聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/10/31 マタイ伝4章17節「ルターが書いたこと」 宗教改革記念礼拝2021年

2021-10-31 12:58:24 | マタイの福音書講解
2021/10/31 マタイ伝4章17節「ルターが書いたこと」

 10月31日は、1517年にルターが「九十五箇条の提題」を貼り出した日です。「九十五箇条」は当時の「免罪符(贖宥状)」販売を批判するものでした[1]。罪の赦しと救いをお金で買えるとしたら、いくら出しても惜しくはない、という気持ちも、分かる気がします。しかし、それはキリストが語り、なさったこととは違うのですね。「九十五箇条の提題」はまだ色々と未整理な文書ですが、しかしこれが宗教改革のきっかけになった文書です。特に、第一はこれです。

私たちの主であり師であるイエス・キリストが「悔い改めよ…」(マタイ4:17)と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。

 この一文から始まっているのです。
 ここで引用されているのが、今日のマタイ4:17です。

この時からイエスは宣教を開始し,「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

 これがイエスの宣教の始まりでした。今までマタイの福音書をじっくり読み「天の御国」を教えられてきました。この福音書に、宗教改革との、切っても切り離せない関係があるのです。

 ルターは、続けて、「悔い改め」とは、当時の儀式としての告解(懺悔)とか、罪を悔いて悪かったと心の中で思うという以上のことだ、と言います。聖書の「悔い改め」とは「回心」です[2]。罪の後悔や「ごめんなさい」と謝る以上に[3]、神が私たちの神であるという事実に、心の考えを変えることです。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
の「御国」は「王国」という言葉で、王である神が治めておられる国です。そしてイエスは、この福音書で
「天の御国とはこのようなものです」
と色々な譬えで、神の御支配がどんなに憐れみ深く、驚くべきもので、王である神ご自身の謙りや犠牲によるかを教えてくださいます。イエスご自身、王なる神のひとり子、王子が、人となって人間に、罪人や軽んじられていた人々に近づいてくださいました。イエスが近づかれた事こそ、
「天の国が近づいた」
なのです。そのイエスを私たちが受け容れる。日々、生涯、自分が王や神になったり、神のあわれみとは違う考え方をしたりする生き方を、方向転換し続ける。それがキリスト者の全生涯なのです。だから、キリストがまだ遠くて、罪の赦しには何か足りないかのようにビクビクしたり、それをお金で売り買いしたりするようなことは、キリストが仰った事とは全く違うのだ、と言い放ったのですね。

43、貧しいものに与えたり、困窮しているものに貸与している人は、贖宥を買ったりするよりも、よりよいことをしているのだと、キリスト者は教えられねばならない。

 これも「貧しい人や困った人を助ける善行で、罪の赦しや天国に入る」ではないのです。それが良いのは、愛の行動そのものが人の心、生き方を良く変えてくれるから「良い」なのです。

44、なぜなら、愛のわざによって愛は成長し、人間はよりよくなるからであるが、贖宥によっては人間はよりよくならず、ただ罰からより自由となるにすぎないからである。

 まだここでルターは完全に贖宥とかカトリックの神学を否定している自覚はありません[4]。それでも、「贖宥状を買わなくてもキリストの恵みによって信じるだけで救われるのだ」という以上のことを言っています。私たちが生涯、神の憐れみ深い御支配に立ち戻り続ける。そういう福音を『九十五箇条』は打ち出したのです。第51提題ではこんなことを言います。

教皇は(もし必要ならば)聖ペテロ聖堂を売ってまでも[5]、あの人々に、─その大多数のものから、贖宥の扇動家たちが金銭をまき上げているのであるが─自分の金のうちから与えるべきであるし、またそのように欲している…[6]

 将にキリストはそうしてくださいました。罪の赦しのために、私たちに償いとか謝罪という犠牲や出費を求めたりせず、ご自身がその栄光を売り払って、ご自分の支払いで私たちに、罪の赦しを与え、神の国を与えてくださったし、そう欲してくださいました。そればかりか、生涯掛けて、神の恵みに養われて、主イエスを王とする生き方へと招いて下さった。それを卑しめて、どうしたら罪が罰せられず、死んだら天国という場所に入れるか、という方法に引き下げてしまっていたのが、当時の教会です。宗教改革は、その目的そのものを改革したのです。

命題95 そしてキリスト者は、平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国にはいることを信じなければならない[使徒14:22]

 これも、天の御国はイエスが与えるともう約束しておられます。でもそれを、自分の平安(楽・保証)の延長のように考えるのではない、生涯毎日、神に立ち帰り、罪を捨て、苦しみを通して神に依り頼んだり、心を打ち砕かれたり、限界に気づかされながら、作り変えられていく。そういう歩みであると聖書が語っている。これが『九十五箇条』の結びです。

 ルターはこの文書を「宗教改革を起こそう」と思って書いたのではありませんでした。これはキリストの言葉と違う、おかしい、公に討論したいと、当時の習慣通り、この紙を貼りだしただけです[7]。ルターを勇敢な改革者だと美化するのは神話で、既に他にも多くの改革の動きは既にあったのです。そこに、この『九十五箇条』が貼り出されたのです。それが予想外の反響を呼んで、誰かがドイツ語に翻訳して、まだ新しいグーテンベルクの印刷術で大量印刷され、二週間後にはヨーロッパ中に広まりました。確かに、宗教改革の大きな転機になったのです。

