聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/5/30 創世記24章「イサクとリベカ」こども聖書⑯

2021-05-29 12:16:54 | こども聖書
2021/5/30 創世記24章「イサクとリベカ」こども聖書⑯

 今日のタイトルは「イサクとリベカ」です。アブラハムの息子イサクは、リベカという女性を妻としました。そのリベカを迎えるため、アブラハムのしもべが「嫁捜し」の旅をした出来事が、今日の創世記24章です。そのしもべの名前は分かりません。名前の分からないしもべが、遠くアブラハムの故郷まで旅をした出来事を伝える創世記24章は、四頁半もあります。創世記の中でも最も長い24章。創世記の丁度真ん中にあり、無名のしもべの旅をじっくりと伝える24章です。この章は、名もないしもべの旅を通して、私たちにも、神が導いてくださる方であることを、語ってくれる章なのです。
1アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。2アブラハムは、自分の全財産を管理している、家の最年長のしもべに、こう言った。……4あなたは、私の国、私の親族のところに行って、私の息子イサクに妻を迎えなさい。
 アブラハムのいた地から、故郷アラム・ナハライムまで、750kmほどの旅です。富士山から広島ぐらい、鳴門からなら東京を超えて茨城県の向こうまで、ラクダで旅をする大旅行でした。今よりももっと危険で、一ヶ月はかかったでしょう。そうして、しもべは目的の町につきました。そして、井戸のそばにラクダを伏させて言ったのです。
12…「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。13ご覧ください。私は泉のそばに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出て来るでしょう。14私が娘に、『どうか、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください』と言い、その娘が、『お飲みください。あなたのらくだにも飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたが、あなたのしもべイサクのために定めておられた人です。このことで、あなたが私の主人に恵みを施されたことを、私が知ることができますように。」
 何て都合の良い祈りでしょう。こんな事を神様に突きつけるなんてどうなんでしょう?決して皆さんは、こんな真似はしないでほしい、とも言いたくなります。ところが、
15しもべがまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはミルカの子ベトエルの娘で、ミルカはアブラハムの兄弟ナホルの妻であった。16この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。
 願っていた通りの女性、しかも、アブラハムの親戚の美しい娘が、そこに来たのです。
17しもべは彼女の方に走って行って、言った。「どうか、あなたの水がめから、水を少し飲ませてください。」18すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。ご主人様」と言って、すばやくその手に水がめを取り下ろし、彼に飲ませた。
 そしてこの後、ラクダにも飲ませましょうと言ってくれます。十頭の駱駝に水を飲ませるのはとても大変で時間もかかることだそうです。それをリベカはしてくれました。最後に彼女がアブラハムの親戚でも分かると、しもべは跪いて、主を礼拝して、
27こう言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。主は道中、この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで。」
 こうしてしもべは、リベカの家に行きます。そして、夕食を出されても、それをいただく前に、リベカの家族にこの旅の目的を話すのです。彼らの親戚アブラハムが、主の大いなる祝福によって豊かに富んでいること、年を取ってから初めての子イサクが与えられたこと、そしてこの遠い旅を命じて、親戚からイサクの妻を迎えるよう命じたこと。そしてさっきの、井戸端で自分が祈ったら、話し終わる前にリベカが現れて、願い通りにラクダにまで水を飲ませてくれたこと、そうしたすべてを伝えたのです。すると、
50[兄]ラバンと[父]ベトエルは答えた。「主からこのことが出たのですから、私たちはあなたに善し悪しを言うことはできません。51ご覧ください。リベカはあなたの前におります。どうぞお連れください。主が言われたとおりに、あなたのご主人の息子さんの妻となりますように。」
 こうしてリベカは、翌日、しもべとともに旅に出発し、イサクの妻となったのです。
 この話に、神様は直接は登場しません。確かに大きな旅でしたが、そこで特別にドラマチックな出来事や奇蹟があったわけではありません。私たちの生活や、どの夫婦のなれそめにも、多少はこんなドラマはあるものです。しかし、ここでしもべは、神が導いてくださったことを確信しています。主が恵みをまことを施してくださった出来事だと言っています。主がこの旅を成功させてくださったのだ、と確信しています。それを聞いたリベカの家族も、これが主から出たことだと疑わずに受け止めています。そうして、イサクとリベカは結婚して、アブラハムの祝福の約束が受け継がれていったのです。その先の子孫たちも、聖書の民の歩みも、教会の私たちの歴史も、この地味なようで、ユーモアも鏤められているドラマを重ねながら、今日に至るまで進んできました。そして、これからも、主が私たちを導いてくださいます。私たちは、どんな所にも、その主の導きを信じて、見ていくよう招かれています。
 そこに神はハッキリと見えないことの方が多いでしょう。「神がいるなら、もっと違う事になるはずだ」と言う声は沢山聞きます。でも今日の箇所が教えるように、これこそが、神の導き方なのです。そっと偶然を装ったり、長い旅を支えたりしながら、神は私たちを出会わせてくださいます。人が水を汲むような労苦を通して、人と人との間に信頼を与え、新しく何かを始められるのです。だから、私たちも自分の小さな仕事を大切にします。しもべはそのように生きましたし、リベカの家族にもこう言いました。
49それで今、あなたがたが…恵みとまことを施してくださるなら、…」
 しもべは、主の恵みとまことだけでなく、リベカの家族にも、恵みとまことを施すよう呼びかけるのです。
 主が恵みとまことを施し、私たちを祝福してくださる。私たちの生活の中にも、神はこっそり働いています。輝いて賛美されるような派手なあり方ではなく、ささやかな、笑ってしまうような小さな形で、神は私たちの歩みを導いてくださっています。その主の業を、振り返って見る目を戴きましょう。私たちが旅を続け、過去を離れ、新しい道へと踏み出す、すべてに、恵みとまことに富む主はともにおられます。だからこそ、私たちはその導きに相応しく、生きていこうと願えるのです。

