聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ダニエル書六章「ライオンの穴で」満濃キリスト教会説教

2017-09-24 17:16:39 | 聖書

2017/9/24 ダニエル書六章「ライオンの穴で」満濃キリスト教会説教

 ライオンの穴、ペルシャの王宮、大臣や官僚たちの嫉妬と悪巧み。ドラマ性たっぷりのダニエル書六章です。そして、その中で真っ直ぐに生きるダニエルが、勇敢に祈りを捧げ、捕まり、ライオンの穴に投げ込まれる[1]。10節の

「彼はいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」

に注目する説教も多くあります[2]。しかし、ここでダニエルの台詞は21、22節だけです。後はずっとダニエルは静かです。むしろ王のダリヨスの出番の方が多いのです。それも、大臣たちの持ちかけた法案が罠だとも気づかずにいい気になって署名し、得意になって、12節でも得意になってあの法案を確証して、

13そこで、彼らは王に告げて言った。「ユダからの捕虜のひとりダニエルは、王よ、あなたとあなたの署名された禁令とを無視して、日に三度、祈願をささげています。」

と真相を明かされた途端、ダリヨス王は

14非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めた」

のですが、法律の取り消しは出来ないと突っぱねられ、ダニエルを獅子の穴に投げ込むよう命令を出さざるを得ません。そうしつつ16節で王はダニエルに、

…話しかけて言った。「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」[3]

 またその晩、宮殿に帰った王の様子も18節で詳しく書かれています。

18…一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠気も催さなかった。

19王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。

20その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」

 こういう王の間違い、情けなさ、つけ込まれやすさ、人間臭さに丁寧にスポットライトが当てられています。そこから見えてくる、彼の後悔、不安、恐れ、悲痛な思い、そして喜び、怒り、最後の賛美があります。正直なところ、私たちが親近感を覚えるのは高潔な信仰者ダニエルよりもむしろ王でありながらオロオロするダリヨスの方でしょう。ダニエルのような信仰者になれ、という励ましも間違いではないかもしれませんが、ダリヨスのような自分が生ける神の力、御業を拝させられていく、という読み方のほうが必要で実際的なのでしょう。

 ダニエル書のテーマは人間の王や国を天におられる神が治めておられる、という事実です。神こそが歴史を支配する本当の王です[4]。六章もダリヨス王の人間性、神ではなく、無力で愚かで、本当の王である神の前に問われる物語です。王は、いわば出世コースのトップです。世界を支配する権力を持ち、崇められて、贅沢に暮らせる。でもダリヨスは満たされていません。ライオンを飼うのは王の権力の象徴だったようですが、それも考えてみれば自己満足でしょう。王を拝む、という法律はそんな彼の功名心や渇き、虚しさをくすぐったのでしょうが、結局それは取り巻きの陰謀で、自分の首を絞めることになりました[5]。18節の

「食事を持って来させなかった」

は欄外に

 「別訳「そばめを召し寄せず」語彙不明」

とあります。食事にせよ側女(そばめ)にせよ、何も彼の慰めにはならず、一人後悔しつつ眠れない夜を過ごしました。ダニエルという捕虜の一人に過ぎないはずの人間が、法令を無視したことに怒るよりも、そのダニエルを自分がライオンの穴に投げ入れ、殺してしまったことの恐ろしさに耐えられなかったのでしょう。

 今も政治や権力を握った人は結局人間でしかなく、プライドや競争心や野心で争い合っています。ミサイルや核兵器を誇示しています[6]。私たちも王の位ならぬ社会の地位、人からの尊敬とか注目に憧れます。ライオンならぬ大型車や豪邸、コレクションやトロフィー、あるいは自分の身体そのものを逞しく、若々しく保つこともあります。王が普段は夜、食事やそばめを持って来させたように、私たちも夜や休日、誰も邪魔されない時間に気慰みにしていることがあるものです。全部がそれ自体で悪いとは限りませんが、そうした自分の姿自体、渇きであり、何か頼るもの、慰めや支えを求めている弱さや寂しさです。そしてそれらはいつかなくなります。それを忘れ、失うことを恐れてしがみつくと逆に自分の足を救われるか、もっと大事な人を失うことになるのです。神ならぬものを神とすることは、結局、ダリヨスと同じ過ちです。

 しかし、そういうことで終わるなら、この物語もただの道徳やお説教に過ぎません。そうではないのは、その絶望で迎えた朝、ダリヨスが聞いた驚くべき言葉から明らかです。

21すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように[7]22私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」

 ダニエルは生きていました。それもダニエルが知恵を絞ってではなく、神が獅子の口を塞いでくださったので何の害も加えませんでした、という神の生けるわざでした。それは、ダニエルが無実であること[8]、王に対しても悪いことはしていないことの力強い証明でした。でもそれだけではありません。一睡も出来ず生きた心地もしなかったダリヨスは、ダニエルに責められると思ったかも知れません。真の神を恐れないあんな法律に証明した自分を、本当の神が打たれ、罰せられ、獅子の穴か地獄の穴に投げ込まれると思ったかも知れません。しかし、ダニエルの口からはそんな非難はありません。恨み辛みや反省を促す言葉はありません。礼儀正しく丁寧に真実を語り、手を差し伸べるような言葉を静かに語るだけです。神ならぬものに縋り付いてしまう人間の愚かさを熟知して、自分の過ちに気づいて帰ってくるよう語りかける。それがダリヨスの人生に飛び込んで来たダニエルがもたらした、最大の驚きです[9]。ダリヨスがそのまま王座について一生を終えていたら決して体験できなかった恵みの出会いです[10]

 イエス・キリストも私たちの世界に飛び込んで来られます。ダニエルとイエスには、無実の罪で死に、穴に入れられ、奇蹟の生還を遂げたなどの共通点が浮かびます[11]。しかし今日思い出したいのはキリストが黙示録五章5節で

