聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ガラテヤ書2章11-21節「私を愛しいのちまで捨てた主」宗教改革記念礼拝

2017-10-29 21:36:03 | 聖書

2017/10/29 ガラテヤ書2章11-21節「私を愛しいのちまで捨てた主」宗教改革記念礼拝

 五百年前の10月31日、マルチン・ルターが「九五箇条の提題」を張り出しました。しかし今日は、それより更に前にルターが出会っていた福音の原点に立ち戻ってお話しします。

1.「神の義」

 ルターは自分が正しい神の前に受け入れられようと、修道士になり苦行や巡礼で善行を積み、懺悔も真面目にしたのですが、一向に神の怒りを逃れたとは思えず長く苦しんだのです。その末に出会ったのがローマ書の一章17節の言葉でした。ここには「神の義」がこう言われます。

ローマ一17福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 ルターはずっと「神の義」を恐れていました。神が正しく、罪人を罰し裁く、物差しのような「義」を教えられ、考えていたのです。その義を逃れるために、良い行いをしたり、苦行を積んだり、献金をしたりする必要があると教えられていたのです。遂にノイローゼのようになったルターは「気分転換に聖書を研究」するよう進められました。そして聖書を読むうちに、特に詩篇に「神の義」が沢山出て来るけれども、それが希望とか喜びとか恵みや救いと同じような意味で使われていることに出くわして面食らいます。そのうちこのローマ書でも

「福音には神の義が啓示されている」

とあるのに悩んで長い間研究するうちに、ある日ルターは悟るのです。神の義は、罪人を罰する義ではなく、罪人に義を与える義、私たちが信じるだけで神の義を戴き、ますますキリストを信じるように進ませる義。そう気づいて喜びに満たされたのです。この事は、ローマ書の続きでずっと人間の不義を掘り下げた末に、こうも言われています。

ローマ三21しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。

22すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。

 善行や献金や奉仕を求める神ではなく、深い罪を抱えた人間に神が近づいてくださり、人間の罪の罰をご自身に引き受けてくださった。私たちはただイエス・キリストを受け入れるだけです。創造主なる神の義は、人間のように裁いて切り捨てる義ではなく、罪の問題を解決し(清算し)救いをもたらす福音です。それが聖書の神であり、その神が私たちの所に来られたのがキリストの福音です。宗教改革とはこの原点に立ち返ったことから始まっていったのです。

2.キリストの死は無意味に

 ローマ書とほぼ同じ時期に書かれたとも言われるガラテヤ書でも、今日読んだ所の後半、15節以下ではその福音が語られていました。律法を行うことで義と認められる人など一人もいない。ただキリストを信じることによって義とされる。それは罪を助成するのではなく、自分がキリストとともに十字架につけられた、キリストが私のうちに生きている、自分が生きているのはもう自分ではなく、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって生きているのだ、そう言い切るほどの神の恵みなのだ、というのです。

 でもそれをいうきっかけの前半はどうだったでしょう。アンテオケの教会で、ユダヤ人も異邦人も一緒に食事をしていたのに、ある人たちがエルサレムから来たら、ペテロは異邦人と一緒に食事をしないようになった。先週お話ししたことを思い出してください。使徒の働き一〇章十一章では、ペテロが異邦人のコルネリオと食事を一緒にするようになった出来事が詳しく書かれていました。神が不思議な幻をペテロに見せられて、異邦人もユダヤ人も一緒に分け隔てなく食事をするよう示された。それは当時の教会にとって本当に大きな出来事でした。その中心にいたのがペテロでした。そのペテロがまた、異邦人との食事を控えて、距離を置くようになっています。この行動の問題をきっかけにして、パウロはペテロの妥協が福音を実質的に否定することになると非難しました。キリストを信じて義とされると言いながら、異邦人は汚れているから一緒に食事などしない、という生活なら、福音は無意味になると非難しました。

 ではそれでこの問題はもう片付いたでしょうか。いいえ。ガラテヤ書は、パウロが開拓したガラテヤ教会がまた同じような教えに翻弄されたため書かれたのです。ローマ書の背景もそうでした[1]

 では聖書が完成したら大丈夫だったでしょうか。いいえ、教会は福音から離れ、宗教改革が必要になりました。

 宗教改革の後はどうでしょう。ルター派や改革派も、教理としては福音を確定しまとめました。しかし、自分たちを正しいとしてカトリックや再洗礼派を苦しめた事実もあります。奴隷制度を容認し、黒人差別を是認したのも歴史です。

 今の教会や私たちも、神の素晴らしい義よりも、人間的な物差しで生きてしまうことが何と多いかと思います。宗教改革をしたプロテスタントが正しい、福音派が正しい、でなくキリスト・イエスが示してくださった神の義に、宗教改革の原点があります。そして私たちは、教会としてもキリスト者としても、牧師も親も、むしろますます謙虚に正直に、正しいふりをしなくなりたいのです。

3.「正しくありたい」からの解放

 私たちには

 「正しくありたい」

という深い願い、基本的欲求があります。そしてそれは私たちを豊かな恵みで導き、正しく教え、赦しも回復も下さる神によってのみ満たされる願いです。世界の創造主なる方の大きく力強い義に結ばれることで満たされるのです。その神から背いた結果、人間は自分の正しさを握りしめ、必死にしがみついてしまいます。