《祈り》詩篇二三篇

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2021/5/30 マタイ伝20章1~16節「気前が良すぎる神」

2021-05-29 11:40:40 | こども聖書
2021/5/30 マタイ伝20章1~16節「気前が良すぎる神」[1]

 1天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
と始まるこの譬えは、朝早くからぶどう園で働いた者も、9時や12時、3時、最後の5時から一時間だけ働いた人も、同じ日給をもらった、という話です。
 「一デナリ」は当時の一日分の労賃と欄外にもあります。一日中働いて一デナリ、というのは安すぎたわけではありません[2]。後から働いた人が、一日分もらったのは気前が良すぎるにしても、朝から働いた人が損をした、という事ではないはずです。それでも、この話を読むとなんとも腑に落ちない、不公平な思いをして、11節12節で不満を言う声に同意したくなる、という人が多いのではないでしょうか。感謝すべきことに、その人たちのためにこそ、イエスはこの譬えをお語りになったのです。
 この譬えの前、19章の後半には、
「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」
と尋ねて来た青年の話がありました。イエスは彼に、ただお一人の
「良いお方」
を語り、すべてを献げて、ご自分に従って来なさい、と仰いました。青年は、その言葉を聞いて悲しみながら去って行きましたが、それを聞いていた弟子たちが今度は27節で、
「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。…」
と胸を張ります。イエスは、28~29節で、彼らに豊かな報いを語った上で、30節で言います。
30しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。
 こう言って今日の譬えが語られます。その最後14、15節で主人(天の御国)は言います[3]。
この最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。15自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。
と[4]。欄外にあるように「気前がいい」は「良い」です。あの青年も弟子たちも、自分が良いことをする報いを期待したのに対して、イエスは、良いお方を語ったばかりか、神の国そのものの気前良さを語るのです。それは、最後に一時間だけ働いた人、それまで誰にも雇われなかった人、理由はどうあれ、必要とされなかった人にも同じだけ与えたい。それが天の御国なのです。私がどんな良いことをした、よりも先に、神ご自身が良いお方、天の御国の良さがあります。余りに気前が良すぎるので、人間の「報い」の目には入りきれず、不満を言いたくなるほどです[5]。だから、この譬えの最後にもう一度、直前と同じ事が繰り返されます[6]。
二〇16このように、後の者が先になり、先の者が後になります。
 自分は先にイエスの弟子になり、すべてを捨てて従って来ました、などと誇る人は最後に呼ばれる。それどころか、そんなやり方に文句を言い始めて、窘められる。御国の心とは反対だったことが暴露される。そういう逆転が起きる、というのです。神ご自身の良さ、良くしたいという惜しみない心が分からず、忘れたり信じられなかったりして、人間は「報い」ですべてを考えます[7]。そしてお互いに競ったり、努力や成果を比べたりします。私の努力の以前に、私が最後の人であったとしても神は最初からの人と同じだけ与えたいと願って下さっている、という恵みが土台です。だからこそイエスは、気前の良すぎる神を語るのです。そして、私たちはそれを忘れて自惚れて、先の者だと思っていたら恥をかいて、最後だと思っていじけていたら思ってもいない祝福を戴いて、を繰り返すのでしょう。そうして、報いや誇りを超えた、神の惜しみない気前よさこそが、私たちを支えているのだと、気づかせてもらい続けるのです。
 では「それならそもそも働かなくてもいいのか、働くのは損だ」ということなのでしょうか。譬えの最初に戻りましょう。
天の御国は、自分の葡萄園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです」。
 大金持ちで面倒なことは家来に任せて、朝も寝坊し、王宮でのんびりご馳走を食べ遊び暮らす王、ではなく、葡萄を育て、自分一人では管理しきれないほどの農園で働く者は何人でも一デナリで働いてもらおうと、朝早くから歩き回り、一日に何度も市場や町中を訪れて、立っている人に声をかける、物好きな主人です。葡萄作りが好きな農園主が、その作業の、大変だけれどもやり甲斐のある作業に大いに人を招きたい、一緒にこの作業の苦楽をともにして最後は収穫の喜びをともにお祝いしたい。出来る人には朝早くから、それが出来なくても最後の僅かな時間だけでもこの作業に加わってほしい。葡萄園にも、出会う人々にも惜しみなく与えたい農園の主人。それが天の御国だと、イエスは大胆にも仰る。
 御国は、良いことをしないと入れないどころか、天の御国の方から私たちを捜し、気前よく仕事も労賃も十分に与えて、その働きに巻き込んでしまう国です。先の者が後になり、後の者が先になる。朝早くから労苦と暑さを辛抱したり[8]、夕方まで誰にも雇ってもらえなかったり、約束通りなのに文句を言われたり[9]。そうした説明のつかないゴタゴタした事情をすべて引っくるめて、葡萄畑の仕事に招いて、一人一人に十分な報いを与えたい。それが神の国なのだ。
 こう語ったイエスこそは、ご自身から人を捜して歩き回り、労苦と惜しまず、焼けるような暑さの中で十字架にかかってくださった。それでもまだ気前よさはつきず、私たちに尊い働きも十分な報いも与えてくださるのです。そう、報いは十分に与えられます。でも、報い以前に、与えたい、一緒に働こう、と気前よく、惜しみなく願ってくださる神がおられるのです。

