聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問答45、46「ただあなたの神だけを」 ヨシュア記24章16~18節

2015-04-26 15:18:40 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/04/26 ウェストミンスター小教理問答45、46「ただあなたの神だけを」 ヨシュア記24章16~18節

 

 サタンがイエス様を誘惑して、世界を見せてこう言ったとありました。

…「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」(マタイ四9-10)

 この言葉を聞いて、私は「サタンはバカだなぁ。イエス様に、「私を拝めば、世界をあげよう」だなんて言っても、イエス様がサタンを拝むわけがないじゃないか」と思っていたものです。でも、イエス様は分かりやすくそう仰ったのであって、実は、人間にとって、神様以外のものを拝んだり頭を下げたりして、欲しいものを手に入れよう、という誘惑というのは、とてもとても強いものなのです。イエス様だからここでお勝ちになったのであって、もし私がここでイエス様の立場だったら、負けたかもしれません。サタンというのは真っ黒で角の着いた尻尾がある、分かりやすい悪魔だったらいいんでしょうが、

もっと強い、恐ろしく見えるものかもしれません。

それとも、物凄く、優しそうに語りかけてくるかもしれません。「大変でしょう。ちょっとぐらいいいじゃない? 神様も間違うかも知れないし、他のものだって大切だよ」と言って、神様以外のものに頭を下げさせようとすることのほうが多いと思います。

 イエス様は、そういう声を聞いても、間違いませんでした。

 「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。

とお答えになりました。神様が教えて下さった、十戒の第一戒に教えられている事です。

問45 第一戒は、どれですか。

答 第一戒は、「あなたは、わたしの前で、わたしのほかに神々があってはならない」です。

問46 第一戒では、何が求められていますか。

答 第一戒は私たちに、神が唯一のまことの神、また私たちの神であることを知り、認めること、そして、その事実にふさわしく神を礼拝し、神に栄光を帰すこと、を求めています。

 イエス様は、サタンがどんな手を使おうと、たとえ全世界を手に入れることが出来るとしても、それと引き替えに、神以外のものを礼拝しようとはしませんでした。けれども、誤解しないでください。神様以外のものを拝んではいけないと言われているから、渋々我慢して、サタンを拝まなかった、ということではないのですね。神様は、わたしのほかに神々があってはならない、と言われました。でもそれは、神様の心が狭くて、頑固で、堅物だから、ではないのですね。

 …神が唯一のまことの神、また私たちの神であることを知り、認める…

とあるように、他に神はいないからです。神は唯一です。おひとりだけです。世界をお造りになったのは、三位一体の神だけです。世界をお造りになった、大いなる神様に並ぶものは他にありません。だから、

 …その事実にふさわしく神を礼拝し、神に栄光を帰すこと…

もまた、当然のことなのです。私たちは、創造主であり、無限で永遠のお方を直接知る事は、今は出来ません。ですから、神の栄光を反映している世界を通して、神の素晴らしさを垣間見るだけです。でも、神の作品である世界でさえ、知れば知るほど、不思議で、よく出来ています。宇宙のことや、数学や物理の公式、音楽や芸術、どんな分野でも全部分かったとか、もうやり尽くしたといえるものはありませんね。

科学者にもクリスチャンは沢山います。研究をすればするほど、神の素晴らしさを賛美せずにはいられないと言います。そして、人間そのものも、複雑で不思議で、理解し尽くせない、奥深い存在です。こうしたすべてが、それをみな造られた神様の栄光の不思議さを、ほんの少しだけ、映し出しているのです。そして、特に人間同士は、本当に相手を知ろうとしたら、話しを聞かなければなりません。自分を知ってもらうには、ただ身体検査をして、身長が何センチ、体重が何キロ、髪の毛は何本、と分かったとしても、分かってもらえたと思えますか? アルバムを見たり、成績表を全部見られたとしても、それが私の全部だと思って欲しくはないですね。レントゲンを撮ったり、解剖されたりCTでスキャンされても、そういうことではないと、やめてくれと言いたくなるだけでしょう。

