聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/8/29 マタイ伝24章15~22節「安全な逃げ道へ」

2021-08-28 12:26:36 | マタイの福音書講解
2021/8/29 マタイ伝24章15~22節「安全な逃げ道へ」[1]

 今日の箇所で、イエスが命じておられるのは「逃げなさい」です。それも、何も取りに帰らずに大至急「逃げなさい」。身重の女性や乳飲み子を持つ母たちは本当に逃げるのが大変だし、
20あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。
 雨で道がぬかるむ冬や、歩く歩数を制限して門も閉められた安息日は、なおさら逃げるのが大変だから、とわざわざその日にならないように祈れと言われるような大変な日、逃げるべき日が来ると言われるのです。それがいつのことかと言えば、15節にこうあります。
15それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら-読者はよく理解せよ-
 旧約聖書のダニエル書の9章27節に
「荒らすもの…忌まわしいもの」
という言葉が出て来ます[2]。これはダニエルの四百年程後、紀元前2世紀に成就しました[3]。イエスはこれを引いて、
「荒らす忌まわしいもの」
が聖なる所に立つ、と言われます。既に成就した言葉を引いて、将来への備えとさせました。ですから「いつの何の事か」以上のメッセージです。

 何より弟子たちは度肝を抜かれたでしょう。
1イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
 金と大理石で輝く神殿は当時の地中海世界でも有名な美しい建造物でした。その美観を指さす弟子たちにイエスは「荒らす忌まわしいもの」がここに再び踏み込む。この神殿の石も他の石と同様崩れる日が来る。「あの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら…山へ逃げなさい。」と言われる。これは「いつの預言か」より「それが起こる」事自体が聴く者の理解へのチャレンジです[4]。

 この言葉から四十年後、ローマ軍がエルサレムを包囲します[5]。ローマ軍を見ても、過激な原理主義たちは、民衆の脱出も許さずに、結果110万人が死に、六千の餓死者がいたそうです。最後まで「神である主は神殿で天からの助けを送られる」という偽預言に縋り[6]、その預言が外れても過ちを認めず、捕虜として捕まるぐらいなら死を選ぶ思想がありました。
 しかしキリスト者は、エルサレムの危険の兆しが見えた段階で東に逃げ、一人も死ななかったそうです[7]。彼らも神殿や律法を軽んじず、強く大事にするユダヤ人です[8]。しかしローマ軍を見た時、「神殿だから大丈夫、神さまがいるのだから守られる」とは思わず、すぐに逃げたのです。

 キリスト教は「逃げろ」という宗教だ、と言った方がいます[9]。「逃げることは恥ずかしい」という考えや、問題に向き合うのが怖くて「逃げちゃダメ」と言われることがあります。エルサレム陥落の時だけでなく、多くの戦争や虐殺で、危険が迫っているのに「きっと大丈夫だろう」とか、財産に執着して命を失ってしまう悲劇が歴史には山ほどあります。近年の災害で、大雨が降っても「大丈夫だろう」と思って避難しない、大地震でも津波は来ないと高を括ってしまって逃げ遅れる、「安全神話」「正常性バイアス」という言葉が知られてきました。不安だからこそ藁にも縋る思いで「何とかなる」と言い聞かせてしまう[10]。
 夏休みが終わる今、子どもが追い詰められてしまうことが多い今、「逃げるな」より「安全な逃げ場所」がある事の大事さが言われます。イエスは「逃げなさい」と言われます。神殿だって例外ではないし、学校や家庭、教会も、絶対安全という聖域はない[11]。危なくなったら逃げて良い。大事な物にも背を向けて、何も持たなくて良いから、安全な場所に逃げなさいと、イエスは言ってくださるのです。

Ⅰコリント書10:31あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

 「耐えられない試練はないから逃げずに我慢せよ」ではなく、
「脱出の道も備えている」
なのです。
 また「わたしの元に逃れよ」と、宗教的な解決でも済ませません[12]。「山に逃げなさい」と明確・具体的です。闇雲に逃げたり、助けにならない逃避に走ったりする事は危険です。安全な逃げ道であることが大事です。逃げる日が少しでも楽になるように、短くなるように祈れとは言われますが、祈っていれば禍が来ないとは言われません[13]。ですから、「大丈夫」という言葉に逃げず、安全な逃げ道に飛び込んだり、対策を取ったりすべき時がある事実と、そこにも主の配慮を求めるなら応えてくださるという約束。その両方を私たちは戴いています。

 このような「苦難」は弟子たちが先走って考えた「世の終わり」とは限らず、70年にも私たちの日常であり得ることです[14]。安全なはずの「聖域」も安全でなくなる。その時は逃げていい[15]。だから他の人にも「逃げてはいけない」より「逃げていいよ」「逃げるのもありだよ」と言い、具体的な脱出方法を一緒に考えたり、時には自分を逃げ場所に提供したり出来る。そして、そのような私たちを促して、ともにいて、守ってくださるキリストを信頼するのです。

