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オリンピックなんてどうでもいい

2020-01-11 | 随想

四年前の冬。

何してるんだあ~

https://lite-ra.com/2020/01/post-5196.html

年始、久しぶりに元SMAPの稲垣吾郎さんをテレビで見た。

夜遅かったので寝てしまったけど、ずっと見ていた夫によると大変見ごたえがあったとか。

この中で司会の稲垣吾郎、大変いい仕事をしています。

某事務所所属のアイドルだった頃には到底言えなかったことを、はっきり言っている。

オリンピック、好きか嫌いかと聞かれれば、私はどちらでもないけれど、それに付随するもろもろのことがうっとうしい。

一緒に喜ばないといけない無言の強制が、私にはたまらなく嫌。

スポーツは純然たるスポーツとして、して楽しみ、見て楽しむだけでいいと思う。見るだけなら私も楽しめそうだけど、選手個人に日本代表みたいな期待と圧力かけるのはする方にも見る方にも不幸。

昔、期待に応えられないことに悩み自ら命を絶ったマラソン選手がいたのです。すべてをあきらめた後の、純粋無垢な心の結晶のような遺書は、涙なしには読み通せません。あんなことは二度とあってはいけないと思う。

オリンピックで誰も亡くならないで欲しい。選手や観客の中から熱中症の死者も出ませんように(不吉)。

それにしても、なんでそこまでしてオリンピック持ってくるの。謎??


コメント欄は認証制です。あなた様の貴重なご意見を反映しないこともあります。

あらかじめご了承ください。

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パソコン不調😫

2019-12-18 | 随想
朝、いきなり立ち上がらなくなった。用事あるので外出。今、市内電車の中。帰ったら直ってればいいけど🙄
年末年始パソコンないと困る。最悪、買い換えかな。やれやれ。
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2019/12/18

2019-12-18 | 随想
パソコン不調😫
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小説も絵も同じだと気がついた

2019-11-30 | 随想

今朝、NHKで城崎温泉などを紀行する番組を見た。

城崎と言えば「城崎にて」、志賀直哉の達意の文章の一節を聞くうち、何でもない一文に見えて、プロとアマの差は歴然、何が違うのだろかと考えた。

天啓のように・・・と言うのは大げさだけど、結局は書きすぎないことというのに、思いが至った。気がついたと言うことです。説明せずに描写せよとは、小説でよく言われることですが、それも簡単にしかし要点は外さずに。隙間は読者の想像力に任せる。

うまい小説を読んで心地いいのは、読む方が自分の感性、知識などで小説の世界を補填しながら、新しい世界へと踏み入れることができることではないかと。

これを絵に当てはめると、隅から隅まで丁寧に描いた絵は、見る者が自分から補填することがない。押しつけがましいということ。

広島を代表する洋画家の先生のアトリエで、毎月、毎月、注意されるのはこのことではないかしらと、ようやく気が付いた。

下手でもいい、いえ、絵の上手下手など、デッサンと色が狂ってないだけなら写真や、他の芸術、技術に任せておればいい。今からデッサン狂いなく描けるよう修練する必要もなく、自分が対象のどこに美しさを感じたかを簡潔に表し、あとは見る人の感性に任せばいいとやっと気が付いた。

作家が作品の読み方を指定できないように。よおし、何か元気出て来たぞう~

来月も頑張って描こう。描いた後、奥様の淹れて下さるコーヒーがどこの喫茶店よりもおいしい。深みがあてほのかに甘くて。あのコーヒーも一月に一度の楽しみ。

志賀直哉=近代文学の人、村上春樹=若い人の読む作家、と私にとっては過去の人だったけど、なかなかどうして、世間でいいと言われているものにはやはり不変の価値がある。そのことに気が付いて、それが絵の先生にの言われることとようやく結びついたのでした。

気が付くのに遅いということはありませんよね。年とっても、体動かなくなっても手と目が動けば絵は描ける。なんか希望が湧いてきた。


 

2012年11月、ドイツローテンブルクで。後ろの家はアベントカレンダーになっているのかも。

早く来い来い、クリスマス。

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ストレスを少なくする5つの方法

2019-11-27 | 随想

ミュンヘン。玩具店のショーウィンドウ。電動で動くぬいぐるみたち。2012年11月

ミュンヘンの街角、雨。

https://www.youtube.com/watch?v=fb5AeNHEkN4


私にとってのその方法を、この秋自分なりに考えたり、人の話やブログなどを参考にさせてもらってまとめてみました。


★上から目線で人にもの言う人には、黙ってないで反論する。ケンカにならない程度に。今までの私、人に「偉そうにしている」と思われたくなくて、いろんなこと、我慢していた。