 その神が、ご自身の葡萄園であるこの世界を育てる働きに、私たちも巻き込んでおられるのです。

「惜しみない恵みの主よ。あなたは私たちに、命も働きも、喜びも報いも、それぞれに気前よくくださいました。あなたの良さを忘れて、自分の働きばかりを考える貧しさを、どうぞ笑わせてください。そして、与えられたあなたの業の一端を担う働きを支え、十分な報いをもって励ましてください。あなたが一人一人それぞれに、違う働きを担わせています。それぞれに豊かな報いを与え、私たちがともに労い合い、祝福し合い、毎日を終える歩みをお恵みください」


※ 葡萄園のすばらしい画像は、こちらのリンクから拝借しました。

脚注

[1] 「これから私は、とても難しいことをするようにと、あなたにお願いしたいと思います。あなたが神について知っていると思っていることをすべて、いったん脇に置くようにしてください。もちろん、そんなこと不可能だと思われるでしょうし、確かにそうかもしれません。でも、あなたは神について何も知らないのだというふうに想像してみてください。そして今まさにイエスがあなたに向かって、神について、またそのお方がどのようにあなたとかかわりを持つのかについて物語ろうとされていると想像するのです。単純に、しかも先入観なしに、イエスがご存じの神について語られるそのことばに耳を傾けてください。」(ジェームズ・ブラウン・スミス『エクササイズ』131頁以下)と前置きして、今日の箇所、マタイの福音書20章1~15節が読まれるのです。スミスは、神学者エレミアスの言葉を引用します。「イエスの例え話において、最後に雇われてきた労務者たちは一日分の賃金を要求できるような正当な理由など持ち合わせてはいなかった。それにもかかわらず賃金を受け取ることができたのは、一にも二にも雇い主の好意によるものである。このようにして、見たところささいな記述の中で、「「(行いに対する)報いという世界」と「(神からの一方的な)恵みの世界」、すなわち律法と福音という二つの世界の間に横たわる違いが対比されるのである。……さて、あなたは神の気前よさに対して不平をつぶやくだろうか。気前の良さこそ、福音に関するイエスの弁明の中核にあるものである。すなわち、「神がどのようなお方であるかをご覧なさい。そのお方こそまったきよいお方なのですから」。」(134-135頁)。また、次のような引用文も印象的な注解です。「イエスは要求なさる神ではなく、与えてくださる神を啓示なさった。すなわち、そのお方は抑圧なさるのではなく、引き上げてくださるお方であり、傷つけるのではなく、癒やしを与えてくださり、非難なさるのではなく赦してくださるお方である」(ブレナン・マニング)」

