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10世紀の東アジアと遼

2009年12月03日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【960】年に建国した【宋】を取り巻く国際環境と、【8】世紀に唐が築いた【東アジア文化圏】とには大きな対外があります。8世紀の東アジア文化圏に参加していた諸国は、自国の独自性を完成させるにいたってはいませんでした。たとえば日本は、文字は漢字を使用し、文学では漢詩を読み、建築様式や都市計画にいたるまで、唐風の国家になっていたわけです。この東アジア文化圏が崩壊したことを象徴する年代が【894】年といえます。この年、遣唐使【】が廃止されると、日本は国風文化を興し、ひらがな・カタカナを発明して源氏物語などの独自の文化を生みだしていきました。漢詩に代わって和歌が詠まれるようになったのもこの頃です。
 【10】世紀の東アジアは、高度な中国文化に飲み込まれない、独自の文化を持つ国々が誕生したといえます。【モンゴル高原】に出現した【契丹】族の【遼】は、【916】年に【耶律阿保機】によって建国されました。彼らは【契丹文字】を発明しました。漢字を使って自分たちの言語を書くと、どうしても中国文化の影響を受けてしまうからです。【チベット高原】北部に出現した【タングート】族(中国表記では【党項】)の【李元昊】が【1038】年に建国した【西夏】も、【西夏文字】を使用しています。すなわち、遼にしろ西夏にしろ、【12】世紀に【満州】で登場する【金】にしろ、独自の文化をもつ確固とした「国」として存在していたのだ、ということです。この点において8世紀とは大きく違うわけです。
 宋の周辺には確固とした「国」が存在していましたから、宋とそれらの国々とは「国」同士の「関係」が存在します。したがって、その「関係」がどのようであったかと知ることは、10世紀の東アジアを知る上で大切なポイントになります。さらに、宋が国内政治の安定を重視して【文治主義】を採っために、【消極的外交】政策を採用せざるを得なかったことが、この「関係」をより興味深いものにしたといえます。