聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ヨハネの黙示録 二章8-11節「貧しくても富んでいる」

2017-11-26 20:32:30 | 一書説教

2017/11/26 ヨハネの黙示録二章8-11節「貧しくても富んでいる」

1.おとぎ話のような黙示録

 「黙示録」というのは、新約聖書の書かれた紀元一世紀の前後にユダヤで用いられた「黙示文学」というジャンルを差しています。黙示文学の定義もありますが[1]、とても複雑です。今で言う「ダークファンタジー」のような話で、天使や霊的な存在が出て来て、戦ったり、読者を諭したりするのです。社会が不安な「世紀末」と言われる時代には、黙示録からこれから起こる出来事のヒントが黙示録から分かるかのような読み方がなされてきました[2]。まことしやかに「今は世の終わりだ、まもなく戦争や世界の審判が来るのだ」と繰り返されてきました。

 そういう黙示録だからこそ、あまり難しく考えず、変に何かを聞き取ろうなどと気負わず読んでよいのだと思います。それこそ「ダークファンタジー」のつもりで全体を通して読み、その物語全体から感じ取るメッセージを大事にしてほしいのです。黙示録は一世紀の末に書かれました。ヨハネがパトモス島に流刑にされ、皇帝ドミティアヌスのキリスト教迫害が本格的に厳しくなっていった時代です。そういう時代の教会に書き送るよう、主がヨハネに示して下さった不思議な幻が、この黙示録です。それは、一世紀の小さな教会がそれぞれの歩みを、もっと大きな神の物語の中で見るようにと招かれた、独特の幻です。一章で、力強い形で現れたキリストが、小アジアの七つの教会に書き送りなさいと幻を始められます。その後、二章三章では七つの教会それぞれに、その状況や教会内の問題に相応しい言葉が送られます。その後、四章から二二章まで、天上の礼拝や世界の混乱や戦いが行きつ戻りつ示されて、主イエスがもう一度おいでになって栄光の都を打ち立てられる終わりを迎えることが語られるのです。そうして

「しかり。わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ、来てください」

と結ばれます。

 それから二千年近く。「直ぐに来る」と仰ったイエスはまだ来ていません。黙示録が世の終わりが近いとか最期にどんなことが起きるのか、というメッセージであれば、ヨハネや七つの教会は騙されたことになります。でもそうでないなら私たちも、終末の出来事やしるしを読もうとしないほうが良いでしょう。もっと言えば、今の時代が特別な時代だとか、世の終わりに生きている、というファンタジーに逃げ込むのではなく、今、ここにある私たちの歩みを神の大きな物語の中で大切に思うようになりたいのです。黙示録は、一世紀の七つの教会も、現代の私たちをも、神の大きな御支配の中にあることを気づかせる、特別な「おとぎ話」なのです。

2.貧しいスミルナ教会

 黙示録が宛てられた七つの教会で二番目がスミルナの教会です。これは最も短い手紙です。しかしひと言も非難されません[3]。またそこには

「行い」

と言われるような立派な行い(働き・業績)もなかったようです。貧しくて何も出来ず、罵られて、苦しみを前に恐れるような小さな教会でしかありませんでした[4]。ユダヤ人たちからの強い罵倒がありました。それでも彼らは今尚

「忠実」

を保っていました。何も出来ることはなくても、イエスに忠実に、信仰に立って、礼拝を守っていました。そういう小さな教会に、主は目を留めてくださいました。

10あなたがたは十日の間、苦難に遭う」

とあります。これは「十日」なのか。「十年」のことなのか。「予言的」に読もうとすると、そういうことが大事になってしまいます。現実にはドミティアヌスの迫害は何年も続きましたし、ローマの迫害は温和な時代も挟みながら、四世紀のキリスト教公認まで続きました。スミルナの教会の人にとっては、100年も200年も大きな違いはなかったでしょう。ですからこの

「十日」

は厳密な日程とか予言というよりも、「まだしばらくの間」というぐらいの意味でしょう。苦しみが来る。直ぐには解放されないが、いつまでも、という苦しみではなく終わりが来る。また、あなたがたの苦しみや貧しさを、イエスは知っておられる。イエスご自身が苦しみ、貧しい御生涯を生きられたからです。そして、その貧しさもひどいものだったとしても、あなたがたは本当は富んでいるのだとイエスは言われます。何も持たないようでもイエスにあってすべてを持っている。なくてはならないものを持っている。お金では買えない喜び、苦しみや投獄によっても奪えない命、死に至るとしてもイエスがいのちの冠を授けてくださる。天地を作られた神が私の父となって、私に豊かな恵みを下さるのです。実際、その豊かさがこの教会を支えていたのです。こうして、スミルナ教会への直接の言葉は短く終わります。しかし、四章から二二章までもスミルナ教会への手紙です。そこに展開する戦いや、勝利や希望の約束は、まさに

