聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問110-111「搾取から感謝へ」Ⅰテモテ六6-12

2018-01-28 20:28:36 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/1/28 ハ信仰問答110-111「搾取から感謝へ」Ⅰテモテ六6-12 

 盗みと聴けば何が思い浮かぶでしょう。泥棒、万引き、スリ、強盗。人の物を不正な方法で自分のものにしてしまうこと。ハイデルベルグ信仰問答では、こう言います。

問110 第八戒で神は何を禁じておられますか。答 神は為政者が罰するような盗みや略奪を禁じておられるのみならず、暴力によって、または不正な重り・物差し・升・貨幣・利息のような合法的な見せかけによって、あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとするあらゆる悪しき行為また企てをも、盗みと呼ばれるのです。さらに、あらゆる貪欲や神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。

 聖書の書かれた十誡は、紀元前千五百年ほどの昔のものです。それから新約の時代になり、更に千五百年した頃書かれたハイデルベルグ信仰問答の時代には、もっと盗む方法は巧妙で複雑になっていたことがうかがえます。

「合法的な見せかけ」

と言います。それから更に五百年経つ私たちの時代、その三千年分以上に社会が変わりました。産業革命や技術革命を経て、銀行や企業、インターネット。お金のやり取りはとてつもなく変わりました。そして、盗み方、騙し方も変わりました。電話での詐欺や、誇大広告での勧誘、悪徳な契約を結ばされて、たくさんむしり取られて泣き寝入りせざるを得ない、という場合もあるでしょう。そうしたものはギリギリ犯罪ではないから、

「盗んではならない」

を破ったことにはならない、とは言えません。そうしたものもやっぱり盗みです。そして、ハイデルベルグ信仰問答はもっと踏み込んだことを言います。

問111 それでは、この戒めで神は何を命じておられるのですか。

答 わたしが、自分にでき、またはしてもよい範囲内で、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人からしてもらいたいと願っていることをその人に対しても行い、わたしが、困窮の中にいる貧しい人々を助けられるように誠実に働くことです。

 盗まなければいいのではない。隣人の利益を促進すること、自分がしてほしいことを人にすること、貧しくて困っている人々を助けるために誠実に働くことと言うのです。盗みや巧妙な盗みはせず、真面目にコツコツと自分のためにお金を貯める。そんなことはクリスマスキャロルのスクルージだって出来ます。そうしたがめつい生き方から、180度回れ右をして、人と分かち合い、助け合い、誠実に働くことだ、というのです。

 実はこの「盗んではならない」は

「あなたの隣人を盗んではならない」

という言い方です。隣人から盗むより、隣人を盗む、つまり奴隷にしてはならない、なのです。奴隷なんて今の私たちには全く馴染みがありませんが、世界の歴史には、借金のかたに、一時的に奉公人となって労働で返済をすることは社会的な仕組みでした。でもそれを、無理矢理してはいけません。誰かを騙したり強制的に奴隷にしたりするならそれは人を盗むことです。それは許されないのです。人は決して誰かのための道具ではありません。心がある人格的な存在である人間は、誰のための道具・手段にしてもならないのです。奴隷としなくても、人を利用することも同じです。友だちを「お金がある」「人気者だから」あやかろうと選んだり、結婚の相手をその財産や玉の輿目当てで決めたり、自分の損得のために人を操ろうとするのは、その人を盗むことです。逆に私たちに近づいて来る人が、私たちに利用価値があるから、何か下心があってだとしたら、とても悲しい思いがするでしょう。人と人との関係が、損得のためであるなら台無しです。逆に言えば、私たちは誰もが、誰かの手段や奴隷になってはならない、大事な存在なのです。

 「自分がしてほしいことを人にする」

を誤解して、自分を押し殺して、誰かの言われるままに生きる人がいます。自分の境界線の内側に踏み込ませるのが愛だという誤解は少なくありません。人を怒らせたりガッカリさせたりしないよう生きるべきだと考える人もいます。思い出してください。私たちは誰の奴隷とされてもならない存在です。自分を盗ませないよう守ることは神からの大事な戒めです。人のご機嫌を取る必要はありません。誰の奴隷にもならず、境界線を守りましょう。物なしでもよい、パワーゲームでない、心と心の関係を造りましょう。誰かが幸せでないのは自分のせいだと責任を感じる必要はありません。あなたが誰かの幸せの手段になることはあり得ないのです。

 奴隷にしても泥棒や詐欺にしても、人も自分も同じように大事な人格と見ていれば出来ません。自分の幸せはお金や物次第だ、だから人の物でも盗んででも欲しい、誰かを奴隷にしたり言いように使ったりして、手に入れよう。物がなければ幸せじゃない、思い通りになってくれる誰かがいたら幸せになれる。そういう人間味のない考えです。それでお金持ちになり、沢山の財産を持ったり、強く豊かな国家になったりすると一見、とても豊かで幸せそうです。しかし聖書はそこに付きまとう危険を見抜きます。