★嫌いな人と距離を置くことに罪悪感を持たない。人生の時間は有限。いい所見つけて仲良くなる時間があれば、自分の好きなことをする。

★同じ場所に執着しない。思い切って一歩を踏み出し、新しい自分になる。

★人の親切には感謝の言葉を。口にすることで感謝が定着する。そして人にはなるだけ親切に。いつか自分に返ってくる。返ってこなくても、その時の自分を肯定し、したことまで後悔しない。

★自分の話はブログの中だけにとどめ、日常生活では人の話をよく聞き、共感する心を持つ。

とまあ、こんなところでしょうか。

昨日、一緒に街歩きした人、2年前くらいからポケモンゴーにはまっていて、一緒にいて嫌なこともあったので、今回は思い切って、別行動の時間も取りましょうと提案したらすんなりと了承してくれた。

午後から、四国の自宅近くの商業施設で、ポケモンゴーのオフ会があるそうで、ランチの後は早々に解散。

彼女曰く、とても楽しいそうで。人との交流もあるしとのこと。スマホの容量がいっぱいになり、ラインのデータがとんでしまったとか、ご主人のスマホでもポケモンして、写真のデータ、全部消えたとか、楽しそうに話している。

しないし、よさの分からない私には中毒にしか見えないけど、まあ人様が何をしようと私には絡んでこない。

しかし、キャラを追いかけるあまり赤信号で踏み出すのはやめてもらいたいもんだあ。70歳女性、ポケモンゴーに夢中で交通事故なんてことにならないよう、頼みます。

彼女が、同じことばかりしてないで、新しいことすればいいのよと教えてくれた。なるほど。

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ああ、物忘れ

2019-11-25 | 随想

2012年11月 ドイツ、デュンケンスビュールで。シューウィンドウのクリスマス飾り。


今夜は夫が会合に出かけて夕食作らなくていいので、スマホで今年のメールをあれこれ見ていた。

で、5月に友達に会うことになっていて、連絡する約束していたのにすっかり忘れてそのままになっていることに気が付いた。

うわあ~大変。

彼女も忙しい身なので、私が忘れたこと、忘れてくれてたらいいんだけど、気を悪くしていたら申し訳ないので、慌てて返信を。

五月にする筈のメールです。本当に恥ずかしくて、申し訳なくて、相手のこと軽く考えていたと思われたら、本当に申し訳ない。返信が来るといいんだけど。

最近、物忘れがひどく、とても印象的なことも、あれ、あれはいつだったっけとしばらく考えることも増えた。話しながら、初めの方に話したこと忘れたり、話してもないことをもう言ったと思ったり。

これが老人力と言うものでしょうか。まあ、何でも忘れること、忘れること。でも忘れていることを自覚している間はまだまし。

忘れたことさえ忘れ果ててしまう時には、夢は真冬の追憶のうちに凍るであろうby立原道造の境地まであと少しです。

実はこの一月ほど、ちょっと落ち込んでいたことがあったのです。会おうと約束してくれた人(女性)から、その後何の具体的な話もないので、私のことで何か気を悪くしたのかなと心配していました。

でも私のケースのようにただ単に忘れただけかもしれない。その可能性もあると思うと、少しだけ気が楽になりました。いつ連絡来るかなあと待つうちに、待つことにも飽きてしまい、今はもうどちらでもいい心境。

彼女かと話したかった時には、私も他のことでいろいろあって聞いて欲しいこともあったのですが、昔の男の友達のことや、いろいろ楽しかったことを思い出すうちにだいぶ気持ちが落ち着いてきました。

物忘れの効用があるとすれば、嫌なことは忘れるということでしょうか。本当に嫌なことは何かのきっかけで思い出すけれど、普段はなるだけ心穏やかに過ごしたいので、実害がないことにはもう腹立ててもしようがない。と思えるようになった。

楽しかったこと、嬉しかったことは時々思い出してしっかり心に刻んでおきたいものです。嫌なことはどんどん忘れて行きましょう。

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もう一人の男の友達

2019-11-23 | 随想

基町クレド 2014年11月


毎日毎日、昔の男の子の話書いて、こんな記事、需要ある筈もなく、人様には退屈なだけ。

でもシニアのブログはボケ防止ですよね。今、昔のこと思い出す波が来ているので、忘れてしまわないうちにこの人のことも書いておかねば。そう思って書いてます。平にご容赦を。