14御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。15それゆえ、…
 こう言われての今日の言葉です。福音は全世界に宣べ伝えられる。誰かが自分の命を大事にして、「安全神話」より本当に安全な場を求めて、逃げる自由をもいただいて生きる時、福音はその逃げ場所に伝えられます。主がともに逃げてくださって、新しい場所で福音を伝えさせてくださいます[16]。主は、どこからでも「逃れの道」を創り出して私たちを守り、新しいことを始めてくださるお方、そうして、世界の隅々にまで福音を宣べ伝えられるお方です。

「主よ、あなたは私たちの命を尊び、立ちすくむ私たちに「逃げよ」と言ってくださる神、私たちとともに逃げてくださるお方です。留まるべき時には勇気を、逃げるべき時には知恵を、与えてください。あなたが脱出の道を備えてくださっているなら、躊躇わずに逃げることが出来ますように。判断に迷う、難しいことの多い今の状況で、主よ、私たちが命を選べるよう、命を祝えるよう、助けてください。そうした歩みをも、あなたの福音の証しとしてください」



脚注

[1] 7月の「海外宣教週間」に24章1~14節をお話ししたので、その続きからお話しします。

[2] ダニエル書9章27節(彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。)、11章31節(彼の軍隊は立ち上がり、砦である聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える。)、12章11節(常供のささげ物が取り払われ、荒らす忌まわしいものが据えられる時から、千二百九十日がある。」

[3] シリアの王アンティオコスがエルサレム神殿に入り込んで、エルサレム神殿にゼウスの祭壇を立てるという、ユダヤ人にとっては許しがたい出来事がありました。その後、シリアに対する抵抗運動(マカバイ戦争)が行われ、2年掛けて神殿を取り戻します。それが毎年祝われる「宮きよめ」の祭りとなりました。参照、ヨハネ伝10章22節「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。」

[4] 23章まで宮の中では、その権威者たちとイエスの緊張した対話がなされて、「わざわいだ」という言葉が繰り返されたばかりなのに、なお弟子たちは、その宮の立派さを疑わずにいました。直前の23章38節でも「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。」と言われていました。

[5] 紀元70年、過激化するユダヤを制圧するため、ローマ軍はエルサレムを囲み、兵糧攻めで五ヶ月後に、神殿も城壁も破壊されました。「読者は良く理解せよ」とあるのは、マタイの福音書を書いた時、こういう遠回しな言い方が必要なくらい、既に緊張が高まっていたから、とも思われます。

[6] フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』第六巻第五章2節。

[7] エウセビオス『キリスト教史』第三巻第五章2節。

[8] 参照、『使徒の働き』21章20節以下など。

[9] マタイ伝2:13(彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。)、3:7(ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。)、8:33(飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせた。)、10:23(一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。)、23:33(蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。)、24:16、26:56(しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。)

[10] 「教会に来ていれば、疫病にかからないのではないか、津波が来ても助かるのでは、戦争が起きても生き延びられるのでは、暴力が起きても通り過ぎてくれるはずだ」と思いたいでしょう。

[11] 21節(そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。)は、世の終わりにこそ相応しいように思うかもしれません。しかし「今後」はあるのですから、それが世の終わりではないはずです。これは、ダニエル書12章1節(その時、あなたの国の人々を守る大いなる君 ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。)と重なります。ダニエルの預言と、イエスの神殿破壊の預言と、終末まで繰り返される苦難の大きさを繰り返して、「今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな」と評しているのでしょう。そもそも苦難を比較することは、客観的には出来ず、あくまでも主観的なことです。紀元70年のエルサレム陥落と、20世紀のホロコースト、ヒロシマ・ナガサキの原爆、いいえ、一人のイジメでさえ、本人にとっては計り知れない苦痛であり得るのです。「苦難」は9、29、13章21節と同じ言葉です。

[12] 創世記18章では、ロト家族も「主の御使いに縋れば、ソドムからは逃げなくて助かるのではないか」と考えました。しかしそれを御使いは窘め、引っ張って町から外に出されたのです。

[13] 22節「もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。」

[14] 出エジプト、パウロのエルサレムでの暗殺計画への対応、イエスも逃げたこと。聖書のテーマは「逃げる」だとも言えます。

[15] 不登校、引きこもり、ハラスメント、カルト、DVなどで、しばしば行われる間違ったアドバイスは「がんばって続けるべきだ。逃げてはいけない」です。それで乗り越える方もいれば、潰れてしまうケースも多くあります。現代では、不登校や保育室登校をます容認することから、自立への長い支援をするようになっていることは、教会の「根性論」を冷静に見つめさせてくれるでしょう。「教会で教えるべきことの第一は、ハラスメントや暴力に対して逃げること」と言われる方もいます。

[16] 今コロナ禍で、どうすればいいかを悩む時も、「教会だから大丈夫」とも「もうダメだ」のどちらの極端にも簡単に走らず、まず一人一人の安全や安心を求めています。これも、私たちにとって、神がどんなお方であるかの再確認です。

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2021/8/22 マタイ伝23章1~12節「見かけより大事なもの」

