聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答81~83ルカの福音書10章25~37節「隣人を愛する」

2019-02-24 16:05:31 | はじめての教理問答

2019/2/24 ルカの福音書10章25~37節「隣人を愛する」はじめての教理問答81~83 

 神が私たちに求めておられるのがどんなことか。それは聖書の

「十戒」

に要約されています。十戒に教えられているのは、私たちが神を愛し、隣人を愛すること。それが、前回のお話しでした。そして、今日のルカの福音書の最初でもその事が確認されました。ところが、イエスに質問した人は

「では、私の隣人とはだれですか?」

と言われました。隣人を愛しなさいと言われる、その「隣人」とは誰の事でしょうか。

 夕拝で学んでいる「はじめての教理問答」。今回の問81はその「誰か」を問います。

問81 あなたの隣びととはだれのことですか?

答 すべてのひとが、わたしの隣びとです。

 私たちの隣人とは「すべての人」。これは今日のイエスの譬え

「良きサマリヤ人」

のエッセンスを言い換えたものでしょう。

 強盗に襲われて、持ち物を奪われて、着物もはぎ取られ、半殺しにされて道に放り出されている人。道ばたに倒れているその人を、見かけて、私たちはどうするでしょうか。イエスが話されたのは、神殿に仕える祭司と、祭司とともに神殿で役割を果たすレビ人という家柄の人、そして、一人のサマリヤ人の三人でした。祭司とレビ人は、神殿で仕える大切な役割を果たしていました。社会的にも尊敬を得ていた人たちです。けれども、その二人は半殺しで倒れている人を見て、助けに近寄ったでしょうか。いいえ、それどころかわざわざ

「反対側を通り過ぎて行った」

のです。その後に通りかかった「サマリヤ人」は、ユダヤ人とは犬猿の仲でした。ユダヤ人にとっては、違う神を拝む人、聖書の教えを都合良くねじ曲げる冒涜者、一緒に食事をすることも汚らわしい存在でした。しかし、そのサマリヤ人が通りかかって、強盗に襲われた人を見たとき、彼は見て可哀想に思って、近寄って介抱するのです。自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行くのです。翌日も、宿屋の主人に自腹で費用を払い、半殺しになった人のお世話をお願いするのです。ユダヤ人にとっては、屈辱極まりない展開です。イエスはあえてこういうお話しをなさいました。そして、問われます。

36この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」

 最初にイエスに質問した人は

「私の隣人とは誰ですか」

と問うたのです。それに対してイエスが語られた譬えは

「だれがこの強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」

と括られるのです。ユダヤ人にとっては「サマリヤ人は私の隣人ではない」と思っていました。そして、祭司やレビ人は「この人を助けるのは自分じゃなくてもいい」と考えることにしたのかもしれません。でもイエスの問いかけは

「この人は私の隣人か」

ではなく

「あなたはこの人の隣人になりますか」

なのです。「私はこの人の隣人にならなくてもいい」というそんな関係はなくて、その人の隣人になるか、が問われる。これが、今日の「初めての教理問答」で言っていた「全ての人が私の隣人です」という意味ではないでしょうか。世界中の人が皆、という意味もありますが、もっと身近にいる、どんな人も、ユダヤ人であろうとサマリヤ人であろうと、黒人であろうと白人であろうと、ケガをして倒れている人、助けたら厄介なことになるだろう人だろうと、あなたにとって憎らしい敵であろうと、私たちはその人の隣人になることが出来ます。世界の人口は今70億~80億だそうですが、その全員が「隣人」でもありますが、もっと身近な意味で「全ての人」はあなたが隣人になるよう出会った人なのです。世界の全ての困っている人を助けることは出来ませんが、まず身近にいる人、あなたが出会う人であなたの隣人でない人は一人もいません。「全ての人が私の隣人」なのです。

 「初めての教理問答」は、続けてこう言います。

問82 神さまはご自身を愛し、ご自身に従うものを喜びますか? 

答 はい。神さまは「わたしを愛する者を、わたしは愛する」といっています(箴言8:17)。

問83 神さまはご自身を愛さず、ご自身に従わないものを憎まれますか? 

答 はい。「神は正しい審判者、日々、怒る神。悔い改めない者には剣をとぎ」ます( 詩篇7:11-12)。

 「私たちが神を愛して従おうが、従うまいが、大差ないのではないか」。そういう人間の甘い見込みに対して、この二つの問はハッキリと答えます。神は、ご自身を愛し、ご自身に従う者を喜ばれます。神を愛さず、ご自身に従わない者を憎まれます、と明言します。ただし、忘れないで欲しいのは、この

「神を愛し、神に従う」

ことの前に、隣人を愛するという戒めがあることです。隣人を愛することこそ、神を愛し、神に従う生き方です。ユダヤ人の考えでは、神を愛する方が隣人を愛するより大事でした。祭司やレビ人は神殿で、神に仕えるために選ばれているので、誰よりも神を喜ばせていると、自他共に認められていたのでしょう。だから、道ばたで倒れている人に煩わされなくてもいいと考えたのかもしれません。でも、イエスの譬えはその考えを引っ繰り返します。神に仕える祭司やレビ人よりも、自分とは違う宗教を信奉しているサマリヤ人の方が神の御心を行っていることがある。私たちが神を愛する模範は、他の宗教を持ったり、違う価値観で生きている人の中にも大いにある。私が嫌い、蔑んでいる人の方が、私よりも神の基準に近い生き方をしていることがある。そういう譬え話を語られたのがイエスであり、そのイエスの言葉に聴き続けるのが、キリスト者なのです。

