのか分からない私たちですが、今日の言葉に、私たちも『見えるようにしてください』と願うよう励まされて、感謝します。魅力的なもの、心を暗くするもの、様々に目を奪われそうになりますが、何よりもあなた様に目を向けて、その素晴らしさに歌い躍りながら、イエス様にお従いさせてください」



文末脚注

 

[1] ルカ七2-10。

[2] 七36-50。

[3] 八43-48。

[4] 十七11-19。

[5] 十八9-14。

[6] 十八15-17。

[7] そもそもの一章の「マリヤ」の選びもそうでした。これは、彼女の讃歌(一46-55)に明白です。また、最初の説教における例(四25-27)を始め、十五章の「放蕩息子」など、ルカの福音書全体に、このメッセージは鏤(ちりば)められています。

[8] この盲人が発したのは、先の役人が「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」(十八18)と聞いた質問とはまるで違う言葉でした。

[9] 詩篇六2-3「主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています」、四一4「私は言った。「主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」も、「あわれむ」が「いやし」と同義語(もしくは平行関係)に扱われています。

[10] マタイは九27-31、マルコは八22-26に、ヨハネは九1以下に、それぞれ別の「目の見えない人の癒し」を伝えています。ルカも一般的には七22「そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」と伝えてはいますが。

[11] パウロはまた、Ⅱコリント四6では、「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」とも述べています。

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問19 「人間の悲惨」創世記三章1~10節

2014-09-17 15:10:15 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/09/14「人間の悲惨」創世記三章1~10節       ウェストミンスター小教理問答19

 

 人間が神様から離れてしまった結果、この世界には罪と悲惨が入って来てしまいました。今日は、「悲惨」について聞きましょう。

問 人間が堕落して陥った状態の悲惨とは、何ですか。

答  全人類は、彼らの堕落によって神との交わりを失い、今では神の怒りと呪いの下にあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と、死そのものと、地獄の永遠の苦痛を免れなくされています。

 悲惨とは、どういうことでしょうか。「悲しく惨めなこと」と書きます。そんな酷(ひど)い話しは聞きたくもない気がします。けれども、今日の答の大事なことは、悲惨というのはそういう惨めなこと、というだけではないんだ、と言っていることです。

 全人類は、彼らの堕落によって神との交わりを失い、今では神の怒りと呪いの下にあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と、死そのものと、地獄の永遠の苦痛を免れなくされています。

と言っているのです。まず、神との交わりを失って、神の怒りと呪いの下にある。それが、一番の「悲惨」ですよ。他の悲惨は、その結果ですよ。一番の悲惨は、神様との交わりを失ったことだと、聖書は教えているのです。

 今日見た、創世記三章の所には、アダムとエバが神様との約束を破って、神様に背を向けた「堕落」のことが書いてありました。その時、人は罪が入ってしまいましたけれど、同時に「悲惨」も始まっているのですね。それは、何でしょうか。彼らが、お互いに裸であることを隠して、神様が来られたときにも、

…神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

とありますね。神様との交わりが壊れてしまったのです。今までは、神様が来られたら、喜んで、心から礼拝をして、お話しをしたり、ワクワクして神様の声を聴いていたのではないでしょうか。愛であり人間を造ってくださった大いなる神様との時間は、人間にとって、幸せなこと、自然なこと、素晴らしいことでした。でも、その楽しい、落ち着けるはずの交わりから、逃げだし、隠れるようになった。それは本当に惨めなことです。