Ⅰテモテ六6しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。

衣食があれば、それで満足すべきです。

金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。

10金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。

11しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。

 物を欲しがる生き方は、人を益するどころかますます欲望に陥らせ、心を喘がせます。人の幸いは神にあります。神は私たちに命を豊かにお恵みくださいます。また私たちが、働いて、互いに分かち合い生かし合い、ともに歩み、でも決してお互いの奴隷や偶像にはならない、境界線のある関係を通して、私たちを満ち足らせてくださいます。主イエスはそのような生き方を示されました。そしてそのために十字架の死にまでご自分を与えられて、人としての貴い生き方、神に愛されている子としての歩みに迎え入れてくださいました。ですから、どうにかして自分の懐を肥やそうとする生き方から、ともに生かし合う歩みを選んでいくのです。

「盗んではならない」

は、私たちの命がキリストにあって豊かに養われて、生き生きと満たされていく歩みを思い出させてくれます。そしてそんな豊かな関係こそ盗みに目が眩む価値観への最強のチャレンジでもあるのです。

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コロサイ書1章1-12節「キリストにすべての宝が 一書説教コロサイ人への手紙」

2018-01-28 20:24:24 | 一書説教

2018/1/28 コロサイ書1章1-12節「キリストにすべての宝が 一書説教コロサイ人への手紙」

 毎月最後の週は一書説教です。「みことばの光」聖書通読表からコロサイ書を取り上げます。

1.まだ見ぬコロサイの教会へ

 このコロサイ人への手紙は、パウロが書いた教会宛の手紙の一つです。パウロがこの比較的短い手紙を、コロサイという小都市に生まれた教会に宛てて書いたことは一章の最初の部分からも分かります。一方、この手紙の最後、四章18節にはこう書かれています。

四18私パウロが自分の手であいさつを記します。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。

 パウロはこの時、牢屋に囚人となっていました。福音宣教に反対する人々に訴えられて、未決囚として投獄されていました。不自由で思うままにならない生活だったでしょう。そうした中でパウロが書いた手紙は「獄中書簡」と呼ばれ、四つあります。その一つがコロサイ書です。パウロは二度投獄されていますが、最初の投獄で、紀元五七年頃書かれたというのが伝統的な立場です。先週の「使徒の働き」一五章のエルサレム会議からは二十年近く後です。既に三度の伝道旅行で、パレスチナから現在のシリア、トルコ、ギリシアの都市で伝道をして教会を建て、弟子たちを育ててきたパウロの、晩年の手紙と言えます。このコロサイ教会はパウロが開拓した教会ではありませんでした。他のコリント、ガラテヤ、エペソなどはパウロが開拓して育てた教会への手紙でした。しかしコロサイの町はまだ訪れたことがなく、その弟子たちにも逢ったことがない、そういう教会に対してパウロが認(したた)めた、珍しい手紙です。

 コロサイの近くにはラオディキアやヒエラポリスといった大都市がありましたが、コロサイは交通の要衝でもなく、産業も発展していない、あまり重要でない小都市でした。書簡執筆後のまもなく、紀元六十年には大地震で壊滅的な被害を受けます。その後、この町が自力で復興して他の町を助けたのか、もう歴史から姿を消してしまったのか、また教会がどうなったのかは諸説あって不明です。いずれにしても、今読んでいるこのコロサイ人への手紙そのものが、社会的には吹けば飛んで消えそうな小さな町の教会への手紙であり、そういう小さな教会に、縁の薄いパウロが、しかし心を込めて書いた手紙。それが今私たちに伝えられているのです。

 パウロが手紙を書いた理由は、二章8節にある

「あの空しいだましごとの哲学」

でしょう。コロサイ教会に異端的な教えが入ってきて、弟子たちの信仰が混乱したためでした。現代でも「ものみの塔」「モルモン教」「統一教会」や最近では「全能神」「摂理」といった団体がキリスト教を装って活動しています。こうした教えが教会に入り込むことはパウロの時代から今に至るまであります。そうした間違った教えの悪い影響をパウロは決して侮りませんでした。

2.知恵がありそうだが

コロサイ二6このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

 キリストにあって歩むのでなく、キリストだけでは足りないと不安を煽るのが

「空しいだましごとの哲学」

でした。16節には

「食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のこと」

18節「自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる…自分が見た幻に拠り頼み」

21節「「つかむな、味わうな、さわるな」といった定め」

といった警告が出て来ます。あれを食べるな、こういう儀式を守れ、自分はこういう幻を見た、幻を見ていないあなたがたより自分の方が分かっている。そういう理屈を押しつけてきたのです。23節が爽快です。

23これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

 言い得て妙です。人間が好むような礼拝や肉体の苦行のゆえに知恵がありそうに見える、というのです。「私たちはまだまだダメだ。苦行や努力が必要だ」と自己卑下するのでしょうか。そういう卑下は人の心に潜む不安や自信のなさに訴えて賢そうです。けれどもパウロは、そうした人心に訴えるような宗教は、何の価値もなく、肉を満足させるだけだと一刀両断です。そう言い切る根拠は何でしょうか。それこそ、このコロサイ書の特徴である壮大なキリスト理解です。あまりに壮大すぎて、分かり難い印象もあるコロサイ書ですが、キリストの偉大さ、素晴らしさ、十分な恵みを丹念に書いて歌い上げるからこそ、人間好みの苦行とか自己卑下などが、実は空しく、的外れだと気づけるのです。だからパウロは一章で、キリストが神であり、すべてを造られ、成り立たせ、私たちに罪の赦しも、万物との和解も与えてくださったことから書き始めるのです。世界の王であるキリストがどれほど大きな方で、私たちを暗闇の力から救い出してくださって、今も私たちに働いておられ、やがては神の前に立たせてくださる。それを知れば、それじゃ足りないとは言えません。苦行や禁欲や規則がどんなに謙虚そうで賢そうで実感あるとしても、キリストから離れて行く、間違った、悲しい教えだと分かるのです。