 こう仰ったイエスは、本当にすべての人を愛されました。イエスご自身が、すべての人の隣人になりました。サマリヤ人や病人、売春婦や死刑囚、どんな人とも分け隔てなく友となりました。そして、私たち自身に、近づいてくださいました。私たちを見て、私たちの痛みや傷を見て、可哀想に思い、手当をしてくださいます。このサマリヤ人がお金を払ったように、イエスはご自身のいのちを払って、私たちのために犠牲を払い、最後まで面倒を見てくださいます。そして、やがて私たちを迎えに来てくれます。そういう愛を戴いています。そして、私だけではなく、すべての人がそのようなイエスの愛の中に入れられています。だから私たちは、毎日の生活の中で、イエスに従って、人を愛していくのです。隣人になる生き方をしていくのです。その生き方を神は必ず見て、喜んでくださいます。誰も見ていないからと反対を通りたくなる時は、神が見ておられることに勇気をもらいましょう。良きサマリヤ人のような生き方をしている沢山の方がいます。主が私たちの人生を、だれかの隣人になる人生にしてくださいますように。

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ガラテヤ書3章26-29節「キリストにあって一つ ガラテヤ書」

2019-02-24 15:58:18 | 一書説教

2019/2/24 ガラテヤ書3章26-29節「キリストにあって一つ ガラテヤ書」

 今月の一書説教は、ガラテヤ書です。使徒パウロがガラテヤの諸教会に宛てた、六章にわたる手紙です。強い語調の論争的な手紙であり、美しい聖句も多く出て来ます[1]。パウロがこの教会を開拓して離れた後、律法主義的な教師がやってきました。パウロを否定して「イエスを信じるだけでは不十分だ」と教えて、ガラテヤ諸教会はそちらに流れていくところでした。キリスト教会が「キリストを信じるだけでは不十分だ」と教えられて簡単にグラグラ揺れてしまった。そういう知らせを聞いて、パウロが熱い言葉で語っているのが、このガラテヤ書です。教会が間違った教えに流されることを憂慮し、キリストの福音に気づかせようとしています。

 ガラテヤがどこを指すかは難問です。古く「ガラテヤ王国」のは北の地方ですし、ローマの行政上の「ガラテヤ州」だともっと南部も含みます。今でも「アジア」とか「中国」、「関西」もややこしい名称ですね。パウロは第二回旅行で北部の「フリュギア・ガラテヤの地方」を訪れていますが[2]、第一回伝道旅行で訪れた南部の「リステラ、イコニオン」[3]はガラテヤ州なのです。この二つの伝道旅行の間に、使徒の働き一五章で「エルサレム会議」が開かれました。その時「異邦人がイエス・キリストを信じるなら、ユダヤ人に一旦ならなくてもいい」という大きな決定をしました[4]。ユダヤ人が大事にして来た旧約聖書の習慣を、異邦人に強制しないと決定しました。ガラテヤ書が書かれたのがその会議の前なのか、それとも「エルサレム会議」の決定の後で、またガラテヤで問題が再燃したのか、意味合いが大きく違ってしまいます[5]

※ ガラテヤと呼ばれる地名は二通りあります。

 これは未だに両者の意見がある難しい問題です。どちらにせよ、エルサレム会議以降も、ユダヤ人にはこの決断は大きな抵抗がありました。「割礼や旧約儀式を守る必要があるのか」という声は新約の随所で再燃しています。その度に、確認された大事な福音は変わりません。それはイエス・キリストを信じるだけで、他に何も付け加える条件はない。キリストへの信仰の他に、何かの儀式や習慣や行為を付け加えなければ足りないということは一切ないのです。人は自分の行いや努力によっては救われません。ただ、神が私たちを神の子どもとするために、ひとり子イエス・キリストを遣わしてくださいました。その恵みを私たちは受け取るだけです。

 パウロはガラテヤ書の最初で、自分がキリストと出会う前のことから語っています。かつて、イエスと出会うまでのパウロはガチガチのユダヤ主義者でした。十字架で犯罪者として殺されたイエスをキリストとして崇めるなんてけしからんと、

「激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました」

 それがかつてのパウロでした。そのパウロに神が御子を知らせてくださって、キリスト者となり、伝道者になった。

「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」

と噂になって、人々が御名を崇めるようになったのです。

 ガラテヤの諸教会に宛ててパウロはこの熱い手紙を書いています。キリストの福音の確かさ、律法の位置づけ、ガラテヤに自分が行ったときの最初の様子、など、色々な角度から「福音だけでは不十分だ」という考えを論駁します。4章11~18節では、自分の途方に暮れた思いまで打ち明けています。しかしこうしたパウロの情熱そのものが、かつてのパウロには考えられなかった情熱です。異邦人や割礼を受けない連中との交わりなんてあり得ませんでしたし、間違った教えに対しては迫害や暴力さえ厭わなかったのです。そのパウロがキリストに出会って、主はユダヤ人のためにも異邦人のためにもいのちを捨てて下さったと知りました。自分のためにも主が命を捨てて、神との和解を下さったことを知りました。ガチガチの民族主義者、教会の迫害者から、異邦人に福音を伝える伝道者に、一八〇度変わったのです。そのパウロが、ガラテヤの信徒達が違う福音に走った時、強い語調でではありますが、心を砕いて手紙を書き送ります。かつてとは大違いで、異邦人のために真剣に語り、自分の弱さも見せて手紙を書き送ります。それはパウロがガラテヤの異邦人キリスト者を本当に想っているからですね。この変えられたパウロの姿自体が、ガラテヤ書のメッセージであることを見落としたくないのです[6]

