物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

新聞を読むように

2019-01-18 10:08:07 | 日記

私のブログを訪れてくださる人がおられる。

だが、なかなかそれらの人々の求めておられるものに近づいているのか、はたまた、トンチンカンなのかはまったくわからない。

ブログの読者が少しづつではあるが、増えているようなので、自分勝手にいいほうに解釈をしている。

どっちみち、ブログは自分自身みたいなものだから、誰かにその在り方が悪いと言われても急にかえることなどできない。

世にはキレイな山や花の写真を載せてくださるブロガーの方もおられる。これだって、とてもたいへんな努力が必要であろう。

写真をとるときは1秒の何分の一かであるが、そういう景色が自然に現れるまでにはすごく長時間、待たねばならないことがほとんどであろう。、

そういう苦労をしないで、舌先三寸だけでやっている私などはブロガーの端にもおけない奴だと思われてもしかたがない。


体系的なものを目指せる人と

2019-01-18 09:30:30 | 物理学

体系的なものを目指せる人と目指せない人とのちがいはどこにあるのだろうか。

私は体系的なものを目指せない者の一人である。体系的なものを目指そうとしたことはあったが、なかなかそれができない。

在職中にはじめた数学の「アンチ公式集」みたいな「電気電子工学科ミニマム」とか、これは退職した後に、書いたe-learningのコンテンツは、たぶん本質的に体系的なことを目指せない私がそういうことを目指そうとした痕跡である。

しかし、これらはなかなか完成にはいたらない。細部にまでこだわる私の性癖が邪魔をしているのであろう。

どの本でも(これは数学の本や物理の本でも)書きぶりのいいところとそうでないところとがあるようだ。

雑誌「窮理」で物理学者の原康夫さんが書いているところでは、朝永の『量子力学』のII巻の前半は後半ほどには、あまり興味をそそられないと、原さんが朝永さんに言ったら、それはそうだろう。前半はゾンマーフェルトの本の焼き直しだからと言われたとか。

ちなみに、量子力学の三大名著とはDirac の「量子力学」、Pauliの「波動力学」、それと朝永の「量子力学」I, IIである。もっとも朝永の「量子力学」I, IIの中には角運動量の理論が抜けているので、朝永さんの遺著『角運動量とスピン』(みすず書房)を付け加えておかねばならない。もっともNorth Hollandから出た英訳のほうにはII巻に角運動量の理論がちゃんと入っている。

これは英訳されたときに、角運動量の理論が入っていないと量子力学の本としては完結しないということで、その部分が後で書き加えられたものらしい。

 


フランス語を

2019-01-17 12:18:56 | 日記

フランス語を大学で学んだのは半年のことにすぎなかった。

しかし、そのときの N 教授の顔をいまでも思い出すことができる。彼は始めの講義でいつでも一つのフランスの詩を朗誦するので有名だった。

それはVerlaineの「秋の歌」Chanson d'automne だった。

その詩全体はあまり長いものではないが、その冒頭の箇所をだけあげておく。

Les sanglots longs     秋の日の

Des violons      ヴァィオリンの

 De l'automne     ながいすすり泣きに     

Blessent mon coeur こころ傷み 

 D'une langueur   単調な  

 Monotone.       もの悲しさを誘われる

(岩波文庫『フランス名詩選』より)


someとseveral

2019-01-17 11:46:02 | 日記

どちらも日本語では「いくらかの」と訳されているのかもしれない。

私は英語をいわゆる塾で学んだのだが、そこでの先生であった、武田先生はsomeを「2,3の」と訳せ、severalは「5,6の」と訳せと言われていた。

英英辞典でどう説明されているのか知らないが、私はそれらの語の語感をそうやって得たという気がする。なにせ14,5歳の時に教えられた英語である。そうやって、たぶん死ぬまでそういう語感をもっているだろう。

sevralを英英辞典で引くとmore than two but not many とあるから、まあまあ意味はとれているだろう。someのほうはちょっと微妙だが、being a cetain one or ones not specified or knownとある。

こんなことを思い出した朝であった。


印象に残る言葉

2019-01-16 10:49:44 | 物理学

『ヴィジュアル複素解析』(培風館)の序文の冒頭につぎの引用文があった。

 よくわかっていることがらに関して、異なる物理的な考え方によって記述されている理論がいくつかあったとしよう。これらの理論は、帰結される予測全体からみれば同等になっているので、理論としては科学的に区別できないことになるであろう。しかし、まだよくわかっていない領域に踏み込んでいくときは、それらの理論は心理的には同じとはいえない。なぜなら、視点が異なれば、異なる種類の変更を思いつかせることになるからである。したがって、まだよくわかっていないことがらを理解しようと試みるときは、異なる視点は、導き出される仮説からみれば、同等ではない。R. P. Feynman (1966)

