聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ七1-8「何を求めているか」働くクリスチャンの会

2017-07-30 13:46:57 | 聖書

2017/7/30 マタイ七1-8「何を求めているか」働くクリスチャンの会 

 マタイの福音書の5章から7章には、イエスが語られた「山上の説教」が記録されています。この「山上の説教」の中心は六33の

「神の国とその義とを第一に求めなさい」

だと私は思っています。それはイエスの言葉

「天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くなりなさい」

とも言い換えられます。それを具体的に教えるために、沢山の教えと例話とを語っておられるのですが、今日はその一つ、7章1節以下の

「さばいてはいけません」

の部分をご一緒に聞きたいと思います。

 勿論ここでは、あらゆる裁き、裁判や司法制度を否定されてはいません。また、何事につけて判断をしてはならないと仰ったのでもありません。15節では

「にせ預言者たちに気をつけなさい」

と言われ、牧師や教師でも神の御心と正反対のことをしていることがあると強くイエスは仰います。問題がありそうで怪しいのにそれを見ず、はっきり問題があっても「キリスト者なんだから赦そう。さばかず、目を瞑ろう」というような胡麻菓子はイエスの言葉の大きな誤解です。ここではそういう「処理すべき問題」では無く、いつも人を裁いて、批判し、その問題を批評するような、そういう態度が窘められているのです。

「さばかれないため」

というのも、2節で補足されているとおり、その裁きの容赦ない基準が自分にも当てはめられるなら、誰も耐えられる人はいません。人の問題を論うのであれば、自分の問題も論われます。

 この「さばいてはならない」が3節以下ユーモラスに語られます。

「兄弟の目の中のちりに目を向けるが、自分の目の中の梁には気がつかない。」

 人の目にある塵を取ろうとしながら、自分の目には梁が入っている。「針」ではなく「梁」です。材木が目に入るなんて無理です。しかしイエスはあなたの目には梁があると仰るのです。

 この「梁」は、多くの場合、自分自身の問題や罪だと理解されます。人の問題を裁く以前に、自分に問題があることを思い出す、という事でしょうか。人の欠点を直そうとしてやるより、まず自分自身の欠陥を認め、ケアすることが大事です。自分には問題が無く、正しく、あなたよりも分かっているから、という態度を捨てて、自分自身、問題があり、癒やされるべき大きな課題がある。そういう謙虚な生き方へと、イエスは私たちを招いてくださっているのかもしれません。もっと言えば、私たちは自分自身の問題や渇きを、他者の問題を指摘したり、助けたりしてあげることによって解決しようとすることがあります。自分より間違っている人を批判し、助けてあげる善人を演じることで、安心しよう、劣等感から逃れよう。そういう行動を取ってしまうことが少なくありません。しかし神の国は、裁く正しさによって成り立つ国ではありません。ひとりひとりが自分の目に梁を持つ者、裁かれてはひとたまりも無い問題を持つ者として、まず自分が謙虚に癒やしを求めることが神の国の義だ。そう読むことも出来ます。

 最近読んだ『エクササイズⅡ』という本は、この「梁」とは「裁く」ことそのものと理解していました。

 人を裁く行為がその人の目を塞ぐ「梁」だと言うのです。確かに裁きは、正しいようで、本当に正しい判断を曇らせ、問題だけを過大視してしまうものです。もっと言えば、梁は振り回すと危ない材木です。人を裁くような目(見方)は梁を振り回すような、危なっかしい事だ。相手をも自分をも、周囲をも傷つけるような暴力だ、というイメージも連想してよいかもしれません。その裁きがどんなに正しくても、いいえ、非の打ち所のない正論であればあるほど、その人は立ち直れないほど傷つくでしょう。裁く側は、自分の言い分の正しさに自信満々であっても、その梁を振り回した結果、取り返しの付かないダメージで、人間関係を壊すことがあります。私たちが求めるべきは、自分の正義、正しさでは無く、神の国の義です。私たちは、罪や問題を抱えたものです。憐れみを必要とし、サポートを必要としている弱い存在です。その事を認めて、握りしめていた手を開くのです。裁きや評価を止め、相手もまた尊い存在として見ることが始まります。本当に兄弟を助け、その目から塵を取り除く助けも出来ます。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」。