 パウロは再三、キリストだけでは不十分で、割礼も受ける、という考えに警告します。キリストが私たちを自由にしてくださったと言います。その末に5章6節で言うのは、

五6キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

 「割礼がなくても救われるからヨカッタ」でなく、キリストの愛が私たちのうちに働いて信仰を持たせる。それが大事、それが救いなのです。愛によって働く信仰は、キリストへの信仰だけでなく、周囲の人も新しい目で見させてくれます[7]。パウロはキリストに出会って、神との関係が変わりました。その時、彼の生き方が律法主義から恵みによる生き方に変わりました。異邦人を見る目も、敵を見る目も変わりました。自分が救われるため律法を守り善いことをする生き方が根本から覆されて、自分も他者も、キリストのうちに見るよう変えられたのです[8]

 2章の後半でパウロは一つのエピソードを取り上げます。アンティオキアの異邦人の教会にエルサレム教会の牧師ペテロが来た時、彼は異邦人キリスト者とも一緒に食事をしていました。ところが、あるユダヤ人キリスト者がやって来たら、ペテロは彼らに遠慮して、異邦人と一緒に食事をしなくなった。そこでパウロは皆の面前であのペテロを叱りました。ペテロの行為は事実上、割礼を受けていない異邦人に、イエスを信じる信仰だけでは不十分で、割礼や律法の遵守を要求することでした。しかしもっと言えば、キリストの福音を受け取っているかは、他の人と一緒に食事をするか、人間関係で差別がないか、で試されます。「信じるだけで救われる」と言いながら、人を選り好みしたり何かと要求を押しつけたり、奉仕や立派な生き方や伝道を強いてしまうならどうでしょう。「割礼は要らない」と考えても、自分の教派の背景や信仰の経験や文化を人に押しつけたり、人目に遠慮して差別に荷担したり、世間の雰囲気を教会に持ち込んでしまう。それは自分にとっては大切だったり当たり前かも知れません。でも他の人にはプレッシャーや壁になるかも知れません。キリストの恵みで救われる、とは教理の問題以上に、私たちの実際の人間関係、教会の中での在り方が試金石となる、現実的な問題です[9]

 キリストの福音は、私たちの普段の考え、人の見方、自分の尺度に合わない人との関わり方を新しくします。キリストを信じるだけで神の子どもとされる。だから私たちは、違う者同士でも教会に集まり、一緒に主の聖晩餐に与る。「キリストが神の家族に入れてくださるという救い」に私たちは与りました。他の人を見ていた自分の尺度が引っ繰り返され続けます。まだまだ途中で、ガラテヤの教会も流されかけペテロも揺れました。教会も二千年かけて、まだ差別や競争を止められず、敷居を高く造っては壊し、造っては壊しです。それでもパウロは、

 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。…ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 (ガラテヤ書3:26~29)

と言っています。最終的には

「大事なのは割礼ではなく新しい創造です」(6:11)

とまで言います。神のゴールは「新しい創造」、人種や性別や文化の違いを超えた新しい世界の創造。途方もないスケールで捉えられています。そしてそれが今、教会で一緒に食事をし助け合い、御霊の実が結ばれるという、本当に小さな日常的なことから始まります。私たちの普段の生き方、見方を、キリストの恵みは一新します。ギスギスした社会で疲れた心を慰める教会、本当に無条件に受け入れ、愛し、互いに喜び合う交わりでありたい。信徒総会に先立って、キリストを信じ、告白し現す教会として、一人一人が養われ、ともに歩む願いを、ガラテヤ書から教えられます[10]

「私たちの父よ。あなたを親しくそう呼ぶ幸いを下さったキリストの、大きな幻を感謝します。圧倒的な恵みを注がれながら、そこに余計なものを持ち込んだり、人を排除したりしかねない私たちを、どうぞ助けてください。ただキリストの福音に立ち、神の家として歩ませてください。主イエスの十字架をますます知ることによって、恵みならぬものから救い出してください」



[1] たとえば、「二20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」「五13兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」「五22-23御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

[2] 使徒の働き16章6節。

[3] 使徒の働き14章。

[4] それまでの教会の中心はユダヤ人でした。旧約聖書を受け継いできたユダヤ人は「契約のしるし」として男子が「割礼」という男性性器の皮を切る手術をしていたのです。それは大事な意味がありましたが、これから旧約聖書を知らない異邦人をも教会に受け入れるに割礼を施さなくていいのか、食べてはならないものとか、お祭りとか儀式とか、聖書に書いてあって慣れ親しんできた事を強制しなくていいのか、という決断は私たちの想像を絶する決断だったのです。