 ドラマでもこんな場面があるでしょう。幸せな家庭があるのに、外で何か悪い事をしてしまった人が、家に帰ってきても、とても落ち着かない。何となく後ろめたくて、不自然になり、居たたまれなくなってしまう。そういう場面を見ると、もうやってしまったことの悲惨な結果が始まっているなぁ、と思うのですね。いくらご馳走が出ても、優しく、楽しく話しかけられても、ますます惨めな気分になるのですね。神様に背を向けた人間は、家族以上に大事な、心の支えになる神様との交わりを壊してしまいました。神様から逃げずにはおれないくせに、それでも神様の代わりに自分を支えてくれるものが欲しくて、お金を神様にしたり、みんなからスゴいなあと言われたいと夢見たり、何かを神様にせずにはおれなくなります。健康で長生きをして、お金持ちになり、セレブな家庭を築けたら幸せになれるんじゃないか。有名になったり、すごい記録を残したりしたら、満たされると思いたいのです。でも、一番大切な神様との交わりがないならば、そういう人生は悲惨なのです。お金も、一番になることも、家族も、神様ではありませんから、いつかはなくなってしまいます。そうして、最後は死んで、死んだ後、最後にすべての人がよみがえらされて、神様の裁きを受けるときには、

…地獄の永遠の苦痛…

に入ることが待っているだけです。それは、その人が願ったとおり、永遠に神様との交わりから断たれた状態です。それが、どんなに恐ろしいのかは想像も出来ません。

 イエス様は、私たちのために救いの御業を果たしてくださいました。そこで、私たちがイエス様を信じることによって、罪からだけでなく、悲惨からも救われました。とはいっても、まだクリスチャンであっても、いろいろな悲惨な目には遭います。テストで悪い点を取ることもあるし、病気や悲しい出来事も、容赦なく襲いかかります。死は必ずやってきますし、祈っていても早死にすることだってあります。でも、イエス様は仰いました。

マタイ二八20「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 いつもともにいます。決してあなたを見捨てず、あなたを離れない。あなたはわたしの民、わたしの子、永遠にわたしの愛する者だよ、と仰るのです。私たちは今、この神様の前から逃げなくて良いのです。嘘や胡麻菓子や隠し事をせずに、私たちの全部を知った上で、私たちとの親しい交わりを持ってくださる神様を信じられるのです。いろんな悲惨があっても、神様はそのことさえもご存じで、そこから大切なことを始めてくださると約束されています。

 イ・チソンさんという韓国の女性がいます。この方は今から14年前、大学生の時、自動車事故で全身の半分以上という大火傷を負い、瀕死の状態になりました。生き伸びはしたものの、顔も変わり果てた彼女は、お兄さんに「お兄ちゃん、私を殺して。こんなになって私、生きていけないわ」と叫んだそうです。最初、病院に担ぎ込まれたとき、駆けつけた牧師さんは、20分何も言えずに黙っていた末に、ご家族に「この時のための信仰です。この状況を乗り越えるための信仰です」と語りました。その言葉を思い出し、励まされながら、チソンさんは留学して大学を卒業し、リハビリや社会活動のために活躍しています。今、火傷の前の顔に戻ったわけではありませんが、彼女はこう書いています。「本当に重要なものは、目に見えるものではなく、目に見えないものだということをこの体験から教えられました。神さまの愛と平安を与えられている今の私は、前よりも人生が楽しいです。バカげて聞こえるかもしれませんが、昔の美しい顔に戻りたくありません」。「私も女の子だし1人の人間です。可愛いものが大好きです。でも、決して可愛いとは言えないこの顔を見ながら本当に平安でいられることは、神様が下さった奇跡だと思います。今、私は本当に幸せです」。

 イエス様が下さる信仰は、悲惨をもただの悲惨ではなくしてしまいます。悲惨が起きる人生ですが、どんなになっても私達を愛し、ともにいてくださる主が、必ず私たちを導き、そこから新しい道を始めてくださいます。私達も「本当に幸せ」と言えるのです。

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ルカ18章31~34節「すべてのことが実現する」

2014-09-17 15:07:40 | ルカ

2014/09/14 ルカ18章31~34節「すべてのことが実現する」

 

 イエス様が十字架にかかって死なれる前に、その死を何度か予告されていましたが、今日の所でもまたご自身の死をお話しになります[1]。何度目かではありましたが[2]、全く同じ事を仰ったのではなく、少しずつ新しい事、詳しい事も明らかにされた。でも、それを弟子たちはサッパリ理解できなかった。そう、今日の話は教えています。本当にこれは大切なことでした。

31さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、

とわざわざあるのも、この言葉がどれほど大切なメッセージであったかを裏付けていますし、

…彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。

とあるのは、このイエス様が引き渡され、嘲られ、苦しめられて殺されてよみがえることが、預言者たち(これは今の旧約聖書を指す、当時の言い方です)、つまり聖書に書いてある、キリストについてのメッセージの全体像だ、とも言われているわけです。

 聖書の前半、「旧約聖書」はメシヤ(キリスト)と呼ばれる方、真の王がやがておいでになって世界を正しく治めてくださることを証ししています。新約聖書は、そのメシヤであるイエス様がおいでになってからのことを中心に書かれています。そのメシヤのおいでをイエス様の時代の人々は待っていた訳ですが、でも、彼らの念頭にあったのは、自分たちを豊かにしてくれるメシヤでした。今世界を支配しているローマ帝国を爽快に吹き飛ばして、繁栄と安楽をもたらしてくれる、そういうメシヤだったのです。けれども、イエス様は仰います。聖書に書いてあるメシヤとは、異邦人に引き渡され、嘲られ、辱められ、殺されるメシヤなのだ。そして、三日目によみがえるのだ。そう言われるのです。

 これは、このルカの福音書が最後まで貫いているテーマであって、最後の二四章、復活の後に、まだそれを信じない弟子たちに対しても、「預言者たちが言っていたではないか、

二四26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」

 そう言われて、聖書全体を説き明かされた、と書いてあるのですね[3]。キリストは苦しみを受けて、よみがえられる。苦難や反対などものともせずに、敵を蹴散らして勝利される、そういうお方ではなく、苦難を受け、反対者や敵たちに馬鹿にされ、痛めつけられて殺される。その末に、よみがえられる。そういうお方だと聖書は旧約の預言から、新約の実際のイエス様のご生涯に至るまで、証ししているのです。

34しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

 本当に分からなかったのだ、と強調されていますね。何故かと言えば、隠されていたからだ、と言っています。でもそれは、イエス様が隠してさえおかなければ、分かったはずだ、というのではありません。二四章ではイエス様が彼らの心を開いて分からせてくださるのですが[4]、ここではまだそうはなさらずに、閉ざされた心をそのままにしておられます。そういう意味で隠されていたのであって、わざと分からないようにされたのではありません。イエス様が、英雄的なメシヤではなく、無力で、無抵抗に、見下され、罵られ、十字架に葬られてしまうメシヤだなどとは、弟子たちは勿論、私達人間にとっては理解できないこと、分からないことなのです。神様が、私達の心を開いて悟らせてくださらなければ、決して信じて受け入れることなど出来ない、不思議な方法です。けれども、そうした低い道こそが、真の神様の道です。

 前回、イエス様は、永遠のいのちを手に入れたいと質問してきた役人に、持ち物を売り払って、天に宝を積む生き方を始め、

ルカ十八22「そのうえで、わたしについて来なさい」

と仰いました。その役人はそこで立ち往生してしまいましたが、弟子たちは、

28…「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」

と胸を張りましたね。イエス様は、彼らに、ご自分に従うために払った犠牲には確かに有り余る報いがあると言われました。しかしその上で今日の続きで、その弟子たちをさらに近くに呼び寄せられて、この言葉を仰ったのです。すると、どういうことになりますか。弟子たちは、自分の家を捨ててイエス様に従って来たと自慢しましたが、イエス様は、ご自分がさらに卑しめられ、苦しみの道を通っていくのだ、と言われるのですね。そうすると弟子たちは、自分たちも、そのような狭い道、低い道を通るイエス様について、厳しい道を従って行かなければならないことになります。それは当然、嫌です。抵抗したくなります。信じたくないのです。だから、彼らは(どんな人も)イエス様の言葉がサッパリ分からないと思ってしまうのです。

 勿論、わざわざ苦しい関係に飛び込んだり自分を痛めつけたりするようなことはイエス様もなさいませんでした。でも、イエス様の生涯には苦しみが付きまとっていましたし、私たちもイエス様に従うことに、家内安全や長寿、繁栄、自分の繁栄や自分の名誉を期待するのではなく、それらを捨てること、失うことをむしろ心得ておくべきです。