[2] 「相当の」ディカイオス 正しい 「不当なことアディコー」 4節「相当のディカイオス」と対応しています。ここでの労働者は、暑さの中で、不当に安い賃金で働かされたり、無償の奉仕を強いられたのではありません。働ける者には、正当な賃金が払われています。しかし、働けない者にも、同じだけを与えたい、というのがこの主人(天の御国)のあり方であり、それに対して不満を言う人間の心は神の心から離れているのだと浮き彫りにする譬えなのです。

[3] 13節の冒頭には「友よヘタイロス」と呼びかけられています。これは、マタイで度々出てくる、敵対者に対する、和解と気づきの呼びかけです。22:12、26:50。

[4] 14節「帰りなさいヒュパゴー」は、4,7節の「行きなさい」と同じ言葉です。「帰れ!」と追い出したのではありません。

[5] 20節の欄外注にあるように「あなたはねたんでいるのですか」は直訳すると「あなたの目が邪悪なのですか」という言葉です。(6:23「目が悪ければ」)。目が悪い、とは悪意がある、というよりも、神の良さ(恵み深さ、気前よさ)を理解できない「悪さ」です。私たちは良いにつけ悪いにつけ何かあると「きっと何か理由があったのだ」という目で見てしまいます。神の恵みより、神抜きの「因果応報」で考えるなら、そこにも注がれる、神の大きな恵みを妬んで、妨げてしまいます。

[6] 19章30節(しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。)と20章16節(このように、後の者が先になり、先の者が後になります。)は、厳密には違いがあります。順番の前後、「多くの」の有無。その違いはそれぞれに味わってくだされば良いと思います。

[7] 10節の「思う」ノミゾーは「合法だと見なす」の意です。5:17「律法を廃棄するために来たのだと思ってはいけません」、10:34「平和をもたらすために来たのだと思ってはなりません」。神の「相当・不当ディカイオス」と、人間の「合法ノモス」との違いが浮き彫りになります。

[8] 「辛抱した」バスタゾー 3:11、8:17(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちの煩いを担い、私たちの病を負った。」)

[9] でも、そんな理由捜しの説明では人の命も人生も測れないものです。後の者が先になり、先の者が後になる。報いという物差しでは間に合わない展開があります。神ご自身が、この世界をそんな園としてお造りになりました。楽な楽園ではなく、ともに労苦して、邪さで目が曇っている私たちは、生涯、後になり先になりを繰り返します。恵まれては勘違いして高ぶり、人と比べては蔑んだり妬んだり、不満でふくれ面をし、恥をかいてイジけて自己卑下し…。でもその私にも「同じだけ与えたい」という御声を聞いて、神の恵みに心砕かれ、でもまた自惚れて…を繰り返すのです。そういう私たちにも、主は確かに気前よく、惜しみなく、十分に働いて、恵みを現してくださるのです。

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2021/5/23 創世記22章「アブラハムとイサク」こども聖書⑮

