2018/12/30 創世記2章18~25節「ひとりでは良くない」
聖書は神が世界をお造りになったという記録から始まっています。天地創造の記事から書き始めて、私たちが生きているこの世界が神の作品であること、創造者なる神の素晴らしい世界であることを出発点としています。そして、その世界を造る過程で、なんども神は一休みして世界を良しと見られたことが書かれています。それだけに、この2章18節は衝撃的です。
…「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
良くない。まず人を一人だけ作ってから、「人がひとりでいるのは良くない」とわざわざ言った上で、神はもう一人の人、女性を作るのです。とはいえ一27で既に「人を創造し、男と女に彼らを創造された」とありましたから[1]、最初から男と女で「人」だったのです。一人作ったら「どうもこれではマズい」と慌てたわけではありません。ただ二章では、「人がひとりでいるのは良くない」と言われた経緯を詳しく記すことによって、本当に人間が一人で生きる存在ではないこと、他者とともに生きるようにと造られたことを、念を押しています。
その上、19節では、神が
「あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って」
人の所に連れて来られたけれども、人はその中に「ふさわしい助け手が見つからなかった」という回り道をしています。家畜は役に立ちますし、鳥には人間にない力がありますが、そこに人は求める助け手を見つけられませんでした。ようやく神は、人に深い眠りを下され、その人のあばら骨から造り上げた一人の女を連れて来られた。こうして人は二人となった経緯が書かれています。
ところで、この部分は結婚の必要を教えるだけではありません。アダムとエバの結婚から始まる、あらゆる人間関係の出発点を教えてくれています。24節をよく読みましょう。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
人が親から離れること、親離れ、子離れが先に語られています。親離れした二人が夫婦となり、そこに子どもが与えられたら、またその子どもをやがては巣立たせて、新しい家庭形成をさせる。親離れと子離れ、人の「自立」が前提です。単純に、「結婚した方がいい」という話ではないのです。また、この後、人が神との約束を破って、罪が入ってしまった時、この夫婦は助け合うよりも、責任の擦り合いをし始めます。それ以降の創世記の家族は、アブラハムもイサクもヤコブも、家族の中で問題を抱えています。最初に神が人に妻を与え、親離れして自立して、家庭を作り、地に満たさせようとした段階とは異なる、色々な複雑な問題が入って来てしまいました。今でも、人の悩みの一番は人間関係ですし、夫婦、親子の関係は複雑です。単純に創世記二章の原則だけでは済まない、人間関係の壊れた現実が入ってきているのです。
それでも、
「人がひとりでいるのは良くない」
の言葉は大切で慰めに満ちた原点です。「一人でいた方が楽なんじゃないか、人間関係の悩みなんかないほうがずっと幸せなんじゃないか」と思いたがる人間に、神の言葉は、人が最初から男と女に作られた、ひとりでは良くない存在であると言われたスタートを踏まえさせています。人は、個人で独立して存在するものではないし、言葉を話すことのない動物や家畜やペットとだけ気楽に過ごせば良いようには見られていません。また、人との煩わしい関係に振り回されるよりも、神との関係だけで満たされる存在ではありません。神は人に
「わたしだけを見上げていれば満たされる。人は見る必要はない」
とは仰らずに「人はひとりでいるのは良くない」と仰いました。そして、似たような考えのもう一人の男ではなく、体の作りも発想も違う女性を「助け手」として作られました。自分とは全く違う人格の存在を「ふさわしい助け手」として与えられました。神は男と女という異なる特性を持つ二人が一緒に歩むことを良しとされました。人が一人でいるよりも、またよく似た二人がツーカーの息で助け合うでも良しとされず、違う二人で助けられ、一緒に歩む方が「良し」と思われたのです。譬えそれが、次の三章で、女の過ちで禁断の木の実を食べ、園から追放されることになっても、それでも人がひとりでいるよりも、二人で歩む方がよいと思われた。それは本当に深く大きな神の御心ですし、神がどんな方かを物語っています[2]。
神は人を、自分とは違う人格の存在と一緒に歩むことを願われるお方です。聖書が語っているのは、聖人君子や信仰のヒーローや、罪人が回心して心の清らかな人に変わる物語というよりも、むしろ、神が作られた個性的な顔ぶれの旅物語です。それぞれに違うメンバーが集まったチームが、旅の仲間としてぶつかり合い、笑い合い、足を引っ張ったり、助けたり、時に仲間割れしたり、信頼を壊したり、隠し事や悪巧みがバレてはもうお終いじゃないかと思ったり、それでも何とか旅を続けていく。旅を台無しにするような局面を何度も迎えては、また進んで行って、最終的には、ゴールに辿り着いて、喧嘩ばかりしていた人たちも本音をぶつけ合った上で、抱き合ったり乾杯したりするストーリーを思い浮かべてください。神が始めたのは、そんな始まりです。私たちが生かされているのは、そうした大きな物語です。互いに愛し合うとか、敵をも愛するという聖書の戒めは、ただの道徳ではなくて、この世界そのものが、神の大きなゴールを目指しているからです。私の理解や愛情なんかよりも、はるかに大きく、神は沢山のユニークな人を作られ、ともに歩ませ、その違いの中に働いてくださり、最後には、思いもかけない大団円を迎えさせてくださる。だから今ここでも、そうして下さる主に信頼を置き、御言葉に励まされ、教えられて、その最後を少し先取りした関係作りをしていくのです。
