『6』次の文を読んで,下線部(1)~(15)に対応する〔設問1〕~〔設問15〕に答えなさい。答えはそれぞれの語群の①~⑤のなかからもっとも適したものを選びなさい。専修
北京の北方にある八達嶺は,万里の長城の観光スポットとなっている。レンガ造りの城壁が急な山の尾根をくねくねと走ってどこまでも続いている様は,実に壮観である。この長城は(1)明代に建造されたもので,有名な秦の始皇帝の築いたものは,それよりもさらに北を走っていた。
もともと中国における城壁は,(2)新石器時代後期から集落を壁で囲むことを起源とし,やがてそれが,(3)殷代になると一辺が1,000mを越えるものへと発展する。現在までのところ殷代のものとされる城壁のうち,都城クラスの規模をもつものは3か所発見されている。しかし周代の都城はいまだ発見されていない。
城壁で囲まれた都市がさらに発達するのは,各地に権力をもった君主が分立し互いに覇権を争った(4)春秋・戦国とよばれる時代である。多くの国が都城だけではなく,その勢力下の諸都市を,防衛のために城壁で囲むようになる。中国で都市のことを城市というのはこのためである。また城市のなかには内城と外城(これを郭という)という二重構造をもつものもあらわれる。その場合,内城が君主の宮殿などを囲み,郭が民の住居を囲んだものと考える見方もある。
とくに戦国時代になると,都市を城壁で囲むほかにも,各国間の境に,周囲を必ずしもすべて囲むわけではないが,城壁を築くようになる。これが長城とよばれるものである。これは各国間の戦争が激化するにともなって,都市だけではなくその国の領域を他の国の侵略から守ろうとして築かれたものと考えられる。そこに,それまでの都市と都市とを結んだ支配から,領域支配へという君主の支配の質的変化をみようとする見解もある。戦国時代の長城は,楚や(5)斉などに築かれたという記録が残されている。また,北方遊牧民との間に境を接している国には,遊牧民の侵入に備えるという別の意味をもつ長城が築かれた。(6)北京付近に都城をおいた国,(7)河北省から山西省に存在した国などは,こうした北方遊牧民から国を守るために長城を築いている。秦の始皇帝の万里の長城とは,これら戦国時代に北方遊牧民の侵入を防ぐために造られていた長城を連結,修繕したものであった。
なぜ秦は万里の長城を建造したのか。秦が中国を統一したころ,北方のモンゴル高原では,(8)匈奴が諸部族をまとめて強大な部族連合を形成し,戦国末期の戦乱に乗じて黄河を渡り,オルドス地方にまで南下していた。これに脅威を感じた(9)始皇帝は,将軍に匈奴をオルドスから追い払わせ,この地を奪回させるとともに,各国の長城をつなげて万里の長城を完成させた。
万里の長城建造の目的は匈奴の侵入に対する防衛であるが,ひとたびそれが完成すると,他者である遊牧民と区別される自己,すなわち農耕社会を統一した自己を認識することになる。そして農耕社会のさらなる拡大を目指して,秦は広東省・ヴェトナム北部への(10)南方遠征も開始することになる。
この自己意識の形成をさらに進める出来事がおこった。始皇帝の死後,中国が再び混乱しはじめると,北方では匈奴が,オルドスを再び支配下に入れるなど,その勢力を盛り返し,さらに周辺の遊牧民をも撃破してその支配地を拡大させた。匈奴は,高祖が漢の皇帝となったころには,漢とほぼ同じ広さを支配下においていたといわれる。その匈奴が,ついに漢と衝突した。この衝突は匈奴の勝利に終わり,以後長らく匈奴が漢よりも上位となる関係が続き,漢はこれまでよりも強く意識して,この他者と向き合わざるを得なくなった。
両者の関係が変わり,漢が始皇帝の時と同様な,あるいはより完成された自己意識をもつに至るのは,(11)武帝の(12)対匈奴戦争の開始からである。武帝の遠征によって,漢は匈奴を遠く北方へ追いやり,長城をまた両者を分かつ「壁」とした。こうして他者との「壁」が安定すると,漢は南方遠征によって華南の南越からヴェトナム北部までを,東方遠征によって(13)朝鮮半島北部までを,領有化することに成功し,農耕社会としての自己を拡大させることになる。武帝期に,より強く農耕社会としての自己を意識したということは,次の政策をみてもうかがえる。
戦国時代に進められていた治水・灌概裏業は,漢代になってからは武帝期になってはじめて大規模に展開された。この事業は黄河の氾濫への対応が主たる原因であるが,これへの農民の動員は,匈奴戦争への農民の従軍とあわせ,食糧支給による困窮した農民の救済という意味が込められていた。また匈奴戦争の結果,北方・西方での新たな農耕地の開拓が進められたのも,内地の貧しい農民の大規模な移住を実現するためであった。また当時の最先端技術である代田法という,連作障害の防止や農作業の効率化を目指した農法が考案されたのも武帝の死の前後であった。
