美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

昭和十一年初頭における(石川六郎)

2021年09月18日 | 瓶詰の古本

   「政変は近いぞ!」敢て売卜先生の口吻を真似るのではないが、以上述べた政情の表裏から見て、かうした推定を下すことを自分は躊躇しないのである。併しながら最近数年間の政局の変動は、常に、然り常に予期せざる不祥事、突発事件によつて醸し出されるといふ悪例を踏襲してゐるのである。何時何事が起るか? これがいはゆる非常時の人心不安である。併しそんな事は勿論予定し得る事でないから、ここでは単に政変が近いといふ前提の下に、次の総理大臣級の人物を物色する事とする。
 後任総理を奏薦するのは、元老西園寺公の下に重臣会議を開く前例が開かれ、大体そこで決定する訳であるから、首相級人物中の誰が元老重臣のお眼鏡に叶ふかゞ問題である。而してこの元老重臣中に在つて、新内大臣齋藤實子がより多く発言の衝に立つであらうことが予期されてゐる。齋藤はタヌキ親父である。或人はこのタヌキの意味を「腹の黒い」といふ悪い意味に使用してゐるが、こゝではもつと軽い意味で、単に「喰へない人物」といふ程度に使用したのである。而して彼には相当愛憎心はあるが、比較的公平である。この元老重臣会議を外にして、後任首相の決定に対する重要なる要素は軍部即ち陸軍方面の意向である。軍部即ち陸軍方面の意向などゝいふ言葉は捕捉し難いのであるが、軍部を解剖することは本篇の目的でないから、姑らくこの儘にして置く。兎に角軍部の勢力は、絶対とは云はぬが絶大である。元老重臣と雖、この方面を顧慮せずしては後任首相を物色し得ない現状にある。現に五・一五事件の直後、齋藤内閣の出生以前、軍部は西園寺元老に対して或種の意志表示をしたと伝へられてゐる。これには肯定説もあり、否定説もあるが、兎に角西園寺が東上の車中、秦憲兵司令官が会見した事実があり、政友会の森恪が陸相官邸に詰め切つて、荒木陸相と謀議を凝らした事実があり、而して後荒木が西園寺を訪問した事実は蔽ふ事が出来ない。直接西園寺に対して「再び政友会に政権を踏襲させては陸軍が納まらない」と進言しなかつたとしても、西園寺がその空気を感得しなかつたとは断言出来ないであらう。今度の場合も、陸軍が直接意志表示をするとは考へられないが、元老重臣が軍部の空気に対して敏感であるべきことは、到底無視することが出来ない。

(『政局S・O・S』 石川六郎)

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