[5] 緒論の「宛先」「執筆年代」については、以下の「徳丸町キリスト教会 聖書の概説 ガラテヤ書」を引用して紹介します。「本書の宛先は「ガラテヤの諸教会へ」(1:2)とあるように、ガラテヤ地方にある複数の教会で、そこで回覧状のように読まれることを期待して書かれたものです。本書の執筆年代は、この「ガラテヤ地方」が具体的にどの地を指すかによって変わってくるため、古くから「ガラテヤ地方」を巡っては「北ガラテヤ説」と「南ガラテヤ説」が唱えられてきました。「北ガラテヤ説」は、ガラテヤを小アジアの中心部に位置する地域に限定します。パウロは第二次伝道旅行の際に「フルギヤ・ガラテヤ地方」を通り(使徒16:6)、第三次伝道旅行の際にも再訪しています(同18:23)。「北ガラテヤ説」の場合は本書が執筆されたのは第三次伝道旅行の後、エペソにて紀元54年から57年と考えられます。これに対し「南ガラテヤ説」は、上記の限定されたガラテヤ地方だけでなく、フルギヤ、ピシデア、ルカオニア地方からさらに南は地中海に面したパンフリア地方に至る広大な地域で、紀元25年にローマの属州となった広い地域を指すとします。この場合、パウロは第一次伝道旅行でこれらの町々に教会を建設しています(同13~14)。このローマ属州としてのガラテヤ、政治的区域としてのガラテヤを宛先とする場合、本書が執筆されたのは第一次伝道旅行の後アンテオケにて紀元49年頃と考えられ、パウロ書簡の中でも最初期に書かれたものの一つとされます。 いずれに説にもそれぞれの妥当性がありますが、ポイントは本書と使徒の働きの記述との対応、特に2章と使徒15章との対応をどう理解するかと言う点にあります。『新聖書辞典』(いのちのことば社)によれば、「パウロが南ガラテヤを離れて間もなく、パレスチナから来たユダヤ人教師たちの影響を受け、パウロの教えた信仰義認の教理を否定し、またパウロの使徒職をも否定した。パウロはその事態を知って、ただちにこの手紙を書き送って、彼らの信仰を指導したと思われる。そしてこの事態はエルサレム会議(使15章)以前に生じた問題と見る」とされており、南ガラテヤ説が有力とされます。

[6] ガラテヤ書のテーマは「信仰義認」だと言います。イエスを信じるだけで義とされる。他の割礼や善行や努力や資格は不要で、ただキリストの恵みによって罪を赦される。しかし「私と神」の関係だけを考えていくと、後半の行いはどうしても辻褄合わせとしか聞こえません。「五1キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」、五14「律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。」

[7] 「恵みとは」恵みは、私たちに耳を傾け、私たちを導き、動かし、変わらせる。人の中にすべてを働かせ、感じさせ、経験させるものである。」吉田隆『五つのソラ』(いのちのことば社、2017年)より、マルチン・ルターの引用、82頁

[8]五13兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」の「愛をもって」は6節の「愛によって」と同じ言葉です。大事なのはキリストの愛によって働く信仰で、その愛は私たちを互いに仕え合う関係へと私たちを押し出す。救われるために、神に怒られないため・ガッカリさせないため、割礼を受けたり礼拝に出席し聖書を読み、善行を行ったりするのではなく、愛されている喜びから信じて、人をも新しい目で見ずにはおれなくなる。それこそが大事な事です。

[9] パウロは「四19あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と語ったり、「御霊の実」を描き出したりしてくれます。特に後半は、互いに競争したり妬み合ったりせずに、仕え合いなさい、過ちがあれば柔和な心で正してあげなさい、失望せずに善を行いなさい と語ります(五15、26、六1、9など)。パウロが語る「信仰義認」や「福音」はそうしたゴールを視野に入れている世界です。ただ自分が信仰だけで救われる、以上に、私たちがお互いにキリストが愛してくださった愛の中で見るようになる。その事をパウロはガラテヤ書の最初から語っています。

[10] 実際には、教会は何度もこの福音を間違えてきました。宗教改革の時、ルターが好んでガラテヤ書を語りましたが、それは中世の教会が、福音に免罪符や苦行や出家といった違う混ぜ物をするようになっていたからです。その後のプロテスタント教会でも、神学の違いで争ってきた歴史があります。今の私たちの中にも、いつも「恵みだけでいい。キリストを信じるだけでいい」と言いながら、つい教会に来にくい、入りづらい躓きを持ち込んでしまうことは絶えずあります。だからこそ、いつもガラテヤ書に戻りながら、主の恵みだけで十分、ということを教えられたいと思います。主が私たちを愛して、神の家族に受け入れて下さったのだ。

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はじめての教理問答78~80 マルコ12章28~34節「神を愛し人を愛する」

2019-02-10 18:30:00 | はじめての教理問答

2019/2/10 マルコ12章28~34節「神を愛し人を愛する」はじめての教理問答78~80 

 教会には、伝統的にとても大事にしてきた、三つの文章があります。それは「主の祈り」と「十戒」と「使徒信条」です。この三つを「三要文」と呼びます。礼拝では「主の祈り」と「使徒信条」を毎回唱和します。「十戒」も大事に教えられたいと思います。

問78 最初の四つの戒めは、なにを教えていますか?

答 神さまを愛し神さまに仕えることが、どういうことかを教えています。

問79 そのあとの六つの戒めは、なにを教えていますか?

答 隣びとを愛し、隣びとに仕えることが、どういうことかを教えています。

問80 十戒はなにを教えていますか?