 ひと言で言ってしまうと、イエス様が人として最低の扱いを受けられた事は、神様の私たちに対する御真実の「本気度」を現しました。

ヨハネ三16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神がひとり子をお与えになった、そこでどんなに酷く、残酷な扱いを受けても、死に至るまで決して投げ出されず、その御業を成し遂げられたことによって、神とひとり子イエス様は、私たちを本気で愛しておられることを現してくださったのです。一方の私たちは、苦しみの篩(ふる)にかけられたらどうでしょうか。囲いに覆われて、立派なことを言ったり善人めいた表情を浮かべたりしても、侮辱や艱難に遭えば化けの皮は剥がれます。自分がどれほどイエス様に従いたくないか、イエス様とはかけ離れているかを思い知らされます。過去に受けてきた傷が露わになります。見たくない自分の本性を見ざるを得ません。それは、私たちにとっては避けたいことです。けれども、イエス様は、そのような私たちの心根をお取り扱いになるのです。

 私たちの本性、罪、自己中心、様々な傷や恐れを知っておられるイエス様は、口先での信仰や安全圏の中での信仰を求めてはおられません。私たちが、他人のフリを止めて、あるがままの私-渇いた者、不完全で傷ついた小さな者、罪に弱い、イエス様を本当に必要としている事に気づいて、その私たちを愛し、お救いくださるイエス様への、心からの告白へと導かれるのです[5]。そしてその先に、復活のいのち、永遠のいのち、限りなく深い祝福を備えてくださっているのです。そのためにイエス様は、耐えがたい、想像を絶する苦難を通られたのです。

 

「従いたいと願いつつ、従いたくない、我が道を行きたい自分もあることを告白します。そのような私を変えて下さい。篩われて、傲慢を砕かれて、主の恵みに潤され、主の愛に癒されて、新しくされていただくこと。それは、私たちの願いである以上に、主の御業であり、聖書の成就です。どうぞ、私達を導き、主の十字架と復活の恵みを悟り続ける生涯を歩ませて下さい。」



文末脚注

 

[1] ルカでは七回目。五35「しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」、九22「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらなければならないのです。」、44-45「『このことばをしっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。』しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。」、十二50「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」、十三32-33「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないからです。』」、十七25「しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。」

[2] マタイ、マルコの平行記事で言えば、「三度目の受難予告」ですが、上述の通り、ルカでは七回目です。

[3] ルカの福音書二四章全体。特に、25-27節、44-48節を参照。

[4] ルカ二四章45節「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」。

[5] 「恐らく、「とにかく実行」という考えが持つ一番深刻な問題は、そこには“キリストの死を通してもたらされたいのち”とい贈り物の余地がほとんどないことでしょう。成熟とは試行錯誤を繰り返しながら成長する過程であり、次のようなサイクルで起こります。
1.やってみる 2.失敗する 3.恵みと赦しを受け取る 4.失敗の結果を自分の責任として受け入れる。 5.その結果から学ぶ 6.もう一度やってみる 7.今度は少しはましにやる 8.また失敗する。
 こんな具合です。ヘブル人への手紙五章十四節は、私たちは経験によって学ぶと言っています。失敗しても非難されないと知っていると、より早く成長します。もっと多くのリスクを負います。しかし「実行第一」に縛られて生きていると、失敗から学べなくなります。この間違った思い込みは、成熟のサイクルの邪魔になるか、最悪の場合、それをなし崩しにしてしまいます。一方の恵みは、私たちが愛を失わずに試行錯誤しながら成熟できるよう、守ってくれます。」ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント共著『クリスチャンの成長を阻む12の誤解 “聖書的”思い込みからの解放』(中村佐知、中村昇共訳、地引網出版、2006年)278-279頁。キリストに従う道は、痛みを通ります。それによって、私たちは自分の本心に気づきます。罪、欲望、傷。それに気づかされることから、私たちは立ち上がり、本当の回復、成長、内なる人の形成が始まるのです。ただ、自分の意志や善意、信仰力などでは十字架の道を背負うことは出来ないのです。

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