 間違っていたら恥ずかしい、価値がない、負けだ。どこかで強くそう思っています。

 自分の感情や願いを我慢して、「~すべき」ことを無理にして、心の中には「させられ感」や被害者意識で一杯になる。

 だから伸び伸びしている人を妬みます。そんな自分に自己嫌悪しつつも、自分たちと違う人と比べて安心したがります。

 競争で勝つ優越感は心地よいし、レッテル貼りをするのは楽しいです。

 人を責めたり、言い訳をしたり、自分より間違っている人を見ると安心します。

 人を批判し、噂話をします。夫婦や親子の悪口をいい、陰口を叩きます。

 罪悪感をもたせる言い方をしますし、犯人捜しをしたがりします。

 批判に弱く、怒りやすい。そして災いが降りかかると、自分が正しくないから神が裁いたのだとすぐ思う。

 こうした根っこには、正しくなければならない、間違ったらダメだ、神も正しい者を喜ばれる、という漠然とした強迫観念があります。

 しかし福音は全く違う道を示しました。神の義は、私たちが正しくなることで与えられる義ではなく、罪人に一方的に与えられ、赦しと回復をもたらしてくれた義です。

 この神の福音を知った私たちは、自分が正しくなければという虚勢から解放されます。むしろ、自分の間違いや弱さを認めて正直になることが出来ます。

 「正しくないと不安だ」という恐れも正直に示すことが出来ます。なぜなら、キリストはまだ罪人であった時の私たちを愛して、私たちに赦しと救いを下さったからです。

 比較や災いで嘆いても、自分やその人への神の裁きだと思わなくてよいのです。「キリストが私の中に生きておられる」と言えるほどの愛を告白できるのです。

 そしてだからこそ、他の人にも分け隔てなく接するようになる。文化が違っていて、それ自体は相容れなくても、貶したり正邪や白黒をつけなくてもよい問題で線引きをしない生き方です。人を脅したり操作しようとしたりすることばはもう使わなくても良い。義なるキリストが来られ、私たちのうちに住んでくださって、私たちとの関係も、私たち同士の関係も新しくしてくださいました。こうしてキリストの義は、私たちが互いを尊ぶ神の民を育てるのです。

ガラテヤ書五13兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

「主よ。あなたの義を誉め称えます。あなたの素晴らしい福音を何度も再発見してはすぐまた自分の義を握りしめる、そんな歴史に私たちもいます。あなたはご自身の民と絶えず共におられて、原点に立ち戻らせてくださる方です。どうぞ、命をもたらす神の義に立たせ、私たちのすべての人間関係も日常生活も、新しくしてください。主の死を無意味にするような醜い批判や空しい自己正当化から救い出し、主の愛に生かされる交わりの一環に加えてください。」



[1] ローマの教会の中で、ユダヤ人と異邦人、違う文化の人々が一緒に認め合えず、裁き合っている問題があって書かれたものです。

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使徒の働き十章1-23節「神にできないこと」

2017-10-22 17:40:44 | 使徒の働き

2017/10/22 使徒の働き十章1-23節「神にできないこと」

 今日の箇所はカイザリヤにいたローマ兵コルネリオの紹介から始まり、十一章18節まで話が続きます[1]。二人が見た幻はそれぞれもう一度語り直されます[2]。そうしたことからも、この出来事がとても大切な出来事であること、大きな飛躍となる出来事だと印象づけられます。

1.「きよくない物」

 コルネリオは港町カイザリヤにいました[3]。2節の

「敬虔な人」

とは人格や為人(ひととなり)というより、神との関係です。聖書の神、エルサレムで礼拝されている天地万物の創造主なる主を知り、恐れて生きている人を指します。神である主との関係にはっきりと生きていたということです。しかし正式にユダヤ教に改宗するには、割礼という痛い儀式や生活上の様々な規定を受け入れなければなりません。相当ハードルが高かったのです。ですから、この当時、聖書の神に深く惹かれながらも改宗するには至らず、

「敬虔な人」「神を恐れる人」

と呼ばれる立場を続けて、エルサレム神殿に拝礼に来たり、施しや献金をしてユダヤ人を支えたりして敬虔に生きていた異邦人は少なからずいたのです。コルネリオはそんな一人でした。その彼に御使いが現れて、ヨッパにいる使徒ペテロを招くようにと告げたのです。それが8節までに書かれています。

 9節以下、コルネリオが遣わした三人がちょうどヨッパに来た頃、そこにいたペテロも別の幻を見ました。食事を待っている間に夢心地になり[4]、天からあらゆる動物や這う物や空の鳥が入った敷布が降りて来て、

「さあ、ほふって食べなさい」

と言われますがペテロはこれを拒みます。

「私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」

と言います。

 この感覚を想像してみてください。聖書の律法、特にレビ記十一章に

「きよい動物と汚れた動物」

の規定があります。蹄が分かれていて反芻する動物は食べて良いけれど、蹄が分かれていないか反芻しない動物は食べてはならない、具体的にどんな動物がダメか、が延々と書かれています。そして、聖い動物は食べて良いけれども、汚れた動物は食べてはならない、という規定がありました[5]。これはユダヤ人の律法で、それ以外の人の感覚にはありません。ユダヤ人にとっては汚れていて食べるべきでない動物も、食卓に並んで出されるのです。ですから、ユダヤ人は、異邦人の家に招かれて食事をすることは決してしませんでした。異邦人がユダヤ人を訪問して、受け入れることは良かったのです。ここでも最後にコルネリオの遣い三人が、ヨッパのシモンの家を訪問して受け入れられています。これはOKでしたが、その逆はタブーでした。ですから、ペテロにとって、この幻を三回も繰り返してみせられたことは