2021-08-21 12:06:27 | マタイの福音書講解
2021/8/22 マタイ伝23章1~12節「見かけより大事なもの」

 このマタイ23章は一つの長い説教です。来週お話しする24章も、25章まで続く長い説教で23~25章がイエスの説教だと言えます。マタイ5~7章には、三つの章に亘る最初の長い説教、「山上の説教」でしたが、これも三章に亘る説教で、十字架の前、最後の長い説教です[1]。
 そして「山上の説教」が七つの「幸い」で始まったように、23章には七つの「わざわいだ」が出て来ます。しかし「山上の説教」とこれまた同様、語りかけられているのは「群衆と弟子たち」です。「わざわいだ」と言われるのは、律法学者やパリサイ人、当時の指導者たちです[2]。

2「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。3ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。4また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。

 こういう、教えるけれども、他者を助けようとしない当時の指導者たちに対しての痛烈な批判をイエスは仰います[3]。だからといって、群衆や弟子は言葉と行いが一致しなくてもいい、ではありません。誰もが自分が本気で信じてもいない、生きてもいない事を人に押しつける偽善を犯しがちです[4]。けれども、その矛盾している庶民の苦しみに、更に塩をすり込んでいたのが、当時の指導者だというのです[5]。その指導者の責任は、一層重いのだと、イエスは批判されます。
 もし皆さんが、この箇所からの説教で、説教者が自分たちの罪を指摘して、罪意識を与えて、ぐうの音も出なくなる、それが説教だと思うとしたら、イエスは、そういう構造を徹底的に厳しく批判しておられる。そのやり方に倣うな、なのです。

 とはいえ、律法学者やパリサイ人の行いが全部悪で、何一つ真似せず、反対をしろ、ということでもないでしょう。

5彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。6宴会では上座を、会堂では上席を好み、7広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。

 人に見せたいのですから、信仰深そうに、聖書の言葉をいつも身につけ[6]、人から立派だと思われるような行動を取っているのです。その行動に、真似する価値がないのは、その行動自体より、動機が人に見せること、人から尊敬されて上座を与えられたり先生と呼ばれたりしたいから。そういう心の向き、人の上に立ちたいという価値観が問われているのです。そこで、

8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。9あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。10また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。

 これも、私たちが「先生」「父」「師」と呼び合わないことが目的ではありません[7]。イエスが気づかせているのは

「あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だから」
「あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけ」

という事実です。「人からどう見られるか、見かけを取り繕ってでも尊敬されたい、上に見られたい」と気にする――そういう生き方から、ただ一人の教師、イエスを見上げること。私たちは皆兄弟であって、「先生」と呼ばれる上下関係などない。天には神が私たちの「父」としておられる。その事実こそイエスは見せてくださいました。だから見かけで信仰深そうにして「先生」と呼ばれたいなど、可笑しいのです[8]。
 そして私たちの「師」キリストは、見かけを信仰深そうにしたり、人の上に立とうとしたりする方ではありません。負いきれない荷を人の肩に載せて何もしない方ではなく、重荷に疲れた者を呼んで休ませ[9]、私たちの代わりに十字架を担い、私たち自身を担って、運んでくださるお方です。蔑まれたり否定されたりする道をイエスは選んで、私たちに仕えてくださいました[10]。それが、ただ一人の師であるキリストの道です。だから、こう適用されます。

11あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい[11]。12だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。[12]

 「低く見せる」というより、師であるキリストが仕える者、低く謙られたから、私たちも謙るのです[13]。人目が気になる自分にも正直になりつつも、神が父として私たちのすべてを見てくださっているから、仕えることを選ぶのです。そして、自分や自分のしたことの価値を無駄に卑しめるのではなく、自分を低くする者は高くされる。私たちが謙ってなす務めは、大いに価値がある。尊い祝福にしてくださる。そのことにも大胆に確信をもって生きていくのです。

 この後繰り返される「わざわい」は、呪いというより嘆きです[14]。呻きや叫びの悲嘆です。神が下さる幸いがあるのに、神よりも人に見せること、見かけで人から誉められることを好む、それが幸いだと思って人を教えている。「先生」「クリスチャン」という仮面をつけて、自分とは違う人を演じる[15]。「わざわいだ、偽善の律法学者」と繰り返される「偽善」という言葉は[16]、この仮面をつけて演技をする役者を指す言葉でした[17]。イエスはそういう伝道は「わざわい」だと、強く嘆かれました。主の深い幸いよりも、見かけを求める空っぽの、仮面をつけた生き方を、深く激しく嘆かれました。イエスは、そんな「先生」とは全く違うキリストです。重荷を増やす教師ではなく、私たちの罪も弱さも疲れも素のままで知った上で、「幸い」を語り、私たちの心の向きや願いを深く新しくしたいのです。ここに一人一人が生かされること、生かされている恵みを見せて戴くことで、教会は育てられ、私たちは互いに教えられていくのです。



「主よ。あなたが私たちを見ておられます。偽善を嘆き、虚栄を悲しみつつ、この私を慈しみ、天の父としてともにおられます。あなたを見上げて、重荷も仮面も外れますように。偽らざる私たちを取り戻すため、御子イエスが来て下さり、重荷に疲れた人を休ませ、私たちを兄弟として結び合わせてくださいます。その御業のため、どうか私たちもこのままに用いてください。良いクリスチャンという仮面や重荷から解放して、あなたの恵みを運ぶ土の器としてください」