 裁く時、相手を「犬」や「豚」のように見下していることがあります。神聖なこと、真珠のように大事な事を教えてやるのだ、「こうすべき」だ、聞く耳を持たない相手がダメなのだ、そう見下したまま、裁いても、相手には届かなくて当然です。

「それを足で踏みにじり、向き直って」

襲いかかってきても、無理はありません。相手を見下して、裁きの梁を振り回す乱暴な生き方は、ますます私たちを引き裂いていきます。そういう道から、まず裁く自分の問題を見つめ、自分も相手も同じように傷つき、憐れみによって助けを必要としている。そうハッキリ見るようイエスは私たちを招かれます。

 イエスは誰よりも人を裁ける正しいはずなのに、私たちを憐れみ、受け入れてくださいました。私たちを罪人、滅んで当然の無価値な者と見なさず、

「神の子ども」

としてくださいます。まだまだ問題を抱えた者を断罪せず、表面の問題の根にある、深い孤独、傷、疑いを、御自分の痛みのように、断腸の思いで憐れまれました。そして十字架に架かってくださいました。

 

 正論の梁を振り回す代わりに、十字架にかかられた御自身を差し出されました。「裁くな」と命じただけでなく、もっと深く、現実的な回復を初めてくださいました。「お互い様だから裁かない」と目を伏せるのでなく、私たち自身の問題を認めることから始まる新しい生き方を示されたのです。私たちは、裁きという暴力を手放し、イエスの十字架にすがりつき、自分の問題や渇きを認めます。人をも犬畜生のように思わず、自分も相手も同じように弱く、ニーズを持ち、神の前に尊い存在と見るのです。難しい事です。自分の力では無理です。だから、続く七7でも

「求めなさい。…捜しなさい。…たたきなさい…」。

 神の国とその義が、自分の目の前の人間関係の中で果たされるため、求め続ける。それは、実に大胆なイエスのチャレンジです。

 ヘンリ・ナウエンは

「これからの指導者は、まったく力なき者として、つまり、この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外に、何も差し出すものがない者になるように召されている」

と言います。正しい者が勝ち、間違っていればダメで、裁きを恐れ、背伸びをする、そんな生き方からイエスは解放してくださいました。神の国に生かされるとき、私たちはそれぞれの現場で、自分の正しさ、優位さを手放す、非暴力の態度へと導かれます。裁きたいときこそ、祈りましょう。神は与えると約束してくださっています。

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ヨハネ10章7-18節「イエスを知る喜び」

2017-07-30 13:28:01 | 聖書

2017/7/30 ヨハネ10章7-18節「イエスを知る喜び」

 七月最後の日曜日ですので一書を取り上げます。今月はヨハネの福音書です。実は現存している最古の日本語訳聖書はヨハネの福音書なのです。

「はじまりにかしこいものござる。このかしこいものごくらくともにござる。このかしこいものわごくらく」

と始まるギュツラフ訳です[1]。日本宣教最初の翻訳にヨハネ伝を選んだ事実に、ヨハネ伝の大切さが物語られています。

1.イエスを知るために書かれたヨハネ伝

 新約聖書の最初には、イエス・キリストの生涯を伝える四つの「福音書」があります。最初の三つ、マタイ、マルコ、ルカはよく似ていて、観点が共通している「共観福音書」と呼ばれますが、ヨハネはとてもユニークな書き方をしています。最も遅く書かれた事もあるでしょう、他の福音書にはない特徴がたくさんあります。その一つが、執筆意図を明確にしている事です。

二〇31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 そのためにこの事を書いたのだと明言するのです。イエスが神の子キリストである。その事を伝えるため、ヨハネはいくつかの趣向を凝らしています。その一つが、イエスがなさった奇蹟という「しるし」です。この福音書にはイエスの奇蹟が八つ記されています。多くの奇蹟の中から、八つを厳選するのです[2]。カナの婚礼で水をブドウ酒に変え、生まれつき歩けなかった人や目の見えなかった人を癒やされます。その頂点は、死んで四日も経ったラザロを復活させた奇蹟です。そうした奇蹟は、イエスがどのようなお方か、というしるしです。奇蹟だけを求めたり、自分の願いが叶わなかったらイエスから離れたりする関係ではなく、イエスに出会うことが他では叶わない本当のいのちになる。そのしるしとして奇蹟があるのです。ですから、奇蹟の他にも、ヨハネだけが伝えている忘れがたい言葉が沢山あるのですね。一番有名なのは、