2021-05-22 12:55:06 | こども聖書
2021/5/23 創世記22章「アブラハムとイサク」こども聖書⑮

 聖書の人物を遡ると、アブラハムという一人の人に行き着きます。神が、この世界の救いのために選ばれたのがアブラハムでした。このアブラハムが、神に呼ばれて旅を始めたのはもう75歳の時で、その時はひとりの子どももいませんでした。しかし、後に神様はアブラハムに一人の子どもを授けてくださいました。それが、イサクです。
 アブラハムと妻のサラは高齢になって授かったイサクをどんなに可愛がったでしょう。神が与えてくださった、祝福の子ども。ところが、神は信じられないことを仰います。
創世記22章1節
これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。2神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
 なんと、神はアブラハムに、ひとり子イサクを、全焼のささげ物とせよ、と言われるのです。これは、殺して、火の上に置き、完全に焼き尽くしてしまうと言うことです。残酷ですし、不思議な事です。どうして神は、アブラハムに約束して与えてくださった子どもを、アブラハムに「ささげ物として献げよ」などと仰るのでしょう。
3翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
 アブラハムは何を思ったのでしょうか。聖書は何も語りません。とても驚いたでしょうし、心が張り裂けそうになったかもしれません。聖書に何も書いていないから、何も言わずに黙って従った、とは言えません。もし何も言わなかったにしても、平気であったのであれば、この試練の意味はありません。ただ、アブラハムは主の言葉に従って、イサクを献げるために、旅をしたのです。途中で、イサクはアブラハムに話しかけます。
7…「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」8アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
 イサクのこの問いに、アブラハムがどんな思いで答えたのかも、私たちには分かりません。その心中は、アブラハムしか分かりません。でも、この時アブラハムが覚悟していたのは、神がイサクを献げることをお命じになり、自分はまもなく、イサクをささげ物にしなければならないだろう、という事でした。そして、二人は到着します。
9神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。10アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
 アブラハムは、いよいよ、イサクを屠るばかりになりました。その時です。
11そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」12御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
 神が送られた御使いは、アブラハムがイサクに手を下すのを止めました。アブラハムがイサクを献げるよう命じたのは神ですが、最後の瞬間に止めたのも神でした。その時、アブラハムがどう思ったのか、イサクがどんな気持ちになったのか。それは私たちには分かりません。でも、これを読む私たちの気持ちはどうでしょうか。
 どうして? つらすぎる! こんなことしないでほしい! そうです。私たちの生きている生活には「どうして?」や辛すぎることが沢山あります。アブラハムでなくても、子どもの方が先に死んでしまうことはあるのです。私も16年前に二歳になる前の息子を突然死で亡くしました。今でも、そういう事は少なからずあります。今よりも医学の進んでいない時代は、そういうことはもっと頻繁でした。
 聖書の時代の読者も、この創世記の物語を聞く度に、自分を重ねずにおれなかった人は多くいたでしょう。信仰があれば試練がないわけでもないし、信仰深くないから試練から守られる訳でもありません。こういう事があるのです。アブラハムの心の動きは触れられていないのは、わざとです。簡単に言葉に出来ない、複雑な思いがあるのです。生きているとはそういう事です。神様は私たちに、良い物や祝福を下さいますが、それは何も絶対確かではなくて、失われることもあるのです。それだからこそ、私たちは、どんなものを失っても、神様だけが神です、私は神様あなただけを神として恐れ、礼拝します、という事が大事なのです。
 しかし、神は命じるだけではありません。私たちに必要なものを備えて下さる神です。
13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。14アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。
 目を上げると、山羊がいました。アブラハムが先にイサクに言った言葉が、まさか、その通りになりました。そしてそれは、偶然とか自然にとかでなく、主が備えてくださったことだ、とアブラハムは告白したのです。私たちの周りにある物は、何一つ偶然ではなく、主が備えてくださったものでもある。疑いと驚き、喪失と贈り物、試練と礼拝。どれも矛盾しています。神を信じるなら、そういう矛盾がなくなって、大事な物は決して失わなくて済むようになるわけでもありません。苦しいこともある。でも、多くの備えによって生かされてもいる。その矛盾の狭間で、どちらも備えて下さる神を礼拝します。最も大切な物よりも勝る、神を礼拝して、神に従って生きていくのです。



「主よ、あなたの備えを有り難うございます。あなたは決して犠牲を求めず、むしろあなたご自身が私たちのためにひとり子を惜しまず献げてくださいました。あなたのその愛によって、世界はどんなに深く変えられてきたことでしょう。どうぞ、私たちも惜しみない心で生き、あなたの備えに感謝し、私たちを御業のために献げさせてください」
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2021/5/23 聖霊降臨主日ローマ人への手紙8章26~30節「神がともにうめく」

