聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記2章18~25節「ひとりでは良くない」 04

2018-12-30 14:14:59 | 聖書の物語の全体像

2018/12/30 創世記2章18~25節「ひとりでは良くない」

 聖書は神が世界をお造りになったという記録から始まっています。天地創造の記事から書き始めて、私たちが生きているこの世界が神の作品であること、創造者なる神の素晴らしい世界であることを出発点としています。そして、その世界を造る過程で、なんども神は一休みして世界を良しと見られたことが書かれています。それだけに、この2章18節は衝撃的です。

…「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」

 良くない。まず人を一人だけ作ってから、「人がひとりでいるのは良くない」とわざわざ言った上で、神はもう一人の人、女性を作るのです。とはいえ一27で既に「人を創造し、男と女に彼らを創造された」とありましたから[1]、最初から男と女で「人」だったのです。一人作ったら「どうもこれではマズい」と慌てたわけではありません。ただ二章では、「人がひとりでいるのは良くない」と言われた経緯を詳しく記すことによって、本当に人間が一人で生きる存在ではないこと、他者とともに生きるようにと造られたことを、念を押しています。

 その上、19節では、神が

「あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って」

人の所に連れて来られたけれども、人はその中に「ふさわしい助け手が見つからなかった」という回り道をしています。家畜は役に立ちますし、鳥には人間にない力がありますが、そこに人は求める助け手を見つけられませんでした。ようやく神は、人に深い眠りを下され、その人のあばら骨から造り上げた一人の女を連れて来られた。こうして人は二人となった経緯が書かれています。

 ところで、この部分は結婚の必要を教えるだけではありません。アダムとエバの結婚から始まる、あらゆる人間関係の出発点を教えてくれています。24節をよく読みましょう。

それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

 人が親から離れること、親離れ、子離れが先に語られています。親離れした二人が夫婦となり、そこに子どもが与えられたら、またその子どもをやがては巣立たせて、新しい家庭形成をさせる。親離れと子離れ、人の「自立」が前提です。単純に、「結婚した方がいい」という話ではないのです。また、この後、人が神との約束を破って、罪が入ってしまった時、この夫婦は助け合うよりも、責任の擦り合いをし始めます。それ以降の創世記の家族は、アブラハムもイサクもヤコブも、家族の中で問題を抱えています。最初に神が人に妻を与え、親離れして自立して、家庭を作り、地に満たさせようとした段階とは異なる、色々な複雑な問題が入って来てしまいました。今でも、人の悩みの一番は人間関係ですし、夫婦、親子の関係は複雑です。単純に創世記二章の原則だけでは済まない、人間関係の壊れた現実が入ってきているのです。

 それでも、

「人がひとりでいるのは良くない」

の言葉は大切で慰めに満ちた原点です。「一人でいた方が楽なんじゃないか、人間関係の悩みなんかないほうがずっと幸せなんじゃないか」と思いたがる人間に、神の言葉は、人が最初から男と女に作られた、ひとりでは良くない存在であると言われたスタートを踏まえさせています。人は、個人で独立して存在するものではないし、言葉を話すことのない動物や家畜やペットとだけ気楽に過ごせば良いようには見られていません。また、人との煩わしい関係に振り回されるよりも、神との関係だけで満たされる存在ではありません。神は人に

「わたしだけを見上げていれば満たされる。人は見る必要はない」

とは仰らずに「人はひとりでいるのは良くない」と仰いました。そして、似たような考えのもう一人の男ではなく、体の作りも発想も違う女性を「助け手」として作られました。自分とは全く違う人格の存在を「ふさわしい助け手」として与えられました。神は男と女という異なる特性を持つ二人が一緒に歩むことを良しとされました。人が一人でいるよりも、またよく似た二人がツーカーの息で助け合うでも良しとされず、違う二人で助けられ、一緒に歩む方が「良し」と思われたのです。譬えそれが、次の三章で、女の過ちで禁断の木の実を食べ、園から追放されることになっても、それでも人がひとりでいるよりも、二人で歩む方がよいと思われた。それは本当に深く大きな神の御心ですし、神がどんな方かを物語っています[2]

 神は人を、自分とは違う人格の存在と一緒に歩むことを願われるお方です。聖書が語っているのは、聖人君子や信仰のヒーローや、罪人が回心して心の清らかな人に変わる物語というよりも、むしろ、神が作られた個性的な顔ぶれの旅物語です。それぞれに違うメンバーが集まったチームが、旅の仲間としてぶつかり合い、笑い合い、足を引っ張ったり、助けたり、時に仲間割れしたり、信頼を壊したり、隠し事や悪巧みがバレてはもうお終いじゃないかと思ったり、それでも何とか旅を続けていく。旅を台無しにするような局面を何度も迎えては、また進んで行って、最終的には、ゴールに辿り着いて、喧嘩ばかりしていた人たちも本音をぶつけ合った上で、抱き合ったり乾杯したりするストーリーを思い浮かべてください。神が始めたのは、そんな始まりです。私たちが生かされているのは、そうした大きな物語です。互いに愛し合うとか、敵をも愛するという聖書の戒めは、ただの道徳ではなくて、この世界そのものが、神の大きなゴールを目指しているからです。私の理解や愛情なんかよりも、はるかに大きく、神は沢山のユニークな人を作られ、ともに歩ませ、その違いの中に働いてくださり、最後には、思いもかけない大団円を迎えさせてくださる。だから今ここでも、そうして下さる主に信頼を置き、御言葉に励まされ、教えられて、その最後を少し先取りした関係作りをしていくのです。