3.キリストこそすべて

 パウロはキリストの満ち満ちている恵みを語ります。

二3このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されている

と言って間違った教えを退けます。しかしそれだけではありません。三章はもっと積極的に新しい生き方を勧めます。キリストで十分。だからこそ、神の前に相応しい生き方を励まします。

8節「…怒り、憤り、悪意、ののしり、…恥ずべきことばを捨てなさい。互いに偽りを言ってはいけません。」

 11節で、ギリシア人、ユダヤ人、民族の違いも奴隷も自由人もない、キリストにあって

「一つのからだ」

なのです。12節以下で、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し、愛といった美徳を勧めます。妻と夫、親子、職場の関係が語られます。キリストを知ることはとても実践的な勧めに結びつくのです。

 コロサイ教会に入り込んでいた教えにはそういう実践的な発想はなかったのでしょうか。自分のために苦行や禁欲的な生き方や学びに励まなければならないなら、それは人を思いやり、互いに生かし合うことには繋がりません。家族の中でさえ、不安や自己卑下で良い関係は始まりません。その反対に、キリストの十分な恵みは、神との関係だけでなく、互いの関係にも力をくれます。世界を造られた神の子キリストが私たちのために十分なことをしてくださり、私たちがそのキリストの力をいただいて、もう民族も身分も越えて一つとされている。この恵みが、私たちに互いを受け入れ合わせ、ともに生かしてくれます。怒りや憤りや悪意の言葉から自由になれます。裁き合わずに愛し合って、家庭や社会を育てるため、自分の出来る小さなことをしていけるのだと思います。それが最初の一章9-10節で祈っていたことなのです。

 このキリストから引き離そう、言葉巧みに、聖書を引用さえして惑わせる教えは繰り返してあります。それはとても深刻な被害を与えます。聖書全体から学んで、キリストの恵みの教理を知ることはとても大事です。それで頭でっかちになるのでなく、自分も含めた世界を見る目が明るくされるためです。間違った教えで戸惑い、自己卑下に押し潰されたり、牢に投げ込まれることさえあっても、そういう歩みでもキリストの素晴らしさを知ることが生きる力になるのです。自分も他の人も主の大きな愛の中に見て、一生懸命生きることが出来るのです。コロサイ書は、キリストの壮大な栄光と、それに相応しい尊い生き方を私たちに教えてくれます。

「世界の造り主、万物の支配者、十字架による平和の主、イエスよ。私たちはあなたの偉大さを計り知ることが出来ません。しかし、私たちの無知や誤解よりも大きく、あなたの平和の計画は進んでおり、私たちのうちに、私たちを通して、あなたが働き続けてください。あなたを小さくし歪める間違った教えから救い出して、あなたを知る幸いを豊かに味わわせてください」

 

 

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問108-9「体も魂も神の輝き」Ⅰコリント六15-20

2018-01-21 20:58:23 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/1/14 ハ信仰問答108-9「体も魂も神の輝き」Ⅰコリント六15-20

 

 今日は十誡の第七戒

「姦淫してはならない」

でお話しします。まずは問答を読みます。

問108 第七戒は何を求めていますか。

答 すべてみだらなことは神に呪われるということ、それゆえ、わたしたちはそれを心から憎み、神聖な結婚生活においてもそれ以外の場合においても純潔で慎み深く生きるべきである、ということです。

 ここで覚えて欲しいのは、

「神聖な結婚生活」

という言葉です。聖書では結婚生活は神聖なものだと教えられています。男性と女性とが一緒に生活をし、当然セックスもし、愛し合うことを神聖なものだと考えます。決して、結婚をせず生涯独身を貫き、童貞や処女でいる方が聖いとは考えません。性欲は汚らわしく蓋をすべき欲求だとは言わず、神から与えられた聖なる欲求です。そうです、

「姦淫してはならない」

とは性について考えずにはおれない人間を断罪する高尚な戒めではありません。むしろ、神から与えられた神聖な男性性、女性性を大切にしなさい、という希望です。結婚や、そこでの夫婦生活という、生々しい人間の営みを、汚れたもの、煩わしいものと否定するどころか、それこそ神聖な生活だ、なかなか自制できない、自分でも持て余すようなものだとしても、聖書は人が性的な存在である事が、神聖であるというのです。

問109 神はこの戒めで、姦淫とそのような汚らわしいこと以外は禁じておられないのですか。

答 わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮です。ですから、この方はわたしたちがそれら二つを清く聖なるものとして保つことを望んでおられます。それゆえ、あらゆるみだらな行い、素振り、言葉、思い、欲望、またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を禁じておられるのです。