「あなたは富んでいる…わたしはあなたにいのちの冠を与える」

と言うメッセージでした。そういう読み方が一番シックリくるのです。

 二千年前のスミルナ教会やその他の教会は、それぞれに苦難があり、内部にもそれぞれの問題を抱えていました。その教会を励ますため、主はこの黙示録という不思議な絵巻を示されました。ただ「忠実であれ」とか「いのちの冠を与える」だけでなく、また「十日の間苦しみを受ける」とかではなく、かなり不可解な、不思議な幻を通して、七つの教会を励ましてくださいました。そして主イエスご自身が死んでよみがえられた方、死を味わい、死に勝利された方、あなたがたの苦難と貧しさを熟知しておられることをも思い出させてくださいます。まだまだ勝利は遠く、十日やそれ以上待つように思えても、最後の勝利は来るのです。これは他の黙示文学にはない、力強く無条件の明るい特徴です。そして最後には壮大な都の幻が語られます。

3.途方もないエンディング

二一1また私は新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 この新しい都は16節では何と二千二百キロ。エルサレムを一回り大きくどころかローマまで届きそうですし、沖縄から札幌ぐらいの超巨大都市です。そんな途方もない都が命の水や命の木があります。けれども、ここに

「いのちの冠」

は出て来ません。あの約束は口約束だったのでしょうか。いいえ、この終わりの日の壮大な新しいいのちの都そのものが、

「いのちの冠」

なのでしょう。小さな教会に約束された「いのちの冠」は、途方もなく大きな約束、いのちの水の川、いのちの木とその実や癒やしの葉っぱの豊かな生活として惜しげもなく示されます。聖書は私たちに途方もなく豊かで、具体的な将来像を物語ります。そして、神が人々の目から涙を拭い取って下さる[5]。スミルナ教会や私たちの労苦や涙に、主は「泣くな、嘆くな」とは言われません。最後の時、待ちかねていたかのように一人一人の所に来て、私たち一人一人の目から涙を拭ってくださいます。またその時「お前は死に至るまで忠実だったか」などとも問われません。私たちの穴だらけの精一杯を、

「忠実」

と受けとめてくださるのです。

 「すべてを新しくする」[6]

 それがいつかはイエスでさえ知らないと言われました。世界の最後が、今晩だろうと二千年後だろうと関係ないのです。神はこの大きな物語の中で今ここに私たちを生かしてくださっています。主が全てを支配して、私たちの貧しさも傷みも知っておられて、最後にはすべてを新しくなさる。その大きな流れの中で、今ここで先の分からない歩みにも意味を見出せます。今までの歩みをも、無駄ではないはずだと受け入れることが出来ます。その励ましを具体的に思い描くためにも、この不思議な黙示録に親しむ恵みがあるのです。

「世界を造り、終わりに至らせる主よ。人が考えるどんな物語よりも大きく深く慰めに満ちた約束をあなたは黙示録に託してくださいました。この世界の国々や歴史の渦に翻弄される人々を黙示録が励ましてきたように、私たちもここからあなた様を仰ぎます。あなたの確かな支配の御手を信じて、主のおいでを待ちわびつつ、今ここでの歩みに、誠実に向かわせてください」



[1] 「『黙示』とは物語の枠を持った啓示文学の一類型である。その中で、異界の存在者によって啓示が人間である受け手に取り次がれて、超越的な現実が明かされる。その現実は終末論的な救済をもくろんでいるという点では時間的なものであり、超自然的な別世界にかかわっているという点では空間的なものである」。J・コリンズの定義。渡辺睦夫「ジャンル別新聖書解釈入門 第84回 黙示文学① 新約の「黙示録」を読みましょう!」『舟の右側』(地引網出版)2016年1月号、53ページ。

[2] 中でも19章の「千年王国」を巡っての理解は大きく分かれています。

[3] 非難がない教会はスミルナとフィラデルフィアだけです。そしてスミルナはその二つでもまた短い手紙です。

[4] しかしこの手紙が短いのは主イエスも軽く見られたからではなく、主イエスが信頼したからこそ、だと思えるのです。信頼しているからこそ、短い言葉で大丈夫。多くを語らなくとも、これだけで通じる、と思われたからこそ、短い手紙なのだと思えてならないのです。

[5] ある教派は「世の終わりには大艱難期がある」と教えますが、黙示録を素直に読めば、そういう世の終わりがどうこうではなく、この時のスミルナや七つの教会のこと、そして、それ以来の全ての人の艱難や涙の事だと思えばいいようです。

[6] 二一章5節の「すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」」は、天の幻、御座に座っている方が初めて口を開いて語られる言葉です。

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