 この事実自体が私たちにとっての励ましです。無名のルターの小さな誠実な行動が、まだまだ整理の不十分な文章が、大きな働きになりました。イエスが語ってくださった御国も将に、天の御国は芥子種のようだ、と言われていました。
 今も主がここに働いておられます。主イエスが求められたように、生涯、主の恵みの支配に立ち帰り続けましょう。罪赦された喜びと、御国の恵みへの驚きをいつも覚えて、私たちを捧げていきましょう。その時、小さな私たちの喜びや献身が、小さくない価値をもって、主の福音を届けて、神の国を始めていくのです。

「教会の主よ、今日、宗教改革記念日に、教会も恵みを忘れ、貶めやすいこと、しかしあなたが福音へと、みことばにより立ち戻らせて、生ける信仰を与えて、教会を新しくし続けてくださることを覚えて御名を賛美します。主が私たちのために罪の赦しをすっかり買い取ってくださった恵みを感謝します。あなたの恵みに信頼し、立ち帰り続ける生涯とさせてください。苦しみや困難の中でも、消えることのない喜びと希望を点し、御国を証しさせてください」

参考資料:『九十五箇条の提題』本文[8]

[1] ローマのサンピエトロ大聖堂を完成させるため、教会は「贖宥状」を大量に売りさばいて、収入を得ようとしたのです。

[2] メタノエオー 考えを変える、方向転換する。懺悔、後悔、謝罪ではない。マタイに五回、マルコに二回、ルカ九回、使徒5回、パウロ1回。名詞メタノイア、マタイ2、マルコ1、ルカ5、使徒6、パウロ4回。

[3] 第二箇条「この言葉が秘跡としての悔俊(すなわち、司祭の職によって執行される告解と償罪)についてのものであると解することはできない。」第三箇条「しかし、それは単に内的な悔い改めだけをさしてはいない。否むしろ、外側で働いて肉を種々に殺すことをしないものであるなら、内的な悔い改めはおよそ無に等しい。」

[4] 『九十五箇条の提題』は、贖宥の効力を完全に否定はしておらず、限定的に認めています。煉獄の存在も認めており、これらをルターが撤回したのは後のことです。この意味でも、本文書は内容的には未熟で「宗教改革の最初」と呼ぶだけの内実はありません。

[5] 実際は教皇レオ十世こそが、贖宥状の販売で儲けようとしていたのですが…。この辺りの詳しい事情は、Wikipediaなどをご覧ください。Wikipedia 95箇条の論題 https://ja.wikipedia.org/wiki/95%E3%81%8B%E6%9D%A1%E3%81%AE%E8%AB%96%E9%A1%8C

[6] また、命題81「贖宥についてのこのような気ままな説教は、信徒のとがめだてや、あるいはいうまでもなく鋭い質問から教皇への敬意を救ってやることが、博学の人たちにさえ容易でないようにしている。」、命題82「すなわち、「もし教皇が、大聖堂建設のためのもっとも汚れた金、すなわち、もっともいやしい理由によって無数の魂を贖うとすれば、なぜ教皇はもっと聖なる愛や魂が最大に必要とするもの、すなわち、すべてのうちでもっとも正しい理由によって煉獄をからにしないのであろうか」。

[7] 当時、学術論争を呼びかけるため、城の門扉にラテン語で貼り紙をすることは一般的。特に論争的だとか、勇気ある抵抗ではなかった。ラテン語のため、庶民には読めなかった。しかし、これがヨーロッパ中に印刷・送付された。ルターに先んじて、フスやウィクリフなどの改革者もおり、同時代のツヴィングリらの改革者もいた上で、ルターの文書は大きく教会と、ヨーロッパ社会を(意に反して)動かしていった。

[8] マルティン・ルター著/深井智朗氏訳『宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』講談社学術文庫・2017年 

1 私たちの主であり、また教師であるイエス・キリストが「悔い改めのサクラメントを受けよ」と宣したとき、イエス・キリストは信じる者たちの生涯のすべてが悔い改めであることを願った。

2 その言葉が(司祭が職務上行う告解と償罪としての悔い改め、すなわち)サクラメントとしての悔い改めを指していると理解することはできない。

3 しかし、それはらだ内的な悔い改めだけを意図しているとは言えないし、それどころか内的な悔い改めが〔内的なものに対して〕外的なものである肉をさまざまな方法で殺すという帰結に向かわないなら、虚しいものになってしまう。

4 〔今ある〕自己を憎むということ(それは真の内的な悔い改めであるが)が続くかぎり、つまり天の国に入るときまで、罰は残る。

6 教皇は、神によって罪が赦されたと宣言すること、あるいはそれを承認すること以外には、どのような罪も赦すことはできない。また、自らに委ねられている責務に関する訴訟事項を赦すこと以外には(それゆえ、このような事項が見過ごされるなら、罪はなお残ることになる)、他のどのような罪も赦すことはできない。