[1] マタイの福音書は、「イエスの説教集」とも言われ、「山上の説教」(5~7章)、「弟子たちへの派遣説教」(10章)、「神の国の説教」(13章)、「教会に関する説教」(18章)、そして、「終末の説教」(23~25章)が「五大説教」と言われています。いずれも、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると」(7章28節)、「イエスは十二弟子に対する指示を終えると」(11章1節)、「イエスはこれらのたとえを話し終えると」(13章53節)、「イエスはこれらの話を終えると」(19章1節)、「イエスはこれらのことばをすべて語り終えると」(26章1節)と似たフレーズで締めくくられます。

[2] この批判は、群衆や弟子よりも、イエスに対抗する指導者たちである。「先生」案内者、インストラクターへの言葉。庶民を抑えつける言葉では無く、庶民に「救い」を提示する教師たちへの批判である。庶民の救いを提示する教師が、根本的にどのようなあり方をしているか、イエスのあり方と、大祭司のあり方との違い。これは、私たちに対する断罪というよりも、イエスがどんなお方か、を指している。それゆえに、私たちにも、どのような形でキリスト教を伝えるか、親が子に信仰を伝えること、キリスト者が非キリスト者に伝道すること、牧師が信徒を教え育てること、等々をどのようにしていくか、のモデルとなる。それは、自らが模範となり、自分自身が教えられてそのように生きること。この意味で「人を見ないで、神を見なさい」という言い方を「逃げ口上」としてきた教会のあり方は深く見直されるべき。まず、自分がどのように生きるかを自分自身に教えること。上座とか尊敬とか名誉などを求める自分の考えを崩されて、神の前に「正義とあわれみと誠実」を求めるべき。そんな教師に聞き従う必要は無い。そんな教師が語る「救い」など求めなくてよい。

[3] 繰り返されているのは、内と外の矛盾。「3彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いはまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」「15おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。」「23おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。…24ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。」「25おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。」「27おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。28同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。」

[4] マタイ7章1~5節「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。2あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。3あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、

[5] そして、この場合、構造的な暴力が起きるのは、上にいる者は、その立場や経験、知識で優位な分、下にいる者よりも「安全」であって、その安全な座から、下にいる者の欠点(実践、知識、理解力)を論い、その上下関係で安住しやすく、下位の者を、神の言葉を盾に、罪悪感で束縛することが出来るからです。しかし、安全な場にいる教師には、格別厳しい裁きがある、とヤコブ書は言います。「私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。」(ヤコブ書3章1節)

[6] 今で言えば、聖書のアクセサリーやみことばのTシャツを着て、車や家の飾りをクリスチャングッズで飾っているようなものです

[7] ある教派は、ここから牧師を「先生」と呼ぶことをしませんし、私も最初に牧師になる20代に「先生と呼ばないでください」とお願いした時代があります。今でも「牧師先生」という言い方には非常に抵抗がありますし、「牧師は○○先生と呼ばなければ」という発想には抵抗しています。「○○さん」づけやニックネームでも良い、欧米のキリスト教文化が、アジアに入った時に「先生」と呼ぶようにすり替わった経緯を、客観的に理解することは非常に大事な気づきになります。しかし、この箇所から「父」と呼ぶことをしない人がいないように(パウロ書簡でも「あなたがたの父」という言い方が多様に用いられるように)、「先生」と呼ばないことが命じられているのではありません。

[8] これは6章1節でも「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません」と警告されていたことです。「山上の説教」でのこの言葉が、マタイ最後の説教のここでも、強く警告されるのです。

[9] マタイの福音書11章28~30節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

[10] マタイの福音書20章28節「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

[11] 11節「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。」マタイ20:26

[12] これは、18章4節でも言われたことであり、マタイの根底にある主題の一つです。しかし、個々人への道徳という以上に、当時の宗教システムへの挑戦でしょう。とりわけ、一人一人が指導・長上としての立場にある人の間違いに気づいても、黙従するのでもなければ、見下したり批判したりするのでもなく、模範となること、自分自身の問題を棚上げせずに取り扱っていただくことが、真の「兄弟姉妹」の関係作りとなることを示唆する。

[13] 日本のような「謙遜文化」では「低く見せる」自体が美徳だとされますとなってしまいますが、そうした「謙遜」と、聖書が示す「謙虚」とは大きく異なります。

[14] 「わざわいだ」ウーアイ 嘆きの呻き。呪いより深い悲嘆・慟哭。

[15] 人から見られることを愛する私たち。人からの賞賛を求め、一喜一憂する。伝道もまた、来会者の数や教勢上の統計で、成功だ失敗だと批判しやすい。それは、神が私たちを愛し、どう見ておられるか、決して変わらない価値を下さっていることを忘れているからだ。その意味では、「人を見ず、神を見なさい」だ。人を見ないや、結果を一切考慮しないことが目的なのでは無く、まず神ご自身からの恵みをたっぷり味わい、神との交わりにおいて養われることが大事。