 神様を知るというのもそういうことです。神様について知るだけでなく、神様を礼拝し、神様の愛を知り、イエス様といっしょに過ごすのです。聖書では、知る、というのは、夫婦になって体を一つにするときに使われるような、特別な親しい関係を指す事があります。私たちが神様を知るとき、私たちは神様との特別な親しい関係に入るのです。神様の大きさを知って喜び、神様を礼拝し、心から神様を賛美するのです。だから、他のものはその神様と、比べることさえ出来ないと分かるから、礼拝しないのです。

 サタンは、神様だけを拝まなくちゃいけないなんて不自由だなぁ、と思わせたいのです。私たちは、「いいえ、神様の素晴らしさを知ったら、神様以外のものに頭を下げなきゃいけないだなんておかしな事だとしか思えません」と言うのです。

そうはいっても、神様から離れた人間は、神様の大きさに目を向けないで、自分に都合のよい神を造ろうとします。だからこそ、私たちは礼拝に来るのですし、自分で聖書を読み、家族や友だちと信仰を励まし合っていく必要があります。そして、神様の素晴らしさ、ということとともに、その神様が、「私たちの神」となってくださったこと、そのために、神の子イエス様が十字架にかかるほどの犠牲をも惜しまれなかったことを思います。そして、その神様の愛が、今も私たち一人一人に注がれていることを必ず味わい知るのです。

 使徒パウロは言いました。「…私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」世界を合わせたとしても、「いっさいのこと」が損やゴミと見えるほど、主を知る事はすばらしい。主はそのようなお方です。神は、世界を造り、すべてを治めておられ、私たちを愛して、導いておられます。私たちを支え、慰め、励ましてくださいます。どんな時にも良いご計画を進めておられ、私たちの手の業を用いてくださる神です。この神だけを礼拝しましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルカの福音書二一章34~38節「すべての人に臨む」

2015-04-26 15:16:43 | ルカ

2015/4/26 ルカの福音書二一章34~38節「すべての人に臨む」

 

 先週は、神戸で「キリスト者の職業倫理」というテーマでの学びに参加してきました。改めて、職業・仕事においてキリスト者として生きる事の大切さを深く考えました。時として、伝道に熱心な余り、「仕事よりも教会奉仕、職場でもチャンスがあれば仕事はそっちのけで伝道」、そういう考えがあります。けれども、それは聖書の教えではありません。社会において労働し、経済や文化や福祉を、神様から与えられた大事な人間の一面として果たしていく事こそ、キリスト者の職業観、人生観である。そういう反省を込めた学びであったと思います。

 今日で二一章を読み終わります。次の二二章からは、いよいよイエス様の十字架に向けて、最終段階に入るのです。その前のこの箇所は、エルサレムに入城されてからイエス様が、民衆に向かって公に教えられた箇所を締め括っています。そこに描かれているのは、

37さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。

38民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まって来た。

 ここには、十字架にかかられる前に、イエス様の周りに教えを聞こうと集まる人々の光景が描かれています[1]。朝早くから。でも、それで一日中、他に何もせずに熱心にイエス様の教えにだけ聞き続けていたのでしょうか。勿論、この時、世界中から「過越の祭」に来ていた巡礼者たちはそういうことも出来たでしょう。しかし、仕事をしていた人もいたでしょうし、巡礼者たちだって、ヒマだったわけではないと思います。むしろ、他にもすることがあるからこそ、朝早くしか時間がなくて、来ていたのではないでしょうか。そして、そこから彼らはイエス様の言葉に励まされ、思いを与えられて、それぞれの仕事や生活へと出て行ったのです。

34あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。

という文章は、直接には「あなたがたの心が、この世の放蕩や深酒や煩いのために沈み込んでいることのないように、よく気をつけていなさい」と語っています[2]。「沈み込んでいないよう気をつけなさい」と言われています。この世のこと[3]、生活の様々な物事が全てになってしまって、頭を抱えたり、酔い痴れたり、そこに沈んでいる。仕事の心配や先行きへの計画、良い学校、良い就職、世間体、競争…。そうした事が人生のすべてになってしまい、すっかりそちらにのめり込んでいる。「この世」に「悪酔い」して生きてはならない、という警告なのです[4]