7 神は、人間がどのようなことにおいても神の代理人である司祭に、謙虚に従っていないなら、誰の罪も赦すことはない。

12 以前は、教会法に基づく罰則は、真の痛悔を検証するために罪の赦しの後ではなく前に科された。

14 死を迎えようとしている者たちの癒しや愛が不完全であると、避け難いこととして大きな恐れがいつも付着してしまう。また、愛が小さければ小さいほど、恐れはますます大きくなる。

15 (他には何も語られなかったとしても)この恐れと慄きは、それ自体がすでに十分に煉獄の罰になっている。それは絶望という慄きに最も近いからである。

16 地獄、煉獄、天国の違いは、絶望、絶望への接近、救いの確かさの違いに対応している。

17 煉獄に置かれた魂にとっては、この慄きが軽減されるのに応じて愛が増し加わるのは当然である。

18 煉獄にある魂が功績を持つこと、愛が増し加わる状態にないことは、理性によっても聖書によっても証明されていない。

19 たとえ私たちが強く救いを確信しているとしても、煉獄にある魂が自らの救いについて確信し、また安心しているなどということは証明されていない。少なくとも〔そこに置かれている〕すべての魂がそのように確信しているということは証明などできない。

20 だからこそ教皇は、すべての罰についての完全な赦しを与えることで、それによって単純にすべての罰が赦されると理解するのではなく、それはただ自らが科した罰の赦しだけだと理解しているのである。

22 それどころか教皇が、この世で教会法の定めに従って解決されねばならなかった〔のに解決されなかった〕罰を、〔今は〕煉獄にある魂においては赦すことができる、などということはない。

23 あらゆる罰の完全な赦しを誰に与えるのかということになるなら、それは完全な人間に、ごくわずかなそのような人間にだけ与えられる。

25 教皇が煉獄に対してもっている権限と同じものを、その司教も、高位の聖職者も、それぞれの司教区、聖堂区に対して個別的にもっている。

26 教皇の鍵の権能(もちろん教皇はこの権限を煉獄ではもっていないのであるが)によってではなく、とりなしの行為〔代理の祈りとしての代禱〕によって魂に赦しを与えるのは最もよい行いである。

27 お金が箱の中に投げ入れられ、そのお金がチャリンと音を立てるや否や、魂が飛び立つ〔とともに煉獄を去る〕と教える人たちは、〔神の教えではなく〕人間的な教えを宣べ伝えている。

(以下、略)


ルターと宗教改革「95か条の提題」とは - - ドイツニュース

ルター95ヶ条の提題(日英対訳)500周年

宗教歌の原語演奏について ガハプカ奈美

九十五箇条の提題 Wikisource

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2021/10/31 士師記6-7章「ギデオン」こども聖書㉝

2021-10-30 13:57:39 | こども聖書
2021/10/31 士師記6-7章「ギデオン」こども聖書㉝

 聖書の士師記からのお話しです。今まで、エジプトの奴隷だったイスラエル人を、神が解放してくださり、新しい地に導き入れてくださったことを見てきました。やっと、自由な生活が始まったのに、彼らはそこでも神を忘れて、周りの国々の偶像の神々に目を向けるようになりました。そうして、苦しくなっては神を求めると、神は彼らを助けるため、指導者を遣わされます。それが「さばきつかさ」、士師記の「士師」です。

 今日読んだギデオンは、その士師(さばきつかさ)の一人です。ギデオンのことは、士師記の6~8章までとても詳しく記されています。その当時、イスラエルの地は、ミディアン人という外国の民に侵略されて、家畜も住む家も奪われていました。そのミディアン人から解放するために、神はギデオンを選ばれたのです。では、彼はとても勇敢な人だったかと言えばその逆で、とても臆病な人でした。臆病こそギデオンの特徴です。

6:11 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。

 見つからないよう低い踏み場に隠れて麦打ちをしていた。そんな臆病なギデオンに、

12主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる」

 ギデオンはどんなにビックリしたでしょう。そして、彼が言ったのは反論でした。

6:13「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」

 しかしそのためにこそ主は来られたのです。主は彼の方を向いて言われました。

14…「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

 こう言われて、ギデオンはビックリのけぞります。私なんか無理です!と言うのです。

15「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」

 最も弱く、若くて隠れていた臆病者の私ですよ。すると、

16主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ」

 こう仰って、ギデオンはミディアン人と戦う指導者になるのです。この後も、ギデオンは臆病ぶりを晒します。堂々とせずに、夜こっそり偶像を倒してバレたり、徴を求めて、神を二度も煩わせたりします。それはぜひ、聖書の士師記6~7章を読んで下さい。

 ともかくこうしてミディアン人が大勢集まり、戦陣をしきました。

 その数は、十三万五千人の大軍勢です。これに対して、ギデオンの元に集まったのは三万二千人。たった四分の一。それでも集まった方です。

 ところが、主は思いもしないことを言われました。
7:2 主はギデオンに言われた。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。3 今、兵たちの耳に呼びかけよ。『だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよ』と。」
…すると、兵のうちの二万二千人が帰って行き、一万人が残った。

 「本当は怖い人は帰れ」と言ったら、三分の一以下になってしまいました。
 ところが、
4主はギデオンに言われた。「兵はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをより分けよう。」

 こう仰って、水の飲み方が、膝を突いた飲んだ人は帰されて、水を手ですくって口をつけて飲んだ人だけが残されました。


 最初の百分の一より少ない、たった三百人です。

 その三百人で、13万の軍隊に立ち向かうのです。
 彼らはこんな作戦を立てます。
7:16 彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛と空の壺を持たせ、その壺の中にたいまつを入れさせて、…。18 私と、私と一緒にいるすべての者が角笛を吹いたら、あなたがたもまた、全陣営を囲んで角笛を吹き鳴らし、『主のため、ギデオンのため』と言わなければならない。」

 夜中、寝込んでいる敵陣営を囲み、「壺割り脅かし作戦」をしたのです。ガチャン!