今年、結婚二十周年を迎えた友人が、記念日に寄せて、結婚を
「究極の異文化交流」
と表現していました。価値観も趣味も応援チームも違って、互いを認め諭し赦せるのが理想だと書いていました。その究極の異文化交流が、エデンの園で始まったのです。
「教会の始まりはエデンの園の二人」[3]。
人に最初から「異文化」体験をさせられた神は、その後も、違う文化や言語の異なる文化との出会いを与えられました。キリスト教会は、ユダヤ人と異邦人という異文化が、キリストにあって一つ神の家族とされた共同体です[4]。ヨハネの黙示録は、やがてキリストが再びおいでになると「あらゆる言語や民族」から数えきれない人が集まって、主を礼拝する将来を描きます[5]。途方もない多文化のパレードが始まるのです。エデンの園で始まった異文化交流は、こんなゴールへと向かう一歩だったのかも知れません。
21、22節には男の
「あばら骨を一人の女に」
造り上げたとあります。7節に人が「大地のちり」で作られたとあったのも、大地との関係性であって、無価値という事ではありませんでした。ここでも「肋骨」は男女の存在の結びつきです。親子だって、両親の細胞一つずつから出来たに過ぎないとも言えますが、深い繋がりがあります。繋がりつつ、別人格です。親子だからと自分の延長のように考えたり操作しようとしたりしてはならず、色々思う所はあってもいつまでも子ども扱いせず、大人扱いして独り立ちさせてあげる。親が子に与える影響は30%だと言いますから、全部が親のせいだと思わなくて良いのです。父と母を離れ、妻と結ばれ、という原則はすべての人間関係の始まりです。深い影響はあってもその人にはその人の人格があり、個性があり、人生がある。逆にどんなに理解できない相手、相容れない人であっても、そこに繋がりがあることを忘れない。繋がりと区別が「肋骨」に象徴されています。
神は、人間関係の面倒も問題も知りつつ、それでも一人でいるより、ともにいるほうが良いと言われました。だとしたら、最後は「ああ、一人じゃなくて良かった。あなたがいてくれて良かった。神様があなたを作ってくれて良かった」とお互いに皆で言い合える。必ずそう言い合えるはずです。そのために、今も神ご自身がどんなに工夫し、配慮しておられるでしょうか。主イエスご自身が人となり、私たちの痛みの真ん中に立って、間を取り持ってくださって、今も愛の中に支えてくださっていることでしょうか。その主の覚悟も、ここには聞こえてきます。
「愛である主。あなたが私たちを作られたのは、あなたの永遠のご計画にかなったことでした。愛の言葉を聴き続けさせてください。赦しや希望や癒やしを与え、この測り知れない慰めに立たせてください。この一年の人間関係や私たちの思いに、あなたの十字架の光が、復活の命が働きますように。悔い改めと希望をもって、私たちがお互いを受け取る事が出来ますように」
[1] 創世記一26「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」27神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
[2] 主イエスは、神の律法の最も大事な戒めは何かと聞かれて、こう答えられました。「イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。30あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』31第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」」(マルコ十二29)。こう仰ったイエスは、その後、弟子たちの足を奴隷のようになって洗った上で、弟子たちにも同じように足を洗い合い、仕え合い、愛し合うことを命じました。ヨハネ十三34「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」そして教会も主が私たちになさったのにならい、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合うよう語られています。主が愛されたように私たちが愛し合う。それは、この創造の時点で示されていることです。
[3] 4世紀のアウグスティヌスの言葉だったと記憶しています。
[4] ガラテヤ三28「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」、エペソ二19「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」
[5] ヨハネの黙示録七9「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」