聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ二四13~35節「心はうちに燃えていた」

2016-01-31 16:09:04 | ルカ

2016/01/31 ルカ二四13~35節「心はうちに燃えていた」

 

 聖書の中でも最も美しい物語の一つと言われるのが、今日の「エマオ途上」の物語です。主が十字架の死から三日目に復活された時、まだその知らせを信じられない二人の弟子の所に、イエスが近づかれて話しかけられました[1]。復活を信じられないまま、仲間の弟子たちから離れて行く二人にご自分から近づいて、語り掛けてくださいました。ここには、よみがえられたキリストが、本当に生きておられて、実際に弟子たちに近づき、出会って、その心を捕らえて下さることが証しされています。この二人の弟子たちだけではありません。今に至るまで、イエスは私たちに近づいてくださり、私たちが気づかなくとも語り掛けておられます。そして、御言葉を説き聞かせて主の御業を教えてくださり、心燃やされるような思いを下さり、また主の聖晩餐において、パンを裂いて渡してくださっています。そうやって、私たち一人一人の歩みにおいて、働いてくださっている。復活されたイエスが、私たちを引き戻して下さる方であることが、美しく証しされているのが、今日のエマオ途上の記事だと言えます。

 しかし、です。確かにこれは、大変美しく、ドラマチックな事実として読むことが出来ます。でも実際、私たちがこの弟子たちの立場だったらどうでしょうか。「イエス様と会ったのに最後まで気づかないだなんて恥ずかしい。[2]」「もっと早く目を開いて下されば良かったのに。」「分かった途端に消えてしまうのではなくて、もう少し一緒にいてくださったら良かったではないか。」私だったら、そんなふうに思いたくもなったと思うのです。特に、十代や二十代の頃だったら、そう考えていました。クリスチャンホームに育った者の贅沢と思うでしょうが、教会でよく聞く「救いの証し」は大抵、ドラマチックで、イエス様の十字架の愛を知って劇的に変わったという話です。また、祈りが奇跡的に叶えられたり、病気が癒やされたり、神様の臨在を強く感じたり、という話もよく聞くものです。そうすると、自分の現実との違いが気になります。小さい頃から教会に来て、福音についても一通りのことは聞いているけれど、今更感動の涙も出て来ない。ドラマのような奇蹟や、聖霊に満たされて心が燃やされる熱烈な感情もない。だったらむしろ、クリスチャンホームじゃなくて、聖書について全然知らない家で育って、大きくなってから初めて福音を聞いた方が、もっと新鮮に感動して、劇的な変化が出来て良かったんじゃないか、などと思ってしまう。そういう気持ちが私にもありました。

 そういう考えからすると、今日のエマオ途上の弟子たちの体験は、実に地味です。最後のギリギリまでイエス様だと分からず、分かった途端に呆気なく素っ気なく消えてしまう。

「心はうちに燃えていた」

とは言いますが、よく読めば、いかにも「思い出してみれば、心は燃えていたなぁ」という後付けで、感情的な高揚とか感激とは違ったようです[3]。そして、急いで帰って、弟子たちに話して驚かそうと思ったら、もう、

34「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。[4]

 なんだ、自分たちが最初にイエスにあったわけでもなかったのか、と思ったかもしれません。

 しかし、このシモン・ペテロによみがえった主イエスが現れてくださった事実は、具体的にどんな出会いだったのか、どこにも伝えられていないのですね[5]。それこそとてもドラマチックな出会いだったでしょう。ペテロはどんな言葉をかけられ、なんと答えたのでしょうか。しかしそれは秘められたままです。ペテロと主イエスの間のこととして、そっとしています。

 イエスの十字架も復活も、大変大きな奇蹟でありドラマです。そのイエスが、私たちに出会うことも一つ一つがかけがえのないドラマです。けれどそれは、私たちが期待しがちなドラマや感動体験とは違って、もっと一人一人の心の深い所でヒッソリと行われる出会いです。イエスは、私たちをただ驚かせたり奇蹟を現したりして気分を高揚させるような、そんな扱いは望まれません。感動したければそういう映画やドラマはあるし、興奮したければスポーツ観戦やコンサートにでもいけばいいのです。しかし、そういう高揚感は、いつまでも続きません。信仰を感動やドラマに求めるなら、次々に新しいエクスタシーを求めながら、心の奥にはいつまでも深い渇きがあることになります。そんなものがイエスを信じる生活ではありません。ここでイエスは、ご自身が殺されて項垂れている弟子たちにさえ、仰いました。