 今年、結婚二十周年を迎えた友人が、記念日に寄せて、結婚を

「究極の異文化交流」

と表現していました。価値観も趣味も応援チームも違って、互いを認め諭し赦せるのが理想だと書いていました。その究極の異文化交流が、エデンの園で始まったのです。

「教会の始まりはエデンの園の二人」[3]

 人に最初から「異文化」体験をさせられた神は、その後も、違う文化や言語の異なる文化との出会いを与えられました。キリスト教会は、ユダヤ人と異邦人という異文化が、キリストにあって一つ神の家族とされた共同体です[4]。ヨハネの黙示録は、やがてキリストが再びおいでになると「あらゆる言語や民族」から数えきれない人が集まって、主を礼拝する将来を描きます[5]。途方もない多文化のパレードが始まるのです。エデンの園で始まった異文化交流は、こんなゴールへと向かう一歩だったのかも知れません。

 21、22節には男の

「あばら骨を一人の女に」

造り上げたとあります。7節に人が「大地のちり」で作られたとあったのも、大地との関係性であって、無価値という事ではありませんでした。ここでも「肋骨」は男女の存在の結びつきです。親子だって、両親の細胞一つずつから出来たに過ぎないとも言えますが、深い繋がりがあります。繋がりつつ、別人格です。親子だからと自分の延長のように考えたり操作しようとしたりしてはならず、色々思う所はあってもいつまでも子ども扱いせず、大人扱いして独り立ちさせてあげる。親が子に与える影響は30%だと言いますから、全部が親のせいだと思わなくて良いのです。父と母を離れ、妻と結ばれ、という原則はすべての人間関係の始まりです。深い影響はあってもその人にはその人の人格があり、個性があり、人生がある。逆にどんなに理解できない相手、相容れない人であっても、そこに繋がりがあることを忘れない。繋がりと区別が「肋骨」に象徴されています。

 神は、人間関係の面倒も問題も知りつつ、それでも一人でいるより、ともにいるほうが良いと言われました。だとしたら、最後は「ああ、一人じゃなくて良かった。あなたがいてくれて良かった。神様があなたを作ってくれて良かった」とお互いに皆で言い合える。必ずそう言い合えるはずです。そのために、今も神ご自身がどんなに工夫し、配慮しておられるでしょうか。主イエスご自身が人となり、私たちの痛みの真ん中に立って、間を取り持ってくださって、今も愛の中に支えてくださっていることでしょうか。その主の覚悟も、ここには聞こえてきます。

「愛である主。あなたが私たちを作られたのは、あなたの永遠のご計画にかなったことでした。愛の言葉を聴き続けさせてください。赦しや希望や癒やしを与え、この測り知れない慰めに立たせてください。この一年の人間関係や私たちの思いに、あなたの十字架の光が、復活の命が働きますように。悔い改めと希望をもって、私たちがお互いを受け取る事が出来ますように」



[1] 創世記一26「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」27神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

[2] 主イエスは、神の律法の最も大事な戒めは何かと聞かれて、こう答えられました。「イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。30あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』31第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」」(マルコ十二29)。こう仰ったイエスは、その後、弟子たちの足を奴隷のようになって洗った上で、弟子たちにも同じように足を洗い合い、仕え合い、愛し合うことを命じました。ヨハネ十三34「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」そして教会も主が私たちになさったのにならい、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合うよう語られています。主が愛されたように私たちが愛し合う。それは、この創造の時点で示されていることです。

[3] 4世紀のアウグスティヌスの言葉だったと記憶しています。

[4] ガラテヤ三28「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」、エペソ二19「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」

[5] ヨハネの黙示録七9「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マタイ2章1-12節「東から来た博士らの礼拝」 クリスマス夕拝

2018-12-24 06:45:44 | 聖書の物語の全体像

2018/12/23 マタイ2章1-12節「東から来た博士らの礼拝」 クリスマス夕拝

 聖書のキリスト誕生記事の一つが今日の箇所です。東の国の博士たちが、星を頼りにやって来て、お生まれになったイエスを礼拝して帰って行った、という出来事です。この博士たち、遠い東の国からやってきた、というだけでドラマチックです。その星を見た時期から「二歳以下の男の子」と計算されていますから、博士たちの旅は二年近く経っていたのかもしれません。往復3~4年という長旅です。それでも、この博士たちはただお生まれになったキリストを礼拝するために、やってきたのです。旅の危険や長い旅の膨大な費用も厭いませんでした。留守中、自分の仕事や立場を奪い取る人も出て来るかも知れません。それでも彼らは、お生まれになった王を拝みたい、とやってきました。そうしてやって来た博士たちの登場は、クリスマスの物語に存在感を輝かせています。イエスを礼拝するのは、どんな犠牲も惜しくない価値あることだと教えてくれます。