19…角笛を吹き鳴らし、その手に持っていた壺を打ち壊した。20三隊の者が角笛を吹き鳴らして、壺を打ち砕き、左手にたいまつを、右手に吹き鳴らす角笛を固く握って「主のため、ギデオンのための剣」と叫んだ。


 ミディアン人はビックリして走り出し、大声をあげて、パニックになり、同士討ちが始まります。こうして彼らは散り散りバラバラに逃げて、イスラエルに打ち負かされてしまいます。神はこうして、たった三百人の兵士でミディアン人を滅ぼされました。

 主は最初に言われました。
「「自分の手で自分を救った」と言って、わたしに向かって誇るといけないから」
と。この勝利も、この三百人が精鋭だったとか、作戦が成功したというより、主が下さった勝利ですね。また、ミディアン人の大軍が、大勢の力で勝って当然と思っていた自信が砕かれた出来事です。人は、神を忘れて、数や力や知恵を誇ります。自分の手で勝った、勝ち負けは自分の問題だと思うのです。しかし、問題は神を忘れていることです。だから、神はこの時、兵士を減らしました。そもそも、その時代一番の勇者ではなく、弱くて臆病なギデオンを選ばれたのです。
 主は言われます。

しかし主は「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」 Ⅱコリント12:9

 神は強さや力に胡座をかいている人を辱め、小さな人、無力だと思われている人を勝利させられます。神は、私たちをも選ばれて、神のわざに用いられます。自分の手ではなく、神の手が私たちを救ってくださる。不思議な知恵や方法で、勝利をもたらさせてくださいます。そういう体験を期待して、主に自分をお献げしながら歩むのです。

「主よ。あなたは臆病なギデオンを選んで、松明とラッパで大軍に勝利させました。人の力に恐れを抱く時、あなたを信頼させてください。自分が弱くても、弱いからこそ、あなたが事をなし、私たちを強めてもくださる事を信頼します。あなたの恵みがすべてを新しくし、人の考えに勝る、赦し、和解、癒やしの御業がなされていきますように」
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2021/10/24 ヨシュア記1-6章「エリコの町」こども聖書㉜

2021-10-23 11:49:58 | こども聖書
2021/10/24 ヨシュア記1-6章「エリコの町」こども聖書㉜
 エジプトの奴隷だったイスラエル人が、奴隷生活から解放されて、新しい地、カナンの地に向かって旅をしてきました。その旅は40年続きました。最初にエジプトを出て来た人たちは、旅の途中で亡くなっていき、その子どもたちの代になりました。最初の指導者のモーセも亡くなって、新しい指導者、ヨシュアに交代しました。そこで、今日の聖書の本は「ヨシュア記」、ヨシュアの時代の記録という代になっています。神はヨシュアに、イスラエルの民を約束の地に導く役割を、モーセから引き継いで、お与えになりました。そこで、ヨシュアは約束の地に、偵察を二人送り込みました。
 彼らが向かったのは、約束の地の一番手前にある「エリコ」の町です。その町は高台にある頑丈な町でした。高さ4m、厚さ2mの城壁が、周囲を囲んでいる要塞でした。
 ところが実はこの町の人々も、イスラエルの人たちにビクビクしていました。何しろ、神様が彼らをエジプトから救い出して、途中たくさんの不思議なことをして、ここまで連れて来てくださったのです。エリコの人々は、好き勝手に生きてきましたが、自分たちは神様ではないことは分かっていました。だから、ビクビクしていたのです。そこで、イスラエルから二人のスパイが来ていることを聴いて、彼らを捕まえようとしました。でも、その時、ラハブという女の人が、二人を匿いました。屋上に隠れさせて、暗くなってから、二人を窓から綱で吊り降ろして、城壁の外に脱出させたのです。