[16] 16節だけは「わざわいだ、目の見えない案内人たち」です(24節でも繰り返されます)。「偽善」と「目の見えない案内人」は、別のことを言っているのでは無く、偽善性を「目の見えない案内人」と言い換えているのです。

[17] 「偽善者」ヒュポクリテース 仮面をかぶった役者。悪意とか、善人ぶる、という悪質なことではありません。自分では真剣であり、正しいと思っているが、それが上辺を装うこと、敬虔に生きるふりをすること、私たちで言えば、「クリスチャンらしく」生きることとしか思っておらず、神の道とは正反対の生き方になっているのです。それが、ここでイエスから非難されている「偽善」です。主観的な「偽善」というより、「客観的な偽善」だとも解説されます(加藤)。人に「クリスチャンらしく」見せることではなく、心をご覧になる神に、自分の心を扱って戴く。私たちの王になっていただくことだ。


聖書協会共同訳


それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。

2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。

3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。

4彼らは、背負いきれない重荷をくくって、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない。

5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱のひもを幅広くしたり、衣の房を長くしたりする。

6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、

7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。

8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。

9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。

10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。

11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。

12誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

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2021/8/15 マタイ伝22章41~46節「思いがけない神」

2021-08-14 12:48:23 | マタイの福音書講解
2021/8/15 マタイ伝22章41~46節「思いがけない神」

 21章から続いてきた論争が、ここで終わります。この最後の、しかもイエスご自身からお尋ねになった問いは、ここだけでなく、全ての人にとって非常に大切な問いを教えてくれます。
42「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」
 キリスト教、教会、キリスト者(クリスチャン)にとって「キリストとは誰か」という事を、改めて問われる。私たちだったら何と答えるだろうか。このとても大切な原点を確かめさせていただきましょう。
 「キリスト」とは「油注がれた者」という意味のヘブル語メシアのギリシア語訳です。聖書では王や大祭司、預言者を任命する時、香油を注ぎました[1]。それがやがてメシア(メサイア)と言えば、神がこの世界に遣わす特別な支配者を指すようになり、メシア待望という信仰が生まれました。神がお遣わしになるキリストが来る、そう待ち望む思いが共有されていたのです。
 それを改めてイエスは「あなたがたはキリストについてどう思いますか」と問われます。
42…彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」…
 ダビデは紀元前千年頃の王で、神は彼の子孫から永遠の王が出ると約束されました[2]。マタイの福音書も1章1節で
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」
と書き出すのです。ですからパリサイ人たちがキリストを「ダビデの子です」と言ったのは、それ自体では正しいのです。しかし当時の「ダビデの子」というキリスト理解は、「かつてのダビデの時代を再来させてくれる」という、とても手垢のついた名称になっていました。自分たちが考える王、救い主、昔の栄光の再来という救いを待っていたのです。そういう彼らに対して、
43イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、
44『主は、私の主に言われた。
「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』
と言っているのですか。」

 この詩篇110篇、今日の交読で読んだ詩篇は「ダビデによる」と題がつけられています。旧約聖書では、最初の「主」が太字で「ヤハウェ」を表して、次の「私の主」は自分の主人、主なる神を表していることがよく分かります。ダビデは主(ヤハウェ)が「私の主」=キリストに「わたしの右の座」つまり王子がつくべき座に着くよう言われた、と歌いました。ダビデは、やがて自分の子孫が自分の王座を再建する、ではなく、それは「私の主」と呼ぶ方で、主(ヤハウェ)の王子であると歌っています。パリサイ人が考えた、狭い意味での「ダビデ王の再来」ではないのです[3]。

 私たちも改めて、イエス・キリストは私たちが考える「救い主」よりも大きなお方、「神の子」であることを心に刻みましょう。この詩篇110篇は、新約聖書で他のどの箇所よりも多く引用される、旧約の聖書箇所です。イエスもパウロもヘブル書もペテロも、この110篇を手がかりにしています[4]。イエスはダビデの子であり、主なる神の子、私たちも「私の主」と呼ぶべきお方です。キリストが神の右の座に王子として着いて、悪をも治めてくださる。
 そして、詩篇110篇では、この主は「大祭司」とも言われます。神と民との関係を取り持ってくれるのが祭司です。イエスは、王であり祭司であるキリストです。
 また、110篇の結びには、王が馬の上にふんぞり返ってはおらず、道端の流れから水を飲む、身近で爽やかな姿が描かれました。こうした110篇の描く、支配と執り成しと爽やかさを兼ね備えたキリストこそ、イエスでした。
 パリサイ人たちが思い描いていたよりも、キリストはもっと大きなお方です。思いがけない方です。でもそれは、もっと私たちに遠い、手の届かないという大きさというより、思いがけないほど私たちに近く、思いもつかないほど私たちに深く関わってくださる、という思いがけなさです。人が考える「救い主」とか「救い」を深く新しくして、私の王、私の祭司となり、またここで彼らを教え問われたように、預言者として私たちを教え、気づかせ、育ててくださる。イエスが、王・祭司・預言者として、私たちを治めてくださる。これが救いです。

