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小説も絵も同じだと気がついた

2019-11-30 | 随想

今朝、NHKで城崎温泉などを紀行する番組を見た。

城崎と言えば「城崎にて」、志賀直哉の達意の文章の一節を聞くうち、何でもない一文に見えて、プロとアマの差は歴然、何が違うのだろかと考えた。

天啓のように・・・と言うのは大げさだけど、結局は書きすぎないことというのに、思いが至った。気がついたと言うことです。説明せずに描写せよとは、小説でよく言われることですが、それも簡単にしかし要点は外さずに。隙間は読者の想像力に任せる。

うまい小説を読んで心地いいのは、読む方が自分の感性、知識などで小説の世界を補填しながら、新しい世界へと踏み入れることができることではないかと。

これを絵に当てはめると、隅から隅まで丁寧に描いた絵は、見る者が自分から補填することがない。押しつけがましいということ。

広島を代表する洋画家の先生のアトリエで、毎月、毎月、注意されるのはこのことではないかしらと、ようやく気が付いた。

下手でもいい、いえ、絵の上手下手など、デッサンと色が狂ってないだけなら写真や、他の芸術、技術に任せておればいい。今からデッサン狂いなく描けるよう修練する必要もなく、自分が対象のどこに美しさを感じたかを簡潔に表し、あとは見る人の感性に任せばいいとやっと気が付いた。

作家が作品の読み方を指定できないように。よおし、何か元気出て来たぞう~

来月も頑張って描こう。描いた後、奥様の淹れて下さるコーヒーがどこの喫茶店よりもおいしい。深みがあてほのかに甘くて。あのコーヒーも一月に一度の楽しみ。

志賀直哉=近代文学の人、村上春樹=若い人の読む作家、と私にとっては過去の人だったけど、なかなかどうして、世間でいいと言われているものにはやはり不変の価値がある。そのことに気が付いて、それが絵の先生にの言われることとようやく結びついたのでした。

気が付くのに遅いということはありませんよね。年とっても、体動かなくなっても手と目が動けば絵は描ける。なんか希望が湧いてきた。


 

2012年11月、ドイツローテンブルクで。後ろの家はアベントカレンダーになっているのかも。

早く来い来い、クリスマス。


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