 けれども、この博士たちの来訪はエルサレムの人々には歓迎されませんでした。博士たちが

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」

と言った時、当時のヘロデ王は動揺して、エルサレム中の人々も王と同じく、不安に揺れたのです。ヘロデ王は、正式な王ではありませんでした。ユダヤは当時ローマ帝国の属国に貶められていました。ヘロデはローマ帝国に取り入って、「大王」という地位を手にしていたに過ぎません。ですからここでも、最後にはベツレヘムの二歳以下の男の子たちを皆殺しにしてまで、キリストを葬り去ろうとします。自分の地位が脅かされたと思って、こんなひどい抵抗をしています。でも、ヘロデだけではありません。エルサレム中の人々も王と同じであった。エルサレムの人も、ヘロデに反対しつつも、この博士たちの登場には素直に喜べなかったのです。そして、ベツレヘムの幼子たちの虐殺に反対することもなく、見殺しにしました。そして、やがてはキリストがおいでになったとき、最初は歓迎していましたが、段々と冷ややかになっていきます。最後にエルサレムにもう一度イエスがおいでになった時、大興奮して歓迎しますが、その五日後には「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫ぶのです。イエスがおいでになった時、その所にいた人々はイエスを歓迎しませんでした。それが、聖書に記しているクリスマスの出来事でした。

 博士たちが、星を見てユダヤにやって来たのは、その何百年も前に、ユダヤ人たちが東の方に流れていき、神の約束を伝えていたからでしょう。神がやがて永遠の王を送って下さる。その王を「一つの星」と呼んでいる箇所があるので、そのことが東の国で伝わっていったのでしょう。神は、やがて一人の王を起こすと約束しておられました。けれども、その約束を与えられた人たちは、神が送ってくれる王よりも、自分たちが王でいたかった。神よりも、自分たちが自分の神や自分の王になりたいと思っていたのです。いいえユダヤ人だけではありません。私たちもそうです。神に自分をお任せするよりも、自分の好きにしていたい。自分を守りたい。そのために、ベツレヘムの幼子たちや、他の人たちが犠牲になるとしてもしかたないと思いたい。それが人間の本心です。

 そういう私たちのため、神はとても風変わりなところから私たちに語りかけます。東の国からの博士たちがそうでした。ユダヤの人々にとっては「異邦人」です。割礼を受けていない、神の民に属さない人、一緒に食事をすることも嫌がるし、歓迎するなんて気はさらさら起きないような別世界の人でした。そんな博士たちが

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」

と現れたのです。それはとてもショックな出来事でした。そして、それ自体が、神の大きな投げかけでした。自分たちはユダヤ人だから、神の民だから特別なんだと思っていたら、神は、異邦人たちに新しい王の誕生を知らせてくださったのです。ユダヤ人の王がお生まれになったと異邦人から教えられたのです。明らかにこの博士たちのほうが真面目で熱心な礼拝者です。そして、この博士たちこそ、最初にイエスを礼拝した礼拝者となったのです。この時だけではありません。イエスはこの後も、ユダヤ社会では除け者にされていた、女性や子ども、取税人や罪人、異邦人を受け入れられます。居場所のない人の友となりました。そして最後は罪人の一人となって、十字架に殺される生き方を進まれました。それは人の予想を覆す、王のお姿です。

 クリスマスから始まるイエスの記事を通して、イエスがどんな王かを教えられます。イエスはユダヤ人とかイスラエル人、アメリカや日本といった一つの国だけの王ではなく、全世界の王です。私にとって受け入れがたい人や遠い存在の人も、イエスがその王なのです。そればかりではありません。天の星もイエスは支配しています。歴史の大きな流れもイエスの手の中にあります。博士たちの聖書の読み方の間違いさえも、素晴らしい働きになるように導いてくださったお方です。そして、そういう大きな神の御支配を受け入れたくない、自分たちだけの幸せとか人を押しのけて自分を守りたいとか思っている限りは、とても抵抗せずにはいられない王だということです。けれども、そのイエスの御支配を受け入れることは、決して恐ろしいことでも、恥ずかしいことでもありません。動揺もするでしょうが決して抵抗しなくてもいいのです。だから、イエスはここでただ「幼子」と呼ばれています。王であるのに、無防備な幼子の姿で、か弱い始まりをされます。それは、私たちの恐れや対抗意識を取り除くためではないでしょうか。世界の本当の王である神が、私たちに、幼子の姿で現れたのがクリスマスです。

 博士たちが東の方から来られたのも多大な犠牲、覚悟があってのことですが、神の子であるイエスは、もっと遠くから、もっと大きな犠牲、そして十字架にかかる決意をもってこの世界に来てくださいました。私たちに礼拝を求めるより、主が私たちを求めて、多大な犠牲を払って下さいました。そうしてでも私たちを、恐れから信頼へ、絶望から喜びへ、壁を造ることから橋をかける関係へと、私たちを造り変えてくださるのです。それが、私たちの本当の王、イエス・キリストが私たちを治めて下さる方法なのです。

〈祈り〉

博士たちの犠牲を惜しまぬ礼拝は、どれほど現状の世界に失望し、傷ついていたかの裏返しです。未だ世界には沢山の暴力があります。政治や権力にガッカリします。私たちはいつも警戒し、見知らぬものには壁を造り、神に対してさえ、警戒を抱いてしまいます。イエスは私たちが恐れを抱かないよう幼子となって下さいました。弱く小さいものとなることをあえてしてくださいました。そのあなたを崇め、礼拝します。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルカ2章1~7節「救い主がお生まれに」クリスマス礼拝

2018-12-24 06:36:03 | 聖書の物語の全体像

2018/12/23 ルカ2章1~7節「救い主がお生まれに」クリスマス礼拝

 ルカ2章には、イエスが生まれる直前の出来事が記されています。紀元前7年頃です[1]

