かどくら邦良@高崎市議会議員 ブログ

思いをブログに綴ります。

2008.6.30 イビチャ・オシム サッカー前日本代表監督

2008-06-30 14:23:53 | インポート
イビチャ・オシム。サッカー前日本代表監督。昨年11月に脳梗塞で倒れ、日本代表監督を退任しました。

現監督の岡田ジャパンに大いに期待し、必ずワールドカップに導いてくれると信じていますが、オシム氏の病気退任は本当に残念でした。

「オシムの言葉」に代表されるように、深い思索と機知にとんだ言葉は、哲学者そのものであります。オシム氏は監督就任にあたり「私は日本サッカーを日本化するつもりだ」と宣言しました。

外国人であるオシム氏が「日本サッカーを日本化する」と発した言葉に「はっ」とさせられました。

日本は今、国際化、グローバル化の大波に揺さぶられる中で、偏狭なナショナリズムに走る傾向が、ここ数年垣間見られました。政治の世界も同傾向が一部にあることは、否定しがたいことです。

今、日本人であることとは何か。日本人であり国際人であることとは何か。原点に立ち返って考えなければなりません。

オシム氏は、私たちに問いかけ、呼びかけます。
「日本人でさえも日本を分かっていない」
「人と異なるものを追求しよう」
「日本人の特性とは何だろう?」
「何でも自分で解決する能力を養おう」
「ロボットになってはならない」


オシム氏は、真の自立精神を日本人は持とう自分に「誇り」を持とう、とサッカーを通して、私たち日本人にメッセージを送ってくれた。いや、今も送りつづけてくれます。

病気から回復し現場に復帰しつつあるオシム氏。
言ってはいけない言葉になってしまいますが、日本代表オシム監督の勇姿と試合を見たいと考えるのは、私だけでしょうか。
     

      
          イビチャ・オシム 著 日本人よ! 2007年 新潮社 発行


2008.6.29 吉井町内街頭演説-災害復旧、地元要望の実行

2008-06-29 20:58:08 | インポート
     

昨日は、5月11日の合併による住民投票以来の街頭演説を、町内で行いました。

     

5月定例県議会報告、高崎合併など、橳島町議とともに訴えていきました。今後もできるだけ多く、マイクを握っていきます。

<災害復旧、地元要望の実行・実現!!>

地元要望をどしどしおよせください

     

(1) 昨年9月の台風9号で被害を受けた、鏑川かじや下岩崎側の護岸工事が、順調にすすんでいます。早期の完成をめざして、ひきつづき県に要望を強めていきます。

     

(2) 同じく台風9号で崩落した東谷地区、県道横の復旧工事が終了しました。地元のみなさんから強い要望を受けていた工事で、責任を果たすことができました。

     

(3) 長根・宿地区のみなさんから昨年6月より要望を受けていた、国道254号補修工事が終了しました。吉井町・甘楽町の境界から約200m程ですが、国道沿いの民家は強い振動を受け、寝られないとの声がありました。1年かかりましたが、ようやく6月に終了しました。

     

(4) 私の地元、久伝の県道より清水坂下の歩道の拡幅工事が完成しました。中央中の父母や、2区区長からの要望が昨年からよせられておりました。地元久伝の、矢島 巌 町議もかねてより藤岡土木に拡幅を要請しており、子供たちの安全歩行が確保されることになりました。


2008.6.27 美しい奥多野の自然を活かした地域づくりを

2008-06-27 17:06:42 | インポート
     

5日間にわたっての神流町、上野村、南牧村、下仁田町の調査、聞きとりを終了しました。

昨年9月の台風9号の災害復旧、地場産業、高齢化、限界集落、若い人たちの意識等、様々な現場、住民のみなさんとお話しすることができました。

湯の沢トンネルを挟んでの2町2村の発展は、美しい自然を活かした地域づくり、これが基本であることを再認識しました。

先日の上毛新聞で、下仁田町が産廃予定地を公費と住民のカンパで買い戻し、自然を活かした街づくりに利用すると大きく報道されました。中山間地域や過疎地域に産廃施設ができてしまえば、風評被害はもとより、昨年台風9号なみの大雨があった場合、産廃の施設維持や安全性が大きく揺らぐ可能性もあります。自然を活かした地域づくりに致命傷となります。下仁田町の執行部、住民のみなさんの取り組みに拍手を送りたいです。

「観光」「一次産業と加工品」「福祉」「公共事業」、この4つを繋ぐキーワードは「美しい自然」です。

21世紀の新しい暮らし方、生き方、働き方の指標となる地域モデルの具現化にむけ、住民のみなさんとともに全力をつくします。

追記 6月28(土)、29(日)いずれも午後より、吉井町内で街頭演説を行う予定です。


2008.6.26 吉井・高崎合併のこと -今こそ反対、慎重な町民・町議のみなさんと胸襟を開いて話し合う時-

2008-06-26 23:31:20 | インポート
5月11日に事実上の吉井・高崎合併の賛否を問う住民投票が行われ、賛成8,236票、反対6,071票、その差は2,165票でした。3年前315票差で否決した住民投票の結果とは住民意識が大きく変化したことは、まちがいありません。