「ユダ族の獅子」

と言われていることです。イエスは百獣の王に準えられる万物の王です。決して人が捕らえて閉じ込めることは出来ませんが、この獅子は本当に私たちを強くして下さいます。私たちを食い殺すのでなく、測り知れない平安と勇気と希望を下さいます。表面的な礼拝や服従を強いる王ではなく、心の深い思いを憐れんでくださり、取り扱い、支えてくださる王です。疑い迷い失敗する私たちをその力で導かれます。世界と歴史の王は、上辺の力ではなく、心を扱い、憐れみ、強めてくださる獅子です[12]。「獅子の威を借る」ような生き方や、生け捕りにしたライオンを自慢して偉そうにする生き方ではなく、まことの獅子王、イエス・キリストの前に謙る時、私たちも本当の「ライオンハート」を持つようになるのです。いいえ、イエスは、そうしたいし、そうしてくださるのです。

 ダニエルも決して苦難から守られたのではありません。無理な罪状で捕らえられ、手荒く扱われ、獅子の穴に投げ込まれました[13]。獅子の穴に入らないよう守られはしませんでしたが、獅子の穴でさえ主はともにおられましたし、その間、外でダリヨス王の心にも主は働いておられたのです。ダニエルの特別な物語は私たちに奇蹟を保証してくれるわけではありません[14]。 決して祈っていれば戦争は起きない、大変なことからは守られるわけではありません。世にあっては艱難があり、私たちは

「試みに遭わせず悪より救い出し給え」

と祈るのです。その祈りを教えてくださった主が、どんな時にも私たちとともにおられます。人の願う奇蹟よりも深く大きなご計画で、世界も私たちの心の奥深くまでも取り扱われます。一人一人に特別な人生を用意され、不幸や災いのような体験を通しても、人の予想を超えた恵みで強めつつ、歴史を導いておられるのです。だから私たちも

「いつものように」

祈り続け、礼拝し続け、どんな人にも誠実に関わっていく。それが迫害者の思う壺となるとしても、そこにさえ誰も予想もしない展開を主はなさいます。主は今ここでも確かに働いておられます[15]。私たちの信仰や応答の出来不出来を越えて、生きて働かれ、支えてくださる。そういう栄光の王が私たちの主なのです。

「歴史を支配されている主よ。私たちの心の底までもあなたが王として治め、あなただけが下さる希望、平和を与えてください[16]。あなたの恵みを知らぬまま、力を求め、自分の首を絞め、大切なものを失う、これ以上ない悲劇が今も繰り返されています。憐れんでください。私たち自身を恐れや敵意から救い出し、主イエスの大きな恵みの御手の中に自分の人生を見ていくことが出来ますように。そこから見える深い平安をもって、今ここに生きる教会としてください」



[1] 3章との共通点(類似でない点もあるが)に注意しましょう。そしてそれは、この後も今日まで、戦いは続くことを語っているといえます。一件落着、ではないのです。

[2] 獅子の穴に投げ込まれることも恐れず、いつものように祈っていたダニエルは素晴らしい、そういうダニエルを神様が守ってくださったのも当然だ、そうダニエルに注目することも出来ます。

[3] 16節は皮肉なことに、ダリヨス自身が自分ではない神に祈願を捧げる言葉です。ダリヨス自らが、あの禁令を破っています! 更に言えば、あの大臣たちも、ダリヨスの話に耳を傾けないことで(14節)、ダリヨスを真に崇め、服従していたのではないと言えます。重箱の隅を突きたいのではなく、彼らの提案した法案自体が、自己矛盾したものであった、ということです。それゆえダニエルは、形式上はこの法案に違反しましたが、最終的には「あなたに対しても何の悪いこともしていません」と堂々と言うことが出来ました。キリスト者の法令遵守が杓子定規な(ソクラテスのような)ものではない、自由で真実なものであるという、視点も持つことが出来ましょう。

[4] ダニエル書は、旧約聖書の終わり頃に位置しているように、イスラエル王国が散々、神である主に反逆を重ねた末、遂にバビロン帝国軍に包囲され、王国の歴史を終わった、という背景で書かれました。ダニエルはイスラエル民族の都エルサレムから、バビロンへ捕囚として連れて行かれた貴族たちの一人です。若い時にバビロンに来て、王宮に仕えるように召されてから半世紀以上、この6章では80才を越えていたと思います。そして、直前の5章最後では、バビロン王ベルシャツァルが殺されてメディヤ人ダリヨスが王になった、つまりバビロンもまた衰えて、メディヤとペルシャ帝国の時代になった、そういう時代です。世界帝国が終わり、また次の帝国に代わった、大きな世界大のうねりを見据えているダニエル書です。イスラエルも滅びましたが、それを滅ぼしたバビロンも衰えて滅ぼされました。人間の作るものは、国家だろうと戦争だろうと権力だろうと、所詮は人間が作るものでしかありません。

[5] 王は、30日だけ自分以外の神や人間に祈願をする者は獅子の穴に投げ込まれる、という法律に署名しました。それ以前の彼の120名の太守を任命し、三人の大臣を置く、という政策は賢明でした。それは、彼が自分一人では国を治めることは出来ないし、その太守たちが間違う可能性も否定できないし、その損害を受けないように大臣に任せよう、と考えたからです。彼は全能ではないし、みんなに祈願を捧げられても応えることは出来なかったのです。でも、彼はこの法令に署名しました。そんな法令を持ちかけられて悪い気はしなかったのでしょう。

[6] その裏には、ダニエルのように主に奇跡的に救い出されることも自分にはないだろうと思い込む、小さな神観があります。

[7] 「永遠に生きられますように」は6節で大臣たちがダリヨスに言った挨拶の言葉です。同じ言葉をダニエルは繰り返しています。人が永遠に生きられることはありませんが、ダニエルはそのような正論を持ち出すよりも、ダリヨスに対して精一杯の礼儀・敬意を払っています。

[8] この言葉は「罪が・ない」という二語ではなく、「きよいinnocent, clean」を表します。決して「罪が一切ない」「原罪がない」という意味ではありません。彼の罪の告白は、同じ時期に捧げられた9章の祈りからも明らかです。