 前の32節や33節でも、この時代は過ぎ去り、天地も滅びると仰っていました。私たちの住んでいる世界、生活、仕事、評判などはいつかは必ずなくなります。それを忘れて、仕事や世間話やTVなどから刷り込まれた価値観に耽溺してしまうことをイエス様は警告してくださいます。そうでないと、イエス様が訪れる日、神の国が現れる時に、突然罠にかかったような思いで迎えることになるでしょう。この世界が終わって、神の国が完全な形で始まる日は、喜ばしい日、待ち遠しい、晴れがましい日なのですね。それを覚えて、目の前の物事と適切な距離を持って生きなさい、とイエス様は言ってくださっています。

35その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。

と言われた事実を頭に置きながら、自分の生活、仕事、勉強に向かうのです。それは決して、今の生活はどうでもいいということではありません。「どうせ最後は滅びるんだ」と、いい加減な気持ちでするのではありません。もし大切でないのなら、神様は私たちにこんな生活をさせないでしょう。世界には、のめり込む危険もありますが、それだけの価値や意味もあるのです。大切な仕事、取り組み甲斐のある営みなのです。それがすべてであるかのように思う事が危険なのであって、ここが私たちの置かれた、大切な「持ち場」なのです。留守を任されたしもべは、ご主人が帰ってくるまで、家の様々な管理、家事、お世話を丁寧に果たします[5]。主人が帰ってくれば、すぐにその家をたたむのだとしても、大切に管理をします。それが今の私たちの歩みです[6]。ですからイエス様は仰いますね。

36しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

 いつも油断せずにいなさい。具体的には、やがて起ころうとする禍すべてから逃れ、人の子の前に立つことが出来るようにと祈りなさい。ただ熱心に祈るという以上に、具体的な祈りの内容も教えられています[7]。でも、今まで、迫害や禍は避けられないと言われていたのですね[8]。ですから、「のがれ」は「そんな目に遭わないように」という意味よりも「これらすべてのことが起きても、絡め取られてしまわないように」という意味でしょう。毎日のこと、この世界の物や生活がすべてであるかのように思っていると、禍が来た時に慌てふためき、絶望してしまうでしょう。しかし、私たちにとって究極のものは、見える世界や仕事のことではありません。最後には、「人の子」、つまり主イエス・キリストの前に立つことです。主の前に立つ、とは、主に仕えることです。私たちの目ざすべき事、願い求めるべき祈りは、やがて主の前に立ち、栄光の主に仕えることです[9]。今の生活をちゃんと働いて、支えられて、心配事なく過ごせるように、という願いも大事です。でも、それがいつまでも続くとかもっと豊かにしなければ、と考えてしまうなら危ないのです。私たちが見つめるべきゴールは、あらゆる禍や私たちの地上の生涯の終わりを経て後に、永遠に主の前に立ち、主に喜びをもってお仕えする時です。そして、今の私たちの仕事も、主の前に立つ者として果たさせて戴くのですね。

 私たちの仕事は、仕事そのものが偶像になってしまう危険もあります。そこに入れ込んでしまって、周りも自分も神も見えなくなってしまうこともあります。しかし、主が私たちに語っておられるのは、私たちの仕事も生活もそこでの苦しみも心配事も、すべてが主の手の中にある現実です。そして、天地が滅びても、私たちは、主の前に立たせて戴き、主に永遠に仕えるという、最高の仕事をさせていただく、という真理です。それは私たちが頑張ったり競争したり評価されるためにする仕事とは全く違います。私たちを愛し、尊い存在として下さる主の、測り知れない恵みによる務めです。キリストの十字架の愛を知る者としての生き甲斐です。そして、今日私たちも、ここで主の恵みを戴いて、それぞれの場所へと派遣されていくのです[10]

 毎日の生活に振り回され、悩み、空しさを覚え、仕事での評価に一喜一憂したりします。主は私たちに、仕事を神としないこと、天地の造り主だけを礼拝することを今日も思い出させてくださいます。そしてその神が私たちに、今の生活を任せてくださいました。生活と信仰、仕事と礼拝を切り離してはなりません。生活のすべてを、主の前にあって果たしていくのが神の召しです。仕事、学業や主婦業、あるいは病気の治療など、主に委ねられた歩みは一人一人違います。でも、どれも主の前に価値ある務めです。励まされ、誇りをもって出て行きましょう。

 