もう一人の子は、過去の人ではありません。今年になってからも電話貰ったし、同窓生が集まる時は何となく二人で幹事役する流れなので、今のことや個人が特定されるようなことは書けません。

同じ、文科系の部活していたんですよね。部のみんなで、お弁当持ってよく遊びに行きました。屋島や塩江の奥や観音寺に海水浴に行ったこともあるので、友達といっても遠くの親戚くらいの感じ。

同じクラスになって、修学旅行があって、男女一人ずつ修学旅行委員という役があって、その男の子と、女子は私ではなく、別の人でした。彼女は美人で頭が良くて、背が高くて、私の友達がライバル心燃やしてましたけど、私は特に。。。。

でも私は差し出がましくも、修学旅行の準備いろいろ、その男の子、R君としておきますけど、とした記憶がある。

修学旅行委員の女の子は、自分の友達数人で、放課後の教室に残り、広島へ持って行く折り鶴をせっせと折っていた。その人たちがあまりに楽しそうなので、私の美人の友達が悔しそうに、「今度の旅行はあの人たちが中心よね」と言っていた。でも彼女たちは鶴折るだけ。

私は裏の、影の修学旅行委員。

何したかと言えば、学校からくれる旅行のしおりのほかに、クラスだけの旅行のしおりを作るのです。

内容はバスの毎日の席替え、バスの中でのレクレーションの計画、夜、旅館の大広間でクラスごとの遊びの計画(ほかのクラスはしたかどうか知らない)などなど。そして最後は歌詞カード付き。カラオケなくても昔はみんなで歌っていた。今になるとちょっと信じられないけど。

何を盛り込むかをあらかたR君と話していたけど、時間足りなくて日曜日の午後、わが家へ来て相談した記憶がある。その時一緒に来たのがP君で、二人とも自転車で30分くらいのところを我が家にやってきた。P君が我が家に来たのはその時の一回きりだけど、R君は私の弟とも友達になってくれて、私が結婚した後は私抜きで遊んでいたらしい。

当時の我が家は典型的な田舎の家の間取り、私が中三のころ、父が弟二人と私の勉強部屋を庭の一部を潰して建ててくれた。10畳くらいの洋間で、渡り廊下でつながった離れになっていたので、弟の友達も私のところへ来る子も、玄関通らず、庭を通って、廊下の掃き出し窓から上がってくる仕組み。これはなかなかよかった。

なんで本当の委員差し置いて私がそんなことする破目になったかと言えば、なんでだろ。R君が私との方がやりやすかったのかも。P君はR君の弟分みたいな感じだったので、一人で来にくくて声かけたのかもしれない。

今、つくづくありがたいなと思うのは私の両親は、私が、どんな友達と付き合おうが、全然反対しなかったこと。全く自由にさせてくれたこと。家に男の子が訪ねてきてもうろたえることなく、お茶やお菓子や食事も出してくれたこと。内心はどう思っていたか知らないけど、まあ友達はいないよりはいる方がいいくらいに思っていたのでしょう。

原案作って、印刷は今みたいにパソコンないので、部の道具使って私がほとんどガリ版切ったと思う。R君も少ししたかも。ホッチキス留める製本を我が家で三人でしたのかも。この辺り記憶あいまい。

毎日教室で顔会わせて、部室で一緒で、たまには家にも来るんだけど、彼もまた友達でしたね。今思えば。彼はすることが大人びていて、生徒会もやってたし、祝祭の中心にいた人。そばにいると楽しかった。女の子からもてまくってたので、私なんか出る幕ないと初めから諦めてたけど。

でも一緒にいることが多くて、いろいろ遊んだので楽しい思い出もたくさん。高校卒業してからは弟とも遊んでくれた。

彼は大学に行く傍ら、関西のさる企業の社長さん宅に住み込み、そこの中学生の男の子のお兄さん役していたらしい。一緒に遊んだり、勉強教えたりが仕事内容で、食事と部屋は社長さん提供。あの人らしいと、友達同士で感心した記憶がある。

まだ学生だった頃、春休みの真夜中、弟が車でどこかへ行こうと言い出して、先ずZ君の家に行き、ピックアップ、それからR君の家にいきなり押し掛けたことがある。かれはコタツでテレビ見ていたけど、ご家族はすでに就寝中。就寝中にも関わらず、お母さまが起きてこられてカステラ出してくれた。