[9] 偽りの神々に縋るものは、力を誇示し、みんなをひれ伏させ、逆らう者を罰することで溜飲を下げようとしますが、真の神はそんな不安定さとは無縁です。

[10] 獅子の口を封じた神は、もっと早くダニエルの正しさを立証することも出来たろう。しかし、そうはなさらなかった。その意味は、このダニエル書全体でも、王の心を問い、知らせ、自分に向き合わせる主の目的として明記されている。そしてこの事をダリヨスは、「この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行い、獅子の力からダニエルを救い出された」と告白しています。この「解放」はダニエルの出来事だけでなく、ダリヨスをも解放された御業であり、全人類に対する御業をも見ていよう。私たちは、王から囚人まで、神ならぬものに囚われています。真の神は私たちを、偽りの神、自縄自縛の偶像崇拝から救い出してくださるお方です。

[11] この方も罪がないのに捕らえられ、脅しや策略も恐れず、真実を貫かれました。捕らえられ、弁解や抗議を口にせず静かに不正な罪状を受け入れられました。ここで、イエスの無罪を知って釈放を試みた総督ピラトと、ダニエルの無垢を知ってその命を救おうと画策したダリヨスを重ねることもよくあるようです。どちらも釈放を画策しつつ、しかし、最終的には押し切られ、プライドや臆病が邪魔をして、処刑を許可してしまいました。死の穴に放り込まれ、その穴は石で封印されました。しかし神は御使いを遣わされ、朝になった時イエスは穴から出てこられました。この他、共通点は幾つもあげられます。

[12] 黙示録五5、6。王宮やご馳走や贅沢に囲まれても決して得ることの出来ない平安が、イエスにあってあります。この王なるイエスこそ、私たちのために御自分のいのちを捧げ、屠られることをも厭わなかっお方だからです。この方は本当に殺されて穴に入れられ、本当によみがえったのです。また、このイメージから、C・S・ルイスの「ナルニア国年代記」も思い出せます。「ナルニア」では、天帝の皇太子アスランはライオンの姿をしています。

[13] 決してダニエルのように信仰があればどんな苦難からも救われるわけではないし、災いや不幸に出会っている人を見て、その人の信仰に問題があるように断定することも出来ないと気づかされます。「「(ジェームス)フィンリー は、神についてこう語っている。『(神は)無限大に予測不可能なお方だ。そのおかげで私たちは、[予測不可能なものでも]信頼に値するとわかる。なぜならどんなことの中にもキリストを意識できるようにと、神は私たちを導こうとなさっておられるからだ。あらゆることの中にあって私たちを支えていながらも、私たちを何物からも守ることのない、神の完全な愛に徹底的に根ざしているならば、そのときこそ、私たちはあらゆることに勇気と優しさをもって向き合い、他者や自分自身の中にある痛んでいる部分に、愛をもって触れることができる。』」the absolute love of God(メモ)

[14] 実際、初代教会では多くのキリスト者が迫害され、獅子の餌食にされる見世物となって死んでいきました。

[15] 最終的な裁きと、悪の破滅、ダニエルの救いは、ダニエル書12章の最終的な正しい審判に通じる。その神が、今ここでの歴史や人間関係にも働いて下さり、そのことに勇気を得て、なすべきことを果たしていくよう私たちを励ます。

[16] それは決して私たちの個人的な宗教的な話ではありません。「教会ではそういっても、実際の生活ではお金があるほうが勝つ、出世したり権力を手にし、皆からスゴイと言われる生き方の方が成功者なのだ。」そういう思い込みにこそ、ダニエル書や聖書の様々なエピソードは光を当てて切り込んできます。歴史を支配しておられる神は、やがて全てを裁かれ、悪を罰し、真実な御国を始められます。その途上にある今も、神ならぬものや人間の創り出す名誉や力に縋る生き方は虚しく、一時的で、墓穴を掘るもので、私たちは個人的な悔い改めと神への回心とを必要としているのです。

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使徒8章26-40節「一緒に座って」

2017-09-17 18:15:14 | 使徒の働き

2017/9/17 使徒8章26-40節「一緒に座って」

1.サマリヤからガザへ

 今日の箇所は「エチオピアの宦官」として知られるエピソードです[1]。とてもドラマチックで忘れがたい出来事です。不思議な出会いです。ピリポにしてみたら、八章前半で見たように、サマリヤでの大勢の回心や新しい宣教の広がりを見て喜んだのとは、また全く違う出来事です[2]。主の使いが直接語りかけて、

「エルサレムからガザに下る道に出なさい。このガザは今、荒れ果てている」

と命じました。荒れ果てた町ガザ、もしくはガザへの荒れ果てた道へ、なんで行かなければならないのか、と思いたかったかも知れません。ともかく暑い中、行ってみたら、エチオピア人の高官がエルサレムからエチオピアに帰る途中に出くわすのです。

「馬車に乗って」

とありますが、牛車にも使われる言葉です。ピリポが走って話しかけるには、馬車より牛車のほうがありそうです。近づくと、なんとイザヤ書の朗読の声が聞こえたのでした。

 この出来事と前半のサマリヤの宣教は対照的です。勿論、サマリヤ人も異邦人も両者とも、ユダヤ人にとっては他民族(余所者)として軽蔑していた人です。そうした他民族に福音を伝えて、民族の壁を越えた神の民とされていくという意味では通底しているものがあります。けれども、サマリヤの宣教で町中の人々が福音を信じて、魔術師シモンまでも自分の非を認めた、という大きなドラマだけであれば、やっぱり数とか上辺に囚われてしまったかもしれません。この興奮も覚めやらぬ段階で、主があえてピリポをエルサレムからガザに下る道、荒れ果てた、何の期待も出来ないような場所に遣わされました。すると、そこには聖書を読みながら帰って行くエチオピア人がいました。その一人のために、ピリポは遣わされ、またこの一人が洗礼を受けただけで、ここから取り上げられてアゾトに移されるのですね。一人のために、です。