 ここでもそうです。私たちの体と魂とは、ともに聖霊の宮だと言います。私たちの体も魂も聖霊の宮だ。ある人は自分の体に住んでいるのは沢山の疚(やま)しい思いだと言うでしょう。理由はどうあれ、自分はもう処女や童貞ではない、という方もいるでしょう。実際聖書には、娼婦や男娼であった人も教会の中にはいたようです。しかし、そのような過去があったとしても、或いはまたそんな間違いを犯したとしても、神は私たちの体をご自分の宮として住んでいてくださいます。これは先のⅠコリントの言葉の通りです。そこでは遊女(売春婦)と関係を持つことについての注意でした。その中で、

Ⅰコリント六18淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

19あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

 何も考えずに遊女と通じていた人に「淫らなあなたがたはもう聖霊の宮ではない」とは言いません。

「あなたがたのからだは神から受けた聖霊の宮だ。その自分の体をもって神の栄光を現しなさい。体も魂も、神の栄光を輝かせるものだ」

というのです。だからこそ、私たちは自分の身体を清く聖なるものとして保つのです。自分は汚れた妄想で一杯だ、取り返しのつかない間違いをしたからもうダメだ、と自分を低く見積もってはなりません。私たちがどんなに沢山の間違いを犯したとしても、神は私たちを愛し、憐れみ、尊んでくださいます。神は私たちの体も心も、尊んでくださっているのです。

 勿論、だから姦淫してもよいのだ、ではありません。神から預かったこの体や魂を私たちは大切にするよう任されています。そして、そのように考えて生きる事が、やはり自分を守るのです。「自分は自分のもの、好き勝手に生きて何が悪い」、そのように生きて、男女関係を持ったり、自由気ままに生きたりした結果、結局、後悔するようなことになるでしょう。病気になったり、自分の身体が安っぽく思えたりします。予期せぬ妊娠で、人生が今まで以上に自由がなくなるかもしれませんし、中絶をしても心に深い傷を残すことになります。また、自分が結婚する相手が、沢山の女性経験があっても気にならないでしょうか。喧嘩をした時やちょっと離れて暮らした時にも浮気をしたくなるかもしれないのも自然だと思えるでしょうか。相手に愛人がいた、実は別の男性と関係を持っていた、と知ったら、私たちはどんなに傷つき、心が壊れるような悲しい思いをするでしょうか。現代、子どもたちが親の裏切りや破綻でどれほど傷ついているでしょうか。

 「浮気や不倫は姦淫だ、結婚を大事にして貞潔を守る」。そういう人の方が、魅力を感じないでしょうか。ロマンスや恋愛感情よりも、結婚という関係を、大事に育てていくとき、恋愛よりももっと深く、安心できる本当の愛、すばらしい関係を育てていけるのです。お互いに、熱しやすく冷めやすい感情ではなく、結婚を神の定めた神聖な関係だとして重んじ合う、そういう関係に守られていくのです。そうです、私たちが「姦淫してはならない」という窮屈な戒めを守るのではありません。

「姦淫してはならない」

というシンプルな戒めによって私たちが守ってもらうのです。

 「愛情が結婚を支えるのではない。結婚が愛を支えるのだ」

 私が若い頃に聴いて心に刻んでいる言葉です。神は「姦淫をしてはならない」と命じて、私たちを守ってくださいます。神が私の結婚をも重んじられ、破ってはならないと見てくださるのです。だからこそ、聖書には相手の姦淫や、結婚の遺棄、頑固さのゆえにはあなたを守るために、離婚を容認することもあるとされています。また、聖書には、沢山の人が姦淫を犯した悲しい話が出て来ます。そして、その人の悔い改めと回復を主は導いてくださいます。また、姦淫から始まった関係からダビデ王朝は継承されます。やがてその末にイエス・キリストがお生まれになりました。そうです、イエスは姦淫の家に、恥じることなく来てくださいました。それゆえ私たちも、教会で姦淫や離婚、未婚の母、風俗店で働いていた人も、分け隔てなく友となり、その回復を支えていきたいと思います。結婚で苦しみ、家庭の問題で傷ついたトラウマに正直に向き合いたい。引いては、同性愛のカミングアウトや性的マイノリティの思いも、受け止めていく教会でありたいと思います。

 違う人格が一緒に生きるのは簡単ではない祝福です。聖書には沢山の具体的な男女の事例があります。結婚や独身についての沢山の良書もあります。そうしたものも読んだり分かち合ったりしながら、神が下さった尊い自分の性を祝い、輝かせていきましょう。

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使徒の働き15章1-12節「「べき」が悩みを産む」

2018-01-21 20:56:05 | 使徒の働き

2018/1/21 使徒の働き15章1-12節「「べき」が悩みを産む」

 今日の「使徒の働き」15章は28章ある「使徒の働き」のほぼ中間です。新約聖書そのものでもちょうど真ん中辺りです。いみじくも、新約聖書の教理にとっても要の内容がここに書かれていると言われます。それが、キリストの恵みにより信仰のみで救われるとの告白です。

1.エルサレム会議[1]