このように武帝期はそれ以前と比べ,みずからが農耕社会であることをより強く意識していることがわかる。そのため万里の長城は,(14)匈奴に対する単なる防衛のための「壁」としての役割だけでなく,勧農政策の出現に最もよく反映されているように,秦の始皇帝時代にはじまり漢の武帝期に完成する,この時代特有の自己認識を導く表象でもあった。外部である他者の存在を通してはじめて歴史的に,みずからを統一国家として認識したのである。その後も万里の長城は,(15)北方遊牧民の侵人を防ぐために幾度となく改修・建造され続けたが,そのたびにこの認識が深められていった。
設問1〕下線部(1)について,下記の①~⑤のうち明代において南京から北京に遷都した皇帝が関わったものでないのはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①モンゴル親征 ②南海遠征 ③内閣の設立 ④東廠の設置 ⑤海禁政策の開始
設問2〕下線部(2)について,下記の①~⑤のうち黄河流域,華北における新石器時代の文化に関係のないものはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①龍山 ②半被 ③河姆渡 ④仰韶 ⑤城子崖
設問3〕下線部(3)について,下記の①~⑤のう殷墟から殷代のものとして出土していないものはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①亀甲 ②子安貝 ③王墓 ④青銅器 ⑤鉄器
設問4〕下線部(4)について,下記の①~⑤のうち春秋の五覇とよばれる君主の名で誤っているものはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。ただし,五覇をどの国にするかには諸説あるが,この語群の国名には誤りがないものとする。
①楚の荘公 ②秦の穆公 ③宋の嚢公 ④晋の文公 ⑤斉の桓公
設問5〕下線部(5)について,下記の①~⑤のうちこのときの斉の都はどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①耶鄲 ②臨淄 ③商丘 ④安邑 ⑤薊
設問6〕下線部(6)について,下記の①~⑤のうち戦国時代に現在の北京付近に都をおいた国はどれか。もっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①呉 ②越 ③燕 ④鄭 ⑤號
設問7〕下線部(7)について,戦国時代に,現在の山西省から河北省にかけて存在したこの国は,北方遊牧民との戦争などを通して遊牧民の戦法を学び,それを武霊王のとき自国の墳制の改革に取り入れ,群雄が割拠する戦国の世に強国へと成長していった。その国は何か。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを1つ選び,記号で答えなさい。
①晋 ②魏 ③韓 ④趙 ⑤秦
設問8〕下線部(8)について,秦が中国を統一したころの町奴の単一fはだれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを1つ選び,記号で答えなさい。
①頭曼 ②冒頓 ③軍臣 ④呼韓邪 ⑤狐鹿姑
設問9〕下線部(9)について,始皇帝と同時代でない者はだれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①韓非 ②李斯 ③蒙恬 ④劉邦 ⑤蘇秦
設問10〕下線部⑩について,秦の始皇帝による南方遠征によっての華南の地と思われるところに新たに3郡が設置された。そのうちの1つはどれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①日南郡 ②南海郡 ③交趾郡 ④九真郡 ⑤欝林郡
設問11〕下線部(ll)について,下記の①~⑤のうち武帝の政策でないものはどれか。もっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①塩鉄会議の開催 ②五銖銭の鋳造 ③郷挙里選の制定 ④均輸・平準の法の制定 ⑤塩・鉄の専売
設問12〕下線部(12)について,下記の①~⑤のうち武帝時代の旬奴遠征と関係のない人物はどれか。もっとも適したものを一一つ選び,記号で答えなさい。
①張騫 ②衛青 ③霍去病 ④班超 ⑤李広利
設問13〕下線部(13)について,このときに設置された郡でないものはどれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①楽浪郡 ②真番郡 ③武威郡 ④臨屯郡 ⑤玄菟郡
設問14〕下線部(14)について,匈奴はその後,前1世紀なかばに内紛により二つに分裂した。分裂後の前36年に,そのうちの一つが前漢などの勢力によって滅ぼされた。それはどれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
① 東匈奴 ②西匈奴 ③南匈奴 ④北匈奴 ⑤東胡
設問15〕下線部(15)について,6世紀なかばに建国し,北アジアの草原地帯から中央アジアのオアシス地帯を支配し,隋唐時代の東アジア世界にも大きな影響を与えた遊牧民はなにか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを1つ選び,記号で答えなさい。
