聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

士師記16章「サムソン 『どうぞ私を御心に留めてください』」

2016-05-29 17:47:48 | 聖書

2016/05/29 士師記16章「どうぞ私を御心に留めてください」

 

 今日の説教は「人物説教」です。取り上げるのはサムソン。聖書で最も、人間の「弱さ」というものを教えられる人物です。「強さ」ではありません。「弱さ」です。勿論、サムソンは怪力で知られています[1]。しかし、その怪力サムソンの最後は、デリラという女性に惚れ込んで、自分の怪力の秘密を明かしてしまい、力を失って捕らえられる、呆気ない幕切れでした。怪力で千人にも負けなかったのに、ひとりの女の軽蔑に耐えられませんでした。十六章16節には彼の言葉が嘘だと責め立てられたとき、

「死ぬほどつらかった」

とあります。不死身の戦士かと思われたのに、愛した女性から嘘つきと責められて死ぬほど辛くなり、道を踏み誤ってしまう。何とサムソンは弱く脆い人だったか。何と人間とは弱いものか…と思わされるのです。

 しかし実はこの失態は、サムソンの最初の結婚の失敗と同じパターンでした。十三章で結婚しかけたときも、妻に泣きすがられて、言う必要の無い秘密をバラしていたのです。つまり、怪力サムソンが、最後に悪女デリラに騙された、というオチではなかったのです。最初から、人の非難に弱く、振り回されやすい問題を抱えていたのです[2]。また、彼の短気や怒りっぽさの下には未熟さがありました。彼の外面的な怪力は内面的な弱さ、自信なさの隠れ蓑だったのでしょう。彼が倒した相手が、三十人、三百匹、千人と増えていった事には、エスカレートしていく危険を感じます。大丈夫か、と心配になります。そしてデリラに足をすくわれる直前の、ガザの門扉を引っこ抜いた事件は、全く必然性のないパフォーマンスでしかありませんでした。

 確かに、彼が怪力を発揮する時には、

「主の霊が激しく下った」

と何度も書かれています[3]。でもそれが彼の正しさや信仰を裏付けていたとは限りません。新約でも御霊の賜物が無条件に崇められてはならないとパウロが注意した通りです[4]。「主から遣わされた怪力のヒーロー、サムソン」とは勝手なイメージかも知れません[5]。むしろ、彼は怪力で敵には勝利して、二〇年、イスラエルを治めはしたものの、主に自分を聖別する生き方ではありませんでした。どんなに大勝利をしても自分は弱く渇いた者であることを告白したのは、二〇年間一度きりでした[6]。強さを誇っていても、女性につれなくされたら腰砕けになる弱い内面は、何の成長も解決もありませんでした[7]。その結果、彼は頭を剃られ、ペリシテ人に捕らえられ、目を潰され、牢の中で足枷をはめられて、女のように臼を引き続けたのです。しかしその最後に、引き出されたペリシテ人の前で、見世物になりながら、主に呼ばわります。

28「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」

30そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。

 あの傲慢で、怒りっぽく、負けず嫌いだったサムソンが、最後には、心砕かれた謙虚な祈りを叫びます。力を病的なほどに見せびらかしながら、女からなじられれば死ぬほど辛くて耐えられなかったサムソンが、ここでは自分のいのちを差し出し、自分の分を果たそうとします。サムソンは

「この二つの目のために、もう一度」

と言いますね。彼には他にも多くの失ったものがありました。怪力、名誉、地位、またデリラなど、失いたくなかったものを考えたら、目が見えるなんて事は当たり前すぎたでしょう。しかし、今、彼に特別だった沢山の失ったものを嘆いたり、それらを取り戻してほしいとしたりせず、ただ小さな自分の目のために(あるいはその目の「一つのために」[8])ペリシテ人に復讐したい、と言い、自分も共に死ぬことでよしとしました。彼は最後にようやく、自分を聖別しました。人並み外れた力を振り回して、自分を守ろうとして、心には深い渇きと恐れを抱えていたサムソンが、全てを失った末にようやく自分の大間違いに気づいて、主に祈り求めました。

 それは、放蕩息子が我に返ったような方向転換でした。自分たちを幸せにするのは、お金ではない。力でもない。スーパーヒーローでも、美しい女性でもない。主だけが私たちを満たして下さる神であり、私たちはその方に心から立ち帰り、自分自身を捧げる以外、満たされることはありません。サムソンは最後にそう思い至って、主を呼んだのです[9]。その結果、サムソンは三千人の客がいた宮を崩します。生きている間よりも多くの敵を死に至らせたのです。この打撃は、同胞イスラエル人の生活をある程度は楽にしたに違いありません[10]。これこそ、サムソンが生まれる前に、主が約束されていた彼の使命だったのです。彼の生涯は失敗続きでしたが、その末に主の約束は成就したのであって、決して彼の生涯が「失敗」だったのではない、と私は思うようになりました[11]

