美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

スメルジャコフはドストエフスキーが殺した

2022年01月14日 | 瓶詰の古本

 スメルジャコフが自殺(自らを縊り殺)したのは、如何なる訳があってのことだろうか。イワンに全てを告知してしまった後、状況を踏まえればスメルジャコフ本人が話した通り、親殺しの嫌疑、真犯人と名指しされるおそれはまずない。
 さらに、彼自身の胸中において真犯人はイワンであって、彼本人はその指図に忠実に従い、教えのままにフョードルを殴殺したに過ぎないと信じている。だから、そもそも犯罪に対する良心の呵責自体が最初から存在していないし、罪の発覚、処罰への恐怖もまず胚胎していなかった公算が高い。
 ならば、何故スメルジャコフは自殺してみせたのか。罪を悔いたのでもなければ、罪の露見に怯えたのでもないとすれば何故だろう。
 まさかとは思うが、スメルジャコフが死ななければ「カラマーゾフの兄弟」第一部を小説として完結させることが困難だったから、ということはないだろうか。スメルジャコフが生き長らえていたら、今ある形で小説を閉じることはできず、まだまだ展開させなければならないその先を暫く書かなければならない(終わらない)。スメルジャコフが死に、イワンが狂熱の人事不省に陥ったればこそ、(誤った)裁判は誤ったまま結了し、ミーチャの不条理な冤罪の運命が動かし難いものとして確定し尽くして、小説の一旦の終局が訪れてくれる。
 つまり、スメルジャコフは小説に一区切りつかせるためにドストエフスキーが殺してしまったと、こう考えるのはキリスト教の神や聖書について何一つ分からず、小説作品について碌々思案したこともないド素人の創造への冒瀆、どんな小説にだって当てはまり馬鹿馬鹿しくて誰も口にしない狂人の新発見というやつだろうか。
 ドストエフスキーはこれによって、「罪と罰」から「カラマーゾフの兄弟」に至る五長編の全てで、漏れなく自殺(未遂を含む)という行状を書き残したわけだが、例えばスヴィドリガイロフやスタヴローギンの場合、死のうが生きようがどちらを選んでも当該の作品にとどめを刺すことはないが、スメルジャコフをのめのめ生かしてこの小説から出すわけにはいかなかった。小説は自らの筋書きによって偉大となることを求め、且つ偉大なまま(第一部としての)完結を求めたが故に彼の運命は決定づけられ、その筋書きにしたがってドストエフスキーはスメルジャコフを殺したと。

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