もう、若い盛りの娘がとんでもないことしています。真夜中に人の家訪ねて、親起すなんて。本当に失礼しました。弟がいたから親も何にも言わなかったから、弟にも感謝ですね。z君も元は私がらみの人だけど、私と友達になる間もなく、弟と友達になり、ずっと長くお付き合いさせてもらいました。もう故人になられましたが、感謝ですね。

結婚する直前まで、私は実家から仕事に行っていたのですが、あとひと月もしたら結婚式という頃、ばったりと高松市内の丸亀町商店街でR君に会ったのです。喫茶店で一時間くらい話したと思う。

もうすぐ私は広島へ行くと言えば、彼は四月から大阪の新聞社で働くと話していた。留年したのか、院へ行ったのか聞きそびれたけど、R君に新聞社って、ぴったりの仕事だと思ったのを覚えている。

なんかもて自慢みたいに読まれたらごめんなさい。

私は容姿も成績も普通の範疇。でも、きれいな人、頭のいい人がたくさんいる学校で、私なりに楽しく過ごせたことを出会った人達に感謝したいと思う。

このブログ、高校生や若い人が読んでるとも思えないけど、若い時に楽しく過ごすコツは自分から楽しい気持ちでいることかな。どうせ私なんてと暗い顔していては、男の子も女の子も寄って来ません。容姿の足りないところは愛嬌でカバーして、いつもニコニコ明るくふるまう。

キャンプ何か行っても、きれいな子は見栄えのいい楽な仕事して、できなーーーいなんて言ってキャッキャ騒ぎ、男にちやほやされるけど、そんなのにいちいちめげず、誰もしたがらない地味な仕事を率先してやりましょう。

たった一人、そんな姿に目を止める人がいればいいのです。私の経験上、その一人もいないことが多いけど、普通の人間が美人の真似しても痛々しいだけ、自分は何の取り柄があるのか冷静に考えて、そこで勝負する。とまあ、昔の自分にアドバイスするならそこでしょうか。

頭のいいのも、きれいなのも、持って生まれたもの。そこを羨ましがってもしようがない。自分は自分らしく、一番大切なのは誠実さ。どんな時も人よりちょっとだけ嫌なことも引き受ける。それもアドバイスしたい。

男の子シリーズもそろそろネタ切れ。いつまでも昔話している場合ではない。年末にかけて忙しくなる予想。何でも早め早めに。

つまらない話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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私も恋愛の相談したこと、思い出した

2019-11-22 | 随想

昨日の話の続き。

P君の恋愛のこと聞いたのは、もう22歳くらいになっていたかな。私がどんなアドバイスしたのかとうに忘れたけど、人様の心配より、私だって大変な時だった。私もその時に相談したと思う。具体的なアドバイスはなかったけど、高校時代から変わらない顔でニコニコして聞いてくれただけで、ずいぶん心が楽になった記憶がある。

たぶん帰省していた時、連絡とり合って会ったはず。考えてみれば頻繁に会っていたのに、お互い、いつも別に付き合っている人がいたから、これはもうどう考えたって友達。

そのことにきょう改めて気が付いた。で、友達だって、自分で選んで友達になるんだから、そして続いて行くんだから、これはもう浅からぬ縁と言うしかない。似た者同士何でしょうか。いえいえおこがましい。私よりもいろんなことで優れている人でした。

結婚して子供ができたころ、当時広島市郊外の職員住宅に住んでいたけど、広島に学会があったそのあとで、タクシー飛ばして訪ねて来てくれたことがある。その時が、夫との初対面。二人は同じ業界で仕事する身なので、終わったばかりの学会の話とか、私には分からない業界の話もいろいろ。

私の男の友達が訪ねてきて、内心はどう思っていたかは知らないけれど、夫は淡々と相手していた。そこはありがたかったなと思う。私、夫の昔の女の友達が家に訪ねてきたら・・・どうするかな。付き合い方にもよるけど、相手にもよるけど、夫よりはきっと心の狭い私。いい歳してこの傾向は少し改めなければと、気が付いた。

それから43年の間に、P君とは二度しか会ってない。いずれも同窓生の集まりで話をしただけ。こちらから連絡とらず、あちらからも連絡ないので、もしかしたらもうこの世では会うことはないのかもしれないけど、いっぱい笑わせてくれた、決して偉ぶらないその人柄を思い出すと、心の片隅でずっと小さな灯がともっていて、内側から私の心と体を温めてくれている気がするのです。

で、P君への今生の最後のお願い。

半世紀前に私の描いた油絵持ってるそうですが、描いた私はすっかり忘れています。それに、どうせとても下手に決まってます。人様の持ち物にあれこれ言う立場にはありませんが、恥ずかしいので、何かの折には断捨離していただけませんでしょうか。伏してお願い申し上げます。