「あらゆる禍が降りかかっても恐れ惑わず、あなた様の前に立つ喜びを見据える者とならせてください。生活のことで思い悩み、仕事を生き甲斐にしやすい私たちを、あなた様は、その虚しさに気づかせて、あなたに向き直らせてくださいます。主に仕える幸いで一人一人を満たしてください。その幸いを祈り求めて集まっている私たちを、祝福して、お遣わしください」



[1] イエス様が、夜オリーブ山で過ごされたときは、同じ場所で祈っておられたことは、二二章の39、40節から分かります。そして、民衆が朝早くから集まって来たというのですから、当然イエス様も、朝から宮に来ておられたのです。夜は祈り、朝にはもう宮に来て民衆を教える、という毎日でした。

[2] 新共同訳「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」

[3] 「この世」はⅠコリント六3、4とここだけの「この世のこと」の意。

[4] 「放蕩」とは十五章の「放蕩息子」の言葉とは違い、お酒を飲み過ぎて目眩(めまい)や頭痛がしている状態です。

[5] Ⅰテサロニケ五2-6「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。3人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。4しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。5あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。6ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」

[6] ルカは、すでにこの事を述べていました。十二42-48「主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。43主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。44わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。45ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、46しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。47主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。48しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」

[7] この「祈り」は、一般的な「祈祷」ではなく、「求める」「祈願する」という言葉です。

[8] 9節「それは、初めに必ず起こることです。」、12節「しかし、これらすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。」、16節「しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、17わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」などなど。

[9] 「主の前に立つ」とは、「誘惑をくぐり抜けて、何とか天国にゴールインして、ゴールテープの向こうの表彰台で主の前に立ち、勝利の冠をもらう」というような光景だというイメージがあるかもしれませんが、そうではないのです。

[10] イエス様は、私たちを、そのような生き甲斐に生かしてくださいます。教えられ、警告されただけではありません。そのために祈ってくださいました。そして、そのために、ご自身のいのちを捧げてくださいました。その主の御業によって、私たちは今、ここに生かされています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問43、44「あなたの神となってくださる」

2015-04-19 22:15:02 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/04/19 ウェストミンスター小教理問答43、44「あなたの神となってくださる」

ヨシュア記24章16~18節

 

 神様は、私たちに、どのように生きればよいのかを教えてくださっています。それが、今までお話しして来た、「道徳律法」を通して、神様の御心を教えてくださった、ということになります。そして、その「道徳律法」をまとめたもの、要約したのが「十戒」です。そして、さらにその「十戒」を要約したのが、「神を愛し、隣人を愛する」ということだと、前回お話ししました。

 では、その十戒で、神様は私たちにどのような生き方を示してくださるのでしょうか。私たちが何をすれば、神様は喜ばれるのでしょうか。どうしなさいと仰るのでしょうか。

 ところが、十戒は、いきなり「何々をしなさい」と命じる前に、まず「序文」というものをお語りになるのですね。

問 十戒の序文は、何ですか。

答 十戒の序文は、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」という言葉で述べられています。

問 十戒の序文は、私たちに何を教えていますか。

答 十戒の序文は、私たちに、神は主であり、私たちの神また贖い主であられるので、それゆえに私たちは神のすべての戒めを守らなければならない、ということを教えています。

 神様はまずここで「名乗り」を上げられるのですね。ご自分が何者か、また、ご自分と私たちとの間柄が、どんな関係であるかを宣言されるのです。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」と仰るのです。そこから、他の神々を拝んではならないとか、偶像を造ってはならない、などなどのことが語られていくのです。もちろん、神様以外のものを神としない、ということも、人を殺したり裏切ったりダマしたりしない、ということも、どちらも教会に来ている人だけの義務ではなく、人類全員の当然の義務です。教会に行っていないから偶像崇拝をしてもいいとか、人を傷つけても怒られない、なんてことはありませんね。けれども、神様は、みんなのアタリマエのことを言うのではなく、私たちとは特別な関係にあります。それは、神様が私たちを救い出してくださった、という出来事に基づいています。神様は、昔はイスラエル人を奴隷として働かされていたエジプトから連れ出してくださいました。そして、後には、イエス様の十字架の死と復活とによって、教会を、罪の奴隷生活から救い出してくださいました。その出来事によって、神様は、私たちと特別な関係になりました。つまり、「わたしは、…あなたの神、主である」と言われる、特別な関係です。神様はおひとりだけですし、他の神は存在しませんが、神様は、特に私たちに対しては、「わたしは、あなたの神、主である」と仰ってくださっています。これは、とても恐れ多い、特別な出来事です。