 しかもその一人がエチオピアの高官だったのも誤解しやすいかもしれません。一人とはいえ有力者だった、名士だった、敬虔な人だった。ただの庶民やいい加減な信仰者ならこうはならなかった、と思いやすいのです。しかし、逆ですね。エチオピアの高官といえども、彼はエルサレムまで礼拝に上ってくる一求道者でした。その距離は北海道から九州までぐらいの二千キロだと言います。その距離を牛車でトボトボ何週間かかってくるのでしょう。それは彼の立派さというより、求める心の強さ、女王の財産全部を与りながらもそれでは満たされない切実な生き方でした。そして、神殿から帰る道もまだ聖書を読み、導きを求め、この預言の言葉は誰について言っているのだろう、と考え、悩んでいた一求道者だったのです。こういう彼にピリポは声をかけ、乞われて車に乗り込んで一緒に座りました。それは実に奇妙な光景です。

2.大臣と難民

 エチオピア女王の全財産を管理している大臣と、エルサレム教会で貧しい女性の世話に追われてきたピリポ。いや、先の大迫害でエルサレムを追い出され、難民となっていたピリポです。謁見に相応しいどころか、暑いガザへの道まで歩いてきて、牛車に走ってきて汗をかいていたピリポ。それと、牛車に乗って長旅をする、エチオピア女王の大臣。この組み合わせの不思議さも、今日の箇所の特徴でしょう。そして、それがそのまま肝心の質問に通じます。

32彼が読んでいた聖書の箇所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。

33彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。

34宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」

 イザヤ書五三章は、キリストの受難をハッキリ預言する、「苦難のしもべ」として知られる箇所です。それだけにイエス・キリストを知らなければ意味不明です。この高官もここの黙々と殺されていく「彼」、卑しめられて殺される「彼」は誰かと思案していました[3]。卑しめられ、殺される人物が神の民の回復に、二つとない役割を果たすという、それは一体誰のことかと引っかかっていました。でも彼はまさか神の子とは思わず、預言者か誰かとしか思えません。

35ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。

 イザヤが語った、自分を小羊のように生贄に捧げて、神の民を回復するのは、イザヤでもなく他の誰かでもなく、神ご自身の御子イエスである。神の子がこの世界に人として来られ、十字架の死にまで卑しくなり、御自分を捧げてくださった。その出来事をピリポはエチオピア人に伝えたのです。まさか、という知らせでした。聖書が神の言葉で、特別な希望や光をもたらすとは信じていたでしょう。旧約の歴史からイスラエルの民と共に歩み、真剣でいてくださった主の不思議な御業にも感銘を受けていたでしょう。でもその神がまさか自ら人となり、卑しめられ、人間の裁判でも弁明せず、十字架に死んでくださった。その知らせにエチオピア人はどれほど驚いたでしょう。エチオピアの宗教にも世界のどんな宗教や人間の考える物語が到底思いつかない神です。そして彼は水のあるのを見て、洗礼を申し出て、キリストの民に加わることを願い出たのです。これにはピリポが驚いたのでしょう[4]。そして、洗礼を受けた後、主の霊がピリポを連れ去りますが、宦官は彼がいなくとも

「喜びながら帰って行った」

のです[5]

3.一緒に座る

 これは私たちにとっても深く思い巡らさせられるエピソードです。サマリヤの大きな出来事も尊いことでした。しかし主はあえて、そのような成長のただ中でこの先の展開を期待し夢を膨らませる上り坂におらせるより、もっと違う所に私たちを置かれるお方です。人里離れた場所で、意外な一人と向き合わされ、ほんの僅かな時間一緒に過ごさせられることもなさいます。そしてそこでの出会いを通して、イエスを分かち合い、それによって相手が喜びに溢れて帰って行く。ピリポはそれを見送るだけで手を離させられるのですが、それでもそのためだけに、荒れた道に行かされる事があります。

 正直な話、私たちは反射的にこう考えるはずです。「その大切さは分かるけれど、そもそも御使いが直接宦官に話しかけたらいいじゃないか。去る時みたいに、最初もパッと彼のそばに現れるようにしてくれても良かったじゃないか」。

 けれども、主イエスご自身がどうだったでしょうか。神の力や見えない導きだけで済まさず、二千キロどころではない天と地、創造主と被造物という無限の隔たりを越えて私たちの所に来て下さいました。宇宙の片隅の小さな星で一瞬現れては消える虫けらに等しい人間の存在です。女王の高官だろうとローマ皇帝だろうと、庶民も貧民も「団栗の背比べ」です。でもその私たちに世界の造り主なる神は目を留め、私たちを愛しまれます。私たちに走り寄り、私たちの人生で隣に喜んで座ってくださり、疑問や呻きや祈りに耳を傾けてくださいます。ご自身の犠牲も惜しまずに私たち一人一人を生かし、神の子、神の民として生かしてくださる王です。

 そしてこの王は私たちをも導かれ、ユニークに出会わされます。肩書きや関係にパターンはありません。見知らぬ人か、よく知った家族かも知れません。しかし、その出会いや煩わしさや会話を通して、誰よりも私たちの隣にいるイエスを分かち合うことが出来ます。その時に、私たち自身が新たにイエスに出会わせていただく。私たちを愛して御自分を捧げられたイエスの姿が、改めて心の目に焼き付けられるのです。華々しく劇的な働きから、主は思いがけない導きによって荒れた地に送られもするのです。それは私たちが一人と関わり、限られた出会いを通して恵まれ、イエスを知るためです[6]。使徒八章の思いがけないこのエピソードは、私たちの人生にもある思いがけない出来事、予期しない出会いや展開を、主の導きの光で見せてくれます。

「主よ。あなたは私たち教会に、拡大や成長ではなく、迫害や中断、荒野の道を通らせて祝福なさるお方です。神の恵み、聖霊の力、御使いの助けによって、私たちの今週の出会い、人間関係をも導いて、あなたの栄光を現してください。また私たちが、本当に御子イエスが命を捧げてくださった驚くべき愛を、小さな出会いや会話から改めて受け取ることが出来ますように」