 最後に、
12(ラハブ)私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、13私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。…
14[偵察隊]あなたが私達のことを誰にも告げないなら、主が私たちにこの地を与えてくださるとき、あなたに誠意と真実を尽くそう。…
21…(ラハブ)「おことばどおりにしましょう」
こう約束を交わしたのです。こうして二人のスパイはヨシュアの所に戻って、報告をしました。エリコの町の城壁のこと、ラハブのこと、すべて報告してから、
24「主はあの地をことごとく私たちの手にお与えになりました。確かに、あの地の住民はみな、私たちのゆえに震えおののいています。」
 そうです、神は、エリコの町の城壁よりも強いお方です。人間よりも遙かに強いお方です。けれども、神はここで、エリコの町をすぐに崩すことも出来るのに、不思議な遠回りを命じて、イスラエルの民がもう一度、心を決めて神に従うことを求めました。
 2主はヨシュアに告げられた。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。3あなたがた戦士はみな町の周りを回れ。町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。4七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進め。七日目には、あなたがたは七回、町の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。5祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな大声でときの声をあげよ。そうすれば町の城門は崩れ落ちる。民はそれぞれ、まっすぐに攻め上れ。」
 イスラエルの民全員で列になって、一日一回、エリコの町を回るのです。何も言わず、黙ったまま、ただ静かに町の周りを回って、そして帰って来るのです。次の日も、同じようにして、黙ったまま町の周りを皆で歩いて、それを六日繰り返すのです。そして、最後の七日目に、七回回ったら、祭司たちが角笛を吹き鳴らします。
 彼らは、この不思議な、回り諄い言葉に従いました。口で言うのは簡単ですが、今日から1週間、一日一回だけ黙ったまま歩いて、それだけで過ごすなんて、想像してみてください。どんなにじれったいでしょうね。でも「神様は何でも出来るお方」だからといって、簡単にすべてが進んだら、私たちは神を信じるより、自分が神様かご主人のようになってしまうでしょう。それは、神が願う私達のあり方ではありません。この時も、エリコの町を崩すより、イスラエル人が神を信頼し、神に従う方が大切だったのです。そうして、彼らは毎日、一度だけエリコの町を周り、黙って七日間待ちました。
 そして、最後の日、七日目に、七回町を回りました。最後に、祭司たちが角笛を吹き鳴らし、みんなが大声を上げて叫ぶと、城門は崩れてしまいました。そして、そこに攻め入って、エリコの町を攻め取ったのです。


 難攻不落と思えて、イスラエルの前に立ちはだかっていた要塞は崩れました。そして、肝心なラハブとの約束も果たされました。
25…遊女ラハブと、その一族と、彼女に連なるすべての者をヨシュアが生かしておいたので、彼女はイスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを偵察させようとしてヨシュアが送った使いたちを、彼女がかくまったからである。
 ラハブと家族は、イスラエルの民になりました。そして、ラハブの孫の孫が、ダビデ王になりました。ラハブの血は、ダビデ王に受け継がれたのです。とても不思議な事ですね。更にダビデのずっと後の子孫として、イエス・キリストがお生まれになりました。ですから、ラハブの血は、イエス様の身体にも流れているのです。新約聖書の一ページには、イエス様の系図が書かれていますが、そこにはシッカリ、ラハブの名前も載っています。エリコのラハブもイエス様の家系の大事な一人です。

 イエスというお名前は、元々のヘブル語では「イエシュア」です。ヨシュアです。新しい地に導き入れた指導者ヨシュアは、私達に新しい地、約束の御国を継がせてくださるイエスを示しています。

 そしてそれは、私達も時間を掛けて神様を信じたり、ラハブのような敵の町の女性も救ったりなさるような、不思議な導き方です。私達が楽をして、天国に入る、というようなものではなく、私達が変えられて、成長させられていく、そういう導き方をなさるお方です。そして、エリコの町をも崩した神は、イエスが葬られた墓をも開いて、よみがえらせたように、私達の心も新しくしてくださるお方です。時間をかけて、私達の心を作りかえ、神を待つこと、神に従うことを教えてくださいます。

「主よ。今も、イエス様が私達を導き、約束に預からせてくださることを感謝します。あなたが本当に神であり、あなたの祝福が確かにあると信じるために、私達は時として大きく遠回りをします。今この時も長い間、待ち続け、じれったいを思いをしています。どうぞ、その中でもあなたを信頼し、忍耐を戴いて、今日の勤めを、心込めてさせてください。あなたの不思議な、長い物語が一日一日進んで行くことを信じさせてください」
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2021/10/17 マタイ伝25章31~46節「最も小さい者となる神」

2021-10-16 15:55:28 | マタイの福音書講解
2021/10/17 マタイ伝25章31~46節「最も小さい者となる神」

 ここでイエスは弟子たちに「羊と山羊の譬え」として知られる教えを語っています。
31人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。32そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、33羊を自分の右に、やぎを左に置きます。

 羊と山羊に「譬え」てはいますが、「例え話」と言うより、やがての世界の裁きの「現実」が語られています。これは23章からの長い説教を締め括る、とても大事な光景(イラストレーション)です。
 羊と山羊は当時、日中は一緒に飼われていました。見た目も良く似ていて、今ほど区別はなかったようです。しかし、夕方になると羊飼いはより分けます。どうするかと言うと、寒さの苦手な山羊が自分から小屋や囲いの中に入り、羊は羊飼いのそばに留まる。山羊は自分で生きていく強い動物。一人でも大丈夫、立派に生きる野生動物です[1]。羊は逆です。弱くて、近眼で頭も良くなく迷いやすいのです。だから養ってくれる羊飼いの側から離れません。それで分かれるのです。



 羊飼いがより分けるような、山羊が自ら離れていくのでもある。そのようにして人の子(キリスト)はすべての人をより分けます。イエスのそばの右の人と、自分でも立派に生きてきた、愚かな羊なんかと一緒にされたくないと思っている左の人に分かれるのです[2]。

34それから王は右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい…。

 こう言われる、右の人々は、羊のように自分だけでは生きていけない人、羊飼いなるキリストを頼る人です。「心の貧しい人」「医者を必要とする病人」、重荷を負って疲れた人、「罪人」だと蔑まれていた人が、イエスのそばに招かれて、この祝福の言葉を聞くのです。[3]

35あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、36わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。[4]

 こう言われても、その右にいる人たちは何のことか分かりません。

37すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。38いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。39いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

 全くそんなことは思い当たらない。これも羊っぽいですね。でも王は彼らに答えるのです。
40…『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』[5]

 これは「最も小さい者にしたかどうかで祝福や御国が決まる」というより、34節にありました。

34…「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい…。

 元々、世界の最初から神は彼らに祝福を備えていました[6]。
 祝福があっても、世界には問題が起きます。飢え、渇き、家を離れ、病気になり、投獄される(無実の罪か、実際の犯罪かを問わず)ことも起きます。この王は、そんな悲惨をなくすよりも、そこで最も隅に追いやられた人、小さな人と一つになる神です[7]。そこで人もその人に寄り添うことを喜び、祝福し、忘れない方です。人は上辺しか見えませんが、神はもっと深いところにおられます。人は、その神に支えられて生きる、羊のような小さな者です[8]。でも同時に、その小さな歩みで自分でも忘れた行いは決して無駄ではなく、神がご自身への行いとして喜ばれ覚えておられる。そうして最後には父なる神に祝福されて、御国をともに受け継ぐ。そう神が備えておられるのです。そんな神の深い眼差しを知るなら、私たちは深く謙虚にならずにおれません。左にいた人は、

41「のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ」

と言われます。「永遠の火」は彼らのためではありませんでした。神が用意されるのは祝福や御国なのです。けれども、この人々はそこから離れて、山羊のように自分でちゃんと生きているように思っています。神に対する義務を果たしている自負があります。それが、神からの贈り物を受け取れなくしてしまう。結局、それは永遠に神抜きの小屋に閉じこもる滅びです。

 神が祝福の贈り物を用意しているのに、人はそれを卑しく引き下げて「良い行いをしたら救われる、立派なキリスト者になれば祝福に与れる、神を喜ばせなければ滅ぼされる」などと誤変換しがちです。そういう世界では最も小さい者は、潰されます。イエスはこの驚かずにおれない譬えを語られました。いいえイエスご自身が、最も小さい者の一人となって貧しく、飢え渇く生涯を歩まれました。旅をして宿もなく、病気の人に触れ抱きしめ、囚人となり、裸にされました。何より私たち一人一人を、自分のように(つまり神のように)愛してくださいました[9]。その不思議な、ビックリする王が、神であり、一人一人を生かしてくださっています。そればかりか、私たちの小さな業、小さな一人への行いこそ、神へのささげ物なのです。
 小さな行為が私たちの思いも付かない働きをし、小さな一人がかけがえのない価値を持っている。そんな生き方へと変えられていく時、人より正しくあろうとする生き方から、自分こそが色々な人に助けられてあることに気づかされます[10]。教会は、この世界の隅々にまで、主がおられ、主の招きがあり、自分たちが多くの人を通して主に支えられてあることを知る集まりです。[11]

 この譬えは、私たちを神の視点へと引き戻してくれます。謙虚に仕える生き方を励まします。それでもやがての終わりの時、神の前に立つ時、思ってもいない言葉に驚くはずです。本当に神が私たちの生涯を見ておられた。出来なかったことも沢山あって、それはもう本当に足りませんでしたと言うしかない。でも、そればかりではなく、私たちの小さな業を喜び祝福としておられたと聞いて、主の御名を褒め称えずにはおれない時が来る。そう思うとますます感謝をもって、謙虚な心で生きてゆけます。小さな人に主イエスを見て生きていけるのです。[12]

「大いなる、そして不思議な主よ。あなたの祝福に感謝します。私たちは、貧しく弱く限りある者ですが、あなたが私たちを生かし、また私たちの小さな業をもご自身への贈り物として喜んでくださいます。その大きな憐れみを忘れて、自分を誇り、人を値踏みしてしまう愚かさを、どうぞ憐れんで、頑なな心を砕いてください。小さき者を愛されて十字架にかかられた主の愛が私たちを深く変えますように。その御国をともに受け継ぐべく、新しくしてくれますように」

[1] 羊は寒さに強いが、山羊は苦手。だから、すぐ囲いに入る。羊は、羊飼いとともにいることが大事。これも思い巡らしになるかもしれません。それぞれの行為によって不本意でも分けられる、のではないのです。左の人は、ヤギのように独立・自律を愛し、居心地の良い場所を求めます。右の民は、本来の神との関係を愛し、場所よりも羊飼い(なる主)の側にいることを求めます。私たちが求めているのは、天国という場所としてのパラダイスでしょうか? それとも、主のそばという関係性としての「神の国」でしょうか。

[2] 「羊はかわいらしく、純粋で善良で、神の民のシンボル。山羊は、サタンのシンボルで、ずる賢く性悪だ」というのは、恐らく、この箇所から演繹されて、後代に作られたイメージです。本来は、羊が神の民であるとは、人間の常識からすると逆なのです。https://www.jesusfilm.org/blog-and-stories/parable-sheep-and-goats.html