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。

 ローマ帝国の皇帝アウグストゥスは、地中海一帯を統治する絶大な権力を手にしていました。その皇帝が住民登録をしたのは、国の経済と軍事力を知るためです。徴税と徴兵のための基礎資料です。そのために、支配下にある民は有無を言わずに服従して登録をしなければならない。最高権力者である皇帝を頂点とする、ピラミッド型のローマ帝国が浮かび上がってきます。そこから2節で帝国の東のシリア州、3節で命じられるまま移動せざるを得ない人々、4節ではその一人のヨセフ、5節ではお腹の大きな妊婦の妻マリア、とズームインしていきます。この対照的な姿を通して、ローマ帝国の勅令とは全く異なる、主イエスの王の姿が印象づけられます。私たちの王であるイエスは、ローマ皇帝やあらゆる人間の支配者とは全く違う王なのです。

 ひと言で言えば、イエス・キリストは権力の頂点から勅令を出すのとは反対に、底辺に下りて来られます。帝国を見て全員を従わせる王ではなく、最下層の現場にいる一人一人を大事になさる王です。世界の片隅の闇に光を届ける王です。この下りて行く支配が、神の治め方です。最も低い所に来て、ともにいてくださり、喜びを与えてくださるような王です。

 母マリアはイエスを産んだ時、

7布に包んで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 彼らのいる場所がなかった。イエスの誕生は、王のお生まれだと特別な部屋で迎えられはしませんでした。皇帝なら特別な部屋で大勢の助産師を控えての出産だったでしょう[2]。イエスの場合は違いました。産まれた時、居場所がなく、家畜の餌を入れる飼葉桶に寝かせられたのです。尤(もっと)もそれは、特別惨めで非人道的な扱いだったということではないのかもしれません。貧しい人々はみんなそんな扱いだったのかもしれません。

「宿屋」

が今風の宿泊施設を思うと時代錯誤で、旅人は誰かの家の軒先に泊まるのが御の字で、家畜と一緒に身を寄せ合ったりもしたでしょう。今でも大勢の難民がそんな暮らしをしています。産気づけば片隅でお産をして、産まれた子どもはその辺の飼葉桶か何かに置いた。だとしたら尚更、そうした貧しい庶民と変わらない形で、イエスの生涯はスタートしたのです。自分の場所などない底辺の一人。ローマ皇帝にとっては、気にもかけない庶民。徴税対象の一人にも数えられるかどうかという民衆。しかし、イエスはその一人にまで低くなってくださったのです[3]。そしてそのイエスの誕生が、8節以下で御使いにより「羊飼いたち」に告げられます。

10…「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 実は、この「救い主」「主」とは、当時のローマ皇帝アウグストゥスに帰せられていた称号でした。アウグストゥスという名称自体、ローマを安定させ、繁栄させたことで授けられた、「尊厳者」という称号でした。帝政を嫌ったローマに皇帝として認められ、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」の黄金時代をもたらしたのです[4]。しかし実態は「帝政」、皇帝が支配する階級社会でした。ローマ市民や政治家、富裕層は優遇されて安泰であっても、庶民は重税に苦しみ、植民地には軍隊が駐留して暴行沙汰があり、従わない者、役に立たない者は人間扱いさえされない「平和」でした。それでも皇帝は自分を「救い主」「主」と呼ばせて崇拝をさせていたのです。

 そうした現実を逆手に取って、キリストのお生まれは「福音」「救い主」「主」「平和」だと羊飼いたちに告げられます。あなたがたのための本当の救い主、本当の主が貧しくお生まれになって、平和を下さると告げるのです。「ローマの平和」では眼中になく、統計上の数字としてしか扱われなかった人のためにキリストはお生まれになった[5]。しかし、それはローマ帝国を倒したり、キリストが代わりに皇帝になる、という方法ではありませんでした。イエスがその最も低い所に来られて、人の近くにおいでになった。居場所のない人のひとりになり、その場所に来るものを布に包まれただけの赤ん坊として迎えてくださいました。イエスという王は、居場所がない思いをしている人、生きづらい思いを抱えている人の一人となって、すべての人に語りかけて、喜びや平和のうちに入れてくださいます。イエスはそういう王なのです。

 今年はスポーツ界のパワハラや大企業の巨額な不記載などのニュースが記憶に残っています。有力者とか功績がある人の乱暴な行動が取り上げられるようになりました。そして、そこには組織の上下関係で、下にいるものには監督や先輩には反論がしにくい構図があります。理不尽なことを言われても、従わないのは難しいのです。それは教会の中でも起こり得ることで、起こっていること。聖書の言葉や、神の権威を振りかざして、服従を強いたり、従わないことへの罪悪感を抱かせたりすることは残念ながら、よく起こることです。それは、教会がローマ帝国のような権威の使い方をしてしまうと言い換える事も出来ます。神に従う者は神に祝福され、良い地位をもらい、従わない者、役に立たない者は裁かれて滅ぼされても仕方がない、という考え方です。従う者には恵みを惜しまないので、従っている限りは怖がる必要はないのですが、最終的には従わない者を滅ぼすのが神だろう、という「皇帝」のような神様です。