 今日8月15日は終戦の日です。第二次世界大戦が終わった日。八千万ともされる犠牲者と、ヒロシマとナガサキの原爆を始め、生き残った人もバラバラになり、大きく世界を変えた戦争です。人間の願いが、手段を厭わずに追い求められると、その最悪の形が戦争となります。イエスの時代のパリサイ人や民衆の間に、広く出回っていたのも、戦争による平和でした。ローマをやっつければ平和になる。昔のダビデの時代の繁栄がもう一度訪れれば、幸せになれる。そういう期待でした。
 イエスはキリストがそういう期待とは違う主であることを示されました。イエスはご自分がキリストだと明らかにする前に、
「あなたはキリストについてどう思っているか?」
と問われます。「救い主」と呼ぶならどんな救い主なのか、どんな救いなのかを問われます。それは、ただ昔を美化して、それを再来させてくれる強いリーダーという、人間が思い描きがちな方ではありません。もっと私たちよりも大きな、神の王子です。そして、その力ある方が、状況や敵を変えることも出来るのに、この時もその力に訴えようとはせず、まもなく彼らに捕らえられ、十字架の死、最も卑しめられる一人となられたのです。

 このイエスが、造り主なる神の子であり、祭司である方が、ご自分の命をかけて、最も低くなってくださり、その支配を、その不思議な「救い」を見せてくださいました。戦争や暴力やカリスマ的なリーダーの登場では決して世界は救われないし、そんな力は世界を治めることもないのです。イエスは上からの支配ではなく、下に降りて来られて、いのちを献げてくださいました。その死が復活となり、私たちに死を超えたいのちを見せる力となりました。死よりも強い主イエスの愛を、私たちは戴きました。このイエスが今も私たちを、目の前の人を、世界を不思議にも治めてくださっています。ここに立って、主の平和を味わい、育てていくのです。



「平和の主、イエスよ。私たちをあなたが治め、やがてすべての敵や悪が降伏されるとの約束を今日聴きました。私たちが思うよりも遙かに深く、私たちに身近で、私たちの心を新たになさる主よ。戦争や暴力を終わらせ、恵みならぬものから私たちを自由にして下さい。いのちの尊さを、回復させてください。争いと絶望の中で、呻いているすべての叫びを聴いて、私たちを平和つくりのために働かせてください」

脚注

[1] 大祭司(出エジプト記28:41 これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。)、王(Ⅰサムエル記15:1 サムエルはサウルに言った。「主は私を遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。)、預言者(Ⅰ列王記19:16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。)

[2] Ⅱサムエル記7章参照。(7:12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。)

[3] ローマ1章3~4節「御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」

[4] 詩篇110篇。新約で最も引用されている旧約聖句。本箇所とマルコ12章36節、ルカ20章42、43節の並行箇所は勿論、使徒2章32~35節、Ⅰコリント15章20~25、ヘブル1:13で引用。エペソ1:20,コロサイ3:1、ヘブル8:1、10:12、13、12:2、Ⅰペテロ3:22も。

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2021/8/15 出エジプト記12-15章「モーセ、人々を導く」こども聖書㉗

2021-08-14 12:44:54 | こども聖書
2021/8/15 出エジプト記12-15章「モーセ、人々を導く」こども聖書㉗

 今から3500年ほど前、神様がエジプトの国で奴隷とされていたイスラエル人を、その奴隷生活から解放してくださったことは、聖書の物語にある大きなクライマックスの一つです。エジプトの王ファラオは、「神の子」を自認して、絶対的な権力をもっていました。しかし、本当の神である主は、ファラオよりも遙かに強く、イスラエル人を救い出して、神の民として新しい歩みをくださったのです。これは、聖書を通して、ずっと私たちを励まし、力づけてくれる、すばらしい出来事です。
 しかし、イスラエル人がエジプトから出て行った後、エジプトのファラオや家臣たちはすぐに考え直し始めました。勿体ないことをした、イスラエル人を手放したのは間違っていた、と思ったのです。奴隷にしていたイスラエル人がいなくなって、自分たちが仕事をしたり片付けや料理をしたりしなければならなくなって、嫌気がさしたのかもしれません。エジプト人はイスラエル人を連れ戻して、また自分たちのために働かせよう、と考えてしまったのです。そして、馬で引いた戦車を600台、いやもっとたくさん送り出して、イスラエル人を追いかけていったのです。
 エジプトから出て行ったイスラエルの人たちは、ちょうど葦の海の前まで来ていました。前に道はなく、どう進めば良いのかと思っていた所に、後ろからエジプトの戦車がたくさん押し寄せてきたのです。前は海、後ろは軍隊、どちらにもいけません。挟み撃ちです。そこで人々は、神様に叫んで祈り、指導者のモーセにこう悪態をつきました。
出エジプト記十四11…「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。12エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」
 なんて勝手な言い分でしょうね。しかし、神様はこれを聞いておられました。そして、神は、わざわざ彼らをこの絶体絶命の挟み撃ちの状態に置かれたのです。それは、とても大事なことを人に教えるためでした。神はこう仰っていました。
十四4わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。
 「もうだめだ」-人がこんなふうにしか思えない時にも、神はそこに道を創造するお方です。その事が、この時に明らかにされたのです。ではどのようにしてでしょうか。
21モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。22イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。
 主が言われたように、モーセが杖をもった手を海の上に伸ばすと、海の水が分かれて、道が出来ました。その道をイスラエル人たちは歩いて、向こうまで渡って行けたのです。道のない所に、神は道を作りました。逃れる事が出来ない試練の中で、脱出の道を備えてくださいました。もうダメだとしか思えない時に、神は救いを備えてくださいました。こうしてイスラエル人は、絶体絶命の場所から救い出されたのです。