ああ、恥ずかしい。

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きっかけは・・・

2019-11-20 | 随想

今朝は早く起きて、自分のブログ読み返した。

昔の人のことばかり書いているので、今、まだ起きてこない人のことも少し書いておきましょう。

うーーん、何だったかな。美術部新入生の自己紹介の中で、とびぬけて背の高い男の子がいたのです。

出身高校言われても、広島の高校の名前、全然知らなかったので、だいぶたってから私立の男子校と知りました。

思春期の六年間を男子校で過ごして、素朴な人でしたね。私のように高校のとき、遊びまくっていなかったのでしょう。

(高校生で遊びまくるってたかが知れてるけど。部室にうどんの出前とったり、下校時にうどん屋へ寄ったり←思い出すのは殆どうどんがらみ!!)

絵のモデルになってと言われたのが、声かけられた初めだったかな。以後、いろいろいろいろいろあって、さらにいろいろあって、またいろいろあって今に至る。

学部違うけど同学年の同い年なので、たぶん人さまから見たら、対等にもの言ってると思う。

容姿と言う点では、私に比べて持っているものの多い人だけど、その資産を生かすすべを持たない人。それでいいんですけどね。

こんなこと書いて、このブログ、ばれたらどやされるかも。

姑様が若い時はとてもきれいな人でした。女優さんのように。

育った家の文化が全然違うので、大変なことも多々あったけど、子供たちは自分の思い通りに育て、今はわが家なりの雰囲気(あえて家風と言わない)ができていると思う。

何でしょうか。

何でも手早くチャッチャと。時間作って文化活動。運動大嫌い。これは夫も嫌いなので話が合う。というか、運動が嫌いで苦手、絵を描くのが好きと言うところだけが共通点かと思う。

あまりにネガティブな要因も時には人と人を結び付けることがあるわけで。

その昔、美術部の部室で、女の子からダンスパーティ行こうと強く誘われていたのに断っていた。

どうして?と大分たってから聞いたら、体動かすのが苦手だそうで。そうなんだ、私もそうです。

まあ、いろんな人がいるから世の中は面白い。息子たちも運動は苦手のようですよ。ご免ね、こんな親二人で。

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駆け引き

2019-11-19 | 随想

https://blog.goo.ne.jp/kawashima134/e/4ef69b325c5e579e5eb867616d9e0634

前にも書いたことあるけれど…前のブログだったかな…友達が私の付き合っている人と二人きりで会いたがっていると知ったとき、どうするかという選択。

三人で会う約束していたのに、風邪ひいて行けないと友達から電話がある。

「じゃQ君に知らせておく」

「いい。私から言うから」

彼女を加えて三人で会う前に、二人で会う約束だったので、予定通り私は出かける。

Q君は電話受けてない。

「なんか、風邪ひいて来られないみたい」

「ああ、そうか」

口には出さないけど、Q君も多分気がついていたと思う。

こんなときどうすればいい?

まあ3択でしょうか。

➀ 彼氏を彼女の待つ店へ行かせて、私は帰る。彼女の望んでいたのはこれ。

② 風邪ひいて来られないんだから、店へは二人とも行かない。

③ 二人で彼女に会いに行く。それはちょっとかわいそう。

あなたならどうしますか。

もう飽きてたら➀のようにして、彼女に譲ってもいいかな。なかなかそこまでは思いきれないけど。

③はご本人のプライドもあるので、しない方がよさそう。私はそんなに意地悪ではありません。

普通は②ですよね。

どこへ行って何を話したかはもう忘れた。年末だったことは憶えている。娘時代、家の手伝いをするでもなく師走の街を男の子と歩いていた。

子供や孫を迎える準備もなく、料理作る心配もなく、年末年始、いつまでたっても慣れない経理の事務に追われることもなく、ばあちゃんにも娘時代があったこと、思い出した。

ほとんど唯一のスリリングな出来事。

時々思い出して、しみじみと噛みしめるのは、私にあまりにこんな体験が少ないから。少ないからよく覚えている。

持て自慢みたいに聞こえたらごめんなさい。それは私の不徳の致すところ。若い時は誰でも心のテンションが高いので、容易に人を好きになり、嫌われて落ち込み、人の恋愛がうらやましく、男の子と一緒のところを友達に見られるとちょっと嬉しかったり。まあ、子供でしたね。