25…「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。

26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」

27それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

 苦しみとか死とか、一見勝利や祝福とは反対の所に、神は栄光を現される。それが、聖書全体の中で書かれている主の栄光だと教えられました。直接にイエスについての預言と言うよりも、聖書に証しされている神である主のお姿が、民とともに苦しみ、痛みを負い、悲しまれる、深い慈悲の神なのですね[6]。全能の力で、人にその場凌ぎの問題解決を与えるのではなく、イエスはもっと深い所で、私たちに出会われます。だから、彼らにすぐに正体を明かされたりせず、まず聖書の神の栄光について道々説き明かされたのです。そして、その御言葉の説き明かしが、二人の弟子の心を静かに燃やし始めたのです。まだ、彼らの目は暗く、悲しみがあり、イエスが見えませんでした。それでも秘かな熱い思いが灯りました[7]。そして、彼らはまだ先に行きそうなご様子のイエスを、無理に引き留めようとしました。その強い願いもまた、イエスが彼らの心に起こして下さった変化です。御言葉を通して神の深い愛を説明されると、心に深い情熱と、強い願いが与えられます。それは、小さくても、確かな神の御業です。そこにこそ、主が復活されて生きていることを信じて、一見地味な歩みを続けるのが信仰生活なのです。

 イエスは、パンを取って祝福し、裂いて渡されました。その裂かれたパンは、イエスが十字架の上でご自分の肉を裂かれた証しです[8]。聖餐においてパンをわざわざ裂くのは、神が私たちのために苦しみ、心を引き裂かれ、私たちにご自分を与えてくださったからです。イエスを目の前に見ていてさえ分からない鈍く不信仰の私たちに、主が裂かれたパンを差し出されます。私たちに深く、じっくりと丁寧に関わってくださって、ずっとともにおられ、時間をかけて私たちの目を開いてくださいます。今が神さえ死んだような現実に思えても、それでもイエスは確かによみがえり、私たちとともにおられ、私たちの人生を導き、御業をなしておられるのです[9]。御言葉を聞いて、神の愛に燃やされる思いが芽ばえるなら、それを大切にしましょう。自分や周囲の闇に目を奪われるより、その闇の中でこそ、御言葉に聞き、心燃やされて、導かれることが必要なのです[10]。私たちの心も歩みも、よみがえられた主の、見えない御手に確かに導かれています。人の予想を越えた形で、私たちを愛し、苦しみ痛みつつ、導いておられるのです。その主の栄光を誉め称えて、心燃やされつつ淡々と歩ませていただきましょう。

 

「主よ。この静かな物語に、語られないペテロの物語に、私たちもまた、見えないあなたの確かな御手に導かれていること、主の愛と苦しみとを知る歩みにあることを重ねさせてください。御手を裂かれ、心も裂かれた主を知る事で、心を燃やされ、強い願いを持つ者へと変えてください。いいえ、あなたが既にそれを願い、一人一人と共にいてくださいますから、感謝します」



[1] このもう一人の無名の弟子は誰なのでしょうか。ルカ自身ではないか、という節もありますが、クレオパ夫妻(クロパの妻マリヤ。ヨハネ十九25)とも言われます。いずれも推測です。

[2] 「さえぎられて」は受動態です。ただ彼らの不信仰のために見えない、と以上に、あえて見えなくされていた、神の御業でした。「もう少し早く気がついて、イエスだと見るだけの信仰があれば…」という問題ではないし、彼らや私たちが自分を責めるのも筋違いです。私たちは自分の力で気づくことなど出来ないのです。それでも、今すでに、キリストがともにいてくださる、というのが信仰です。

