聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/12/27 マタイ伝14章13~21節「五つのパンと二匹の魚」

2020-12-26 12:17:21 | マタイの福音書講解
2020/12/27 マタイ伝14章13~21節「五つのパンと二匹の魚」

 「五つのパンと二匹の魚」。よく知られ、子どもにも話すのに聞かせ易い記事です。また聖書の福音書四つが揃って記している奇蹟は、主イエスの復活とこの「五つのパンと二匹の魚」の奇蹟だけです。どの福音書も記すような、主イエスがどんなお方かを最もよく現していると言える奇蹟がこの「五つのパンと二匹の魚」もしくは「五千人の給食」の出来事なのです。
14:13それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った。14イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。

 最初に
「それを聞くと」
とあります。この前にある14章1~12節で、領主ヘロデが、イエスの噂を聞いて
「あれは自分が首をはねた洗礼者ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」
と言ったとあります。そして、ヨハネの首をはねた顛末が書かれていますが、このヨハネの死は、ヨハネの弟子を通して、イエスは既にご存じでした。ここで「それを聞くと」とあるのは、ヘロデがイエスに目をつけ始めたことです。身の危険を感じて、イエスは避難されました。状況が緊迫し始めた中、それでも群衆はイエスの後を追って集まって来ました。
 イエスが彼らを見て
「深くあわれんで」
とあるのは、「内蔵」を表す、深く強い情動の言葉です[1]。歩いて、イエスの癒やしや教えを求めて来る人々を見て、内臓を揺さぶられる思いをなさったのです。
15夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」
 弟子たちは、群衆の食事・空腹が気になってきました。弟子たちは冷たく言ったのではなく、むしろ心配して「もうお開きにしましょう」と言ったのでしょう。しかし、イエスは言います。
16…「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」
 弟子たちはビックリします。彼らには
「五つのパンと二匹の魚しかありません」。
 それさえ、ヨハネの福音書によれば少年のお弁当でした[2]。とても足りません。それを知っている筈のイエスは
「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい」
とビックリする事を言われました。
 この後、イエスは
「それをここに持ってきなさい」
と言われ、群衆を草の上に座らせて、
19…五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神を*ほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った*。
とあります。「神を」と「配った」に星印がついており、欄外を見ると、この二つが「補足」で原文にないと分かります。天を見上げてほめたたえた。「ほめたたえ」は「良い言葉を言う」という言葉で「祝福する」とも訳せます。五つのパンと二匹の魚を手に取って、天を見上げて、良い言葉を言う。そのイエスのお姿には、神に対するおおらかな信頼があります。
 「配った」も補足で、イエスがパンを弟子たちに与え、弟子たちが群衆に、という流れです。19節の
「与え」
と16節の
「あげなさい」
は同じ言葉です。弟子たちに「あなたがたが与えなさい」と、サラッと凄いことを仰有った意図を、イエスはその通り実行させなさいました。
20…そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。
 これも十二人の弟子が一人ずつ籠を持って集めたので、それぞれの籠が一杯になったのです。

 主がこんな給食の奇蹟をなさったのは、3年の活動の中で二度だけです。それは、イエスが人々の心と体の深い飢え渇きに、内臓を動かされるような痛みを持たれること、その渇きを天の父は必ず満たしてくださることを味わい知らされた体験でした。そして、その器として弟子たちが用いられる。
「あなたがたが与えなさい」「それをここに持ってきなさい」
 弟子たちが配る役目をしました。同じ奇蹟が起きるかどうかは大事な事ではないのです。弟子たちも、彼らの信仰で奇蹟を起こしたのではありません。彼らが信じもせず、期待もしなかったことを、イエスは彼らの手を通し、小さなお弁当でしてくださる。
 そのパンと魚が、ご馳走に替わったのではありません。イエスは石をパンに変えよ、という誘惑を退けました。この直前にはヘロデの誕生祝いの場面が置かれます。贅沢な宴会で、ご馳走も鱈腹(たらふく)あって、大勢の賓客が心配なく満腹できたでしょう。権力に酔い痴れた、豪勢な大宴会の後で、「寂しいところ」での食べ物に事欠く場所での集まりが記されます。繰り返しますが、ご馳走ではないのです。でも、彼らが持っていた貧しいすべてが差し出されて、全員が満たされたのです。石をパンにしたり、貧しい弁当をご馳走に変えたりする奇蹟はイエスが退けた誘惑です。イエスがなさったのは、弟子たちが持っている貧しい物を差し出し、それをまたイエスから受け取って、人に与えていく。そのように弟子たちを、私たちを変える奇蹟です。

