聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

イザヤ書八22~九7「ひとりのみどりごが私たちに」 第1アドヴェント

2016-11-27 17:14:13 | クリスマス

2016/11/27 イザヤ書八22~九7「ひとりのみどりごが私たちに」

 今日からクリスマス前までの四回を「待降節(アドヴェント)」として過ごします[1]。この間に私たちはクリスマスを待ちつつ、イエス・キリストがこの世にお生まれ下さった恵みを味わい、思い巡らします。そして、今ここで主イエスが、もう一度私たちの所に来て下さることを待ち望むのです。

1.イザヤの預言した誕生

 イザヤ書九章6-7節はクリスマスには必ず読まれる、イエス・キリストの誕生を、その七百年も前のイザヤの時代に預言していた聖書のお言葉です。

 6ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 イザヤ書にはキリスト預言の大事な言葉が沢山あります。キリストが来られる七世紀も昔から、その御生涯や死が約束されていました。イエスの誕生はずっと待ち望まれていた約束でした。実際キリストがお生まれになった時、それを待ち望んでいた大勢の人がいました[2]。彼らはイザヤ書を読んでいたはずです。けれどもその前にイザヤの時代の読者を考えたいのです。

八22地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。

 これがイザヤの当時の様子でした。イスラエルの国は、北のアッシリヤからの軍事侵略に怯えていました。国の政治家たちは腐敗や不正で堕落していました。民の中にも信仰や誠実さが失われていた時代です[3]。そういう時代を考える時に、七百年も先の話を言われても、どうでしょうか。希望どころか、絶望に突き落とされた気がしたでしょう。今の自分たちは助けてもらえないのかと、もっと暗い思いをしたでしょう。でもイザヤが語ったのは、今の慰めです。

 1しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

 2やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

 イザヤは過去形で「受けた。見た。照った」ともう出来事が起きたかのように語っています。勿論、まだ神の光は来ていないのです。闇はなくなっていません。でもそれを、「光が照った」と過去の出来事のように言うのです。これは、聖書に出てくる独特の言い方です。神が確かになさることは、まだ起きていなくても、確実なことだから過去形で表現するのです。日本語で「なるだろう」「するだろう」と言うと「ならないかもしれないけど」ですが、聖書の神がなさることは将来でも確実です。ですから、イザヤも六百年先にメシヤが来ますよ、ではなく、この時代、今の闇の中に神が光を与えてくださる、という確かな約束を語るのです。

2.逆説の神

 まだ闇ばかりの時、神は光を語られます。まだ夜中ですが、明けの明星が見えた。それを見て、朝を確信する。朝が確実に来ることを知る者として生きるのです。その確かな徴として、実際この時、アッシリヤの軍隊が奇跡的に打ち負かされ、国際情勢や政治や倫理での改善も、僅かながら与えられるのです。しかし、ここで語られる光は、人間の思い描くような光とは違う、不思議な光です。1節の

「ゼブルンの地とナフタリの地」

はイスラエルでも一番北の田舎でした。

「ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ」

と言われるぐらいの辺境でした。しかし、そこに光が見えるというのです。徳島が「VS東京」や「徳島から日本創生」と言うように、神はエルサレムという中心の大都市からではなく、ゼブルンやナフタリ、田舎からの意外な回復を語られます。4節の

「ミデヤンの日になされた」

というのも、ギデオンという臆病者が指導者となったエピソードです。三万二千人いた兵士を、神はわざわざ三百人に減らして、ミデヤンの大軍を破らせたのです[4]。神は、小さな者や田舎や闇の中に働かれるお方です。そしてそれこそ、イエス・キリストのお誕生でした。

「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」。

 「赤ちゃんってカワイイ、会いたい!」と思うのは豊かな現代の感覚です。貧しい近代まで、子どもは劣って、価値がなく、手がかかるもの、「子供」(供えもの、お供)と低く見るのが一般的でした[5]。そういう卑しい形で神がお遣わしになるとは、理解に苦しむ事だったでしょう。

 6…主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 7その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今より、とこしえまで。…

 これと

「ひとりのみどりご」

とのギャップは測り知れません[6]。神は本当に小さい者を愛されています。暗闇の中にいる者を、その片隅にいる者まで見落とす事なく、愛され、慰められ、生きる喜びを増し加えられます。だからキリストも小さな赤ん坊としてのお生まれも厭われませんでした。クリスマスだけではないのです。今も主は私たちを心に止め、小さな子どもや弱い人、悲しむ人を、だれも見落とさず、愛され、そこに光を届けてくださるのです。それは全て、将来に神が来て、私たちの隅々までを照らし、完全に闇を取り除かれる事の保証です。

3.ひとりのみどりごが

 イザヤの時代、神はその時点での希望を与えられ、現実にも働いてくださいました。でもまだ闇はありました。その先、六百年後に約束のキリストが来られ、光となってくださいました。でもまだ完全ではありません。今も、闇が完全になくなってはいません。しかし神は私たちに希望を与え、今この現実にも働いてくださいます。望みを叶えたり、人生を照らしたり、折々に励ましてくださいます。それは、完全な未来への担保なのです[7]。だからこそ今まだ闇があること、悲しみや痛みがあること、不完全で不条理があることも受け止めます。そして私たちは、今この時にさえ光や慰めを下さる主を待ち望みながら、今ここで光とならせていただくのです。キリストが来られても、世界が平和で完璧になったわけではありません。しかし、キリストをその人生に受け入れた人の生き方は変えられ始め、社会が子どもを大事にするようになり、平和や赦しへと決して少なからず動き始めたのです。光は輝き始めたのです。