 前回まで10章以来、初代教会に異邦人が加わって、急速に中心がユダヤ人から異邦人に移っていきました。この時点でユダヤ人キリスト者の一部から「割礼を受けさせ、律法を守るように命じないと救われない」と言う声が持ち上がりました。聖書を遡りますと、神である主がアブラハムに割礼(男性の包皮を切る儀式)を命じられています。その子孫はみな、神の民であるしるしとして、生まれて八日目に割礼を授けたのです[2]。今でもユダヤ人が習慣としている儀式です[3]。ユダヤ人にとって大事な、体に刻まれた恵みの感覚でした。神がご自分の民として、包み隠しのない親しい関係を結んで下さった契約の、生々しいしるしでした。しかし今、教会は割礼のない異邦人を受け入れるよう導かれていました。もし痛い割礼が義務なら、異邦人には恵みの救いどころではなくなります。でもユダヤ人には、割礼のない異邦人もそのままでいいのか、物凄い抵抗がありました。そこでエルサレム会議が開かれる事になったのです。

 自由討論の後、ペテロが九章から十一章にあった自分の話をしました。神は異邦人が信じるために福音を伝えさせ、聖霊を与えてくださいました[4]。そこには何の差別もなかった。自分たちも異邦人も同じように神から聖霊を与えられ、同じように主イエスの恵みによる救いを信じている。そこに割礼や律法の義務を強いて、異邦人に負いきれない負担を背負わせることは「神を試みる」こと、神の上に立って神を裁こうとすることだ、というのです。12節ではバルナバとパウロが

「神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議」

を話しています。13節から21節の締めくくりはヤコブです。彼はイエスの弟で、エルサレム教会の指導的な立場にあり、律法を忠実に守る誠実な人だったと伝えられています。その彼が総括して、預言者たちの言葉、旧約聖書の教え・約束も、神の民が建て直されて、異邦人も主を求めるようになると言われていた通りだと確認します。異邦人に割礼を強いない結論が衆議一決されます。これは大きな決断でした。旧約時代から守ってきた割礼を義務とはしないとした。私たちには理解しがたい感覚ですが、ユダヤ人を中心としてきた教会が割礼を異邦人に強いないと決断したのは大決断だったのです。これでも一件落着はしませんでした。この後も何度も割礼の必要を吹聴するユダヤ人によって教会は翻弄させられました。それはコリント書、ガラテヤ書、ピリピ書などに明らかです。それはユダヤ人の異常さ、傲慢さなのでしょうか。もっと人間的な感覚として私たちにも通じる大事なことを言っているのではないかと思うのです。

2.体にしみついている感覚

 割礼は恵みの契約のしるしでした。確かに生々しい証拠として、体にも心にも恵みを刻みつけたのです。それは理屈や論理以上の感覚だったでしょう。でもそれを人にも押しつけると恵みの逆になります。自分の身についた大事な割礼が「異邦人にも受けさせるべきだ」とするなら、それは痛みを強要することになります。異邦人にとっては、全く逆の意味を持つのです。割礼の強要は無理な要求で、悩みや躓きになる相手の感覚を想像しなければなりませんでした。

 1節では

「割礼を受けなければ救われない」

でしたが5節では「救われない」と言わずに

「受けさせ…命じるべき」

と言っています。「救われないとは言わないけれど、でもやっぱり割礼を受けなくちゃぁね」という微妙な言い方にも読めます。そうでないと救われないと断定はしないけど、やっぱりこうすべきだ、とやんわり自分の考えを神の要求のように押しつけて不安にさせて、コントロールしようとするのです。悪意はなくても押しつけです。

 似たような事は現実によくありますし、教会の中でも形を変えてよくあります。私は生まれがバプテスト派ですから、洗礼は滴礼じゃなく、全身水に浸すバプテスマじゃなきゃ、と思っていました。聖め派の人は「聖霊体験、きよめ体験がなければ」と言い、新生体験を強調する教派で育てば「何年何月何日に救われましたか」と質問します。どれもそれ自体は恵みでも、言われた方は不安にします。劇的な救いの証しはそれ自体恵みですが、ドラマがないと救われていないように誤解して悩む人も沢山います。お酒やタバコも「クリスチャンだから止めるべきだ」とか、お化粧や美容整形を禁じ、聖書通読や伝道をどんなに大変でも「すべき」と簡単に言う人もいました。勿論、体によいとか生活がシンプルになることは有り難いことです。聖書や祈りは大事な恵みです。でも自分に良いことが「すべき」になるなら、人を悩ませてしまいます。「キリストを信じるだけで恵みによって救われる」と言いつつ、外面的なことや痛みを伴うことを遠回しにでも押しつけるなら、悩みを負わせます。恵みだけのはずが混乱させ、神に騙された気にさえなります。ここで教会は大事な割礼をも押しつけない決断をしたのです。

3.聖書の要の宣言とは

 そう考えても、エルサレム会議が論じたのは決して「救いは信仰だけによるのか、割礼も必要なのか」という理屈だけの議論ではなかったのです。ペテロは主の御業や預言者の言葉を柱に「なぜ異邦人にくびきを負わせるのか」と問い、ヤコブも

「異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません」

が動機なのです[5]。「べき」より人を見ています。逆に、自分にとって大事だから皆も割礼を受けるべきだと押しつけると、それで混乱して動揺している人が見えなくなります。人よりも自分の正義だけを見る、視野の狭いことが繰り返されるのでしょう。