2021-05-22 12:18:10 | ローマ書
2021/5/23 聖霊降臨主日ローマ人への手紙8章26~30節「神がともにうめく」

 教会の一年には三つの大きな祝祭の日があります。父なる神が御子イエスを贈ってくださったクリスマス、御子イエスが死からよみがえらされたイースター、そして、聖霊なる神が弟子たちに贈られたペンテコステ、今日の聖霊降臨日です。キリストがなさったことを、聖霊なる神が、私たちの心に深く力強く働いて届けてくださる。私たちが、キリストと出会って福音を信じ、聖書の言葉によって変えられ、喜びや平安、愛を持つことが出来るのは、ひとえに聖霊なる神の働きです。その事が、主イエスの十字架と復活の七週間後の日曜日に起きました。それが使徒の働き2章に書かれています。今日はその記念の、特別な聖霊降臨の主日礼拝です。
 私たちは、クリスマスとイースターと聖霊降臨が既に起きた時を生きています[1]。使徒二章のような激しい出来事はなくても、その後の使徒の働きが淡々と描くような教会の歩みの中に、見えない聖霊の導きや働きがあると信じながら、「我は聖霊を信ず」と告白して歩んでいます。
 ローマ書の八章は、聖霊の働きを繰り返して教えています[2]。その中に有名な言葉として、
8:15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
 私たちが神の子どもとされ、神を親しく「アバ、父」と呼んでいるのは、「子とする御霊」と呼ばれる聖霊なる神の働きです。計り知れない恵みです。その他にも、この八章には聖霊が与えてくださった恵みが豊かに書かれていますが、今日は特に26節以下を読みましょう。
26同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。[3]
 使徒パウロが「何をどう祈ったら良いか分からない」というなんて意外です。けれども、パウロだからこそ正直に、私たちは弱い、神に祈ることにおいても、究極的にはどう祈ったら良いか分かるなんて言えないと告白しています[4]。漠然と「助けてください、守って下さい、祝福してください」とは祈れても、今、ここでどうなることが本当に最善なのか分からず、言葉に詰まる思いをするのです。しかし、その私たちを御霊は助けてくださいます。
 「弱い私たち」
は「私たちの弱さ」という言い方です。私たちの強さ、力を助けるのではなく、私たちの弱さを助けてくださる。何をどう祈れば良いか分からない私たちを受け止めてくださる。思いをどう言葉にすればいいか分からないけれど、その思いの更に奥にある深い呻きを、聖霊もともにうめいてくださり、神に届けて執り成されるのです[5]。本当に苦しい思いをする時、神がいないとか、自分なんか神は見捨てたのだとか、そのように思うとしても、その苦しい呻きこそ、聖霊がともにしておられるのです[6]。その続きが28節の有名な言葉です。
28神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
 欄外に「異本「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを」とあり、「神は」がないのがオリジナルのようです。また29、30節の「神は」も補足で原文では主語は省略されています。ならば27節からの流れから、これらすべてが御霊の働き、聖霊の呻きの延長だと読むのが自然です。聖霊は私たちの心深くの言葉にならない思いをともにし、その聖霊がすべてのことがともに働いて益となるようにされる。それは、
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのために」
です。神のご計画は、神に背を向けた人間が神に立ち返り、神を心から愛するようになることです。それは、聖霊の御業による心の深い変化です。
 私たちの心の奥深くの呻きを共にされつつ、すべてのことがともに働くようにして、私たちがどう祈れば分からないながらも、今を語る言葉を持ち合わせなくても、神を愛し、心から神を信頼し、喜ぶようにと働いてくださる。永遠からのご計画に従って私たちを召して、義を与え、更に栄光も与えて、御子イエスと同じ姿、イエスを兄とする弟や妹として、成長させてくださる[7]。そのために、今の時の苦しみも[8]、私たちが言葉を失うような出来事も、たいしたことがないと思うことも
「すべてのこと」
がともに働く。そして、31節以下39節まで、苦難や苦悩、迫害や上や裸や、死やいのち、どんなことがあっても、
「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」
と言われるのです。そして、神はご計画に従って召してくださったすべての人、私たちにも、そう心から言わせてくださるのです。

 聖霊が注がれたことを記念する今日、今私たちの弱さを告白し、助けていただきましょう。コロナ禍がまだ続く中、何をどう祈ったら良いか分からず戸惑っています。他にも沢山の苦難があり、何がなくても何か心の奥には言葉にならない呻きが響いています。聖霊は、そうした私たちの弱さをともになさるお方。そうして、全てのことがともに働いて、私たちがますます神の愛を知り、神の愛から私たちを引き離すものはないのだと、心から言うように導いてくださる。それが、聖霊がこの世界に来られて、私たちの弱さや呻きにまで、本当に深く謙ってでも、始めておられる事なのです。「それには自分なんか」と思われますか。私もそう思いそうになります。そのあなたや私の弱さこそ、聖霊が助けてくださるよう差し出しましょう。