 イエスの時代、弟子も群衆も敵たちさえも、イエスに奇跡や軍事的な力を求めました。十字架の死においても、

「神の子なら十字架から降りて見よ」

と言いました。傍らの強盗でさえ、そう詰(なじ)りました。神に力を求め、敵を薙ぎ倒してくれることを期待し、要求するのです。士師記は、サムソンだけでなく、社会全体が主よりも力と繁栄とを追い求めていました[12]。主を喜びとするよりも自分の知恵や力や繁栄を偶像としていました。力さえあれば、自分たちの問題は解決できる。主への感謝や献身よりも、もっと欲しい、少しでも上に立ってみたい。そういう歪んだ基準が産み出してしまった怪物がサムソンだったのかも知れません。私たちもそうではないと言いつつ、力が欲しいものです。お金[13]、技術力、ハイテクの力、何かしら人をアッと言わせたい、無力だと笑われたくない。恥はかきたくない、格好悪いことは隠して、一目置かれたい。そんな力が欲しい。しかしもし力を得たとしたら、幸せになるのでしょうか。いや、力に麻薬のように依存して、ますます心は渇き続け、本当の問題から目を背けたまま、自滅するだけではないかと、サムソンの記事は問いかけてくるようです。[14]

 最後にサムソンが、零落(おちぶ)れた果てに漸(ようや)くではあっても、主に呼ばわって、

…「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。…」

と祈るに至った姿には、イエスの十字架の横にいたもう一人の犯罪人が、十字架に悶え苦しみながらも

「主よ。私を思い出してください」

との尊い告白をした姿が重なります。そう告白させてくださるのが主イエスです。いいえ、十字架の主ご自身にサムソンが重なります。病を癒やし、嵐を鎮め、死人を生き返らせる力をお持ちでありながら、主は十字架に御自分を差し出し、神への生け贄となってくださいました。すべてを手放した献身こそが、私たちを救い、世界を贖う力でした。サムソンも私たちも、この主の愛へと近づけられる歩みを与えられていたのです。神は、今この時代にも働き、私たちをそこに至らせる良きご計画を立てておられます。力や名声を追い求めて、ますます心が渇き荒んだ末、大失敗の人生で終わりそうでも、そこで悔い改め、主を呼び求める者に、主は応えてくださいます。その主を思う時、ないものに憧れる生き方に気づいて恥じ入り、今ある私たちを主に献げる信仰へと変えられたいと願うのです。

 

「力を崇め、ないものに憧れ、誘惑に弱い私たちです。あなたの深い愛によって満たされ、自分自身を献げる以外、命の道はありません。主イエス・キリストの十字架の愛を、サムソンの生涯にさえ見て、御名を崇めます。あなたが私共をも心に留めてくださることを感謝します。そのあなたに自分を捧げつつ、本当の幸いと祝福を噛みしめ、証しする者とならせてください」

鳴門の朝の景色です~

[1] その力は並ではありません。若い獅子(ライオン)を引き裂いた(十四6)のを初めとして、アシュケロンの住民三十人を打ち殺し(十四19)、ジャッカルを三百匹捕らえ(十五4)、腕を縛っていた二本の新しい綱を切り、ロバの顎骨で千人を殺す(十五14-16)、ガザの門扉を閂(かんぬき)毎引き抜き、ガザから60km以上離れたヘブロン付近の山頂まで運びます(十六3。ちなみにヘブロン山は海抜935mという立派な山です。岡本昭世『士師記・ルツ記 新聖書講解シリーズ』280ページ)。また、七本の新しい弓弦で縛られても、未使用の綱で縛られても、糸のように腕から切り落としてしまいます(十六7-12)。

[2] 生まれる前に約束した通り、髪の毛だけは切らなかったものの、本来はナジル人として死体に触れたり、汚れたものを食べることは禁じられているのに(十三4、13。民数記六1-21)、ライオンの死体に触れ、そのからだに蜜蜂が造った蜜を食べて、父母にも分け与え、しかもそれを父と母には黙っていました。これは明らかに最初の約束の違反であり、それを父と母に分け与えて食べさせたことは、エデンの園でエバがアダムに禁じられていた木の実を食べさせたことさえ想起させます。

[3] 十四6、19、十五14。

[4] Ⅰコリント十二-十四章。

[5] 十三章で生まれる前に主の使いが告げていた言葉には、怪力のことなどひと言もなかったのですから。言われていたのは、「今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」(十三章4節、13-14節も)だけでした。つまり、彼ら家族が自分を主に聖別することであって、怪力や働きではなかったのです。

[6] 十五章最後で、千人を倒した後、彼はひどく喉が渇いて「死にそうだ」と主を呼び求めました。主は彼に湧き水を与えて、元気を回復させてくださいました。彼の渇きを満たしたのは、怪力ではありませんでした。喉が渇いて死にそうだという情けない叫びに、黙って応えた主の憐れみが、彼を潤したのでした。しかし、この出来事を含めて、サムソンのさばきつかさとしての活躍は20年続きましたが、彼が主を再び呼び求めたのは、死の間際までなかったようです。その間、彼は自分の怪力に依り頼み、思い上がっていました。

[7] サムソンがティムナの女を娶ったのが三〇代前後として、デリラに惚れ込むのは、五〇代前後ということになります。壮年期の方が、青年期よりも、誘惑に弱くなっている例です。