[3] これを、救いの条件と考えてしまうと、大変な問題が生まれます。「救われたければ、①最も小さい者に親切にして、②かつそれを覚えてはおらず、③最も小さい者にしなかったことがないようにしなければならない、という滅茶苦茶なジレンマで生きることになります。

[4] この言葉は、イザヤ書58章6節以下を踏まえています。つまり、イエスが初めて明らかにした規準ではなく、旧約から一貫した、主の規準です。それが分かるためにも、12節までを引用します。ぜひ、それ以降もひもといてお読みください。「イザヤ書58章6~8節「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。7飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。8そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる。9そのとき、あなたが呼ぶと主は答え、あなたが叫び求めると、『わたしはここにいる』と主は言う。もし、あなたの間から、くびきを除き去り、虐げの指をさすことや、邪悪なことばを取り去り、10 飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。11主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。12あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたる礎を築き直し、『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。」

[5] この「わたしの兄弟たち」が、一体誰のことを指しているのか、は様々な解釈があります。①ここにいるのは使徒・イエスの弟子だから、「これらの」は使徒、牧師・宣教師であり、ここに描写されているのは、信仰・宣教ゆえの迫害を指している。使徒9:4では、教会への迫害を「わたしを迫害する」と言っておられます。②すべての困窮者・貧者のこと。そこから、社会救済的な働きが奨励されます。トルストイの「靴屋のマルチン」などは、こうした理解で、最後にマタイ25章40節が読み上げられます。③あなたの敵・差別している相手のこと。

  しかし、「わたしの兄弟」とは誰かという定義は、ルカ11章の「良きサマリヤ人のたとえ」を引き出した「私の隣人とは誰のことですか」という問いにも通じます。これに対してイエスは、上述のたとえを語り、「だれがこの人の隣人になったと思いますか」と問われました。「わたしの兄弟たち」とは誰か、というよりも、私たちにとって意外な人、最も小さいひとりをも、「わたしの兄弟」とイエスが言われて、「わたしにしたのである」という言葉が驚きであることがポイントです。「だれか」が定まってしまうなら、この最後の時の驚きはなくなってしまうのですから。

[6] 「祝福された人たち」ユーロゲーメノイは、「幸いだマカリオイ」とは違い、良い言葉を言うを原意とする祝福です。英語では、どちらもBlessedですが、もっと積極的です。

[7] ここでも、「わたしにしたのである」と言われた「最も小さい者(飢えた人、旅人、貧者、病人、囚人)」自身は救われないのでしょうか。彼らにしたことはイエスがご自身への行為として受け取るのに、その彼らは厳しい条件のふるいにかけられるとしたら、ほとんど救われない、とはおかしな話ではありませんか。人が良い行いや信仰を持つから救われるのではありませんし、それがないから救われない、ということなら、様々な矛盾が生じてしまいます。

[8] それは、自己嫌悪・自己卑下・罪悪感を抱くことでもありません。羊が弱く、愚かで、依存的なのは、そういうものだからであって、強く賢い動物に変わることを求められているのではないのです。私たちが自分を羊として受け取ることは、劣等感の塊となることではありません。むしろ、生かされている喜び、自分の力を超えた大きな恵みの中に生かされていることに、信頼と自信さえ持たされる事実です。

[9] それは、ここの言葉から言えば、私たちにすることであると同時に、神がご自分への行為として受け取ってくださったことでもあります。

[10] 教会史家シャフは、二世紀の教会について、「なんじの兄弟たちの中に、なんじは主ご自身を見たのだ、と言うのが、はやり文句であった」と言っています。(P. Schaff: History of the Christian Church, ii, p. 374)。榊原康夫『マタイ福音書講解 下』203頁。

[11] イエスを信じれば救われる、信じなければ救われない、というのなら、他の宗教と変わらない。イエスは私たちを救い、虐げられている者の友となり、最も小さい者と一つになりたもうお方だ。そういうお方だから、私たちは信じるのだ。イエスを中心にする世界ではなく、世界の隅々にまでおられるイエスであることを信じるのだ。

[12] 『キリストに従う』(あるいは『服従』、森平太訳、新教出版、1966年)という著作で、ボーンフェーファーがこう言っております。「神の言葉は弱いものであって、人間から軽視され嘲笑されるほどである。御言葉の前にあるのは、頑なな心と、人を閉ざす罪である。御言葉は,自分をつぶしにかかる反抗があるのを認め、そのために苦しむ」(p203)。神の言葉はそういう弱いものなのです。そして、この神学者は続けます。「この御言葉の弱さについて何も知らない弟子は、神の御子が貧しい姿を取られたという秘義を認識することがなかったであろう。人が躓くことを知っていたこの弱い御言葉だけが、罪人を心の奥底から悔い改めさせる強くかつ哀れみに満ちた言葉なのである」(p204)。マラナタ教会「すべての民族をさばく」2019年5月12日説教。 晴佐久昌英神父の説教もユニークでした。https://fukuinnomura.com/?p=8370


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2021/10/1 民数記13-14章「12人のスパイ」こども聖書㉛