「いったいどういうことだろう」

と思い惑うしかなかったことだったのですね。

2.食物の規定の意味

 確かに主は聖書で「汚れた動物」を規定してそれを食べてはならないと命じておられます。そこには衛生的な意味も霊的な意味も、訓練としての意味もあったでしょう[6]。食べてはならないという規定はとても根元的なもので、天地創造の直後、エデンの園で神が与えられたのも園の中央にある

「善悪の知識の木から食べてはならない」

という約束でした。まだ人が神に背く前でしたし、世界に罪が入る前、すべてが甚だ良かったときの約束です。ですから、その木の実そのものに食べてはならない汚れや毒や魔力があったのではなく、食べないという約束を守ることに意味があったのです。後の律法で、動物をきよい動物と汚れた動物に分ける時にはもっと複雑な意味はあって、今日はそこまでお話ししませんが、いずれにしても動物そのものが汚れているのではなくて、人間が動物や食生活を管理することに意味があったわけです。

 イエス御自身がこれをハッキリ宣言されました。

外側から入ってくる物は人を汚すことが出来ない、すべての食物はきよい

とされました[7]。パウロも

「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです」

と言います[8]。もし神が動物や食物を本当に「汚れている」と忌み嫌われたのであれば、それを容認されることは出来ません。少なくともペテロを代表とする教会はそう思ったのです。だから、この時のペテロの行動を聞いたエルサレム教会の人々が一一章3節で非難したのは

「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らと一緒に食事をした」

事です。異邦人に洗礼を施したことではなく、そこに行って一緒に食事をしたと非難したのです。異邦人が自分の生活や習慣を変えてこちらに来るなら大歓迎する用意はあったでしょう。しかし自分の方から出て行って、異邦人と一緒に食事をする、という発想はなかったのです[9]。そんな事、絶対に神はお許しならないと思ったのです。

 しかし神には御自身を否むことが出来ません[10]。神は汚れているものをきよいと変更することは出来ません。でも神がきよいと仰ったのは、元々あの食物規定が絶対的な禁止ではなくて、もっと別の意味があったからです。自分自身の生き方や心を神の前に聖くするための教材でした。決してそのような食生活を守っていれば大丈夫、それをしていない人はダメ、ではありませんでした。それこそ神には放っておけない誤解でした。ですから主は、ペテロにユーモラスな幻を見せて、彼らの所に行って一緒に食事をするよう大胆不敵な御心を示されました。

3.一緒に食事をすること

 主はコルネリオをペテロたちとの交わりに招かれました。彼は既に主を知る敬虔な人でした。コルネリオの罪を責め悔い改めよと言う必要はありません。勿論、約束のキリストを知ることは尊い意味がありました。それを知らせるためにペテロが送られました。しかしそのためだけではなかったのです。ペテロたちにとっても、コルネリオたちとともに食事をし、神の救いをともに受けたものとして分け隔てのない交わりを持つこと、躊躇わずに一緒に食事をするようになる-大きな驚きであり、予想もしていなかったチャレンジへと神は導かれました[11]

 ペテロは「汚れた物を食べることは出来ない」と言いましたが、本当に聖い神は、物や行為で汚れるかのような誤解を放っておくことが出来ませんでした。また、自分たちだけで潔癖な生き方に閉じこもり、異邦人を異邦人というだけで見下して、「汚れている」と触れないような間違った生き方を放っておけませんでした。そのために神の子イエス・キリストが私たちのところに来られて、私たちと一緒に食事をし、心も生き方もきよく新しくしてくださいます。食事や儀式での汚れないようにする、というお飯事(ままごと)は終わって、イエス・キリストとともに生きること、心にある罪を告白し、謙虚にされて、自分の問題に取り組むことで、聖くされるのです。

 罪を犯さないよう、汚れに触れないようにと生きるのではなく、キリストに心をきよめていただき、神に愛を注がれ、恵みを喜び感謝に生きること、そして、人を尊び、互いに仕え合う交わりを通して本当に聖くされるのです[12]

 それを表すのは、主の聖晩餐です。主のからだと血を、信仰をもって覚えてパンと杯を戴きます。その時、決して自分一人で飲み食いするのではありません。必ず他の方々と、主が招かれた全ての方々と、一つのパンを分け、一つの杯を一緒に飲むのです。そういう姿そのものが、主がもたらしてくださった驚くべき福音です。

 ともすると伝道それ自体がゴールになりやすいものです[13]。確かに新しい人や苦手な人と食事をするよりも、伝道という活動をしている方が楽です。人間関係は複雑で苦手意識や傷もあるものです。「使徒の働き」もパウロ書簡もそうしたリアルな問題を具体的に取り上げます[14]。そうした現実を十分踏まえた上で、そこで裁き合わず、天の大宴会というゴールを見て行きましょう。私たちがお互いに違っていても、うまく認め合えなくても、それでも主に召された者同士です。互いを尊重し、一つであること、やがて誰一人欠けることなく主の食卓をともに囲むと約束されています。その途上にあることに目を向けて伝道や交わりに励んでいくのです。

「聖なる主よ。冷たく潔癖な傲慢さを、あなたの聖なる愛によって溶かし、聖なる神の民の喜び踊る交わりに加えてください。ペテロに不思議に働きかけたように、今も聖人ぶって壁を造りやすい教会にも働いてください。私たちがたとえ善意や正義感からでも不要に人を裁いてしまうよりは、他者を喜び、互いを祝うよう、恵みによって心を新しく本当に聖くしてください」