[8] 十六章28節、欄外注参照。

[9] 一三章のサムエル誕生の告知において、主の使いは御自身を「不思議」と名乗られ、「不思議なこと」をします。それは「子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で主にささげた」あとのこと、「炎が祭壇から天に向かって上ったとき、マノアとその妻の見ているところで、主の使いは祭壇の炎の中を上って行った」のです(士師記一三章18-20節)。彼らの精一杯のささげ物の中で、神の使いは御業をなさいました。その不思議にマノアは「私たちは神を見たので、必ず死ぬだろう」と言います(22節)。これに対して妻は「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のいけにえと穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。…」と答え(23節)、多くの注解者は妻の方が現実的で、主の御心を見抜いていた、と解釈しています。しかし、そうなのでしょうか。サムソンの生涯に「死への恐れ」のモチーフが点在していることと、サムソンの最後が「ペリシテ人といっしょに死のう」という言葉であり、自らをささげ物として、生きている時よりも多くのペリシテ人を道連れにしたことを考えるなら、確かに死の受容は、サムソンの生涯が行き着くゴールだったのです。マノア家族には、主の栄光を見ることはいのちをささげ物とせずにはないという真理を受け取るべきだった、と言えるように思えます。

[10] ですから彼の記録は、丁重に葬られた士師として結ばれるのです。

[11] 士師記には「イスラエルの堕落→他民族による支配→民の悔い改めと主への懇願→さばきつかさによる救済」というパターンがあると言われます。確かにこのようなパターンはありますが、実は、それ自体が崩壊していく、ということにこそ、士師記のメッセージがあるのではないでしょうか。そのパターンに慣れ、真剣な悔い改めなしに、主に叫びさえすれば、社会は回復する、という思考への堕落が糾弾されているのです。

[12] 問題はサムソン一人ではありません。サムソンの両親も、主の御心が十分理解できていなかったことは十三章の誕生記事で明らかです。当時のイスラエルの社会全体が、神の民でありながら、道を踏み外していました。

[13] デリラが約束された報酬は、ペリシテ人の領主から銀1,100枚ずつでした。ペリシテ人には五人の領主がいましたから、銀5,500枚ということになります。単純に今には置き換えられませんが、銀貨一枚5,000円と見積もっても、3千万近くになります。これにほだされない人は希有です。

[14] 力に対する偶像化の危険をよく描いたのは、J・R・R・トールキンの『指輪物語』です。その「一つの指輪」を使おうとするものは、善のためにであっても皆、狂気に捕らわれていくのです。

 

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問18、16「弱くて強いお方」ヘブル7章26-27節

2016-05-29 17:40:31 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/05/29 ハイデルベルク信仰問答1816「弱くて強いお方」ヘブル72627

 

 何年も前に、こんなことを言ってきた方がいました。

 「イエス様は、御自分が死ぬことも惜しくはないくらい私たちを愛していると仰っていたけれど、本当に死ぬことはないのになぁ」。

 私にとっては忘れがたいショックな言葉でした。

 「あなたを愛しているよ。何よりも愛しているよ。あなたのためには、どんなことでも惜しまずにするよ」

とは言っていても、本当にそうするかと言ったら、

 「いや、それは大変だから、もうちょっと楽な違う方法にしておこう」

と答えられたら、どう思いますか。「どんなことでも惜しくない」と言っていたのは嘘だった、と思うでしょうね。

 言葉ではいくらでもいいことは言えます。でもそれが、ただ相手の気を引きたくて、大袈裟なことを言うだけで、本当にそこまでするつもりがないなら、言わない方がいいはずです。神が私たちを愛されているのも、そんな大袈裟なリップサービスではありません。神の言葉には、ただ言葉だけで綺麗なことを並べるだけというものは一つもありません。本気でない言葉は一つもありません。神は本気で私たちを愛しておられます。その事が最もよく現されたのが、神のひとり子であるイエスが、私たち人間と同じようになられた事です。そして、神であり人となられたイエスだけが、私たち人間と聖なる神との間に立って、私たちの救いを成し遂げてくださる「救い主(仲保者)」なのです。

18 それでは、まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲保者とはいったい誰ですか。

答 わたしたちの主イエス・キリストのことです。この方は、完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方なのです。

 先週まで、ハイデルベルグ信仰問答の問15までをお話しして来ました。16をお話しする前に、先に18を読みました。その方がややこしくないからです。イエス・キリストこそ、真の神であると同時に真の正しい人間でもある方で、神と私たちの間に立って、この関係を取り次いで下さるお方だ、といいます。でも、イエス・キリストは「まことの正しい人間」であるとはどういう事なのでしょうか。そこで、16に戻ります。

16 なぜその方は、まことの正しい人間でなければならないのですか。

答 なぜなら、神の義は罪を犯した人間自身がその罪を償うことを求めていますが、自ら罪人であるような人が他の人の償いをすることなどできないからです。

 私たち人間が、神から離れてしまったあり方から、神に立ち戻るためには、神に対する罪の負債を正しく償うことが必要です。でも、私たちには自分で自分の償いをすることは出来ません。神に対する負債は余りにも大きくて、私たちにはどうやっても返す事が出来ないからです。だれかにお願いする、というわけにもいきません。ただイエスだけが、私たちを救うため、本当の人間となってくださって、私たちのための「大祭司」となってくださったのです。