答 神さまを心から愛し、隣びとを自分自身のように愛することを教えています。

 今日のマルコの福音書でも、イエスが「すべての中で、どれが第一の戒めですか」と質問されたのに対して、お答えになったのがそれでした。(マルコ12:29~31)

「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」

 私たちの神が、私たちに対して求めておられる第一の戒めは、私たちが私たちの神、主を愛すること、そして私たちの隣人を自分自身のように愛すること、です。神を愛すること、そして隣人を愛すること。これらよりも重要な命令は他にないと、ハッキリ仰ったのです。勿論、私たちにとって、神を愛することも隣人を愛することも、簡単ではありません。私たちは自分に優しさや温かさが欠けていて、心の冷たさや頑固さを認めざるを得ません。神が私たちに、愛しなさい、と言われると分かっても、自分には愛がないし、そんな私には愛される資格もない、と思ったりするかもしれません。

 けれども考えてみてください。愛される資格のある人を愛せよと言われているのでしょうか。愛のない人は愛さなくていい、と仰ったのでしょうか。隣人が「いい人」なら愛しなさいと仰ったのでしょうか。違いますね。私たちはみんなお互いにそれぞれに、欠けだらけです。心も冷たいし、怒りっぽかったりします。そういう私たちに、神は「愛しなさい」と言われます。あれをしなさい、これはしてはならない、という戒めかと思ったら、神が私たちに語られるのは、神を愛し、私たちが隣人を愛する生き方です。神が私たちに願っているのは、私たちに何か立派なことをさせるとか、一番になるとか、心が清い人になれ、とかではありません。私たちが愛すること、神を愛すること、そして隣人を愛すること。ただそれが、神の私たちに対する願いなのです。

 教会で、主の祈りや使徒信条は唱和されるのに、十戒が唱和されることは余りないのはどうしてでしょうか。その理由の一つは、十戒が難しく堅苦しい戒めで、人を束縛するものだから、という誤解があると思います。そして、そんな戒めは人間には守れないのだからイエスが来て、信じるだけで救われる福音が与えられている-だから、今は十戒はもう要らないのだ、という誤解があるでしょう。十戒は、聖く正しく難しい規則だとしたら、確かにそうかもしれません。面倒くさい、遠慮したい規則なら要りません。しかし十戒が教えているのは

「神を愛し人を愛する」

ことです。神はどんなことより、私たちが神を愛し、互いに愛し合うことを願っています。それは、何よりも、神ご自身が私たちを愛しておられるからです。神は、ご自分が聖く正しく何でも出来る方だから、簡単に愛しなさいと言われて、私たち人間が愛せないのを「何やってるんだ。愛がないなんて酷い奴だ」と思うようなお方でしょうか。それこそ、愛のない見方ですよね。神は私たちを愛しておられます。私たちの冷たさや貧しさも十分ご存じです。人を愛せない時、私たちの心に何が起きているのか、どうして愛したくても愛せないのか、全部ご存じです。それでも、私たちを愛しておられて、そういう私たちが愛するように、神様のことも、周りの人のことも、大事に、心から大切に思えるようになってほしい。そう願っておられるのです。逆説的ですが、私たちが神を愛せないとしても、神は私たちを愛して止まない。そう気づく時に、私たちが神と人を愛することも始まるのでしょう。

 もう一つ、イエスは

「どれが第一の戒めですか」

と問われて、神を愛することと応えるだけではなく、第二として

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」

を言われました。一番を聞かれて、二つの答を語りました。神か人か、人より神を愛する方が大事じゃないか、とは言われませんでした。この時質問した律法学者たちの世界では、神を愛するが一番、と決まっていました。人よりも神を愛する方が大事。ところがイエスは、神を愛することと隣人を愛することが切り離せない、一番重要な戒めとして言われたのです。これは、律法学者や多くの宗教者の世界を引っ繰り返す発言です。

Ⅰヨハネ四19私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。

 イエスは仰います。十戒で神が教えておられるのは、私たちが人を自分のように愛することだ。決して、人の言いなりになるとか、愛する気持ちがないのに優しくしてあげなさい、ということではないです。大事なのは、神が私たちを愛しているように、私たちも神の愛を受け取って、お互いを神の愛の中で見ていくようになることです。自分のことも、人の事も、神の大きな愛の中で見るようになることです。イエスは私たちを愛して、私たちにも互いに愛し合う生き方を教えられました。それは驚くべきことです。でもそれが神であり、それが聖書のエッセンスなのです。

 イエス・キリストは私たちを神と和解させてくださいました。私たちを、神の民、神の子ども、神の家族にしてくださいました。その時、私たちもこの世界の中で、互いを神の愛の中で見るような関係を教えて、始めてくださるのです。それまで、愛する事などなかった関係、戦ったり知らんぷりをしたり馬鹿にしたりしていた相手を、どんな人をも、悪者扱いせず、大切な人だと喜ぶような、驚くべき関係を始めてくださった。それが、この十戒を通して教えられる神の願いです。キリスト教の驚くべき夢なのです。

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創世記6章9~22節「箱舟で再出発 聖書の全体像09」

2019-02-10 18:18:30 | 聖書の物語の全体像

2019/2/10 創世記6章9~22節「箱舟で再出発 聖書の全体像09」

 聖書の大きな流れをお話ししています。今日と次回は、ノアの箱舟の出来事に目を留めます。これは、人が神に背を向けて、エデンの園から出て始まった出来事の大きな区切りになります。神に背いて、罪が入り込んだ結果、人は悪を重ねるようになりました。その末に、大洪水で地が滅ぼされるのです。しかし、その中で神はノアとその家族を選んで、箱舟を造らせて、あらゆる動物たちとともに、再出発をさせられます。そのことが、ノアへの

 「契約」

という形でここに語られています。初めて「契約」という言葉が出て来て、神の人間に対する確かな絆がハッキリ約束されるのです。引いては今私たちがここに生かされて、天地が滅びることなく、太陽や季節が巡り、雨が降っては虹を見て、災害が起きたり、収穫をしたりしながら、今ここにあること自体が、神が世界を決して諦めておられない証拠なのだと教えられるのです。