[1] 節の数ではなんと六六節です。

[2] 十章3-6節の幻は、30-32節で、9-16節の幻は、十一章5節以下で、それぞれ繰り返されています。

[3] カイザリヤという名前の通り、ローマ帝国がユダヤ州を支配するための中心的な町、ローマ側にとってエルサレム以上に重要な行政都市でした。

[4] 当時は一日二食だったそうですから、12時はまだ食事時ではないのです。それなのに彼は非常な空腹を覚えました。ここに既に、神の通常ならぬ働きかけがあります。そして、その空腹に訴えるような幻が示されたのです。

[5] その規定を、ペテロも大切に守っていたのですね。パリサイ人ほど厳格に律法を守ることは出来ない、ガリラヤの漁師のペテロでさえ、食物の規定は今まで一度も破ったことがない、それが当時の常識でした。

[6] 不衛生なもの(屍肉をついばむような鳥)が避けられていることは当然、衛星上の配慮でしょう。しかし、そればかりではなく、イスラエル人の霊的なあり方そのものが、「死」から遠ざかり、「食べるにも飲むにも神の栄光を現す」という方向が示されています。そもそも創世記の二章で、エデンの園でさえ、何でも食べたいように食べるのではなく、「善悪の知識の木」からは食べないという最初の命令が与えられたように、主の命令に従って自制する、という訓練の意味もあったでしょう。また、エデンの園で蛇に唆されたことを思い出すかのように、レビ記一一章では、「蛇」は名前さえ挙げられていません。蛇よりももっと珍しく、食べる機会さえないような動物は挙げられているのに、です。そして、地を這うものは食べてはならない、という規定に向かって、蹄ではなく足の裏で地にぺったりと歩くものが避けられるような方向性もうかがえます。詳しくは、Nobuyoshi Kiuchi, Leviticus (Apollo’s Old Testament Commentary), IVPをぜひ。

[7] マルコ七17-18。

[8] ローマ十四14。

[9] 使徒の働きの流れで教会は、貧富の差や身体障害の有無、サマリヤ人ともつきあうようになりました。前回申しましたように、ペテロが泊まっていた家の皮なめしという仕事は、当時は汚れている仕事とされた場所です。ペテロはその差別から自由にこの家に泊まりました。異邦人に対しても異邦人だというだけで差別する意識はなかったでしょう。

[10] Ⅱテモテ二13「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

[11] Ⅰコリント九19-23にはこうあります。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。20ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。21律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。22弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。23私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」 しかしこれを、異邦人を獲得するため、伝道するために、必要ならば汚れた動物も我慢して食べよう、交わりや様々な手段を利用しよう、という風に考えると誤解です。一緒に食事をすることは、伝道の方法論ではありません。むしろ、神が見ておられるのは、私たちが一緒に食事をしたり交わりを持ち、互いに愛し合い、喜びも悲しみも分かち合うことです。

[12] それが、聖なる神が私たちに求められる願いです。あれを食べてはならない、これをしてはならない、というリストを守ることが神の御心であれば、神はそれを変えることは出来ません。ここで神はそう思われていた律法をハッキリと(しかもユーモアたっぷりの幻で)一蹴されました。そして異邦人と一緒に食卓を囲む交わりへと派遣されました。

[13] 〈伝道はするけど、親しくなるつもりはない〉とか〈伝道の手段として楽しい交わりや食事をしよう〉と発想しやすいものです。

[14] 使徒の働き15章では「エルサレム会議」が開かれ、ユダヤ人と異邦人の関係の問題が議され、結論として、異邦人にはユダヤ人のように割礼を受けたり律法の規定を守ったりする必要はないが、「血と絞め殺したものと不品行」は避けるように、という配慮が求められます。また、ローマ人への手紙14章では、「何でも食べてよい」と考えるキリスト者と「肉は食べない」と考えるキリスト者に、相互に認め合うよう勧めがされます。コリント人への手紙第一では、8章から10章では、「偶像にささげた肉」の取扱が論じられます。パウロはここで、必要とあれば、金輪際、自分は肉を食べないことも選ぼうと言います。この他、テモテへの手紙第一やコロサイ書にも食事を巡っての論争が続いていたことがうかがえます。そしてそれをパウロは原則論でバッサリ切らず、それぞれの良心を尊重し、また互いに尊重し合うよう実践的な勧めをするのでした。

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問92「はじまりは神」出エジプト記20章1-17節

2017-10-17 08:42:54 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/10/8 ハ信仰問答92「はじまりは神」出エジプト記20章1-17節

 ハイデルベルグ信仰問答の第三部から、キリスト者の生活について学んでいます。今日の問92は率直にこう問います。

主の律法とはどのようなものですか。

答 神はこれらすべての言葉を告げられた。

 以下に書かれているのは、今読みました、出エジプト記の20章、あるいは申命記の5章に書かれている「十誡」と呼ばれる戒めです。

出エジプト記二〇1それから神は次のすべてのことばを告げられた。

2「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

3あなたには、わたし以外に、ほかの神々があってはならない。

4あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。

5それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

6わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

7あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

8安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

9六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。

10七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。

11それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

12あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

13殺してはならない。

14姦淫してはならない。

15盗んではならない。

16あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。

17あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

 長いですがそのまま本文には記載されています。そして、これ以降、十誡を一つ一つ丁寧に取り上げながら、そこで教えられている神の命令を見ていく、という構造を持っています。

 これは、ハイデルベルグ信仰問答の前に夕拝で見ていた「ウェストミンスター小教理問答」でも取っていた形式です。他にも多くのプロテスタントの基本的な信仰問答も変わりません。十誡と「主の祈り」そして「使徒信条」の三つは、キリスト教会が共通の基盤とするもので