[3] 言わば、聖霊降臨の「舌のような火」にも通じるでしょうか。「燃えさし」も旧約で出て来る大事な言葉。

[4] 33節にはヒューロン(彼らは見つけた)があります。出かけるときは、この二人と同様、全体がもっとバラバラだったのでしょうか。悲しみや事態への戸惑いを受け止めきれないでいたのでしょうか。しかし帰ったら、彼らがまた一つに集まり、イエスの復活を信じていたのを見つけたのです。しかしこれも考えてみれば、女たちの言葉では信じなかったのが、ペテロだと信じたというのだから、失礼な話でもあります。

[5] Ⅰコリント十五5にも事実が記されていますが、出来事を詳しく記している箇所はありません。

[6] ヤハウェの苦しみは、イザヤ書六三8-9「主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」、エレミヤ三一20「エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。-主の御告げ-」、ホセア十一8-9「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。」など。

[7] この「燃える」は、十二35とここのみに出て来る言葉。(使徒の働きにはなし)燃えた結果の明るい光よりも、熱によって温められることに重点が置かれる言葉です。

[8] パンを「裂く」とあるのは二二29の聖餐制定辞とここのみです。そして「使徒の働き」では二46、二〇7、11、二七35と繰り返し、教会が聖餐共同体であったことを書いています。この時の二人は十二弟子ではなく、最後の晩餐の席にはいなかったでしょう。それゆえ、このパン裂きを見て、最後の晩餐の聖餐制定辞を思いだした、とは言えません。しかし、ルカのポイントは、私たちの聖餐において、このエマオでの晩餐を思い出させることです。35節ではハッキリと「パンを裂かれたときにイエスだとわかった」。目が閉じていた自分を、苦しみを通して全うされるイエスを見ることを、今の状況でも必ずキリストが贖いを果たされることを、自分もまた裂かれるパンとなって生きることを思い起こしつつ、聖餐のパンを受け取るのです。

[9] 「「最も悲惨で、最もつらく、最も絶望的な状況が、何にも増して思い焦がれていた解放への道となる」ということでした。」(『ナウエンと読む福音書』、p.148)

[10] 彼らがイスラエルの政治的な解放を待ち望んでいたのは、それだけ彼らの生活がローマによって苦しいものとなっていたからです。このエマオまでの旅路でさえ、ローマの影や暗闇は付きまとっていたでしょう。暗くなったから旅を止めようと考えたのは、「良きサマリヤ人」の喩えにあったように、強盗に襲われかねない、治安の悪さもあったかもしれません。そのような現実的な暗さ、厳しさに心は重く、期待が外れた失望、孤独、喪失を覚えていたのです。しかし、キリストご自身が、その暗さ、絶望、痛み、暴力、犠牲者の思いをとことん味わって知っておられるお方でした。

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問101「とにかく御名があがめられ」詩67篇

2016-01-03 15:20:43 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/01/03 ウェストミンスター小教理問答101「とにかく御名があがめられ」詩67篇

 

 主の祈りにはいくつの願いがあるか、分かりますか。6つです。では、あなたが6つの願いを願うとしたら、どんなことを願うでしょうか。3つでもよいですが、どんな願いを考えるでしょうか。イエスは私たちに、6つの願いを祈るように教えてくださいましたが、それは、私たちが考える願い事とは、どれほど違うかを考えてみてください。でも、イエスはそれこそが、私たちの願いとして挙げられることなのだよ、と教えてくださったのですね。今日は、最初の願いについてお話しします。

問101 第一の祈願で私たちは何を祈り求めるのですか。

答 第一の祈願、すなわち「御名があがめられますように」で私たちは、神が、ご自身を知らせるのにお用いになるすべてのことにおいて、私たちと他の人々が、神に栄光を帰すことができるようにしてくださるように、また、神が万事をご自身の栄光のために整えてくださるように、と祈ります。

 「御名があがめられますように」。

 御名とは「天にいます私たちの父・あなたのお名前」です。あなたのお名前が「あがめられますように」。これは

「聖とするHallowed」

という意味です。聖holinessとは、神の本質的な属性です。完全であること、一切の汚れや私利私欲がない、正しさと恵みに純粋に満ちておられるご性質です。それは、何によっても傷つけられず、強く、タフな真実さです。それは、神の本質を言い表しているもので、神は「聖なる神」と呼ばれ、神の御使いたちは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を永遠に誉め称えていると描かれている通りです。

