物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

盆も正月もない

2014-08-15 12:06:35 | 日記・エッセイ・コラム

忙しくしているということの表現に「盆も正月もない」という言い方がある。

実際に正月に仕事をしたことはほとんどないが、お盆に仕事をしたことはある。

お盆は日本古来の休みであるが、祝日にはまだなっていない。

だが、お盆は夏のお正月だということを知ったのは1967年の夏にある研究をしていたときであった。

その研究のために8月だが帰省をしないでいた。だが、お盆には近所の食堂も閉まってしまった。

それで駅まで行ったら、さすがにそこの食堂は開いていた。それでようやくお盆は夏のお正月であることを認識させられた。

今日は8月15日であり、世間ではお盆の最後の日だが、13,14,15日とお盆休みをとってはいない。

70歳を過ぎて何をすることがあるのだと不思議に思う方々もおられようが、やはりすることはあるのである。


相対湿度

2014-08-14 13:19:04 | 物理学

今朝部屋の湿度が80%近かったので、相対湿度とは何かと妻と議論になった。

これは中学校の理科の時間に学ぶことだが、よく覚えているわけではない。

それで妻がお得意のタブレットで検索をしてくれたのだが、その説明がどうも要領を得ない。

仕事場に来て、岩波の『科学の事典』を引いてみて、簡単に理解できる部分はわかった。

飽和水蒸気密度という1m^{3}に含まれる最高の水蒸気密度が決まれば、それの何%の水蒸気を空気中に含むかで相対湿度が決まる。

たとえば、摂氏20度で17g/m^{3}の水蒸気を含むことができるが、これが10g/m^{3}の水蒸気密度であれば、17g/m^{3}で10g/m^{3}を割って約59%の相対湿度となる。

問題は温度と気圧が決まった大気中で飽和水蒸気密度はどのようにして決まるか。これは実験的に、または理論的にということである。

私が理解できなかったところはそういう説明がインターネットでされているらしいが、どれが実験的事実でどれが理論的な説明であるかが不明瞭であるということだった。

それを詳しく書いたwikipedia等の情報もあるのだろうが、いまのところそれを調べることまではしていない。

そんなことを説明したインターネットのサイトがあれば、便利だろう。


Kinderfreundlich, oder ?

2014-08-13 12:01:54 | インポート

Bist du kinderfreundlich ? (こども好きですか)

Ja,  eigentlich bin ich kinderfreudlich. (はい、子ども好きです)

Kinderfreudlich, oder ? というと「(君は)子ども好きだよね、そうじゃない?」と同意を求める表現であろうか。

子どもにとって、ドイツはあまりいい国ではない。おとなしく(brav)することが求められ、夜は早く寝ることが求められる(注)。

夜の時間は大人の時間であり、子どもが遅くまで起きていることは歓迎されない。

子どもは自分たちの寝室で一人で寝ることを求められる。子どもにとってはドイツは厳しい国である。電車などでもし子どもが騒いでいたら、近くの大人に叱られるのがオチである。

子どもが騒いだりするのを良しとはしない。子どもが電車やバスの中で騒いだりすれば、大人は黙っていない。

これは日本の現在のことだが、知人の女性の孫が夏休みに1週間ほどやってきてどこかの集会に連れて行ったら、そこに来ていた大人を叩いてまわったとかで、妻がその子を叱ったらしい。

さらに、その子の祖母にちゃんとしつけをして叱らないと意見したらしい。その祖母は妻の仲のいい友人だが、彼女はやはり孫がいた1週間ほどは大変だったらしい。

妻がその人に昨日電話したら、ようやく孫が帰ってくれてほっとしたという話だったらしい。

(注)bravというとどうも英語のbraveを連想する。独和辞書によれば、bravで「勇敢な」という意味は古語としてはあるらしいが、普通にはbravといえば、子どもがおとなしいとか従順であることを意味する。

従順という意味ではgehorsamという語が思い浮かぶ。こちらはまったく従順で言いつけをよく守るような感じがするが、本当のところはどうだろうか。


出版事業の今後

2014-08-12 10:23:26 | 本と雑誌

ある数学の本の出版を予定している。

私の書いたある特殊な分野の数学書を出版してくれるという出版社が現れた。

だが、その前にまだいくつかのクリアしなければならない課題が残っていて、その作業に結構手間がかかる。早くてもお盆明けくらいまでその作業がかかるであろう。

ところで、妻がいうにはもう書籍体での出版は時勢にあっていないという。

彼女はタブレットを購入して青空文庫という著作権の切れた小説をしばらくの間読んでいた。

特に夏目漱石の小説を読んでいたが、その経験もあっての考えだろう。

現実に私の子どもなどはタブレットで電子書籍を購入して読んでおり、書棚のスペースがないという問題をクリアしているらしい。

もっとも法的には電子書籍はその購読権を買っているのが実情だと聞く。いずれにしても書籍を購入して、自分の書棚に並べておくなどということは早晩なくなるのかもしれない。