三16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

です。人目を憚って水を汲みに来た女性にイエスが話しかけられたエピソードも、姦淫の現場で捉えられた女性に赦しと再出発を与えてくださった話もここに出て来ます。障害があるのは、本人か親が罪を犯したためではなく

「神の栄光が現れるためです」

と言われたのも、このヨハネが伝えるイエスです。楽しみや人間関係、男女関係に走って、結局苦しい生き方をしてしまうこともあります。逆に、そういう生き方を馬鹿にして、自分は正しい、立派だという自信を、生きる支えとするのも虚しい生き方です。イエスはそういう渇いた世界、闇の中に来て下さって、責められたり除け者にされていた人も、ひとりとして滅びる事なく、本当のいのちを持つようにしてくださる方です。その事が、言葉でもしるしでも展開されるのです。

2.「わたしは○○です」エゴー・エイミー

 もう一つのヨハネの特長は、イエスが「わたしは○○です」と何度も仰る事です。ハッキリと、そして必要以上のとても強い言い方でイエスは「わたしは○○です」と言われます。

「わたしがいのちのパンです」[3]

「わたしは、世の光です」[4]

「わたしは羊の門です」[5]

「わたしは、良い牧者です」[6]

「わたしは、よみがえりです。いのちです」[7]

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」[8]

「わたしはまことのぶどうの木」[9]

などです[10]。また「○○」なしに

「わたしがある」

とも数回仰いました[11]。これは本当に特別な言い方で、旧約聖書で神がご自分を

「わたしは「わたしはある」というものである」

と名乗られた言葉をそのまま用いられたのです。イエスは、ご自分が神の子であり天の父と一つであることを宣言なさったのです。イエスは神であられます。しかし、その旧約の神が「わたしはある」と名乗られたのも、そこに「○○」を入れて、

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」

と私たちの神となって、私たちとの関係を結んでくださった、という躍動的な神の恵みを現しているものでした。同じようにイエスも、ただ「わたしはある」と言われる以上に、「いのちのパン」「世の光」「葡萄の木」「良い牧者」などと、本当に豊かなイメージで御自身を差し出されたのです。

 こんな豊かで、身近で、生き生きとしたイメージを駆使して、イエスはどんなお方で、私たちがこの方とどんな関係にあるかが、本当に瑞々しく、鮮やかに語られます。生きている時には艱難があります。世界は「闇」に思え、心がカラカラに渇くような思いもします。しかし、どんな事が起きて、苦しみ、悲しむとしても、イエスは私たちを愛して、命を下さる。パンの命、瑞々しい葡萄の実、羊の群れ、そういう絵を描かせようとなさるのです。

 その一つが、今日の「良い牧者」(羊飼い)という言葉です。これは交読した詩篇二三篇でも使われたモチーフで、イスラエルの人にはとても身近でした。羊飼いという職業自体は、決して高貴でも儲かる仕事でもなく、蔑まれていた仕事だったようです。羊たちを集めて、一つの群れとして導くのは大変です。羊が迷ったら探しに行き、襲われたらいのちがけで守る羊飼いは、進んでなろうとする人はいなかった、貧しく汚れる仕事でした。そういう羊飼いにご自分を準えることも厭わずに、イエスは私たちに豊かないのちの関係を伝えたいのです。難しい表現はサラッと流して、ヨハネ伝全体を、そこに浮かんでくるイメージを聞き取って読むことをお勧めします[12]

3.イエスの愛の中に

 最後にこの著者のことを触れておきます。この著者はハッキリ名乗りを上げません。しかし福音書の中にさりげなく登場します。

「イエスの愛されたあの弟子」

と名乗って登場するのです[13]。勿論、他の弟子は愛されていなかったということではないでしょう。でも、自分のことを

「主が愛された弟子」

と呼びます。それは、本当に主が愛のお方だから、主が何よりも愛する事を求められたからです。ヨハネだけが記すもう一つの事は「洗足」、イエスが弟子の足を洗われた事です[14]。弟子たちの汚れた足を奴隷のように洗って、その愛を惜しげなく示されました。

 そして、ご自分が足を洗ったように

「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」

と仰り、それに続いて葡萄の木の例えを語り、

「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことができません。わたしに留まっていなさい。」

 それは

「わたしの愛の中に留まりなさい」

と同じ事でした[15]。イエスの愛に留まり、イエスに愛されたように愛し合う。だからでしょう。伝説では使徒ヨハネは、晩年どこでも「何かお勧めを」と頼まれたら、「互いに愛し合いなさい。主が愛されたように互いに愛し合いなさい」とだけ繰り返したそうです。