 そうは言っても、むしろノアの記事から、神が人間を滅ぼす恐ろしい方だと思ってしまっている方も多いかもしれません。この創世記六章には、エデンの園から追放された世界が徹底的に悪や暴虐の世界だったことが書かれています。5節6節、10節11節と重ねて強調されます。

創世記六11地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。12神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。

 本当に酷(ひど)い状態だったのですね。四章の最後には、当時の世界の権力が暴力や復讐を豪語する社会だったと書かれています[1]。また、洪水の後の九章では殺人の罪の重さが言及されています。ということは、それまでは人の命が実に軽く扱われていたのでしょう。地は暴虐で満ちていました。11、12節の

「堕落し」

は13節の

「滅ぼし」

と同じ言葉です。神が滅ぼす前に、人間が自ら社会を滅ぼし、殺し合って、滅びて行く在り方だったのです[2]。四章で、最初の殺人事件が起きて以来、数えきれないほど多くの人が殺されて、数えきれない程の血が大地から神に向かって叫んでいる[3]。その叫びを、神は聴いて、深く嘆かれています[4]。世界を造ったことを悔やむと言われるほどの強い言い方で、悲しまれます[5]。それでも何年も何十年も神は忍耐して待っておられました[6]。それでも人は滅ぼし続けるので、神は遂に洪水を決心されます。でも、もう全部滅ぼし尽くしても良いのに、まだ神は、一つの家族を選んで、語りかけて、神が造られた世界の再出発を託されるのです。

「悔やむ」

と言われて全部なかったことにも出来るのに、まだ悔やみきれず、諦めずに、ノアの家族を選んで、そこから再出発させようとなさるのです。ノアの大洪水は、神が世界を滅ぼす恐ろしい方などではなく、人間が世界を滅ぼそうとしても、なお人間に働きかけて、滅びかけた世界の中から立ち上がらせる神の業でした。

 主は「ノアを滅ぼさずに救われた」のでしょうか。主はノアに、大きな箱舟を造り、その中に全ての地上の動物たちを入れて、一緒に大洪水を生き延びて、全地に増え広がりなさい、と命じました。自分が助かるための「救命ボート」でなく、全ての動物も入る大きな「箱舟」を造って、食糧も準備せよ。大洪水の後はそこから出て、神が造られたこの世界に生きる。地を暴虐で満たすのではなく、いのちで満たせと命じます。一章の創造の時の言葉を繰り返して、その目的へと人を招かれたのです。箱舟は、神が人を救われるイメージに重ねられることが多いですが、箱舟は人を乗せるための豪華客船ではないのです。ノアが動物たちを入れて、洪水を生き延びさせて、最後には地上にまた出て行って、増え広がるための場所です。そういう箱舟を造るよう主はノアに命じました。それは神が世界を諦めておられないこと、この世界の中で生きる人間の在り方を何があっても大事に思われるということです[7]。この世界が暴力で溢れていることを深く悔やまれ、悲しまれて、これで良いとは思っておられない。神は世界にもう一度いのちを満たそうと働いて、人にそんな人生を与えられる。それがノアとの契約でした。

 箱舟のサイズは、長さ一三七m、幅二二m、高一三m。これは現在の造船技術でも妥当なサイズなのだそうです。他の神話も「洪水伝説」がありますが、その「箱舟」はなんと巨大な立方体とか大きさが1kmを超えるとか、到底実用に耐えないような代物だそうです。大きな舟なんて造ったり乗ったり見たこともない。裏を返せば、ノアの箱舟を見ても安全だとは思えなかった、ということでしょう。洪水が起きた時も、当時の人々は、箱舟に入れば救われるとは思わなかったのではないでしょうか。もし箱舟に入ったとしても「こんな真っ暗な木の箱で、動物たちと閉じ込められるなんて真っ平だ」と叫んで、箱舟をぶち壊そうとしたのではないでしょうか。神が用意された箱舟は、神を信頼して、神が用意されている生き方を受け入れる人には「救い」です。しかし、神を信頼せず、自分が神になろうとして人や世界を滅ぼして構わないと思っている人にとっては、到底受け入れがたい生き方だった。神の言葉を信頼して、そして、そこに示されている新しい生き方を受け入れる事。それは救いのための手段ではなくて、それ自体が救いなのです。主イエスの十字架もそうです。

Ⅰコリント1:22~24「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」[8]

 箱舟も十字架も、見る人にとっては愚かで近寄る気にもならないものですが、神は私たちに、神を信頼して、神が造られた世界で活き活きと生きるよう招かれます。神との関係だけでなく、家族やあらゆる人間関係、労働や自然との関わり、要するに、皆さんの生活のすべて、どんな小さな事も、神の御手からの預かりものとして、心を込めて取り組む。暴力や不正からも目を背けずに悲しんで、怒って、嘆いて祈って、出来ることをしていく。もしそうでなく、この世界をいい加減に考えて良いなら、神はどうして箱舟を造らせて、全世界を託したのでしょうか。

 ノアは正しい人だったから私たちと違う、と思う人もいるかもしれません。実は、8節の

「ノアは主の心にかなっていた」

は欄外に直訳が

「主の目に恵みを見出した」

とあります[9]。ノアが正しいから選ばれたのでなく、先に主がノアを恵みの目で見て下さったのです。その上、ノアの家族まで神の契約の中に入れられました。ノアの子孫は洪水の後、早速、父親を笑い物にして、神から離れていきます。やがて「バベルの塔」を築いてしまう。いいえ、箱舟から出た時点で主は

