先日、神流町旧中里地区で、あいさつまわりでお邪魔したお宅で「心のふるさとわが中里村」という一冊の本に出会いました。著者は土屋政江さん。
土屋さんは1927年(昭和2年)旧中里村に生まれ、結婚して今は藤岡市に住んでいるとのこと。
本のページをめくるにつれ、著者に会いたいという気持ちがわきあがり、数日後、土屋さん宅を訪ねてしまいました。
土屋さんは、突然の訪問者である何だかよくわからない人を笑顔で歓待してくれました。
土屋政江さんと
中里村は現在万場町と合併し神流町となっています。私は選挙区旧中里村の人々の暮らし、文化に強い関心を持っています。
この地域の発展のためには歴史や風土を知らなければなりません。土屋さんが懐かしそうに語る中里村に心惹かれました。
土屋さんは本の中でこう語っています。
≪第二次世界大戦が敗戦で終わり、新憲法が制定されました。男女同権、女性も参政権を得て、社会的にも発言し、意見を発表するのが盛んになりました。私も新聞、ラジオなどに投稿、一度掲載になるとおかしなもので病み付きになり、書くようになりました。
昭和四九(一九七四)年、朝日新聞群馬版に三沢義信先生と「群馬のチベット」といわれた奥多野を紹介する文を書きました。高齢者たちは、戦中戦後の厳しい時代を生き抜き、旅行もせず、うまいものもろくに食べず、朝暗いうちから働きづめでした。田んぼは無いし、斜面の畑を耕し、リヤカーも使えないので人の背で荷を運搬する劣悪な環境に耐え、精一杯働き、一生懸命生きる様子を伝えたかったのです。≫
土屋さんの中里村に対する思いが伝わってきます。
昭和40年代から50年代にかけて中里のみなさんより、聞き取りを中心に構成されています。
第一章は『中里村紹介』と「四季の暮らしと仕事」「下小越の歴史とくらし」
第二章は『悲喜こもごも個人生活』
第三章は『眺望絶佳の集落』として、中心部から離れた持倉、明家、今泉の集落を訪ねて、見たこと聞いたこと。それに「橋倉、八倉覚え書き」、「魚尾の女し三人の話」と、「中里のことば」などです。
第三章の『眺望絶佳の集落』の持倉に生きて-岩崎ちゑさん(大正三年生まれ)からの聞き取りは、興味深く読ませていただきました。
持倉地区は、海抜950mにある集落です。現在は67歳の方が最年少で、戸数は17戸ほどです。昨年9月の台風9号の際は、災害により道路封鎖され1週間孤立してしまいました。集落としては、いわゆる限界集落100%の地域です。
聞き取りの中で岩崎さんは「持倉の陽気と作物」「自給自足」などの様子を語ってくれています。
≪戦時中から、小平だの、万場へ買もんに行ぐようになった。近いから。着るもんなんかも男しに買ってきてもらうだぃ。暮れや、物日の前の買い物も男しに行ってもらうだぃ。女しが行ぐじゃにゃぁ、一日がかりだから。
小平や万場で、油揚だの魚なんか買ってきゃぁってきてみると、それがなくなってることがよくあったぃ。「確かに買って来たわけだで。どうしたんだんべ、キツネに盗られたんかなぁ」なんてゆったもんだぃ。そおゆう時ゃトンガラシ(唐辛子)を持ってると化かされにゃぁちったぃ。人が化かされた話もよく聞いたったぃ。≫
聞き取り時は1973年(昭和48年)の冬。聞き取りの中で岩崎さんが語る方言が活き活きと当時の暮らしぶりを伝えてくれます。特に語尾が印象的「いにゃぁ」「なげだ」「だっちゅう」「だんべえね」「ついてらぃ」「だぃ」などなど。
土屋さんは「あとがき」で、「中里村が無くなって心にぽっかり穴があいたようです。」と。しかし「中里村の象徴の叶山は大分低くなりました。形は変わっても叶山や神流川は、私の心の拠り所で、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、私の問いかけに、暖かく応えてくれる気がします。中里は永遠にみんなの心に生き続けるでしょう。」と締め括っています。
中里村の歴史、文化、風土そして環境を守っていくために私も微力ですが力を尽くします。土屋政江さんありがとうございました。
なお、「心のふるさとわが中里村」は各自治体の図書館に寄贈されているとのことです。ぜひ一読を。
昨日は早朝より、吉井町内中山峠県道沿いで街宣。家が周辺にないので、遠慮なく訴える事ことができました。終了後は吉井町役場で陳情処理。その後はあいさつまわり。
