聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2012/10/28 宗教改革記念礼拝 ローマ書六12―14「神にささげる生」

2012-11-05 14:45:30 | インポート
2012/10/28 宗教改革記念礼拝 ローマ書六12―14「神にささげる生」
箴言六1―19 詩篇一一六篇

 今日の箇所を読んで、もう一度思い出していただけたと思いますが、パウロはずっと、神様の恵みによって赦される-赦されることによって神の義の栄光が現される-のであれば、ますます罪を犯してもいいではないか、という揚げ足取りを想定して、そうではないことを論破しようとしています。11節までに論じられてきたことの要点は、今日の13節の言い回しの中に見出せると言えるでしょう。
「13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」
 この後半には、
 「…あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」
とあるのですが、前半では、
 「…あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません」
としか言っていなかったのです。あなたがた自身を(あるいは、あなたがたを)罪にささげてはいけない、という言い方をパウロはしていません。ここだけではなく19節でも同じ言葉遣いです。
「…あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」
 パウロが「ささげる」ことで考えているのは、「手足」なのです。もちろん、手と足だけではありません。これは、「器官」 、「からだの一部」 とも訳される言葉で、手や足や目や耳などすべての部分を指します。そういう部分々々を罪に捧げてはならない、とパウロは言う。しかし、あなたがた自身を罪に捧げるな、とは言いません。それは何故かと言えば、11節で言っていた通りです。
「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。」
 これは、「気の持ちようでどのようにもなるのだから、そう思い込め」という意味ではありません。事実、キリスト・イエスにあって、キリスト者は罪に対しては死んでいるのだし、神に対して生きている者である、だから、その事実を認めなさい、という意味でした。私たちは、既に罪に対して死んでいる。だから、自分自身を罪にささげることは出来ない、あり得ないのです。あるいは、罪を犯してしまうとき、私たちは「また罪に流されてしまった。サタンの配下に飛び込んでしまった。」「神様の手から落ちてしまった」などというような思いを抱いてしまうのですが、そうではない、そんなことは起こり得ない。私たちはもう神様のものである。どうしたところで、私たちが神のものではなく、罪やサタンのものとなることなど不可能だ。なぜなら、イエス・キリストに結ばれた私たちは、罪に対しては死んで、神に対して生きている者なのだからです。
 しかし、神のもの、であるけれども、自分の手足を罪にささげてしまうことは出来るのです。出来るから、といって、して良いのではない。むしろ、神のものであるからこそ、自分のからだを、義の器として神にささげる。それがキリスト者の生活なのですね。
 前回もお話ししたように、パウロがローマ書でハッキリと命じている勧告、命令文は、一章以来ここまではありませんでした。この六章11節から13節で初めて、パウロは読者に対して、だからあなたがたは自分を罪に死に、神に生きている者だと考えなさい、そして、自分のからだを罪に捧げるのではなく、自分と自分のからだ(手足)を義の器として神にささげなさい、と命じるのです。そして、19節でまた、
「…あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」
と言い、次は十二章までまた命令文(勧告)はなくて、十二1で、
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」
と勧めるのですね。そして、その後で、具体的な命令がずっと続いていくのですが 、その最初のところで命じられているのが、やはり「からだをささげなさい」なのです。ローマ書の適用は、福音の力、素晴らしさだけではなく、私たちが自分のからだを神に捧げる、ということです。それがキリスト者の生の柱なのです。私たちの手や足、目や唇、そのなす事一つ一つを、情欲(自分の感情や欲)に従わせず、義の器として神に捧げる。それが、キリスト者に対する神の御心なのです。
 神に自分を捧げる。私は神のものだと考える。それは勿論です。しかしそう言いつつ、からだの営みを見れば、この世の欲や発想に従って齷齪(あくせく)とこの世の道を歩んでいる、そういうことが大いにあり得る、と言うのです。献身とか恵みや聖化ということが抽象的な、精神的なことだけで考えられて、手足のしていること、目が見ているもの、口が語っていることも、神へのささげもの、という意識が抜け落ちている 。いや、むしろ、放っておけばそうしてしまうのであって、罪に捧げてしまわぬよう、どれほど私たちが注意深くなり、謙虚に祈り、力を尽くさなくてはならないか、は説明するまでもないでしょう。「神様にお委ねしています」と言えば聞こえはいいのですが、「委ねる」という事自体、実は行動であって、怠惰にすり替わってはならないはずです。私たちは、手足あるこのからだを神に捧げるよう命じられているのです 。
 とはいっても、私たちが正しく生きることによって救われるのでもありませんし、恵みによって救われた後は自分の力で頑張って正しく生きる、というのでもありません。
「13というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」
 私たちが恵みの下にある、だから、自分の手足を義の器として神にささげなさい、というのです。律法の下にはいなくて恵みの下にいるのだから、何をしてもいい、ではないのですね。律法はそれだけでは罪の支配下にある人を救うことは出来ませんでした。義を示し、罪に気づかせるだけで、罪に囚われた者を救い出すことは律法には(当然ながら)出来ませんでした。けれども、恵みは罪人を義とし、罪人に神との平和をもたらし、罪に死んでいた者を「神の栄光を望んで大いに喜ぶ」者へと変えるのです 。その恵みの下にある者は、心や魂だけではなく、そのからだを罪の支配に委ねず、神のものとして捧げるよう努める。それが恵みの下にある者に与えられる生活なのです。
 今日は宗教改革記念礼拝で、ルターが「九五箇条の提題」を発表したことから始まった宗教改革の原点を、世界中のプロテスタントがともに確認をする日です。そのルターのひと世代後に登場したジャン・カルヴァンを、私たち長老教会はより直接的な原点として覚えるわけですが、マクグラスというイギリスの神学者はこう書いています。
「ルターにとって神の恵み深さは、神がそのような特権に対してふさわしくない罪人である人間を義とされたという事実にある。カルヴァンにとって神の恵み深さは人間をその功績に関わりなく救う決定にある。ある人間を救うという決定はその人間がふさわしいかどうかとは関係なくなされるのである。ルターにとって神の恵み深さは神が彼らの罪深さ〈にもかかわらず〉罪人を救うことにおいて示されるが、カルヴァンにとってそれは個人の功績とは無関係に救うということにおいて示されるのである。」
 ルターは私たちが罪人であっても救われる、という革命的な恵みを強調しましたが、カルヴァンは神が私たちを救ってくださる御心そのものを恵みとしました。そして、私たちが神の栄光を現す者とされていく、という本来の目的の回復に結びつけたのです。これが、キリスト者の生活を積極的なものとして位置づけ、世界そのものとの関わりに対する肯定的な姿勢を産み出し、後の科学や経済、労働の発展につながったのです 。
 この伝統は、今日の箇所でも裏付けられる財産です。恵みによるのだからと自分の罪や弱さを正当化するのではない。キリスト者であるということを抽象的・精神化してしまうのでもない。日々、私の手が、目が、唇が、罪を犯す器ではなく 、義の器、恵みの器となりますように、と祈る。特に、自分がどのような罪を犯しやすいか、具体的に自分の脆さ、クセを自覚して、聖とされたいと願い、祈ることがどれほど大切でしょうか。それは、律法に支配される、堅苦しいことではありません。恵みの下にある者ゆえの聖なる願い、喜ばしい渇望です。どうか、本当に私たちが、そういう宗教改革の財産を確認して、恵みの下にある歩みに成長し、祈り願うものとされたいものです。