 勿論、とてもそう思えない現実も沢山あります。クリスマスは派手に祝っても、ますます貧富の差は広がり、クリスマスなんて祝えない人も大勢いるのも事実です。まだ闇はあるのです。その闇に輝くのがキリストの誕生です。力や輝かしさを捨てて人となられました。それは、測り知れない謙り、自己放棄です。「清水の舞台から飛び降りる」より、暴力や争いに満ちた世界に、無力な赤ん坊になって来ることは遙かに勇気が要ります。キリストは私たちのため、小さくなり、希望の星となってくださいました。私たちは、このキリストを、心にお迎えすることから始めます。世界を照らし、人生に生きて働いておられる幼子イエスの光を仰ぐのです。世界は問題だらけですが、でもその中にあるささやかな喜びや祝福も輝いています。それは、やがて神が世界を光で包み、私たちの社会も心の隅々までも癒やして下さる夜明けを告げる星です。今ここに神が働いて下さることと、でも今に完璧を求めず、将来に完全な恵みの勝利があることとを待ち望むのが私たちです。自分の闇の現実を認めましょう。人がどうだ世界がどうだという現実が変わるにも、まず「私」が神の光を灯して頂く必要があります。無力な赤ん坊となることを選ばれたキリストの愛を頂く必要があります。キリストの愛で、怒りや競争心や傲慢な心を、赦しや愛や喜びに変えて頂きましょう。キリストはそのために来られたのです。

「ともにアドヴェントを迎えた幸いを感謝いたします。イザヤを通して希望を約束された主が、今の私たちにも希望の光を与えてくださいますように。主は本当にひとりの嬰児としておいでくださいました。私たちのためにおいでくださいました。この小さな私たち一人一人を愛することによって、あなたの御業が始まっていきますように。このクリスマスを祝福してください」

ラファエロ 「イザヤ」

[1] 今年は12月25日が日曜日ですので、一番早くアドヴェントを数えることになります。

[2] 特に有名なのは、東の方から訪れた博士たちですが、待ち望んでいた人は大勢いたのです。

[3] イザヤはそういう時代に、神の言葉を預かり伝える預言者とされましたが、殆どの人は話を聞いてくれない生涯でした。

[4] 士師記六-八章、参照。

[5] 実際の歴史では「子供」は蔑称ではなく、複数を表す「供」とされていますが、それを使う人間の意識としては、子どもを軽んじる意識があったと言えます。

[6] そして、実際のイエス・キリストは、更に貧しく、飼葉桶にお生まれになったのです。

[7]「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」(箴言13章12節)

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問39「十字架だったわけ」使徒2章36-39節

2016-11-13 18:08:49 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/11/13 ハイデルベルグ信仰問答39「十字架だったわけ」使徒2章36-39節 

 教会にとってのシンボルの一つは十字架です。

でも、十字架のネックレスは日本でも普通のお店でたくさん売られています。

十字架のアクセサリーをしているからといって、「この人はクリスチャンかも」なんて思うのは考えすぎですね。なんとなくオシャレだから、格好良いから、ぶら下げている人が多いのです。けれども、本当は十字架とは人を磔にする処刑道具でした。

キリストは十字架にかけられて殺されたのです。そしてそれは、ここで皆さんにもっとリアルな絵を見せることも出来ますけれども、あまりにもショッキングで、心に深いトラウマを抱えてしまうような残酷な処刑方法でした。

 当時も十字架は、残虐すぎて、国家への反逆か大きな犯罪をした極悪人しかこの十字架刑は適用されませんでした。また、ローマ市民には十字架刑を科すことは決してせず、十字架刑のことをローマ市民が思い出すことさえ忌むべき事だとされていたのです。もし当時のローマ市民が、現代の日本に来て、十字架のネックレスが売られていたり、身につけられて歩いたりしているのを見たら、どんなにビックリするでしょうか。ですから、改めて、今日の聖書箇所で使徒たちが言った言葉を考えてください。

使徒の働き二36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 イエスをあなたがたは十字架につけた。逆に言えば、十字架につけられたキリストという教会の告白は、当時の常識からは考えられない、信じがたい事だったのです。

問39 その方が「十字架につけられ」たことには、何か別の死に方をする以上の意味があるのですか。

答 あります。それによって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを御自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。

 なぜ、十字架だったのでしょうか。イエスが死なれたのは、もっと違う方法でも良かっただろうに、十字架だった事には特別な意味があるのだろうか。教会が「主は…十字架につけられ」と特に言うことにはどんな意味があるのだろうか、というのが今日のポイントですね。少なくとも「オシャレだから、かっこよかったから」ではないのです!

 イエスの十字架にはいくつもの意味があります。特にここでは

「…なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。」

とあります。この言葉は、聖書に、

ガラテヤ三13キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

と言われている言葉に基づいています。木にかけられる死は、神の呪いの象徴でした。確かに、木にかけられて、見せしめに殺され、その死体が遠くからも見られるほど晒されている、というのは普通ではありません。だから、そういう死体は日没までに取り下ろさなければならない、と申命記二一23に書かれているのです。その言葉をパウロは引用しながら、キリストが木にかけられたのは、それほどのろわしい死に方をあえてされたのだ、と言うのです。イエスは私たちのために、ご自分のいのちを与えて下さいました。でも、ただいのちを与え、ご自分を犠牲にして下さった、というなら、もっと楽で、綺麗な死に方でもよかったんじゃないかと言いたくなります。しかし、イエスはそこで楽で綺麗な道は選ばれませんでした。