高校卒業して二年間くらいは帰省して街の中心部歩いていると、2、3人は同窓生に会ったもの。そのうちだれにも会わなくなったのは、みんな帰省しなくなったからでしょうか。

携帯やメールのない時代は、親にも筒抜け。わが親は娘の付き合いには口出ししなかったけど、跡取り娘の友達はいろいろと大変なようだった。

男の兄弟がいるいないで女の運命も変わる。それは今も同じかもしれない。

遠い遠い日を思い出しながら、そんなこと考えてみる。

 

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入試制度がおかしなことになっているらしい

2019-11-18 | 随想

私の最後の子供の最後の入試は2002年、あれから17年も経っているので、最近の事情にまったく疎かったのですが、どうもおかしなことになっているようですね。

私たちの時代…半世紀以上前には国立は一期校と二期校に分かれていて、三月初めと三月二十日ころにそれぞれ試験がありました。

一期校は旧七帝大を含め、戦前からの大学が多く、二期校は新設の大学や地方大学などが。四国では徳島と高知が一期、香川と愛媛が二期だった記憶があります。

国立出願する子はたいてい一期、二期のふたつ。一期の発表後に二期の試験があるので合格していたら受験しない。おのずと格差があるという感じでしたか。

全国一律、受験生が同じテスト受けるのは共通一次試験に始まり、大学入試センター試験になり、やがて全国統一テストになるらしい。

短期間で膨大な答案を処理できるようになったのは、コンピューターがこの半世紀の間に目覚ましく発達したから。と私は理解しています。

代々木ゼミ創設者の話を以前新聞で読みましたが、当時は合否判定も徹夜で、一人ずつ出していたとか、驚くほどのアナログの世界でした。

入試はどの受験生にも公平に扱うことが大前提、そうでなければ信頼性が失われます。

英語の業者テストの導入は、国の怠慢。しかも複数のテストとなると、普通に考えたって、それで一律の評価出すのは無理に決まっています。国として、受験生にどんな英語力を求めるか、ビジョンを持って責任もって問題作っていただきたい。

それに国語と数学に記述式テストを導入し、それは大学として参考にしてもよし、しなくてもよしって・・・はあ???

記述式テストの膨大な解答を、短期間に同じ基準で採点するのはどう考えても不可能です。

なんでこんなことになったのかと不可解でしたが、英語のテストも記述式も政治家の大きな利権があると言う話を聞き、たいそう納得。今の政権ならやりかねん。

高校生が記述式反対の署名集めて文科省に提出したそうな。こんな心配までしないといけない子供たちがかわいそう。今の政治家、入試を頑張てきた人もいるとは思うけど、親の地盤を受け継ぎ、勉強していない人も多いように見受けます。入試なんて他人事なんでしょうか。

いかんなあ、私も年取って、納得できないことに怒ることが多くなった。

我が三男、国語が大の苦手だった。今受験生で、記述式なんて言われたら、へそまげて受験しないかも。

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これが本当なら人権侵害

2019-11-13 | 随想

https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_litera_10106/

お気の毒で涙が出ました。

パレードでの涙も、万感胸に迫るものがあったのでしょう。

いきなり人の家に行って、不妊治療しろなんて、本当にありえない。

制度の外の人間も疎外されてるけど、その内側ではものすごい人権侵害。

女系も男系ももういらない。お気の毒すぎる。

日本人って、こんな制度がなくったって、ちゃんとやれる国民だと私は思います。


 

で、例のお方、パレードの日に車列に参加、窓開けて手を振ってたって。当日は主役はあんたではありません。失礼にもほどがある。

先月の敷居踏み事件と言い、今回の天皇気取りのお手振りといい、あきれて開いた口が塞がりません。

早くやめてください。でないと日本の未来はない。

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孫に疲れる

2019-11-12 | 随想

昨日は夕方、イレギュラーで孫が来た。風邪気味とのこと。

でも元気いっぱい、お母さんは一度帰って上の孫連れて再び来て、と、この辺りから私も限界。

平成の間の仮面ライダーの変身を順送りにして見せてくれたけど、私の動体視力も弱っているのか、見ているだけで疲れる。

鍋していたけど、食べたらまた帰るのが遅くなるので、包んでご飯と一緒に持たせて、昨夜はお引き取り願った。

今日は孫の幼稚園で、夫が仕事。出かけたら、孫が、「**君のおじいちゃんは強い。パンチしても全然弱らない」と自慢していたそうな。

野山を駆け回る、農作業する、自分たちで遊びを考えて遊ぶ、など自主性を尊重した(野放し?)教育の幼稚園、運動会もお遊戯会もないので、孫が活動しているのを見られる今回は最後のチャンスだったけど、昨日の疲れで孫はもうお腹いっぱいになり、他の用事もあったのでついて行かなかった。