 ヨハネ伝の最後に、イエスが弟子のペテロに

「あなたはわたしを愛しますか」

と三度仰る場面が出て来ます。ペテロはイエスを三度裏切った後でした。とてもイエスの顔をまともに見られなかったでしょう。でもイエスがペテロに問うたのは、他のどんな言葉でもなく

「あなたはわたしを愛しますか」

でした。イエスが求めるのは立派な人生でも、真面目な証しでも、失敗を償う善行でも、熱心な伝道でもありません。私たちの目をのぞき込んで「あなたはわたしを愛しますか」です。その証拠を見せよ、とも言われません。私たちが誰であれどんな事をしたかに関わらず、まずイエスとの愛に立ち戻ることを願われます。イエスが愛して下さったのだから、私もイエスを愛します。そう心から答えるなら喜んでくださる方です。それをより豊かに思い描いて信じるよう、ヨハネは厳選した奇蹟とイエスの言葉、そしていくつものイメージを畳み掛けるイエスを示しました。今も変わりません。神の子イエスは、多くの事がある歩みの中で、私たちを豊かに生かしておられます。羊飼いのように身を低くし、私たちの足を洗い、御自身が傷つきいのちを捨てることも厭わずに、私たちに豊かに命を持たせて下さるお方です。

「主イエスよ。あなたは今も、尽きない例えやしるしや多くの御業を通して、その御真実を私たちに示し、励まして下さいます。その愛から離れて、疑いや恐れや違うものに頼って渇いていく愚かさをもあなたは深く憐れみ、救い出し、回復させてくださいます。今日、新たに歓迎式をいたしました私たちが、このイエスの愛に根ざしてともに歩むよう、主よ導いてください」



[1] 三浦綾子『海嶺』は、このギュツラフ訳誕生のエピソードをノベライズしたものです。

[2] 八つの奇蹟(カナの婚礼[二1-11]、カナの役人の息子の癒やし[四46-54]、ベテスダの癒やし[五1-9]、五千人の給食[六1-14]、水上歩行[六16-21]、盲人の開眼[九1-7]、ラザロの復活[十一章]、大漁の奇蹟[二一章]。これ以外にイエスの復活)。そのうち六つがヨハネのみ。

[3] 六35、48。

[4] 八12。

[5] 十7、9。

[6] 十11、14。

[7] 十一25。

[8] 十四6。

[9] 十五1、5。

[10] この他に八18「わたしが自分の証人であり」もエゴー・エイミーです。

[11] 六20、八24、28、十八5、6、8。

[12] ジェームス・ブラウン・スミス『エクササイズⅠ』242ページ。彼は、「神はご自分を捧げるお方」と題する7章の最後に、ヨハネの福音書をまとめて読むことを提案しています。ヨハネの福音書のユニークさは、イエスと天の父との関係がはっきりと描かれている点にあり、だからこそ、福音書の中でもヨハネを読む事を特に推薦しています。「聖書研究」にならないよう、「物語」を読むように注意して、ヨハネ伝を読むのです。それによって、イエスを身近に見、イエスに出会うことが出来るのです。

[13] 十三23、十九26、二〇2、二一7、20。

[14] 十三1-20。

[15] 十五4、9。

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問78-9「確かに私たちのもの」ヨハネ6章53~58節

2017-07-23 16:59:56 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/7/23 ハ信仰問答78-9「確かに私たちのもの」ヨハネ6章53~58節

 今日も、主イエス・キリストが私たちのために、定めてくださった「主の聖晩餐」を学びましょう。これこそ、イエス・キリストの十字架によって与えられる「福音」を、私たちが最もハッキリと知るための方法なのです。長いですが、二問を見ます。

問78 それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか。

答 いいえ。洗礼の水は、キリストの血に変わるのでも罪の洗い清めそのものになるのでもなく、ただその神聖なしるしまた保証に過ぎません。そのように、晩餐の聖なるパンもまたキリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の様式と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです。

