2022年東大本試験 トルキスタン通史 解説(2)
「段落1」75字
8世紀タラス河畔の戦いにアッバース朝が勝利し西トルキスタンでイスラム化の契機となった。東トルキスタンでは唐が都護府を置き間接統治した。この間、トルキスタンは東西交渉の舞台となりネストリウス派キリスト教や仏典が中国に持ち込まれた。114字
「段落2」150字
840年ウイグルが西走し東トルキスタンで西ウイグル国を建国。中央アジアがトルコ化する契機となった。11世紀には西トルキスタンで建国したカラハン朝は中央アジアを統一。この間、トルコ系イスラム王朝として中央アジアのトルキスタン化とイスラム化が進んだ。しかし、宋と結んだ金によりモンゴル高原を追われた契丹族はこれを滅ぼしてカラ=キタイを建国した。167字
「段落3」150字
13世紀にチンギス=ハンがホラズム王国を滅ぼし中央アジアを支配。その後チャガタイ=ハン国が成立した。この時期にジャムチが発達し東西交渉が発展。カトリックが中国に伝えられた。西チャガタイ=ハン国から独立したティムールはアンカラの戦いに勝利して西アジア一帯を支配する帝国を建設。その支配下でトルコ=イスラム文化が開花した。その系譜を継ぐバーブルはムガル帝国を建てた。180字
「段落4」150字
16世紀にウズベク人がトルキスタンに侵入しティムール帝国を滅ぼし、やがてブハラ・ ヒヴァ両ハン国が西トルキスタンを支配した。彼らはスンナ派イスラム教を使用した。78字
「段落5」75字
18世紀清の乾隆帝は東トルキスタンを征服。新疆として藩を置き理藩院で間接統治した。19世紀南下政策をとるロシアはブハラ・ヒヴァ両ハン国を征服し西トルキスタンを植民地とした。84字
全文
8世紀タラス河畔の戦いにアッバース朝が勝利し西トルキスタンでイスラム化の契機となった。東トルキスタンでは唐が都護府を置き間接統治した。この間、東西交渉の舞台となりネストリウス派キリスト教や仏典が中国に持ち込まれた。
840年ウイグルが西走し東トルキスタンで西ウイグル国を建国。中央アジアがトルコ化する契機となった。11世紀には西トルキスタンで建国したカラハン朝は中央アジアを統一。この間、トルコ系イスラム王朝として中央アジアのトルキスタン化とイスラム化が進んだ。
しかし、宋と結んだ金によりモンゴル高原を追われた契丹族はこれを滅ぼしてカラ=キタイを建国。以後中央アジアにモンゴル系国家が成立した。13世紀にチンギス=ハンがホラズム王国を滅ぼし、その後チャガタイ=ハン国が成立した。この時期ジャムチにより東西交渉が発展。マルコ=ポーロやカトリック宣教師が中国に赴いた。西チャガタイ=ハン国から独立したティムールはアンカラの戦いに勝利して西アジアを含む大帝国を建設。サマルカンドでトルコ=イスラム文化が開花した。これを継ぐバーブルはムガル帝国を建てた。
16世紀ウズベク人がトルキスタンに侵入。やがてブハラ・ヒヴァ両ハン国が西トルキスタンを支配した。
18世紀清の乾隆帝は東トルキスタンを征服。新疆として藩を置き理藩院で間接統治した。19世紀南下政策をとるロシアはブハラ・ヒヴァ両ハン国を征服し西トルキスタンを植民地とした。599字
「段落1」75字
8世紀タラス河畔の戦いにアッバース朝が勝利し西トルキスタンでイスラム化の契機となった。東トルキスタンでは唐が都護府を置き間接統治した。この間、トルキスタンは東西交渉の舞台となりネストリウス派キリスト教や仏典が中国に持ち込まれた。114字
「段落2」150字
840年ウイグルが西走し東トルキスタンで西ウイグル国を建国。中央アジアがトルコ化する契機となった。11世紀には西トルキスタンで建国したカラハン朝は中央アジアを統一。この間、トルコ系イスラム王朝として中央アジアのトルキスタン化とイスラム化が進んだ。しかし、宋と結んだ金によりモンゴル高原を追われた契丹族はこれを滅ぼしてカラ=キタイを建国した。167字
「段落3」150字
13世紀にチンギス=ハンがホラズム王国を滅ぼし中央アジアを支配。その後チャガタイ=ハン国が成立した。この時期にジャムチが発達し東西交渉が発展。カトリックが中国に伝えられた。西チャガタイ=ハン国から独立したティムールはアンカラの戦いに勝利して西アジア一帯を支配する帝国を建設。その支配下でトルコ=イスラム文化が開花した。その系譜を継ぐバーブルはムガル帝国を建てた。180字
「段落4」150字
16世紀にウズベク人がトルキスタンに侵入しティムール帝国を滅ぼし、やがてブハラ・ ヒヴァ両ハン国が西トルキスタンを支配した。彼らはスンナ派イスラム教を使用した。78字
「段落5」75字
18世紀清の乾隆帝は東トルキスタンを征服。新疆として藩を置き理藩院で間接統治した。19世紀南下政策をとるロシアはブハラ・ヒヴァ両ハン国を征服し西トルキスタンを植民地とした。84字
全文
8世紀タラス河畔の戦いにアッバース朝が勝利し西トルキスタンでイスラム化の契機となった。東トルキスタンでは唐が都護府を置き間接統治した。この間、東西交渉の舞台となりネストリウス派キリスト教や仏典が中国に持ち込まれた。
840年ウイグルが西走し東トルキスタンで西ウイグル国を建国。中央アジアがトルコ化する契機となった。11世紀には西トルキスタンで建国したカラハン朝は中央アジアを統一。この間、トルコ系イスラム王朝として中央アジアのトルキスタン化とイスラム化が進んだ。
しかし、宋と結んだ金によりモンゴル高原を追われた契丹族はこれを滅ぼしてカラ=キタイを建国。以後中央アジアにモンゴル系国家が成立した。13世紀にチンギス=ハンがホラズム王国を滅ぼし、その後チャガタイ=ハン国が成立した。この時期ジャムチにより東西交渉が発展。マルコ=ポーロやカトリック宣教師が中国に赴いた。西チャガタイ=ハン国から独立したティムールはアンカラの戦いに勝利して西アジアを含む大帝国を建設。サマルカンドでトルコ=イスラム文化が開花した。これを継ぐバーブルはムガル帝国を建てた。
16世紀ウズベク人がトルキスタンに侵入。やがてブハラ・ヒヴァ両ハン国が西トルキスタンを支配した。
18世紀清の乾隆帝は東トルキスタンを征服。新疆として藩を置き理藩院で間接統治した。19世紀南下政策をとるロシアはブハラ・ヒヴァ両ハン国を征服し西トルキスタンを植民地とした。599字