とあった。これほど徹底した観点からではないが、私もいくつかの違った理解をしようとしてきた。

この序文の冒頭の文章はたぶんに『ヴィジュアル複素解析』の著者が立とうとしていた立脚点であるのだろう。

ところで、この文章の出典はFeynmanのノーベル賞受賞講演にあるという。その訳は江沢洋 訳『物理学はいかにして発見されたか』(岩波現代文庫)に出ている。

 


POD

2019-01-16 10:32:45 | 日記

PODというと、昔の英語好きの少年であった私などは、Pocket Oxford Dictionaryかと思うが、最近ではそういうふうにもっぱら使われるのではない(注)。

PODはすなわち、Print of Demandである。このPODの本を数冊もつような時代とはなった。もっともPODの本は結構高い。

先日、古本で購入した竹内均さんの『弾性論』(裳華房)は1500円であったが、これもPODの古本であって定価は3600円とついていた。

たぶん、現在の私なら、こんなに高い書物を購入するのはためらうであろう。だが、武谷三男の著作を集めてはその目録をつくっている私としては彼の著作集のPOD出版の書の数冊を買わざるを得ないことがあった。これはある程度こういう役目をしていれば、しかたがない出費であった。

(注)英語好きの元少年が欲しがっていた他の辞書はCOD(Concise Oxford Dictionary)であるが、こちらのほうはとうとう手に入れることを断念したが、PODのほうは妻のもっていたものがいまでは私の書棚にある。もっともあまりひいたことはない。

また英語学最高の辞典と言われるOED(Oxford English Dictionary)は高校のころに職員室で見かけたことがあったが、それを誰かが引いているのはついぞみかけなかった。


『数理釈義』

2019-01-15 13:08:16 | 数学

を大学の図書館から借り出してきた。

この本は驚くことに縦書きの数学の本である。Cliffordというイギリスの数学者の本を訳したものらしいが、直訳ではなく、かなり意訳されたものだと思われる。

これでは現代の私たちにはなかなか読むことができない。残念である。


「虚数とカルダノの公式」2

2019-01-15 12:41:36 | 数学

を書く必要がでてきた。「虚数とカルダノの公式」については前のエッセイですべてを尽くしたと思っていたが、なかなかそういうわけにはいかない。

いずれ、このタイトルでの2のエッセイを書くことにしよう。これは『ヴィジュアル複素解析』(培風館)を読んだおかげである。

著者のニーダムさんに感謝しなければなるまい。複素解析を学ぶ人はたくさんいるとは思うが、この本を読む人は限られているだろうから。

どうして、3次方程式で虚数単位 i が認識されることになったかという理由も図から一目瞭然にわかるように書かれている。

虚数単位が認識された理由については、すでに「虚数とカルダノの公式」で書いたので関心をもたれたかたはインターネットで「数学・物理通信」の該当号を検索してみてください。

数学が得意の方には釈迦に説法だが、数式を理解できると世界が広がるから、数学が不得意な方には、いくらお年をとられていても、数式を少しでも理解されるように新しく学ばれることをお勧めする。

これは詩集を読んでも、詩をつくってもおなかの足しにはならないが、こころが広がるのと同様である。

 


いい本は古本でも

2019-01-14 10:29:38 | 数学

高価である。例えばの話しだが、いま図書館で借りている『ヴィジュアル複素解析』(培風館)は出版時の定価が5500円だったが、古本としては1万円を超える値段がついている。

私がときどき参照したくなる、Felix Keinの書『高い立場から見た初等数学』(東京図書)など4冊本ではあるが、訳書では合計で2万円~4万円くらいしている。もっとも英語版だとDover版で1000円ちょっとだったと思う。それが2冊出版されていて、最後の3冊目は発行の予定がないとかインターネットで見たことがある。

チャンドラ・セカールの、ニュートンの『プリンキピア』を現代的な観点から見直した本など値段も古本として調べたことはないが、発行時の定価だってその訳本は1万円を越していたと思う。

広重徹さんの『物理学史』(培風館)なども結構な値段が、古本としても、しているので、なかなか購入できない。そういう本は他にもあることだろうが、いま思いつくのはそんなところである。

もっともそれに反するような本もあるのはある。だが、安いと内容が詰まらないと決めてかかる人も多いかもしれな。

山本直樹さんの『複素関数論の基礎』(裳華房)はまだ手に入れてはいないが、そんなに高価ではない。これは大学の複素解析のテクストとして発売されているからだろうか。

 

 


虚数単位の i の意義

2019-01-12 13:04:00 | 数学

虚数単位の i の意義が認識されたのは、カルダノの3次方程式の解の公式が得られてからであるということはいつか数学エッセイに書いたことがある。

ところが、カルダノ自身はそれでも虚数単位の i の意義はわからなかったということを、昨日借りて来た『ヴィジュアル複素解析』(培風館)で知った(注)。

この本は複素解析のテーマの本であり、ちょっと大学の複素解析の普通のテクストとしても使える。多くの図があってなかなか面白いが、それでも複素解析が簡単にわかるという気はしない。

私の現在の関心事は「解析接続と分岐点」にある。解析接続については「鏡映による解析接続」の詳しい説明があるが、まだよくはわからない。

「関数関係の保存法則」とかの説明もあった。もっとも解析接続の方法に十分に焦点があたってはいないので、まだまだ不十分の感じがする。しかし、別の見方を提供しているのは確かである。

(注)「数学・物理通信」5巻3号「虚数とカルダノの公式」を参照せよ。「数学・物理通信」はインターネットで検索すれば、すぐにこの情報に到達する。

 


数学の学習会

2019-01-12 12:58:36 | 日記

数学の学習会に久しぶりに出かけてみた。数人が集まる小さな学習会であるが、それでも途切れてしまうことはないから立派なものである。

九九と掛け算の意味とかの議論があり、実際に現役の小学校の先生の悩みというか、どう授業をしたものだろうという、切なる希望を聞いていると人間って悩むものなのだのと思う。それだからこそ、人間って、素晴らしいのだと思う。

なんでも一筋縄ではいかないところがある。


ビジュアル複素解析

2019-01-11 14:15:15 | 日記

という本を大学の図書館から借りて帰った。もちろん、分岐点の定義と解析接続を調べるためである。もっとも分岐点の方はあまりこの書からは得るところがなさそうである。

解析接続のほうは少し新しいことが得られる可能性はありそうだ。これは訳本で2002年の発行だから、私がまだ在職していたときに発行になっている。だが、あまり読んだことはなかった。


つぎのエッセイ

2019-01-11 09:46:35 | 数学

を書こうとしている。もっともこれは新しいエッセイではなく、以前に書いたエッセイを改訂増補したものである。

年をとってくると来年のことももう読めない。今年元気でも来年はどうなるのかそれは神のみぞ知る。いや、神様だってそのことはご存知ではあるまい。

ということで、いままでの自分の蓄積を残る形にしておきたい。そういう気持ちが強くなるのだ。そういう仕事の一環として、昔のエッセイの入力をしている。

この作業は昨日からはじめた。というのも「数学・物理通信」8巻10号を昨日発行したので、時間がとれるようになったから。

題して、「遠山啓の岩波新書を読む」である。これは、むかし、ある雑誌に掲載されたものであるが、現在の時点での書き換えをしようと考えた。もっとも昔書いた時よりもすこしだけ蓄積ができているので、いろいろ書き換えができそうである。

読みが深くなったというよりも、経験をすこしばかり積んだためというのが正直のところである。


来週に発行しようかと思ったが、

2019-01-10 21:57:43 | 日記

今日、「数学・物理通信」8巻10号を発行した。だんだんと私も気が短くなっている。しばらく時間をおいて、来週早々に発行すべきであったかもしれないのに。

これはこの発行することにいつまでも気にしなくてはいけないのが、我慢ができなくなってしまったということを示している。

確かに、人生は有限だし、私の生きられる時間はだんだんと限られていることは確かである。それでつぎの仕事をするためには早く前の仕事からやり上げてしまうべきだという考えももっともであろう。

そうは言うが、私のやることなどたかがしれてはいるのだ。それでもまだ何かをしたいと考えているのだから、度し難い奴だと思われてもしかたがない。

そうではあるが、人間なんてものは本来そういうものであろう。それをすくなくともそれを私は恥ずかしいとは思っていない。

 


ラジオのNHKの放送は

2019-01-10 11:21:11 | 日記

ほとんど新年も大みそかもないらしい。このことを知ったのは今年の1月3日に仕事場に出てきてラジオをつけたら、英語の放送をしていた。

それで第2放送は正月もおみそかもないことにようやく気がついた。第2放送は外国語の講座をほとんどやっている。日曜と普通のウィークデーとは違っているのだが、これほど外国語の放送というか普及に懸命な放送局は世界中にもあまりないのではないか。

第一、私がちょっとしたドイツ語のカタコトを話すようになったのもラジオとかテレビの放送を聞いたり、見たりしたおかげである。

最近ではかなり若いときに外国にでかけてそこでスペイン語だとか英語とかを身つけたという人の話を聞いたりする。身近でも姪の子どもは中国の深圳に2年間いて、英語が話せるようになった。

そしてその環境のためだと思うが、国を守ることが大事だということを悟り、防衛大学に進んでいる。そこでは英語、中国、ハングルを学ぶことが必須とされているという。

私なんか、フランス語かスペイン語が重要なのかとも思ったが、そうではないらしい。