「天の父よ。今も私たちは、御霊の取りなしの故にあなたを父と呼び、祈りを捧げることが出来ます。深い呻きと痛みの中にある私たちを憐れんでください。被造物の世界全体が贖いを待ち望んで呻いています。主よ、この私たちの深い現実を、あなたは贖い、回復し、完成なさるお方です。どうぞ聖霊の働きにより、私たちを助けてください。私たちの弱さを差し出します。元に戻るよりも、あなたの愛に向けて、栄光の完成に向けて、私たちを進ませて、ますますあなたを愛し、互いに愛し、ともに歩む神の家族として成長させてください」

脚注

[1] キリストがお生まれになったクリスマスの出来事も、十字架と復活も、一度きりの決定的な出来事であったように、聖霊が下られた出来事も決定的な出来事です。

[2] ローマ書、1:4、11、2:29、5:5、7:6、14と御霊に触れてきて、8章で二〇回近く多用。既に御霊を受けている、という大前提。御霊が働かなければ、信じることも、良心を刺されることも出来ない。

[3] うめき(シュテナグモス) 8:22(シュステナゾーともにうめく)、23(シュテナゾー 使徒7:34とここのみ)

[4] 22-23節にも「私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。23それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」とあります。この世界が、苦難(18節)や虚無(20節)滅びの束縛(21節)に苦しんで、将来の栄光(18、21節)を待ち望む途上にある以上、苦難がないとしても、私たちはうめきを持っています。

[5] 「言葉にならない呻き」は私たちのとも御霊とも取れます。

[6] この八章には「ともに」が繰り返されます。16節(御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。)、17節(子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。)、22節(私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。)、24節(私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。)、28節(神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。)、29節(神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。)、32節(私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。) 24節の「望みとともに」以外は、動詞に接頭辞スンがついた複合動詞です。24節だけは、名詞の与格を訳したものです。他にも、「ともに」という意味合いでの与格や、そもそも聖霊の働きそのものが「ともに」である、神ご自身が「ともにいます(インマヌエル)」と名乗られるお方であることを考慮すると、スン以外にも神の臨在が溢れている八章だと言えましょう。

[7] …聖霊がわたくしの心の中でわたくしの弱さを助けたもうのに、二種類の仕事があって、ひとつは、わたくしの心の中で言うに言えない「うめき」がある、そのうめきを使って神様に訴えてくださることと、第二に、聖霊がわたくしの心の中に「神を愛する」愛情を育ててくださることによって、「万事を益となるようにして下さる」のだと思います。/…その同じ聖霊が、またわたくしたちの心を「神を愛する」愛情に燃え立たせてくださることによって、“すべては善し”と告白できるように変えてくださるのだと思います。本人がよいとも思わないのに、客観的にだけ物事を万事よいように取り計らって済ますということはあり得ない。本当に究極的な幸せというのは、もちろん初めは本人はそれを自覚しないかもしれませんが、ついには本人も“これがよい”という、心からの神への愛、感謝、満足が本人の心に芽生えない限り、万事が益になったとは言い切れないですね。ですから、パウロは、それを「聖霊が、神を愛する者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」のだと、こう言っているのではないでしょうか。/すべてのことが益になりますのは、そのように、わたくしたち自身の心の中に「神を愛する」という思いが芽生え、神への愛にわたくしたちが生きている中で初めて、わたくしの身の回りの人生のさまざまな出来事が積もり積もりめぐりめぐって結局幸せになっている、と言えるのでありまして、神を信じてもいなければ神に向かってつぶやいているような人に、万事が益になるわけはありません。」榊原康夫『ローマ人への手紙講解3』、138~139頁。

[8] 8章18節「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」

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2021/5/16 創世記12章「神に従うアブラハム」こども聖書⑭