2021-10-16 12:56:10 | こども聖書
2021/10/1 民数記13-14章「12人のスパイ」こども聖書㉛

 今から1500年ほど前、エジプトの国で奴隷として使われていたイスラエルの民を、神は解放してくださいました。そして、荒野を通って、彼らを導き、新しい掟、「律法」を下さいました。そうして、彼らは約束の地の手前にまでやってきました。神である主はイスラエルの指導者モーセに、偵察をするよう命じました。イスラエルの12の部族から一人ずつ、えり抜きの勇者たちが選ばれました。つまり、12人のスパイです。
民数記13章17節
モーセは、カナンの地の偵察のために彼らを遣わして言った。「向こうに上って行ってネゲブに入り、山地に行き、18その地がどんなであるか、調べてきなさい。そこに住んでいる民が強いか弱いか、少ないか多いか、19また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営か、それとも城壁の町か、20土地はどうか、それは肥えているか痩せているか、そこには木があるかないか。勇気を出して、その地の果物を取って来なさい。」

 こう言われて、12人のスパイは出かけて行きました。約束の地を40日掛けて、歩いて偵察しました。その土地の善さと危険、どちらも探ったのです。約束の地を、南から北の端まで偵察したのです。そこに住む人たちは、大きな身体をしていて、強そうでした。戦いは楽ではないでしょう。でも、その土地の食べ物は大きく、美しい景色でした。
 葡萄一房を二人で担いで、というのですから、どんな様子だったのでしょう? 他にも果物が豊かでした。40日の間、きっと危険や驚き、ドキドキハラハラしたでしょう。そうして帰って来た彼らは、果物を見せながら、イスラエルの民に報告をしました。

27…私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。


そして、これがそこの果物です。


ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナク[巨人]の子孫を見ました。


…31…あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。



…33…私たちの目には自分たちがバッタのように見えた」


 こう悪く言いふらしたのです。12人のうち十人は悪く言いふらしましたが、二人は違いました。その二人は、ヨシュアとカレブです。この二人は神を信じて励ましました。
14:7…「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。8もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。9ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。…主が私たちとともにおられるのだ。…」



 このように言います。偵察は必要で、どんな敵が待っているか、どんな事が予想されるか、知ることは大事です。しかし、神である主はどんな出来事にも、必要な知恵や助けを下さいます。ここまでもそうでした。これからも主はともにおられます。約束してくださった通り、この地を与えてくださるのです。それを信じたのは、二人だけでした。

 十人のスパイが悪く言うのを聴いて、イスラエルの民はそれを信じてしまいます。

「我々はエジプトの地で死んでいたらよかった。あの地に行けば、子どもたちはかすめ奪われてしまう。さあ、われわれは、かしらを立ててエジプトに帰ろう。」

 そういって、ヨシュアとカレブは石で打ち殺そうとするのです。神である主はそこで介入されます。モーセが懇願したおかげで、民は滅びを免れますが、主はこう仰います。
22わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、23わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。…
30エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは…31おまえたちが『かすめ奪われてしまう』と言った、おまえの子どもたちについては、わたしは彼らを導き入れる。

 残り十人のスパイは、特に責任が重く問われ、病気で死にます。しかし、これを聞いた大人たちは、今更マズかったと思ったのでしょう。次の朝、こう言い出します。
40…われわれはここにいるが、とにかく主が言われた場所へ上って行ってみよう。われわれは罪を犯してしまったのだ。

 反省しているようですけど、これは神の求める態度ではありませんでした。モーセが

「あなたがたはいったいなぜ、主の命令を破ろうとするのか。それは成功しない。42上って行ってはならない。主があなたがたのうちにおられないのだから。…」

 こう言っても民は耳を貸さず、自分たちで戦いに行き、しかしあっけなく返り討ちに遭い、散り散りに逃げ周ります。そして、生き残った人々は、40年の荒野の旅を続けるのです。

 エジプトの奴隷生活から解放されたのに、イスラエルの人々は、まだ神を信じ切れず、人を恐れたり、勝手にエジプトに帰ろうとしました。ヨシュアとカレブを殺そうとし、主がともにおられないのに、上辺だけの悔い改めで戦おうとしてしまいました。苦しい生活が自由になるだけでは、人は変わりません。環境が良くなっても、人の心が勇気を持てるわけではないのです。イスラエルの物語は、私たちの「救い」が、悪から救われるだけでは不十分で、心が新しくされなければならないことを教えています。
 神が考えておられる救いは、イエス・キリストが来られて、私たちの心を新しくしてくださることです。イエス・キリストが下さる救いは、心の底まで満たします。自分の中にある、恐れや憎しみを手放して、信頼と勇気を与えようという救いです。
 そのために、大きな回り道を通らなければならないかもしれません。何十年、一生涯かかるかもしれません。イエスは、そんな遠回りも、厭いません。いえ、ご自身が人間となって何十年も過ごして、十字架にかかりよみに下る遠回りも厭わないお方です。周りが変わることも必要でしょう。それとともに、私たちを主が変えて、偽りや不信仰から救ってくださるよう、祈りましょう。



「主よ、約束の地を見ても、十人のスパイも、殆どの民も、あなたを信じるより、恐れてしまいました。あなたは、いつも人の経験や予測を超えたことをなさいます。あなたはチャレンジングなお方です。あなたの大きさを思い、自分の臆病に囚われないようお守りください。あなたの力を信じることを励まし合うような言葉を、語り合わせてください。荒野を行くような旅路でも、あなたがともにいて、私たちを新しくしてください」
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