 同じ事は異邦人キリスト者にも向けられます。20節では「ただ偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように[6]、彼らに書き送るべきです」としました。主イエスの恵みによって救われるのだから割礼も何も気にしなくて好きにしていい、ではありません。異邦人も、ユダヤ人がモーセの律法を重んじている事を配慮するよう促しています。痛み分けとか形式的な妥協とかでなく、もっと大切な尊重-互いを認め合い、相手の嫌がることを配慮する。そういう具体的な方向は促したのです。つまりここでも、エルサレム会議が目指したのが「割礼も必要か、信仰だけで救われるのか」という議論ではなくて、「すべき」を押しつけ合う関係から「互いを認め合う」関係だったことがうかがえます。「主イエスが恵みによって救ってくださる」が、「だから割礼も義務も要らない」ではなく「だから私たちも互いに受け入れ合い、喜び合おう」に続くのです。割礼というユダヤ人そのものといえる感覚さえ絶対化せず、それを持たない相手を受け入れる。また、異邦人も、割礼も束縛もない自分の自由や権利以上に、ともに古い儀式律法を守るユダヤ人を尊重して、自分の生活を配慮していこう。そういう非常に生き生きとした約束で、エルサレム会議は決着しました。

 この後も律法や割礼を求める人々は絶えません。ガラテヤとローマ書はその最たる例です[7]。そうした問題に対する聖書の対処は、ただ「その考えは間違いだ」「傲慢だ」という、これまた知的な議論や「べからず」論ではありません。「すべき」は尤もらしそうで、でも人の事情や気持ちは後回しです。そんな冷たい正論で人を縛るよりも、主イエスの恵みによってともに救われたことを大事にして、互いの益を図る。自分と大きく異なる歩みをしてきて、水と油ほども別々の感覚を持った相手をも、キリストが受け入れてくださったように受け入れる。違う方法で、しかし同じ恵みを大事にしていることを認め合う。そういう方向性を立ち位置としたのです。自分の常識や経験や感覚をちゃんと意識しながら、もっと大きな恵みの中でともに歩もうとしました。それが使徒の働きの真ん中にあり、新約聖書の真ん中にある教会の原点です。

「恵みによって私たちを救われた主よ。あなたは私たちに様々な恵みのしるしを下さいました。それをもって人を裁きさえする私たちですが、どうぞ私たちの心を主の愛によって開き、悩みや重荷で苦しめることから救い出してください。この原点に立ち返り、お互いに与えられた主の恵みを知り、御言葉に教えられながら、互いに生かし合い、本当の益を図っていけますよう」



[1] エルサレム会議が開かれたのは、紀元49年頃です。

[2] 創世記17章など。そこでは割礼は「代々にわたる」「永遠の契約のしるし」と言われています。

[3] 映画「最高の花婿」にもユダヤ人家庭で子どもに割礼を授ける場面が出て来ます。一見の価値ある映画です。

[4] これは、10章11章のコルネリウス家族の回心事件を指しています。

[5] 次の24節でもあなたがたを混乱させ、動揺させたと異邦人キリスト者の不安や悩みを配慮しています。

[6] 動物を血の付いたまま食べるよう絞め殺した肉は食べない

[7] ガラテヤ書二章と使徒一五章との関係については、諸説あります。ガラテヤ教会がリステラなどの地方だとすれば、ガラテヤ書が書かれた後にエルサレム会議が行われたことになります(南ガラテヤ説)。あるいは、ガラテヤが一六章6節の「フリュギア・ガラテヤ地方」だとすると、エルサレム会議(ガラテヤ二章1-10節)の後にガラテヤ伝道が行われ、その後に偽教師たちが入ってきた、ということになります(北ガラテヤ説)。どちらにも甲乙つけがたい理由と難点がありますが、エルサレム会議が最終決着にならなかったことは、使徒の働きそのものからも十分に理解できます。

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使徒の働き14章8-22節「苦しみを経る意味」

2018-01-14 16:17:07 | 使徒の働き

2018/1/14 使徒の働き14章8-22節「苦しみを経る意味」

1.パウロの第一回伝道旅行(後半)

 使徒の働き13章と14章には、使徒パウロの第一回伝道旅行が記されています。シリアのアンティオキアからキプロス島、そして現在のトルコ共和国中央まで幾つもの町を回りました。そして、来た道をまた逆に戻りながら14章最後で出発地のシリアに帰り報告をしたのです。途中、ユダヤ人の会堂でキリストを伝え、信じる人がユダヤ人にも異邦人にも大勢起こりました。反対するユダヤ人も大勢いて、パウロたちは次の町に移る、というパターンでした。

 パウロの伝道旅行はいつも順風満帆で向かう所敵なしの前進だったわけではありません。反対や危険があり、命辛々逃げたこともありました。それはパウロの伝道の仕方がマズかった、失敗だったのではありません。それも主の働きでした。そのことを印象深く物語る出来事として、一つのエピソードが伝えられます。それが8節から20節のリステラでの大騒ぎでした。