 1年の結びに、私たちの必要を満たしてくださった主を仰ぎます。決して王様や華やかで安定した生活ではありませんでした。「もうちょっとこうだったら良かったのに」を言えばきりが無い毎日が、今年は特について行けないほどの変化が重なった一年でした。その私たちのただ中で、主は必要を満たしてくださって、私たちはここにあります。そして、必要を満たしてくださる主が私たちの持つものも、私たちも用いてくださる。主は私の持つ僅かな貧しい物を通して、人を満たしたり生き返らせたりしてくださる。そのような御業に信頼するのです。

「主よ。この一年、あなたが私たちを生かして、今日をともに迎えさせてくださいました。天を仰いで感謝し、ほめたたえます。困難や悲しみ、不足もある中、あなたは私たちを導き、養ってくださいます。どうか、私たちの持つものも、あなたの御手の中で祝福し、御心のままに用いてください。私たちの魂だけでなく、空腹も、心も、壊れた関係も、すべての必要をあなたはご存じです。この年も、また来る年も、あなたのその御業に私たちを与らせてください」

脚注:

[1] マタイの福音書9:36、15:32、18:27、20:34。
[2] ヨハネの福音書6章8-9節「弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」」
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2020/12/20 Ⅰテサロニケ4章13~14節「命が光り輝いている」ニュー・シティ・カテキズム50

2020-12-19 12:46:04 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/12/20 Ⅰテサロニケ4章13~14節「命が光り輝いている」ニュー・シティ・カテキズム50

 今週金曜日は、クリスマス。主イエス・キリストが人としてお生まれになったことをお祝いするお祭りです。プレゼントをもらったり、ケーキを食べたりする楽しみもあるでしょう。その元になったのは、神ご自身が私たちに、ひとり子イエスを贈ってくださったというかけがえのないプレゼントです。その感謝から、私たちもお互いに贈り物を贈り合い、人を招いて一緒に食事をしてお祝いするようになったのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。



 このヨハネ3章16節は聖書の福音のエッセンスです。神は私たちを愛されて、最愛の御子を、この世界に与えてくださいました。クリスマスは、キリストのお誕生をお祝いするとともに、神がキリストをお与えになるほどに私たちを愛して、永遠のいのちを持たせてくださった喜びの想起です。キリストが二千年前にお生まれになっただけでなく、今も私たちにいのちを注いでくださり、永遠のいのちを与えてくださったお祝いです。
 先週はキリストは今どこにおられますか?というお話しをしました。キリストは、死んで復活され、天に昇って神の座の右に座し、やがてもう一度おいでになります。その「復活」、「昇天」、「永遠のいのち」についてお話ししていきます。今日は復活です。

問50 キリストの復活は私たちにとって何を意味しますか?
答 キリストは、ご自身を信じるすべての者がこの世にあって新しい命へと入れられ、来たる世には永遠の命へと入れられるために、罪と死に勝利され、肉体を持って復活されました。私たちがいつか復活するのと同じように、この世界はいつか回復されます。しかし、キリストを信じない者は永遠の死に定められます。