 もしイエスが、ひっそりと綺麗な死に方をなさっていたとしたら、どうでしょうか? そして、三日目によみがえられたとしたら。そうして、「わたしはあなたがたのために死んでよみがえったのだ」と言ったらどうでしょう。確かにそういう高貴な死は、弟子たちには受け止めやすかったでしょう。話しても、十字架ほど抵抗はなかったかもしれません。でも、信じられない人にとっても意外じゃなかったはずです。本当にイエスは死んだのか、よみがえったのか、私たちのための死だなんて、信じられないね、と言われたら返す言葉はありません。

 けれども、十字架の死はそうではありません。イエスは安らかにひっそりと死なれたのではなく、見せしめになり、さらし者にされながら、大勢の人の前で死なれました。それは、人が目を背けずにはおれないほどの苦しみでした。何時間もぶら下げられて、身体の骨が外れ、一糸まとわぬ裸で辱められ、何日も太陽に照りつけられて、気が狂うような拷問でした。他の死に方だったら、死んだように見えただけで、仮死状態から蘇生したのをよみがえったと誤解したんじゃないかとも言われたかもしれません。しかし、十字架の死に仮死状態はありません。百歩譲って仮死状態になったのだとしても、全身のダメージが酷すぎて、イエスは歩いたり立ち上がったりさえ出来ない、重度の障害の身であったはずです。十字架刑とはそれほどの拷問でした。そういう生々しい死を、そこにいた大勢の人々が目撃しました。だからペテロがこう言った時、誰も否定できなかったのです。

「…神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 それは一面では、私たち人間の残酷さを現しています。罪のない愛のお方を十字架に殺した残酷さ、そもそも十字架刑などと言う残酷な処刑方法を考え出して実行できる残酷さ。そして、そのような私たちは、神に呪われて、自分の罪の罰を受けても当然だったでしょう。十字架でなくても、何かがあれば、神の呪いかお怒りだ、罰だと怯えなければならなかったでしょう。でもその十字架をイエスが引き受けて下さいました。最ものろわしい十字架が、最も尊い主の愛のシンボルになりました。

 「イエスの十字架によって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを御自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。」

 そう告白することが出来るようにされました。引いては、主が最悪の出来事さえも、祝福に変えてくださるという約束も与えられたのです。どんな禍、どんな苦難や悲しみさえ、主の怒りでもなければ、神が無関心である証拠でもありません。イエスの十字架を通して、私たちは、神が呪いを引き受け、私たちを愛してくださったことを約束されています。最悪をも恵みに変える主の恵みを信じて、私は歩ませていただいています。

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礼拝⑦ 永遠の礼拝 ヨハネ4章1~26節

2016-11-13 17:57:22 | シリーズ礼拝

2016/11/13 「礼拝⑦ 永遠の礼拝」ヨハネ4章1~26節

 今日の箇所、「サマリヤの女」と名付けられてよく知られている箇所ですが、初めて読んだ方はどんな感想をもたれたでしょう。最後にイエスが「あなたと話しているこのわたしがそれです」というオチに、コミカルだなぁとクスッとしたくなりませんでしたか[1]。改めて私もそう思いました。そしてここに、礼拝についての大原則が語られている事もビックリな発見です。

1.「霊とまことによって礼拝する」ほんとうの礼拝者

23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

 これは、イエス・キリストが示して下さった、礼拝の大原則です。礼拝する場所がどこか、エルサレムかこの山か、そういう場所に関係なく、「霊とまことによって父(なる神)を礼拝する」時が来た、とキリストは語られました。霊である神を礼拝するには、人間も、場所や形式でなく、霊的な礼拝をすべき、というのです。しかし、もう少し具体的な説明も必要です。

 この言葉が語られたのは、サマリヤ人の女との会話においてでした。イエスは、疲れて井戸のそばで座っておられました[2]

「第六時」

とは正午頃の暑い真っ盛りです。そこに女がやってきました。普通、水汲みはこんな暑い時間ではなく、早朝か夕暮れのもっと涼しい時にするのだそうです。誰も水汲みには来ない時間に来たのは誰にも会いたくなかったからでしょう。そこにユダヤ人がいて、自分に話しかけ、水を飲ませて下さいと頼まれて、彼女はどれほど驚いたかしれません[3]。男性が女性に話しかけること、ユダヤ人がサマリヤ人にものを頼むこと、どちらも当時の非常識だったのです。その後のやり取りでも、その人イエスは彼女に

「生ける水」「決して渇くことのない」

水を与え、その水を飲むなら、

「泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出る」

という不思議なことを言いますね。更に驚くべき事にイエスは、彼女の今までの生活や問題を何故か知っておられました。彼女は五回の結婚と離婚を繰り返し(死別はあったとしても全部ではないでしょう)、今は夫婦ではない同棲をしていました[4]。それでもイエスは彼女を見下さず断罪せず、話すのも汚らわしいなどと言わずに、真摯に会話を続けられました。その人生や心の深い所に触れながら、なお彼女との時を楽しまれました。傷ついてガードを堅くして、皮肉やすり替えで応えてきた彼女が、イエスと話すうちに自分についての「ほんとう」を語ります。ガードを下ろし、肩の力を抜き、自分のありのままを知っておられるイエスと語るようになる[5]。そして、何とその方こそ、来たるべきキリストだと分かる話なのです。

2.私のしたこと全部を

 「霊」といえば「第六感」や「霊感が強い」などと言うように、人間の普通の感覚以上の特別な感性のようなイメージがあるのではないでしょうか。聖書が言う霊はその逆です。人間の最も根本にあるのが霊です。五感や理性も失う時が来るでしょうが、人間が霊的な存在で、神との深い繋がりの中で生かされる必要がある事は決して失われることがありません。神が霊であると言うのも、フワフワとした捉え所のないお方であるのとは反対に、最も人格的であられるということです。ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません[6]。場所が大事なのではありませんし、場所はどこでも心がこもっていれば良いのだ、と簡単に言って済ませることでもないのです[7]。恍惚した状態になるとか、感情的に高揚した気分で礼拝するとか、そういう事ではなく、もっと私たちの心の奥深くでの礼拝のことです。

