聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/31 Ⅰテサロニケ書1章1-3節「励ましの手紙 第一テサロニケ」

2021-01-30 12:18:00 | 一書説教
2020/1/31 Ⅰテサロニケ書1章1-3節「励ましの手紙 第一テサロニケ」[1]

 一書説教として「テサロニケ人への手紙第一」を取り上げます。この手紙で最も有名なのは、
5:16~18いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい[2]。
でしょう。私たちの心に残る美しい招きで、ハガキや壁掛けに飾っている方も多いでしょう。その三つは5章だけでなく、この手紙で繰り返して出て来る言葉です。今日読んだ最初にも、
2私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。3私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望み[3]に支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。…
 そう言って、パウロはこの一章から三章まで、テサロニケ宣教の経緯を振り返っています[4]。


 テサロニケは当時のマケドニア州の州都として栄えた大都市で、現在もギリシャの港湾都市です。この手紙の書き手であるパウロとシルワノとテモテは、この大都市を第2回伝道旅行で訪問し、伝道をしたのです。その時に誕生したのが、テサロニケにあるキリスト者の共同体でした[5]。それは、初めてのマケドニア、引いては初めてのヨーロッパの福音宣教で大都市に教会が誕生した、歴史的な一歩でした。しかし、そこにも教会への激しい反対があったことは2章14節以降でも窺えます。使徒の働き17章を見ると、その迫害が危険だったために、たった3週間で、パウロたちはテサロニケを密かに脱出して、アテネ、コリントまで移ったのです。
 パウロは「残してきたテサロニケの信徒たちはどうしているだろう」と心配で、直接その様子を見に行きたいと何度も試みました。3章ではテモテだけをこっそりテサロニケに送り込んだとあり、手に汗握る現実がありました。その密偵テモテが戻って報告しました。テサロニケの信者が迫害の中でも信仰に立ち、彼らもパウロたちに会いたいと思っている。
 パウロはその知らせに深く慰められたと告白しています。それでこの手紙第一が書かれたのです。そうしたこれまでの迫害や苦しみ、心配や緊迫も含めた歩みを振り返って、パウロはこの手紙を書き、感謝から書き始めたのです。大変なこともそれを祈りながら、一つ一つが神の御業だったと心から思えました。自分が伝道したという以上に、生ける神御自身が働いて、迫害の中でも主を信じる人々を支え、遠く離れていても慰め合い祈り合う関係を下さいました。その神がこれからも必ず私たちを救い出される。そう心から感謝するパウロの手紙なのです。
 四章では淫らな行いを避けること[6]、兄弟愛[7]、働くこと[8]について触れられています。テサロニケ教会はまた信仰の知識も未熟でした。何しろ新約聖書の殆どがこれから書かれる、という時です。パウロの滞在はたった三週間足らずでした。疑問や誤解もありました。また、
4:13眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。14イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
 イエスは死んで復活されました。その事は、私たちの死の体験、死別の悲しみにも新しい光を当てます。悲しみがなくなるのではありませんが、望みのない他の人々、イエスの死と復活を知らない人々とは全く違う悲しみ方、悼み方、受け止め方が始まります。でもその事をまだよく分からないで困惑していたのがテサロニケ教会の現場でした。それに応えた、死の悲しみについての言葉も、この書の素晴らしい慰めです。テサロニケ書はパウロの励ましの書です。
 しかしパウロは一方的に教え諭すだけではなく、テサロニケの教会から慰められ、励まされてもいました。手紙は双方向です。テサロニケ教会の様子が分からないときは、いてもたってもいられなかったことも率直に告白しています。「いつも喜んでいなさい」と言ったパウロは、「私はいつも喜んでいる」とは言わず、「私もあなたがたから喜びをもらった」と素直でした。

 喜び[9]、祈り[10]、感謝[11]。これは別々の三つの美徳というより、三角形のような関係です。
 私たちの心はいつも喜びを求めています。心の素直な願いや必要が満たされることが喜びです。喜びなさいとは、喜んだふりではなく、心の流れを作ることです。
 そのためにも絶えず祈ることが出来ます。手紙をもらう小さな喜びから、迫害や死別の深い悲しみまで、絶えず起きる出来事を、神の前に差し出すことが出来ます。私たちのために御子を送り、死者の中から復活させた方の前に置くのです。
 そして「感謝」とは、何かを贈り物として受け止めることです。すべてのことにおいて鏤(ちりば)められている恵みがあります。心が求める喜びを大事にし、主の前に何でも持っていき、現実にある出来事に神からの贈り物を気づく。お互いに支え合う関係です。

 これは、新約聖書で恐らく最も早く書かれた書です[12]。それがこの手紙でした[13]。「聖書は神様からのラブレター」とも言われます[14]。確かに神は手紙という方法が好きな方で、聖書の中に22通もの手紙を大いに採用なさいました。聖書は静かな大聖堂や教室で一方的に語られたというより、現場にある教会に宛てて書かれた手紙なのです。書かれた事情があって、書き手にも様々な背景があって[15]、具体的な現場で書かれながら、生けるまことの神がそこで主の民に、喜びと祈りと感謝を与えてくれました。そのやりとりを、今ここにいる私たちも味わって読むことから、生ける神は私たちを励まして、喜び・祈り・感謝を励まされ[16]るのです[17]。