「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。」

と仰います[10]。「洪水で懲りた人は今度こそ正しく生きるだろう」「正しいノアの子孫だから真っ当に歩んでくれるだろう」という甘い見込みはありません。幼い心に悪を抱えていることを承知の上で、神はノアの家族を契約の中に入れて、世界に散らされました。人の悪を熟知した上で、神には現実的なご計画がありました。世界を愛して、それを保たれて、人を世界に置かれた役割を何としてでも果たそうと諦めない御心があります。その大きなご計画の枠組として、神はノアと家族を選ばれたのです。

 そして私たちは今、ノアの家族のようにして神の民とされています。私たちが正しいからではなく、真に正しい一人の方、イエス・キリストによって神の家族とされました。恐る恐るでも十字架の福音の門を潜(くぐ)って、教会という箱舟に入りました。そしてここに留まらず、それぞれの生活へと遣わされていく。世界には今も沢山の問題や悲惨があります。自分の中にも悪を見ます。諦めそうになります。でも神はこの世界を見捨てず、人の役割を諦めない方です。イエス・キリストによって私たちを新しい契約に入れてくださいました。私たちが目にする世界、毎日の生活、小さな営み、他人や自分という存在は何一つ無駄ではなく、かけがえのないものです。神が私に託してくださった生活を大切に受け取って、主に捧げさせて戴きましょう[11]

「天地の主。世界が、今日も太陽が上り雨が降り、季節が巡ることは、あなたの深い慈しみによります。生かされていること、主によってあなたの子とされ、地の塩、世の光と呼ばれて、遣わされることを感謝します。日々の務めを、世界の悲惨への悲しみを、私たちの手の業も、後悔も、言葉も祈りも聖別して下さって、どうぞあなたの貴く深い栄光を現してください」



[1] 創世記4章23~24節「レメクは妻たちに言った。「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」」

[2] 13節の「神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。」も、神が滅ぼし去るので、肉なるものの終わりが来る、というよりも、神の前には既に肉なるものの終わりが来るばかりになっているため、神は自らの手によって滅ぼすが、その中にノアとの契約を建てられる、という読み方が出来るでしょう。

[3] 神は、この暴力の世界を裁かれた。それは、人に対する怒りではなく、弱者に伴う神の怒りである。まだ人は、バベルの塔を造る発想はない。弱者は殺されていたのだ。殺された人々の叫びを、神は涙して聞かれたのだ。その後の社会をも神は維持して、弱者を丸ごと滅ぼすことはしない。しかし、暴力の方が強くなりすぎるなら、強制的に介入もなさろう。それ以上に、弱者を慰め、私たちが福祉に生きることを神は支え、促し、介入し続けておられる。

[4] 6節「心を痛められた」3:16「産みの苦しみ」、5:29「労苦」と同じ。五7「心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった」。それで主が心を痛める!

[5] 神の後悔も、怒りも、喜びも、本来の大いなる神にとっては、「不名誉」な表現・感情であるはず。人間でさえ、小さな事で感情を露わにすることは恥じる。しかし、神は、人の行為により激しく心を動かされると吐露して憚らない。それほど神は人に心を動かされ、また、人にご自分の感情、愛を伝えたいのだ。

[6] 3節で言えば「一二〇年」。これは人間の年齢の上限というよりも、この時に宣言された猶予期間と考えた方が筋が通ります。これ以降も、人は百年以上生きるのですから。

[7] 六20、八17は、一24、25、30の反復。九1、2と一28も。

[8] Ⅰコリント一章18~24節「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。19「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。20知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。21神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」、また、Ⅱコリント二14~16「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。15私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。16滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。」

[9] この表現は、創世記十八3、十九19、三十27などで多数用いられています。

[10] 創世記九21「主は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で主はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。22この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」」

[11] ローマ人への手紙12章1-2節「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

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はじめての教理問答76、77 出エジプト記20章1~17節「十のことば」

2019-02-03 17:24:15 | はじめての教理問答

2019/2/3 出エジプト記20章1~17節「十のことば」はじめての教理問答76、77

 先週まで、キリストとは「油注がれた者」という意味で、預言者・祭司・王の三つの役割を果たすお方だというお話しをしてきました。イエスは私たちの預言者・祭司・王です。今日からは、その私たちの預言者・祭司・王であるイエスが、私たちに与えてくださったたくさんの恵みの中でも「十戒」について教えられていきましょう。

問76 シナイ山において、神さまはいくつの戒めを与えましたか?

答 十の戒め、十戒を与えました。

 この「十の戒め…十戒」が、先に見た、出エジプト記の20章にあった言葉です。十戒は、出エジプト記の時代にとっても、今の私たちにとっても、大事な贈り物です。神はこの十戒を二枚の石の板に書いたとあります。

 以前は、この二枚の板には、十の戒めが二つに分けて書き記されていたのだろうと考えられていました。それが、20世紀になって考古学の発掘調査が進んで行く内に、この当時の社会では、大事な契約を交わすときに、同じ内容を書いたものを二つ作って、お互いに持つようにしていた、ということが分かりました。ですから、二枚の石の板も、十戒が半分ずつ書かれていたのではなく、同じ内容が書かれた二枚の板、両方とも十戒が刻まれた二枚の板、ということだと考えられるようになりました。つまり、それほど十戒は大事な文書、確実な契約だということです。