 その実例が、このサマリヤの女性です。彼女にとってそれまで「礼拝」とは、自分には縁のないものだったでしょう。今でも誰とも会いたくないのなら、将来メシヤが来られてもその礼拝の輪に自分が入れてもらえるか、入りたいかさえ分からなかったのではないでしょうか。そもそもユダヤ人の言い分が正しくてサマリヤ人が間違っているなら、絶望するしかありません。礼拝とは自分にはあまりにもかけ離れた話であり、自分の今の人生を何とかするだけで必死でした[8]。でも、その自分に語りかけた人がいて、「わたしがキリストだ」と言うのです。彼女はせっかく水を汲みに来たのに水瓶を置いて街に行き、顔も遭わせたくなかったはずの人々に、

29「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

と言い回ります。自分のしたことを全部ありのままに知りつつ、その自分と相対(あいたい)してくださる方と出会った。若い頃の魅力も消え、刺々しい言葉しか出てこない彼女のガードも含めて、イエスは彼女を受け止められた。これこそ、彼女にとって霊的な出会いでした。18節でイエスが

「あなたが言ったことはほんとうです」

と仰ったのも、23、24節の

「まこと」

に通じます[9]

「霊とまことによる」

礼拝とは、誠実なふりをするとか自分の現実は棚上げして神に喜ばれようとする礼拝ではなく、自分の全部を知っておられる方、自分の全ての恥や渇きや傷、人に合わせる顔のない、孤独で淋しい霊的な現実を、受け止めておられる方の前に立つ礼拝なのです。

3.神は礼拝者を求めておられるから

 私たちはつい、「神は霊とまことによって礼拝することを求めておられるから、私は礼拝者として不十分だ」と減点思考で考えやすいものです。私自身、今までの50年近い礼拝生活で、心が神だけに向かい、雑念や余計なことを一切考えない礼拝をしたことなど一度もありません。主の祈りだけでも、心がさ迷わずに唱えたことなどありません[10]。私たちの努力で真の礼拝者になることは絶望的です。でも、主がそれを求めておられるのですから、希望があります。やがて真の礼拝者となる日に向けて、私たちは今途中にいるのです。今はまだ、礼拝の最中にも、人の仕草が気になったり、礼拝後の食事や今週の楽しみ、あるいは心配事を考えたりするでしょう。でも、そのような心配、お節介や夢を抱く私たちの全てを主はご存じです。私たちのありのままを、主は知っておられます。そういう人生で私たちがイエスから、生ける水を頂いて、渇くことなく永遠のいのちへの水が湧き出る歩みをさせたいと主は願っておられるのです。

 サマリヤの女は、このイエスの言葉に、そんな魔法の水があるなら、もうここに来なくてもいいよう、その水を下さいよと、本気とも皮肉ともつかない言葉を吐きました。でも彼女のもっと大きな誤解は、今まで男性や結婚で幸せになろう、自分の心の渇きを癒やそうと思ってきたことでしょう[11]。それは私たちにも重なります。そういう誤解を続ける人生で、すべてを知っておられる主と出会い、生ける水を下さって、私たちの心が潤される経験が

「永遠のいのちへの水」

となっていくのです。自分の心の渇きを主が知って、私たちが願いもしなかった深い癒やしと潤いを下さる。そういう体験を今ここで重ねながら、私たちは心から神を喜び、ただの習慣や宗教行事としての礼拝ではなくて、自分の全存在で礼拝する者とされていくのです[12]

 聖書は「永遠のいのち」を語ります。やがて、永遠に神を礼拝する栄光の御国が来ると語ります。それは、フワフワとした楽園の天国ではなく、永遠に神の栄光を見て、永遠に心から神を礼拝し、神の素晴らしさを称える神の国です。とても想像できないです。でも神は、私たちが神を永遠に、霊とまことをもって礼拝するようにしたいのです。神を喜び褒め称えずにはいられないように、今私たちを慰め、潤し、自分に向き合わせ、隠れた生き方から喜んで人に語るような生き方を下さるのです。神の素晴らしさは、やがてでないと分からないのでもなく、今の私たちの深い渇きに触れます。いつか飽きたり色褪せたりするものでもなく、むしろ、永遠に輝きを増していきます。そういう素晴らしい神だからこそ、霊とまことをもって神を礼拝するに価するのです。やがて神を永遠に礼拝して過ごすというゴールに、希望を置きましょう。

「主よ。あなたを純粋に礼拝するなど遠すぎるように思えます。しかし、あなたは私たちの全てを知り、ともにおられ、深い渇きを慰め、呻きを聞き給う、素晴らしい方です。その深い恵みを主イエスにおいて味わい知りながら、霊とまことによる真の礼拝者とされていく御心を感謝します。今週もそれぞれの現場で、恵みに驚かされ、心からの礼拝をささげさせてください」

ヴァルトミュラー作「キリストとサマリアの女」(大塚国際美術館で見られます)

[1] この手のお話しの典型的なものは「あしながおじさん」。映画では「ユー・ガット・メール」など多数あります。

[2] イエスが人として疲れて動けず、弟子たちも使いに出して孤独であった時、この出来事がありました。サマリヤの社会から外れた女ひとりに遭うことを通して、イエスの御業が広がりました。私たちも、この励ましを大事にしましょう。今、ここで休むこと、遠回りをすること、限界を認めて立ち止まることをも、神が何かの始まりや出会いとなさるかもしれないのですから。