 何度もお話しして来たように、中世の教会では、パンとブドウ酒が、本当にキリストの肉やキリストの血になる、という考え方をしていました。それが迷信になり、また、逆にパンやブドウ酒そのものを有り難がったり、拝んだり、恭しく扱ったりするような脱線にもなっていました。これを否定したプロテスタントの中でも、マルチン・ルターは「パンはパンのままだけれど、その中に、上に、キリストが本当におられるのだ」というこだわりをしました。それに対して、「パンもブドウ酒もただのしるしだ。聖餐式そのものが、ただの記念の儀式で、特別な恵みなどない」と割り切るプロテスタントの教会もありました。でも、ハイデルベルグ信仰問答はそうも言いません。今まで見てきたように、この食事の恵みを繰り返して強調して、ここでパンとブドウ酒がキリストの体と血に変わるのか、と誤解されることを想定するくらい、大切にその意味を歌い上げてきたのでした。そして、ここで改めて確認します。

問79 それではなぜ、キリストはパンを御自分の体、杯を御自分の血による新しい契約とお呼びになり、聖パウロはイエス・キリストの体と血にあずかる、と言うのですか。

答 キリストは何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のためにわたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちがこれらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に現実に、わたしたちが聖霊のお働きによってこの方のまことの体と血とにあずかっていること、そして、あたかもわたしたち自身が自分の身において一切を苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされていることを、この方は、この目に見えるしるしと担保を通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです。

 最後に「この目に見えるしるしと担保」とあります。聖餐はしるしであり、担保です。

…十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のためにわたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になるという…

 「しるし」である。もうこれは今まで何度もお話しして来た通りです。これからも何度も繰り返して私たちは、このキリストの十字架の御業を聴き、ここに立ち続けるでしょう。キリストの十字架の死が、本当に私たちの魂を養い、潤して永遠のいのちにまで確実に至らせてくれる。そのしるしとして、パンと杯を、キリストの体と血としていただくのだ、というのです。

 そして、もう一面として「担保」と言われます。担保とは保証という事です。何かの約束を保証するために、別のものをあてがうのです。ここでは、

…わたしたちが聖霊のお働きによってこの方のまことの体と血とにあずかっていること、そして、あたかもわたしたち自身が自分の身において一切を苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされていること…

 その担保として、主の聖晩餐という儀式で、確約して下さっているのだ、ということです。言葉だけで信じろ、というのではなく、本当にそうだ、嘘偽りなく確かな約束だと示すのが、パンとブドウ酒をいただくことなのです。

ヨハネ六53イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

55わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

 イエスはこの言葉を、五つのパンと二匹の魚の奇蹟の後に仰いました。イエスはパンと魚で人々をもてなされつつ、そこにはイエス御自身に深く繋がりなさい、というメッセージがあったのです。決して、御自身の肉や血を与えられたのではありません。イエスからパンや魚を頂くという行為そのものが、イエスとの関係を表しました。聖餐もそうです。パンが本当にイエスの肉で杯がイエスの血かどうか、という考えではなく、イエスがこのパンを食べ、杯から飲みなさいと仰った事を恵みとして戴くのです。イエスが私たちと、切っても切り離せない関係を下さる。本当にキリストが私たちのために苦しんでくださった。そればかりか、そのキリストの苦しみや従順を、私たちのものだとさえ言える。その事を、このパンとブドウ酒を頂く聖晩餐が確約してくれているのです。

 この事を無視して、ただ聖餐だけで御利益があるとか、パンやブドウ酒に特別な力があると考える迷信を、改革派教会は断固として退けてきました。迷信的に敬う余り、パンを礼拝し、信徒に杯は飲ませない、といった本末転倒が起きたからです。でも、そんな誤解をも覚悟の上で、主イエスはパンや杯に託して福音を味わわせてくださいました。パンや杯を迷信化するのは間違いでも、イエスの肉や血に与るなんて、それこそはまさしく恐れ多いことです。とんでもない話です。でも、イエスは