「三要文」

と言われるのです。特に十誡は旧約聖書に、主の祈りは新約聖書に、直接記されています。聖書に書かれた、いや神ご自身が人間に与えてくださった、大切な律法、私たちの生きる指針です。この十誡は、神の民として生きるとはどういうことか、が雄弁に物語られているのです。

 しかし、ひょっとするとこの「十誡」を「十の戒め」、堅苦しい規則で拘束するものだ、自由を奪うものだと考える人もいるでしょう。いや、教会自体、何度もそう誤解してきました。神が下さった十の命令、それも、殆どが禁止事項だ。やっぱり神は私たちは「あれをするな、これをするな」と命じ、押しつけてくるのだ、と思うのです。また、クリスチャンとはそういう道徳を守ることによって救われて、敬虔な生き方をする人々だ、と自他共に誤解してきたのです。しかし、思い出して下さい。もしそんなことだったら、この十誡の解説だけで教会の教育は済んだでしょう。これは、問92ではなく、もっと早く、問1でも良かったでしょう。

 でもこれは問92です。ここまで90問、神とはどんなお方か、私たちと神との関係はどんなことか。丁寧に教えられてきたのです。ですから、十誡の第一戒は、主の他に神があってはならない、なのですが、いきなりその戒めを命じることはしません。その前に、

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」

の序言があるのです。神が既に私たちの神となってくださいました。奴隷の家から導き出してくださいました。自由の民としてくださいました。その主を「私の神」とする民に与えられたのが十誡なのです。

 十誡というと古い映画を思い出す方もいるでしょう。「十戒」という有名な映画がありました。

 そこでも描かれていたように、苦しい奴隷生活から、主はじっくりと力強く、彼らをエジプトから救い出してくださいました。海が二つに割れて、その中を通るような大きな出来事もありました。そして、荒野を通って、彼らはシナイ山まで導かれました。そして、これからは神の民として生きるために与えられたのが十誡です。山の麓で、イスラエルの民は待ち、モーセが山の上でこの十戒が書かれた板を授かったのです。それは、神の民としての堂々たる生き方、神だけを神とする、晴れがましい生き方でした。

 決してここには無理なこと、高尚すぎることは命じられていません。聖人君子のように生きろとか、信仰の鉄人になれと言われているのではないのです。本当の神だけを神として生きなさい、互いにも殺し合ったり裏切ったり嘘のない生き方をしなさい、とごくごく真っ当な道が示されているのです。

 しかし、これをイスラエルの民が守ることが出来ないのも、聖書に記されている歴史です。エジプトでの生活で染みついた奴隷根性が、立場が解放されても彼らの中には染みついていて、欲望や愚かさの奴隷になってしまうのです。本当に自由な生き方ではなく、責任を持てない生き方をしてしまうのです。それは後の教会もそうですし、今の私たちも変わりません。この単純な神の民としての生き方が出来ないで、誤魔化したり、感情に流されたりして、恥ずべき行動を取ってしまう所が私たちにあるのです。

 でもだからこそ、この十戒が私たちを守ってくれるのです。神は私たちに、神の民としての生き方を示してくださり、私たちを守ってくれるのです。ダビデは言いました。

あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。 詩篇119篇105節

 旧約で「御言葉」という時はまだ聖書は殆ど書かれていませんから、今でいう聖書ではなく、この十戒を指しているのです。十戒、主の御言葉が、自分の歩みを照らしてくれる。自分の道の光となって、守ってくれる。これが、ダビデの心からの思いでした。私たちが十戒を守らないといけない、のではないのです。十戒が私たちを守ってくれるのです。私たちが聖書の言葉や戒めに縋り付くのではないのです。神が私たちを守られるからこそ、私たちの立つべき大切な原点を、十戒を通して教えてくれるのです。

 聖書には「十戒」という言葉は出てこず、

「十のことば」

と言います。「戒め」「規則」ではなく「言葉」なのです。ただあれをしなさい、これをするな、ではありません。まず、神が「わたしはあなたの主、あなたを奴隷の家から連れ出した神である」と宣言して下さった。その主の民として、誘惑や恐れに流されない生き方をしてゆくのです。

 次回93問では、この十戒が神に対する義務と隣人に対する義務の二つに分けることが出来る、という事を扱います。それは来週の話です。ただ、聖書にも神が二枚の石の板に十戒を与えてくださった、という表現が何度も出て来ます。

 最近まで、この二枚は一枚に前半の神の戒めが、もう一枚に人間への戒めが書かれているのだろうと思われていました。最近の考古学の発見で、どうやら二つは同じものの写しなのだろうと考えられるようになりました。二人の間で契約を交わす時に、両方が契約を書いた同じ内容のものを持つのですね。今なら紙ですが、当時は板にシッカリと書くのです。つまり、十戒が二枚の板に書かれたというのは、それが本当に神の確かな約束だ、ということでした。揺るがない神様の契約として、私たちは神の民であり、新しい生き方を示されているのです。

 それは人間の力では出来ません。でもイエス・キリストは、私たちのために救いの御業を果たして下さいました。私たちの心に、この神の戒めを刻んでくださる、進むべき生き方へと導いてくださると約束されています。私たちの中には、まだまだ狡い自分がいます。弱い、誘惑に負けやすい自分がいます。でも、そういう私たちのままではおらせず、イエスによって神の子どもとされた新しい生き方を、聖書ははっきりと力強く示してくださっています。それを来週から学んでいきましょう。

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問93「神と私と隣人と」マタイ22章36-40節

2017-10-17 08:25:13 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/10/15 ハ信仰問答93「神と私と隣人と」マタイ22章36-40節