 そして、神の「御名」とは、神ご自身を現すものです。ただのニックネームとか呼び名ではなくて、神そのものを現しますし、「神」と言うのが恐れ多いために、代わりに「神の御名」と言うこともあるような尊いものなのです。確かに、「神よ、あなたが崇められますように」というよりも「御名があがめられますように」の方が、気持ち的に言いやすいかもしれません。いずれにしても、神の御名もまた、聖なる御名です。

 ではなぜ「御名があがめられますように(聖とされますように)」などと言うのでしょうか。最初から御名はもう聖なのではないのでしょうか。そうです。問題は、それなのに、その御名が聖とされていないことにあります。大いなる素晴らしい神、恵みと誠に満ちておられる、無限に聖なる神がおられ、この世界はその神によって、神の栄光を現すために造られたのに、どうでしょうか? 人間は、神なんか知らないと思っています。神を小さく、弱くしたり、勝手で人間と同じようにいい加減だったりケチであるかのように考えています。何よりも、人間が、六つの願いを挙げてご覧と言われても、健康だ美味しいものだお金だ今度一番になれますように、色々な願いはあるかも知れませんが、「神の御名があがめられますように」だなんて願いは思い浮かばないでしょうし、そう言われても、ピンと来ないぐらい、神の御名に、ふさわしい賛美や尊敬を持っていないではありませんか。

 だから私たちは、第一に

「御名があがめられますように」

と祈るのです。宇宙を造られた神が貶められているのに、私たちが自分のちっぽけな願望に取り憑かれているとしたら、乗っている船が沈みかねない事故に遭いそうなのに、クイズの答で悩んでいるようなものです。まずは、事故の回避に努めるべきでしょう。まずは、神の御名があがめられることを祈り、願う時、そこから、世界の歯車が噛み合いだして、やがては、自分の立ち位置もちゃんと収まってくる、というものです。

 私たちは神のことよりも、自分の事が気になるものです。自分の名誉とか、有名になるとか、名誉毀損だとか、汚名返上したいとか。私も数年前、そんな事で頭がいっぱいになっていました。誤解されたくない、言い訳したい、抗議したい、自分のことが一番でした。でも、この「主の祈り」を繰り返すうちに、自分の思いが、スーッと落ち着きました。

 「主よ、私の名前ではなく、あなたのお名前が崇められますように。あなたのお名前さえあがめられれば、私の名前が今どんなに誤解されたり卑しめられたりしても、何でもありません。あなたは大いなるお方です。私にとって、あなたは、本当に恵み深く真実で、正しく、真実でいてくださいます。私も、あなたの御名をあがめます。そして、みんなもあなたの御名をあがめるようにしてください。あなたの偉大さに気づき、あなたの聖なる御名を賛美しますように。」

 そのように祈るようになります。でも、いつのまにかまた、自分のことや、目に見えること、周りのことに、心が奪われてしまうのですけれども、その度に、「主の祈り」を通して、軌道修正をしてもらっています。

 他の祈りを祈るにしてもそうです。誰かが病気や事故に遭って、入院したら、その回復を祈ります。不登校や引きこもりになった、事業が難しくなった、そう聴けば、その問題が回復するようにと祈ります。けれども、もう少し長い時間をかけると、病気になったことがその人の進路を決めることもありますね。心が苦しかった時を通して、本当に大切なものに気づくことは沢山あります。事業が潰れて、新しい、もっと大切な仕事を始めるようになることもあります。そういうことを考えると、ただ病気になりませんように、奇蹟が起きて、問題が解決しますように、という願いが叶えばいいとも思えません。長いスパンで、本当に何が最善なのかは、私たちには分からないのです。病気の癒やしを真剣に祈りつつも、でも、最後の死は誰も避けることは出来ません。どう祈れば良いのか、分からなくなってしまいます。でもそういうときも、この祈りは祈れます。

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」。

 今の苦しい状況が、どうなることが最善なのかは私たちには分かりませんが、しかし、いずれにしても、とにかく、この状況を通して、あなたの御名が崇められますように。ここに、あなたが聖なる方であることを現してくださいますように。みんなが、「本当にイエスは真実なお方だ」と、何らかの意味で、心から称えるようになりますように。この事を通して、このことの中に、とにかく御名があがめられるように、お願いします。こういう祈りに最終的には落ち着くのです。そんな祈りをよくします。そして、神は本当に聖なる、あがめられるべきお方です。私たちの生きる現実のただ中に働いて、御名の聖さを必ず現してくださる。イエスの御霊が私たちの心に働いて、私たちに御名を崇める心をも下さると信じて、祈りでも生活でも、これを第一の願いとして行きましょう。