 しかし、その後を、
23エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入っていった。…26主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」27モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。28水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。
 神が海の中に道を作られたのを、エジプト人も利用しようとしましたが、神はそれを許しませんでした。神のなさることを、悪人がつけ込んでやろうと思う事はあります。でも、決してこっそりと神を欺すことは出来ません。神はちゃんとすべてをご存じです。神は、囚われていた人を解放します。後から、追いかけてくるひとたちが大勢いても、私たちが諦めてしまっても、神を打ち負かすことは出来ません。ところで、この場所は、
出エジプト記13:18「神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。…」
とあり、欄外に「あるいは紅海」と書かれています。この舞台は長く「紅海」、今でも地図にある、広い海で起きたと考えられていました。たくさんの映画で、モーセが紅海を二つに分けるシーンが、大きなクライマックスになります。



 けれども今は、これはもっと北の「葦の海」と理解されています。それは、葦が生えた、紅海よりも浅く、小さな水場です。だとしたら、紅海よりももっと地味なことだったのかもしれません。



 それでもこの出来事が奇蹟であって、神様でしか出来ない力強い解放だったことは変わりがありません。そして、大事なのは、この時にどんなにすごい奇蹟があったかどうかより、このお方が、今でも私たちに働いておられると信じることです。紅海が二つに割れる壮大な光景が起きたと信じながら、今ここで、神が囚われていた人を自由にし、人を束縛しようとする人間を退けられるとは、信じてもいないなら、意味はありません。主は、今もこれからも、卑しめられている人、傷つけられ、悩む人々を憐れんで、不思議な方法で救い出され、偉ぶったり差別したり神に背を向けるひとを打ち負かされます。
 出エジプトは、やがて訪れるイエス・キリストの救いを表しています。小羊の血を流した過越は十字架を表して、葦の海に道が出来た奇蹟はイエスの復活を表していました。復活は、十字架の死が、絶望やおしまいではなく、いのちの証しとなり、永遠のいのちへの道を示した出来事でした。それは、エルサレムの片隅で起きたことですが、私たちの人生を一変させる御業でした。海に道を開き、イエスを死からよみがえらせた方は、この世界の暴力や罪の支配を終わらせるお方。私たちをも導いてくださるお方です。

「世界の造り主なる神、あなたは囚われていたイスラエル人を解放し、奴隷に引き戻そうとするファラオの軍勢を海に放り込まれました。どうぞ、今も私たちの世界に働いて、あなたに背く世界に穴を空け、道を開いてください。また、卑しめられている人を解放して、私たちの冷たい心にも命の道を開いて、私たちを自由に、新しくしてください」
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2021/8/8 出エジプト記7-12章「わざわい」こども聖書㉖

2021-08-07 12:49:09 | こども聖書
2021/8/8 出エジプト記7-12章「わざわい」こども聖書㉖

 神は、今から三五〇〇年ぐらい前、エジプトの国で奴隷として苦しめられていたイスラエル人を、その生活から救い出して、神の民となさいました。しかし彼らを奴隷としていた王ファラオは、簡単に彼らを手放しはしません。イスラエル人を嫌ってもいましたが、彼らの労働力に頼ってもいたので、いなくなられても困るのです。それに、エジプトの王は自分を「神の子」だと言っていました。人間とは違う、神の力があると威張っていました。その自分に、ただの奴隷の一人、モーセが「神様が、イスラエル人を去らせなさいと仰せです」と言ってくるなんて、生意気だ、俺に命じるな、と思ったのでしょう。ですから、ファラオはなかなかイスラエル人を解放しようとしませんでした。

 そこで神はモーセを通して、十の災いをエジプトに下しました。最初は大河、ナイル川が真っ赤に染まる災い。ナイルはエジプトの中央を流れる大きな川。いのちそのものといえ、神の河でした。その河にモーセが手を伸ばすと、川が真っ赤に変わり、飲むことが出来なくなったのです。

 しかし、ファラオはこれでもモーセを認めませんでした。

 次に、神はモーセを通して、蛙を出没させました。町も家も蛙だらけ。これにはファラオも溜まりません。

 ファラオは「やめてくれ。そうしたらイスラエルの民を去らせるから」と言いました。そこでモーセは、主に祈りましたが、蛙が死に絶えると、なんとファラオは、約束を破って、イスラエルの民を去らせることを止めてしまいました。