[1] けれどもこのエチオピアは現在のエチオピアではなくエルサレムからはその一つ手前のスーダンなのだそうです。

[2] 25節で「このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、…」とあるのは「彼ら」です。使徒(ペテロとヨハネ)だけでなく、ピリポもサマリヤを引き上げ、エルサレムに帰ったのかもしれません。そして、26節の言葉は、サマリヤからではなく、エルサレムからガザへ行けと命じられたことは十分あり得ます。その場合でも、サマリヤにかかり切ったのではなく、エルサレムに引き上げたピリポたちの姿勢は、一考の価値があります。

[3] 彼がちょうどこの箇所を読んでいる所に通りかかった、と見ることも出来ますが、彼がギモンに思っていたこの箇所辺りを繰り返して読んでいた、と考えることも出来ますし、その方が自然に思えます。

[4] 洗礼を勧めたのでもないのに、相手の方から申し出たのです。

[5]「宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った」と訳されているこの言葉は直接には「…彼を見なかった。彼(宦官)が喜びながら帰って行ったからである」です。宦官が十分に喜びに満たされて、もうピリポの存在や導きを必要としなかったかのようです。

[6] しかし、そういう私たちが変えられて、人数や出来事や地位とか影響とか、そういうことの大きさや楽を考えるより、本当に一人を大事にすること、出来る労苦を淡々としていき、この一人の喜びを大切に、一緒に喜ぶように変えられる事を迫られるのです。

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問87「もったいない生き方」1コリント6章9-11節

2017-09-10 15:02:00 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/9/10 ハ信仰問答87「もったいない生き方」1コリント6章9-11節

 この夕拝では私たちの教会の伝統にある「ハイデルベルグ信仰問答」から信仰の基本をお話ししています。前回からキリスト者の生活についてお話ししています。

問87 それでは、感謝も悔い改めもない歩みから神へと立ち帰らない人々は、祝福されることができないのですか。

答 決してできません。なぜなら、聖書がこう語っているとおりだからです。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」 

 この問はとても率直だとも言えます。善い行いが要らないなら、神に悔い改めなくても祝福を下さってもいいではないか、そういう疑問やケチをつける思いは人間の中にあるのだと思います。神が愛の神だというなら、どんな人間をも裁いたりせずに救ってくれればいいじゃないか。人を罰したり、良い人しか天国に入れない神なんて、ひどい神だ。そういう言いがかりをつけてくる人は多いのです。けれども、

「感謝も悔い改めもない歩みから神へと立ち帰らない」

人が祝福だけ願うなんて、矛盾していますね。

 「感謝も悔い改めもない歩み」

から

「神へと立ち帰る」。

 実はこれが、キリスト教のいう「救い」であり「祝福」であり「ゴール」なのです。ただ自分にとって幸せなものや楽しいこと、したいように生きることが「祝福」なのではありません。神に背を向けたまま、自分に欲しいものだけを神がくれればいいのだ、と思い上がっている。それ自体が本当に惨めな生き方なのではないでしょうか。この世界をお造りになったのは神である主です。イエス・キリストの父なる神です。この神が世界をお造りになり、私たちを造られ、いのちも個性もすべての必要も与え、特別な使命やご計画をそれぞれに与えておられます。その大きな神様のご計画の中に人間がいるのです。そこで人間に与えられたのは、神の栄光を現す、素晴らしい御命令です。本来、善い行いは、神が人間に託してくださった、かけがえのない使命なのです。

 けれども人間は神に背いて、神から離れてしまいました。神に感謝もせず、自分の非を認めることも出来ない、惨めな生き方になってしまいました。そして、神に帰る代わりに神ではない色々なものによって自分を満たそうとしています。それが、

Ⅰコリント六9…だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、10盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

と上げられている例のリストですね。不品行や姦淫は、夫婦ではない相手と、夫婦のような体の関係を持つことです。偶像(神ではないもの)を礼拝するのが偶像礼拝です。男色は、男同士で体と体の関係になること、またそれを商売にするのが男娼です。盗む者、泥棒する者ですし、略奪はもっと強引な奪い取り方です。貪欲は、欲張りで強い欲しがりの思いです。酒に酔う者は、お酒でベロンベロンになって、回りに迷惑をかけるのも顧みない人。偶像は直接神に対する罪ですが、あとはどれも、人を騙したり、人との関係を壊したり、家族を大事にしない事ですね。

「そういう人は神の国を相続することが出来ない」

と言われていますが、この世の国や身近な生活も、こういう行為はお断りであることばかりです。でも、注意して下さい。一度でもそういう事をした人は、神の国に入れない、ということではありません。この直後にこう言われています。

11あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

 これはすごい言葉ですね。このコリントの教会には、以前は、不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼、男色、泥棒、酔っ払い、略奪する者だった人たちが集まっていた。でも、そういう大きな罪を犯したからダメだ、ではありません。そういう人たちがイエス・キリストの救いに与って、聖霊によって洗われ、聖なる者とされた、というのです。素晴らしいですね。でも、先の言葉をもう一度読むと

「だまされてはいけません」

ともありましたね。そしてこのような注意を受ける事自体、この人たちの中に、また不品行をしようかな、男色をしてもいいんじゃないかな、泥棒や大酒も構わないじゃないか。そう考えたり、そうしてしまったりするところがあったのですね。この手紙を書いたパウロは、その人々に言います。

「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」

 主イエスの恵みを思い出させます。かつては不品行や好き勝手な生き方をして、関係を壊していた生き方から、私たちの神である主が私たちをきれいにしてくれ、聖なる者としてくださいました。今ここでも、人間関係を壊したり、裏切ったり、欲しがって妬んだりする醜い生き方ではなく、神の子どもとして生活して、回りの人と関わって、家族が育っていくような、そういう歩みを下さるのです。ただ将来天国に行くとか、今何をしても最後には救われるとか、そんなつまらない恵みではなく、今ここで、神の子どもとして、神に対しても人に対しても、誠実で正直で、喜びに満ちた生き方を一歩一歩進むのです。それでもまだ、罪を犯して、騙されて神の子らしからぬ行動をしてしまうような私たちです。でも、そのような私たちをそのままに放り出すのではなく、私たちを何度でも洗い、聖なる者としてくださり、義としてくださる。そこでまた私たちは何度でも立ち上がって再出発が出来ます。そして、回りの人にも、希望や慰めとなることが出来ます。