ヘブル七26また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

27ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

 イエスがおいでになる前、聖書には、神殿で「大祭司」と呼ばれる仕事をする人がいたと書かれています。日本でも神社では神主さんが、お寺にはお坊さんがいて、色々な儀式をしてくれますね。でも、ここにはこう書かれています。

「他の大祭司たち(は)まず自分のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる」

んだ。どの祭司も、まず自分自身の罪のためにいけにえを献げていた、というのです。しかも、その生け贄は「毎日」でした。決して、動物の生け贄には、大祭司や民の罪をきよくする力はなかったのですね。毎日毎日、どれほどの動物の生け贄を献げても、罪の解決はなかったのです。でも、キリストはそうではありませんでした。自分の罪のために生け贄を献げる必要はなかったのです。そして、毎日でなく、一度きり、御自分をいけにえとして献げられました。これこそが、十分な罪の生け贄となったのです。そして、イエスは私たち人間の罪を償ってくださるために、私たちと全く同じように、人間となってくださったのです。だから私たちは、もう自分の罪のために生け贄や何かを捧げなくて良い、祭司や儀式や何かまだ足りないものがあるんじゃないかと考えなくてよいのです。

 キリストが、私たちと同じ人間になってくださった。これは、私たちの理解を超えています。でも、キリストは、私たちを愛し、私たちを救うために、本当に私たちと同じ人間になってくださいました。そのキリストは、スーパーマンではありませんでした。人間の姿をしていただけで、実は、人間離れした力や知恵を持っておられたとしたら、本当に人間となったとは言えませんね。罪はない正しいお方ですが、でも、私たちと同じ人間となられたのです。母マリヤの胎で十月十日、揺れていて、そこから生まれ出て来ました。赤ちゃんとして、母のおっぱいを飲み、オムツを替えてもらったり、寝かしつけてもらったりしたでしょう。そして、十字架にお掛かりになる前の活動においても、疲れたり、眠ったりなさいました。食事を食べ、歩いたり、人と話したりされました。神の子イエスだから、誰からも非難されず誤解や悩みもなく生きられたのだろう、と思ったら大間違いです。空を飛んだり、奇跡を起こしたりせず、私たちと同じようになられたのです。だから、イエスは、皆さん一人一人が人間として抱える痛みや悩みも、全部本当に深く味わい知って、言葉だけでなく身を以てご存じなのです。

 この事は、理解し尽くしたり説明したり出来ない、不思議なことです。でも少なくとも、最初に話したように、イエスは私たちと同じ人となり、私たちの代わりに十字架で死ぬ。この最も大きな犠牲を惜しまれなかったのですね。もっと楽で簡単な、手を汚さないで済むやり方でもいいとはお考えになりませんでした。私たちの一番近くまで来られることを惜しまない。

 このキリストは、今も、私たちのことを誰よりもご存じです。私自身以上に、キリストは私を愛してくださっています。どんな犠牲も惜しくないと仰り、本当に私たちの想像以上の犠牲を払って、私たちを救ってくださるのです。私たちの祈りに耳を傾け、毎日、そしてずっと、決して離れずに、一緒にいてくださいます。

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問12-15「神が償ってくださる」ローマ一章1-6節

2016-05-22 20:11:48 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/05/22 ハイデルベルク信仰問答12-15「神が償ってくださる」ローマ一章1-6節

 

 ハイデルベルグ信仰問答の第一部を先週まで見てきました。

第一部「人間の悲惨さについて」

を終わって今日から、

第二部「人間の救いについて」

を見ていきます。今日は、四つの問答をまとめてたどっていきましょう。そして、その結論は、今日の説教題の「神が償ってくださる」という事なのです。

問12 わたしたちが神のただしいさばきによってこの世と永遠との刑罰に値するのであれば、この刑罰を逃れ再び恵みにあずかるにはどうすればよいのですか。

答 神は、御自身の義が満足されることを望んでおられます。ですから、わたしたちはそれに対して自分自身によってかあるいは他のものによって、完全な償いをしなければなりません。

 これは、第一部で私たちが見てきたことですね。正しい神(義なる神)の前には私たちは立ち仰せません。なぜなら、私たちには罪があるからです。神の義は、どんなに小さくても、すべての罪をちゃんと裁かずにはおきません。ですから、その神の義をちゃん満たすために、完全な償いが必要です。ではそれは、誰が償えるのでしょうか。自分自身でしょうか、他のものでしょうか。

問13 しかし、わたしたちは自分自身で償いをすることができるのですか。

答 決してできません。それどころか、わたしたちは日ごとにその負債を増し加えています。

 私たちは自分で、自分の罪を償うことは出来ません。神様にお返しするには、人間は余りにも沢山のものを無駄にしているからです。イエスの喩え話の一つでは、私たちの負債が何億円分、何万年も働かなければ返せないほどであると言われています。しかも、それを返そうとしても、私たちは正しい行いなど出来ず、日ごとにその負債を増やす一方でしかありません。ですから、こういう御言葉もありますね。