帰ってきて、夫がその様子を話してくれたのです。どの子も体幹ががっしりしている。とのこと。中でも孫は大柄。でもピアニカや折り紙、ダンスなど集団で何かする教育受けていないので、小学校がどうなるかなと心配。

親か心配してないので、私が心配するのも変な話だけど。やれやれ。

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「マチネの終わりに」的結末のそのまたあとで

2019-11-12 | 随想

昨日の記事は下書きへ移動。自分で読んで心の整理ついたからもういいって、思い出すから心が乱れる。今さら何を思い出す?と自分に聞いておく。


私は他県の学校に進学して、それでも高校時代の女友達と二年間くらいは会っていた。彼女は御商売されているおうちの跡取り娘、親の意向で進学はせず、地元で就職していた。

帰省した時はよく会っていて、そのときの話で、今付き合っている人の話を彼女にしたのだった。その人も彼女も私も同じクラス、よく話をする間柄だった。

きっかけは高校三年生の秋の遠足。自由時間になって、1時間後の集合時間までの間、二人で歩きながらずっと話していた。1学年千人近い学年、集団の中から私を探し出してくれたのが嬉しかった。大きな池の堤防を片道30分歩いて、また引き返す。季節はちょうど今頃。

どこを受けるん?

私は**と東京の私大も。その人は今年は東京の大学を一校だけ受けると話していた。そのことを何よりも確認したかったのだと思う。

手紙出してもいい、いいよという運びになったんだった。

こんなんでわかるかしら、人に話の流れが。でも続けます。

卒業して二年目の年末に帰省した人と会ってみると、女友達が自分に会いたがっていると聞かされた。私が付き合っていると聞いて焦ったのかな。

会ってもいいけど、三人で会おう、で、その前に二人で一時間くらい話をして、それから待ち合わせの店へ二人で行こうと、その人の提案。ああ、私に気を遣ってくれているのだと嬉しかった。

ところがところが、前日になって彼女から風邪で行けないとの連絡。そうなの、じゃ私から連絡しておく。いい、私が連絡するから。

と、そこで私は分かってしまうのですね。彼女はその人とだけ会いたいのだと。会って…どうするつもりだったのかな。自分の方を振り向かせたかったのかな。

一時間前に約束の場所へ行ってみると、その人は電話を受けてなかった。やっぱり。だから、私は彼女から聞いたことだけを正確に、枝葉もつけずに伝えて、二人で年末の街をデイトした。

遠い遠い思い出です。瀬戸大橋もなく、JRはまだ国鉄で、家に一台固定電話のあるだけの時代。それでも人は連絡を取り合って出会っていた半世紀前。

次の春休み、やっぱり彼女は店で待っていたそうで、一度会うことにしたと事前に断ってくれた。私には、不思議とどんな感情も起きなかった。私たちは故郷の街を歩きながら、最近読んだ小説のことをよく話していた。とても濃密な時間を共有して来たので、流れが変わっていくことはないと思っていた。

彼女は美人で背が高くて、男の子にとても人気があった。だからことは簡単に運ぶと思っていたのかもしれない。でも、もう高校の教室で楽しく話していた時は過ぎ、それぞれの境遇が変わってきていた。彼女には家業を継ぐ役割があり、一緒にそれをしてくれる人でないと将来はない。ないからこそ、いっとき、そうでない人と付き合いたかったのかもしれない。

それからは彼女ともあまり会わなくなったかな。結婚式には呼ばれましたが、それからはほとんど会うこともなくなって今に至る。

何ごとも恐る恐るの始まりがあり、少しずつ盛り上がり、その時期がしばらく続き、それから些細な行き違いが積み重なり、やがて終わっていく。

思い出すのも辛いことの数々。新宿から高田の馬場まで、夜道を歩きながら、何を話していたのか、詳しいことはもう忘れたけど、私は何をいまさらと思っていた。あなたの言葉に私がどれだけ傷つき、何度涙を流したか、口に出して言ったかもしれない。若い時の心は移ろいやすいもの。一番のピークで一緒に人生を歩んでいく約束ができなかったのだから、仕方ない。