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申命記十五章1~11節「手を開いて生きる」

2016-01-03 15:18:37 | 申命記

2016/01/03 申命記十五章1~11節「手を開いて生きる」

 

 申命記は、イスラエルの民が、エジプトの奴隷生活から救い出されて、今ようやく約束の地に入ろうとするにあたって、モーセがイスラエルの民に対して、これから始まる新しい生活について説教をした、遺言の書です。新年に当たって相応しい、とも言いたいのですが、申命記を話し続けて、毎月取り上げてやっと十五章ですから、そんなこじつけはしないことにします。ですが、この十五章を今朝ご一緒に聴くことが出来ることを心から幸いだと思います。

 読まれましたように、申命記十五章の1節から6節には、七年ごとの

「負債の免除」

のことが書かれていました。7節から11節には、貧しい同胞に対して、必要なものを貸し与えることが命じられています。免除の年が近づいたから、「貸しても返してもらえないかもしれない」と思って惜しんではならない、必要なものは物惜しみせずに貸し与えなさい、と言われるのです。これが、モーセを通して、イスラエルの民に命じられた新しい生活の青写真でした[1]

 では何でも気前よく求められるままに何でもジャンジャカ与えて、返って来なくても気にしないのが聖書の考えなのか、というとそれは誤解です。ここで言われているのも、貧しい者に必要なものを貸すことです。誰にでも求められたら惜しみなく与えることではありません。親や人の脛(すね)齧(かじ)りが奨励されるわけでも、集(たか)りや詐欺も七年目には赦されるわけではありません。嘘で騙(だま)すことは、厳罰に処せられたのです。一人一人が、誠実に働き、自分の出来る仕事をすることが大前提です。「返します」と言って借りた物は、七年目の免除の年が来る前に努力して返すことが当然求められたのです。
 去年、研修で訪ねた教会では、酷い貧困地域に入り込んで活動をしていました。それはただ施して、気前よくするのではない活動でした。働いても大した収入はないので、生活保護をもらって何にもせずに暮らすのが当たり前になっている地域に入り、働くことの意味、自分自身の価値、人と共に働き助け合う人生の素晴らしさをじっくり教えていく、実際的な働きでした。その反対に、ただ施し、甘やかし、気前よくすることは、決して人を助けることにはならないし、聖書が言っている意味での愛でもありません。

 しかし、そうやってシッカリ生きていこうとしていても、それでも、色々な事情で貧しくなったり、借金が返せなくなったりすることは現実にあるのです。11節の言葉はリアルですね。

11貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」

 貧しい者が国のうちから絶えることはない。神が約束された新しい地に入るのです。祝福を信じて入るのです。けれども、人間が為す営みである以上、貧しくなる場合もある。必要に事欠く生活になる場合もある。人から借りなければならない。貸さなければならない。そしてそれを返せると思って、騙すつもりはなくて借りたのに、返せないまま七年目を迎えることだってあり得るのだ。その場合には、免除してやりなさい、と言われているのです。

 これは今から三千五百年ほど昔に、イスラエルの民に語られた言葉です。時代も文化も違います。杓子定規には今に当てはまりません。しかし、根本的な呼びかけは変わりません。私たちは今日も「主の祈り」を祈りました。「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」と祈りました。今日の申命記十五章と同じ言葉です[2]。「私たちに負い目(負債、借金)のある人たちを赦し(免除し)ました」というのです。神からの罪の赦し(免除)を戴き、私たちも人の借金を免除して生きる。それが聖書の民に与えられている心なのです[3]

 重ねて言いますが、それは何でも大目に見るとか、悪事を不問に伏す、人の甘えを赦し、好きなようにさせて気にしない、ということでは全くありません。しかし、正しく生きようとしても生きられない、人に返せないほどの負債を抱えてしまうことがあるのが人間社会です。神を信じて、自分の人生をお任せして、キリスト者として生きていても、様々な不運や失業、病気などを避けることは出来ません。そういう私たちに対して、今日の所で言われています。

