聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問105「和解の福音」エペソ2章14~16節

2016-02-21 17:21:24 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/02/21 ウ小教理問答105「和解の福音」エペソ2章14~16節

 

 ドイツに行ったある牧師が、招かれた家での食事で、お祈りを捧げた子どもがこんな祈りを聞いたことが忘れられない、というエピソードを言っていました。■「父よ。我らに今日もなくてはならぬものを与えたまえ。日ごとの糧と、罪の赦し」。先週もお話ししたように、「日ごとの糧」と「罪の赦し」は並んで、必要な無くてはならぬものです。今日は朝の礼拝でも「罪の赦し」という福音をお話しして、午後の学び会でも「罪意識は必要?」というテーマで学び、夕拝でも第五祈願から「赦し」の話しをします。

問105 第五の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第五の祈願、すなわち「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しましたから」で、私たちは、神がキリストのゆえに、私たちのすべての罪を、無償で赦してくださるように、と祈りますが、私たちは、神の恵みにより、他の人々を心から赦すことができるようにされているので、なおさらそのように求めることが奨励されています。

 主イエスは、私たちに、このように祈るようにと仰いました。私たちが、祈る度に、主の赦しを頂くように、そして、他の人を赦すように、と御配慮くださいました。これは本当に大きな恵みです。私たちが、赦されて者として、また他者を赦す者として生きる。それは、私たちの内側からは決して出て来ない、神からの恵みの賜物なのです。

 もちろん、私たちが人を赦すことで、天の父も私たちを赦してやろう、と思ってくださる、という事ではありません。人を赦せないなら、私たちのことも赦してはくださらない、なんて筈はありません。そうでないと私たちも、「どうしても赦したくない人がいるから、私のことも赦してもらえなくたっていいや」とやけっぱちになるかもしれませんね。天の父は、私たちに、人を赦すことを「条件」として求めておられるのではないのです。天の父は、私たちの負い目を赦すだけでなく、私たちにも人を赦す者になってほしいのです。赦されて嬉しい、ホッとした、というだけで、人の事は赦せない、腹が立つ、いつまでも怨みを抱いている-そういう生き方から、赦しへと招かれます。

 主の祈りのここで、文語文では

「罪」

というのを、新改訳では

「負い目」

としていますね。「負債・借金」のことです。罪とは、ただ悪いこと、だけではありません。私たちは神から、この身体や、人生、チャンス、能力や時間を、お預かりしているのですね。それを、神の御用のために使うように、とお借りしているのです。それを、私たちが勝手に自分のものにして、違う使い方をしてしまうのが罪です。神に負債を造るのです。しかもそれは決して返せません。ただ、神がその私たちを憐れんで、借金を肩代わりしてくださるのです。決して、ただ帳消しにするのではありませんよ。それは、不正ですからね。そうではなくて、神が私たちに代わって、負債を肩代わりしてくださる。それが、イエス・キリストが人間として、私たちの代わりに、正しく聖い生き方を、完全に果たしてくださって、十字架にいのちまで捧げてくださった御業です。

エペソ二14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、

16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

 ここには、キリストが、十字架の死において、罪の赦しだけでなく、「私たちの平和」となってくださったと言われていますね。人間が、生まれや国や民族が違ったり、戦い合っていたり、ぶつかったり傷つけたり、敵意を抱いたりしている関係から、平和を持ち、互いに和解して、赦し合うようになること。それが、神との和解と結びついています。神とだけでなく、お互いにも和解させることが、十字架の目的だというのです。ですから、イエス・キリストの福音とは、ただ私たちの罪が赦される、というだけではありません。自分が赦されて終わり、というほっぽり出した御利益ではなく、神とも全ての人とも、敵意から和解へ、平和へ、新しい「神の家族」へと導きたいのが、十字架のゴールなのです(エペソ二19)。その手始めとして、私たちは自分の罪が赦される、それもイエス・キリストの十字架によって、完全に赦される恵みに与るのですね。

 けれども、人を赦すというのは、難しいことです。小さなことでも、大きな負債でも、簡単ではありません。悪いことは悪いとした上で、ですが、私たちの心の中で、人を恨んだり憎んだりしないのは難しいことです。でも、その赦すことの難しさに気づくことがあって初めて、自分が赦されることも、当たり前ではないと気づけるのです。赦される事ばかり求めているなら、その有り難みさえ忘れます。戦争や大変な苦しい出来事があった後、教会の礼拝でも主の祈りを祈る時、この第五祈願の所では、「私たちに負い目のある人たちを赦しました」と言えなくて、声が小さくなった、という話しがあります。赦していない自分の罪に気づく時に、赦しを戴くことが簡単ではないと迫られたのです。そして、自分も神に赦してもらったに過ぎない、同じ事をしている者に他ならない、そう気づかされることが、私たちにとって必要なのです。■