だが、検索して該当のページにと到達することは電子書籍には簡単かもしれないが、ぱらぱらめくるという楽しみとか一覧性はやはり失われているのではないかと思う。

出版社でも電子書籍で出版はしてみたものの売れ行きは芳しくなく、開店休業というありさまだとも聞く。

図書館での書籍の電子化が進むかとも思ったが、国会図書館では書籍の電子化は進んでいるらしいが、一般の公立図書では電子化は許されていないとも聞く。

だから、なんでもかんでもインターネットで手に入るかというとそれも難しいかもしれない。

Einsteinの著作集はまだ多分刊行が完結していないと思うが、その一部はすでにインターネット上で見られるようだ。

一方、Heisenbergの著作集はまだインターネット上では無料でみることはできないのではないか。もちろん、没後50年にはまだHeisenbergの場合は達していない。

大まかの見通しとしては妻のいう、なんでもインターネットで情報を入手できるということは本当だろうが、まだ過渡期にある。


子どもはおとなしいのがいいか

2014-08-11 11:09:37 | インポート

「子どもはおとなしいのがいいか」などと書くと、今子どもを育てているお母さんの検索からのアクセスが多いかもしれない。

ここでは子育てに役立つことを言うつもりはないと明言しておく。

数年前に医療生協の支部活動の一部として夏休みに無料塾を行った。松山地方で最初に無料塾を行ったのは多分私たちであろうか。

そのとき、介護施設「あったか拓南」の会議室にやって来たのは小学校3年生と5年生の姉弟であった。

姉の方は5年生であったので、少し抑制が効いてはいたが、3年生の弟の方はいうことを聞かない。

常にいうことを聞く必要はないのだが、数十分を集中するという我慢ができない。お母さんが来ているときはお母さんの言うことだけは聞くが、無料塾とはいっても母親の意向で子ども自身は来ているので、先生である私たちのいうことを聞かない。

母親の要望でつぎの年も無料塾は開いたが、私たちの熱意がなくなってしまった。

これは別にこの子どもに特異なことでもなさそうである。3年目に書初めのための塾を妻が正月明けに開いたときには、3年坊主が5年生になっており、以前と比べればだいぶん大人になっていた。

現在、お隣の子どもさんたちは小学校の1年、3年、5年である。5年ともなれば、やはり大人びてくるが、1年、3年ではまだまだ子どもであり、わがままがときどきでる。

それでもお母さんのいうことはきちんとまもるから 、お母さんは子どもにとってやはり特別な存在なのであろう。

一言つけ加えれば、別にお隣のお子さんが性質が悪いということではない、むしろ普通の子どもと比べれば、格段におとなしく、聞き分けのいい子どもさんたちである。


雨続きの夏

2014-08-09 12:22:54 | 日記・エッセイ・コラム

梅雨は大体平年通りに上がったが、その後台風続きで雨が多い。

何年か前に雨が多かった夏があったので、今年が初めての体験ではない。

昨夜は涼しくて夜のエアコンが必要なしでも、よく眠ることができた。今朝、10時半ごろに室内の温度計をみたら、25.5度だった。

これでは涼しいはずだ。もっとも家を出るときには風は強くなかったが、仕事場についたときには強い風が吹くようになっていた。

これほど強い風はあまり経験したことがない。台風11号が近づいているのであるから、これはしかたがない。

あわててバルコニーの鉢植えを床の上に下ろした。風によって鉢植えが舞い上げられて階下に落ちれば、災害事故になりかねないから。

これは台風が近づいたときにいつも予防的に行っていることである。


ジャーナリズムのあり方

2014-08-08 11:34:40 | 日記・エッセイ・コラム

慰安婦問題で朝日新聞の取り上げ方がまちがっていたので、悪い評価を日本に与えられたという非難がある。

先日の朝刊でそれの検証記事が2面にわたって出ていた。それを読んで結論としては大きな過誤は朝日新聞にはなかったと思ったが、それにしても新聞はなかなか大変だという印象をもった。