「わたしを食べ、飲みなさい」

と仰るのです。そういう聖餐を大事にし、福音の恵みをますます感謝して、恭しい思いを持ちたいと思います。限りない喜びを、溢れる感謝をいただきたいと思います。

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使徒の働き4章1-22節「捨てた石が礎石に」

2017-07-23 16:54:53 | 使徒の働き

2017/7/23 使徒の働き4章1-22節「捨てた石が礎石に」

1.良いわざについて

 今日の箇所に出て来るのは、ペテロとヨハネの逮捕、そして議会での尋問です。留置所に入れられ、国会のお偉方の前に引き出されて審議にかけられたのです。そして、脅されて返された、という出来事です。ペンテコステ以降の教会が経験した初めての迫害、逆風でした。前回三章で、生まれつき足のなえた人が、ペテロとヨハネによってイエス・キリストの力に与り、歩き出し、踊り上がって神を賛美し、宮に入っていった、という奇蹟がありました。その出来事に回りの人々も驚いて集まってきて、ペテロは彼らに対してイエスこそキリスト(メシヤ)であると語ったのです。祭司や宮の守衛、サドカイ人たちはこの騒ぎを聞いて駆けつけ、困り果てました。勝手に宮で集会を始めたのも困ったでしょう。自分たちが殺して厄介払いしたはずのイエスがメシヤだという主張も迷惑でした。サドカイ人が否定する復活を使徒たちが語るのも目障りでした。だから逮捕して一晩留置し、翌日、議会が招集されたのです。

 7彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。

 この言葉は実はイエスにも投げかけられた質問でした。

「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。」[1]

 弟子たちも今、イエスと同じように当局から目をつけられ、尋問されています。しかし、以前の弟子たちは、イエスが尋問されても黙っていました。イエスが逮捕された時には、逃げ出してしまいました。あなたもその仲間だろうとちょっと尋ねられただけで、ペテロは誓願を立ててまで激しく否定したのです。その臆病だったペテロたちが、ここではどうでしょう。彼らは主張します。

 8…ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。

 9私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、

 「病人に行った善い業」について、です。議員たちは

「こんなことをしたのか」

と遠回しな言い方をしています。彼ら自身、何をしているのか、どう非難したら良いのか分からず、曖昧に「こんなこと」と言っています。でもそれは

「善い業」

です。何の非難や処罰を受ける筋合いのことでもありません。この「良い業」という確信は、大事な鍵なのでは無いでしょうか。

2.「捨てられた」方

 ペテロが臆病な逃亡者から、大胆な証人に変わった事実はここで私たちも驚くべきことです。

10…この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。

 ペテロの大胆に返答をし、癒やされた本人がそこにいて、議会は言葉が見つかりません。それでも彼らはペテロたちの言い分を聞こうとせず、18節でも21節でも黙っていろと脅します。彼らは脅されても怯えません。19節20節で、実にストレートに応えます。23節以下、仲間の弟子たちの元に戻っても、「大変だ。どうしよう。脅されたからちょっと静かにしておこう」とは言いません。24-30節での祈りも、脅しや反対からお守りくださいではなく、

29主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。

30御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」

 暴力は主がご覧になって裁いてくださればよし。自分たちは恐れることなく、大胆に御言葉を語らせ、癒やし、しるし、不思議な業を行わせてください、と心を合わせて祈ったのです。

 でもそれは彼らに勇気があったからでしょうか。信仰が強かったからでしょうか。「自分たちにはそんな勇気も信仰もないからとても真似は出来ない」なのでしょうか。いいえ、彼らは、人間が十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストを知ったのです。人が捨てたイエスこそ、天の下でこれ以外に救いはない、唯一の御名だとハッキリ知ったのです。そして、その方は、ここで歩けなかった人に力を下さり、歩かせて、神を賛美させてくれました。そういう「良いこと」をなさったイエスを知ったときに、彼らは議会に立っても脅されても、そんな権力が借り物でしかない恐れるに足らずと知って、冷静でおれたのです。

 祭司長や議会たちは神殿の全てを取り仕切り、祭司としての権力で尊敬され、イエスを十字架に殺し、弟子たちを投獄し、贅沢な暮らしを楽しんでいました。でも12節でペテロが言った通り、どんな地位や財産や神殿儀式も人を救うことは出来ません。人を脅して力尽くでも守る生き方に、本当の幸せは決してありません[2]。彼らの脅しは張りぼての脅し、勘違いした強がり、惨めな足掻きでした。その権力は、借り物に過ぎません。しかし、最も権力のある方、本当の主なるお方は、貧しくなり、捨てられ、御自分の命を捧げて下さいました[3]。それ以外に、私たちの救いとなる御名はありません。それゆえに、逮捕や牢獄や、あれこれ奪うぞと脅されて、勿論、緊張もし平静ではおれず、逃げたり隠れたり対処すべき時があるとしても、もっと大きな主、真実なイエスの深い憐れみを信じて、冷静に対応することが出来るのです。