詩篇四九7人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。

 8―たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない―

 でも、何度もお話しして来た通り、もう一度繰り返しますよ。罪が大きいとは、私たち人間に価値がないとか、自分はダメな存在だ、という事ではありません。罪とは人間の性質の事であって、価値やアイデンティティの事ではありません。むしろ、人間が神によって造られたかけがえのない存在であり、私たちと神との関係がこの上ないほど尊いからこそ、そこにある問題、負債は、到底私たちに返しきれるほどのものではない、ということです。私たちには、神に対する償いは自分では出来ません。キリスト教以外の宗教は、神と私たちとの関係の問題を、自分の力や行いで解決できると教えます。人間は、自分で自分の償いをするのが誠実なことだと考えます。でも、それは出来ないし、自分で償わなければならないと考えることをまず止めなければなりません。では、自分では出来ないから、他のものに、私たちの償いをしてもらいましょうか。

問14 しかし、単なる被造物である何かがわたしたちのために償えるのですか。

答 いいえ、できません。なぜなら、第一に、神は人間が犯した罪の罰を他の被造物に加えようとはなさらないからです。第二に、単なる被造物では、罪に対する神の永遠の怒りの重荷を担い、かつ他のものをそこから救うことなどできないからです。

 神は愛です。全てのものを愛しておられます。ですから、誰かAさんの償いのために、別の誰かBさんを犠牲にすることは出来ません。なぜなら、神はBさんをも愛しておられるからです。それに、神に対する罪の負債は永遠の重みがありますから、それを担うだけのことは、どんな被造物にも不可能なのです。ではどうすればよいのでしょう。

問15 それでは、わたしたちはどのような仲保者または救い主を求めるべきなのですか。

答 まことのただしい人間であると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわちまことの神でもあられるお方です。

 神に対する私たちの償いは、私たちにも他の被造物にも出来ないから、あらゆる被造物にまさって力ある、まことの神でもあられるお方にしか出来ない。そういうのですね。今日はこの15までにしますが、次の問16以下で、この答の説明が出て来ます。ですから、この答の説明ではなく、今日のポイントを覚えましょう。

 神は義なるお方ですから、私たちの罪の問題は、ちゃんと償いをしなければなりません。でも、それは自分で出来るでしょうか。無理です。では、他の被造物なら? それも神の前には解決策とはなりません。そうすると、残りは、被造物ならぬ、神ご自身によって、償っていただく以外に道はないのです。そして、神は、御自身が私たちの償いをしてくださるのです。それが、イエス・キリストです。今日読んだローマ書で、

一3…御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、

 4聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

とあった通りです。イエスが、私たちの罪を償ってくださるのです。それ以外に、私たちの償いはありません。そして、その償いの務めを、イエスは喜んで、引き受けてくださったのです。なぜなら、神は私たちを愛し、私たちを罪の罰で滅ぼそうとせず、恵みに預からせようと願っておられるからです。

 私たちの中には、いつまでたっても、神に対しても自分で罪を償おうとするような所があります。

「自分の償いがまだ十分でないのではないか?」

「神が私たちを見捨てたり怒っていらっしゃったりするのではないか」

と思い始めます。でも神が求めておられるのは、ちゃんと反省して、真っ当に真面目に生きようと努力する生き方ではありません。それは無理なのです。

 イエスが私たちのために償いを果たしてくださいました。この事実を絶えず受け入れるようにしましょう。イエスの十字架を思い起こしましょう。神が私たちの償いを御自身の側の尊い犠牲で果たしてまでも、私たちを恵みに与らせてくださったのです。私たちはただ、この惜しみない神にひたすら感謝して生きるだけなのです。

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申命記二五章(1~4、13~19節)「落伍者を切り倒すような」

2016-05-22 20:07:29 | 申命記

2016/05/22 申命記二五章(1~4、13~19節)「落伍者を切り倒すような」

 

 ちょうど二十年前の今ごろ、東京で三ヶ月だけスーパーでアルバイトをしました。入ってビックリしたのは数字の操作でした。毎週「三割引の日」があるのですが、もとの値段を普段よりも高く設定して、サービスに見せかける。そんなことばかりで、後味の悪い毎日でした[1]。申命記二五章の13節以下で、大小異なる重り石、異なる測り枡を持ってはならない、「完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない」とあります。賞品を売り買いする時に使う重り石や枡を、二種類持って、得になるようにその二つを使い分ける。そういうみみっちい狡(ずる)を禁じていますね[2]。現代、電子機器や技術が発達して、コンピュータで数字の操作が出来ます。お客の目をちょろまかす小細工は次々考え出されます。最近の大手自動車メーカーによる、燃費データの検査のが不正も、まさにこれでしょう。

16すべてのこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。

1.不正の禁止

 この二五章で扱われているのは、様々な不正、不公正だと言えるでしょう。でも、その具体例が一つ一つユニークです。最初の1~3節では、裁判で争いに判決が下されたとき、有罪の人を鞭打ちにする場合のことが書かれています。その時も、どれほど鞭打たれても良いわけではなく、伏させて、裁定人の前で、罪に応じた回数の鞭打ちに止めなければならない。どんなに多くても、四〇回以上鞭打ってはならない、と言われるのです。私の頭に思い浮かぶのは、昔は、悪い人間が捕まったら、保安官は「好きなようにしろ」と言って立ち去る場面です。後はどれほど鞭打たれようと、拷問のような目に遭おうと、それは自業自得だ、というわけです。しかし申命記はそういうやり方を許しません。彼の前で、犯罪に応じた鞭打ち、それも決して四〇回を越えてはならない、というのです。そしてその理由が、最後に付されています。

 3…あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。

 有罪が決まった相手であっても、「兄弟」と見なせ、というのです。決して「大目に見て許してやれ」とは言いません。「どんな罪でも見逃せ」ではないのです。二二章や二四章で見たように、姦淫や誘拐は処刑なのです。ここでは、そういう重罪や刑事犯でなく、「人と人との間で争いがあり」という民事訴訟です。有罪でも鞭打ちが相応しい争いです。そしてその場合に、感情や怒りに任せて、相手をいくら卑しめて構わないと鞭打ってはならない、と歯止めをかけるのです。相手が自分と対等の人格ある人間だと忘れてはならない。更に、

 4脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。

 臼に繋がれた牛が穀物を踏みながら脱穀をします。踏まれた穀物が臼に入らずに零れるものあるらしいのです。それさえ食べさせまいと牛に口輪(くつこ)を嵌めてはならない、と言うのです。牛にも憐れみを掛けてあげなさい、というのです。使徒パウロは、Ⅰコリント九章でこの言葉を引用しています。それは、自分や教会の教師・伝道者たちが、その働きから報酬を得て、生活を支えられるのは当然であると教えるためでした[3]。そこでパウロはこうも言っています。

Ⅰコリント九9…いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。

10それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。…

 牛のため、以上に、牛にさえ憐れみ深くせよ。同様に、有罪犯さえ過度に卑しめない、袋の中の重り石や測り枡さえ誠実にあろうとする。それは、私たちにとって必要な指導なのです[4]

2.アマレクの記憶を消し去れ

 二五章の最後に、アマレクがしたことを忘れるな、とあります。エジプトを脱出したばかりで疲れている人たちも多かったときに、アマレク人たちがいきなり襲いかかってきました。そして、疲れ切っている落伍者たちをみな切り倒したというのです。何のためにでしょうか。エジプトから出て来て、大したお宝も食料もなかったでしょう。ただ、斬り殺し、弱い者をなぶって倒すために襲いかかった。そういう残酷非情さがアマレク人の精神だったらしいのです。人の命を何とも思わない。弱くて一番後ろから付いていくのが精一杯の落伍者を切り倒して楽しむようなアマレクのあり方を18節で「神を恐れることなく」と言っています。

 しかし、17節では、そのしたことを忘れるな、と言っていますが、19節では、

アマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。

と言っていますね。忘れてはならないのか、記憶を消し去らなければならないのか、どっちなのでしょうか[5]。いくつかの読み方が出来るのだと思いますが、少なくとも「アマレクの酷い扱いを赦せ、水に流せ」ではないはずです[6]。かといって、いつまでも根に持って、恨み続けることは記憶に囚われることになります。しかし、この二五章の流れを考えると、どうでしょうか。裁判で負けた方を、好きなだけ鞭で打ちかねない人間の残酷さと、アマレク人の残忍な虐殺とは無関係なのでしょうか。小さな不正を放っておけば、やがて大きな不正、残虐な殺人や暴力にさえ歯止めが利かなくなるのではないでしょうか。アマレクの記憶を消し去るとは、私たち自身の生活や行動で不正をしないこと、自分の勝手な感情や気分や都合でごまかしたり搾取したりしない生き方を命じているように思えるのです。[7]

 聖書には皆殺しの危険が沢山出て来ますね。エステル記ではハマンがユダヤ人を皆殺しにしようとし、ヘロデ王は二歳以下の男子を皆殺しにしました[8]。教会の歴史は迫害の歴史でしたし、教会がユダヤ人を迫害してきたのも事実です。そして、あのナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺がありました。普通のよき市民が、家では妻や子どもを愛しつつ、収容所ではユダヤ人をガス室に送り込んだ。人間とはそういうことが出来るのだ、とホロコーストは証明してしまいました。アマレクやドイツ人の事ではなく、今の私たちの生活の小さな不正を止める事なしに、アマレクの記憶を天の下から消し去ることは意味がないのだと語られているような気がします。

3.卑しめられないために

 最後にもう一度3節を心に留めましょう。争いで悪かった方で、鞭打ちが相応の人さえ、「卑しめられ」てはならないのです。悪は悪です。罪は罪として報われなければなりません。しかしその報いとは「卑しめられていい」とは違うのです。罪は、人の尊厳を損ないません。私たちが「罪人」だということは私たちの価値が低い、無価値だという意味ではありません。神の目には私たちは高価で尊いと見られています。その尊さを忘れて、虚しい物を追い求めて、罪ある生き方をするのは、勿体ないに違いありません。しかし、だからといって私たちに価値がないのではないのです。どうかすると「自分は罪人だから価値がない」と思うのが信仰的だとか、自分を卑しめなければ傲慢だと誤解される事があります。しかしそうではありません。