 イエスは、私たちが心からの赦しと和解に生きるために、この祈りを教えてくださいました。私たちが自分で憎しみから解放されることは出来ません。イエスが私たちを憎しみや思い上がりから救い出してくださるのです。日ごとの糧を祈り求める前から、毎日の食事や必要が与えられているように、この祈りに先立って、イエスは私たちに赦しを下さり、和解と平和、神の家族の交わりを既に備えてくださっています。実際、犯罪の被害者が犯人を赦したり、殉教者の家族が迫害者を赦したりした事実は、沢山あるのです。そこに向けて、私たちは生かされています。人を赦せないから自分の罪も赦されていないと恐れる必要はありません。十字架によって、既に私たちは完全に赦されています。人を赦せない思いは、赦した振りをしたりせず、その思いこそ、主の前に差し出して、じっくりと解放して戴きましょう。そして、私たちが主の恵みによって、考えられないほどの大きな赦しと和解へと進んで行く途上にあることを信じていきましょう。

 

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ルカ二四章44~49節「高き力が来るまで」

2016-02-21 17:15:17 | ルカ

2016/02/21 ルカ二四章44~49節「高き力が来るまで」

 

 いよいよルカの福音書の締め括りで、イエスがお語りになった最後の言葉として記されている部分をお話しします。主イエスの誕生のクリスマスから、弟子たちを選ばれて、宣教を続け、十字架にかかられて、よみがえられた、その歩みの総括として、イエスはこう仰います。

44さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

 「モーセの律法と預言者と詩篇」というのは、まだ新約聖書が書かれる前のこの時点で、聖書を指す言い方です。聖書の中に、イエスについて書いてあることは全部成就する。そして、

45そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、

46こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

47その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

 こういう復活に至る主イエスのことは、聖書に書いてあるし、その名による知らせがあらゆる国の人々に宣べ伝えられることも、聖書に書かれている。イエスは、この時弟子たちにそう悟らせなさったのです。そして、この宣教の結果、今私たちがここで福音を聞いているのです。

 ここでは、ただ「旧約聖書にはキリストのご生涯の肝心な点が何百年も前から予告されていた、それがそっくり成就した、すごい!」と言っているのではありません。イエスは、神がどのようなお方か、を私たちに最も完全に現してくださいました。イエスのご生涯の苦しみと、その苦しみを経ての復活は、神が人間のためにいつも苦しまれ、痛みを負われ、敗北と見えるほどに謙られることの証しです。そこから回復、再生、新しい勝利の業をなさる真理の、生き生きと体現です[1]。聖書に書いてあるイエスの預言とは、その当時から今に至るまで変わらない、神の謙虚で深いご計画まで視野に入れたものです。決して、今から二千年前のイエスのご生涯の事が予告されて見事に当たっただけではありません。もしそうなら、そんな宣教は、私たちにとって二千年も昔の、遠く掛け離れた話に過ぎません。イエスの苦しみと復活は、神の深い愛と力強い回復の希望とが今の私たちにも届けられている証しです。それが、イエスの名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる、という宣教です。そうです、今も私たちが、自分の罪や、人間の罪がもたらす全ての闇や傷や毒から、「赦される」(救い出され、解放され-復活する)ことを得させるほどの「悔い改め」が私たちに宣べ伝えられていて、また私たちを通して、世界に宣べ伝えられているのです[2]

 「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改め」

の「悔い改め」は、後悔や懺悔とは違います。方向転換を指していて、何よりも神に向かって生きる方向転換です。罪からの悔い改め、以上に、神への悔い改め、です[3]。これを誤解して、クリスチャンの中にも、罪をいつも悔いて、自分を責め、貶めてしまう傾向があります。重箱の隅を突くように自分の問題を論い、責め続けることが罪の赦しに必要-裏を返せば、そうしないと罪を赦して戴けない。そういう説教さえよく聞きます。それは「罪の赦しを得させるのは罪からの悔い改め」という理解です。しかし、そうではないのです。悔い改めは、神への悔い改めです。その時に、罪の赦しも頂けると約束されているのです。私たちは生涯、罪の影響を残しています。怒り、妬み、隠したがるのです。もしそれを、私たちが自分で解決しなさい、悪かったと思い続けなきゃダメだと言うなら、それこそそこには「救い」も「希望」もあったもんじゃないでしょう。そういう「神」は何よりも私たちに罪の反省や謝罪を求められる神です。その反省が不十分だと、赦してもくれない神です。皆さんの中で、自分は悔い改めが不十分だから、罪を赦していただけない、言い換えれば「救われて天国に行けないんじゃないか」と思う事はないでしょうか[4]。今日の箇所は罪の赦しを証ししています。イエスが私たちのために苦しみ、よみがえってくださいました。そのイエスの名に基づいて、私たちには神への悔い改めが宣べ伝えられています。私たちに真剣な反省や謝罪が見られたら罪を赦してやろう、という潔癖な方でなく、私たちの立ち帰ってくることを喜び、待ち構えて、走り寄って受け止めてくださる神です。全ての罪を赦すばかりか、罪の方ではなく神に向かった歩みをさせて下さる神です[5]。神の聖さに触れて、罪に鈍感だった心がもっと自分の罪を知り、謙らざるを得なくなるでしょう。けれども、それで自分を責め卑下するよりも、神に愛されている喜びを増します[6]。まだ地上では罪の思いを引き摺り、失敗をするとしても、それだからこそ一層、キリストの苦しみと復活の恵みに感謝しつつ、励まされつつ、歩ませていただくのです。それを、聖書は約束していたのです。

49さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。

 この宣教そのものも、神の御業です。決して、人間の勢いとか熱心とかによらず、いと高き所からの力、神の聖霊の力を待ちなさいと言われます。こんな素晴らしい知らせなのだから、早く出て行って、宣べ伝えなさい、ではなくむしろ、待ち、信じ、導かれることが大切なのです。聖霊がこの後降ってからも[7]、「使徒の働き」は、神が宣教を導かれることを強調します。熱心な努力より、祈りつつ、神に頼りつつ、苦しみや行き止まりのような時にも神の導きに期待しつつ進んでいきます。神への絶大な信頼故に、喜びに溢れていますが、頑張らない。その姿勢もまた、神を知らずに疲れている世界にとって、福音となるのですね。

 G・K・チェスタトン[8]という英国のキリスト者が「無人島に行くとしたら何の本を持っていくか」と聞かれた時、こう答えたそうです。彼の答えは(聖書ではなく)船の作り方の本でした。確かに、聖書が語るのは、孤独な無人島でも幸せに生きる秘訣などではありません。無人島から船を造ってでも世界に戻り、そこで人と繋がり、神の慰めと回復、罪の赦しを宣べ伝えたい-それほどに、世界には神のご計画があるのだというダイナミックなメッセージです。神は、私たちの孤独や、恐れや絶望、不安をご存じです。大都会にいても、無人島の方がマシじゃないか、死んじゃった方が楽じゃないか、と思いたくなる現実に、深く心を痛められます。ご自身の愛さえ人間が疑って、「祈りが上手でない、信仰が足りない、自分なんか救われなくても文句は言えない」と思い込むのを、恵みの神に向き直って、喜びを与えようとご自身、苦しみを厭われない神です。その福音が私たちに、失敗や痛みを通して届けられ、罪赦された幸いを持たせてくれます。その聖霊によって慰めと力を受ける私たちの存在そのものが、更に私たちを証人とするのです。自分で頑張るのではなく、聖霊が神のご計画を必ず実現なさると信じるのです[9]。心を開いて頂き、この聖書の福音を悟らせ、遣わされていきましょう。

 

「心を開いてください。主イエスの十字架と復活により、罪の赦しを得させる悔い改めが世界に告げられていることを悟らせてください。そこに自分も与っている不思議に日々驚かせてください。自分を責め、赦しの恵みを疑う者を、私たちを赦し、受け入れて離すまいと待ちたもう神へ悔い改めさせてください。聖霊により、喜びに溢れて生きる証し人とならせてください」



[1] 哲学者が論じ、人間が「神の不可難性」「不可受苦性」「絶対他者」などという神観を、根本から覆すのが、聖書の神であり、イエスの復活でありました。これを、理性によって説明し、抵抗のないものにしようとする努力は、最終的には破綻したのです。参照、アリスター・マクグラス『歴史のイエスと信仰のキリスト』(新教出版社)。

[2] これが、「使徒の働き」においても繰り返されている、「聖書に書かれているとおりに、キリストは苦しみ、よみがられた」というメッセージです。使徒二38、一〇43、二六22、23、など。

[3] 使徒二〇21「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」。ここにも、罪からの悔い改め、という以上に、神への悔い改めが明言されています。「罪を犯してゴメンナサイ」ばかりで、神への礼拝、信頼、喜びがなければ失礼でしょう。「罪を犯してしまうから、怒られるんじゃないか」と神の愛を小さく、貧しく、疑っているならば、それこそ神の最も望まないこと、神を悲しませることです。(と言われると、ますます「私は神を悲しませているダメな人間だ」、と思うかも知れません。そこには、神との関係や聖書知識の誤解だけでなく、生まれてからの親子関係や人間関係での傷が大きく影響している可能性があります。であるとすれば、そのような自分の生い立ちに気づき、癒やされていくことを祈り求めることが手がかりとなるでしょう。)

[4] こういう彼岸的な「救い」理解そのものが、問題なのですが、これもまたワンセットの伝道説教でした。

[5] 神が苦しむ神である、というだけでなく、私たちが自己中心で虚栄を求める死の生き方から、自分を与え、神を礼拝し、他者を大切にする生き方、即ち神にならう生き方へと導かれていく。それが福音である。