3.救いは他にない

 12節で

「救い」

と言われるのは唐突のように思いますが、実は9節で

「何によっていやされたか」

とあるのは「救われたか」とも訳せる同じ言葉です。これは「魂の救い」に限らず、あらゆる苦しみや絶望、困窮、人間の持つ深い問題を視野に入れています。生まれつきの障害を持ち、社会的な尊厳が与えられなかったこの人は、イエスが歩かせてくださって、躍り上がって神を賛美しました。また、ペテロたちが一晩留置された時、そこにいた人々の悲しみや傷や罪の状況を目の当たりにしたかもしれません。暗い留置場で見た人々も、宮に上って行く人々も、宮を差(さ)配(はい)する祭司長や、自分たちを脅して黙らせようとする指導者たちも、神がどれほど憐れみ深いかを知りません。救いを求めつつ、当てにはならない金や銀や地位や健康、イエスではないものに礎を置いています[4]。30節でペテロが

「いやしを行わせ…しるしと不思議なわざを行わせてください」

と祈ったのも、派手なパフォーマンスで人を惹き付け、会員を増やすためではありません。本当に、このイエスの御名による救いを知って欲しかったからです。頑固に心を閉じて脅してでも黙らせる権力者もいる一方、イエスによって癒やされ、立ち上がり躍り上がって喜び、神を賛美している人、その人を見て信じた五千人以上の人々がいました。その「良い業」がペテロたちの心を動かした秘訣だったに違いないと思うのです。

 主イエスこそ、神が下さった唯一の救い主です。イエスは私たちを服従を要求し、脅しで不服従を禁じる権威者とは全く違います。確かに権力を持つ人間が、脅しや偉そうに命令し、力尽くで迫害や投獄、殉教をする時、この攻撃は本当に厳しいものです。私たちは挫けて負けてしまうかも知れません。しかし、主はその弱さも知っておられます。私たち以上に人間の弱さを知っておられます。そのイエス御自身が、ペテロの裏切りを責めず、予告した上で、そのペテロのために捨てられ、愛をもってもう一度立ち上がらせてくださいました。本当に権威を持っておられる主が、まず私のために捨てられてくださいました。そして私たちを立ち上がらせ、私たちの拙い歩みを通して、癒やしや不思議な良い業をさせてくださいます。

 この方が私たちの礎です。このイエスに信頼して、落ち着いて受け答えすれば良い。そう大胆に祈っていけば良い。そうです。主は、この世の権力者より遙かに大きく、遙かに良いお方です。

「主よ。あなたの御名以外に救いはありません。人に捨てられ十字架に死なれたあなた以外に、礎はありません。どうぞ、私たちを自分の守りばかりを求め、恐れたり脅したりする生き方ではなく、無学な凡人の私たちを通してあなたの栄光が現され、恵みの良い業がなされることを願わせてください。主が始められた不思議な命の御業が私どもを通して果たされますように」



[1] ルカ二〇2。

[2] 事実、今また彼らは事実を直視できず、ペテロたちを脅して黙らせようとするしか出来ないでいます。脅すのは、力があるからでは無く、脅すしか出来ないからです。そんな彼らの弱さが透けて見えなければ、いくら勇気や信仰で脅しに屈しまいとしても、限界があるでしょう。

[3] 24節で神に語られる「主よ」という言葉は、絶対的権力者、天地の所有者などを意味する「デスポテース」という珍しい言葉が使われています。

[4] イエスを証言する言葉を聴き、イエスがなさった癒やしの奇蹟を見ても、まだ現実から目を背け、脅しや無視で蓋をしようとしています。そんな人々の脅しは恐れるに足りません。いや、そんな人がトップにいる社会だからこそ、キリストの御名を知って欲しいと思ったのでしょう。

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問77「パン裂きが終わる日」Ⅰコリント十章16~17節

2017-07-16 15:49:55 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/7/16 ハ信仰問答77「パン裂きが終わる日」Ⅰコリント十章16~17節

 夕拝でテキストにしていますハイデルベルグ信仰問答では、聖餐式の事を続けて取り上げています。何度もお話ししますように、この夕拝では実際に聖餐をして、パンを裂き、杯を飲むことは致しませんけれど、それでもここで私たちは、一つのパンを裂き、ひとつの杯を回し飲むような、そのようなイメージを心に描いてほしいと思います。イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、血を流された。その事が私たちに最もハッキリと分かるようにと定められたのが、聖餐だからです。