本日から10月17日まで県議会環境・農林委員会の県外視察で宮崎県、鹿児島県に行ってきます。
土屋さんは1927年(昭和2年)旧中里村に生まれ、結婚して今は藤岡市に住んでいるとのこと。
本のページをめくるにつれ、著者に会いたいという気持ちがわきあがり、数日後、土屋さん宅を訪ねてしまいました。
土屋さんは、突然の訪問者である何だかよくわからない人を笑顔で歓待してくれました。
土屋政江さんと
中里村は現在万場町と合併し神流町となっています。私は選挙区旧中里村の人々の暮らし、文化に強い関心を持っています。
この地域の発展のためには歴史や風土を知らなければなりません。土屋さんが懐かしそうに語る中里村に心惹かれました。
土屋さんは本の中でこう語っています。
≪第二次世界大戦が敗戦で終わり、新憲法が制定されました。男女同権、女性も参政権を得て、社会的にも発言し、意見を発表するのが盛んになりました。私も新聞、ラジオなどに投稿、一度掲載になるとおかしなもので病み付きになり、書くようになりました。
昭和四九(一九七四)年、朝日新聞群馬版に三沢義信先生と「群馬のチベット」といわれた奥多野を紹介する文を書きました。高齢者たちは、戦中戦後の厳しい時代を生き抜き、旅行もせず、うまいものもろくに食べず、朝暗いうちから働きづめでした。田んぼは無いし、斜面の畑を耕し、リヤカーも使えないので人の背で荷を運搬する劣悪な環境に耐え、精一杯働き、一生懸命生きる様子を伝えたかったのです。≫
土屋さんの中里村に対する思いが伝わってきます。
昭和40年代から50年代にかけて中里のみなさんより、聞き取りを中心に構成されています。
第一章は『中里村紹介』と「四季の暮らしと仕事」「下小越の歴史とくらし」
第二章は『悲喜こもごも個人生活』
第三章は『眺望絶佳の集落』として、中心部から離れた持倉、明家、今泉の集落を訪ねて、見たこと聞いたこと。それに「橋倉、八倉覚え書き」、「魚尾の女し三人の話」と、「中里のことば」などです。
第三章の『眺望絶佳の集落』の持倉に生きて-岩崎ちゑさん(大正三年生まれ)からの聞き取りは、興味深く読ませていただきました。
持倉地区は、海抜950mにある集落です。現在は67歳の方が最年少で、戸数は17戸ほどです。昨年9月の台風9号の際は、災害により道路封鎖され1週間孤立してしまいました。集落としては、いわゆる限界集落100%の地域です。
聞き取りの中で岩崎さんは「持倉の陽気と作物」「自給自足」などの様子を語ってくれています。
≪戦時中から、小平だの、万場へ買もんに行ぐようになった。近いから。着るもんなんかも男しに買ってきてもらうだぃ。暮れや、物日の前の買い物も男しに行ってもらうだぃ。女しが行ぐじゃにゃぁ、一日がかりだから。
小平や万場で、油揚だの魚なんか買ってきゃぁってきてみると、それがなくなってることがよくあったぃ。「確かに買って来たわけだで。どうしたんだんべ、キツネに盗られたんかなぁ」なんてゆったもんだぃ。そおゆう時ゃトンガラシ(唐辛子)を持ってると化かされにゃぁちったぃ。人が化かされた話もよく聞いたったぃ。≫
聞き取り時は1973年(昭和48年)の冬。聞き取りの中で岩崎さんが語る方言が活き活きと当時の暮らしぶりを伝えてくれます。特に語尾が印象的「いにゃぁ」「なげだ」「だっちゅう」「だんべえね」「ついてらぃ」「だぃ」などなど。
土屋さんは「あとがき」で、「中里村が無くなって心にぽっかり穴があいたようです。」と。しかし「中里村の象徴の叶山は大分低くなりました。形は変わっても叶山や神流川は、私の心の拠り所で、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、私の問いかけに、暖かく応えてくれる気がします。中里は永遠にみんなの心に生き続けるでしょう。」と締め括っています。
中里村の歴史、文化、風土そして環境を守っていくために私も微力ですが力を尽くします。土屋政江さんありがとうございました。
なお、「心のふるさとわが中里村」は各自治体の図書館に寄贈されているとのことです。ぜひ一読を。
昨日は早朝より、吉井町内中山峠県道沿いで街宣。家が周辺にないので、遠慮なく訴える事ことができました。終了後は吉井町役場で陳情処理。その後はあいさつまわり。
本日から10月17日まで県議会環境・農林委員会の県外視察で宮崎県、鹿児島県に行ってきます。