 

 先週から「十誡」をお話ししています。

わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

あなたには、わたし以外に、ほかの神々があってはならない。

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

殺してはならない。
姦淫してはならない。

盗んではならない。
あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

 十誡は、神が私たちに与えてくださった、神の民、神の子どもとして生きるための大切な導きです。十誡を守ることによって救われるのではなくて、救われたからこそ、十誡によって守られながら、神に愛されている者らしく生きるようにされるのです。聖書の律法の土台が、この十誡に要約されています。今日の問93は、この戒めを大きく二つに分けています。

問93 これらの戒めはどのように分かれていますか。
答 二つの部分に分かれています。その第一は、四つの戒めにおいて、わたしたちが神に対してどのようにふるまうべきかを教え、第二は、六つの戒めにおいて、わたしたちが自分の隣人にどのような責任を負っているかを教えています。

 確かにそうです。第一戒から第四戒までは、他の神があってはならない、神の形を造ってはならない、主の名をみだりに唱えてはならない、安息日を覚えよ、と神に対するふるまいを教えています。その後の、第五戒「父と母とを敬え」から、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証をしてはならない、ほしがってはならない、は神に対してというよりも直接は隣人に対してどんな責任を負っているかを教えていますね。
 神に対してと隣人に対しての言葉に大きく分かれています。そこで、先ほどのマタイの福音書でもイエスは

「律法の中で大切な戒めはどれですか」

と聴かれて、

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」

を第一の戒め、そして、

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」

を第二の戒めとなさいました。神を愛すること、そして、隣人を自分のように愛すること。これが最も大事な戒めなのだとイエス御自身が言われました。十誡を見ると

「愛する」

という言葉は一言も出て来ませんし、

「してはならない」

という否定的な禁止ばかりが目に付きますが、そういう禁止を受け入れると、残るのは、神を愛すること、隣人を愛すること、なのです。そうイエスはこともなげに仰ったのです。

 イエスは子なる神です。律法を与えられた神御自身です。そのイエスが、仰ったのですから、律法を通して神が私たちに求めておられるのは「神を愛し、隣人を愛する」ことです。そして、そもそも神が人間をお造りになった時に、神を愛し、隣人を愛するような存在にするために、私たちをお造りになったのです。神はご自身が愛ですから、愛なしには何をすることもなさいません。そして、神はこの世界に、御自身に似たもの、

「神のかたち」

として人間をお造りになりました。神は、人間に惜しみなく愛を注がれて、人間もまた神を愛し、お互いに愛し合うようなものとしてお造りになったのです。

 でも、愛は誰も強制することは出来ません。愛さないという自由なしに愛するのなら、愛ではありません。神は人間に、自由な選択を与えられ、人間は神に背く選択をしてしまいました。その結果、人は愛よりも自分中心になり、神を愛するより疑ったり利用したりしています。愛されたい、愛したいと思いつつも、揺れ動く儚い愛を追いかけてしまっています。けれども、そうして揺れ動き、傷つき、さ迷い、沢山の間違いをしながらも、神は人間が神に立ち戻って、本当の愛を知って、やがて神を愛し、互いに愛し合う者になる、長い長い歴史を導いておられます。それが聖書に示されている物語です。

 その中心にあるのは、神御自身が人間イエスとなってこの世界に来られ、愛を示し、神を語り、互いに対する責任を教えられ、最後は御自身が十字架の死にまで従われ、そのいのちによって私たちの罪の身代わりとなってくださった。そして、それが本当の救いであることが三日目の復活によって証明され、今もイエスは私たちとともにいてくださる、というとんでもない事実なのです。

 そのイエスが私たちに、最も大切な戒めは、神を愛し、隣人を自分のように愛する事だと仰いました。難しい生き方、自分には無理な清らかな生き方を仰ったのではないのです。私たちが本来、神を愛し、お互いに愛するように造られた、私たちのアイデンティティ、私たちの目的を思い出させてくれる言葉です。私たちの心にある深い願い、可能性、エネルギーを思い出させてくれるのです。

 しかし、イエスがこう仰った時、こう質問した人たちはどう思ったのでしょうか。彼らは神を愛することには熱心だと自負していました。でもイエスは、神を愛する第一の戒めとともに、隣人を愛する第二の戒めも同じように大事だと仰いました。これは、この人々の考えにはなかったのですね。「神を第一にしたら、自分の親は後回しでもいい。神を第一にしているのだから、そうでない人よりも自分たちの方が偉い」。そういう考えでした。でもイエスは仰いました。「神を愛することが第一。隣人を自分のように愛する第二のことも、同じだけ重要です。聖書の全体がこの二つの戒めにかかっている」。こう言われた時に、質問をした人は何も言い返せなくなったのですね。

Ⅰヨハネ四20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。

 イエスは私たちに、神を愛し、兄弟を愛するという命令を与えてくださいました。心や知性や力を尽くして神を愛したら、人に対する愛は残っていなくて良い、じゃないのですね。また隣人を愛する時にも

「自分のように愛しなさい」

と言われました。自分を愛した上で、ほどほどに隣人を、でもないし、自分を殺して隣人を愛しなさい、でもありません。自分と隣人を同じように、半分ずつ愛する、というのでもないですね。自分も大事に、相手も自分と同じような大事なものとして愛するということです。神を心を尽くして愛し、隣人も自分のように愛すること。これは頭で考えるととても出来ません。ごちゃごちゃになります。でもイエスはそういうことを命じているのではありません。