[6] 「黒崎幸吉氏の「回心」(山本書店刊・昭和四六年)という本があります。高名な聖書学者である黒崎氏が、真の回心をえられたのは、その師内村鑑三からではなく、「同信会に属する一人の年老いたキリスト教の信者と知り合った」ことから始まります(同書35頁)。「彼は教育もろくに受けておらず、読み書きも十分とはいえなかった。しかし彼は日々の糧として聖書を読んでいた。哲学や科学に関して彼は何も知らないが、神の言葉を真理とし、知恵として信じていた。私が自分の救いに確信が持てなかったのに、彼は完全な確信を持って、自分が救われることを堅く信じていた。私にとって、救いに関しては私自身の魂の状態が最も重要なものであったのに対し、彼にとっては、神がおのが独り子を世に与え給うた事実が最も大切なことであった。私はいつも、私の罪の意識に常に心を配ることが有益で、必要なことがらと思っていたが、彼は自分の罪が赦されたことを固く信じ、それに対して感謝の心を持つことが彼の喜びであった。」つまり回心前の黒崎氏が自分のへそを見つめていたのに対し、この老人(注・堀米吉兄-矢内原忠雄夫人の御尊父)は主を見上げて自分を問題としていません。」藤尾正人『胸が熱くなるような』8頁。

[7] 使徒の働き二章。

[8] カトリックの、ジャーナリストであり、小説家。著書に、「ブラウン神父シリーズ」「正統とは何か」など。

[9] この二四章で登場した弟子たちのように、愚かな人、心の鈍い人、信じられない者たちにこそ、主が近づき、その心の目を開き、心をうちに燃やして、聖書を悟らせて遣わされるのです。もっと優秀で、信じやすく、忠実なものではなく、罪の赦しや聖霊の励ましを必要とする者にこそ、聖霊は主の宣教を託してくださいます。ここに希望があります。

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問104「いのちを豊かに下さる主」箴言三〇7-9

2016-02-14 16:34:47 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/02/14 ウ小教理問答104「いのちを豊かに下さる主」箴言三〇7-9

 

 前回まで、主の祈りの最初の三つの願いを見てきました。天の父の御名、御国、御心を優先して祈ってきました。それに続く四つ目から、「私たち」の事を祈ります。

問104 第四の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第四の祈願、すなわち「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」で私たちは、神の無償の賜物の中から私たちが、この世の良きものをふさわしい分だけ受け、それらをもって神の祝福を喜ぶことができるように、と祈ります。

 「私たちの日ごとの糧」という言葉は、原語では「パン」、日本語なら「ご飯」です。毎日のご飯を私たちに与えてください、という祈りです。とはいえ、ご飯を食べている人が全員、主の祈りを唱えているわけでも、日ごとの糧を祈り願っているわけでもありません。こう祈らなければ、日ごとの糧をもらえないわけではないのです。祈る相手の神は「天にいます私たちの父」です。天の父は私たちが祈る前に、私たちに必要なものをご存じであり、私たちを愛して養ってくださっているお方です。ですから私たちがこの祈りを祈るのは、日ごとの糧を頂くためではなく、日ごとの糧さえ神が下さっていることを覚えるためです。食べ物や健康、家や生活、そういうものがあることを感謝しているのでしょうか。食べ物があるのは当たり前、生きているのは当たり前、そう思っているから、もっと違うものを「あれも欲しい」「これも欲しい」と思っているのではありませんか。欲しい物がいろいろあるのが悪いのではありませんが、イエスが仰ったとおり、全世界さえ手に入れたとしても、肝心ないのちが損なわれていれば何の意味もないのです。私たちがいのちを与えられている、今日も食べるものが与えられている。これさえ、当たり前ではなく、「神の無償の賜物」である。そう気づかされるのです。

 「日ごとの糧」は、食べ物に象徴する全ての必要ですね。

問い 「日用の糧」とはどういう意味ですか。 

答え わたしたちのからだを養い、必要を満たしてくれるすべてのものです。 たとえば、食べ物、飲み物、着る物、靴、家、庭、土地、家畜、金銭、財産、善い妻や夫、愛する子どもたち、忠実な雇い人、誠実な指導者、善い政府、好い天気、平和、健康、学問、名誉、良い友だち、信頼できる隣人などです。(ルターの小教理問答)

 食料だけあっても人は生きてゆけません。衣食住が揃ってもダメです。神様が世界の創造のときに、「人がひとりでいるのは良くない」と言われたように、パートナーや家族も必要です。治安も、天候も、名誉や人間関係においても、私たちは養われる必要があります。そうした全てが「日ごとの糧」にギュッと詰まっているのです。

 中には、とても遠慮深くて、自分の毎日の生活の些細なことなど祈るのは申し訳ない、と言う方がいます。自分の詰まらない願いより、もっと高尚なことを祈るべきだ、と考える人が少なくありません。でも、イエス様が教えて下さった祈りは、私たちの毎日のパンさえ、天の父の賜物だと言っています。喜んで私たちのいのちを養い、お世話をして下さっています。ですから、私たちは変な遠慮などせずに、すべての願いや必要を求めたら良いのです。神から離れて、自分が手に入られるものなどないのです。神の恵みによって、いのちが支えられて、毎日を生き生きと楽しみ喜びながら生きていけるようになることを、大胆に、神に祈り求めましょう。

