美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

菅原氏選進の時代(植木直一郎)

2019年04月01日 | 瓶詰の古本

現在の制度にては、元号の改定は、枢密顧問に諮詢したる後に、これを勅定したまふこと、右に見えたるが如し。中古には、改元の事有るときは、先づ年号勘者の宣下ありて、式部大輔・文章博士、及び其の任に勝へたる公卿をして、元号につきて勘文を奉らしむ。乃ち經史の中より好き字を擇び、これに就きて勘文を奉れば、諸公卿を召して仗議あり。また難陳とて、預選の元号の文字につきて非難論陳する事あり。かくて、其の結果を上奏して、御裁決を俟つなり。近古以来は、例として菅家の人々に宣下して、年号の字面を勘へ申さしめ、これに就いて評議難陳の後、勅定を下したまふこと、其の例なりき。然るに徳川幕府の権威甚熾なるに至りては、朝廷にて既に一往の評決を経たる元号をば、更に幕府に下してこれを諮詢し給ひ、幕府の意見によりて、いよいよ元号の文字を決定し給ふ事となれり。正徳改元の時、朝廷にては、例によりて、菅家より選進せし寛和・享和・正徳の三号の中にて、時の中御門天皇は、寛和の号に定めたく思召されしも、幕府より正徳の号に定むべく復申せし為め、遂にこの方に定りし由、光臺一覧に見えたり。是れによりて見れば、彼の新井君美のいはゆる「我朝の今に至りて、天子の号令、四海の内に行はるゝ所は、独り年号の一事のみにこそおわしますなれ」折焚く柴の記と云ひしもの、亦実に有名無実なりと謂はざるべからず。当時の制、朝廷より改元の詔出づるや、幕府は報を得て、後、諸大名および諸役人を出仕せしめ、老中列座の上、年号改元の旨を公達あり。諸大名および諸役は、幕府の公達を得て、直にその領内・管下および組支配等に対してこれを布達すること、その定例なりき。
明治の年号は、慶應四年九月八日の改元御治定なること、既に記したるが如くなるが、言成卿記によるに、此の時も例の如くに菅・淸両家より年号勘進の事ありしも、陣議・公卿の難陳・挙奏等はすべて行はれず、事なく治定あらせられたるなりといふ。この明治の文字も、應永・文明・慶安・明暦・天和・正徳・元文の数度の改元の際に、候補者として選出せられたる文字なりしが、何時も難多くて、未だ一度も採用せられざりしを、後遂に隆昌前古に比類なき御代の元号と定れるは、思へばいともめでたき限りにこそ。今の大正の号は、如何なる典拠に出でたるにか。公羊傳に、君子大居正と見え、また易經には、大亨以正天之道也とも、剛上而尚賢、能止健、大正也とも見えたれば、これ等に基きたりしなるべし。この大正の号も、明暦四年・天和四年の改元の際に、菅原氏より選進せしこと有りしものなるが、今かく栄え行く大御代の元号と定まれるは、大に正しき道を世界に行はせたまふ御代のしるしと思はれて、いとめでたしともめでたし。

(「皇室の制度典禮」 植木直一郎)

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