 私たちが神の愛を受け入れるなら、神を愛し、自分も愛されている者と分かり、隣人も、いや敵さえも、自分と同じように尊い存在に見えるように変わります。イエス御自身がそうしてくださいました。イエスは私たち一人一人を尊ばれ、喜び、受け入れてくださいました。十字架の二つの木は、イエスが神との縦の関係も、私たちお互いの横の関係も結び合わせてくださった証しです。十誡は、神が私たちに約束されているご計画が神を愛し、互いを自分のように愛するようになることだと思い出させてくれるのです。

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使徒の働き九章23-31節「引き受けてくれる恵み」

2017-10-15 17:15:06 | 使徒の働き

2017/10/8 使徒の働き九章23-31節「引き受けてくれる恵み」

 教会の迫害者であったサウロがキリストを信じた出来事が、使徒の働き九章に書かれています。これは本当に驚くべき事、抵抗したくならない方がおかしい大事件でありました。

1.弟子たちの仲間に入ろうと

 イエスを信じて、人生の方向が百八十度変わったサウロは、仲間のユダヤ人たちにイエスがキリストであると伝え始めました。23節は

「多くの日数がたって後」

と始まります。ガラテヤ書によれば三年です。本当にかなりの日数です。その間に彼はエルサレムに戻ることなく、アラビヤ[1]まで出掛けたようです。しかしその三年の間にユダヤ人との間に芽生えたのは、サウロを殺してしまおうという陰謀でした。そういう殺意しか生まれなかった、とは言えません。むしろ、中にはサウロの言葉からイエスがキリストだと信じるユダヤ人も少なからずいたからこそ、他のユダヤ人はサウロを目の敵にして、殺してしまおうと考えたのかも知れません。いずれにせよ、サウロを葬り去ろう、そのために町の門に昼も夜も見張りを立たせるという徹底ぶりでした。そこで弟子たちは夜中にサウロを籠に乗せて、町の城壁伝いに脱出させました。サウロはダマスコから夜逃げをしたのです。スパイ小説さながら、とはいえ決して格好いいものではない、ハラハラする、勝利とは程遠いダマスコ生活の残念な引き上げだったと言えます。サウロの回心や主と出会った特別な体験は、伝道の華々しく力強い成功を自動的に保証するものでは決してなかったのです。この事もまた、肝に銘じたい点です。

 そして200kmを戻り三年ぶりのエルサレムに着きました。ここで彼は

「弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで恐れていた。」

とあります。三年もダマスコで伝道していたのだし、サウロの変貌ぶりは伝わっていたのではないかとも思いたいところですが、弟子たちは信じられずサウロを恐れます。それほどのサウロの迫害でした[2]。サウロは改めて、自分が教会の敵として、多くの人々をひどい目に遭わせてきた事実と向き合わされたでしょう。しかしだからと諦めて、一匹狼で行こう、主だけが自分を知ってくれているのだからいいや、と開き直りませんでした。彼は弟子たちの仲間に入ろうとしたのです。そして、

27ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。

2.バルナバの仲介

 このバルナバは、四章の最後にも出て来て、土地を売り払って貧しい人のために献げた希有なリーダーでした。また、一一章でもアンテオケの教会の養育のため、パウロを捜して協力者にしますし、パウロとずっとペアを組んで、支援物資を届けたり、伝道旅行に行った人です。しかし、最初の伝道旅行の途中で帰ってしまった青年マルコを次に連れて行くかどうかを巡ってパウロと対立して、パウロとは袂を分かち、そのマルコの再出発に付き添った人です。バルナバという名前自体「慰めの子」という意味だとありましたが[3]、ここでもサウロが信じてもらえず仲間に入れない所を引き受けて、使徒たちの所に連れて行き、サウロを恐れなくてもよいこと、本当に主の弟子となったことを説明する役割を引き受けたのです。

 これは特筆されている通り、とても勇気が要る場面だったでしょう。そしてこのように引き受けて、連れて行き、ちゃんと身元を保証し、恐れや不信を取り除く勇気は、教会の中で大事な橋渡しです。サウロが迫害してきた教会の傷跡は後々まで残ったでしょう。エルサレム教会には、サウロの大迫害でひどい目に遭わされた人、家族を捕らえられ、殺された人、人生がすっかり変わった人もいたでしょう。三年経っても、サウロの晩年三十年経っても、そういう暴力の爪痕はあったに違いありません[4]。それでも主イエスは、サウロを受け入れてくださいました。主イエスご自身がサウロを引き受けてくださいました。主イエスが私たちを引き受けて、神の元に連れて行き、「大丈夫です。かつてはどうあれ、この人はわたしと出会って、今変わり始めています。わたしが保証します」。そう引き合わせてくださるのです。

 主イエスは私たちにどんな失敗や過ちや問題があろうと、私たちとともにいてくださいます。そのイエスとの出会いによって、サウロも迎え入れられ、バルナバはその証人となったのです。サウロからの被害の傷も十分に踏まえた上で、バルナバはサウロを引き受け、間を取り持ち、慰めと和解の橋渡しをしました。おかげで、サウロはエルサレムで弟子たちに受け入れられ、大胆に主の御名を語りました。29節の

「ギリシヤ語を使うユダヤ人たち」

は三年前、サウロも一緒にキリスト者を大迫害していた仲間、かつての同志です。彼らにしてみたら、キリスト者を引っ捕らえるためにダマスコに行ったサウロが、キリスト者、裏切り者となって帰ってきたのです。彼らもサウロを殺そうとします。でもこれがサウロのかつての生き方でした。違う意見のものは否定し、力尽くで排除する。そこから救い出されて、自分の迫害による被害者の中に受け入れられて、守られるようになったことも、サウロの生き方の根本的な変化です[5]