 「主」というのは、神様のお名前です。神様の名前だけに、ここにはいろいろな意味が含まれているのですけど、神様は「なろうとするものになれる」お方だ、という含みがあるのだそうです。

英語だと、I am who I am と言われますが、その who I am …. の後に、何かをつけるのが自然なのだそうです。

神様は、何にでもなれるお方です。「わたしは、世界の王である」「わたしは、悪を滅ぼす審判者である」「わたしは、○○」…皆さんなら、神様をどんなお方だと表現するでしょうか。

神様は、ご自分で、いろいろなふさわしい宣言を選ぶことも出来たのに、その中から、なんと「わたしは、あなたの神、主である」と仰ることを選ばれたのですね。

いいですか。神様は、「あなたの神/私の神」となることを選んでくださったのです。すごいことではないでしょうか。そして、神様は、人間が真面目に正しく生きられたら、「あなたの神」になってあげるけれど、あんまり上手く出来ないようなら、止めることもあるからね、などとは仰いません。神様が、ご自分で、私たちの神になると決めて、奴隷の家から連れ出し、イエス様を送ってくださいました。それによって、私たちとの関係を結んでくださったのですから、これから何があっても、決して私たちを離れたり見捨てたり忘れたりせずに、私たちの神で居続けてくださるのですね。そして、そういう「私たちの神」として、私たちが生きるべき道を示したり、命じたりする権威も持っておいでなのです。

 神様に縛られるのは不自由だなぁと感じるでしょうか。窮屈だなぁと思いますか。そう思ったら、神様が、私たちを奴隷から救い出してくださり、罪から救い出してくださった、本当に善いお方、素晴らしい、愛の神様である事を思い出しましょう。悪い神とか冷たい神ではないのです。神様は、一点の曇りもない、素晴らしい神様です。その神様が私たちに語っておられる十戒は、私たちを悪い思いや間違った生き方から自由にしてくれるのです。例えば、「何にも縛られたくない。完全に自由になりたい。世界も宇宙も、自分の支配下に置きたい」と思っている人がいたとしたら、どうでしょう? その人は「自由だ、完全な自由だ」と言っているつもりで、実は「支配欲」とか「わがまま」という思いの奴隷になっているのですね。悪い心を神様としてしまっているのです。そんなものよりも、本当に素晴らしく、正しい、真理の神様に神になっていただいたほうがいいに決まっています。そして、主なる神様が私たちの神となってくださったことを言い換えると、私たちは「主の民」という所から、スタートして生きていくのです。

 神様がこうご自分の名乗りを上げて十戒を語り出されたように、私たちは自分が何者かを知ることが、神様の御心に生き始める第一歩になります。神様の御心を正しく行ったら、神様の子どもになれる、クリスチャンになれる、救って戴ける、という順番ではありません。まず、「神様が、私を救ってくださいましたから、私は、主の民です」と応えることから始まるのです。皆さんは「あなたは何者ですか」と聞かれたら、何と応えますか。「私は神様の民です」、あるいは「神様の子どもです」「神に愛されている者です」「イエス様の弟子です」。そう言えるでしょうか。イエス様が十字架にかかり、よみがえってくださって、聖霊が私たちにこの信仰と救いを届けてくださいました。ですから、どうぞ遠慮せずに、言わせていただきましょう。「神様が私の神です。私は主の民です。神様だけが私の主です。私は、神様に愛されている者です」と言いましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルカの福音書二一章29~33節「夏は近い」

2015-04-19 22:09:38 | ルカ

2015/4/19 ルカの福音書二一章29~33節「夏は近い」

 

 皆さんは、「夏は近い」と聞いて、どんな思いをされるでしょうか。「暑くて嫌だな」と思う方もいるでしょうが、今日の所でイエス様が仰っている、

29…「いちじくの木や、すべての木を見なさい。

30木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。

という言葉からすると、無花果(いちじく)や果物、身近な所だと梨や桃、美味しい実りの夏を思って、楽しみな思いにさせたいのではないでしょうか。無花果はユダヤでは生活に欠かせない果物であり、日本では考えられないほどの大樹となって町に木陰と美味しい実りを運んでくれます。しかし、冬の間の数ヶ月は葉も実も落ちるのだそうです[1]。その寂しい時期の終わりを告げるのが、無花果の「木の芽」だったとすると、それはただ「暑い夏」だけでなく「美味しい夏」「嬉しい夏」「楽しみな夏」の訪れを告げたのでしょう。