 先のヨハネの福音書の言葉では、神がそのひとり子をお与えになったのは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである、とありました。イエス・キリストは、私たち信じる者が永遠のいのちを持つために、生まれ、十字架に、死に、復活されました。いわばイエスは、死ぬためにこの世にお生まれになったのです。神であるイエスにとって、人間となるだけでも想像を絶する謙りですが、その後、本当に低い道を歩み、最後は殺される死へと歩まれました。それが、「神がひとり子をお与えになった」に含まれていたことです。そして、その三日目に、イエスは墓からよみがえりました。それが、イエスの復活の意味です。ですから、イエスは死んでよみがえり、私たちに新しい命を下さり、永遠のいのちを下さるためにお生まれになったのです。イエスの誕生と死と復活は、私たちを永遠のいのちに生かすためでした。
13眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。
14イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
 ここで「眠っている」とあるのは、死んだ人のことです。テサロニケの教会の中で、亡くなった方がいたのでしょう。その死の悲しみでいっぱいになっていた人々に、パウロは「望みの無い他の人々のように悲しまない」でほしい、と思い出させるのが、イエスが死んで復活されたことなのです。イエスが死んで復活されたのだから、イエスにある人、イエスを信じる私たちも、死んで終わりではないのです。イエスが死に勝利された以上、私たちも死んでも終わりではなく、必ずいのちを与えられるのです。勿論、それでも、今誰かが死ぬことは悲しく、辛いことです。大きな怪我をしたら、手術をすればすぐに必ず直ると分かっても、今の痛みは痛いのです。死別は悲しいことです。しかしその悲しみを、二度と会えない永遠の別れではない。イエスを復活させた神は、私たちにも死の後の新しいいのちを下さる。そう信じた上で、悲しみ、嘆き、生きるようにしていただけるのです。
 イエスの復活は、私たちにとっても復活があるという保証です。その復活の希望を持ちつつ、今を生きることが出来るのです。

 このキリストの復活は、死後への希望だけではなく、
「この世にあって新しい命」
へと入れてくれます。更には
「この世界はいつか回復されます」
と、この世界そのものを新しい目で見させてくれるものでもあります。もし、この世界を神が諦めているなら、御子がこの世界のただ中に来る必要はなかったでしょう。もし、人間の体にたいした価値がないのであれば、神の御子が人間の体を持つことなど無駄な遠回りでしかなかったはずです。まして、そのイエスに対する人間の仕打ちが、蔑みや反対、苦しみの十字架の死であった時、よみがえらず、魂の姿で現れて、弟子たちに将来の希望だけを語ることも出来ました。けれども、御子イエスは人となって生まれ、その命を最後まで献げきって、死んだ三日目に、からだをもってよみがえられたのです。そこには、神がお造りになったこの世界が、神の命によって生かされること、必ず、この世界は回復さること、私たちが今ここで生きて、世界を愛し、人生を育み、精一杯いまを大事にして生きる歩みが、永遠の価値を持っていることが保証されているのです。つまり、今ここにある私たちの生き方、世界に対する態度を、根本的に新しくするのです。キリストが体をとって、人となって生まれ、ボロボロにされる人生を歩んで死んだあと、復活されました。
 イエスの命は、闇の中に輝いています。生きていることは無駄に思えて、生まれてこない方が良かったように言われる中、イエスの復活は、闇の中に輝いている希望です。
ヨハネの福音書1章4、5、9節
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。…
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
 この輝いている光が来たことを、お祝いするのがクリスマスです。闇に生まれたキリストは、十字架の死からよみがえり、私たちに永遠のいのちを下さいました。私たちは今、どんな思いをする時にも、神がこの世界と私たちに果たされる豊かなご計画を信じるのです。それを私たちの周りの大切な人たちにも分かち合わせていただきましょう。

「復活の神よ、死が私たちのいのちの終わりではないことを、どうか覚えさせてください。私たちを神の裁きから救い、また誰もが神の怒りから逃れることが出来るように、強く勧める信仰を与えてください。キリストの御業によって神の怒りから救い出された私たちは、いつの日か復活の衣を身にまとい、新しい地で生かされる喜びを、心から待ち望みます。アーメン」
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2020/12/20 ヨハネ伝1章9~14節「すべての人を照らす光」