[3] イエスとの出会いは、驚きから始まりました。霊とまことによる、神への真の礼拝は、人間にとって驚き抜きにはあり得ません。「ユダヤ人がサマリヤ人に水を乞うことなどないはず。ラビが女に話しかけることなどあり得ないはず。キリストがこんな所に来ることなどないはず。離婚を繰り返し、今は同棲している自分など、温かく話しかけてもらえることなどないはず」。そういう常識を逸脱する方こそ神であると知ることが、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」となり、「神よ。あなたは、それをさげすまれません」という告白になるのです(詩篇五一17)。

[4] あるいは「今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」とは、「夫ではない男性と一緒に住んでいる」よりも、「他の女性の夫と、夫婦のような関係になっている」かもしれません。

[5] この女との会話で、イエスは高度な宗教教義や高尚なお説教などはなさいません。彼女と会話し、「いのちの水」「希望」を示されます。のらりくらりと話しをかわす彼女をさえ蔑むことなく、対話し、向かい合われることによってその心を開かせました。揚げ足を取り、ユダヤ人とサマリヤ人では必ず決裂すると分かっているような難問をふっかけ、わざわざ関係を破壊しようとする彼女に、最後まで付き合われたキリストとの出会いこそ、「霊とまことによって父を礼拝する」者へと変えられて行く始まりなのです。

[6] 「霊」は、聖霊の働きか、人間の霊か、という問いは不毛です。神が霊であるからこそ、礼拝は霊的なものであり、即ち、聖霊が働いて、人間の霊を神賛美へと向かわせるものです。聖霊なしに人間が自分の霊だけで礼拝することはありません。同時に、聖霊が働いているが人間の側では形式的、ということもあり得ません。この女性を考えてください。神は彼女と場所の論争や形式の要求などなさらないし、彼女の過去や傷、問題を知り、寄り添い、真実を語らせることで彼女に主を慕い信じずにはおれない霊を整えられました。ここで用いられる「水」は聖霊のシンボルです。聖霊の働きによって、人の霊が息を吹き返すのです。どちらか、という問いは無意味です。

[7] 勿論、場所は重要ではない、とは、爆弾発言でした。今も私たちがこだわりやすい点(服装や雰囲気、荘厳さや言い回し、そうした入口に過ぎないもの)を越えて、神が褒め称えられる礼拝、私たちが神を霊とまことをもって礼拝する日が来ると言われるのです。そして、そこにこそ私たちの希望があります。

[8] 彼女の男性遍歴は、深い霊的な渇きと、現実逃避を伺わせます。しかし、五回も離婚をして、もう若くはなくなり、今の夫ならぬ男性との生活という現在の着地点が感じさせるように、今はさすがにそのような関係にも疲れていたのかもしれません。自分でも自分に嫌気が指し、目を背けていた心境が想像できます。

[9] 18節「ほんとう」はアレーセース(形容詞)、23節「まこと」はアレーセイア(名詞)です。

[10] しかし、そんな自分だからこそ、主が教えてくださった主の祈りを繰り返し、礼拝に自分を起き続けることは恵みなのだと思います。なぜなら、私たちに「霊とまことによって礼拝を捧げよ」と命じる神ではなく、神が私たちをそのような者となることを求めて、私たちに近づき、私たちの霊の深くに触れてくださる。そこにこそ、私たちの希望があるのだからです。

[11] それが五回も失敗して、半分諦めつつ、今は自分の夫でもない男性と暮らして、この先どうなるか分からない生活を続けながら、そこから感じる安心や喜びが全てだと思っていたのです。

[12] 礼拝は、永遠の仕事です。神を喜び、神に栄光を帰することは、私たちの主な目的です(ウェストミンスター小教理問答1)。前回のヨブ記を読んでも、聖書の諸告白(十戒、主の祈り、その他)を読んでも、なんという高いビジョンでしょうか。しかし、それこそ神の私たちに対する目的です。私たちが及ばないとしても、そこにゴールがあると知りましょう。これは本当に慰めに満ちた、素晴らしい、唯一の価値あることなのですから。

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問38「世界一有名な悪者」ルカ23章13―25節

2016-11-06 20:46:36 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/11/06 ハイデルベルグ信仰問答38「世界一有名な悪者」ルカ23章13―25節

 「世界一有名な悪者」と言えば、誰だと思いますか。「かいけつゾロリ」なら「オレ様だ」と言うでしょうが、もっと昔から、世界中で知られているのが、今の聖書箇所に出て来た、「ポンテオ・ピラト」という人です。なんと言っても、使徒信条を唱えている世界中の教会で、毎週、キリストの十字架の死の責任者として告白され続けている。二千年近くにわたって、何億人もの人が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言ってきたのですし、今も唱えられ続けているのですから、この記録を破る人は当分現れそうにありません。今日は、使徒信条のこの部分からお話ししましょう。

問38 なぜその方は、裁判官「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しみを受けられたのですか。

答 それは、罪のないこの方がこの世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判からわたしたちを免れさせるためでした。

 さて、気づきますか。ここではポンテオ・ピラトのせいでキリストは苦しみを受けたのだ、という言い方ではないのですね。むしろ、キリストが自らポンテオ・ピラトのもとに行くことをよしとされて、苦しみをお受けになった、という言い方です。そして、それが、私たちに下されるはずの神の厳しい審判から、私たちを免れさせるという目的でなされたこと、と言っています。ですから、ピラトを悪者呼ばわりして、「ピラトさえいなければイエス様は十字架に死なずに済んだのに」と言うことではないのですね。イエスは、ご自分からピラトのもとで裁判を受け、十字架にかかる道を選んでくださった。そこには積極的な意味があるのです。