そしてそれが特にためにする議論に使われるときにはそうである。どこかの記事で書かれたことは終生記録として残るからである。


台と塔

2014-08-07 15:05:20 | 日記・エッセイ・コラム

私は日本人だから台と塔と言われてそれがどんなものか知っている。

だが、それを説明できるかとなるとどうも説明できそうにないということを知った。

先刻、NHKのフランス語応用編を聞いていたら、Un yagura, c'est une tour en bois. (櫓とは木でできた高い台のことです)とあった。

それでtourを台と訳してあった。さてはて台とは何か。国語辞典を引いてみた。「地上より高く作って、あたりを見わたせるようにしたところ」とあった。

tourには塔の意味もある。塔とはとこれも辞書を引くと「高くそびえたつ建造物」とあった。

その塔も台のどちらもフランス語ではtourと訳されるのが目新しかった。


69回目の原爆記念日

2014-08-07 12:35:07 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は69回目の原爆記念日だった。

そのことに気がつかなくて昨日は起きるのが10時過ぎだった。

そして、新聞を朝読む暇がなくて、夜家に帰ってようやく8月6日であることを知った。

あしかけ10年にわたって広島で学生だったのだが、実はその当時原爆記念の式典に一度も出たことがなかった。

1967年8月には私はその当時D3であり、その夏は広島で後で私の学位論文となった研究の計算をしていた。その当日は朝早く起きて原爆慰霊碑にお参りしたことを覚えている。

4,5年前に医療生協のグループに加わって、広島の原爆記念式典に初めて出た。そのときにはまだ存命だったマンガ『はだしのゲン』の作者、中沢さんの講演をどこかの体育館で聞いた。そして、その午後バスで松山に帰った。

その何年か前にはテレビで記念式典の様子をつぶさに見たこともある。

だが、あまり原爆禁止運動にかかわらなかった。あるときに研究室の教授の命で数人の友人と科学者の原爆禁止運動とかかわりのある懇談会の録音テープを起こしたことがある。それはほぼ一夏かかった。

これがあえていえば、唯一原爆禁止運動にかかわったことであった。


笹井芳樹氏の死

2014-08-06 17:56:22 | 日記・エッセイ・コラム

昨夕のNHKのニュースのトップはSTAP細胞問題で注目を浴びた、笹井氏の死であった。

いろんな見方があるであろうが、私はやはり死んでほしくはなかった。

これからの彼の人生がとてもつらいものであろうことは想像ができたが、だからと言って死んだほうがいいというふうには思っていない。

科学者だって人である。間違うこともある。そのときにできるだけ自分に正直に振舞うことであろう。

名誉とかをふり捨てて、やはり一科学者として今後の彼の人生を生きてほしかった。それはもしかして自分がまちがったのなら、どこでまちがったのかが自分にもわからないのなら、そこをつきつめること。

もしどこでまちがったかわかっているのなら、その反省を自分でしておくこと。これは別に公表しなくてもいいのではないか。

ただ、その後の人生をただ単に惰性として生きるのではなくて、真摯に生きることだろう。

聞くところによるととても優秀な学者だったとのことである。こういうことが今後2度と起こらないことを願っている。


主語のない文

2014-08-06 12:58:58 | 外国語

ドイツ語で主語ない文が先々週のドイツ語のクラスで出てきたので、クラスメンバーの間でちょっとした問題となった。

ごみの収集前の分離の会話の中で出てきた文では

Da hat sich eigentlich nicht viel ge"andert.

という文である。この文には主語がないというので、それでもいいのかとクラスメンバーから質問が出た。

ドイツ語を母語とする、R氏はこれでいいのだというが、みんなすっきりしない。

これとは違うかもしれないが、ときどきドイツ語でも主語のない文章が話される。

先月NHKのドイツ語の応用編で自動詞の受動態で主語のない文章が出ていた。

Heute wird in meiner Firma auch gearbeitet. (今日は会社では仕事があるんだ)

他にもいい例があるかどうかは知らない。

Mir ist heiss. (暑い)

などは形式主語もない。もちろん形式主語esを導入して

Es ist mir heiss.