しかし、反対、慎重な町民の方が6,071人いらっしゃったことも重い事実であり、こうした住民のみなさんに、合併について疑問やご意見をだしていただくことがきわめて重要だと考えます。

月1回のペースで法定協議会の報告会が行われる予定となっています。町執行部のみなさんにも、こうした住民の心配の声を法定協議会の場で反映していただけたらと思います。

     

さらに、合併反対運動にかかわった住民・町議のみなさんと、私たち賛成派の腹を割った意見交換を行うべきだと考えています。

賛成であれ、反対であれ、自分の利害ではなく、この町や住民の未来のために、ともに活動してきたわけですから、必ず共通の認識を持てると私は確信をしています。

これだけの票差がついた結果をくつがえす事になれば、町政は大混乱に陥るだけではなく、住民の政治不信は頂点に達し、私を含めて吉井町の政治にかかわる者はすべて、住民から不信任をつきつけられる事態となるでしょう。

合併合意にむけて「よい知恵」をだしていかなければなりません。
今こそ、批判のための批判ではなく、従来の政治対立の延長でもなく、吉井町の未来にむけた、建設的な論議が求められています。

吉井町の未来のために力をあわせていきましょう。
吉井町は、特定の個人のものではありません。ここに生き、くらす住民のものですから。


2008.6.25 二人の巨人 黒澤丈夫 上野村前村長と、後藤田正晴 元官房長官

2008-06-25 21:51:25 | インポート
     
     憂国の七つの提言-道を求めて 黒澤丈夫   平成18年 製作 上毛新聞社

奥多野調査3日目。上野村の地域産業、限界集落の現場を歩いています。
上野村と言えば、黒澤丈夫 前村長。本日あいさつにご自宅を訪ねさせていただきました。現在94歳です。

3年前に引退するまで、昭和40年から10期連続村長選当選。群馬県内に知らない人はいない。全国的にも村興し、地域自立にむけた、先進的な施策展開した村長として知られています。

その前村長が、富岡高校の後輩であることを除けば、何の縁もゆかりもない私を、昨年4月の県議選で応援していただきました。
その応援は半端なものではなく、1日20本の村民へのご本人からの電話依頼、選挙本番中は、ご本人が私の選挙カーに乗り込んでいただき、マイクを握ったり、街頭応援演説もしていただきました。

私は上野村の橋のたもとでの演説中に涙が止まりませんでした。小寺弘之知事(当時)からの元村長への支援依頼があったとはいえ、ここまで応援していただいていることに感謝と申しわけない気持ちでいっぱいでした。今思い出してもジーンときます。

その後4月6日の吉井町で行われた1000人をこえる参加者でうめつくされた総決起集会にご参加いただき、勝利にむけて最後の檄をとばしていただきました。

結果は、上野村では知名度ゼロであった私の得票は、100票いけばいいのではと言われていましたが、458票。相手候補と100票差にまで詰めていただきました。神流町も含め、奥多野の猛迫した1398票がなければ、私の当選はありませんでした。

このご恩は一生忘れません。そして、このご恩を今後の政治活動で返していかなければなりません。前村長が自らの足跡を記した「道を求めて」には、こう記されてあります。

「政治家たるものは、立派な国家を創るためには、時に国民に苦言を呈して導くことも必要なのだ。苦労や犠牲や税を強いる場合もあろうし、道徳を説き国家への連帯意識を求めなければならない時もあろう。それを勇気をもって民衆に嫌われることを覚悟して説ける政治家が果たして何人いるだろうか。」

黒澤丈夫だからこそ語れる重い言葉です。


     
         日本への遺言 後藤田 正晴  2005年発行 毎日新聞社

一方、後藤田正晴 元官房長官も黒澤前村長1年違いの1914年生まれです。2005年に死去され91歳でした。

私が、国会議員の秘書になりたての頃、何度か遠くからお顔を拝見させていただきましたが、自民、社民、さきがけの村山政権時代には、会合などで近くから生の声を聞かせていただいた記憶があります。

後藤田氏の基本姿勢は、私なりの勝手な解釈になりますが、戦争経験者として「戦争だけは、日本はしてはならない」という固い信念のもと、警察官僚、政治家として戦後を生き抜いていらっしゃったことなのだろうと思います。

「戦後政治とは何か」それは、「戦争だけはしてはならない、させてはならない。」それこそが政治の役割だと考えている私にとって、後藤田氏の信念の一部でも継承できたらとの思いです。

「日本への遺言」のはじめの言葉で岩見隆夫(ジャーナリスト)が、「後藤田さんの言論を貫いたのは、戦争体験に根ざした深い憂国の情と、右寄りの政治潮流への危機感だと、私は思っている。」と述べています。

またご本人も政治家の責任とは「やはりどんな時代になっても立場の弱い人、気の毒な人は出ている。ならば、そういう人に対して政治の光をどう当てるかということは、政治を担当する者の大きな責任だと思う。」と語っています。これらの言にも後藤田氏の政治への眼差しを垣間見ることができます。

     
         後藤田正晴の遺訓 2007年発行 ランダムハウス講談社

お二人の巨人を貫かれている共通のキーワードは「戦争経験と、政治家としての原則、固い信念」です。
二人の巨人に思いをはせながら政治活動をすすめていきます。