「ハヽヽヽ夫れぢや刑事の悪口はやめにしやう。然し君刑事を尊敬するのは、まだしもだが、泥棒を尊敬するに至つては、驚かざるを得んよ」
「誰が泥棒を尊敬したい」
「君がしたのさ」
「僕が泥棒に近付きがあるもんか」
「あるもんかつて君は泥棒に御辞儀をしたぢやないか」
「いつ?」
「たつた今平身低頭したぢやないか」
「馬鹿あ云つてら、あれは刑事だね」
「刑事があんななりをするものか」
「刑事だからあんななりをするんぢやないか」
「頑固だな」
「君こそ頑固だ」
「まあ第一、刑事が人の所へ来てあんなに懐手なんかして、突立て居るものかね」
「刑事だつて懐手をしないとは限るまい」
「さう猛烈にやつて来ては恐れ入るがね。君が御辞儀をする間あいつは始終あの儘で立つて居たのだぜ」
「刑事だから其位の事はあるかも知れんさ」
「どうも自信家だな。いくら云つても聞かないね」
「聞かないさ。君は口先許りで泥棒だ泥棒だと云つてる丈で、其泥棒が這入る所を見届けた訳ぢやないんだから。たゞさう思つて独りで強情を張つてるんだ」
迷亭も是に於て到底済度すべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず黙つて仕舞つた。主人は久し振りで迷亭を凹ましたと思つて大得意である。迷亭から見ると主人の価値は強情を張つた丈下落した積りであるが、主人から云ふと強情を張つた丈迷亭よりえらくなつたのである。世の中にはこんな頓珍漢な事はまゝある。強情さへ張り通せば勝つた気で居るうちに、当人の人物としての相場は遥かに下落して仕舞ふ。不思議な事に頑固の本人は死ぬ迄自分は面目を施こした積りかなにかで、其時以後人が軽蔑して相手にして呉れないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのださうだ。
(「吾輩は猫である」 夏目漱石)