 2…主が免除を布告しておられる。

15あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。

 主が私たちの負債を免除してくださいました。神の側で、犠牲を払って、私たちを奴隷生活から救い出し、ご自身のものとしてくださいました。そういう赦しを戴いた私たちだから、私たちもまた、人を免除し、困窮している人の身になって、惜しみない生き方をするようにと求められているのです。ただ神が過去に私たちを赦して下さっただけではありません。今も、私たちは神に対して、日々赦してもらいながら受け入れて戴いています。これからもずっと、神が私たちに免除を布告してくださって、永遠に神の愛を戴いて歩ませて戴けると約束を戴いています。だから私たちもそれに応えて、今ここで、人を赦し、返せない負債を免除し、健全な意味で気前のよい生き方を求められています。これは道徳ではなく、恵みによる解放です[4]

 「キリスト教は再出発の宗教です」

と言った人がいます。イエス・キリストの福音は、すべての人に、罪赦されて、神の子として歩み出す、再出発を与えてくれます。どんな過去を背負っていても再出発できない人はいないというのが、キリストの福音です。過去の責任は負わなければなりませんし、過去の問題を改め、手放さなければ再出発とはなりません。無責任な生き方をやめて、神から自分に与えられた人生をシッカリ生きる「再出発」なのです。しかしそこでも、どんな失敗や挫折があっても、神が再び立ち上がらせてくださるのです。ゴールに向けて歩めるよう、希望と力を下さるのです。私たち自身が立ち上がれなくなっても、キリストが私たちの所に来て、負(お)ぶってでもゴールさせてくださるのです。だから私たちもお互いにそのような歩みを励まし、具体的に少しでも実践するのです。

 そのような生き方を示す表現が、

「あなたの手を開く」(8節、11節)

です。心の未練が手を閉ざさせる、と言われていますが[5]、人は心を閉ざすと、手も人に見せなくなります[6]。掌(てのひら)を隠し、拳(こぶし)を握りしめている力んだ心を、神はその恵みによって開いてくださいます[7]。神はエジプトからイスラエルの民を救ったように、イエス・キリストをこの世に送り、十字架にかけてくださいました。キリストは、その手を私たちに差し出して、その手を十字架に釘付けにされるために差し出すほどに私たちを愛して、完全で永遠の赦しを与えてくださいました。その手が、痛みを知る手が、立ち上がれない私たちを立ち上がらせてくれます。人を赦し、過去に囚われないなんて難しいことです。しかしその痛みも知るキリストが私たちに、完全な赦しを既に宣言されたのです。私たちはこれからも必ず何度も躓きますが、その度に主が立ち上がらせてくださいます。だから、私たちはこの具体的な愛に励まされて立ち上がり、互いに赦し合い、助け合う、そういう歩みを、この年も大切に戴いていきましょう。

 

「新年最初の礼拝に、もう一度あなたの免除と再出発の宣言を聞かせてくださり、ありがとうございます。そして、私たちもその赦しに導かれて、今ここで憐れみに満ちた生き方へと心も手も向けさせて下さい。貧困や憎しみ、自分自身の後悔、様々な柵(しがらみ)がある人生だからこそ、あなたが何度でも新しく踏み出させて下さる憐れみに励まされ、手を開いて歩ませてください」



[1] 古代中近東では、社会的権力者(貴族、祭司、土地所有者、軍幹部)らに特権・優位が与えられていました。これを考えると、貧者・社会的弱者を重視し、その必要を優先する聖書の法典は、特殊であると言えます。

[2] シェミッターは、申命記で4回(十五1、2、9、三一10)出て来るだけのヘブル語です。ギリシャ語訳旧約聖書(LXX)ではアフェシスが訳語に当てられます。これは、罪の赦し、負い目の赦しを指し、新約で多用される用語です。新改訳の「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」でも、同じ言葉が使われています。

[3] 他にも、新約においてはⅠヨハネ三17、Ⅱコリント九7(6~8)、マタイ五43-48、ルカ十四12-14。旧約では、イザヤ五八6、アモス二6、ミカ二8-9、三1-4、イザヤ五8、箴言二二22。