ということは可能だが、普通はそうは言わない。

感嘆文とかを別にして、動詞のない文章はほとんどないが、主語のない文章というのは普通に存在することを知った。


西伊豆

2014-08-05 12:27:40 | テレビ番組

先週と今週のNHK放送の鶴瓶の「家族に乾杯」で鶴瓶さんと松下奈緒さんが西伊豆を訪れていた。

何時だったか、作家の片岡義男さんが田中小実昌さんか誰かに謎々で「西伊豆でペンを拾った」を英語でどういうかと行きつけのスナックで質問されたと岩波のPR誌『図書』で読んでこのブログでも話題にしたことがあった。

片岡さんはNishi is a pen.と田中さんの期待に応える返答をして面目を保ったという話であった。

まさか、そのときに話題となった、その西伊豆に鶴瓶さんと松下奈緒さんとがいくとは思ってもいなかった。

私はこの放送を見ながら、Nishi is a pen.と独り言を繰り返して言っていたのはもちろんのことである。そばに妻がいたら、聞き咎めたであろうが、幸いそばには妻はいなかったのは幸いであった。

いつも変な行動をする、私のことを変人と思っている妻に聞かれなくてよかった。

なんでも話には前史があったりするが、その由来を知らない人が見たら、奇妙なことだと思うのは当然であろう。


2つの数の積の絶対値は?

2014-08-04 12:02:19 | 数学

2つの積の絶対値はそれぞれの数の絶対値の積となる。

すなわち、pとqという2数があって、その積の絶対値について|pq|=|p||q|という法則が成り立つ。

こういう中学生でも知っている法則なのだが、このことについてここ数日間考えている。

この法則を組成法則(絶対値の法則)とよんだりする書物もあるが、ハミルトンが複素数から四元数を考え出したときの指導原理なのである。

それが四元数を考え出すときの指導原理であることをどの段階でハミルトンは認識したのだろうか。

そういう疑問をいま持っている。


college

2014-08-04 11:31:57 | 外国語

たぶん前にも同じことを書いた気がするが、またまた驚いたので書く。

英語でcollegeというと単科大学を意味すると思っている。または総合大学の学寮とか学部にあたる。

ところが、ある特定の名称は別にして、フランス語では中学校を意味する。発音は英語とは違ってコレージュというような発音である。

上にも述べたが、ある特定の名称とはCollege de Franceという大学があるが、これは公開講座制の大学だという。ここはいわゆる学生はいないのだと思う。

あまり、College de Franceのことを聞く機会がないだが、ここの教授は特別に偉い人らしいと想像しているが、本当なのだろうか。公開講座制の大学だということは普通の意味の学生がいないということになるのであろうか。

日本でもそういう大学ができてもいいような気がするが、やはり難しいのであろうか。

よく似た言葉にcollegue (colleague :英語)同僚という語がある。同じ分野の学者のこともcollegueと言ったりする。

いつもこのcolleagueとcollegeを混同するのだが、そういう混同をする語にdialect(方言)とdialectic(s)(唯物弁証法)とがある。


2014年の人工知能

2014-08-02 12:09:46 | 科学・技術

「2014年の人工知能」というタイトルで作家の高村薫さんが岩波のPR誌『図書』8月号で書かれている。

それはこのブログでも紹介したことのあるディープ・ラーニング(deep learning: DLと略称)のことである。

DLは多量の情報を読み込み、学習するというソフトである。無作為かつ大量の情報を読み込んで文法を見出し、意味づけをしていく(ほぼ上記記事より引用)。

前にも指摘したのだが、これは武谷三段階論の本質論的段階に多量のデータから一挙に迫るものなのかどうかということを考えたいというのが前のブログの趣旨であった。

たぶん、一挙に本質に迫ることはできず、現象論的段階の一つの法則を見つけるという位置づけでいいのではないかと考えている。

そういう手法でまとまった法則がもし本質論的な段階のものであるとするならば、武谷のいう実体論的段階はいらないということにでもなろうか。

しかし、そういう考え方で本質へとはなかなか迫れないのではないか。

だから、「コンピュータの知性が軽々と人間の知性を越えていく世界が絵空事ではなくなった」とは考えてはいない。もちろん、ある種の感慨を抱くことはまちがいないが。

それで、DLをつくっている人間がどういう思想でDLを構築しているのかが知りたいところである。

コンピュータに支配される人間というのは確かに考え得る未来世界ではある。しかし、もしそういう世界が嫌ならば、人間はそういうコンピュータを破壊してしまうことだってできるはずだ。

もちろんそれはコンピュータにとって、原始的段階に留まることを意味するのかもしれないけれど。

映画などのフィクションの世界ではすでにそういうことが考えられているのではないか。

数学者、新井紀子さんの研究は「コンピュータの不得意は何かを明らかにする」である。そして人間の仕事はコンピュータの不得意なことに特化すべきだという主張とも関係しているテーマである。