 キリストは私たちを尊いと見て下さいました。私たちが弱く、落伍者となっても、主はその私たちを滅ぼされても仕方が無いものとは見做されません。決して卑しめさせたくないと、イエス御自身が人となり、私たちの代わりに鞭を打たれてくださいました。人からの鞭も、私たちが自分で自分を卑しめ鞭打とうとする自虐も、四〇回以下どころ何千回でも、御自身に引き受けて、私たちを回復しようとなさる神です。自分を卑しめる言葉や思いは変えられましょう。自分をも人をも、牛や仕事さえも、神が尊いと見ておられる通りに尊び、喜び、誠実に行いましょう。それこそ、ここで強く命じられて私たちに求められている、神の救いのご計画です。

 

「主よ、あなたが不正を憎まれるのも、私共を祝福に生かすために他なりません。不正が蔓延って、どうせ世界はこんなものだと吐き捨てたくなりますが、あなた様が私共に求められる歩みを聞き取らせてください。あなたは、真実の解放と休息を約束してくださいました。その約束を仰ぐことで、私共が人や自分を貶めず、あなたを恐れ、あなたに倣う者となれますように」



5月は、ヒバリや野鳥のさえずりの季節です。

写真は教会のまわりに多い、イソヒヨドリです。

 

[1] 同じ頃、スーパーマーケットの裏側を暴露した映画が出来たので、それからは随分改善されたとは思うのですが。

[2] こうは言われても、アモス八5、ミカ六10-12で異なるおもりが使用されていることが責められています! 人間の悪、狡は際限がありません。

[3] Ⅰコリント九9以下「モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。10それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。11もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。12もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。13あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。14同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。15しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。」この結論と前後を見ると分かりますように、パウロは教会の働きによって、教職者が生活を支えられることを聖書的な権利と見つつ、コリントでの状況を踏まえたときに、その権利を行使せず、他の仕事をして、自分の生活を維持することを選択していました。

[4] 家畜への親切は、二二6-7や、箴言十二10「正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である」(新共同訳は「神に逆らう者は同情すら残酷だ。」)。

[5] 新共同訳は分かりやすい文章です。「あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。19あなたの神、主があなたに嗣業の土地として得させるために与えられる土地で、あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない。」

[6] 参照、豊田信行『父となる旅路 聖書の失敗例に学ぶ子育て』(いのちのことば社、2016年)、87-90頁。疲れ切って落後していった民を襲って略奪し、切り倒すほどの残虐な行為は、神を恐れぬ行為として厳しく責められます。しかし、その記憶を消し去り、憎しみや怒りの記憶に捕らわれないことも必要です。「記憶を消し去ることを忘れてはならない」であり、「したことを忘れない」とも読めます。

[7] 5節から12節までの「レビラート婚」(ラテン語の「義兄levir」から)や、喧嘩の際の妻による介入については、今回は触れていません。様々な切り口から畳みかけながら、モーセは人の中にある不正や隠し持っているエゴに切り込んで来ます。

[8] 旧約聖書エステル記、マタイ二章を参照。また、旧約と新約の間の「中間時代」には、シリヤの王アンティオコス・エピファネスにより、ユダヤ民族が根こぎにされそうになった歴史もありました。「マカバイ記」参照。

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問11「慈しみと厳しさと」ローマ十一章22-23節

2016-05-15 15:30:23 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/05/15 ハイデルベルク信仰問答11「慈しみと厳しさと」ローマ十一章22-23節

 

ローマ十一22見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたがたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。

23彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。 

 

 「慈しみと厳しさ」。これは二つの違うもののようです。優しさ、親切、温かさとも言い換えられる「慈しみ」と、容赦なく、冷酷で、妥協を許さない「厳しさ」は、どちらかに偏りそうになります。厳しくするか、優しくするか、そのどちらかしかないように思います。けれども、今読みましたローマ書ではそうは言いません。「神のいつくしみと厳しさを」、神は慈しみと厳しさとを両方お持ちです。そして、人は神の慈しみの中で生かされて行くことも出来れば、神に逆らうことも出来る。しかし、神は逆らう者には厳しくあられて、人を倒されますが、そこで不信仰を捨てるならば、また、神の民に継ぎ合わせて戴けるのです。その神の慈しみは、本当に豊かな慈しみです。でも、その慈しみに甘えて、厳しさには目を瞑るなら、本当の神の慈しみも見えなくなってしまいます。けれども私たちは、神の優しさばかりがあって、自分たちのことを大目に見て、罪も見逃してくださって、罰なんか与えず、甘いお方であればと思っているのではないでしょうか。今日の質問も、人間の堕落についての続きですが、こう問いかけます。

問11 しかし、神はあわれみ深い方でもあるのではありませんか。

答 確かに神はあわれみ深い方ですが、また正しい方でもあられます。ですから、神の義は、神の究極の権威にそむいて犯される罪が同じく究極の、すなわち永遠の刑罰をもって身と魂とにおいて罰せられることを要求するのです。