 まだ途中ですけれども、神は私たちにそういう救いの道を、聖とされた者の旅を下さいました。それを押しのけて、「このままでいいのだ、生きたいように生きて何が悪いのだ」と言うのは、神との関係そのものを踏みにじることです。それは全く勿体ない生き方です。神の下さった大きな祝福を蹴りつける台詞です。神への感謝も悔い改めもしないとは、神との関係という救いそのものを拒むことです。神はご自身の子として新しい生き方を下さるというのに、人間の方でそれを拒み、救われたくないと言う。それが神から離れた人間の姿ですね。そういう恵みを踏みにじるような勿体ない生き方ではありません。神が今ここで下さる、感謝と賛美、人に対してもそこに神の国が始まるような、そういう大きな救いの恵みであることを確認したいと思うのです。

「私たちの主は、私たちの欲望が強すぎるどころか、むしろ弱すぎると思っておられるかのようです。私たちは万事に中途半端です。限りない歓喜が約束されているのに、酒や、性(セックス)や、野心に酔い痴れて、浮かれ回っているのですから。まるで海辺で一日を過ごさせてあげようと誘われた子どもが、それがどんなにすばらしいことか想像もつかずに、それより、このままスラム街で泥んこ遊びをしていたいと言い張るようなものです。」(C・S・ルイス、『栄光の重み』)

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使徒8章1-24節「思いがけない展開」

2017-09-10 14:57:39 | 使徒の働き

2017/9/10 使徒8章1-24節「思いがけない展開」

 使徒の働きを読み続けています。これまでのエルサレム教会の展開が割合順調と言えたのが、八章で急展開して、弟子たちが散らされていきます。前回七章の最後で見たステパノの殉教から、その日のうちに大迫害となって、使徒たち以外の弟子が散らされていったのです[1]。主が教会を守られる、というのは簡単ですが、それがどういうことなのかを考えさせられます。

1.散らされることによって

 まずあるがままを受け入れたいと思うのです。決してエルサレム教会は迫害に遭わないよう守られたわけではありませんし、迫害に遭っても逃げることなく信仰と祈りで留まって守りを求めた…のでもありません。既に一万人を超えるような共同体となっていた教会が、迫害され、追い出される。それは大変なパニックです。教会を荒らし、家々に入り込んで引きずり出して牢に入れる、そういう暴力を主が留めてくださったら、と願ったでしょう。でも逃げなければならない場合もあるのですね。主が守ってくださるとは、どんな時にも安泰だということではありません。暴力や犯罪、ハリケーンや地震、戦争や政治の紛争、財政破綻や国の高齢化があろうと、教会だけは守られるわけではありません。病気や失業、家庭問題は、敬虔なクリスチャンなら遭うはずがない、とは思わないでください。そうだったら責任放棄し思考停止して楽ですけれど、神は人間に与えられた責任を肩代わりして楽をさせる方ではありません。

 同時に覚えてください。主はその迫害で散らされたことをも益とされました。彼らの生活は激変して、着の身着のまま、途方に暮れる状況だったでしょう。しかし、そうして散らされた先で、

 「あなたがたはエルサレムから大急ぎで逃げてきたのですか。どうしたのですか」

と問われて、

 「実は私はナザレのイエスと出会って…」

とイエスのことを話したのでしょう。こうして彼らはユダヤとサマリヤの地方に展開していきました。これは、最初に、

一8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

と言われていた展開です。教会は迫害によって解散させられ、弟子たちは散らされました。それは悲劇的な終わりかと思えました。しかし、主は惨めに散り散りにされたのではなく、散らされる事を通して、それまでは出来なかった新しい展開を始められました。彼らを通して御言葉がユダヤとサマリヤの諸地方に広まったのです。主は、私たちを災いに遭わせない方ではありません。私たちが思い描く「守り」、期待する「現状維持」は叶わず、生活のあらゆる出来事は変わったり衰えたり急展開するかもしれません。しかし主は、そのような喪失や悲劇や災いにしか思えないことを通しても、思いがけない新しいことを始めて下さるお方です。

2.サマリヤの宣教

 特に、5節以下には「サマリヤ」でのピリポの宣教が書かれています。このピリポは6章の最初で選ばれた七人の配給係の一人のピリポで、十二弟子のピリポではありません。使徒ではないピリポですが、彼はサマリヤでキリストを宣べ伝えました。そこには「しるし」も沢山伴いましたが、それはピリポの力ではありませんし、初代教会にいつもあった現象でもありません。主がピリポの語る御言葉を確証するために添えてくださったしるしです。

 このサマリヤとユダヤとは、歴史的な確執が深くて、「犬猿の仲」にありました。旧約の歴史を見ても、南北に分かれて数百年争っていたのです。その毛嫌いし合っていたサマリヤの人がエルサレムから来たピリポたちの話を信じるのは簡単ではなかったし、ユダヤ人にとってもサマリヤ人と何かを分かち合うなんて、真っ平ゴメンの話でした[2]。イエスはそのような敵対関係を越えた福音を下さいました。ここまで教会は、貧富の差、体の障害の有無、言葉や文化の壁を越えてきましたが、サマリヤ人との歴史的・宗教的な深い争いも越えたのです。また、そのためにしるしや癒やしの奇蹟も必要だったのでしょう。病気が治る、悪霊から解放される以上の深い驚きの出会いだったはずです。だから、その街に大きな喜びが起こったのです[3]