 同時に、私たちは、罪人であり、欲しがる必要のないものを欲しがり、人から奪い取ることさえある事実を知っています。今日の第四の祈願には、

「私たちの日ごとの糧」

とありますね。私たちの分の糧を与えて下さい、という所を、ウェストミンスター小教理問答では

「この世の良きものをふさわしい分だけ受け」

と解説しています。

「私たちの糧をお与え下さい。他の人の分まで盗ったり、本当は良くないものを欲しがったりせずに、私たちに相応しい分だけを下さい」

なのです。泥棒は勿論良くないことです。世界の多くの国を貧しくしているのは、強い国や企業がそこから無理遣り利益を吸い上げているからです。そうして、お金や権力を持つ内に、どんどん人間は背伸びをしたり、豪華な暮らしに膨らもうとしたり、麻薬や武器や犯罪にも手を染めたりしてしまいます。もし私たちが悪いものを欲しがったとしても、それを与えないで下さい。そういう祈りもここにはあるのでしょう。先に読んだ箴言の言葉にはこうありました。

箴言三〇8…貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。

 9私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。

 貧しすぎると、苦しくて心も生き方も廃れてしまいます。豊かすぎても、私たちは神を忘れて、思い上がってしまいます。お金持ちになれたら幸せ、というのは大嘘です。でも、良い暮らしや豊かさが、悪いとか捨てた方がいいとか後ろめたさを覚えるべきことなのでもありません。一人一人が与えられた生活の中で精一杯、感謝して、正しく、賢く生きていく使命があるのです。ここには

「神の祝福を喜ぶことができるように、と祈ります」

とあります。日ごとの糧を与えて下さるのは、天の父の惜しみない祝福です。ただいのちを与えて生かすだけでなく、私たちそれぞれに人生を与え、よいご計画を与えて、私たちを愛される神のご計画があるのですね。私たちが、その神の祝福の中で、喜んで生きるようにするためにこそ、日ごとの糧を下さっているのですね。

ヨハネ十10…「わたしはよい牧者です。…わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」

とイエスは言われました。ただ羊を生かし、飼い殺しにするのではなくて、いのちを豊かに持たせたい。これが、イエスが来られた目的です。私たちが、天の父の豊かな養いに、感謝をもって生きる者となること。神の祝福を喜んで生きる者となること。そのように私たちを養いたいのです。そのために、私たちは多くの「糧」を必要としています。何よりも、御言葉のパンが必要です。聖書を読み、御言葉を学ぶことは、何にも代えられません。でもそれだけではありません。私たちが毎日食べている物、楽しんでいること、生き甲斐を感じること、幸せを感じること。それらすべてが、神の祝福であると気づいて、その喜びの真っ只中で、感謝をすることも、祝福を喜ぶということです。私たちはただパンだけでは生きていけません。食べ物や健康だけではなく、生きる意味や愛や生き甲斐もなければ生きていけません。そして、自己中心な思いで自分を窒息させてしまう罪から清められることも必要です。次の祈りで祈るように、負い目を赦されることも人の負い目を赦すことも、どうしても必要なのです。イエスは、そのように祝福を喜ぶ者へと変えられる人生を、聖霊によって与えて、私たちを生かしてくださいます。

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問103「神の御心は最善で最高」マタイ二六39

2016-02-14 16:31:14 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/02/07 ウ小教理問答103「神の御心は最善で最高」マタイ二六39

 

 主の祈りの六つの願いを一つずつ見ています。イエスは私たちに「天にいます私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と祈りなさい、と教えて下さいました。「父の御名、父の御国」それに続く、今日は第三の願いです。

問 第三の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第三の祈願、すなわち「御心が天で行われるように、地でも行われますように」で私たちは、神がその恵みにより、ちょうど天使たちが天においてしているように、私たちもすべてのことにおいて、神の御心を知り、それに従い、服することができるように、またそう望むようにしてくださるように、と祈ります。

 「御心」とは、「御名」「御国」と同様「あなたの意志(御意志)」という言葉です。神の御意志が行われますように、ですね。私たちは神に、自分の願いや計画を叶えてもらおうとして祈るものです。自分の意志を聞き届けてもらうために祈りがちです。そういう私たちにイエスは教えられたのは、徹底して、「私たちの」ではなく「天の父よ、あなたの御名、御国、御意志が」という祈りだったのですね。私の計画や願いがある時も、逆にそれがダメになりそうで焦っている時も、私たちはその私たちの計画以上に、天にいます私たちの父となって下さった神の御意志がなるほうが大切だ、その大きく確かで素晴らしい神の御意志がなりますように、と祈るのです。

 でも、この願いについては、私はずっとこんな思い込みがありました。

「御心が天で行われているように、地で行われますように、というように、確かにこの地上では、嫌な事や悪いことばかり起きているなぁ。天国のように、平和で楽しくて、素晴らしい事がある世界になりますように」。

 そういう願いがこの意味だと思っていました。しかし、

 …ちょうど天使たちが天においてしているように、私たちもすべてのことにおいて、神の御心を知り、それに従い、服することができるように、またそう望むようにしてくださるように。