[4] なんと恵みに満ちた言葉か。これを「律法」と見るよりも、「恵み」「あわれみ」と読まなければ、おかしいではないか。旧約の律法は、激しい恵みに貫かれているのだ。

[5] 10節。また、7節「心を閉じてはならない」の「閉じる」はエメツ(頑なにする)で「手を閉じてはならない」の「閉じる」はカファツ(閉じる)で、原語では別の動詞です。

[6] 心理学でも、手を閉じる、間に物を置く行為は、嘘や心的距離感の無意識の防衛行動です。

[7] 主が「御手を開かれる」という表現は、旧約に2回出て来ます。詩篇一〇四28「あなたがお与えになると、彼らは集め、あなたが御手を開かれると、彼らは良いもので満ち足ります。」、一四五16「あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます」。

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詩篇十九篇「たましいを生き返らせ」

2016-01-01 21:25:41 | 説教

2016/01/01 詩篇十九篇「たましいを生き返らせ」

 

 新年といえば、富士山に初日の出、という絵が典型的に思い浮かびます。少し正月らしい背景を出してみました。人それぞれに違うイメージはあるでしょうが、私にとって、正月らしさと結びついている聖書の箇所の一つの、詩篇十九篇を年頭の御言葉として、開きました。

詩篇十九1天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

と始まります。この詩編の作者も、空を見ることが好きだったのでしょうか。天は、いつでも目に出来る、神の大きな作品です。それが、抜けるような青空や美しい朝日ではなくても、曇り空でも嵐でも、ともかく空はデカく雄大です。それは、神の栄光を語り告げており、創造主の御手の業を告げ知らせている。そういう大きな所から詩人は、私たちに、神の御業を思い出させようとします。特に4節から6節では

「太陽」

を取り上げます。あの夜明けに高く昇っていく太陽を、部屋から出て来る花婿のように、喜び走っている、と表現するのですね。太陽は毎日昇っては沈んでいくわけですが、それを詩人は、人生最高の幸せに飛び出してくる花婿のように毎朝喜び走っているのだ。天の東の果てから西の果てまでを、駆け抜けている。その溢れる喜びの熱からは何者も隠れる事が出来ない、とダイナミックな絵を描き出すのです。

 それが、7節からは

「主のみおしえ…主のあかし…主の戒め…主の仰せ」

と話が変わります。天や太陽を造られて、そこに栄光を日毎に現しておられる神が、私たちに教えや証し、つまり御言葉の戒めを下さって、私たちの

「たましいを生き返らせ、…わきまえのない者を賢くし…心を喜ばせ…目を明るくする」

恵みを下さる、と踏み込んでいきます。そして、最後の12節から14節は、「私の」と一人称単数です。自分の生き方の深い所に、主が届いてくださることを願う祈りに深まっていって、

「わが岩、わが贖い主、主よ」

と閉じる。そういう構造です。

 天は神の栄光を現しているというダイナミックな賛美から始まって、自分の隠れている罪、傲慢の罪から守ってくださるようにと、静かでプライベートな祈りに収(しゅう)斂(れん)します。私たちの神が天地を造られた神であり、同時に、私たちを教え諭し、心の奥の密やかな思いにまで触れたもう主である。この、両極端とも言える信仰が、私たちに与えられている信仰の世界です。

 「キリスト教とは良い道徳だ」と考える人は多いです。正しく、愛をもって生きていれば、神様が祝福してくださると思っています。でも、聖書は、人間が道徳的に立派な行いや、宗教的な生き方さえカモフラージュにして、傲慢や隠し事や、自分でもどうしようも出来ない思いを持っていることにフォーカスしています。天地を造られた偉大なる神は、私たちに上っ面の立派な生き方などお求めになるのではなく、7節以下にあるように、私たちの魂が生き返り、明るくなり、本当の喜びを持たせたい、正しい生き方を楽しませたいと願われるお方です。この詩を書いた詩人は、主が下さる「恐れ」や「さばき」に最大級の賛辞を送りますね。

10それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。
蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。