長い長い構文はもうどこへ収束するか、ピリオドをどう打つか、わからなくなっていた。

半世紀たった今なら言える。結局は縁がなかったのだと。

二番目でいいから付き合ってくれと言った人と今は暮らしている。時々、相手に猛烈に腹が立つのは私が年取ってこらえ性がなくなったから。自分の感情に忠実で、嫌なことを我慢したくなくなったから。

でも男女二人で暮らすこのスタンダードな制度が、何よりも自分を守ってくれていることも知っている。

健康で、働いていて、正直で、人の心の機微まではなかなか分からないけれど(これは男の特性かも)、制度の外へ出た方が幸せになるとまでは思えないので、しばらくはこのままでいましょう。

相手の顔は自分の鏡と言うらしい。少々のことは見逃して機嫌よく、機嫌のよいばあちゃんになりたいものです。

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「マチネの終わりに」的・・・

2019-11-10 | 随想

本日、夫は姑様の施設訪問、親せきの墓参、別の親せきの施設訪問などと忙しかった模様。

私は行かない。夫の親族のことで私に余計な負担かけない。私も口出しもしない。次第にそういう流れになってきた。こんなことはそれぞれのお宅でいろいろでしょうが、とりあえず我が家はそう。


「マチネの終わりに」が思いのほかアクセス数が多かった。

うーーーん、似たような経験、みなさんおありなんでしょうか。

続き希望のご意見もあったので、その後のあれこれを。

災厄は常に一本の電話から始まる。40歳のころ。

病気の相談。それは名目。ほんとは話したいだけ。携帯のない時代は固定電話に掛けるしかなくて、どの家もたいてい主婦が出る。それが悶着の元。

人の夫を君を付けて呼ぶ軽いノリで。20年以上のブランクがあれば、まず挨拶からでしょう。私は全然懐かしくないので、こちらも必要最小限の対応で夫に取り次ぐ。

それからしばらくして、自分の勤め先の封筒遣って、自分の名前は出さずに手紙が来る。私は探し物していて、見慣れぬ封書をつい開いてみたら、私の悪口を縷々書いていましたね。そんなもの、すぐに捨てるべきなのに、見たのは私の過失だけど、置いておくのも悪い。私信ならもちろん見ませんよ。茶封筒の公的な機関からのもので、処理しないといけない事務的な連絡とばかり思ったので。

悔しいので大喧嘩しましたね。

毎年の年賀状には必ず気を引く一文があるのも気分悪かったけど、正月早々ケンカしたくないので、ずっと我慢。年賀状のやり取りくらいで目くじら立てる必要ないと思って。

年賀状はお正月のこたつの上にあり、家族の目に触れやすいもの。それを見越してアピールしていたのかと、気持ち悪かった。

喧嘩の後、年賀状は出さないと約束したのに、来たからまた出すうちに復活したと言うので、思いっきり頭に来て、ある年の元旦、夫の目の前で破いて石油ストーブで燃やしてやりました。

目の前で立ち昇る焔。メーラメラメラ!!

何するん!!火事になるーーー!!とうろたえる夫。まあ、火事にはならずすぐ消えましたけどね。ふん。

で、私は気が済んだので、兼ねて欲しがっていたアンプ15万円を買ってやりました。お金は本人のだけど。

昔の彼女は、誰の付き合いにでも必ず首突っ込んで壊しにかかる、自分の方を振り向かせたがる困ったちゃん。でも、自分も結婚してるのにもうそれはないんじゃないの。昔のサークルの友達としての付き合いとの線引きは難しいけど、夫にはもう少し毅然としてほしかった。

男は(夫は)だいたいこういうところは緩いですね。ちやほやされて悪い気しないのが男。でもこちらは思い切り気分悪い。気分悪いことはやめてもらわないと。あまりしつこく言うと嫌がられるので、単純明快、単刀直入、自分の言いたいことだけ伝える。これは本気だと相手に伝わる迫力で。


前に付き合っていた友達が、一時、とても悩んでいることがあった。何時間も打ち明けられたことも。

高校の同窓生でグループ作って毎日曜日、ゴルフに行っている。男性数人に女性が一人。彼女は未亡人でとても人気がある。車を出す友達の夫が最後に彼女を家まで送っていく。それがとても嫌だと。嫌だと言うと、付き合いに口出しするなと怒られると。

気の毒だった。

そりゃ、女性は楽しいでしょう。複数の男たちにちやほやされて。でも家にいる奥さんたちがどんな気持ちか、ちょっと考えてもいいのでは。

その後どうなったか、知りませんが、うまく解決したでしょうか。

映画から広がるお恥ずかしい話いろいろ、失礼しました。

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