然らば陸軍の巨頭中に有力な首相の候補者があるかといふに、遺憾ながら現役軍人はすべて問題にならないのである。新男爵の軍事参議官荒木貞夫は世間から最も属望される一人であつて、彼は弁舌も達者であり、教育や内部の事情にまで心を配つてゐる点では他に及ぶ者が少ないのであるが、何分彼の地位は現在の陸軍の中心勢力と逆行してゐるといふ事が公知の事実であるから、平地に波瀾を起すことの嫌ひな元老重臣に採用される気違ひママは、先づないと見なければならない。併し現在は駄目として、彼は将来首相候補者たるべき可能性を多分に有つてゐるのである。而してそれは恐らくは彼が現役を退いた後の事であらう。次に関東軍司令官南次郎も下馬評中の一人であるが、これは単なる下馬評であつて、恐らくは元老重臣の問題にも上らないであらう。南は前に陸軍大臣として軍政を担当したが、その成績は芳ばしかつたとは云はれない。現に駐満大使を兼任して文武の両権を握つてゐる訳であつて、その成績は甲か乙か丙か、当路者でなければ判らないが、要するに彼はいはゆる当選圏内に達しない。それからこれは現役ではないが、前の参謀総長、現枢密顧問官の河合操の首相説が、さきに国体明徴問題が逼迫して内閣の危機が伝へられた際に、或る一部から舁ぎ出された事がある。これは単なる陰謀の道具に使はれたゞけで、忽ち煙の如く消えて了つた。従つて彼れの問題が再燃する筈は絶対にないと見てよい。
現役以外の軍人では、朝鮮総督宇垣一成が可能性のある唯一の存在であらう。彼は随分久しい万年候補者である。彼が現役を退いて以来、彼に対する陸軍部内の空気は頗る悪かつた。彼が陸軍大臣に在りながら政治に野心を抱き、政党員に金を蒔いたなどゝいふ事が、当時の清軍運動の第一の槍玉に上つたのである。それが宇垣をして万年候補者たらしめた大なる理由の一つであつた。が併し現在の宇垣の立場は頗る条件が好い。それは彼れが現在の陸軍の中心勢力と相当緊密な関係を有つた事である。彼に取つては文字通り「今度こそは」である。今度若し落第するやうな事があつたら、彼は政党の首領にでも乗り込んで、憲政常道論の先駆者となり、力づくで内閣を乗取る工夫をする外に、彼れの活きる道はないであらう。たゞ玆に懸念に堪へない道途の風説は、彼と齋藤新内大臣と仲が悪いといふ事である。昨年朝鮮で始政二十五年の記念祭を行つた際、齋藤は長い間の前総督であり、且つ朝鮮統治の功労者として堂々と乗込んだのであるが、宇垣はその式辞に於て一向齋藤の功労を表彰しなかつたので、齋藤は非常に不満を抱いて帰京したといふ事が伝へられてゐる。何処までが真か偽か判らないが、仮りに此事ありとしても、私憤と公事の差別位は、酸いも甘いも知り切つて居る齋藤の事だから、これを誤るやうな事は勿論ないであらう。も一つ宇垣の事に就ては、彼は近頃頗る景気が好いといふ事が伝へられてゐる。景気が好いといふのは新たに或成金実業家を金穴としたといふのである。定めし総選挙を控へて各派四苦八苦の折柄、金貰ひのワイワイ連が押すな押すなの奇観を呈するのであらう。
(『政局S・O・S』 石川六郎)
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