2020-12-19 12:00:12 | クリスマス
2020/12/20 ヨハネ伝1章9~14節「すべての人を照らす光」

 クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝うお祭りです。キリストの誕生日がいつかは分かりませんが、キリストの誕生という尊い出来事をお祝いするのです。特に12月25日は元々冬至のお祭りでした。一年で一番昼が短く、これからは夜明けが早くなっていく、言わば「太陽の誕生日」という異教のお祭りでした。この「太陽の誕生日」に教会は「キリストこそ私たちの太陽だ」と、キリスト誕生をお祝いする光のお祭り、クリスマスを始めたのです。[1]
9すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
 その光は私たちをどう照らすのでしょうか。キリストが来られたことで、闇や夜がなくなったわけではありません。文字通りの意味でも勿論、私たちの生活や心の中の闇や痛みが影を落とします。悲しみや悩みで心が真っ暗になるとか、先行き見通せず暗中模索するような不安がなくなってくれたら安心ですが、そうではありません。ここでも、
5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
とあります。光は闇の中に輝いているのであって、闇がなくなったのではないのです。[2]
 ここで「すべての人を照らすそのまことの光」と言われているのは、イエスご自身です。イエスが電球やライトを持ってきてくれるというより、イエスご自身が光だと言われています。
イエスは…人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」[3] 
 イエスが世の光。イエスが来て下さって、私たちに先だって歩んでくださることが、周りが明るく変わるにも増して、私たちにいのちの光をもたらすのです。闇の中を進むような思いをすることは沢山あるのですが、それでもどんな時もイエスがともにいてくださる。必要なら私たちの手を握り、一緒に休んでもくださるし、いつのまにか背負ってもくださる。私たちから決して離れずに、歩んでくださる。イエスこそ、すべての人を照らすまことの光です。また、私たちの心の底まですべてをご存じで、罪からいのちへと方向転換させてくださるのです。
 だからこそ、そんなに照らされることを嫌がって、受け入れない人のことも11節に出て来ます。明るい人生さえあればいい。自分の心には踏み込まないでほしい。そういう拒絶もする。けれども、外側の明るさや確かさだけを追い求めるなら、内側の暗さをますます暗くしてしまうでしょう。神はそれを放っておいて、諦めて見捨てたのではありませんでした。そういう人間の心に信じる心を与え、神の子イエスが近づいて来て、心を開いて下さったのです。
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
 「人」に星印があり、欄外に「直訳「肉」」とあります。ぎこちないですが、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた」が元々です。これを「人」と訳すとしたら、特に人間の肉体・身体性・物質的な面を言っているのです。私たちのこの体、食べたり排泄したり、痛がったり傷が残ったり、汗をかいたり老いたりする、そう私たちの持っているのと同じこの体に、言葉がなって、私たちの間に住まわれた、それがイエス・キリストの誕生であり、生涯でした。
 神がこの世界を作り、私たちを愛し、私たちを照らしていのちを下さる。神の栄光は、恵みとまことに満ちている。「そう言われても分からない、世界の闇や自分の闇の方が強い気がする、恵みだと愛だの、綺麗事にしか聞こえない」。そんな人間のところに、キリストが来て、私たちと同じ肉体を持つ人間となってくださいました。
 神であるキリストが、肉体を持つ人間になる。それは私だったら、きっと断固として拒みたいような決断です。誰が小さな虫やバクテリアを救うため、自分もその一匹になろうとするでしょう。神にとって、人間になるのも微生物になるのも、たいした差はないでしょう。キリストは、それをしてくださったのです。クリスマスは、神の言葉が肉となった、ぎこちない、大それた、神の有言実行でした。
 キリストは人となって何をなさったのでしょうか。
 貧しい結婚式の欠乏を満たしてやり[4]、悩む老人のお忍びの相談に向き合いました[5]。
 異国の身持ちの悪い女性と屈託なく会話し[6]、ご自分の身が危うい時に、弟の死に慟哭する姉妹のためその死者を生き返らせました[7]。
 そして、弟子たちの汚れた足、誰もお互いに洗いたがらなかった泥だらけの足を、盥に水を汲んで一本一本洗ってくださいました[8]。
 その洗ってもらった一人でもあるヨハネが
「この方は恵みとまことに満ちておられた」
と言わずにおれなかった。それは、イエスが肉となってくださったからこそ、見ることが出来た事実でした。そしてイエスを見ることで、神がどんなお方かをまざまざと見たのです。まことに神は愛だ、この方がいのちを下さるのだと知ったのです。
 キリストがお生まれになったのは、人を愛し、私たちを照らすいのちの光となるためでした。そのため、肉となる道を厭わなかった神の御子は、この体で生き、うめいている私たちにも近づいて恵みを見せて下さいます。今年、いつもと違う、予想外のクリスマスを迎えています。この闇の中だからこそ、こういう世界の中にキリストが来て下さって、神の愛を私たちに届けてくださった。光となってくださった。「わたしが世の光だ、わたしがあなたがたのためにいのちを与える、わたし自身を与える。だから、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と[9]、いのちの道を示し、先を歩んでくださる光が見えるのです。