3.ともにいて、連れ出して、送り出し

 お気づきでしょうが、九章後半には「奇蹟」らしい奇蹟は全くありません。九章前半で、ダマスコ途上のサウロに主が光を照らし、直接声を聞かせ、目を見えなくしたのとは大違いです。後半でも引き続き主の奇蹟があったらどうでしょう。主が直接現れていたら、いや、せめてアナニヤに幻で語られたり、目から鱗が落ちるのを見せてくださったりしたような、直接のしるしをエルサレム教会に見せておられたら…。サウロを殺そうと二度も危険が迫った時、四章で牢獄を開き、八章でピリポを連れ去ったような御使いが来てくれたら…。でもそうではありませんでした[6]

 しかし、そういう奇蹟や神頼みではない奇蹟があります。かつての敵、加害者、恐怖を抱くような存在に、仲間として出会い、その橋渡しをする人がいて、受け入れ、ともにいるようになったことこそ奇蹟です。更に、そのサウロに危険が迫ったら、ただ祈るだけでなく、わざわざカイザリヤまで連れ出して、故郷のタルソへと見送りました。ダマスコで闇夜に紛れて籠に乗せて脱出させたのと同じぐらいハラハラのドラマがここにもあったでしょう。そういう手間や危険や犠牲を惜しまず、サウロのためにしている。こういう姿こそ、地味ですが、本当に尊い新しい命があります。キリストが創り出される神の家族の新しい姿を見るのです。

 バルナバはサウロを引き受けて使徒たちに紹介した時、「教会なのだから受け入れるべきだ」と「べき論」や「正論」を説かず、サウロが主を見た様子や主がサウロに語られた事、サウロが大胆に主を語るようになった事実を紹介しています。主が彼に会った事実、そして変わった事実に焦点を当てるのです。その結果ダマスコで多くの信者が起こされたという華々しい成果があったわけではありません。むしろ、殺されかけて逃がされてきたのです。でも、成果とか業績で人を受け入れるのは教会ではありません。主イエスが遭って下さったこと、そしてイエスに出会う時に人は変わるということ、それはサウロにも事実となったことを認めたのです。

 イエスは私たちを受け入れ、神の家族にしてくださいました。互いに受け入れ、そのために橋渡しをするよう召されました[7]。でも、私たちはそれを忘れ、居心地良い内輪の集まりになりやすいのです。そんな教会の伝道に何の価値があるでしょう。伝道とは大集会や、多くの新来者を集めて立派な話を聞くことではありません。痛みや寂しさや傷で、愛の神など眩しすぎると思う世界で、私たちが、自分が主にどう出会い、主がどんなお方だから信じたくなり、それで自分がどう変わったかを、飾らず分かち合う。それが伝道です[8]。主が私たちを引き受け、癒やされ、変えられる、その恵みを分かち合い、少しでも橋渡しをする存在でありたいのです。

「和解の主よ。あなたの恵みにより、私たちの中の憎しみや傷を癒やしてください。教会がサウロを受け入れた和解をここでも続けてください。多くの分断や争いを結び合わせてくださったあなたに、自分の問題を差し出します。憐れみによる新しい始まりを期待して、私たち自身を差し出します。あなたが私たちを受け入れ、私たちを通してあなたの恵みを現してください」



[1]ガラテヤ書一章1518節「15けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、16異邦人の間に御子を宣べ伝えるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、17先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。18それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。」「アラビヤ」は現在のアラビヤ半島というよりも、ダマスコを含む地域の「ナバテヤ王国」の事でしょう。Ⅱコリント十一章3233節「ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの町を監視しました。33そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。」この「アレタ王」は、紀元前9年から40年までのナバテヤの王のことです。Ⅱコリント十一章3132節では「アレタ王の代官が」と。ナバテア王国の支配下にあったダマスコでの騒動が、為政者からも厄介者と思われたのか、別の事情で、アレタ王からもユダヤ人からも狙われたのか、両者の意見があります。

[2]「恐れる」使徒で、教会に使われるのは初めて。(五26は祭司側)

[3]四章36節「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと慰めの子)と呼ばれていたヨセフも」

[4]後に彼はこう言います。ローマ人への手紙一章14節「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」ちなみに、「新改訳2017」では「私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です」。としています。

[5]でもそのかつての仲間に、語ろうと努めたサウロの思いも尊いですし、「きっと分かってくれる」と楽観もせず、殺意に気づいたら身を守りました。大胆でしたが、無謀ではなかったのです。

[6]今でも、問題があったり物事がうまくいかなかったりするとき、主が奇蹟や幻で、手早く解決してくだされば良いのに、と期待するのが人情です。それこそ聖書の時代のような奇蹟があれば、と考えるものです。しかし、聖書そのものに奇蹟が出て来る場合と出てこない場合があることに気づいてください。むしろ、いつも奇蹟があったのではないからこそ、書かれている奇蹟もあるのですし、そして、大変な部分を人間が引き受けて、回りくどいことをしている場面の方が多いのです。

[7] 31節はそういう集まりとして築き上げられたということです。数が増え前進したとき、問題やややこしいことも多くあったことは十分想像できます。それも含めて、教会が広げられ、成長して、築き上げられていきました。

[8]私たちも、自分が主に出会い、教会に加わり、今日までどんな歩みをしてきたかを分かち合えばよい。教会にどんな印象を持ち、どんな願いをもって生きているかを分かち合えばよい。

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