問77 信徒がこの裂かれたパンを食し、この杯から飲むのと同様に確実に、ご自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤してくださると、キリストはどこで約束なさいましたか。

答 聖晩餐の制定の箇所に次のように記されています。
「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『(取って食べなさい。)これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
この約束はまた聖パウロによって繰り返されており、そこで彼はこう述べています。
「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの体にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。

 この問77は、聖餐がキリスト御自身の命じられたこと、約束されたことであると確認しています。人間が考え出したり、教会が決めたりしたことではありません。キリスト御自身がお定めになった食事なのです。ここで使われている言葉は、さっき読みましたⅠコリント10章と、その次の11章の言葉です。そこでパウロは、コリントの教会の人々を教えるために、キリスト御自身がこう仰った事を思い出させています。

Ⅰコリント十16-17私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

 ここでも、主が命じられた杯とパンの聖餐が、キリストの体を現していて、そのキリストの体に与る私たちの交わりを現している。そこを土台にして、私たちの生き方、教会のあり方を考えて行くのだと言っています。それとともに、このハイデルベルグ信仰問答や宗教改革の伝統が大事にしてきたのは、パンと杯は、そのパンや葡萄酒そのものに力があるのではなく、キリストの死を思い起こさせることにこそ、その意味がある、という強調点です。儀式に力があると考えると、パンと葡萄酒に対する迷信的な扱いが始まります。そういう本末転倒をしないようにする、ということは大事なことです。

 しかし、私たちはいつも不完全な者です。誤解があり、理解には限界があります。聖餐に対しても、私たちは完璧な理解が出来るわけでもありません。また、ここに集まっている私たちも、このハイデルベルグ信仰問答を一緒に学びながらも、完全に一致した理解をしているわけではないかもしれません。それに、こうして学ぶまでは、そんなことは考えたこともなかった、知らなかった、という事もあるのです。しかし、そうした私たちの誤解や無理解、また意見の相違があるとしても、大事な事は変わりません。

「取って食べなさい。これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。…この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」

 キリストが私たちに仰ったのは、これですね。裂かれたパンをいただき、私たちのために十字架で体を裂かれたキリストが思い出されるのです。杯を頂いて、キリストが血を流されて、私たちのための新しい契約を立ててくださったことを覚えるのです。その理解に誤解や違いや、多少迷信めいたものがあろうとも、そこでキリストが覚えられさえすればいいのです。というよりも、それこそが、このパンを裂いて食べ、一つの杯から飲む、という形が示しているメッセージそのものだからですね。

 食事を食べる時も、私たちはその栄養や健康への効果を十分分かっているわけではありません。ジャガイモだと思っていたらカブだったり、この魚にはどんな栄養が入っていて、自分の健康にどういいのか分かっていないことが殆どではないでしょうか。それでも、普通の食事をバランス良く続けていれば、たいてい健康に過ごせます。その意味を分かっていないと消化されない、体に吸収されない、ということはありません。聖餐もそうです。大事なのは、そこに示されているメッセージそのものです。それは、キリストが私たちのために御自身を裂かれ、いのちを下さった、という確かな事実です。

Ⅰコリント十一26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 この御言葉が示すとおり、私たちはパンと杯をいただく聖餐を通して、主の死を告げ知らせます。でも、ここに

「主が来られるまで」

ともありますね。私たちは、主が十字架で死なれた過去の出来事を思い起こし、記念するだけではありません。その主が、やがてもう一度、ここに来られるのです。主は死なれただけでなく、よみがえられました。そして今も私たちに命を与え、私たちを結び合わせ、恵みの中で養い育ててくださると信じています。やがて、このイエスが来られて、すべてを新しくなさいます。聖餐はそれまでの食事です。主イエスが来られて、世界を新しくされた後はもう、神の国で聖餐を行うことはありません。その時には、主が私たちを神の国の食卓に着かせて、永遠の祝宴を味わわせてくださるのです。もう今のようなパン裂きはしません。いいえ、むしろ、今のパン裂きこそが、やがて神の国の食卓が始まることの約束であり、しるしなのです。過去の十字架だけでなく、主が来られる将来をも味わうのが聖餐なのです。

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