「闇にそっと生まれた主よ。主イエスを通して、私たちは神を見、天地の主が私たちを愛し、私たちを通して栄光を現してくださることに驚きます。そして、あなたの言葉は必ず肉となり、この世界の中に成し遂げられるのです。どうぞ、このクリスマスに、すべての人を照らす光として、キリストの誕生と御生涯が届けられますように。主イエスが、ここにいる私たちの光として心の闇も照らしてくださり、私たちの歩みを、いのちの光を持つ者として導いてください」

脚注:

[1] そして、神が私たちにイエス・キリストを贈り、罪の赦しと永遠のいのちをプレゼントしてくださったように、私たちも贈り物を贈り合い、人を招いて食事をする、キリストの誕生を歌うカロルが造られてきました。今や世界でお祝いされるようになったクリスマスになったのです。

[2]  1章1~5節でヨハネは、思いっきり遡って、世界の初めのその前のことから語り出します。「1初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2この方は、初めに神とともにおられた。3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。4この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

[3] ヨハネの福音書8章12節。また、ヨハネの黙示録21章23節「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」、22章5節「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。」も参照。

[4] ヨハネの福音書2章1~11節。

[5] ヨハネの福音書3章。

[6] ヨハネの福音書4章。

[7] ヨハネの福音書11章。

[8] ヨハネの福音書13章。

[9] ヨハネの福音書13章34節「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」。

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2020/12/13 マタイ伝13章53~58節「身内だからこそ」

2020-12-12 12:18:20 | マタイの福音書講解
2020/12/13 マタイ伝13章53~58節「身内だからこそ」

 マタイの13章の結びがこの郷里での出来事です。イエスの働きが広がって、噂が故郷にも届いていた頃でしょう。帰郷したならきっと郷里の人々は歓呼したろう。なにせイエスご自身の説教、聞いて信じないはずがないと思ったら、「故郷に錦を飾る」とはならなかったのです。
 54節の「驚いて」はとても強い驚きで、仰天した、腰を抜かしたというほどの意味です[1]。故郷の人々はイエスの教えや力あるわざを十分目の当たりにしました。そして驚いた。それでも彼らは、主イエスの教えを受け入れませんでした。「イエスよ、私たちはあなたの言葉を受け入れる」とは言わず、むしろ、「どこから得たのだろう」と首をひねって終わるのです[2]。

54…すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇蹟を行う力をどこから得たのだろう。
55この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
56妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう」

 かなり詳しく言い分を伝えています。母マリアに加えて、弟たちの名前や妹たちの存在など、あまり関係が無い知識を並べ立てる。そういう枝葉のことを並べ立てて、自分たちはイエスをこれだけ良く知っているのになぁ、と止まってしまって、耳を貸すことが出来ないのです。
57こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
 ここから、「郷里伝道は難しい、家族伝道は難しい、イエス様だって難しかったのだから、私たちは仕方がないのだ」と言ったりします。家族や郷里、よく知っている人にこそ自分の信仰を理解してほしい。分かってもらえないとガッカリする。だからかえって言葉がキツくなったり、強引になったりして、ますます苦しめ合うことがある。イエスも、郷里の人々が大事だからこそ、帰郷して人々に語ったのです。でもそれが伝わらなかった時、
「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです」
と仰有いました[3]。「家族なのに」を「家族だから」と優しく諭して、手放させてくださっている言葉にも聞こえます[4]。
 イエスは最初から人の心の頑なさをご存じでした。なまじっか親しい間でこそ、「あの人なら昔からよく知っている。家族の名前も挙げることが出来る」。そう思う事で、聴く耳を持てなくなる、そういう人間の弱さを、既に悟っておられたでしょう。イエスの言葉が受け入れられず、人々が躓くことは、ここだけではありません[5]。これまでもこれからも繰り返されます。
 「躓きが起こるのは避けられません」(18章7節)
と仰有ったり、イエスは何度もどんな所でも「躓き」が起きうる事に触れるのです[6]。旧約聖書を紐解いても、預言者が故郷でだけ敬われなかったなんて事はありませんし、外国だったら受け入れてもらえるわけでもありません[7]。

