聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/11/29 Ⅰペテロ3章18節「思い出す恵み」ニュー・シティ・カテキズム47

2020-11-28 11:55:07 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/29 Ⅰペテロ3章18節「思い出す恵み」ニュー・シティ・カテキズム47

 教会の儀式「聖礼典」は二つあります。洗礼と聖餐式です。洗礼は一度だけ受けます。何度も受け直す必要はありません。一方、聖餐は繰り返して与ります。鳴門キリスト教会では、今はコロナ禍で控えていますが、毎月行ってきました。世界には毎週、聖餐をしている教会も沢山あります。年に一度の教会もあれば、受難週やクリスマスや特別な時に行う教会もあります。私はざっと計算して今まで590回ぐらい、聖餐式を経験してきたことになります。生涯私たちは、パンを裂いて分け合い、一つの杯から飲むのです。
 そうすると、聖餐に与らなければ救われないのか、信仰だけでは不十分で聖餐式があるのではないかと考える人もいるでしょう。あるいは、聖餐のパンやぶどう酒を飲めば、信仰がなくても天国に行けるに違いない、と考える人もいました。主イエス・キリストが救い主であることと、聖餐に与ることはどんな関係にあるのでしょうか?
第四十七問 聖餐はキリストの贖いの業に何か付け加えるのですか?
答 そうではありません。キリストはただ一度の死で御業を全うされました。聖餐はキリストの贖いの御業を祝う契約の食事であり、キリストを見つめる私たちの信仰を強め、将来の祝宴を前もって味わうものです。しかし、悔い改めない心で参加する者は、その飲み食いが自分に裁きをまねくことになります。
 ここにはハッキリと、「そうではありません」。聖餐はキリストの贖いの業に何か付け加えるのでは無い、キリストはただ一度の死で御業を全うされました、と言い切っていますね。キリストが私たちのために、十字架で死んで、三日目に復活された事は、私たちのための完全な贖いです。それは決定的な出来事でした。Ⅰペテロ3章18節で、
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは…あなたがたを神に導くためでした。
 この「一度」という言葉を覚えてください。これは、決定的にと完全に、という意味です。英語ではonce for allという表現で、「これっきり」「きっぱりと」「最終的に」「長い間続いていたものにけじめをつける」「とうとう」などとも言い換えられます。キリストが罪のために苦しみを受けられたのは、一度きりで十分な決定的なことでした。二度も必要のない、決定的なことでした。野球でも「決定打」と言うでしょう。いや、十字架の死と復活は、それ以上に、試合開始のサイレンでしょう。もう、新しいゲームが始まったのです。開始のサイレンを何度も鳴らす必要はありませんし、そんなことをしたら混乱してしまいます。主イエスは、ただ一度の死で御業を全うされました。そして、私たちにその救いを届けてくださり、私たちを神のこどもとして導いてくださるのです。聖餐はその決定的なキリストの贖いの御業を祝う契約の食事です。
 その決定的なキリストの贖いの御業を、私たちが祝う時、それはただのお祝いでは終わりません。私たちの信仰は強められます。キリストの過去の十字架の御業と、将来の祝宴が確かにあること、そして、今も私たちを主が導き、養い、強めてくださることを、聖餐を通して思い出すのです。
 主イエスは、聖餐を定めてくださいました。そして、私たちが聖餐を祝う度に、主イエスは聖霊によって私たちの心を養ってくださいます。パンと杯をともに戴く時、私たちは確かに主イエスが、私たちのために十字架にかかり、死んでくださったこと、私たちの罪が赦され、神の子どもとされたこと、主イエスが今も私たちを支え、取りなし、助けてくださること、将来、神の国で食卓に着くことを思い出させて戴くのです。
 聖餐は「記念」とも言います。記念、思い出すこと。それは、ただ昔を思い出すだけではなく、思い出すことによって力をもらう記憶です。思い出すことは恵みです。そうでないと、私たちは恵みを忘れてしまい、疑ってしまうからです。
 洗礼は、ただ一度の洗礼で、ただ一度の決定的なキリストの御業に与ったことを表す聖礼典です。しかしそれだけであれば、私たちは福音を忘れます。普段の生活で、神の言葉よりも人間の言葉をたくさん聞いています。創造主であり、無条件の恵みに満ちた神の言葉よりも、限界がある人間の、不安の言葉、条件付きの考えに染まっています。神や聖書、主イエスや福音も、人間と同じように、限界があり、変わりやすく、安心できないものとして考える癖がついています。主イエスの愛の契約を疑って、不安で生き、教会と普段を使い分けるダブルスタンダードで生きてしまいます。聖餐でさえ、思い出す記念の食事では無く、聖餐を行うことで、救いの足りなさを補うかのように、教会が教えてきた長い時代もあるのです。だからこそ、ここで、確認したいのです。
 聖餐は、キリストの御業が足りないから、信じるだけでは不十分だから、行う儀式ではありません。完全なキリストの御業を覚えるために行う食事なのです。キリストが私のために決定的な犠牲となってくださいました。パンと杯に託して、その事を思い出させてもらいます。赦された者として、愛されて、導かれている恵みに強められ、立ち上がることが出来ます。聖餐は、主イエスの福音を思い出して、私たちを養ってくれます。一方で、その恵みを踏みにじったまま、自分を省みることも、悔い改めることもないまま、聖餐を食べることは、主イエスに対する冒涜として禁じられているのです。

 とはいえ、今はコロナ禍で聖餐を行うことには世界の教会が慎重になっています。聖餐のパンやワインが特別に神聖な力があるのではないし、それを食べる人も特別な力が身につくわけではない。そのような力に私たちは憧れますが、主イエスは私たちに力を下さるより、私たちを助け合わせ、思いやりを持たせ、愛を与えてくださいました。そのために、ご自身が最も弱くなりました。不死身や無敵にならせる代わりに、ご自身が敵のために死に、そこから三日目によみがえってくださいました。

 コロナ禍で聖餐が出来ないことを通して、キリストを思い起こします。聖餐式以外の食事でも主を思いながら、聖餐の再開と、それ以上に主とともに神の国で世界中の人とともに喜び祝う時を待ち望みます。その時に向けての旅を、一日一日導かれて、神の恵みの子どもとして、みことばに養って戴きながら、歩んでいくのです。

「死に打ち勝ってくださった主よ、私たちは聖餐にあずかる度にあなたが完全に成し遂げてくださったその御業を崇めます。どうかこの飲み食いを通して、このような恵みを受けるに値しない私たちが、キリストの素晴らしさのうちに一つとされた信仰を告白することができますように。私たちは悔い改めの心をもって主の食卓に着き、高慢と誇りを捨て、あなたが与えてくださる無条件の愛を楽しむことができますように。アーメン」
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2020/11/29 マタイ伝13章24... | トップ | 2020/12/6 マタイ伝13章44~... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ニュー・シティ・カテキズム」カテゴリの最新記事