「主よ、テサロニケ書を通して、喜びや希望を与えてくださり、感謝します。パウロの言葉を通して、あなたの私たちに対する慈しみが届けられます。あなたから私たちへの手紙に、いつも励ましを戴かせてください。あなたは私たちの痛みも渇きも、過ちもご存じです。今、私たちに知恵と忍耐を与えて保ち、やがて私たちと顔を合わせる将来を、あなたご自身が待ち望んでおられます。みことばの一つ一つがここにいる一人一人を生かす手紙となりますように」



脚注:

[2] Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

[3] 「望み」は、本書で6回繰り返されています。1:3「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」10「御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」2:19「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。」4:13「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。」5:8「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。」18「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

[4] アウトライン:

1:1-5 挨拶の祈り

1:6-3:13 振り返りと誠実さの確認

1:6-10 テサロニケ教会信徒の回心 偶像から生けるまことの神に

2:1-12 パウロのテサロニケ宣教 母のように父のように

2:13-16 キリストとキリスト者の苦難

3:17-3:10 パウロの心配と安堵

3:11-13 忍耐の祈り

4:1-5章 成長への励まし

4:1-12 聖く生きること 性的不品行を避ける。勤勉に働く。

4:13-18 死別の疑問とイエスの再臨の希望

5:1-11 主の日の訪れを待つ生活

5:12-22 具体的な生き方の姿勢

5:23-28 祝祷・結語

[5] 詳しくは、使徒の働き17章を参照。

[6] 4:3「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、4一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、5神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。7神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。」

[7] 4:9「兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、10マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。」 この言葉が示しているように、この「兄弟愛」は実際の慈善活動、募金のことだと考えられます。

[8] 4:11「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。12外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。」 この繋がり方も、9節の「兄弟愛」が、働くことによって助け合うことを指していると推察できます。

[9] 「喜び」は本書に11回。1:6「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」、2:4「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」、8「あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。」、15「ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。」、19「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。20あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。」、3:9「あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。」、4:1「最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。」、5:16「いつも喜んでいなさい。」

[10] 「祈り」は本書に4回。1:2「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。」、3:10「私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。」、5:17「絶えず祈りなさい。」、25「兄弟たち、私たちのためにも祈ってください。」また、3:11~13と5:23~25、28は、祈りの言葉そのものです。3:11-13「どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。12私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。13そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。」5:23-24「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められることのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」

[11] 「感謝」は本書に4回。1:2「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。」、2:13「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」、3:9「あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。」、5:18「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

[12] 新約聖書にはパウロの手紙が13通あります。長いローマ書やコリント書の後に来るテサロニケ書は短めの5章の目立たない手紙ですが、書かれた順番では恐らく一番初めです。ただし、ガラテヤ書が「南ガラテヤ説」という執筆事情の仮説を採れば、テサロニケ書よりも先ということになりますが、現代では「北ガラテヤ説」に軍配が上がっています(ただし、どちらかを決定づけることは出来ないというスタンスは、いずれの説を問わず共有されているコンセンサスです)ので、テサロニケ書が恐らく最初の書簡です。

[13] 旧約聖書には一書が丸々手紙のものはありませんが、新約で手紙形式が採用されて、聖書の後半を占めています。パウロ書簡以外では、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙(第一と第二)、ヨハネの手紙(第一、第二、第三)、ユダの手紙。そして、ヨハネの黙示録も手紙形式です。手紙というジャンルについては、関野祐二「文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 書簡の解釈」第4回(上)、第5回(中)、第6回 (下)が参考になります。

[14] これは聖書を紹介する言い方の一つで、この言い方への反論もあります。ラブレターとはとても思えない内容もありますから。むしろ、聖書は神が私たちに与えられた「物語」、「大河ドラマ」と重厚なイメージがそぐうかとも思います。

[15] そもそも、パウロの第二回伝道旅行は、バルナバと決裂して、体調を崩してか道を閉ざされ、初のマケドニア(ヨーロッパ)上陸。ピリピでむち打たれ、テサロニケでも3週間で追い出され、ベレアまでテサロニケのユダヤ人が追いかけて、アテネに避難した。そこでもほぼ見向きされず、コリントにやってきた。コリントでの宣教の難しさも、使徒の働き18章、コリント書第一第二から見て取れます。そこで、テサロニケの信徒を案じていて、テモテがテサロニケの報告を持って帰ってきた、という状況で書かれた。

[16] 励ましは、5回。2:12「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」3:2「私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、」4:18「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」5:11「ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。」、14「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。」

[17] 主にあって励ましをもらい、励ます、一方的でない交わり。お互いの戦い、悲しみ、困難を覚えつつ、「本当は直接会えたら一番だ」という思いが、今の精一杯として、この手紙を書かせたのです。よちよち歩きの教会に、彼らを想って一喜一憂するパウロが書いたテサロニケ書。その手紙を通して、その後の教会も今に至るまで支えられてきました。今ここに生きる私たちのすべてをご存じの神が、あの時代あの現場を生きた教会への手紙を通して、私たちを励まし、支えてくださいます。主は、この手紙を通して、私たちをも励まし、慰めてくださるお方です。私たちに、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝するよう励まし、成長させてくださるのです。


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