[1] 「これから私は、とても難しいことをするようにと、あなたにお願いしたいと思います。あなたが神について知っていると思っていることをすべて、いったん脇に置くようにしてください。もちろん、そんなこと不可能だと思われるでしょうし、確かにそうかもしれません。でも、あなたは神について何も知らないのだというふうに想像してみてください。そして今まさにイエスがあなたに向かって、神について、またそのお方がどのようにあなたとかかわりを持つのかについて物語ろうとされていると想像するのです。単純に、しかも先入観なしに、イエスがご存じの神について語られるそのことばに耳を傾けてください。」(ジェームズ・ブラウン・スミス『エクササイズ』131頁以下)と前置きして、今日の箇所、マタイの福音書20章1~15節が読まれるのです。スミスは、神学者エレミアスの言葉を引用します。「イエスの例え話において、最後に雇われてきた労務者たちは一日分の賃金を要求できるような正当な理由など持ち合わせてはいなかった。それにもかかわらず賃金を受け取ることができたのは、一にも二にも雇い主の好意によるものである。このようにして、見たところささいな記述の中で、「「(行いに対する)報いという世界」と「(神からの一方的な)恵みの世界」、すなわち律法と福音という二つの世界の間に横たわる違いが対比されるのである。……さて、あなたは神の気前よさに対して不平をつぶやくだろうか。気前の良さこそ、福音に関するイエスの弁明の中核にあるものである。すなわち、「神がどのようなお方であるかをご覧なさい。そのお方こそまったきよいお方なのですから」。」(134-135頁)。また、次のような引用文も印象的な注解です。「イエスは要求なさる神ではなく、与えてくださる神を啓示なさった。すなわち、そのお方は抑圧なさるのではなく、引き上げてくださるお方であり、傷つけるのではなく、癒やしを与えてくださり、非難なさるのではなく赦してくださるお方である」(ブレナン・マニング)」
[2] 「相当の」ディカイオス 正しい 「不当なことアディコー」 4節「相当のディカイオス」と対応しています。ここでの労働者は、暑さの中で、不当に安い賃金で働かされたり、無償の奉仕を強いられたのではありません。働ける者には、正当な賃金が払われています。しかし、働けない者にも、同じだけを与えたい、というのがこの主人(天の御国)のあり方であり、それに対して不満を言う人間の心は神の心から離れているのだと浮き彫りにする譬えなのです。
[3] 13節の冒頭には「友よヘタイロス」と呼びかけられています。これは、マタイで度々出てくる、敵対者に対する、和解と気づきの呼びかけです。22:12、26:50。
[4] 14節「帰りなさいヒュパゴー」は、4,7節の「行きなさい」と同じ言葉です。「帰れ!」と追い出したのではありません。
[5] 20節の欄外注にあるように「あなたはねたんでいるのですか」は直訳すると「あなたの目が邪悪なのですか」という言葉です。(6:23「目が悪ければ」)。目が悪い、とは悪意がある、というよりも、神の良さ(恵み深さ、気前よさ)を理解できない「悪さ」です。私たちは良いにつけ悪いにつけ何かあると「きっと何か理由があったのだ」という目で見てしまいます。神の恵みより、神抜きの「因果応報」で考えるなら、そこにも注がれる、神の大きな恵みを妬んで、妨げてしまいます。
[6] 19章30節(しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。)と20章16節(このように、後の者が先になり、先の者が後になります。)は、厳密には違いがあります。順番の前後、「多くの」の有無。その違いはそれぞれに味わってくだされば良いと思います。
[7] 10節の「思う」ノミゾーは「合法だと見なす」の意です。5:17「律法を廃棄するために来たのだと思ってはいけません」、10:34「平和をもたらすために来たのだと思ってはなりません」。神の「相当・不当ディカイオス」と、人間の「合法ノモス」との違いが浮き彫りになります。
[8] 「辛抱した」バスタゾー 3:11、8:17(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちの煩いを担い、私たちの病を負った。」)
[9] でも、そんな理由捜しの説明では人の命も人生も測れないものです。後の者が先になり、先の者が後になる。報いという物差しでは間に合わない展開があります。神ご自身が、この世界をそんな園としてお造りになりました。楽な楽園ではなく、ともに労苦して、邪さで目が曇っている私たちは、生涯、後になり先になりを繰り返します。恵まれては勘違いして高ぶり、人と比べては蔑んだり妬んだり、不満でふくれ面をし、恥をかいてイジけて自己卑下し…。でもその私にも「同じだけ与えたい」という御声を聞いて、神の恵みに心砕かれ、でもまた自惚れて…を繰り返すのです。そういう私たちにも、主は確かに気前よく、惜しみなく、十分に働いて、恵みを現してくださるのです。