 待降節に覚えるのは、主イエスがご自分の作られた世界に来られたことです。

ヨハネ1章10節「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」

 主人であるイエスを、ユダヤの民もこの世界も受け入れませんでした。イエスが敬われなかったのは、郷里だけでなく、最初から最後までの現実でした。誕生では飼葉桶に寝かされ、命を狙われ、最後は妬まれ、憎まれて十字架につけられて、仮の墓に葬られた、その生涯全体が、郷里で拒まれた預言者の姿です。それは、私たちの最も身近な関係こそが最も難しくなり、互いに敬えない悲しみを、イエスご自身が味わって知っておられる、ということでしょう。
58そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。
 それは諦めとか腹いせの仕返しではない。この時はここを去り、他の場所でも敬われない扱いを受け、最後は十字架にかけられます。でも死から復活したイエスは、躓いた人たちの中に信仰を芽生えさせ、救いが時として家族にも及ぶ御業を始めてくださいました。郷里や家族、最も難しい関係にも、イエスの言葉に耳を傾ける人が起こされます。それは、主イエスご自身の忍耐と、長い時間をかけてのお働きによることです。私たちは、家族との関係が大事であっても、それに縛られる以上に、神を天の父として信頼して、それから人にも向き合えるのです。
 身内だからこそ信じてほしい、分かってほしいけれど、身内だからこそ聴く耳を持てない、それまでの経験とか柵(しがらみ)が邪魔して心を開けない。「私はあの人はよく知っている。あの人はダメだ。変わらない」、そう決めつけたくなります。そう拒まれる体験をイエスご自身も味わったお方です。その家族の難しさを承知でイエスはこの世界に来られました[8]。いわば主ご自身が、躓く人々を決めつけなかった。諦めなかった、尊んでくださいました。その恵みの力が新しい関係を造りました。主の恵みは、人間関係の難しさや何十年もの経験よりも強いのです。
ヨハネ1:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意思によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
 神は私たちを、躓いたり不信仰だったり、分かったと思って神にも身近な人にも耳を貸せなくなりがちな私たちに信仰を与え、神の子どもとなる特権を下さいました。それは、神の子イエスが人として生まれた、計り知れない恵みに匹敵する、ひとえに神による贈り物なのです。

「父なる神様。御子イエスの側(そば)にいながら躓いた人々に自分が重なります。どうぞ私たちがその轍を踏まないよう、決めつけや諦めから救い出してください。主はご自身を拒む世界に来られて、心を新しくしてくださいました。まず私の心を開いてください。家族や周りの人を決めつけず、イエスにするように、耳を傾け、分かろうと、敬おうとする。そのように私たちを変えて、私たち自身をあなたの奇蹟の贈り物にして、私たちの身近な関係も変えてください」

脚注:

[1] 「驚く」7:28(イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた)、19:25(弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」)、22:33(群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。)

[2] この時点での応答は、「イエスを救い主として信じる」という宗教的な信仰よりも、「イエスの語る神の国を受け入れ、イエスを王として生きる」という全人的なものです。

[3] 新改訳2017の欄外引用には、エレミヤ書12章6節があります。「あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」一読して分かるように、ここでは、エレミヤの身内でさえ裏切ると言っているのであって、故郷以外では尊敬される、とは逆のことを言っています。ここからも、このイエスの言葉は一般論では無いと分かります。

[4] 拉致被害者横田めぐみさんの母、横田早紀江さんのことば。「最初の苦しみが解決したわけでは決してない。それは神さまに委ねるしかないこと。めぐみのこともそうです。本当に元気で帰ってくるか、という気持ちはどこかにありますが、めぐみのことをいちばん気にかけて、見ていてくださるのは神さまなんです。だから平安でいられます。遠く離れていても祈ってますから、この子を生かさなければ、と神さまが思われるなら、生かされるだろうと信じています。」『クリスチャン新聞 福音版』2020年12月号、4頁