 その次に、ブヨという小さな虫が群がり、その次には、もう少し大きなアブの大群が襲って来ました。


 するとファラオはまた、「おまえたちを去らせよう。行って良い。私のために祈ってくれ」と言いました。モーセは、それを聴いてこう言いました。
出エジプト八29…「今、私はあなたのもとから出て行き、主に祈ります。明日、アブがファラオとその家臣と民から離れます。ただ、ファラオは、民が主にいけにえを捧げるために去ることを阻んで、再び欺くことなどありませんように。」
 しかし、アブがいなくなると、ファラオはまた、心を堅くし、民を去らせません。次は第五の災いです。動物が病気にかかり、たくさん死んでしまいました。次に動物だけでなく人にも腫れ物が出来る重い疫病がエジプト中を襲いました。


 しかし、イスラエル人は大丈夫です。次の第七の災いも同じです。天から雹(大きな氷の塊)が降ってきました。雹にやられて、エジプト人の畑の麦は、倒されてしまい、収穫できません。しかし、イスラエル人の住む地には雹は降りませんでした。

 ファラオは、またモーセにお願いして、自分が悪かった、主に祈ってくれ、私はおまえたちを去らせようと言います。しかしモーセはこれを聴いても、ファラオの心を見抜いています。祈るは祈ります。
出九30しかし、あなたとあなたの家臣がまだ、神である主を恐れていないことを、私はよく知っています。」
 そしてモーセが祈ると雹は止み、ファラオは矢張り約束を破って、心を頑なにします。次の第八の災いは、イナゴが空を暗くするほど飛んできて地の作物を食べ尽くしてしまうこと、でした。

 この時もファラオは最後には音を上げてモーセに悪かった、許してくれ、祈ってくれと言いますが、イナゴがいなくなると、ファラオは心を頑なにします。

 第九の災いは、三日間、全地が真っ暗になった出来事でした。互いに見ることも、立つことも出来ないぐらい、真っ暗になったのです。

 この後も、ファラオはイスラエル人を手放そうとしません。こうして、とうとうファラオは最後のわざわいを迎えます。

 最後十番目の災いは、エジプト中の長子、最初に生まれた男の子、動物の最初の雄の子が死ぬ、という最悪の災いです。自分が死ぬ、という以上に、つらく、将来も希望も断たれてしまう災いです。

 ファラオはこれを止めることは出来ません。そして、ファラオはこの災いで、大切な自分の長男を失ってから、ようやくモーセに言うのです。
出十二31彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立って、私の民の中から出ていけ。おまえたちが言うとおりに、行って主に仕えよ。32おまえたちが言ったとおり、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」

 ようやくこう言うのです。ようやく、ファラオの頑固な心も尽き果てました。

 ところで、神である主は最初からモーセに、災いを見れば、ファラオもどこかで負けを認めるかもしれない、などとは約束していません。ファラオは、頑固で自分が神だと思っていましたが、その態度を神は放っておくと言っていました。
「わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で行う」 (7:3)
 ファラオの願いを放っておかれたのです。自分が強く、神よりも力があって、神をさえ誤魔化して、欺すことが出来ると考える。それはファラオばかりか、今の多くの権力者も、私たちの中にも実はある思いではないでしょうか。そんなファラオが災いを見ても、なんとかして神に反抗し、少しでも神と取引したり、神の手を煩わしたりしてやろう、と考えたでしょう。

 神はファラオに少しも手を焼いてはいません。むしろ、ファラオは本当に無力で、災いをどうすることも出来ないし、それに対する自分の頑固な反応も、どうにも出来ないのです。自分では神に対抗しているつもりでも、実は愚かで、無駄な抵抗だけ。神だと言いながら、子ども染みた惨めな悪あがきをジタバタしているに過ぎない。そして、思い上がりの先には、自分の大事な子どもさえ失ってしまう。そんなファラオの無力さが、徹底的に浮き彫りにされるのが、この「十の災い」でした。

 世界には、自然災害もあります。食糧や健康が脅かされ、仕事を失ったり、子ども・家族を亡くす悲しい出来事もあります。エジプトのファラオは、イスラエル人の自由や生活、食べ物やいのちを奪って、「自分たちはそんな災いには遭わない」と思い、暴力を続けていました。しかし、誰も「自分は大丈夫」などとは言えません。自分も神ではなく、同じ人間だ。だから、災いや悲しみの中にある人に優しく寄り添うこと、自分の持っているものも神の恵み、贈り物で感謝するべきことなのだ。そう思うのが相応しいのです。神は、人間が神を忘れ、神になっている冷たい世界から、人間を解放し、救出し、心までも新しくしたいのです。それは王様も誰も止めることの出来ない、神のご計画です。

「大いなる力の神様。世界の全てを創造したあなたは、どんな災いもどんな奇蹟も出来ないことはありません。どうぞその力によって私たちの思いと心も新しくしてください。あなたの命のわざを受け入れ、あなたの祝福を分かち合う交わりへと自分を献げます。その御業を阻もうとするすべての悪が御前に平伏し、あなたの民が喜び歌いますように」

今日のイラストの出典元
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