美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

新修広辞典

2008年05月21日 | 瓶詰の古本

   昔、本のない家に「広辞苑」がやってきたとき、父親はそれこそ下にも置かぬもてなし振りで誰にも手を触れさせず、おもむろに筆を構えて購入日と購入書店を扉に書き入れる儀式まで執り行った。そのときの騒ぎを見ていたので、あれだけ崇め奉る辞書というものは、世の中のことがなんでも載っている、開けばなんでも教えてくれる万能本だと、無意識のうちに子供心に刷り込まれてしまっていたらしい。いつか自分でも一冊手に入れたいものだとずっと思っていた。中学に入ったとき、普段、なにか買ってくれたためしのない親が、そのときだけは奇蹟的に小さな国語の辞書を買うことを許してくれた。
   特に物色して選んだ辞書ではない。とにかく「広辞典」という、まさに「広辞苑」に匹敵するような、その名前がすべてだったのである。名前を見た途端、「広辞苑」となにかゆかりがある辞書かも知れないと考えたのである。正式には「新修広辞典:和英併用ペン字草書入」という、いわゆる実用辞書の一冊で、しかも増補改訂版だった。「広辞苑」とはなんの関係もなかったものの、初めて持つ辞書として立派な編集の素晴らしい辞書だった。茶色の小型辞書で、色付き日本全国地図まで折込で装備されていたような気がする。語釈の下には一々見出し語の英訳語がカタカナの振り仮名付きで記載されていて、和英辞典も兼ねる便利極まりない本だった。小型といっても八百二十頁というから、辞書としては丁度手に馴染む大きさと重さである。出版社は集英社、編者は宇野哲人博士で、この辞書は今も版を重ねている。辞書として信頼され、愛用されている証拠である。
   買ったばかりの頃は、所有する喜びとでも言うのか、夜になると辞書を開いて適宜の頁から見出し語を拾い読みするのが楽しみだった。知っている言葉、知らない言葉、それらの言葉に簡潔な解釈が与えられて次々に連なって行く。どこからも読めるし、どこででも止められる。ある種の読物として見ても、読んで飽きるということのないのがうれしかった。
   これ以降、辞書は絶対に無駄にならない本であるという公理が心に深く刻まれてしまった。辞書は、もっとも人手の掛かった出版物であり、持っていて有益至極の本である。この天来の啓示に導かれて、古本屋に入れば帰り際には必ず辞書の棚を一瞥し、ありきたりの古びた本ではあるが、語釈や版型、時代を異にする国語辞書や漢和辞書の類を手に取って、時々は気まぐれに買ってみたりもした。大正時代から戦前にかけての廉価な古本に絞って買うしかなかったが、そこに残されている見慣れぬ言葉、失われた言葉などを仕舞っておきたい気持ちもあったのである。
   しかし、そもそもなんで辞書なの、という根本的で冷ややかな問い掛けに対しては、どうにも明答できないところがある。辞書とは無駄にならない本であるという、かつての公理も、常人には通用しない妄言に過ぎないのではと気持ちは揺らいでくる。かろうじて、「和漢雅俗いろは辞典」や「携帯英和辞典」に現われた語彙選択の明断と熟なれ抜いた語釈に接し、語学の超人達の苦闘の跡を古本に偲んでいるのだと意気がってみせるのが精一杯である。しかも、そんな辞書に限って復刻版が出回っているのだから世話はない。
  とりあえずそれはそれとして、昨今は、大正から昭和前期にかけての漢和辞書を探している。ただし、まだ復刻版になっておらず古本でしか手に入らず、しかも一巻物で分厚ければ分厚いほど好ましいのだ。
   と、 こうした懲りない消費衝動は一体どこから来るものなのだろうか。

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