 神は憐れみ深い方ですが、正しい方でもある。罪とは、神の究極の権威に背くことですから、その罰はやはり究極の罰となると言います。すなわち、永遠の刑罰です。それによって、人間の身と魂が罰せられることを、神の義(正しさ)は要求するのだ、というのですね。だから、神は憐れみ深い方なのだから、人間の罪に厳しくするのはひどい、という言い分は止めましょう。神は正しい方でもあるのです。

 でも、ひょっとすると、こんな思い違いをしてしまってはいないでしょうか。神は、憐れみ深い方としての顔と、正しい方としてのお顔と、二つの顔がある。あるいは、優しい顔のお面と厳しい強面のお面と、二つを付けていて、取っ替え引っ替えしておられる、というような、そんなイメージがないでしょうか。もしそうであれば、やっぱり、憐れみの顔だけでいいはずです。怖い顔は捨てて欲しいです。なくてもいいでしょう。

 神の正しさと憐れみとは、そういうことではありませんね。私たちが考える時には、分かりやすくするために、慈しみと厳しさとを区別します。その方が、私たちにとって便利だからです。けれども、本当の所、神の慈しみと厳しさとは神の聖なるご人格の、切り離せない両面なのですね。神は聖なるお方です。素晴らしいお方です。だからこそ、私たちにも素晴らしい成長をお求めになります。神に背いている者にも、神の子どもという関係を下さいます。それは素晴らしい慈しみです。そして、だからこそ、その私たちの中にある罪や良からぬ性質を、ほんの僅かたりとも残すおつもりはありません。間違った考えを握りしめたり、少しぐらいは見逃してよと思ったりする勘違いを止めて、神に従う、伸び伸びとした生き方をさせたいのです。

 人間の社会でもそうですね。いい審判とは、ルールを曲げたり、反則に目を瞑ったりする審判ではありません。選手が必死に抵抗したり土下座して頼み込んだりすれば、審判がルールを変えてくれるようなゲームは、見ていても面白くないでしょう。あまりに厳しければ確かに詰まらないですけれど、しかし、コーチや監督も、みんながルールを学んで守れるようになり、もっともっとそのゲームを楽しめるように育てたいはずです。よい指導者には、慈しみと厳しさと、その両面があるのです。優しいだけで甘やかすなら、結局、人生を楽しむことは出来ないのです。

 イエスを考えてください。十字架でイエスは、私たちの罪を背負って死なれました。その身も魂も、私たちの罪の罰を受けて、苦しみ、打ちのめされて、死なれました。あれが罪の行く末です。イエスの十字架の痛ましさ、想像もしたくない悲惨な死は、私たちの罪の報いです。ですから、今日の箇所は、私たちの身も魂も、永遠の刑罰を受ける、とは言っていません。むしろ、主イエスが身も魂も、永遠の刑罰を身代わりに受けて下さったので、私たちは刑罰から救い出されることが約束されています。これは何と素晴らしいことでしょうか。でも、だからといって、私たちが罪に留まっていてもいい、ということではない。イエスは罪の刑罰から救いたいだけでなく、私たちの生き方を、もっと素晴らしく、正しく、幸せなものとしたいのです。自分勝手に人を傷つけたり、振り回したり、思い通りにしようという生き方を止めさせたいのは当然です。もし私たちが、イエスの身代わりの苦しみを見ながら、自分の罪を握りしめて離そうとしないなら、それはあの十字架の苦しみを踏みつけることでなくて何でしょうか。それは、神の憐れみを求めているのではなく、神の憐れみを踏みにじることです。

 しかし、繰り返して言いますが、ここまでの学びで見てきているように、私たちには自分の力や意志や努力で、正しく生きることは出来ませんね。この問答も、私たちに、神の怒りを恐れて、罪を犯さないように頑張りなさい、と教えているのでは決してないのですね。そんなことは人間には出来ません。ここで言いたいのは、それが出来ない人間に、神は情けをかけて、罰しないことにする、という選択肢はないのだ、というだけです。ではどうしたらいいのでしょうか。それは、次の問12からの第二部

「人間の救いについて」

で扱っていく内容なのです。神は、私たちの罪を憐れんで罰しない、ということはなさらず、私たちの救いについて、イエス・キリストを送ってくださいました。神が備えてくださった救いの方法は、憐れみと厳しさと、両面が現されています。でも、その救いに私たちが与るのは、私たちの努力や実績ではありません。ただ、イエス・キリストにある神の恵みです。神は、恵みによって私たちを救いに与らせてくださいます。神は正しいお方でありますから、自らが私たちの罪と御自身の正しさとの間に橋を架けるため、人間が誰も思いつかなかった犠牲を自ら払ってくださったのです。

 神の正しさがいい加減だとしたら、嬉しいでしょうか。神が悪を裁かず、私たちの心の罪も拭おうとされず、神の御国にも実は沢山の不正が残っていたらいいですか。いいえ、神は正しく、私たちを憐れみ、罪には厳しく報われます。それは、何よりもイエスの十字架にハッキリと現されています。神が義であることを感謝し、賛美しましょう。

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