 この使徒信条が造られた初代教会には、間違った教えとの戦いがありました。それは「グノーシス主義」と呼ばれますが、その考えだと、物質とか肉体のこの世界は汚れていて価値がないとされます。そう考える教えでは、キリストも、本当に人間になるなんてはずがなく、十字架で苦しんだりするわけがないと宣伝しました。神が肉体をとったり、苦しんだり、死んだりする事など信じないのがグノーシス主義だったのです。けれども聖書はそうは言いません。本当にキリストは人間になり、人間として生活し、苦しみを受け、十字架にかかり、死なれたのです。ですから、使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言うのは、本当にキリストは歴史的な事実として、苦しみを受け、死なれたのですと告白する確認でもあったのです。

 ポンテオ・ピラト(ポンテオ家のピラト)は西暦二六年頃から三六年まで、ローマ皇帝から任命されて、ユダヤ地方の総督として統治していた実在の人物です。十年の在任中、冷酷な行動で、あまりユダヤの議会とはよい関係が築けず、最後は総督を辞めさせられ、ローマに召喚されます。その歴史上の人物であるピラトの許で、確かにキリストは裁判にかけられ、十字架についたのです。そして、本当にキリストが苦しみを受けられたからこそ、今のこの私たちの身体や生活が、神の厳しい審判を免れて、本当に罪を赦され、そして神の民として生きているのだ、という告白になるのです。

イザヤ五三4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

Ⅱコリント五21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

 私たちの病、痛み、罪を担ってくださいました。それを見た人は、あんな苦しい目に遭うのは、神の罰に違いないと思うほど、生々しい苦しみでした。でもそれは、本当に私たちの罪をキリストが負って、私たちと一つとなってくださった証しなのです。

 ではピラトの名前が使徒信条に出てくるのは、彼にとって運悪く、ということなのでしょうか。世界一有名な悪者の汚名を着せられてしまった、可哀想なピラト、なのでしょうか。ルカ23章ではどうでしょう。ピラトはイエスの無罪を信じ、最後まで釈放に向けて努力していました。三度もイエスには罪が見当たらないと言っています。福音書はピラトの努力も認めています。しかし、最後には暴動を恐れて、無実のイエスを死刑にしました。悪くないと分かっている人を、死刑にすることを許可してしまったのです。それは、ピラトの狡さや曖昧さ、自己保身のためでもありました。自分に被害が及ぶことを恐れて、悪事を黙認してしまいました。このピラトの責任は見逃されません。

 でもそれは、ピラトだけではありませんね。私たちもよくしがちです。自分に責任があることを、曲げてしまったり、いじめを見て見ぬふりをしたり。

 アメリカでは、奴隷制度、黒人差別という酷い習慣がありました。その差別の撤廃のために戦った、マーティン・ルーサー・キングという牧師は、こう言いました。

 「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。 沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である。」

 この言葉は、黒人差別が悪いと分かっていながら、沈黙していた人々を指しています。黒人差別だけでなく、悪いと分かっていてもそれに沈黙しているなら、最大の悲劇はいくらでも起きるのです。そう考えると、イエスが無実だと分かっていながら、結局は黙ってしまったピラトは、私たちの姿だとも言えます。人類の代表として、ピラトは裁判の責任者となり、歪んだ判決を通しました。そして、イエスはそういう人間の歪められた裁判の真ん中に来られて、ご自身の命を差し出されたのでした。

 ユダヤの総督として、ピラトの権力は相当なものでした。ユダヤ民族を統治し、議会も正式な処刑は総督の許可がなければ出来なかったようです。地位も財産も最高級で、当時のセレブでした。でもそんな地位まで上り詰めて、贅を極めた生活をしていても、彼は幸せだったのでしょうか。地位を失うことを恐れて、無実の聖なる人物を十字架にかけたことは、彼の心をどんなに苦しめたことでしょう。そして、彼の晩年は惨めな更迭と、自殺だったと伝えられています。でも、ピラトはキリスト者になった、という伝説もあります。定かではありません。しかし、確かなことは、イエスがポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けることを選ばれたこと、そして、私たちのもとにも来て下さって、どんな地位や贅沢よりも遙かに素晴らしい、新しい歩みを下さることです。

 

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ヨブ記一章13-22節「このようになっても」 一書説教 ヨブ記

2016-11-06 20:39:12 | 説教

2016/11/06 「ヨブ記 このようになっても」ヨブ記一章13-22節

 「ヨブ記」を初めて読む方もいるでしょうか。ヨブという、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人が、今読みましたように、牛や羊や駱駝など全財産も、子ども十人も失う大惨事で幕を開けて、展開していく劇的な書です。苦しみと言えばヨブ記、という書です。

1.答は最後までない

 ヨブはこの大惨事の中で、悲しみを表しつつも、地にひれ伏して神を礼拝し、

21…「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

と言います。しかし、次の二章では、更にヨブは全身を悪性の皮膚病に覆われて、痒みをかきむしりながら過ごすのです。それでも、ヨブは、そのような中で神を呪うことはせず、

二10…「…私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」

と言い切るのです。しかしです。それでも、ヨブの苦しみは終わりません。訪ねてきて、一緒に黙って悲しんでくれた三人の友人の友も、その苦しみを分かってはくれません。週報に書きましたように、三ラウンドの対話をするのですが、ヨブは友人たちの答に納得できない。どうしてこのような禍に遭うのか、神の答が聞きたいのに、神は応えてくださらないとヨブは苦しみ続けるのです。その後に、若い友人のエリフがもっと鋭くヨブの考え方の問題を突いてくると、今度はヨブは何も言い返せません。そして、最後に、主ご自身が登場されて、ヨブに語りかけられるのですね。でも、主はそこでもヨブに、どうしてこのような苦しみに遭わせたのかは一言も仰らないのです。結局ヨブは最後まで、なぜ自分にこんな禍が起きたのかを教えられることはないのです。しかし、実はこれこそが、ヨブ記のテーマの一つなのですね[1]