 リステラでパウロが説教をしていますと、生まれつき足が動かない人が熱心に耳を傾けていました。それが

…癒やされるに(救われるに)ふさわしい信仰」

と見たパウロは彼に

「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」

と言います。すると彼は躍り上がって歩き出す。それを見た群衆は

「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」

と大興奮して、パウロとバルナバに雄牛を数頭と花輪を献げて崇めようとしたのです。このやり取りがパウロとバルナバには理解できないリカオニア語だったのため、何をしているか二人は気づけませんでした。最後に慌てて止めさせて、辛うじて、自分たちが祭り上げられることは止めさせました。ところが、19節以下。先に訪れたアンティオキアとイコニオンのユダヤ人たちがパウロを追いかけてやって来て、群衆を抱き込んで、パウロを石打ちにしてしまう[1]。石打ちとは小さな石ではなく、大きな岩を胸めがけて投げ落とす処刑方法です。それでパウロの息の根を止めようとしたのです。もう死んだろうと思うほどの石で打って、ゴミのように町の外に引きずり出して捨てていきます。ところがパウロはまだ死んでおらず、弟子たちが見ている中で起き上がり、また町に入って行き、翌日には次のデルベへと伝道旅行を続けたというのです。

 福音を力強く裏付けるはずの癒やしが、自分たちが神々だと祭り上げられるというとんでもない展開になりかけました。言葉が通じないこと、神理解の違いから生じるミスコミュニケーションの体験でした。また、そうして祭り上げた群衆が一転して、殺意に燃える暴徒と化して、石を投げてくる。大挙して盛り上がっても喜べない、当てに出来ない体験でもありました。[2]

2.生ける神に立ち返る

 そういう難しい体験をしながらもパウロの内にあった願いは15から17節に吐露されています。ここにはイエスのことや十字架と復活、罪の赦しは触れられていません。パウロは語ったとしても、ルカはそれ以上に肝心な点に絞っています。それは十字架の福音の土台・大枠ともいえる

「生ける神への立ち返り」

です。これこそ福音です。人間が

「自分の道」

から

「生ける神」

に立ち返って欲しい。そうパウロは願って伝道し、石に打たれても立ち上がったのです。

 ここでリカオニアの群衆が大興奮して二人をゼウスとヘルメスと呼んだ背景には、この地方にあった言い伝えが紹介されます。〈昔、ゼウスとヘルメスの神々がこの地を人間の姿を訪れたが誰も受け入れなかった。最後に貧しい老夫婦だけが家に招き入れてもてなした。そこでゼウスは正体を現して、二人の願いを叶えて、それ以外の人々は洪水で滅ぼした〉[3]。そうだとすれば、この時の群衆は悪ければ「自分たちが滅ぼされないよう」、よければ「自分たちの願いを叶えてもらおう」。そう考えてパウロたちに生贄を献げようとしたのかも知れません。

 パウロたちはそうした行為を

「空しいこと」

と呼びます。神はご機嫌取りや腹立ち紛れに人間を滅ぼすような方ではありません。まず神は

「天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神」

です。また、これまでの時代

「あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩む」

のも無礼だ冒涜だと激怒することなく、その

「ままにしておられました。」

でもそれは冷たく無関心な放置ではありません。

17それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」

 あなたがたに降った天からの雨、収穫の季節、美味しい食物、様々の喜び…そうして心を満たされてきたことすべては、生ける神の証しでした。彼らは奇跡を見て神だと考えても、祟りや御利益の神々しか考えつけず、慌ててご機嫌取りのようなことをしている。生ける神はそんな小さな神ではないし、だからといって怒るでなく、あなたがたを支え、生かしてくださった惜しみない恵みの神です。

 そして何よりもイエス御自身が今この時代に人となって、世界に本当に来られました。人々は奇跡を見ては歓迎し、しかし最終的には石打ちならぬ十字架に殺してしまいました。それは私たちを神に立ち帰らせ、生ける愛の神御自身が犠牲を払い、恵みを与え、本当に空しくない生き方を下さるためでした。その神に立ち返って、恵みに感謝した歩みを始めてほしいと、パウロは声を張り上げて語り、石打ちにされても立ち上がって、一人でも信じるためならばと願って、伝え続けたのです[4]

3.多くの苦しみを経て、神の国へ

 パウロはデルベから直接アンティオキアに帰った方が近いのに、もう一度リステラやイコニオンを訪問しながら、

22弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。」

のです。パウロや宣教師だけでなく、全てのキリスト者は多くの苦しみを経験します。だからパウロはそれで信仰から外れないようこう勧めたのでしょう。これは苦しみを選べとか、苦しめるのが神の御心だという意味ではありませんし、マゾヒスティックで自己陶酔的な考えであってもなりません。これは

「多くの苦しみを通って、私たちは神の国に入らなければならない」

という文章です[5]

「多くの苦しみがあろうとも神の国に入らなければならない」

とも言えます。あるいは

「多くの苦しみを通りながら、私たちは神の国に入るように定められている」

という含みもあります。そもそも

「神の国に入る」

とは将来のことではありません[6]。今ここで

「自分の道」

から踏み出して

「神の国」

に入り、神の民として生きるのです。それは苦しみや災いがなくなることではありません。病気や意地悪や、悲しい別れ、災害、自己嫌悪したくなる問題にもぶつかるでしょう。パウロは自分自身が石打ちやあらゆる苦しみを味わっている者として、心を強め、励ましてくれます。更には、多くの苦しみが神の国へと私たちを入れてくれる道になると言えます。苦しみは神がいない証拠でも、私たちの不信仰や罪の罰でもありません。苦しみの中でも私たちはもっと大きな神の恵みの中にあることを信じてよいのです。苦しみをさえ用いて、慰めや喜びや気づきを与えてくださる神をますます信頼してよいのです。