[5] 主イエスが育った村はナザレですが、ここには「郷里(パルディア、マタイではこの2箇所だけ)」とあるだけで、ナザレとは一言も触れていません。

[6] 「つまずく」マタイで17回も。 5:29(もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。30もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。)、11:6(だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。)、13:21(しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。)、41(人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、)、15:12(そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」)、16:23(しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」)、17:27(しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」)、18:6(わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。7つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。8あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。9また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。)、24:10(そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。)、26:31(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。)、33(すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」)

[7] 「預言者」31回。1:22(このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。)、2:5(彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。」、15(ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。)、17(そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。)、23(そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。)、3:3(この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。)、4:14(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。)、5:12(喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。)、17(わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。)、12 (ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。)、8:17(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」)、10:41 (預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。)、11:9(そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。)、13(すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。)、12:17(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。)、39(しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。」、13:17(まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。)、35(それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」)、57(こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」)、14:5(ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからであった。)、16:14(彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」)、21:4(このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。)、11(群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。)、26(だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから。」)、46(それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。)、22:40(この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」)、23:29(わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、30こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』31こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している。)、23:34(だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。)、23:37(エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。)、24:15(それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──)、26:56(しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。)、27:9(そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。」)

[8] ヘンリ・J・M・ナウエン『ナウエンと読む福音書』より、「ここで私が惹きつけられるのは、イエスはついには家族の輪の外で、家族から距離をとり、ご自分の権威を確立せねばならなかったことです。それは、イエスが十二歳のときの神殿においても、マリアが助けを求めたカナにおいても、説教したときも、家族がイエスを訪ねて来たときも、同じでした。/家族とは、私たちが大人へと成長し、人間として成熟していく場です。しかし、心の奥深くに語りかけてくる私たちの召しをまっとうするためには、そこを離れねばなりません。家族は帰属意識を与えてくれます。けれども、私たちが最も深く帰属しているもの、すなわち神への帰属に生きるためには、私たちを知り尽くしているつもりの家族から離れ、自分の命の最も深い源を見いださなくてはなりません。私たちは、両親や兄弟姉妹のものではありません。彼らから離れることなしには、まったき自由になることも、生まれる前から私たちを呼んでいる方の声を聴くことも困難になります。イエスは天の父に、心から「はい」と言えるように、家族にしばしば「いいえ」と言わねばなりませんでした。」43-44頁

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2020/12/13 エペソ1章20~21節「キリストは今どこに?」ニュー・シティ・カテキズム48

2020-12-12 12:08:34 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/12/13 エペソ1章20~21節「キリストは今どこに?」ニュー・シティ・カテキズム48

 クリスマスが来週に近づきました。イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするクリスマスは、教会にとって大きな喜びです。クリスマスまでの四回の日曜日、アドベント、日本語で「待降節」と呼ぶ時期を過ごしています。「待降」、降るのを待つと書きます。クリスマスは「降誕」。キリストが、天から地上に降ってきて、誕生してくださった日。その降誕を待つので「待降節」です。そして、そこにはもう一つの意味があります。それは、もう一度キリストが降ってこられることを待つ、という「待降」です。今から二千年ほど前、キリストがお生まれになりました。でも、その昔々の歴史を思い出し、懐かしんでいるのではなく、もう一度、キリストがおいでになる。その時を私たちは待ち望んでいるのです。今日は、二千年前にお生まれになったキリストが、今どこにいるかを覚えます。そうすることで、クリスマスのお祝いも、本当に私たちにとって嬉しい事だと、喜ぶ気持ちがぐーんと大きくなって欲しいのです。

問49 キリストは今どこにおられますか? 
答 キリストは死んで後、3日目に肉体を持って墓からよみがえり、父の右の座に着き、再び来られて、全世界を裁いて新しくされるまで、御国を統べ治め、私たちのためにとりなしてくださっています。

 今から二千年前に、地上にお生まれになったキリストは、その後、30歳頃に三年ほど神の国を宣べ伝えて、捕らえられ、十字架に殺されました。その三日目に、墓からよみがえって、天に上られました。それは、天の父の右の座に着かれるためでした。右の座というのは、神と共に治めている、ということです。ここにあるように「御国を統べ治め、私たちのために執り成して下さっています」ということです。
エペソ1:20~21「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」

