東山七条に位置する智積院(ちしゃくいん)は真言宗智山派の総本山であり、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山
薬王院の大本山をなどを別格本山として全国に3000余りの寺院教会を擁し、檀信徒の信仰のよりどころとして総菩提
所、総祈願所と位置付けられています。
真言宗の宗祖(しゅうそ)である弘法大師空海が高野山でご入定(にゅうじょう)されたのは、承和2年(835)3月21日でした。
それからおよそ260年たって、「中興の祖」とあがめられている興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)が、荒廃した高
野山の復興と真言宗の教学の振興におおいに活躍され、保延6年(1140)に、修行の場を高野山から、同じ和歌山県内の
根来山(ねごろさん)へと移し、ここを真言宗の根本道場としました。 しかし、2年後の康治2年(1143)12月12日、興教
大師覚鑁は、多くの弟子が見守る中、49才の生涯を閉じられました。
正面の金堂への参道の左手(北側)に講堂と庭園拝観のための参道がもう一本あります。
興教大師のもと、高野山から大伝法院を根来山へ移し、これにより、根来山は、学問の面でもおおいに栄え最盛時には、
2900もの坊舎と、約6000人の学僧を擁するようになりました。智積院は、その数多く建てられた塔頭(たっちゅう)寺院
のなかの学頭寺院でした。
しかし、同時に、巨大な勢力をもつに至ったため、豊臣秀吉と対立することとなり、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、
根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を
京都に逃れ、苦心のすえ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に、智積院の再興の第一歩を洛北にしるしました。
その後、慶長6年(1601)、徳川家康公の恩命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実
ともに智積院が再興されました。その後、秀吉公が、若くして亡くなった長男鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺
を拝領し、さらに境内伽藍が拡充されました。再興された智積院の正式の名称は、「五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院」
といいます。
こうして智積院は、弘法大師から脈々と伝わってきた真言教学の正統な学風を伝える寺院となるとともに、江戸時代前期
には運敞(うんしょう)僧正が宗学をきわめ、智山教学を確立しました。
講堂・大書院入り口
講堂(方丈殿)は、平成7年に興教大師850年御遠忌記念事業といて再建されたものです。
講堂はかつて方丈と呼ばれていて、玄宥僧正が現在の京都東山の地に智積院を再興した折りに、徳川家康公より寄贈
された祥雲寺の法堂が基になっています。この祥雲寺ゆかりの建物自体は、天和2年(1682)7月に焼失しました。
大書院
「利休好みの庭」と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉公が建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ・智積院の前身のお寺)時
代に原形が造られました。その後、智積院になってからは、第七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭と言わ
れるようになります。
築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれ、中国の盧山を象って土地の高低を利用して築山を造り、その前面に
池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けています。
大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいます。
書院の西側の大玄関 山門の向こう側に七条通りが西に延びております。
大玄関の鴨居のあちこちで見られる六葉型の「釘隠し金具」
講堂西側庭園
講堂正面の廊下
講堂・大書院拝観の出入り口門
金堂 総本山智積院の中心的な建物であり、金堂と呼ばれています。宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業とし
て昭和50年に建設され、堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。毎朝の勤行、総本山
としての多くの法要はここで厳修されます。
金堂前の白木蓮がまもなく満開を迎えます。木蓮は世界最古の花木だそうです。
玄有僧正像の金堂寄りにある仏足石
金堂前に建つ戦没者慰霊碑
以前の金堂は、元禄14年(1701)3月智積院第10世専戒僧正が発願し、 桂昌院(徳川5
代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として、宝永2
年(1705)春に建立されたそうですが、明治15年(1882)に火災により焼失しました。
参道左手の鐘楼越しに京都タワーが見えております。
明王殿の御本尊は不動明王様で、不動堂とも呼ばれます。昭和22年(1947)の火災により
本堂が焼失した際に、本堂再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本
堂の譲渡を受け、現在の講堂のある場所に移築した建物です。
その後、平成2年(1990)12月に、講堂再建にともなって現在の場所に移築されております。
左手が金堂です。