「この手も足も目も口も耳もあなた様のものですから、どうか私共がこの一つ一つを主の器として尊び、恵みを運ばせて戴けますように。恵みによって救われるからこそ、恵みによって強められ、心もからだもきよくされる、そんな幸いを信じ、願わせてください。信仰の先人の道筋に励まされ、このからだを神にささげる喜びに与らせてください」


文末脚注


1 ローマ書十二4、5など。
2 マタイ伝五29、30。
3 参照、十二章2節以下十五章まで。ここに、「愛には偽りがあってはなりません。」「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、艱難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」などなどの有名な勧告がギッシリと詰まっています。
4 箴言六16―19「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いをひき起こす者。」なども、聖書がどれほど具体的に私たちの罪をからだと結びつけて具体的に考えているかを教えています。
5 私たちの中に罪が残っている限り、「居心地の良い信仰生活」などという口上は世(よ)迷(ま)い言(ごと)でしかない、ということでしょう。
6 ローマ書五章(1―5節、15節、など)、および、その説教を参照。
7 アリスター・マクグラス『宗教改革の思想』(髙柳俊一訳、教文館、2000年)178ページ。
8 アリスター・マクグラス『ジャン・カルヴァンの生涯 西洋文化はいかにして作られたか 下』(芳賀力訳、キリスト新聞社、2010年)タイトルが示す通り、同書全体が、カルヴァンの西洋史における貢献を論じているが、特に、251ページなどにまとめられています。
9 「器」と訳されるギリシャ語ホプラは、ローマ書十三12では「…やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか」と訳されています。(Ⅱコリント六7、十4、参照)。口語訳聖書では、この六13も「〈不義の、また義の〉武器」と訳しています。罪の武器として、他者と自分を傷つけ、神に刃向かおうとするのではなく、義の武器としてサタンのわざを打ち負かす、というニュアンスも捨てがたいものです。


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2012/11/04 民数記二〇章「... | トップ | 2012/10/21 ローマ書六8―11「... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
今日は よろしくお願いしますね^^すごいですね^^ (バーバリー シャツ メンズ)
2012-11-17 09:50:45
今日は よろしくお願いしますね^^すごいですね^^
返信する

コメントを投稿

インポート」カテゴリの最新記事