 イエス・キリストはそうではありませんでした。上から支配するのではなく、ご自身が最も低い所に降りてこられました。人に従うことを求めるよりも、まずご自身から人の方に来てくださいました。権力や剣で脅すのとは逆に、裸の赤ん坊として産まれ、布に包まれて飼葉桶に寝かせてもらう姿で来られました。自分が上に立ち、尊敬や称賛を得ようとはせず、神としての栄誉を捨ててでも、人に近寄りたい、私たちを神の民として回復したいと飛び降りてくださいました。イエスは、権威を笠に着て、人に従うことを強いる王ではなく、まず人を求められ、探して近づかれて、関係を回復してくださる。その上で、心からの信頼を始めてくださいます。

ルカ十九10人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

 主イエスに出会った後も、私たちはしくじったり、疑ったり、間違ったりさ迷ったしてしまいます。その時、私たちの頭には「皇帝」のようなイメージがあって、「もうダメだろう。こんな反逆は赦されなくてもしかたない」と思うかもしれません。しかし、イエスにとって大事なのは、私たち一人一人です。私たちはいつしか「こうあるべき」というキリスト者の理想像を造り上げてしまいます。教会の組織や伝統や秩序を大事にする余り、人にその枠を押しつけてしまいやすい。その権威に従うことが求められているのだと思いがちです。けれども、イエスはまず、このあるがままの私たちを求められるのです。私たちが何度失敗しても、何百回でも私たちを赦し、受け入れてくださいます。私たちとの関係を修復するために、神ご自身が傷つき、辱められ、犠牲を払うことも厭われませんでした。キリストはこの世に来られたのです。

「共同体に対する理想を愛する者は共同体を破壊する。共同体のメンバーを愛する者は共同体を建て上げる。」ディートリヒ・ボンヘファー

 主イエスは、理想的なクリスチャン像や素晴らしい教会を愛されるのでなく、私たち一人一人を愛されます。人に表面的な従順や賛美を求めるのではなく、私たちの心の悲しみや喜びや夢や願いをそのままに受け止めて、そこに光を照らしてくださいます。そして、私たちも互いにそのようなあるがままを喜び、尊び合うようにしてくださいます。この時、私たちのために救い主がお生まれになった。この招きは、帝国の住民登録よりも遥かに素晴らしい勅令です。

「私たちのために来られ、十字架にかかりよみがえられた主よ。あなたの測り知れない犠牲を思い、人知を越えた大きな愛を崇めます。私たちにご自身を与えて、救いと平和が与えられ、私たちは自分をもお互いをも新しく贈り物として受けることが始まりました。どうぞその恵みを踏みにじるような暴力や恐れ、冷たい言葉から救い出してください。闇の中に、光を輝かせてください。この世界を引っ繰り返すほどの主の喜びの知らせをともに祝わせてください。」



[1] 六世紀の修道士ディオニシウス・エクシグウスが、525年に計算をしたのがキリスト紀元。さらに、八世紀に知られるようになり、一〇世紀に一部の国で使われ始め、普及したのは一五世紀とのこと。しかし、イエスを殺そうと二歳以下の男児を皆殺しにしたヘロデ大王が、キリスト紀元だと前4年に死んでいるので、キリスト誕生はずれており、紀元7年か4年ごろだと考えられています。

[2] そもそも、臨月の母親に、今と違って危険な長旅をさせるなんて無理は絶対にしなかったでしょう。しかし、当時の史料を見ても、住民登録が夫婦同伴でなければならないとか、故郷に帰って登録しなければならないという法律は見つかりません。ですからヨセフがマリアを同伴したのはその義務があったからではなく、別の理由からだったとも考えられます。考えられる理由の一つは、マリアの不自然な妊娠への、ナザレの村人が好奇の目で見ることを案じて、ヨセフがマリアを同伴して守ろうとした、という事情です。だとすると、マリアとヨセフは、故郷ナザレにさえ、「いる場所がなかった」のです。

[3] また、この出産にも特別なことは書かれていません。アウグストゥスの養父であるカイザルは普通の人と違って、母の産道からでなく脇腹から産まれた、という伝説を残しています。お釈迦様は生まれてすぐに立ち上がり「天上天下唯我独尊」と叫んだという逸話があります。真偽はともかく、イエスについてはそんな特別な神話やドラマはありません。また、「折角産まれてあげたのに、こんな惨めで平凡な誕生は不愉快だ」とイエスが帰ってしまうこともありませんでした。マリアはイエスを産み、布に包んで飼葉桶に寝かせた、と淡々と書かれています。イエスの誕生の特別さは、その誕生自体の出来事ではなく、その周りで起きた羊飼いたちの変化・喜びなどを通して現されたのです。

[4] 「ルカはイエスが生まれられた時、天から声があったと伝えます。その声は「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(2:10)でした。「告げる」、ギリシア語「エウアンゲリゾー」、「福音(エウアンゲリオン)」の動詞形であり、元々はローマ帝国の皇帝礼拝で用いられた言葉でした。当時の人々は「皇帝アウグストゥスこそ、平和をもたらす世界の“救い主(ソーテール)”であり、神なる皇帝の誕生日が、世界に新しい時代の幕開けを告げる“福音(エウアンゲリオン)”の始まりである」と考えました。それに対してルカは、「皇帝アウグストゥスの時代にローマ帝国のはずれ、ユダヤの片田舎に一人の幼子が生まれた。この方こそ本当の主(キュリエ)である」と語っているのです。」篠崎キリスト教会HP「2017年12月24日説教(ルカ2:1-7、イエスの生誕物語)」より。