 イエス・キリストは今、目には見えません。クリスマスのお祝いも、今ではキリスト抜きの、ただのお祝いです。教会やキリスト教と関係なく、パーティをしたり、プレゼントを期待したり、盛り上がっています。お寺や神社でも、クリスマス会をしています。クリスマスがキリストの誕生のお祝いだというのは、最初だけで、今は別に関係ない、と思われているのでしょう。けれども、教会は、キリストが天上で神の右の座に着かせられている、すべての名の上に高く置かれていると信じています。目には見えなくても、イエスこそが、世界の治めるお方、王なのです。
 主イエスがお生まれになることは、主イエスがおいでになる何百年も前から、旧約聖書の中で約束されていました。救い主であり王である方が来られること、ダビデの家系から生まれること、ひとりの赤ん坊としてお生まれになること、ベツレヘムでお生まれになること、そして、主イエスの御生涯、十字架の死、復活についても沢山の預言があり、その多くが既に成就しました。この絵は、聖書の創世記から黙示録までを並べていったとき、そこにあった旧約の約束(預言)とそれが成就した新約の箇所を結びつけた図だそうです。

 天地を創造された神の大きなご計画は、黙示録の、この天地の終わりに至るまで見事に、美しく成就していきます。この世界を、神の作られた世界として完成なさるのです。その約束と成就が、美しいアーチを、まるで虹のように描いています。神が王である世界で、父と共に治められる王、主イエスの御降誕と十字架の死と復活は、その中でも中心となる御業です。そのたくさんある旧約聖書の預言の中でも、最も多く新約聖書に引用されているのが、詩篇の110篇1節のこの言葉です。
主は 私の主に言われた。
「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」
 この言葉が、主イエスにおいて成就した。イエス・キリストは、十字架に死んで、よみがえって、今は天に上げられて、神の右の座についておられる。目には見えなくても、主イエスが私たちを治めて、敵や悪の支配を踏みつけてくださる。今、イエスが、この世界を治める王座の右におられる。これを、最も大きな告白の一つとしたのです。
 もちろん、戦争、暴力や悲劇はあります。自然災害や、ウイルスの蔓延で世界が大きく混乱している今のようなこともありますし、これからもどんなことが起こるか分かりません。今年は特にそのことを痛感している一年ですね。神がいるなら、どうしてこんなことがあるんだろう。イエスが敵を踏みつけているなら、どうして悲しいこと、苦しいことがあるんだろう、と言う声も多くあります。悪の方が好き放題しているようです。

 それでも、私たちは、主イエスが治めていることを信じます。主イエスご自身の生涯は、貧しく低い始まりでした。悪い王様に命を狙われ、権力者に憎まれ、最後は、歪められた裁判で、残酷な十字架につけられる死でした。悪が買ったように見えました。イエスご自身が、
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ばれました。本当に、神に見捨てられたように思える時もあることを、主イエスは誰よりもご存じです。でも、その死は主イエスの敗北ではなく、神の御業でした。人の苦しみや悪の挑発をとことんまで受けて、なおイエスは神を見上げていました。そのイエスを天の父はよみがえらせて、ご自分の右に着かせてくださいました。

 今の世界の、苦しみも疑問も、イエスは知っておられます。誰よりも、苦しみや疑いを味わって知っているイエスが、今、天の右の座で、治めておられます。その良い支配を私たちは信じて、自分たちに出来ることをしていきます。この世界が良くなっていくよう、悪がなくなるよう責任を与えられています。でも、十分に最善を尽くせなくても、その私たちのため、
キリストは…父の右の座に着き、再び来られて、全世界を裁いて新しくされるまで、御国を統べ治め、私たちのためにとりなしてくださっています。
と信じるのです。このイエスの支配と取りなしを信じつつ、イエスが再び来られる時を待ち望んでいる。それが、クリスマスを前に心を向ける、もう一つの待望です。

「復活の主、昇天の主よ。この地上にはおられなくとも、あなたは天の御座から私たちを治めていてくださいます。すべての権威と力はあなたにあります。あなたの御名にまさる名はありません。どうか終わりの日に私たちをよみがえらせ、あなたの御国でともに住まわせてください。アーメン」
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