 天使たちが天で御心を知り、従い、服し、それを心から望んでそうしている。でも私たちは、神の御心に背を向け、何となく幸せで、苦難や嫌な事がないことを願っているだけなら、それはこの祈りとは全く違うのだ、と気づかされたのです。私たちの中に、神の御心に叶わない願いがあります。神を差し置いて、自分の名声や自分の力や自分の願望を果たそうとする思いがあります。私たちの父となって下さった神の愛を信じられず、疑ったり、試そうとしたりする思いがあります。周りの環境が思い通りにならないとふくれ面をして、「天国が早く来れば良いのに」と思うぐらいなら、天国に行った時に、自分の嫌いな人がいたり、隠してきた自分の問題も明るみに曝されたりしたら、「こんな所に居たくない。地獄の方がいい」と飛び出しかねない。それが私たちです。

 そういう私たちに、イエスは教えてくださいました。

「御心が天で行われるように、地で行われますように」

と祈りなさい、と教えてくださいました。自分の願いや計画ばかりに捕らわれている生き方から、神の御心を第一に願い、それを受け入れ、従い、そればかりでなく、積極的に神の御心を学んで知り、それを行う。それが私たちの人生でありますように、そういう生き方を指し示してくださったのですね。いいえ、ただ教えるだけでなく、イエスご自身の生涯が、御心を喜び、御心に従い、御心を願うものでした。先に読んだように、十字架の死を前にした夜、ゲッセマネで祈られました。

マタイ二六39…「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 十字架の苦しみの恐ろしさ、苦しさ、悲しさを、イエスは正直に祈り、出来るものなら避けたい気持ちも、格好付けずに祈っています。しかし、それ以上に、イエスの願いは、自分の願うようになることではなく、父の御心のようになることでした。それに従って、イエスは十字架に掛かり、私たちのための贖いの業を完成してくださいました。それはその時は逃げ出したいような苦しみでしたが、しかし、天の父の大きな愛のご計画の一部であるならば受け入れて、従ってくださいました。そのための力や思いをも下さることに委ねたのだと言えます。これは、私たちにとって見本でもあります。

 しかし「御心がなりますように」と祈ることは、自分の願いを捧げて、神に服従することですが、決して悪い意味で「諦める」とか「仕方がない」と思うのとは違います。「どうせ私の願いなんか祈っても叶わないんだから諦めよう」と考える人がいますが、そういう思いこそ、神の御心ではありません。私たちの天の父である神の御心は本当に素晴らしく、賢く、恵み豊かです。

 「総合的に見てこれが精一杯の最善」

であるだけでなく、人間には考えつかないほど素晴らしく、絶妙で最高のご計画です。今は分からなくとも、大きなご計画があり、私たちを測り知れない愛で愛し、育て、喜ばせるご計画があるのです。今私たちにはその全体像など見えません。だから、出来ないことに目が行きます。神様がケチだとか、不公平だとか思いたくなります。エデンの園でも、サタンはエバに神が人間の成長を妬んで隠しているのだと唆して、神との大事な約束を破らせました。しかし、それは大きな悲しみの始まりになってしまったのです。

 けれども、神は私たちをロボットのように、間違いなく従うようにとはお造りになりませんでした。考えたり悩んだり、ノーという自由もあった上で、心からの愛で従って欲しいのです。失敗しても良いから、心から、わたしへの信頼をもって従って欲しい、そう待たれているのです。なぜなら、神は天の父として、私たちを愛しておられるからです。私たちは、分からないことを疑ったりせず、聖書にハッキリと教えられている御心に従いながら、見えない神の御心が行われることを求めましょう。神の善き御心を信じる時に、私たちは自分の失敗をクヨクヨ後悔することからも自由になれますね。

 過去を振り返る生き方も、未来に不安を抱くこともなくて済むのは、

「御心が行われますように」

と祈りながら歩む幸せの一つです。そのようにして、私たちが神を信頼し、喜んで神が聖書に教えて下さった御心に従うこと-たとえその時にはどんなに大変で、誘惑があるとしても、御心に信頼して服従すること-こそ一番大事な御心です。天の父の御心は素晴らしく、最善で最高であることを覚えて、私たちも心から祈りましょう。

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ルカ二四章36~43節「イエスは魚を食べられた」

2016-02-14 16:24:28 | ルカ

2016/02/14 ルカ二四章36~43節「イエスは魚を食べられた」

 

 「無くて七癖」と言いますが、皆さんは鯛焼きをどっちから食べますか。頭か尻尾か、お腹か、抑(そもそ)も鯛焼きは嫌いか。鯛焼きと言わず本物の魚でも何でも、食べ方に性格とかその人の為人(ひととなり)は現れるのでしょう。自分の食事にはどんな癖があるんだろうと恥ずかしくなります。