[5] いいえ、羊飼いたちはこの時、住民登録をせずに、野原で仕事をし続けていたのですから、統計からさえ除外されていたのかもしれません。「羊飼いは信用がならない」と記す文献も残っています。一方で、神殿でささげるのに不可欠な羊を飼う羊飼いたちは、社会的にも尊敬を受ける身分だったとする説もあります。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルカ1章26~38節「マリアへの御告げ」アドベント第3聖日

2018-12-17 09:27:32 | 聖書の物語の全体像

2018/12/16 ルカ1章26~38節「マリアへの御告げ」アドベント第3聖日

 クリスマス礼拝を前に「受胎告知」の箇所を読みました。イエスの母マリアに御使いが現れて、子を宿す事を告げたのです。その前、5~25節では、同じ御使いが祭司ザカリヤに現れて、洗礼者ヨハネの誕生を告げ知らせました。それは聖書の舞台の中心地、エルサレム神殿での出来事でした。その大都市エルサレムから、26節では一転して辺境のガリラヤ、歴史的にも殆ど記録のない小さな寒村ナザレに一挙に場面が切り替わります。そこにいた一人の少女、12歳頃のマリアという少女に御使いが現れる、大変ドラマチックな移動から始まっているのです。

 御使いが現れてマリアに挨拶した時、マリアはひどく戸惑って、考え込んでしまうのです。

ルカ一30すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

 御使いはマリアが身ごもって男の子を産むことを宣言します。その子は大いなる者となり、いと高き方(つまり造り主なる唯一の神)の子と呼ばれると言います。マリアの子でありつつ、大いなる神の子なのです。そして、神はその子どもに

「ダビデの王位をお与えになります」

とあります。このダビデについてお話ししましょう。ダビデはイスラエル民族にとって偉大な先祖です。紀元前一千年頃、バラバラだったイスラエル民族を統一して安定した時代を築き上げた王です。ダビデの生涯は旧約聖書のサムエル記に詳しく記されています。また、詩や音楽の才能もあって、旧約聖書の詩篇は多くがダビデに結びつけられています。そして、彼は主なる神に愛された王でした。主ご自身がダビデに、永遠の家を建てるという約束をしていたのです。

Ⅱサムエル七11…主があなたのために一つの家を造る、と。12あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。…16あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」[1]

 この約束を「ダビデ契約」とも呼びます。主がダビデに、ダビデの子孫の中から永遠の王となる方を立てて、永久に治めさせると約束されたのです。主ご自身の約束であり預言でした。この預言の言葉を、今日の御使いの言葉も受けていて、続きの33節にもこう言われています。

33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

 ダビデから千年経ったこの時代にも、聖書の人々は約束された

「永久の王」

が来るのを待っていたのです[2]。御使いが告げているのは、その王の誕生です。マリアはダビデ契約を思い出して、待ち望んでいた王の登場だと悟ったはずです。しかし、それは喜びであるよりも、自分がその「王」の母となると言われて、どれほど驚いたことでしょう。どれほど戸惑い、恐れたことでしょうか。自分がマリアだったらと想像してください。決して「マリアが特別に立派で、大人で、信仰心の篤い人だったから」とは書かれていません。むしろマリアは、

48この卑しいはしために目を留めてくださった…。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。49力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。

と言います。自分は卑しく小さな者だ、その私に神である主が目を留めて、大きなことをしてくださったから、主をあがめて讃えます、とマリアは歌うのです。その続きで55節までの賛歌で歌っているのは、主が権力者を引き降ろし、低い者を高く引き上げ、飢えた者を満たし、富む者を一文無しになさる、そういう逆転をなさる神です。

 神は人間の権力者が造り上げたピラミッドの世界を引っ繰り返してしまう。イエス・キリストが「ダビデの子」と呼ばれて、永久に神の民を治めてくださるのは、田舎の少女のマリアに最初に告げられたように、世界の底辺や周辺の人に届けられる。悲しむ人、疲れた人、卑しめられる人に、キリストは来て、王となってくださる。闇をそっと照らして、慰めや喜びや歌や踊りを与えるという契約なのです。

 ダビデ自身がそんな人でした。八人兄弟の末っ子で、父親は彼を息子の一人と見なさず、羊の番を任せるだけの存在としか認めていませんでした。そのダビデを主は選んで、王にしてくださったのです。そして、後にはダビデの末から永遠の王が出る、という先ほどの「ダビデ契約」まで約束してくださったのです。その時ダビデは、こう言わずにおれません。

 神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。19、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました[3]

 こう言ったダビデは、その後間もなく大変な不法を働きます。部下の妻を寝取り、その部下を他の兵士たち諸共、戦死させるのです。神はそのダビデには厳しく誤魔化させずに対決なさいます。でもそれは、ダビデが悔い改めて、償いをして、本物の回復をしていくためでした。主はダビデとともにいてくださいました。ダビデだけではありません。神の御支配はずっと、低い者を引き上げ、高い者を卑しくし、人の傲慢を打ち砕いて、闇の中の人に光を届け、人を本当に回復する御支配です。聖書には主がこの世界に働いて、人の思い上がりを砕いて、主を恐れるものを生かされる憐れみの御支配が書かれている、その完成が主の約束だと、マリアは歌い上げるのです。37節に戻って、御使いがマリアにかける言葉の結びを読みましょう。