 一章の6節以下に、神である主に対して、サタンがヨブの信仰を批判します。

 9サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

10あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。

11しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」

2.神を恐れ、礼拝する「理由」

 つまり結論から言えば、サタンは「ヨブが神を恐れるのは自分に利益があるからだ。神を心から恐れ、信じて礼拝しているのではない。自分にとっての有利な条件がなくなれば、神を信じることは止めるに違いない」と言っているのです。人間が神を恐れるのは結局、御利益があるからであって、神を恐れる見返りがなくなれば、信仰など捨ててしまう。自分本位の信心に過ぎないのですよ、とサタンはせせら笑っているのです。しかし、神は既に、ご自身のしもべであるヨブの信仰がそのようなものではないとご存じでした[2]。神が求められるのは私たちとの心と心の関係(人格的関係)です。御利益や繁栄のためではなく、ただ神が神である故に恐れるのが本当の信仰です。ですから、ヨブの財産や健康が奪われることを許されましたし、その大変な経験を通して、更にヨブを深い神との信頼関係に導き入れようとされたのです。

 さあ、それがこの苦難の目的ですから、ヨブは最後まで苦難の意味を知らされません。意味が分からない禍の中でも神を恐れ続けるかが問われたのです。そう説明されたら意味がなくなります。だからヨブはこの試練の意味は分かりません。最後に登場された主ご自身も、ヨブに説明はなさいません。それでもヨブは、祝福だけではなく苦しみをも与えられる神を礼拝しました。全てを奪われても、どのようになっても、神が神である故に、神を恐れたのでした。

 ヨブの友人たちは違いました。こんな禍がお前に降りかかったのは、何かヨブに問題があったからに違いない。だから謙虚になり、神の前に悔い改めて、神に自分の非を認めよ。そうしたら神は憐れみ深く、お前を回復させて下さるだろう、と言います。一見これは正しそうに見えます。しかし、ここには大きな問題が二つあります。一つは現実と違う、ということです。現実には、問題がなくとも禍に遭う人は大勢います。悪者が栄え、不正の報いを受けることなく平穏に暮らし、長寿を全うしています。「因果応報」では現実の世界は説明できません。

 もっと大きいのは、結局、神を信じるのは自分のため、御利益のためだ、という問題です[3]。自分にとっての「理由」があるから神を礼拝するのです。ヨブの友人たちが考える神は、正しく力があり憐れみもあります。でも、「だから謙虚に神を求めたら、神はまた回復させてくださる」という関係しか語りません。しかし、最後に主は、ヨブの友人たちを責め、彼らの語った一見正しい勧めは、「わたしについて真実を語らなかった」ときっぱりと仰せられるのです[4]

 とはいえ、それは最後までヨブには明らかにされません。答のない中で、なお神を模索すること自体がヨブ記のテーマですから、私が先回りして種明かしを話さず、ぜひ皆さんがそれぞれ、ヨブ記を読んでください。分かりやすい書ではありませんが、それでもヨブの苦悩や、一見正しそうな友人たちの間違いも含めて、ヨブの辿った経験を読み、思い巡らしてください[5]

3.ヨブ記の励まし 三つだけ

 ヨブ記の存在自体、古代から、人間が苦しんできたことの証拠でもあります。強盗や自然災害、破産や病気などが起きて、「何故?」と問わずにおれないのが私たちの現実の生活です[6]。ヨブ記は、そういう時に、神の祟りだとか裁きだとは絶対に決めつけてはならない、単純な解決方法などを安易に語ることを慎むよう教えてくれます。信仰や祈り、悔い改めは大事ですけれど、何かをすれば問題が解決するなどと言うことは憚らなければならないことを教えてくれます。神は、正しく憐れみ深いお方ですが、私たちの理解を遙かに超えたお方です。神のなさることに対して、本人の罪や間違いのせいだとか、こういう目的やメッセージだとか、分かったようなことをみだりに語ってはならないのです。むしろ、最初の友人たちのように、ともに悲しみ、黙って一緒に座っていることのほうが遙かに慰めになるのだと教えられるのです。

 二つ目は、新約聖書でヤコブが勧めている通り、ヨブの物語そのものが私たちの希望です。

ヤコブ五11見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

 ヨブの苦難と最後の結末は、私たちにとってやはり大切な励ましです。希望なのです。

 最後は、神は私たちをも理由もなく愛しておられます。私たちが私たちである故に、私たちを愛しておられます。私たちがどのようになっても、下心や誤解があり、大きな失敗をし、神の意に添わなくても、神は私たちを愛してくださるのです。私たちが私たちである故に、神は私たちを喜び、尊び、ともにおられます。そのような本当に深く、親しく、状況に煩わされない関係こそ、神は私たちとの間に育まれるのです[7]。そのために、神のひとり子イエス・キリストがこの世に来られました。ヨブ以上に全てを奪われました。ヨブ以上に、そのからだはボロボロにされました。ヨブ以上に孤独になり、沈黙の中におかれました。ヨブの友人はヨブを責めましたが、イエスの敵たちは「もし神の子なら自分を救え」と嘲笑い、友であった弟子たちは裏切り、見捨て、関係を否定しました。イエスが受けたその不条理な苦しみは、私たちを愛されたから-私たちが神を心から愛して、どのようになっても神を神として崇める生き方へと導き入れてくださるためでした[8]。その主の苦しみを覚えて、主の聖晩餐に与りましょう。