 イエス様は、そのように無花果やあらゆる木を見て夏の近いのを知ることを思い出させ、

31そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。

と言われます。「これらのこと」というのは、二一章の最初から言われてきたように、偽メシアや戦争や大地震や、様々な災厄や迫害です。そうしたものが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい、というのです。でも誤解しないで戴きたいのですが、大災害を見たら、まもなく世の終わりが来る、という意味ではないのですね。一つには、今申しましたように、夏が近いことは、「覚悟しろ」「諦めろ」というのではないのと同じように、「神の国は近い」のは喜ばしいことです。「世の終わり」「すべての崩壊」が近いという絶望ではなく、素晴らしい「神の国」が近いなら、喜び、希望、期待がふさわしいのです。28節でも言われていました。

28これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。

 うなだれていた背筋を伸ばし、顔を上げる。そのような前向きな姿勢をイエス様は促されました。その姿勢を励ますために、今日の所では「たとえ」を話されたのです。これは、二一章の最初から繰り返してきたことですが、イエス様は、やがてこの世界が終わることを断言しつつ、それがいつなのかを知ろうとか、その前には前兆めいた出来事があるはずだ、という当時の人々の考えを覆されます。天変地異や困難な出来事があると、「世界の終わりが近いに違いない」と言うのが人間は大好きですが、イエス様はそれは違うと仰います。今日の所で、イエス様が「神の国は近いと知りなさい」と仰ったのも、もうすぐ神の国が来る、という時間的な「近さ」ではないはずです。そもそもイエス様がこう仰ってから二千年近くの間に、様々な天変地異や戦争や大迫害、殉教があっても、まだ世は終わっていません。それを考えても、この「近い」というのは、いつ来てもおかしくないほど、私たちのそばに来ている、という「近さ」です。世の終わり自体は、一分後かもしれないし、一万年後かも知れませんが、どちらでも関係ないくらい、私たちのすぐそばに神の国は来ている。そう思いなさい、と言われたのです。

 マタイやマルコにもある「いちじくの木を見なさい」という言葉に、ルカは「すべての木を」と付け加えています。ルカの読者には、いちじくがあまり身近でない地方の人々もいたからでしょうか。無花果だけではなく、あらゆる木に神の国のヒントはあるのだとイエス様は仰っています。面白い喩えだと思います。私たちが考えがちなのは、果物が不作だとか、自然界の営みに異常が起きると、「何かの前兆に違いない」という恐れや不安です。しかし、イエス様は、異常事態よりもむしろ、春にはすべての木が芽吹いていること、野には花が咲き、空には雀(すずめ)や烏(からす)が飛び、夜には数え切れないほどの星が天を埋め尽くしている、その様子を「見なさい」と仰います[2]。自然の、何の変哲もないような営みに、神の国の近さを見て取れと仰るのです。それは、恐れたり怯えたり、何とかして先回りして避けられないかとその時を知ろう、という態度とは全く違います。神の国が完全に現れるのがいつであろうとも、今もうすでに、私たちのそば近くに、神の国は来ている。イエス様の御支配が始まっている。無花果も百合も、梨も西瓜も、雀も、月や星も、すべてを治めている神が、私をも養い、導き、愛してくださっている。その事に気づくなら、天地が揺れ動こうと、人生に思いがけない災難が降りかかろうと、いつかは必ず訪れる地上の生涯の終わりが来ても、恐れる必要はないし、委ねて行けるのです。

 ですから、この言葉はこう続きますね。

32まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

33この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 「神の国は」ではなくて、「わたしのことばは決して滅びることがありません」と仰るのですね。イエス様がお話しになる言葉が、ただの言葉や知恵や道徳なんかでは全くなくて、決して滅びることのないリアリティをもった真理、事実、支配なのだと仰るのです[3]。以前も、