[1] キリストがお生まれになったクリスマスの出来事も、十字架と復活も、一度きりの決定的な出来事であったように、聖霊が下られた出来事も決定的な出来事です。
[2] ローマ書、1:4、11、2:29、5:5、7:6、14と御霊に触れてきて、8章で二〇回近く多用。既に御霊を受けている、という大前提。御霊が働かなければ、信じることも、良心を刺されることも出来ない。
[3] うめき(シュテナグモス) 8:22(シュステナゾーともにうめく)、23(シュテナゾー 使徒7:34とここのみ)
[4] 22-23節にも「私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。23それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」とあります。この世界が、苦難(18節)や虚無(20節)滅びの束縛(21節)に苦しんで、将来の栄光(18、21節)を待ち望む途上にある以上、苦難がないとしても、私たちはうめきを持っています。
[5] 「言葉にならない呻き」は私たちのとも御霊とも取れます。
[6] この八章には「ともに」が繰り返されます。16節(御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。)、17節(子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。)、22節(私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。)、24節(私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。)、28節(神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。)、29節(神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。)、32節(私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。) 24節の「望みとともに」以外は、動詞に接頭辞スンがついた複合動詞です。24節だけは、名詞の与格を訳したものです。他にも、「ともに」という意味合いでの与格や、そもそも聖霊の働きそのものが「ともに」である、神ご自身が「ともにいます(インマヌエル)」と名乗られるお方であることを考慮すると、スン以外にも神の臨在が溢れている八章だと言えましょう。
[7] …聖霊がわたくしの心の中でわたくしの弱さを助けたもうのに、二種類の仕事があって、ひとつは、わたくしの心の中で言うに言えない「うめき」がある、そのうめきを使って神様に訴えてくださることと、第二に、聖霊がわたくしの心の中に「神を愛する」愛情を育ててくださることによって、「万事を益となるようにして下さる」のだと思います。/…その同じ聖霊が、またわたくしたちの心を「神を愛する」愛情に燃え立たせてくださることによって、“すべては善し”と告白できるように変えてくださるのだと思います。本人がよいとも思わないのに、客観的にだけ物事を万事よいように取り計らって済ますということはあり得ない。本当に究極的な幸せというのは、もちろん初めは本人はそれを自覚しないかもしれませんが、ついには本人も“これがよい”という、心からの神への愛、感謝、満足が本人の心に芽生えない限り、万事が益になったとは言い切れないですね。ですから、パウロは、それを「聖霊が、神を愛する者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」のだと、こう言っているのではないでしょうか。/すべてのことが益になりますのは、そのように、わたくしたち自身の心の中に「神を愛する」という思いが芽生え、神への愛にわたくしたちが生きている中で初めて、わたくしの身の回りの人生のさまざまな出来事が積もり積もりめぐりめぐって結局幸せになっている、と言えるのでありまして、神を信じてもいなければ神に向かってつぶやいているような人に、万事が益になるわけはありません。」榊原康夫『ローマ人への手紙講解3』、138~139頁。
[8] 8章18節「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」