 そして、魔術師シモンというトリックでサマリヤの人を驚かせて、尊敬を集め、自分でも偉大な者を自称して、

 「大能と呼ばれる、神の力だ」

と言われる立場にいた人も変えられました。確かに彼は、金で聖霊を授ける権威を買おうとしました[4]。でも24節の台詞は感動的です。

24シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

 この言葉が結びです。ちょっと中途半端な気がします。でも裏を返せば、シモンがこのように言った事実をこのまま心に刻めということでしょう。人々をマジックで驚かせ、偉大なものと言われていました。でも本当は自分が偉大ではなく、汚れた霊を追い出したり病んだ人を助けることも出来ない自分だと分かっていたでしょう。神の力ではない、自分だっていつか死ぬ、トリックや名声では自分を救えないことも、どこかで分かっていたはずです。だからこそピリポのしるしに金魚の糞のようについて回り、使徒たちが祈ると聖霊が見える形で下って人が変えられるのを見た時[5]、彼は大金を積んででも、その権威が欲しいと思ったのです。

3.「私のために祈ってください」

 その彼の行為を罪だ冒涜だと排除することは出来ます。ペテロの言葉も厳しいものです[6]。しかしそのペテロの言葉も

「滅びるが良い」

で始まりつつ、この愚かな申し出を通して露わになった心の問題を指摘して、

「悔い改めて、主に祈りなさい」

と勧めます。シモンの問題は権威や力が足りないことではなく、今まで築いてきた名声や立場が危ういことでもなく、シモン自身の心でした。苦い思い、不義に囚われた思いです。その思いに突き動かされて人を騙したり驚かせたり偉そうに生きる生き方を悔い改めなさい。金で力を手に入れるのではなく、シモン自身が謙り主のもとに行く生き方を指し示したのです。それは天と地がひっくり返るような新しい生き方です。しかし、それをシモンは受け入れました。偉大な者だと自称したシモンが、背伸びを止め、恐れて縮こまり、

「私のために祈ってください」

と言えた。この変化にもまた、思いがけない神の御業が現されています。魔術師さえ、恥をさらしながら、神の前に姿勢を正すようになる。ここにもまた、本当にかけがえのない福音の展開があります。[7]

 この「シモン」から採った「シモニア」という言葉があるのですが、教会の偉い司祭職や霊的な立場を取引する考えです。今でも、お金を投じて大きな会堂を建てたら、大イベントをしたら、有名な人を呼べば祝福されるとでも言うような考えが聞こえます[8]。シモンの姿は他人事ではなく私たち自身が、神に自分を捧げるよりも、神の力をお金や何かで買って、自分を守りたい、高めたい、そういう方向にどんなに弱いでしょうか。神は飼い慣らせたり、交渉できたりするお方ではありません。しかし、その偉大さにふんぞり返って、私たちを服従させ、もてあそぶお方でも断じてありません。神の子キリストは、神を忘れて背伸びしたり争ったり空回りしている私たちの所に来られて、私たちの中に住まれ、ご自身を与えてくださいました。迫害や大失敗をさえ用いて、新しいことをなさり、人の心の奥深くに触れてくださいます。魔術師にも新しい心を与えられ、サマリヤとの長年の確執も和解させてくださるお方です。

 置かれているそれぞれの状況で、破綻や喪失や思いがけない事がある時、「主が何とかしてくださる」と、出来ることまで放り出して胡座をかくのではなく、現実的に謙虚に応じる必要があります。しかし自分にはどうにも出来ない事も沢山あります。でも、そのどうなるか分からない時も、主がそこにも働いて思いがけないことをしてくださると信じて、謙り、心を開きたい。虚栄を捨てて、互いに祈り合い、主の御業を分かち合っていきたいと思います。

「主よ。迫害や失敗さえ用いて、あなたの御業が進み、福音が広く深く働きました。力あるあなたの驚くばかりの恵みを崇めます。その力で私たちも新しくし、恵みによって和解し、一つ家族となる喜びに満たしてください。朽ち廃れ変わるものを嘆きつつも、永遠に変わらないあなたをますます覚えさせてください。その恵みに立つ交わりをいよいよ建て上げてください」



[1] 1節の「みな」といっても、後にはエルサレム教会は多くの信徒を要しています。そこで、説明としては①ステパノと同じヘレニストキリスト者が「みな」。ヘブライストキリスト者は残って、後に数万の群れとなっている(21章)。②ヘブライストキリスト者もこの時は迫害されたが、後になって戻ってきた。③「みな」は「どの人」も。ヘレニストキリスト者は、老いも若きも、貧富の差、職業に関係なく、その日エルサレムから追い出された。着の身着のままで。以上のような推測が出来ます。いずれにせよ、それでも彼らはなくしたものを嘆くよりも、イエスを証ししたのである。

[2] ルカ9章51-55節には、ヨハネとヤコブがサマリヤ人たちの態度に「私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言って叱られた話もあります。そういう彼らが、サマリヤ人の間に信仰の喜びがあるのを見て、彼らに聖霊が与えられるよう祈った、という変化も見落としてはなりません。

[3] けれども、決してそれは、癒やしの力やしるしにビックリして信じさせる、というようなものではなかった事もここから覚えたいと思うのです。そのことを示すのが、ここに出て来るシモンという魔術師のエピソードです。

[4] シモンはその力に驚きつつ、自分に授けてくれとは言わず、自分が授ける権威、それで人を驚かす権威を持とうとしました。いいものと思いつつ、自分を明け渡したくはなかったのです。自分のことは守ろう、聖霊に従うことには抵抗しようとしていました。

[5] ペテロとヨハネの派遣は、彼らに権威があったというよりも、教会的なつながり、一致の保持のためだろう。これ以降も新しい展開はあるが、使徒がいつも派遣されなければならなかったわけではない。18章でのエペソに似た記事があるが。

[6] ペテロたち、エルサレム教会が、迫害以前も喜捨によってやもめの世話をしており、迫害によって全信徒が困窮したことで、経済的には非常に苦しかっただろうことも想像できます。それなのに、この金を拒絶したことも人間には難しいこと。変化だった。それは、福音、神の御業への信頼と、大きなことをしようという誘惑への拒絶である。

[7] 勿論、シモンのような言葉を舌先三寸で言うことも出来ます。見せかけの悔い改めである場合もあります。教会の伝説には彼が後に使徒パウロの敵となった、という話やあれこれの眉唾物の話もあります。でもそれは後代の作り話かもしれません。それ以上にハッキリした事実は、教会の中には後々お金で神の祝福を買えるような発想が入った事です。