①柔然 ②エフタル ③ウイグル ④突厥 ⑤鮮卑
正解
53512 34152 14324
北京の北方にある八達嶺は,万里の長城の観光スポットとなっている。レンガ造りの城壁が急な山の尾根をくねくねと走ってどこまでも続いている様は,実に壮観である。この長城は(1)明代に建造されたもので,有名な秦の始皇帝の築いたものは,それよりもさらに北を走っていた。
もともと中国における城壁は,(2)新石器時代後期から集落を壁で囲むことを起源とし,やがてそれが,(3)殷代になると一辺が1,000mを越えるものへと発展する。現在までのところ殷代のものとされる城壁のうち,都城クラスの規模をもつものは3か所発見されている。しかし周代の都城はいまだ発見されていない。
城壁で囲まれた都市がさらに発達するのは,各地に権力をもった君主が分立し互いに覇権を争った(4)春秋・戦国とよばれる時代である。多くの国が都城だけではなく,その勢力下の諸都市を,防衛のために城壁で囲むようになる。中国で都市のことを城市というのはこのためである。また城市のなかには内城と外城(これを郭という)という二重構造をもつものもあらわれる。その場合,内城が君主の宮殿などを囲み,郭が民の住居を囲んだものと考える見方もある。
とくに戦国時代になると,都市を城壁で囲むほかにも,各国間の境に,周囲を必ずしもすべて囲むわけではないが,城壁を築くようになる。これが長城とよばれるものである。これは各国間の戦争が激化するにともなって,都市だけではなくその国の領域を他の国の侵略から守ろうとして築かれたものと考えられる。そこに,それまでの都市と都市とを結んだ支配から,領域支配へという君主の支配の質的変化をみようとする見解もある。戦国時代の長城は,楚や(5)斉などに築かれたという記録が残されている。また,北方遊牧民との間に境を接している国には,遊牧民の侵入に備えるという別の意味をもつ長城が築かれた。(6)北京付近に都城をおいた国,(7)河北省から山西省に存在した国などは,こうした北方遊牧民から国を守るために長城を築いている。秦の始皇帝の万里の長城とは,これら戦国時代に北方遊牧民の侵入を防ぐために造られていた長城を連結,修繕したものであった。
なぜ秦は万里の長城を建造したのか。秦が中国を統一したころ,北方のモンゴル高原では,(8)匈奴が諸部族をまとめて強大な部族連合を形成し,戦国末期の戦乱に乗じて黄河を渡り,オルドス地方にまで南下していた。これに脅威を感じた(9)始皇帝は,将軍に匈奴をオルドスから追い払わせ,この地を奪回させるとともに,各国の長城をつなげて万里の長城を完成させた。
万里の長城建造の目的は匈奴の侵入に対する防衛であるが,ひとたびそれが完成すると,他者である遊牧民と区別される自己,すなわち農耕社会を統一した自己を認識することになる。そして農耕社会のさらなる拡大を目指して,秦は広東省・ヴェトナム北部への(10)南方遠征も開始することになる。
この自己意識の形成をさらに進める出来事がおこった。始皇帝の死後,中国が再び混乱しはじめると,北方では匈奴が,オルドスを再び支配下に入れるなど,その勢力を盛り返し,さらに周辺の遊牧民をも撃破してその支配地を拡大させた。匈奴は,高祖が漢の皇帝となったころには,漢とほぼ同じ広さを支配下においていたといわれる。その匈奴が,ついに漢と衝突した。この衝突は匈奴の勝利に終わり,以後長らく匈奴が漢よりも上位となる関係が続き,漢はこれまでよりも強く意識して,この他者と向き合わざるを得なくなった。
両者の関係が変わり,漢が始皇帝の時と同様な,あるいはより完成された自己意識をもつに至るのは,(11)武帝の(12)対匈奴戦争の開始からである。武帝の遠征によって,漢は匈奴を遠く北方へ追いやり,長城をまた両者を分かつ「壁」とした。こうして他者との「壁」が安定すると,漢は南方遠征によって華南の南越からヴェトナム北部までを,東方遠征によって(13)朝鮮半島北部までを,領有化することに成功し,農耕社会としての自己を拡大させることになる。武帝期に,より強く農耕社会としての自己を意識したということは,次の政策をみてもうかがえる。
戦国時代に進められていた治水・灌概裏業は,漢代になってからは武帝期になってはじめて大規模に展開された。この事業は黄河の氾濫への対応が主たる原因であるが,これへの農民の動員は,匈奴戦争への農民の従軍とあわせ,食糧支給による困窮した農民の救済という意味が込められていた。また匈奴戦争の結果,北方・西方での新たな農耕地の開拓が進められたのも,内地の貧しい農民の大規模な移住を実現するためであった。また当時の最先端技術である代田法という,連作障害の防止や農作業の効率化を目指した農法が考案されたのも武帝の死の前後であった。
このように武帝期はそれ以前と比べ,みずからが農耕社会であることをより強く意識していることがわかる。そのため万里の長城は,(14)匈奴に対する単なる防衛のための「壁」としての役割だけでなく,勧農政策の出現に最もよく反映されているように,秦の始皇帝時代にはじまり漢の武帝期に完成する,この時代特有の自己認識を導く表象でもあった。外部である他者の存在を通してはじめて歴史的に,みずからを統一国家として認識したのである。その後も万里の長城は,(15)北方遊牧民の侵人を防ぐために幾度となく改修・建造され続けたが,そのたびにこの認識が深められていった。