「あなたは禍を通してさえ善をなさいます。そう信じるのが難しい闇夜にも、あなたは私たちとともにおられ、その闇を通らなければ分からない場所へと導いておられます。どうか私たちの心を支え、禍から守られること以上に、禍の最中にあってもあなたを信じる信仰を与えてください。ヨブ記を通して、私たち一人一人の歩みを照らし、励まし、希望とならせてください」



[1] ヨブ記のテーマは「苦しみや不正がこの世にあるのに、神は本当に正義の神なのか」という「神義論」ではありません。神が正しいことは、ヨブ記においては大前提なのです。むしろ、人間が神の正しさや信仰の利益性を理由に神を捨てる姿勢を問い詰める、といえます。

[2] ヨブ記が扱うのは、一般的な苦難ではなく、すでにヨブは神との契約関係の中にあった上での、主のしもべの苦難の問題です。主がヨブを必ず「わたしのしもべ」と呼ばれていること、ヨブが神を必ず「主」と呼んでいること、いけにえや対話があったこと。つまり、すでに主との親しい契約関係にあったことが強調されています。言い換えると、主の民とされていても、このような尋常ならざる苦難や悲劇に見舞われないという保証はどこにもない、ということでもあります。

[3] もちろん、そのような「苦しい時の神頼み」がすべて悪いわけではありません。苦しみを通して神を求めるというのは、病気の症状が堪えきれないために生活を改めるのと同様、きっかけとしては十分なのです。しかし、いつまでもそのような消極的な動機が「究極的な目的」とはき違えられたままでいるなら看過は出来ません。そして、ここで友人たちが述べているのは、神の理解そのものが人間中心的なものに留まった、神を恐れない勧告なのです。しかし、この事にさえ、私たちは神の謙虚を見ます。「神はあえて彼らの生活を、彼らにとって、より仕合わせでないものにしたまいます。わたしはこれを神の謙遜と呼びます。なぜなら、船が沈みかけてから降参するなんて-どうにもほかに方法がなくなってから、つまり、もはや大切に取っておく値打がなくなってから神のところに行き、「自分のもの」をささげるなんて情けないことです。もしも神が誇り高くいましたもうならば、そんなご都合主義の人間を受けいれたもうわけはないのです。けれども神は誇り高くありたまわないので、わたしたちを征服するために身を屈めてくださいます。わたしたちができることなら、何によらず、神以外のものを選ぶということをさえ明らかにしても、あるいはほかに何一つよきものを得る望みがなくなったために、仕方なく神の所に赴いてさえ、神はそんなわたしたちを受けいれてくださるのです。」(C・S・ルイス、『痛みの問題』、中村妙子訳、新教出版社、1964年、124頁)

[4] 四二7「さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。8今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのめに全焼のいけにえをささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。あなたがたはわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったが。」ここでは、ヨブを叱咤しつつも、ヨブの主に対する態度が基本的には「真実」であり、ヨブの友人たちの理解は根本的に「不真実」であったことが明らかにされています。同時に、ヨブの友人たちの理解で言えば、神を正しく理解しておらず、間違っていた彼らに、神はわざわいを下すことも十分あり得ましたが、主はそのように友人たちを機械的な正義で取り扱うことはなさらず、回復に向けての交わりを育てられたことも明らかです。

[5] ヨブは、主を信じておとなしくしていたわけではありません。主に対して激しい言葉を吐き、友人たちと激しく論争をしています。また、ヨブの理解には確かに限界があり、言い過ぎてしまった態度もありました。それをエリフはたしなめ、主ご自身も厳しく悔い改めを迫られます。しかし、ヨブが最後まで黙っていれば良かったかと言えば、そうではありません。41章では、黙ろうとしたヨブを、一層神は弾劾され、逃げることを許されません。踏み出さなければ、自分の間違い、悔い改めるべき問題にさえ気づけないのです。ただ黙ることではなく、主に心を包み隠さず申し述べたヨブの態度は、基本的には主から「真実を語った」とも言われるのです。

[6] それに対する人間の手っ取り早い解決は「因果応報」です。本人に問題があったに違いない、と考えるのです。そしてそういう発想に立つ限り、苦しみに遭った人に対しては、責めたり諭したり決めつける言葉しかかけられません。そして、神ご自身を深く信頼させることがありません。神は慈しみ深い方だと言っても、その前に人間が正しく生きれば、謙虚であれば、という条件が付きます。しかし、ヨブ記はそのよう考えとは全く違う土台を示します。

[7] 神を恐れるとは、理由があってはならないことです。なぜなら、三位一体の愛なる神が造られたこの世界では、人間の求めるのは利害や機能を第一とするのではない、人格的な愛の関係であるからです。神も私たちを、理由なしに無条件に愛されます。私たちが私たちである故に愛されます。そして私たちも、神を神である故に愛し、互いにも自分自身をも、無条件に愛することをもって、神の栄光を表すのです。ただし、神との関係に背いた堕落以来、私たちは神を無条件に恐れることはなくなりましたし、互いに愛し合うことも、損得抜きには出来ない、自己中心的な存在となっています。自分をさえ理由なしにではなく、業績や競争や好ましさの故に愛そうとします。しかし、主は、私たちのすべてがはぎ取られてなお、私たちを愛されるのです。

[8] ヨブ記には、この主への告白が、不思議なことに、ヨブの言葉の中で導かれていきます。十六19「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために」、十九25「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。」

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