2021-05-15 12:36:50 | こども聖書
2021/5/16 創世記12章「神に従うアブラハム」こども聖書⑭

 聖書に登場する、アブラハムという名前を聞いたことがありますか。誰のこと?と思われる方もいるでしょう。確かに、この人は無名でした。もし、神が選ばれなかったら、誰も知ることのなかった人です。神が選ぶにしても、最も神が選びそうになかった人でした。神は、アブラハムの子孫からイスラエル人を起こし、その中からイエス・キリストが誕生しました。ですから、聖書の大いなる物語は遡ると、アブラハムから始まるのです。教会ではアブラハムを「信仰の父」と呼びます。聖書がそのようにアブラハムを描いているからです。しかし遡るならそういうことになりますが、その前に立って、神が「信仰の父」となる人を選ぼうとする時、アブラハムが選ばれるとは到底思えません。
 神は創造された世界を完成させようとしていました。ノアの洪水で再出発した世界は、バベルの塔の建設に現された通り、心が神から離れて自分たちが神になっている人間で満ちていました。その世界を滅びから救うため、全人類を救うため、神は一つの家族を選ばれたのです。それが、アブラハムに与えられた招きの言葉でした。
創世記12章1節、
主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
 「あなたを大いなる国民とし」。しかし、この時アブラハムは子どもが一人もいませんでした。妻のサライは子どもを産めない体でした。そして二人はもう高齢でした。子どものいない老夫妻、何も残すことなく人生を終えようとしていた二人を、神は選ばれて、「あなたを大いなる国民とする」と言われたのです。後に、新約のヘブル書
11章7節
信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。
 アブラハムは、どこに行くかも分からないけれども、神のこの言葉に従って出て行きました。それは、当時のカルデヤのウルという町から、カナンの地までの長い旅でした。アブラハムが神の言葉に従って旅をしたのは、とても勇気のある事でした。けれども、だからアブラハムが立派な信仰者で、神様を疑ったりせずに、すばらしい歩みをしたかと言えば、決してそんなことはありませんでした。旅ではいろいろあるように、アブラハムの歩みも、神様に文句を言ったり、神様を悲しませるような間違いを犯したりすることが何度もありました。特に、約束の子どもがなかなか与えられなかった事は、大きな痛みだったと思います。それでも、神はアブラハムに語りかけました。
創世記15章5そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」6アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と見なされた。

 しかし、アブラハムは信じ切れず、女奴隷との間に子どもを設けたりしてしまいます。アブラハムは、私たちと同じように、揺れたりアップダウンをしたりしながら、その時その時、主を精一杯信じた人です。そして、神はその信仰を、義と見なしてくださいました。同じように、私たちも神を信じながらも毎日、疑ったり迷ったりします。その小さな信仰をも、神はアブラハムと同じように喜んで受け入れてくださる。だからアブラハムは私たちにとって慰めに満ちた「信仰の父」です。主は言われます。

創世記17章
2わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。…4…あなたは多くの国民の父となる。…7わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。」

 しかしこの最初となる子どもはまだ授かっていません。アブラハムたちの旅は、いくつものエピソードを経て続きました。カナンの地を出てから、アブラハム夫妻が子どもを授かるのは、十三年も先のこと、その時、アブラハムは百歳、妻は九十歳でした。その二人に子どもが生まれました。自然にはあり得ない、奇蹟です。

ヘブル11:11アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。12こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数え切れない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。

 神は、この世界にいのちの祝福を完成させるために、アブラハムとサラという、死んだも同然の、子どものいない老人夫婦を選んで、父となさいました。その夫婦が、私たちと違って立派な信仰があったからでもなく、私たちと同じように弱く、失敗を繰り返す歩みであっても、神は決してアブラハムたちから離れず、彼らを導かれ、約束の子どもを与えてくださいました。だから、アブラハムたちは神に従い、神をますます信じるようになったのです。そして、その約束の通り、アブラハムの子孫は増え広がり、遂にはその子孫から救い主である王、イエス・キリストがお生まれになったのです。

Ⅰコリント1:27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

 神は、アブラハムを通して全世界の人々を救って、神の民となさるご計画を始められました。私たちは、その最初からの神のご計画に与ります。神が、今も、力のない人、相応しくないと思うような人を通して、神にしか出来ないことをしてくださる。私たちにも、神は、祝福を約束したとおり、アブラハムへの契約を果たしてくださるのです。

「神よ、あなたこそは神です。不思議にもアブラハムとサラを選んで、救いの業の始まりとされたように、私たちも今ここでその契約に与っています。あなたの大いなるご計画は、小さな人や心の奥深くにまで、深く、長く関わり、あなたにしか出来ないことをしてくださる物語です。本当に、あなたを信頼します。あなたに従わせてください」
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