設問1〕下線部(1)について,下記の①~⑤のうち明代において南京から北京に遷都した皇帝が関わったものでないのはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①モンゴル親征 ②南海遠征 ③内閣の設立 ④東廠の設置 ⑤海禁政策の開始
設問2〕下線部(2)について,下記の①~⑤のうち黄河流域,華北における新石器時代の文化に関係のないものはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①龍山 ②半被 ③河姆渡 ④仰韶 ⑤城子崖
設問3〕下線部(3)について,下記の①~⑤のう殷墟から殷代のものとして出土していないものはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①亀甲 ②子安貝 ③王墓 ④青銅器 ⑤鉄器
設問4〕下線部(4)について,下記の①~⑤のうち春秋の五覇とよばれる君主の名で誤っているものはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。ただし,五覇をどの国にするかには諸説あるが,この語群の国名には誤りがないものとする。
①楚の荘公 ②秦の穆公 ③宋の嚢公 ④晋の文公 ⑤斉の桓公
設問5〕下線部(5)について,下記の①~⑤のうちこのときの斉の都はどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①耶鄲 ②臨淄 ③商丘 ④安邑 ⑤薊
設問6〕下線部(6)について,下記の①~⑤のうち戦国時代に現在の北京付近に都をおいた国はどれか。もっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①呉 ②越 ③燕 ④鄭 ⑤號
設問7〕下線部(7)について,戦国時代に,現在の山西省から河北省にかけて存在したこの国は,北方遊牧民との戦争などを通して遊牧民の戦法を学び,それを武霊王のとき自国の墳制の改革に取り入れ,群雄が割拠する戦国の世に強国へと成長していった。その国は何か。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを1つ選び,記号で答えなさい。
①晋 ②魏 ③韓 ④趙 ⑤秦
設問8〕下線部(8)について,秦が中国を統一したころの町奴の単一fはだれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを1つ選び,記号で答えなさい。
①頭曼 ②冒頓 ③軍臣 ④呼韓邪 ⑤狐鹿姑
設問9〕下線部(9)について,始皇帝と同時代でない者はだれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①韓非 ②李斯 ③蒙恬 ④劉邦 ⑤蘇秦
設問10〕下線部⑩について,秦の始皇帝による南方遠征によっての華南の地と思われるところに新たに3郡が設置された。そのうちの1つはどれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①日南郡 ②南海郡 ③交趾郡 ④九真郡 ⑤欝林郡
設問11〕下線部(ll)について,下記の①~⑤のうち武帝の政策でないものはどれか。もっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①塩鉄会議の開催 ②五銖銭の鋳造 ③郷挙里選の制定 ④均輸・平準の法の制定 ⑤塩・鉄の専売
設問12〕下線部(12)について,下記の①~⑤のうち武帝時代の旬奴遠征と関係のない人物はどれか。もっとも適したものを一一つ選び,記号で答えなさい。
①張騫 ②衛青 ③霍去病 ④班超 ⑤李広利
設問13〕下線部(13)について,このときに設置された郡でないものはどれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①楽浪郡 ②真番郡 ③武威郡 ④臨屯郡 ⑤玄菟郡
設問14〕下線部(14)について,匈奴はその後,前1世紀なかばに内紛により二つに分裂した。分裂後の前36年に,そのうちの一つが前漢などの勢力によって滅ぼされた。それはどれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
① 東匈奴 ②西匈奴 ③南匈奴 ④北匈奴 ⑤東胡
設問15〕下線部(15)について,6世紀なかばに建国し,北アジアの草原地帯から中央アジアのオアシス地帯を支配し,隋唐時代の東アジア世界にも大きな影響を与えた遊牧民はなにか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを1つ選び,記号で答えなさい。
①柔然 ②エフタル ③ウイグル ④突厥 ⑤鮮卑
正解
53512 34152 14324