 詳しくは次回から見ていきますが、十戒の内容はこの通りです。

わたしは、あなたをエジプトの地、

奴隷の家から導き出したあなたの神、主である

あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない

あなたは自分のために偶像を作ってはならない

あなたはあなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない

安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ

あなたの父と母を敬え

殺してはならない

姦淫してはならない

盗んではならない

あなたの隣人に対して偽りの証言をしてはならない

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

 この「十戒」は序文があります。一番の土台となる言葉です。それは、神が

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」

と言われた宣言です。十戒は、神がイスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から救い出してくださったドラマの後に書かれています。決して、彼らが十戒を守ったから救ってくださったのではありません。神は今も私たちに、神の戒めを守るなら救ってやろう、と条件として命じるお方ではありません。まず、神の私たちに対する愛、私たちを奴隷のような生き方には留めておけない、解放してやりたい、という熱い思いが先にあるのです。十戒や神の戒めは、神の私たちに対する要求、条件ではなく、神が私たちを愛して、救ってくださった御業が先にあることを覚えましょう。私たちは、神の一方的な、先立つ恵みによって、既に、奴隷や孤独な行き場のないものではなく、神との切り離せないつながりを与えられたのです。私たちは神のもの、神の民、神の子ども。このアイデンティティから、十戒は語り出されているのです。

 では、既に神の子どもとされているのだったら、どうして十戒なんて規則に従わなければならないの? 従わなくてもいいんじゃないの? 自由にされたのだから、自由でいてもいいんじゃないの? その通りですね。そして、面白い事に十戒は「自由の律法」とも呼ばれる事があるのです。自由をもたらす完全な律法なんだ。律法がないほうが自由なのではなく、律法は私たちに完全な自由をもたらしてくれるのです。十戒の助言で主は

「わたしはあなたがたを奴隷の家から導き出したあなたがたの神」

と言われていました。それはエジプトだけの話しではなく、どこでもすぐに私たちは

「奴隷の家」

 人を不自由にし、差別や競争や支配のピラミッドを作りたがることを言っています。せっかく奴隷の家から救い出されたのに、また同じような、不自由で人を縛るような社会を作りやすい。だから、十戒が与えられました。神以外のものに縛られないようにと、殺したり姦淫したり盗んだり欲しがったりする生き方・考え方から自由にするための十戒なのです。私たちに染みついている不自由なルールから自由にするために、神は、十戒を与えてくれるのです。先の教理問答でも、こう言われていました。

問77 どうしてわたしたちは、十戒に従わなくてはいけないのですか?

答 神さまはわたしたちの造り主であり、救い主であり、王だからです。

 十戒は、私たちの造り主、救い主、王なるお方の私たちに対する考えです。それは本来私たちにとって最も自然で、納得できて、幸せになり、喜ばしい指針であるはずです。それなのに、他のルールが染みついていて、「嘘を吐いて何が悪い、虐められなくて不自由だなぁ」などと思っているとしたら、それこそ惨めで囚われている状態です。依存症という病気がありますが、パチンコや麻薬やお酒やゲームが止められないのです。その時には「自由」といえば、生活や家庭を壊してでも自分のしたいことに注ぎ込むのが「自由」だと思い込んでいます。でも、そんなものをしなくてもいい。自分の人生のルールはギャンブルやゲームではないと思えるようになったら、本当に自由を味わえるのでしょう。本当に自由になるために、神は私たちに従うべき十戒を下さったのです。

 十戒の

「…てはならない」

と訳される結びは、もっと単純に

「しない」

とも訳すのが素直な言い方です。

わたしは、あなたをエジプトの地、

奴隷の家から導き出したあなたの神、主である

あなたには、わたし以外に、ほかの神はない

あなたは自分のために偶像ない

あなたはあなたの神、主の名をみだりに口にしない

安息日を覚えてこれを聖なるものする

あなたの父と母を

ない

姦淫しない

ない

あなたの隣人に対して偽りの証言をしない

あなたの隣人の家を欲しがらない

 「他の神があっちゃだめだ」「父と母を敬いなさい!」「隣人の家を欲しがるなぁ!」ではなく、「わたしはあなたがたを奴隷の家から導き出したあなたの神、主だ。あなたには他の神はない。偶像を作らない。…父と母を敬う。殺さない。姦淫しない。盗まない。隣人の家を欲しがらない」。もうそういう生き方が始まっている。そういう生き方の中に入れられているのです。素晴らしいと思いませんか。

 先に依存症の話しをしました。依存症もいくら「麻薬やギャンブルはしてはダメだ、やめなさい」としつこく言っても治りません。罰したり脅したり、罪悪感や恥意識を持たせても、かえって治癒には逆効果なのです。ますます「自分はダメだなぁ。そんなダメな自分に、一瞬でも安心やワクワクをくれることのほうがいいんだ」と走ってしまうのです。それよりも、その人と関わる。自分を愛してくれる人がいる。決して見捨てず、応援してくれる仲間がいる。そうして、依存症からの回復が始まるのだそうです。

 十戒もそうです。神は律法を命じる以前に、先にイスラエルの民を奴隷生活から救い出してくれました。神の民の交わりに入れて下さいました。そして、自由をもたらす律法をくれました。それでも人は律法を蔑ろにしました。律法に生きようとしても、自分の罪を痛感するしかありませんでした。そこで神がして下さったのは、神の子イエス・キリストが人となって来て、十字架に死んで、三日目によみがえる事でした。イエスは私たちを神の子どもとして、神を天の父と親しく呼ぶ関係をくださり、教会の交わりに入れてくださいました。あなたがたに他に神はない。あなたがたは互いに愛し合う。そう言ってくださっています。そのために律法は素晴らしい手がかりになのです。

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