 今日の箇所で、イエスは最後に焼き魚を一切れ召し上がりました[1]。これは、イエスがよみがえられた日の夜の事でした。ルカによれば、復活されたイエスが弟子たちと逢ったのは、この前の二人の弟子たちとシモン・ペテロが先で、その後、全員の前にお姿を現されたのは、この箇所が最初でした。弟子たちが、イエスのよみがえりが本当らしいと、色めき立っている所に、イエスが突然現れて、弟子たちの真ん中に立たれた、というのです。しかし、

37彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。

 彼らは主のよみがえりを受け入れていたのです[2]。それでもイエスを見た時、それが霊であればまだ信じられたのです。声を聞き、手や足を見せ、触らせられても、実感が湧きません。それは不信仰というよりも、嬉しさの余りでした。嬉しすぎて信じられない。そこでイエスがなさったのが、食べ物があるか尋ね、魚を取って召し上がるパフォーマンスだったのです。

 イエスは「信じないとは何事だ」と、不信仰を責めはなさいません。また、先に二人の弟子の前からは忽然(こつぜん)と消えて、ここではいきなり真ん中に立たれて驚かされましたが、もう一度「瞬間移動」するとか、奇蹟でビックリさせるとかもなさいませんでした。墓でよみがえりを告げ知らせた二人の人(御使い)は眩(まばゆ)いばかりの衣を着ていたのですから、よみがえったイエスご自身も眩い栄光を見せて弟子たちを圧倒させることも出来たでしょう[3]。しかし、ここでイエスはそういう威圧的な方法ではなく、ご自分の手と足を見せられ、肉と骨とがあることを語り、それでも信じられなければ、そこにあった焼き魚を召し上がったのです。復活は、確かに超自然的で、栄光のお体ではありましたが、特別で尋常ならぬ遠い存在になられたのではなく、本当に見たり触ったり出来て、食べ物を食べたり、その食べ方を見ればイエスだと分かるような、そんな実に温かい、限りなく親しみをもてるようなお体だったのです。

 37節の

「霊を見ているのだと思った」

とは、思い込んだ、そう見えたという言葉で、ギリシャ語では「ドケオー」と言います。同じ言葉で、イエスも本当に肉体を取られたのではなく、そう見えた(ドケオー)だけだ、という考え方が一世紀には起きていました。そう考える異端を「仮現説」と訳していますが、ドケオーから取って「ドケチズム」と言います。その根底には、私たちの体、肉や骨、傷や苦しみがあったり、食べたり労苦したりする、世界の営みには価値がない、という考え方です。見える世界を軽視する考え方です。こういう考え方に対して、キリスト教は、天地を創造された神や、マリヤの胎から生まれたキリストを告白し、よみがえったイエスへの信仰を宣言しました[4]。「ドケチズム」は間違っているとしました。今日のルカの福音書も、まさしく、イエスが、手や足、肉や骨があり、魚を食べた方であったことを記しています。よみがえられた体は、消えたり現れたり出来る「栄光の体」ですけれど、同時にその手や足はイエスの手や足でした。弟子たちが触(さわ)れるお方、弟子たちと同じように、手や足、肉や骨を持ち、魚やパンを食べられた方の、そのままの復活でした。その差し出された手と足には釘の痛々しい跡があったでしょう[5]。しかし、その傷こそイエスのしるしでした。

39…まさしくわたしです[エゴー・エイミー][6]。わたしにさわって、よく見なさい。…

 その傷つかれた手と足こそ、イエスご自身を示すものでした。その傷は、イエスのよみがえりが、霊や幻や別世界の事ではないことを示しました。イエスは弟子たちの所に来られ、その手や足、傷を見ればイエスだと分かるお方として来られ、その仕上げに魚を食べて、本当に弟子たちと共に生き、食べ、傷つかれたあの生身のイエスである事を示されたのです[7]

 イエスは、霊や幻や、超人的な存在としてではなく、傷ついた体や、魚を食べる様子をもってご自分を証しされました。それと同じように、やがて私たちも、今の生涯で体に刻まれ、染みついてきた癖や傷など、すべての特徴を持ってよみがえるのです。「まさしく私です」「まさしく○○さんだ」と言われるような復活なのです。有り難くない傷もあるでしょう。直したい癖も、消えて欲しい皺もあるでしょう。しかしやっぱり私たちの体や魂に刻み付いたものこそ、「私らしさ」ですし「まさしく○○さん」なのですね。そういう人生の形跡が綺麗さっぱりなくなるなら、誰が誰だか分かりません[8]。私たちはその自分の恥や傷を、人に見せたくなくて隠したがりますが、神様の目には隠せません。そして、何を隠したがるかこそ、私たちの心の姿を現している私たちの正体です。それもまた、私たちの人生の物語を綴っているのです。そして、主イエスは、そうした私たちの見える傷から、自分でも忘れてしまうほど深くにしまい込んだ痛みのために、ご自身がこの世に来られ、十字架にかかってまで苦しみを負ってくださいました。主イエスの手足の十字架の後は、私たちの見える痛みも見えない染みも全てを主が引き受けて下さった傷です。私たちの痛みや絶望が、赦しや恵みや希望に変えられていく接点です。今は苦しく、引きつる部分でこそ、主と出会い、恵みを味わうのです。私たちの痛みは、隠したい恥ではなくかけがえのない物語として、自分自身の一部となるのです。私たちは、傷を隠したり恥じたり、自己憐憫したりもせず、主の赦しと癒やしを頂きながら、分かち合い、受け止め合い、差し出し合うようにと招かれているのです。