11また[1]、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。

 主が教えや思いを下さって、私自身が戒められ、大きな報いを戴く事が出来る。神は、この私に知恵や正しさを与えてくださることが、何よりも嬉しいのです、と言っているのです。でもそれは、彼が真面目だからではないのですよ。詩人は、正直に認めています。

12だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。

 自分は失敗を免れないし、沢山やらかした自分の間違いを把握する事さえ出来ない者だ、とぶっちゃけて言っています。でも、その間違いをしでかさないように、とは彼は言いません。

 どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

 表に出て来る過ちよりも、隠れている罪の方が問題なのだ。それは何かと言えば、

13あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。

 傲慢という罪が、私の隠れている罪です。表に出て来た過ちは、その症状に過ぎません。もっと深い所に、思い上がった自己中心的な心がある。懲りることを知らない思い上がった考えがあって、それが醜い言葉になり、愚かな行動になる。自分の心には、いつも隠れた罪がある。隠しておきたい思い上がった自分がいる。神が天地を造られて、そこに大きな栄光が現されて、神の前には何も隠すことなど出来ないと分かっているはずなのに、私の中には、自分の栄光とか虚栄とか見栄が隠れています。まだ、上辺でそれなりの事をしていれば、隠れた罪や問題を神も見逃してくださるんじゃないかと思っている。そうして、傲慢さに自分が支配されそうになる。その私を守ってください。そんな私にも御言葉の戒めを下さって、魂を生き返らせ、喜びや明るさを下さろうという憐れみ深いあなたが、どうか隠れた罪が私を支配せず、あなたが私の心の隅々までも支配してください、と自分の心を開いて、明け渡す祈りを捧げるのです。

…そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

 神が、天地、宇宙、この世界のすべてをお造りになったのは、壮大なご計画があっての事です。それは、神の栄光を現すご計画です。でもそれは、その世界に住む小さなこの私たち一人一人の、心の奥深くが生き返ること、胡麻菓子のない喜びや明るさを戴くことと不可分なのです。この一年にも、神がこの世界に大きなご計画を用意されていることを私たちは信じています。でも、神がご計画なさっているのは大きな出来事や流れで、私たちがどう抵抗しようと、神の決めておられるようになるのだとか、神のご計画が確かだから、私たちが何をしようと神は気になさらない、という事でもないのですね。この世界にひとり子を送られた神は、そのご計画が実に小さな、密やかな、私たちの心を新しくすることから始まることを明らかにしておられます。

 神の目を免れて隠しおおせるものは私たちの人生には何一つありません。しかし、神はその私たちの罪や問題に眉を顰(ひそ)め、軽蔑したり責めたり罰したりするよりも、私たちの魂を生き返らせ、傲慢を神の栄光への賛美に変えてくださいます。隠した思いを手放せずに支配されてしまう生き方から、神の尊い御支配に生かされていく人生へと導いてくださいます。私たちの心の深くに、まだまだ傲慢や間違いがあります。それでも私たちを支配しているのは、そうしたちっぽけなエゴではなくて、天地の創造主なる神だと約束されているのです。

 この祈りは、私たちに与えられた祈りです。主は、私たちにとっても

「わが岩、わが贖い主」

です。神のご計画は、私たちの心を置いてけ堀にする計画ではありません。私たち一人一人が、心から神に信頼し、何の隠し立てもない、神との交わりを持つ。それこそ、神のご計画の中心となる筋書きなのです。その回復のためにイエス・キリストが来てくださいました。主は、私たちとともにおられ、思いや言葉を深い所から変えて下さるのです。そのような一年を願いましょう。そうして、私たちがお互いにも、当たり障りのない関係ではなく、心からの、真実で、お互いを尊重し合う関係を築かせてくださるとも期待して、御言葉に聴いてまいりましょう。

 

「天地を造り、壮大なドラマを創造された神よ。あなたが、私たちの魂を生き返らせよう、喜びを与え、真実な者としようと願い、そのために御子イエスをも惜しまず与えられた恵みを感謝します。どうぞこの一年、一人一人を、あなたとの親しい御言葉の交わりに生かして祝福してください。大空や太陽、あらゆる御業をもって、心を深く励まし慰め、支え続けてください」



[1] この最初の「また」(ヘブル語「ガム」)は「それよりも」「何よりも」という意味の言葉です。

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