 その上でパウロは教会ごとに長老たちを立てました。どこの教会にも二人以上の長老たちを選びました。弟子たちの心を強めるため、信仰に留まるよう励ますため、多くの苦しみで迷う心を受け止め、支えるためです。ヘンリ・ナウエンは

「恐らく牧師の主たる課題は、誤った理由で苦しむことがないように人々を護ることであろう」

と言います[7]。苦しみがあることでまた苦しむ必要はありません。キリストが人に罰として苦しみを与える神々ではなく、人に必要も喜びも、意味があって苦しみをも与える方。そして御自身が十字架に架かり、私たちとともに苦しみを受け止めてくださるお方です。キリストは苦しみも喜びも、日常や自分の心の動きをも見る目を変えてくださいました。そしてそれは独りではなく、私たちもともに支え合ってなされることなのです。主の恵みに感謝しつつ、心を主に向けてともに歩みたいと願います[8]

「天地を造り、私たちに命と心を満たしたもう主よ。惜しみないあなたの恵みと御業を感謝します。あなたの忍耐と御子イエスを与えた愛、十字架の御業、そして多くの兄弟姉妹の祈りと涙と証しに支えられて、今私たちがあります。どうぞあなたと出会いあなたのものとされる福音が伝えられていきますように。私たちのそれぞれのドタバタとした歩みをも用いてください」



[1] アンティオキアからリステラ、190~200km。リステラからデルベ、97kmの道のりです。

[2] ブルームハルトの言葉を思い出します。「罪のためには、僅かな人々しか、救い主のもとに駆けつけない。しかし、罪が困窮や死というその果をもたらすと、彼らは、救い主のもとに駆けつける。それを思うと、恥ずかしい思いになる。そのような私たちの貧しさを思うと、涙があふれる。」『神の国の証人ブルームハルト父子』244ページ。

[3] 大田原キリスト教会のHPより引用します。「実は、その昔、このルステラ地方には、ゼウスとヘルメスという二人の神が、人の姿に変装してフルギヤ山地を訪ねたという伝説がありました。彼らは正体を明かさずに旅をしたので、家に泊めてもらおうとしても、誰も泊めてくれる人がいませんでしたが、葦ぶきのみすぼらしい小屋に住んでいた老夫婦が彼らを泊めてくれました。彼らは貧しくとも、初めて会う客をもてなしたということで、ゼウスとヘルメスは自分たちの正体を明かし、この夫婦だけを残し自分たちを侮辱したこの町を洪水で流してしまった、という言い伝えがあったので(ローマの詩人オウィディウス「メタモルフェーシス」8:611-724)、これは大変だとパウロとバルナバにいけにえをささげたのです。」

[4] パウロはこの後、石打ちで死んだかと思われるほどの体験をしました。その他にもここに述べられていない多くの苦労や危険を経て、福音を証しし続けました。その詳細は、Ⅱコリント11章23-28節のリストに挙げられています。

[5] 榊原康夫『使徒言行録講解 2』192ページ

[6] いずれにせよ、私たちは自分の苦しみや犠牲で神の国に入るのではありません。生ける神がキリストによって私たちを神の国に生かしてくださるのです。

[7] 「恐らく牧師の主たる課題は、誤った理由で苦しむことがないように人々を護ることであろう。多くの人は誤った前提の上に人生の基礎を置いて苦しんでいる。その前提によれば、恐れや孤独、混乱や懐疑はあってはならないのである。しかしこれらの苦しみは、私たち人間の状態に不可欠な傷と理解することによってのみ、創造的に取り扱うことができるのである。それだから牧師のミニストリーは非常に対決的な奉仕である。それは人々が、不死と健全さの幻想を抱いて生きることを許さない。それは、人間は死すべきものであり、破れるものであることを絶えず想起させるとともに、その状態を承認すると、解放が始まることを告げるのである。」ヘンリ・ナウエン(邦題H.J.M.ヌーウェン)『傷ついた癒やし人』(西垣二一、岸本和世訳、日本基督教団出版局、1981年)131ページ。長老と牧師は、聖徒を整えて、心を強め、どんなことがあっても神の国にともに歩んで行く友となるのです。苦しみに対して、安っぽい口約束をしたり、根拠のない説明をしようとしたりしない。この苦しみも戦いも誘惑もある人生を、「成功か失敗か」と決めつけられない人生を、支えていくのです。信徒も、牧師や長老、教会の交わりに支えてもらうことを求めて欲しい。苦しみがないことを願ったり、自分の思うような信仰生活を求めたりして、それがないと一人で傷ついて去るのではなく、苦しみがあっても神の国に私は入らなければならないのだ、と弁え、支えを求めて欲しいのです。

[8] 異邦人に信仰の門を開いてくださった。それは困難を経る始まりでもあった。彼ら自身、逃れたり、石打ちにされたり、長老を選んだりする教会形成であった。決して、いけいけどんどんや祝福の約束や使命感に燃え上がる宣教ではなかった。もっと人を見ていた。苦しみを経なければならず、困難が待ち構えている教会。しかし、虚しい事から離れて、生ける神に立ち返る福音を宣べ伝えたのです。

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