[8] 使徒の働きで、「金銀は我にない」や、アナニヤとサッピラ、そして、シモンと、「教会と金」の問題は小さくなかったことがうかがわれます。ルカでも、金銭の問題は繰り返して取り上げられています。そして後の教会は「シモニズム」になっていったのです。現代も「金に執着するな。思い煩わず、神に委ねて捧げよ」と称して、教会が守銭奴になっている例は多くあります。

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問86「感謝で生きるしあわせ」コロサイ1章9-14節

2017-09-03 21:21:32 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/9/3 ハ信仰問答86「感謝で生きるしあわせ」コロサイ1章9-14節

 今日から読んでいくハイデルベルグ信仰問答の86から最後の129まで、第三部になります。第一部では「人間の悲惨さ」、第二部では「人間の救い」がテーマでしたが、この第三部は「感謝について」というのです。悲惨に陥った人間が、神の恵みによって救われて、その後の生き方を「感謝」という言葉で語っていくのです。キリスト者の生活を特徴付けるのは神への感謝です。これは今までにもお話ししてきましたし、これからも何度もお話しする事です。今日もう一度この事を一緒に分かち合えるのが感謝です。

問86 わたしたちが自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず恵みによりキリストを通して救われているのならば、なぜわたしたちは善き業をしなければならないのですか。

 問いは実に真っ直ぐな問いかけです。なぜ私たちは善き業をしなければならないのですか。キリスト教の福音は、自分が善い行いをすることによって救われることは出来ないと教えます。ただキリストの恵みによって救われるのです。それを信じて戴くのですけれども、その信じる信仰さえ、キリストの恵みによるのです。だから、救われるために善い行いをする必要はありません。だったら、なぜ私たちは善き業をしなければならないのですか。そう改めて問い直すのです。

 ハイデルベルグ信仰問答が書かれた16世紀まで、教会には善い行いをしなければ救われない、という考え方が入り込んでいました。それに対して、宗教改革者は善い行いをするから救われるのではない。でも、だから善い行いが要らないのではなくて、感謝をもって善い行いをしていくのがキリスト者の歩みなのだ、と言ったのです。ハイデルベルグ信仰問答はその路線で、しかもとても美しく、私たちの生き方を説明しています。神様の恵みによって救われたことへの感謝。これが、私たちの新しい生き方です。

答 なぜなら、キリストはその血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自分のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです。さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによってわたしたちの隣人をもキリストに導くためです。

という言葉は、救いというのが私たち自身の変化であることを教えています。ただ、救われて滅びない、ではなく、新しい生き方が始まるのです。その特徴が「感謝」だと言えます。しかし、注意して欲しいのは感謝とは「恩返し」という意味ではないということです。神様に恵みを頂いたのだから、その恩に報いて、善いことをする。そういうことではありません。そうでないと、善いことをしなければ「恩知らず」という事になる。神様の恵みに恩返しをするべきだから善いことを励みましょう、という意味ではないのです。この違いは微妙ですが、決定的なことでしょう。その違いを表すのは、ここにある、キリストが

「ご自身のかたちへと生まれ変わらせてくださる」

という言葉と

「敬虔な」

という言葉です。この二つの言葉を手がかりに、考えてみましょう。この

「敬虔な」

はインテグレートという言葉で、全体が調和している健全さという意味です。本当にその人が調和して、自分の願い、喜び、必要が満たされる状態です。統合していること、バラバラだったものが一つにまとまっていくこと、そういう状態です。それと私たちがキリストの形へと生まれ変わっていくことは繋がっています。私たちは神のかたちに造られた存在です。その本来の人間らしい生き方、神に似るようにと造られた人間の調和を取り戻してくださるのです。それがキリストの救いです。

 私たちには色々な必要があります。安心したい、認められたい、愛されたい、役に立ちたい…。それは神様が人間に下さった大事な願いです。どれも大切な人間の必要です。しかし、神から離れて人間は自分が分からなくなり、バラバラになり、必要が満たされない生き方になりました。

「自分で何をしているか分からない」

 これはイエスもパウロも口にした人間の現実です。愛されたくて偉そうにしたり、役に立ちたくて張り切りすぎたり、認められたくて「良い子」「良いクリスチャン」のふりをして、でもそれで疲れて、こっそりと欲望を満たしたり、バラバラな生き方、結局自分が何をしたいのか分からない生き方をしてしまうのです。イエスの救いはそういうバラバラだった私たちが調和し、満たされ、健全になるという救いでもあります。私たちを愛し、理解し、成長させ、楽しみを下さいます。心配しなくてもよく、神の家族という居場所を下さいました。こうして本当に深く神の恵みに満たされる時、本当に私たちは調和していきます。神の恵みに感謝するほかありません。神が私たちを新しくし、私たちのすべてを受け入れてくださる時、私たちは神に感謝しつつ、喜んで生きるようになります。心から善い生き方をするように変えられます。神を喜ばせるため、恩返しをするため、ではなく、神に愛されている者として、善いことを喜んでするようになっていくのです。

 第一、キリストが私たちに下さった恵みは余りにも沢山で、決してお返しをすることは無理です。私たちの善い行いに価値がないということではなく、神の恵みが大きすぎて、豊か過ぎるのです。だからこそ、そんなにも愛されて、恵みを頂いていることを知る毎に、私たちは感謝が溢れ、その感謝の心から、善い行いをするようになる。

コロサイ一9こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。10また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。11また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、12また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。13神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

14この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

 感謝に生きるようになる、その恵みの力を信じて、祈り合う教会でありたいのです。教会の歩みでも、「聖書を読むべき」「奉仕すべき」という言い方をしてしまうことがあります。しかし、そういう「べき」では、それ以上はしたくなくなるでしょう。そうではなく、神の恵みに深く根差し、自分自身の願いや必要と、お互いの必要とを一緒に大切にしていきたいと思います。その時、本当の恵みと喜びで成長していくと信じています。

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