 『精神障害と教会』という本を読みました[9]。北海道の過疎地の教会で始まった「浦河べてるの家」の向谷地生良さんが書かれたすばらしい本です。統合失調症や双極性障害、様々な障害を抱えた方が半分以上という教会で、

「地域の中でもっとも困難を強いられている人たちの現実を、教会の現実として共に苦しむ」

というのです。確かに大変で苦しいことですが、問題のある人たちを何とか直してやろう、早く解決して普通にしよう、ではなく、その人の人生や社会の歪みや色々なものがギュッと凝縮された障害を簡単に考えない。その病気を通して人と繋がり、自分を見つめるきっかけになる。回復しようとする深い力を信じ、ともに回復するのだ。こうした苦労と悩みは「負の問題」ではなく

「宝、たくさんの恵み」

だ。障害や傷がある人が、そのままに集まれることにこそ、教会の本来の姿があると問われ、教えられました。

 イエスはまさに人となられました。その傷を、恩着せがましく押しつけたりせず、弟子たちにご自身の痛みを見せてくださいました。驚き恐れ、まだ信じられない不完全な弟子たちに、失望も説教もされず、その前で、傷ついた手で魚をとり、そしてきっと美味しそうに、その魚を平らげなさいました。それは、何と楽しげなお姿でしょう。ここにこそ、まさしくイエスが現されています。イエスは、恐れ疑う弟子たちに喜びの中におられます。傷つき不完全な私たちとともに傷を知る方としておられるお方です。私たちの、この地上の痛みも含めて、他の誰でもない、傷も癖もあるがままの「まさしく私」として回復してくださいます。

 

「主よ。御手と御足の傷こそ、あなたがあなたである尊いしるしでした。そのあなたが、傷や欠けだらけの私たちをもよみがえらせ、まさしく私として、永遠のいのちを下さる、その約束を感謝します。今すでに、あなたの癒やしと回復へ、希望と喜びへと招かれ、飾らない交わりを始めてくださいます。慰め主なる主がおられる幸いな交わりを、ここにも育ててください」



[1] 「魚」五6、9(ガリラヤの大漁の奇蹟)、九13、16(五つのパンと二匹の魚)、十一11(魚を求めるのに蛇を)「魚」というギリシャ語は、後々、キリスト教会の基本的信仰を指す言葉として用いられます。しかし、もしここでルカが、イエスが魚を食べたことにシンボリックな意味を持たそうとしたのであれば、続編の「使徒の働き」にも魚がもっとたくさん出て来そうですが、この箇所がルカ文書での魚の登場は最後です。当時の一般的な食べ物であり、それをイエスが食べられた、という意味はもっと掘り下げても良いでしょうが、魚そのものに象徴や寓意を読むことは無意味です。

[2] 34節「「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。」

[3] 実際、ルカ九29では「…御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。」という「栄光」(同32節)を見せたこともあったのです。

[4] 特に「使徒信条」は、このような「ドケチズム」も含めた「グノーシス主義」という霊肉二元論への反対を意識した内容になっています。

[5] ヨハネ二〇25以下のエピソードでは、疑うトマスが「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言いますが、後日イエスが現れた時、トマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と仰ったことが書かれています。

[6] この「エゴー・エイミー」は、ヨハネの福音書で七回繰り返される重要なキーワードとして有名なギリシャ語です。その元には、神が「わたしは「わたしはある」という者である」(出エジプト記三14)と言われた宣言があります。ここには、ヨハネにおいて展開・発展させられていく、イエスの独自性の宣言が垣間見えます。

[7] 後に弟子のヨハネは、第一の手紙をこう書き出しました。「Ⅰヨハネ一1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」

[8]私たちの傷や皺(しわ)も、私たちがどのような生き方をしてきたかが形になっているのです。勿論、私たちの傷はある意味では癒やされているでしょう。イエスの十字架の釘跡も、もう血を流したり、痛んで立つことも出来かったりするようなダメージはありませんでした。私たちの傷も、もう悲しみや恥ではなくなります。癒やされて、慰められて、だからこそ私たちの地上の人生を刻んできたすべての道筋は、かけがえのないその人の「しるし」として永遠に残るのです。ただの美しさとか外見の格好悪さとか、そういう意味ではありません。むしろ、見た目や自分の楽や得を気にせずに、他者のために労した手や、微笑みを浮かべたり泣いたりして刻まれてきた皺、曲がった手や背中は、神の愛の前にどんなに美しいことでしょう。最も悲惨で痛ましいイエスの十字架が、この時には信じられないほどの喜びをもたらしたように、よみがえりは私たちの美や価値の基準も一新するのです。

[9] 向谷地生良『精神障害と教会』、いのちのことば社、2015年。

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