十七20さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

21『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

 いつかどこかで始まる時になったら、慌てて準備をしよう、というものではない。今、私たちのただ中に、私たちの関わりの中に、イエス様が来られて、神の国を始める。それがイエス様の御心です。私たちが今この生涯において、神様の御言葉に聴く幸せ、語っていてくださる神への信頼を、味わい知っていくこと。自分の思い通りにしたいという支配を手放し、神様ならぬものを神のようにして縋(すが)り付くことを止めること。自分を守る生き方から、神の恵みへの信頼から自分を手放し、与え、他の人にも手を開いて、ともに歩むようになること。そうしたことをイエス様は語ってくださったのですね。これを思想だとか理想論だと思っていたら間違いなのです。このイエス様の言葉こそは、この天地が滅びた後にも、永遠に栄える「神の国」を私たちの中にもたらしている言葉なのです。

 そのイエス様の、恵みの御国を私たちが信頼して、今歩み続けたいと思います。

32…すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

と言われました。この時代においては、まだまだ様々にあらゆる出来事が起こるでしょう。御言葉を知らなければ、絶望したくなるようなことも起きるでしょう。天地も滅びるのです。しかし、イエス様の言葉は滅びることがありません。いいえ、滅びないというだけでなく、生きて働いて、私たちを励まし、慰め、強め、育ててくれる御言葉です[4]。私たちは「木の芽」です。まだ小さくても、確かに神の国の訪れを告げ知らせる存在として、遣わされていくのです。

* 今日はここで「国際飢餓対策機構」の働きの証しを紹介しました。 

「主よ。夏よりも、死よりも、何よりも確実に、神の国は私たちの近くにあります。主が私たちを治めておられます。その愛の言葉だけが私たちを生かします。その恵みの言葉によって、あなたは私たちに、平安と喜びを下さいます。すべての人が集まり、喜び合い、赦しと励ましを戴いて、神の国がささやかにでも、今ここに始まっていることを、味わい知らせてください」



[1] 『ビジュアル聖書百科』より。

[2] 「見なさい」は、ルカに頻出します。二48、七25、十三35、二四39(十二54)

[3] これと似た言い方は、十六37でも言われていました。「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです」。ここでは「律法」、すなわち、神が聖書において宣言されていた、聖なる御心です。ユダヤ人にとっては神聖不可侵とされた律法です。イエスは、ご自分の言葉が「律法」と等しいとされた。いや、主イエスこそは「律法」の宣言者であり、その口から出て来るものが律法なのだ、という発言です。

[4] この言葉は、旧約から一貫している「神の言葉の永遠性」を継承しています。イザヤ書四〇6では「「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に堅く立つ。」とあります。この神の言葉の「永遠性」「不変性」は、しかし、静的なものではありません。同じイザヤ書四〇28以下で「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。29疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。30若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」という、高らかな宣言に至るような「ことば」なのです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問42「神を愛し、人を愛せよ」 マタイ二二章34~40節

2015-04-12 20:29:14 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/04/12 ウェストミンスター小教理問答42「神を愛し、人を愛せよ」 マタイ二二章34~40節

 

 先週はイースターを挟みましたので、またウェストミンスター小教理問答に戻ります。前回は、十戒は窮屈な戒めのようだけれども、実は、私たちが色々と思い込んで、縛られている、この世界の「こうしなければ行けない」「こうしなければ幸せにはなれない」という考えの方がたくさんある。神様からの十戒は、私たちをそうした縛り付けから、本当の意味で解放してくれる、自由の言葉なのだ、というお話しをしました。今日は、その続きで、更に十戒の素晴らしさを、ご一緒に知っていきたいと思います。

ウェストミンスター小教理問答42 問 十戒の要約は、何ですか。

答 十戒の要約は、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、私たちの神である主を愛することと、隣人を自分自身のように愛することです。

 これは、今読みましたマタイの二二章34~39節で、イエス様が仰った言葉の通りです。律法の専門家が、イエス様に尋ねました。

36「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

38これがたいせつな第一の戒めです。

39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 律法、つまり、聖書全体が、この二つの戒めにかかっている、というくらい、大切な戒め、要約が、神を愛し、人を愛する、という愛の戒めです。ですから、十戒の規定の根底に流れているのも、この二つの愛の戒めです。キリスト教は「愛の宗教」と言われる通り、愛の言葉、愛の教え、愛しなさいという命令と、それを具体的に言い表した教えで満ちています。一つ一つが、大切で素晴らしい、愛についての御言葉が、沢山あります。その全部をお話ししたら、いくら時間があっても足りません。ですから、今日は神様が人間に与えられた御心が、この二つの愛の命令であったことに絞りましょう。