37「神にとって不可能なことは何もありません。」

 新改訳聖書2017の欄外注にある通り、この「こと」は「語られた言葉」です。神が語られた言葉、神が語られた事柄に不可能はない。それは、マリアの胎にキリストが宿るという言葉だけではありません。ダビデに告げられていた永久の王の言葉です。神がこの世界の痛みや不正や闇を癒やして真実に治めてくださる、と語られた言葉です。神が語られたダビデ契約は、不可能なことではない。神がこの世界を治めてくださって、本当の平和をもたらしてくださると語られた言葉は、何ら不可能なことではない。その王がマリアの胎に宿ること、主の憐れみが卑しい人を引き上げて、高ぶっている人が謙らされ、この世界を平和と喜びが支配することも、神が語られた以上、不可能ではない。そして、マリアはこう応えます。

38マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」

 マリアはこれからの苦労や大変さも予感しつつ[4]、この時点で精一杯の告白をして、主に自分を差し出しています。これはマリアがイエスを宿す処女懐胎だけを指してはいません。神が語られた言葉、ダビデに約束された永遠の王という契約、その方による平和、この世界の差別や争いや悲しみがすべて慰められるという約束が、必ず果たされると受け止めたのです[5]。ならば、自分では役者不足だとしか思えなくとも「この身に」と受け入れたのです。私たち一人一人も、この神の語られた約束の中に、身分不相応な持ち場を与えられます。私たちの中にも神は命の業を現されます。私たちの「この身」を憐れみの器として用いられます。思い上がりは砕いて、悲しみを慰めて、代々の人たちと一緒に主を崇めさせてくださいます。主がこの世界の片隅や暗闇に恵みを注いで幸いにしてくださったと、心から主を誉め称えさせてくださる。それは人には不可能に見えても、主が語られた以上、不可能ではないのです。その大きなご計画の中に自分を受け止めたマリアの告白は、キリストにある者全ての告白なのです。

「主よ、私たちもあなたのしもべです。どうぞ、あなたのお言葉通りこの身になりますように。あなたの憐れみが世界を覆うために、私たちのうちに働いてください。主が永久の王として世界を照らし、癒やし、新しくしてくださることが不可能ではないと信じます。主が低くなって、すべての人の友となられたように、高ぶりや壁を溶かし、あなたの恵みの見本としてください」



[1] Ⅱサムエル七11~16「それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。12あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。15しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。16あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」

[2] 実際のダビデの子は「永久の王」には役者不足でした。だからこそ、約束の「ダビデの子」が現れるのを待ち望んでいたのです。

[3] ダビデの応答の祈りの全文は次の通り。「18ダビデ王は主の前に出て、座して言った。「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。19神、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。20ダビデはこの上、何を加えて、あなたに申し上げることができるでしょうか。神である主よ、あなたはこのしもべをよくご存じです。21あなたは、ご自分のみことばのゆえに、そしてみこころのままに、この大いなることのすべてを行い、あなたのしもべに知らせてくださいました。22それゆえ、申し上げます。神、主よ、あなたは大いなる方です。まことに、私たちが耳にするすべてにおいて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。23また、地上のどの国民があなたの民イスラエルのようでしょうか。御使いたちが行って、その民を御民として贖い、御名を置き、大いなる恐るべきことをあなたの国のために、あなたの民の前で彼らのために行われました。あなたは、彼らをご自分のためにエジプトから、異邦の民とその神々から贖い出されたのです。24そして、あなたの民イスラエルを、ご自分のために、とこしえまでもあなたの民として立てられました。主よ、あなたは彼らの神となられました。25今、神である主よ。あなたが、このしもべとその家についてお語りになったことばを、とこしえまでも保ち、お語りになったとおりに行ってください。26こうして、あなたの御名がとこしえまでも大いなるものとなり、『万軍の主はイスラエルを治める神』と言われますように。あなたのしもべダビデの家が御前に堅く立ちますように。イスラエルの神、万軍の主よ。あなたはこのしもべの耳を開き、『わたしがあなたのために一つの家を建てる』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。28今、神、主よ、あなたこそ神です。あなたのおことばは、まことです。あなたはこのしもべに、この良いことを約束してくださいました。29今、どうか、あなたのしもべの家を祝福して、御前にとこしえに続くようにしてください。神である主よ、あなたがお語りになったからです。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家がとこしえに祝福されますように。」

[4] ルカ2章34節以下で、老人シメオンがマリアに告げる通りです。「34シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。35あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

[5] 実際、生まれるイエスはご自身が痛み、忍耐し、罵られ傷つけられながら、ご自分の命を差し出す王です。人の痛みや暴力を、全身で受け止めて悲しまれながら、人間の心の奥深くから新しくなさる王です。人に罰や規則を与える支配者ではなく、徹底的に仕える王です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじめての教理問答59~60 ヨハネ6章26-35節「キリストは信頼できる」

2018-12-09 20:25:55 | はじめての教理問答

2018/12/9 ヨハネ6章26-35節「キリストは信頼できる」はじめての教理問答59~60

 夕拝では「初めての教理問答」に沿ってお話しをしています。先週と今週は「悔い改めと信仰」のことを考えています。今日は「信仰」について問61から見ましょう。

問61 キリストを信じるとは、どうすることですか?

答 自分の救いのために、キリストのみに信頼することです。

問62 自分の力で、悔い改めてキリストを信じることができますか?

答 いいえ。聖霊がわたしの心を変えないかぎり、悔い改めて信じることはできません。

問63 どうすれば、聖霊の助けを得ることができますか?

答 神さまは、聖霊の助けを祈り求めるようにと命じています。

 キリストを信じるとはキリストのみに信頼することです。私たちにとって、罪を悔い改めてキリストを信じることはとても大切です。それは自分の力では出来ないことで、聖霊が私たちの心を変えて、悔い改めてキリストを信じることが出来るように、助けを祈ること。毎日の生活の中で、とても大事なこととして、聖霊の助けをいただいて、悔い改めと信仰を持たせてくださいと祈ることが大事だと言われているのです。

 ところが、「毎日祈ることが大事ですよ」と言われると、途端に「毎日祈らなければならないなんて、自分には難しいなぁ。しなければならないって言われたら、窮屈だし、疲れてしまうよ」と思う気持ちが生じないでしょうか。これは、他の事でも言えます。「勉強が大事、運動が大事、栄養バランスのある食事を採りましょう、礼拝は休まず行きましょう、奉仕をしましょう、聖書を読んで祈りましょう」…。どれもそれは大事な事です。けれども、慣れていないことを「したほうがいい」と言われると、なかなか続きませんし、もっと自由にさせてよという思いが心の中に積もっていくのです。

 ヨハネの福音書6章で、イエスはわずかなパンと魚を五千人もの人たちのために増やしてあげて、十分に満腹させるという奇蹟をなさいました。それで群衆達はイエスを追っかけてきて、イエスに王になってもらえば、いつまでも食いっぱぐれなくて済む、と考えました。これに対してイエスは「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言われました。なくならない食べ物を得る生き方とは何か。それは

29「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」

とイエスは仰いました。すると群衆は

「じゃあ、あなたを信じられるように、しるしを見せてくださいよ。モーセの時代には荒野の何にもないところにマナを降らせて、民を養ってくださいました。ああいうしるしを見たら信じられます」

と言います。イエスは

「天の父があなたがたを生かして下さる。天からいのちを与えるパンを下さるのです」

と言います。信じるための証拠として奇蹟があるのではないですよ。奇蹟がなければ信じられない、ということではないですよ。天の父が、あなたがたを養ってくださるお方だ、そう仰るのです。そして群衆が

「その天からのパンとやらを私たちにお与えください」

と言われた時には、

「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」

と言われるのです。

 イエスが仰る「信じる」は、イエスに信頼する、という言い回しです。イエスがパンなら、食べる。イエスが海なら飛び込んで泳ぐ。それが信仰、信頼です。ある方は

「信仰というとよく分からなかったけれど、信頼と言われたらとてもスッキリよく分かった」

そうです。信じるとは、イエスに信頼することです。私たちの救いや人生について、イエスに預ける、イエスに信頼して着いていくことです。私たちの側の信心深さとか信仰心が大事なのではなくて、イエスが信頼できるお方だと知って、お任せしていく。それがキリストへの信頼、信仰です。ここで群衆達は、イエスにでも神にでも、信頼して着いていこう、という考えはありません。「パンを食べて満腹したから、これからも満腹させてくれたらいいなぁ。自分たちに楽をさせてほしいなぁ。信じなさいと言うなら、しるしが欲しい、マナのような奇蹟か天からのパンを降らせてくれたら信じましょう。」そういう態度です。だから、イエスが「わたしがいのちのパンです」と言った時、ガッカリしてしまいます。全く話が噛み合っていないのですからね。

 イエスに信頼すること。イエスが来られたこと自体が、神が私たちにいのちをくださるというしるしだと嬉しく思うこと。そして、イエスに信頼して歩んで行くことに、豊かないのちが約束されています。でもこれは、決して、強制は出来ません。「信じなければいけません」とか「信じるべきだ」といくら強く言われても、信頼することは出来ません。そもそも信頼とは強制や脅迫によっては決して出来ない関係なのです。イエスを信頼するよりも、自分の食べ物や生活の心配のことを考えている人に、いくら信じなさい、信じないとダメだと言っても、無駄なことで、かえって五月蠅く、脅すのがキリスト教伝道だと思わせてしまうことでしょう。そこから信頼は決して生まれません。

 信頼は、相手が信頼に足る方だと分かることから生まれます。イエスが本当に信頼できるお方、嘘のない方人生をお任せしてよい方、私たちにいのちを与えるために天から来て下さって、私とともに歩んでくださる方だと、一生掛けて知っていく中で、信仰(信頼)が育っていくのです。聖霊が信頼させて下さることを求めて待つのです。

 イエスは私たちに信仰を無理に強いません。聖霊が悔い改めと信仰を持たせてくださるよう祈り求めることも、強制や義務ではありません。勿論、それはしてもしなくてもどっちでも構わないことではないです。大きな益が約束されています。その大きな祝福が伴う祈りが私たちに与えられています。私たちも祈ることが出来ます。祈ってよいのです。私たちもイエスを信じて良いのです。いつでも教会に帰ってきてよいのです。信じたくない気持ちがあるなら、その事も聖霊に正直に祈ってよいのです。

「聖霊なる神様、私がいやいやイエスを信じるのでなく、心から信じられるように、イエスの素晴らしさを教えてください」

と祈っても良いでしょう。どんな時も私たちは、祈って良い。神は私たちの祈りを聴いてくださいます。イエスは「わたしに信頼しなさい」と私たちに仰ってくださいます。どんな時も、私たちはイエスに信頼することが出来ます。そして、イエスは信頼する私たちを強めて、いのちを豊かに持たせてくださいます。クリスマスは、イエスが私たちの「いのちのパン」として来て下さったというメッセージです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする