枷掛持ってないので、いろんなものに掛けて糸を巻く。これは花瓶。
糸は2012年11月、東寺の弘法市で買った麻糸。あとで先生に見せたら「高い」と叱られた。ショボーーーン、、、
下流と言う言葉がいつから世間に流布するようになったのだろうか。そう古いことではないはずだけど、今ではすっかり耳馴れ、その意味についても共通理解ができてきたように思う。
その上に立っての本書である。時宜を得たタイトル、社会運動の実践として具体的な例を挙げ、年金に頼れないこれからの老人が、どういう目に遇うか、リアルに予測してみせる。
恐ろしい本だと思う。人はちょっとしたことで貧困に陥る。それは今の社会で親族などのセーフティネットがうまく機能しなくなったからでもあるけれど、若い人ならまだリベンジの可能性がある。お金も家も親しい人もない孤独な老人の最後を著者は何度となく見てきた。
悲惨で、ここではとても書けない。興味ある人は読んでみてください。
現役の間に将来の金銭的な設計をきちんとすること、子供は自立させて家を出すこと、いざとなると頼り合えるネットワークを持つこと。若い時からの心得としてはそんなところかなと思う。
がしかし、人は予期せずに貧困に陥ることもある。その時には助けてほしいと声を出すことが大切。本当に行き詰るとそれさえできなくなるとか。そして生活保護を受けることを恥ずかしいと思わないこと。健康で文化的な、市民として当然の生活、それをする権利が誰にもある。生活保護費を値切る先には最低賃金の切り下げ、という陥穽が待っている。他人事ではないとしみじみ思った。
老人はいつから、若い人の世話になりたくないと思うようになったのだろうか。その代りの介護保険はまだまだ不十分だし、すぐそばに住んで時間もあるのにいっさい面倒見ない息子の嫁ならそんなもんいらんでしょ。
もちろん嫁姑のいろいろいきさつがあるにせよ、私は節約家なので、国全体のお金のこと考えたら、介護が嫁のシャドウワークなんて屁理屈言う前に、家族でできることは家族でしてもいいんじゃないかと思う。
介護の社会化という流れは止められないと思うけれど、介護保険掛けてるから使わないと損するという考えはいけないと思う。また雨のあとのタケノコみたいにいろんな施設ができてますが、家で畑仕事して、一人で高速バス乗って娘のところへ来られる年寄りに週三回も通わせてビーズ細工させたりしなくてもいいと思う。私の母のことです。
みんなその時がよければいいと、先のこと何にも考えてないように思う。私達の世代が介護享けるころにはもう国にお金がなかったりして。恐ろしや。
戦争できる国にするより、こちらが先決。