 神様は、人間に、ご自分を愛することと、お互いに愛し合うこととを求められました。それは、人間をお造りになった最初から、神様が人間に与えられた命令でした。つまり、神様は、人間を、愛に生きる存在として創造されたのです。聖書には、「神は愛です」という言葉があります。神ご自身が、三位一体の永遠の交わりの中で、互いに愛し合っておられる、愛の神です。その神は、愛を本質とされますから、神の御業はすべて愛に根差しています。愛よりも他の何かを目的とすることなど神にはあり得ません。ですから、人間を作られたときも、神様が一番考えておられたのは、愛です。人間を、愛をもって作られたのですし、人間も愛する存在としてお造りになりました。神様から愛をいただいて、考えることも、することも、話す言葉も、愛の考え、愛のわざ、愛の言葉であるようにと、人間をお造りになったのです。

 けれども、人間は、その神様との関係に背を向けてしまいました。人を想う、愛の心から、自己中心の罪の心になってしまいました。神の御心を行うことなど出来なくなってしまいました。

けれども、そういう私たちをも、神様は愛してくださり、イエス様の十字架と復活のみわざを通して、私たちの救いを果たしてくださったのです。そして、救われて、神様の御心に回復された者として、私たちには改めて、「神を愛し、互いに愛し合いなさい」という命令が宣言されているのです。

 ところが、ここで間違いやすいのです。愛しなさい、と言われて、私たちは何をするでしょうか。親切にしよう、困っている人を助けようとか、どんな人にも優しくしよう、とします。それは悪くはないでしょう。でも、神様が求めておられるのは、そういう「立派な行い」なのでしょうか。実は、神様が私たちに求めておられるのは、もっと深いものなのです。

 私たちが自分なりに努力して、人を助けたり優しい言葉をかけたりすることも出来るでしょう。あるいは、そういうことがしたいけれども、何かあると自分のことばかりを考えたり、嘘や恥ずかしい行動を取ったりしてしまう、ということもあります。でも、神様は、表に見える仕草や行動、言葉、また、心に涌き上がってくる思いよりも、もっと深い所を見ておられます。誰でも、自分をよく見せようと想います。愛がある人、親切な人だと思われたい気持ちは殆どの人が持っています。でも、そう見られたい気持ちに隠して、もっと深い所に、自分勝手な心があるのではないでしょうか。

 「愛しなさい」と言われています。でもそれは、とんでもなく難しいこと、不可能なことです。愛そうとすると、悲しいほど愛せない自分に気づかなければ嘘です。愛する自分になりたい気持ちはあるのですが、心を少しめくれば、自分が一番可愛いと思っているのが、正直な現実です。ですから、「神を愛し、人を愛する」とは、神様が私たちに、優しい生き方をすることを求めておられるという以上のことです。まず、神様が私たちを深く愛して、私たちの心に愛を満たしてくださるのでなければ、私たちが神様を愛することも、互いに愛し合うことも、絶対に出来ません。ですから、これは、神様が私たちの心の中まで変えてくださる、という約束なのです。

「心の底に、わがままな思いを抱えたまま、神様に誉めてもらえるような生き方を頑張ってやってやろう」-そういうことではありません。私たちの心の底に、神様の愛をいただくのです。主イエス様が私たちのために十字架にかかるほど、私たちを愛し、私たちを神様の子どもとして下さった、確かな約束が先にあります。その、本当に大きな愛によって、私たちの生き方、そのものが変えられて行くのです。それが、神様の、私たちに対するご計画です。

 自分の力で神を愛し、人を愛する、ということではありません。私たちと神様との関係が、十字架により、神様からの豊かな愛の関係に回復されたのです。それを今、私たちは学び始めて、心や生き方も変えられて行く途中にあります。神様はそのために、私たちを礼拝、聖書や祈り、家庭や仕事、人間関係を通して、教え、育ててくださいます。一生かけ、じっくりと、成長させようとしてくださっています。なぜなら、本当に愛に根差して生きるようになることが、私たちに対する神の一番大切な御心だからです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする